書評・著書から


『安倍流「教育改革」で学校はどうなる』読後感 宜保幸男(2007年4月7日)―JanJan今週の本棚(リンク)


渡部昭男『格差問題と「教育の機会均等」―教育基本法「改正」をめぐり“隠された”争点―』(日本標準)

○現行[教育の機会均等]条項の真髄−第1項:「経済的地位」による教育上の差>別禁止−

現行の教育基本法は日本国憲法と一体であり,「準憲法的性格」をもっています>が,日本国憲法には無いのに教育基本法には有るものが幾つか存在します。例えば,>第4条[義務教育]の「9年の普通教育」や「授業料の不徴収」は,日本国憲法第26条の「普通教育」「無償」規定について,範囲を明示して一定の限定を加えたもの>です。

一方で,日本国憲法の精神を補強した条項もあります。それが,第3条[教育の機会均等]です。具体的には,日本国憲法第14条にはない「経済的地位」を明記し,教育上の差別禁止を求めています。もちろん,事由に挙げられていなければ差別が許されるというわけではないのですが(例えば「障碍」による差別),あえて事由に明示した意味は大きいのです。

「格差問題」が大きな争点となっている今,とりわけ差別禁止事由として追記された「経済的地位」による教育上の格差・差別の存在とそれへの対応が“徹底的”に問われなければなりません。

○現行[教育の機会均等]条項の課題−第2項:「能力」規定の削除を−

第1項を受けて,第2項では「経済的理由」による修学困難者への国・地方公共団体の「奨学の方法」を講ずる責務が規定されています。注意すべきは,「修学(学を修める)」は「就学」よりも広い概念であり,また「奨学の方法」も「奨学金」に留まらない多彩な施策であるべき(授業料の不徴収,寄宿サービスの提供,修学費の無償化など),ということです。

ところで,現行法は「奨学」の対象について「能力がある」者としています。これは,「成績優秀者」というように悪用されてきましたが,本来的には「修学する能力がある者(経済的困窮者)であれば誰でも」の意味です。真の意味で「改正」というのなら,第2項の「能力」規定は削除すべきなのです。

○真の意味の「改正」になっていない法案は廃案に!

[教育の機会均等]原則にかかわって,政府案も民主党案も,真の意味での「改正」にはなっていません。廃案にすべきでしょう。

なお,私としては,歴史の発展方向としては「能力」原理から「必要」原理への転換を展望し,志向しています。詳しくは拙著をご覧下さい。

渡部 昭男(著者、鳥取大学)


佐貫浩 著 『教育基本法「改正」に抗して ―教育の自由と公共性−』(花伝社)

◇新自由主義的改革を推進する教育基本法「改正」をトータルに批判する

 数年前から、教育基本法「改正」批判の運動は、「改正」案新2条の「愛国心」に代表される復古主義的な「改革」への批判に傾斜する傾向があった。教育基本法を個人的な問題関心によって解説し、あたかもそれが全体構造であるかのように論ずる著書だってなかったとはいえない。しかし今回の論戦の中で、現在、強行されつつある新自由主義的教育改革をさらに推進すべく行われる「改正」であるという点が次第に明らかにされ、共通の認識になっていったと思われる。
 著者の批判は、「改正の真のねらい」として、これらの2つの点をあげ、より後者に力点を置いていることが特徴的である。すなわち、「改正」基本法では、徳目的な「教育の目標」の列挙などによって国家が人間の態度や内心を拘束する体制が作られる。しかし、それに加えて、あるいはそれ以上に、新自由主義的な改革がめざされる。
 現行教育基本法10条「直接責任性」原則などの「教育の自由」に関わる部分の全面削除および新しい「教育行政」の任務の提示等により「教育の自由を踏みにじって競争と格差拡大を進める新自由主義的な教育改革の全体が、― 正当化され権威化され」る。「教育振興基本計画」により、具体的な「数値目標化」された「改革」がトップダウンで国民に押しつけられていく。そこで求められる人間像は「自己責任」の論理を内在化し、「グローバルな世界競争の中で日本が勝ち抜くために一丸となって国家を支援する『主権者』」となっていく。そういった意味では、教育基本法「改正」の真のねらいを全体的にとらえるためには本書はきわめて適切である。
 また、「改正」案の逐条批判とともに現行教育基本法の意義についても再確認される。私見では、著者の前著である『新自由主義と教育改革 −なぜ教育基本法「改正」なのか』(2003年)では、「教育の目的」の中でも特に「平和的な国家及び社会の形成者」に力点が置かれ、民主的な価値を学ぶ「国民の育成」が重要であるといった「主権者教育論」的な主張が強い印象を受けた。しかし本書では、あくまで、あらゆる価値の強制を行われない普遍的な人間、「人格の完成」を前提とした「国民の育成」であること、そのためには、第2条の、教師と子どもの「人間的な信頼関係」や自由な空間、10条の「直接責任性」が保障する「教育の自由」が必要であるといった、より説得力のある構造的な議論が展開されているように感じられた。
 特に、新自由主義的改革については、「U新自由主義と教育」において、公教育サービスへの民間経営的手法の導入であるNPM、「評価」によって公教育を序列的に再編し、子どもたちのあるべき「学力」を破壊する「学力テスト」体制、公教育を市場・競争原理にさらし学校における共同を破壊する「学校選択制」など、現在進行中の「改革」の分析がおこなわれ、「改正」がめざすものがよりリアルに浮き彫りにされている。
 筆者が、このような認識を持ち得るのは、第1に、1999年からイギリスに滞在しブレアによる急激な新自由主義的教育改革の本体を理解した上で、「評価」と「競争」による教育に幻想を持たない、というスタンスがあると思われる。そして、第2に、本書でも随所で指摘されるのだが、「改革」によって格差化され「底辺」に貼りつけられ、あるいは疎外的な「学び」や人間関係の中で苦しみながら“負け組”として“自己責任”を問われる子どもたちや、企業的運営の尖兵として使われ、内心の自由を侵害される教師たちの痛みといった、学校、教育の現場にいる者たちへの強い共感があるのだと思う。例えば「改革」で生み出された「底辺層」を行政の責任でどのようにボトムアップしていくべきか、といった日本ではあまり指摘されないような課題も出されている。
今回の国会での「改正」論議においては、提案した与党側に、「改正」すべき教育内在的な理由が全く見当たらないのが特徴的な点である。「改正」したら、子どもたちや学校教育はこんなによくなる、と、誰も科学的に、説得的に語れていないのである。「道徳」を「教育目標」にし、「愛国心」を評価し、「学力テスト」を課したら日本の教育はよくなると、専門家のみならず99パーセントの国民は思っていない。逆に、予想される否定的な影響について、誠実な筆者は全面的に対応しようと試みたのであろう。そういった意味では、おそらく、これは筆者一人が引きうける任務ではなく、教育基本法に関わるすべての人たち、とりわけ教育学に携わる人たちが、教育基本法が実現する教育内在的な価値を確認するための仕事を進めていくことを決意するための「スタートライン」として位置づく書なのでもあろう。たとえば、問題の「改正」2条における、学習指導要領「道徳」の「格上げ」徳目はどんな人間形成をねらいとするのか、なんて、道徳教育や教育哲学をやっている人にぜひ熱く語ってほしい。秋の継続審議までに課題は多い。

評者 山本由美(浦和大学)


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