全国・海外紙特集・論説



産経抄

昭和21年5月に発足した第1次吉田内閣で、文相に就いたのは田中耕太郎だった。戦前から剛直な自由主義者で知られた法学者である。8カ月後には吉田首相と対立して内閣を去るが、その間心を砕いたのが教育勅語に代わる教育基本法の制定だった。▼主権在民となれば、勅語をそのまま教育の柱とするのは難しい。しかしその精神を基本法として引き継ぐべきだというのが田中らの考えだった。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…」といった日本の伝統的な道徳心などである。▼だが、教育勅語を否定する連合国軍総司令部の影響下にできた基本法はそうした人々の期待を裏切るものだった。道徳心ばかりでなく、日本の伝統や故郷、愛国心といった教えるべきものが抜け落ちた。どこの国の法律なのか分からないものとなったのだ。▼その基本法の改正論議が今の国会で行われているとき、テレビでの「識者」の発言に驚きあきれた。「いじめによる自殺など大変な問題があるのに、基本法の改正などやってるヒマはないはずだ」と。アベコベである。教育の荒廃がひどいからこそ改正しなければならなかったのだ。▼無国籍化した基本法のもと、学校でも家でも受験に必要以上の国の歴史を教えない。わが町の歴史も親孝行も兄弟愛もパスだ。国や故郷、そして先祖たちへの愛着を感じなくなった子供たちの心が根無し草状態となり、荒(すさ)んでいくとしても不思議ではない。▼教育基本法はその制定より後に生まれた首相により、ようやく改正された。「国を愛する態度を養う」などの文言も入った。改正推進派にはまだ不満はある。しかし、ひとりでも多く戦後教育の問題点に気づいてくれれば、目的の大半は果たされたと言ってもいいだろう。

産経新聞 2006年12月17日

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編集手帳

戦時中、黒沢明監督がシナリオを書き、映画化されなかった作品に「サンパギタの花」がある。内務省の検閲に引っかかった。自伝「蝦蟇(がま)の油」に書いている◆登場人物が誕生日を祝うシーンがあり、「米英的で、けしからん」と検閲官に難詰された。天皇陛下の誕生日をお祝いする天長節も米英的ですか? 反論したが、「不可」の決定は覆らなかったという◆この頑迷な検閲官氏を、戦後の日本人が笑えるかどうかは分からない。かつて米英的なにおいのするものを十把(じっぱ)ひとからげに忌避したように、わずかでも戦前のにおいのするものを自己検閲によって封印してきた戦後の歩みがある◆「終戦の日の青空のなかに私たちは忘れ物をした」と語ったのは作家の久世光彦さんだった。忘れ物――「国を愛する心」や「国を守る備え」を説く声が、軍国主義の復活だ、戦前回帰だ、という批判にかき消された61年間である◆戦後の日本は平和のおかげで復興し、いまの繁栄を手にした。誰よりも平和のありがたみを知り、かつての軍国主義が二度と手にしてはならぬ危険な廃棄物であることを知っている。忘れ物探しの旅に出て、廃棄物と忘れ物を混同することはもはやあり得ない◆教育基本法の改正も、防衛庁の「省」昇格も、自己検閲に別れを告げる一歩だろう。旅の始まりである。

讀賣新聞 2006年12月16日

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日の丸・君が代処分にどう影響?=違憲判決引用の条文修正−教基法改正

日の丸に向かっての起立、君が代の斉唱。1999年の国旗・国歌法制定後も、拒む教員の処分は続くが、起立や斉唱の強制を憲法違反とする判決も出ている。15日成立した改正教育基本法は、対立が続く現場に影響するのか。関係者は行方を注視する。

改正法は従来の「教育は不当な支配に服することなく」とうたう条文に、「法律の定めるところより行われる」との文言を加える。

時事通信 2006年12月16日

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英語、音楽も「伝統重視」  指導要領改定で中教審

授業内容や教科書づくりの基準になる学習指導要領の見直し作業を進める中教審の教育課程部会は、国語、歴史だけでなく英語、音楽などの教科でもこれまで以上に日本の伝統・文化を重視する方針を素案で示し、本格的な検討に入った。

素案には「ふじ山」「こいのぼり」などで知られる文部省唱歌の指導を充実させ、「国や郷土について理解を深め、英語で積極的に発信する」など具体的な指導内容も記載。26日からの臨時国会では「愛国心」を盛り込んだ教育基本法の改正案が審議されるが、その議論を先取りする内容ともいえそうだ。

指導要領の見直しは「ゆとり教育」が学力低下を招いたとの批判に対し、基礎的学習の充実などを主要なテーマに昨年スタート。本年度中の改定を目標にしている。

伝統文化の重視は、現行指導要領(1998年改定)でも「わが国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てる」(小学社会)などと各教科で記載。今回の素案は基本的にこの流れを踏襲しているが、社会など複数の教科で「一層の重視」との表現を使い、従来の姿勢をさらに強調しているのが特徴だ。

教科によっては「古文、漢文の音読・暗唱」(小学国語)や「昔ながらの町並みや建造物の学習」(小学社会)など具体的な指導内容も例示。ゆとり教育の象徴である総合学習でも「地域の文化や伝統」を指導例に加えることが検討議題に上っている。

一連の「伝統重視」は教育課程部会が2月にまとめた審議経過報告にはほとんど見られなかったが、その後教科ごとの審議で取り上げられるようになった。現在は指導要領見直しの議論全体でも主要なテーマの一つだ。

文部科学省の幹部の1人は「伝統文化や古典に親しむ態度を養う点が各所で強調されるようになったのは基本法改正を見据えた動き」と言う。

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに…態度を養うこと」との文言を盛り込んだ教育基本法改正案は、先の通常国会で継続審議となり、与党側は臨時国会での成立を目指している。

共同通信 2006年9月16日

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教育基本法改悪 校長先生 66%が「反対」 東大調査 公立小中3812校

政府・与党が二十六日開会予定の臨時国会で成立をねらう教育基本法改悪法案について、全国の公立小中学校の校長の三分の二が反対していることが東京大学の調査で明らかになりました。

調査は東大基礎学力開発研究センターが学力問題や「教育改革」について全国の校長の意見を聞くため、今年七月から八月にかけて行ったもの。公立小中学校約一万校に協力を依頼し、三千八百十二校(小学校二千四百二十校、中学校千三百六十九校、不明二十三校)から回答を得て、このほど中間集計をまとめました。

教育基本法について「政府の教育基本法改正案に賛成である」という設問では「そう思わない」「全くそう思わない」が合わせて66・1%を占めました。(グラフ)

「成立しても実際の教育にはほとんど関係ない」という問いには「そう思わない」「全くそう思わない」と答えた校長が計60・4%で、現場に影響があるという認識が多数でした。

全国学力テストについて「結果を教育の改善に活かす方法が整備されていない」という問いに賛意を示した回答が計84・5%(「強くそう思う」19・4%、「そう思う」65・1%)に達しました。

学校選択制については「学校間の格差が広がる」「学校への無意味なレッテル付けが生じる」と考える校長がどちらも九割いました。

政府の「教育改革」について「教育改革が早すぎて現場がついていけない」と思う人が84・6%、「学校が直面する問題に教育改革は対応していない」と思う人が79・8%におよびました。

教育の将来については「学力の格差が広がる」88・1%、「地域間の格差が広がる」84・6%と、格差拡大を懸念する声が圧倒的でした。

しんぶん赤旗 2006年9月15日

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文科省検討の教育バウチャー、効果は未知数

教育を「サービス」ととらえ、供給する側の学校ではなく、受け手である住民の意向にもとづいて質を向上させようという「教育バウチャー制度」。その導入の可能性について、文部科学省が、有識者による研究会を立ち上げ、検討を進めている。これまでの議論では、国によってさまざまな内容になっており、教育効果の向上についても未知数の部分が多いとされ、評価は定まっていない。

この制度について、自民党総裁選に立候補している安倍官房長官は著書「美しい国へ」で、格差の再生産を防ぐ対策の一つとして期待されるとしている。

教育バウチャーは一般的に、(1)子どものいる家庭が行政からバウチャーと呼ばれる利用券を受け取る(2)公立、私立を問わず、子どもが通いたいと思う学校に利用券を提出する(3)利用券の枚数に応じて、学校側が運営資金を得る――という仕組みとされる。

より多くの子どもを集めた学校ほど資金が潤沢になるため、学校選択制と組み合わせることで学校間に競争原理が働き、教育の質の向上が期待できると考えられている。

文科省が昨年秋に立ち上げた「教育バウチャーに関する研究会」は、米国や英国、ニュージーランド、チリなど諸外国の制度を調査した。それによると、各国いずれも制度が異なり、どのような効果や問題点があるかは今後、さらに検討の必要があるとしている。

バウチャー制度に基づく公費の配分についても、単に子どもの人数だけで決めているわけではないと見ている。例えば、英国は過疎地かどうかという地理的要因や、障害のある子どもに対する経費なども含まれている。

チリでは、導入の結果、公立から私立へ移った子どもの成績向上は一部でみられた。しかし、都市部の私立にとくに富裕層の子どもが集まり、低所得者の子どもは地方の公立にとどまり続ける「階層化」が起きているとの報告があるという。

低所得者に対するバウチャーを導入しているのは、米国のミルウォーキーやクリーブランドなどだ。学力向上の面では、「親の満足度は上がった」という指摘があった。一方、対象者を所得制限で絞っているため、受給できない親から苦情が出たという報告もあるという。

文科省は今後、研究会の議論などを踏まえ、「だれを対象にどんな目的で、どういったタイプのバウチャーなら日本に可能か」という視点で、検討を進める。

朝日新聞 2006年9月13日

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Scholars claim Bill will invert Japan's postwar gains

The Times Higher Education Supplement 06 September 2006

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教育基本法改正案「賛成しない」66% 学力テストも不満 東大アンケート

国会で継続審議となっている教育基本法改正案について、東大が全国の小中学校長にアンケートしたところ、3分の2が「賛成しない」と答えた。また来春、国が実施する全国学力テストについては、85%が「結果を改善にいかす方法が整備されていない」と回答し、こうした政策を現場が歓迎していない実態が分かった。

東大の基礎学力研究開発センターが、学力問題や政府の教育改革について現場の校長の声を聞こうと今年7〜8月に実施し、中間集計をまとめた。約1万校に用紙を送り、小学校2420、中学校1369、どちらか不明23の計3812校から回答を得た。

「教育基本法改正案に賛成」という設問に対し「そうは思わない」は52・2%、「全くそうは思わない」は13・9%。一方、「強くそう思う」は1・3%、「そう思う」は32・6%だった。

「成立しても実際の教育には関係ない」との設問には、「そう思わない」「全く思わない」が計約60%で、法改正が現場に影響を与えると考える割合が高かった。一方「教育の位置づけ・目標を明確にする効果がある」と考える人は計65%だった。

また、全国学力テストについて「結果を教育の改善にいかす方法が整備されていない」という問いに「強くそう思う」19・4%、「そう思う」65・1%。「悉皆(しっかい)(全児童生徒対象)でやる必要はない」に対しては、「思う」「思わない」が半々だった。

「教育改革が早すぎて現場がついていけない」には85%が「思う」、「教育問題が政治化されすぎている」には66%が「思う」と回答した。

金子元久センター長(東大大学院教授)は「校長さんたちが現場で直面している課題と、政策がずれている傾向の回答が多い」と分析。教育基本法については「改正案が通って国や郷土を愛する心などの価値観が盛り込まれれば、現場では『結果』を求められるが、予算や人材を減らされる中で、それを担わされる立場として反対が多いのだろう」と話した。(上野創)

朝日新聞 2006年9月3日


シリーズ 職場 成果主義を追って 記者が語る実態(下)
声上げれば展望見える

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――たたかいの確信、展望をどう見ますか。

畠山 会社の度の過ぎたもうけ主義と労働者の矛盾が広がっていますから、当たり前の声を上げれば職場を変える展望が見えてきていると感じています。

日立製作所の旧清水工場で一人の労働者が、中高年がひどい賃下げになる成果主義賃金に反対して二年にわたってたたかい、改善をかちとりました。会社は難解な資料を出し、連合の組合はまともに説明しない。それを彼が詳しく読み解いて、分かりやすいビラをつくって職場で宣伝した。全国の日立関連企業で働く労働者有志の団体「日立懇」の仲間や全労連の地域労組の協力も得て要請や宣伝行動をかさねて、ついに労使協議で賃下げ分の補てんを定年まで保障させることになったんです。

全体に広げ
――労働者も声をあげたんですか。

畠山 ひどい中身だと知った何人もの労働者が、組合に意見を言ったり、苦情処理の申し入れをしたり、いろいろな動きがおこったそうです。一人でもおかしいと声を上げる人がいれば、職場を変えていける展望があることを示したと思います。

桜江 大阪では、教職員組合が、成果主義が教育の現場になじまないという思いを職場全体に広げる努力をしていました。これは校長とも一致がかちとれるし、運動も広がっています。

たとえば個人に目標をもたせて競わせるというやり方にたいし、組合ががんばって、職員同士が共同の目標を話し合って、それを個人の目標にさせるとか、情報開示とか、害悪を骨抜きしていくたたかいもある。

――共同の目標を個人目標にするんですか。

桜江 ええ。教育現場への成果主義の導入は、教師の目が子どもに向かなくなるという深刻な問題があります。教育基本法改悪とあわせた職場支配がつよまって、教師間の共同が失われて教育が成り立たなくなるという不安が学校関係者に広がっています。教師は、自分が教師になった思いとかけ離れた働き方になっていると悩んでいます。

ですから、いい教育がしたいという思いを一致させる努力をしながら、お互いよりよい職場とはどういうことなのかを考える。バラバラにさせないためのたたかいですよね。

病院でも、集団共同目標のような形でバラバラにしないように工夫した「私たちが考える評価制度案」を日本医労連の組合が提起して、それをもとに経営側と話し合いをしようと運動しているところもあるんです。

山田 私はJMIU(全日本金属情報機器労働組合)の組合がある会社を二つ取材しましたが、全労連加盟の組合は少数でも会社を動かしています。横河電機では情報開示をさせる。日本IBMでは、労働組合が抗議すれば退職強要がピタリと止まる。裁量労働制でも違法な適用をやめさせるなどの成果をあげています。労働者の要求を掲げてちゃんとたたかえば切り開けることを実感しました。ここでは組合の機関紙「かいな」を机上配布しています。なにかあったら労働組合に相談するんだという意識が非組合員の間でもかなりある。

労組の存在
畠山 若い労働者の話を聞くと、孤独で山のような仕事につぶされそうになりながらひたすら働いて、こんな会社で将来あるんだろうかと、もんもんとした日々を送っているんです。そういう若手や中堅労働者にとって、当たり前のスタンスで自分たちの思いを代弁してくれる人たちがいるというのは、職場に希望をもつことになるんですね。たたかわない労働組合を変える力にもなる。

桜江 職場にたたかう労働組合があるところでは、ほんとにがんばって成果主義の害悪をくい止めています。労働組合の役割は大きいですよね。

中村 本来、労働組合が企業と堂々とわたりあって労働者の権利、生活を守るという立場でやっていくことが、日本経済をいい状態にしてゆくことにつながると思うんですよね。

――ありがとうございました。職場取材チームはこのあと労働者の状態悪化のもう一つの重要なテーマであり、大きな社会問題にもなっている派遣・請負労働などの非正規雇用問題をとりあげる予定です。(おわり)

 (「シリーズ職場 成果主義を追って」の取材は、桜江靖雄、中村隆典、畠山かほる、安川崇、山田俊英の各記者が担当しました)

しんぶん赤旗 2006年8月27日

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シリーズ 職場 成果主義を追って 記者が語る実態 (上)
過酷な労働 健康もむしばむ

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本紙は五月以来「シリーズ職場 成果主義を追って」というタイトルで成果主義賃金の職場への影響を取材してきました。このなかで賃下げ、過酷な長時間労働、健康破壊の急増、公共性をゆがめる公務職場での害悪など、深刻な実態、問題点を明らかにするとともに、これを打開する労働者、労働組合のたたかいをとりあげました。取材に当たった記者が実感を語り合いました。

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やる気 引き出せず
――まず取材の感想を一言ずつ。

中村隆典 一言でいえば、成果主義は事実上崩壊しているということです。最初に導入したといわれる富士通でも労働者は「笛吹けど踊らず」です。経営者が望んでいた「やる気を起こさせる」というのが全くできていない、むしろ失われていると言っていいと思います。

畠山かほる 状態悪化が思いのほかすすんでいるというのが実感です。取材した日立製作所では、成果主義と裁量労働制(注1)によって労働強化が極限まですすみ、健康破壊が深刻でした。労働者は競争より、自分を守ることを考えざるをえないところに追い詰められるなかで、意識の変化が起こっていると感じました。

桜江靖雄 自治体と学校、病院を取材しましたが、公共の分野に成果主義は合わない。成果を競わせることでサービスを向上させるという考えは、助け合ってサービスを提供する業務にそぐわないし、仕事の本来の意味を失わせるものだと労働者は危ぐしています。大きな矛盾に直面していると感じました。

山田俊英 成果主義で労働者のモチベーション(意欲)が下がっていることは間違いないですね。それなのになぜ経営者が導入に力をいれるのか、取材して疑問に思いました。成果主義で労働者の求心力を高めようとしている経営者の意図は裏目に出ていますよね。

安川崇 企業が成果主義を導入するとき、制度の構築を外部のコンサルタント業者に依頼するケースが多いんです。コンサル業者のあいだでも、ゼロベースの成果主義一本では従業員のやる気を引き出せないという認識は共通しています。賃金を目の前にぶら下げれば走る、というほど人間は単純ではないということです。

「失敗」は明確だが
――経営者の意図はどこにありますか。

中村 富士通を取材したとき、私もこれだけ労働者の士気が低下しているのに、なぜ成果主義を手放せないのかと聞きました。要するに総額人件費の抑制なんです。会社にとってそのうまみは何物にも替えがたい。

富士通は、バブル崩壊後の二〇〇一年、二年と連続一千億円以上の赤字を出した。そこで総額人件費の削減にでる。手っ取り早くやれるのがリストラ解雇と賃金抑制です。若い人は三十五歳くらいまではある程度厚遇されるけど、それ以降は上がらない。中高年は完全に抑え込む。個人の業績によって賃金を決めるという宣伝で全体の賃金を抑え込んでいるのです。

畠山 経営側の意図にはホワイトカラーの生産性をどう高めるかがありますね。ブルーカラーの効率化はかなりすすめたが、ホワイトカラーはまだまだだと。ここから労働時間を基準にしない論理がでてきたわけです。それが労働法制の改悪で裁量労働制が制定され、賃金は時間でなく成果で測るという成果主義がでてきました。

いまグローバル競争のもとでIT化がすすみ、開発した製品があっという間に陳腐化してしまいます。開発期間を短くし速度を上げ、コストを削減しないと競争に勝てない、と。問題は、企業の収益を高めるために、成果主義を使って労働強化と総額人件費削減の手段にしていることです。

安川 企業は、右肩上がりに賃金が上がっていく年功型賃金を変えたいんだと思います。しかし、導入ずみの企業もコンサル業者も、制度の部分的な手直しをせざるを得なくなっています。年功賃金との折衷型とか、結果までの努力も評価対象とする「プロセス評価」を盛り込むとか。もちろん総額人件費を抑えるシステムという本質は変わりようがありません。

「失敗」が広く知られたにもかかわらず、中小企業を中心に今も成果主義導入の動きは続いています。経営の苦しさの反映もあるでしょう。欠点を糊塗(こと)しながらも、実態としては定着しつつあるというのが実感です。

公務の職場導入で不安
――公務の職場は民間とは違った特徴がありますね。

桜江 学校や自治体などの職場は、民間に比べると導入はこれからです。大阪の学校の場合、現場のたたかいもあってまだ賃金に連動させていません。当局は早期導入の姿勢を強めていて緊迫しています。

教師は授業を一人でやっているようにみえますが、いろいろな教育実践を教師集団で協力してすすめています。それに対してAだ、Bだ、Cだと評価し差別していく。教師は、子どもの成長を何よりの喜びとして仕事をしている誇りがあります。それをお金で仕事するように変えられるのが非常につらいという話を聞きました。お金で差をつけられれば、自分も上にどう見られるかを気にして教育をするようになるんじゃないかとか、上司によく見えるとこだけがんばろうとか、そういう教師が増えるんじゃないかという不安がありました。

安川 東京都教育委員会は、「業績評価」を公立学校の一般教員の賃金に反映させています。

教育現場での成果主義は、人件費削減だけが目的ではないと思います。都教委はむしろ「都教委の言うことを聞く教師づくり」をすすめるための強力な道具の一つとしています。全国の公立学校で、評価を処遇に反映させようという動きが強まっています。教育基本法改悪の動きとあわせて、警戒する必要があります。

深刻なメンタルヘルス
――取材を通じて感じた問題点は?

山田 成果主義は賃下げが顕著ですが、それだけじゃない。成果が低いと評価された人はどんどん切って行く。会社に残すのは、長時間労働の若年労働者と、幹部社員ですね。そのほかはいらないと。事務とか秘書とかいう部門は派遣にしていく。そういうリストラのテコとして使われていると思いました。

日本IBMで見かける労働者は非常に若い。五十歳過ぎると、どこかへやられるか退職させられる人が多いのです。社長がいっていますけど、ITの技術はどんどん変わっていくから、その技術を習熟している若い人を入れるんだ。そうしないと組織が活性化しないと。そこには会社が雇っている人間に対して責任をもつという発想はない。

取材でいろいろな人に会いましたが、みんな自分の仕事を生きいきと語るんです。こういう人を切ろうとしているんだと怒りを覚えましたね。優れた技術者を切り捨てるから最近の自動車のリコールやパロマの問題がおこるんですよ。

中村 成果主義が導入されているところはだいたい労働時間の規制がない裁量労働制が導入されています。長時間・サービス残業がはびこっているところは、ほとんどそうですね。

長時間労働で健康を害しているケースとして、NECでうつ病になった人を取材しました。NECは、半年以上の長期休業者が七十二人と公表されていますが、おそらく大半が精神疾患です。

記事にしましたけど、富士通の川崎工場では屋上を閉鎖したんです。飛び降り自殺しないようにと。NECでも本社ビルで以前、飛び降り自殺があったようです。それを契機に深夜零時以降の勤務は原則として禁止です。しかし実際は、多くの労働者は働いていて、組織ぐるみで規則を破っているのが実態です。

成果主義と裁量労働制による長時間労働のもとで、いたるところで精神疾患や過労死が広がっています。一番深刻な問題だと私は思います。

畠山 日立でも、メンタルヘルス問題が深刻化していて、産業医が“日立病”と名づけるまでに至っていました。連載で、旧労働省が発案したストレス図を紹介しましたが、精神疾患には、労働時間や仕事量とともに、裁量のあるなしが大きな意味をもっています。

技術者の多くは、チームリーダーの監督・指示のもとで日程表にしばられて働いています。個人の裁量で仕事をする条件も環境もないのです。つまり違法の疑いがあります。企業は、残業代という歯止めがなくなりますから仕事量をどんどん増やす。労働者は残業代ももらえず、膨大な仕事を消化するだけで働きがいもなく報われない状況におかれています。これでは精神疾患が増大するのも当然だと思います。

いま政府の審議会でホワイトカラーエグゼンプション(注2)の導入が検討されていますが、私はその前に、現に導入されている裁量労働制が適法かどうかの検証をすべきだと思います。(つづく)

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注1
裁量労働制
実際に働いた時間に関係なく、あらかじめ労使がきめた時間を働いたとみなす制度。労働基準法が定める労働時間規制の例外なので、仕事の進め方や時間配分などを自分できめる裁量があることなど、導入には厳密な要件があります。深夜・休日労働は残業代の支払い対象です。

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注2
ホワイトカラーエグゼンプション
一定の事務・技術労働者を対象に、労働時間に関する法規制から除外する制度。アメリカで導入され、日本でも財界が強く要求しています。厚生労働省が「自律的労働時間制度」と称して導入の議論を進めています。労使協議で導入できるとし、行政(監督署)は基本的に介入しない方向です。

しんぶん赤旗 2006年8月25日

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支局の目:今なぜ愛国心 /秋田

先の通常国会で、重要法案とされた教育基本法改正案が継続審議となった。「愛国心」表記の落としどころを巡り、与野党の思惑が複雑に絡み合ったためらしい。

戦後の混乱期。米兵を満載した列車に「ギブミー、チョコ!」と叫ばせた先生は、後年、おかしそうに話した。「おまえら、腹をすかせていたからな。どうだ、甘かっただろう」。いつの時代も、教師は教え子のことを考えている。恩を感じた者は、成長し、師の愛にくるまれた郷里を思い、その先に国を見る。

だが、愛国心について、政府・自民党案は「態度を養う」とし、民主党案は「心を涵養(かんよう)」とうたった。正直、政治的にこねくり回したような気がして、合点がいかない。なぜ今、教育基本法改正なのか。

毎日新聞の全国世論調査では、「今国会成立にこだわる必要はない」が66%に上ったが、それは漠然とした不安感の表れではなかったか。国を愛する心は、自然にはぐくまれる性質のものだ。上から押し付け、「国のかたち」がゆがんだことは、歴史的に証明されている。

しかし、その愚が再び繰り返されようとしたら――。東京都の小学教師をしていた妹が今春、定年を待たず退職した。彼女はいかなる組織にも属さず、たまに会えば、わが子よりクラスの子らのことばかり話していた。戦中生まれで、都立高の教師だった旧友は卒業式の行動で処分され、教室を去った。彼は全国規模の武道団体を率い、屈強な体が「思想」そのものだった。その2人が強まる管理教育と、教え子の未来に不安を抱いて抵抗したことを、誰が早計だったと批判できようか。

教育現場に緊張が持ち込まれれば、子供たちが動揺し、心に影が差す。障害児のための「県こども総合支援エリア」構想についても、全く同じことが言えるだろう。【佐藤正伸】

毎日新聞・秋田 2006年7月16日

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2006年5月29日 Creeping back toward thought control

The Japan Times: Monday, May 29, 2006

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朝日新聞 2006年5月24日夕刊
教育の自由どこへ 基本法改正案 国会審議始まる

戦後教育の枠組みを定めた教育基本法の改正案審議が国会で始まった。自民・公明の与党協議の焦点は「愛国心」や「宗教的情操」の表現だった。だが、改正案には、法が教育目標として心の問題まで定めてよいのか、行政は教育現場にどこまで関与できるのかという教育の自由をめぐる根源的な論点もある。教育振興基本計画のありかたも争点になる。論点を整理した。(編集委員・氏岡真弓、及川健太郎、豊修一)

◆基本法を変える必要があるのか

・根本的な改革必要
・「法のせい」証拠なし

文部科学省は「子どものモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下、若者の雇用問題」を挙げ、「環境が変わる中で根本的な改革が求められている」とする。「改正が教育全体を変化させるのは間違いない」と、旗振り役の森前首相。教育関係法令の改正や学習指導要領の改訂で理念の浸透を目指す。

民主党は基本法の改正ではなく、新しい法律として「日本国教育基本法案」を発表した。「家庭崩壊など教育は異常事態。高等教育や私学振興も含め、新たな理念を示す必要がある」と元文相の西岡武夫・党「教育基本法に関する検討会」座長は説明する。

これに対して、「教育は問題を抱えているが、なぜ基本法を変えねばならないかが示されていない」と話すのは、改正案批判の報告をまとめた日本教育法学会教育基本法研究特別委員長の成嶋隆・新潟大教授だ。「子どもの道徳心の欠如や家庭の教育力低下が基本法のせいだという証拠はない。基本法の定める教育の機会均等の原則や国の教育条件整備が実現されてこなかったことこそ背景にある」

◆国家が法に徳目を掲げると、心や価値観が縛られるのではないか

・強制ではない
・国家への服従意図

改正をめぐる与党協議では、愛国心をはじめ、どんな徳目を掲げるかが焦点だった。だが、その根底にあるのは憲法19条の「思想と良心の自由」にもかかわる問題だ。

政府案も民主案も、教育の価値を法に位置づける姿勢では変わらない。

自民は戦後教育が「個人」偏重だとみて「公」を強調する。重んじるのは「道徳心」「公共の精神」「伝統文化の尊重」。現行法を評価する公明は新時代に対応する理念として掲げた「職業」「生命尊重」「環境保全」を重視する。

政府案のもとになった与党案では「愛国心」を盛り込みたい自民に公明が慎重さを求め、「国」が国家権力や政府を意味しないと合意。「我が国と郷土を愛する態度を養う」と表現し、「心」ではなく「態度」とした。「教育目標であり、強制するものではない」と小泉首相。自民の求めた「宗教的情操」も「多義的なので法に規定しない」(安部官房長官)として「宗教に関する一般的な教養」にした。

民主は政府案よりさらに強めた表現で、「日本を愛する心を涵養」を前文に盛り、「宗教的感性の涵養」をうたう。「『日本』は国、郷土、自然すべて。『涵養』は土に水がしみこむように教育することで強制ではない」(西岡武夫座長)

「法が教育目標を掲げ、国家の示す人間像通りに教育させようとするのは両案とも同じだ」というのは、教育法学会特別委員会事務局長の世取山洋介・新潟大助教授だ。「内容も、個人の国家への服従が意図されている。『国家道徳強制法』であることに変わりはない」と批判する。

◆国家が法で家庭教育などのありかたに踏み込んでいいのか

・家庭の役割期待
・すべての国民に網

両案とも家庭教育や地域の条文を盛った。これも論点になる。

政府案は、森首相(当時)の私的諮問機関「教育改革国民会議」の「教育の原点は家庭」という報告を受け、保護者は「子の教育について第一義的責任を有する」として、子どもの生活習慣や自立心の育成を求める。学校、家庭、地域住民らに「それぞれの役割と責任の自覚」を求め、連携・協力を規定した。

民主案はさらに家庭を重視。前文で「教育の原点である家庭」をうたい、「国家、社会及び家庭の形成者」づくりを目指す。生活習慣のほか倫理観、自制心、自尊心を育てる役割を期待する。地域住民には「自発的取組」の担い手になることを期待するとした。

これに対して「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の小森陽一・東大教授は「家庭や地域に言及することで、すべての国民に網をかけ、国家事業としての教育に協力するよう義務づけている」と指摘する。

◆行政の教育現場への関与のありかたをどう考えるべきか

・不毛な争いに終止符
・権力統制招くのでは

「教育は不当な支配に服してはならない」として教育権の独立を定めた現行法10条も論点の一つ。この解釈をめぐり、教科書検定や学年全員対象の学力テストが「不当な支配」にあたるかどうか裁判で争われ、国側と教師側とが激しく対立した歴史があるからだ。

政府・与党には「不毛な対立」の原因だとして10条からこの文言を削ろうという意見もあった。政府案はこの文言を残した一方、「この法律や他の法律の定めるところで行われるべきもの」という言葉を盛り込んだ。「解釈をめぐり誤解を生まないために明記した(文科省)というが、過去に10条をめぐり対立した経緯から「教職員組合の活動を制限するのが本音」との声もある。

民主案は「不当な支配」という表現を削除し、「教育行政は、民主的な運営を旨として行われなければならない」という条文を新設した。「文言が残ると、不毛な論争をふまえざるをえない。白地から積み上げたい」(鈴木寛・党基本法問題調査会事務局長)

両条に共通するのは、10条をめぐる争いに終止符を打ちたいということだ。これには、改正が教育の権力統制を招くことにならないかと危惧する意見が教育法学者らから出ている。堀尾輝久・東大名誉教授は「両案とも、政治や官僚の不当な圧力からの独立を目指した当初の立法の趣旨を逆転させる」と話す。

現行10条が戦後果たした役割をどう考えるか。「管理強化への歯止め」と評価するか、それとも「教組の教育行政への介入の根拠」と否定的にみるのか。そこが焦点だ。

◆義務教育、学校制度が変質しないか

・教育機関の延長が可能
・能力主義導入で格差

両案とも現行法で「9年」としている義務教育年限を削除し、「別に法律で定める」とする。

文科省は、学校教育法で「6歳から15歳まで」としている小中学校の就学義務に関する規定で9年は担保されている、と説明。そのうえで延長の可能性を視野に入れる。

民主党は5歳から高校まで「余地を残した」(西岡座長)とする。

名古屋大大学院の中嶋哲彦教授は飛び級、飛び入学など能力主義の導入や、現行の年齢による学年編成の緩和につながるとして「義務教育を含む学校制度全体が格差的に再編成される可能性がある」と指摘。「人格の完成」の側面がおろそかにならないかと危惧する。

「教育振興基本計画」のあり方も争点だ。文科省にとって法改正のねらいの一つで、5年程先までの重点施策を定める。

民主党案は政府案より一歩踏み込み、対国内総生産(GDP)比を指標に教育予算の確保目標を盛り込むとしている。基本計画を予算折衝の武器にしたい文科省にとって追い風となる規定だ。

基本計画が改正案に盛り込まれた点について、苅谷剛彦・東大教授(教育社会学)は「義務教育費国庫負担金の削減など、教育をめぐる財政的な担保に歯止めがかからなくなり、文教族の後ろ盾もいつまで得られるか」といった文科省の危機感を指摘する。

規制緩和と分権化で他省庁の影響を受ける文科省にとって、独自に政策を打ち出すには基本計画を前面に押し出す必要があるからという。苅谷教授は「財政的な裏付けをきちっとすれば、抱き合わせで基本法の改正を急ぐ必要はないと思う」と話す。

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教育基本法改正案 せめぎ合う国家と個
子どもたち育む理念 国会で審議へ

戦後日本の人間の理想像を描き、個人の尊厳に根ざす教育を宣言した「教育基本法」の改正案が国会に提出された。「教育の憲法」として約60年間、一度も変えられなかったこの法律はなぜ誕生し、どんな影響を与え、どのように改正されようとしているのか。道筋をたどり、今回の改正案をどうみるか聞いてみた。(編集委員・氏岡真弓、及川健太郎、野上祐、豊秀一)

第一幕 誕生  過去と決別、自由尊重の精神

敗戦から1年1ヵ月たった1946年9月23日。文部省の会議室でひとつの委員会が始まった。内閣に設けられた教育刷新委員会の第1特別委員会。託されたのは、国家のために自己犠牲を求めた教育を転換し、新しい理念をどう打ち立てるかだった。

帝国議会では、文相の田中耕太郎が、新しい教育をするための根拠となる「教育根本法」(後に教育基本法となる)をつくると言及していた。それを具体的に検討する意味もあった。

集められたのは、龍谷大元学長の羽渓了諦、第一高等学校長の天野貞祐、衆院議員の芦田均、同森戸辰男、東京文理科大(後の東京教育大)学長の務台理作、恵泉女学園長の河井道、東京天文台(現・国立天文台)台長の関口鯉吉ら8人。11月まで12回開かれた審議の焦点は「個人」と「公」の関係だった。

特別委員会の4回目
務台 軍国主義や極端な国家主義に利用されない決心を表す言葉が欲しい。個人を犠牲にせず、個人の自由を尊重する精神が基礎にならなければいけない。
森戸 個人、人間としての尊厳が従来の教育では閑却されておった。
羽渓 個人は協同生活を離れてありませぬから、誤解の起こらないようにしなければならぬ。

5回目も議論は続く

天野 公のために生きる人を作ることが一番肝要だと思う。奉公というような。個人の完成にあまり重きを置くと、自分のために生きることが主になっているような気が致します。
務台 公に使える人間を作るには個人を一度確立できるような段階を経なければならない。それが日本に欠けていたのではないか。
芦田 自分のために生きるならまだいいので、他人にすがって生きるような根性が日本人には非常に多いのだから。
河井 両方表す言葉はないのでしょうか。自他とかいうような。

■転換への道

議論をもとに、文部省は注文を練り上げていく。個の重視は「個人の尊厳を重んじ」「個人の価値をたつとび」に、公の立場は「民主的で文化的な国家を建設して」「平和的な国家及び社会の形成者として」「自他の敬愛と協力によつて」などに織り込まれた。

文部省の検討作業の中心にいたのは、行政法学の大家で後の最高裁判事の田中二郎。当時、官房審議官室参事事務取扱として、東京帝国大学教授として同僚で後に最高裁長官となる田中耕太郎文相を助けていた。

田中は第3回特別委員会に教育基本法の要綱案を示した際、説明している。「憲法に例えば政治教育、宗教、あるいは男女の平等が出て参ります。そういう関連だけを採り上げまして列記したような次第であります。教育の問題として採り上ぐべき問題を網羅するとは考えておりません」

田中の残したメモを分析した北海道教育大学の古野博明教授(教育法)は話す。「教育に大事なことを何でも入れたのではなく、憲法に関連ある価値に絞って盛り込んだ。基本法は憲法とほかの教育法に橋をかけ、公教育の構造転換の道をひらいていった」

刷新委員会の副委員長だった東京帝大総長の南原繁は当時を振り返って書いた。「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」(「日本における教育改革」=朝日新聞社編『明日をどう生きる』)

■勅語の束縛

だが、基本法は過去を完全に断ち切る中で生まれてきたわけではない。その一つが教育勅語の扱いだ。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ……皇運ヲ扶翼スヘシ」と説く勅語は明治天皇の言葉として神格化された。子どもたちは朝夕、勅語と天皇の「御真影」を納めた奉安殿に最敬礼していた。この勅語への評価は、第3回総会や第2回特別委員会の席上で分かれた。

羽渓 日本の伝統である忠孝一体道義を基礎とした勅語の思召を全然無視する訳にはいかない。
天野 日本人の道徳の規範として実に立派なものじゃないか。
芦田 日本が教育勅語の精神を誠実に行っていったならば、惨憺たる運命には陥っていないと思う。
河井 白手袋をはめなければいけないとか、奉読の際に一字間違っても免職だ、となさったからで、教育勅語が悪かったとは思いません。

批判的な意見も出た。

森戸 教育勅語を貫いている精神が、今の民主国家の建設には全くそぐわんものである。新しい時代には、根本的に改変されなくてはならん。
関口 教育勅語の内容は立派だけれども、いかに強く国民を引きずっていったかを考えると非常に絶望する。

委員たちは戦時中、教育勅語の扱いに問題があった点ではまとまった。文部省も46年10月、勅語の奉読を禁じる次官通牒を出す。

しかし翌年、帝国議会の審議で文相の高橋誠一郎は答弁した。「憲法、教育基本法と抵触する部分は効力を失いまするが、その他は成立する。孔孟の教えとかモーゼの戒律とかと同様なものとなって存在すると解釈すべきではないか」

しかし、こうした状況を問題視した連合国軍総司令部(GHQ)民政局の関与で、教育勅語は基本法制定翌年の48年、衆参両院で排除・失効確認が決議された。基本法を研究する明治大学の三上昭彦教授は語る。「勅語は内容も天皇の言葉という形式も憲法や基本法と矛盾する。なのに多くの有識者は憲法の理念を十分には理解せず、『悪いのは儀式の強制で、内容はいい』と考えた。天皇制が人々の思考をいかに縛っていたか」

個人の尊厳から出発して公共性を築こうとした、戦前・戦中との「非連続」と。個人より国家への奉公重視する勅語をなお正しいとする「連続」と。二つの脈略は占領終了後も続いてゆく。

第2幕 左右対立  保守回帰 教育権巡り論争

「いったい我が日本国に対する忠誠というのはどこに入っておるのだ」

56年2月。教育基本法の改正を目指す臨時教育制度審議会を作る法案が国会に出され、文相清瀬一郎が理由を述べた。

■改正論台頭

占領下という特殊な事情の下で教育改革が行われた結果、国に対する忠誠や麗しい伝統、家族への恩愛の情という道徳の基準が、教育の根本である基本法に欠けている−。そう訴える清瀬の発想は明らかに、過去と「連続」する水脈から出てきたものだった。

戦時下の大政翼賛会の総務などを務めて公職追放になった清瀬は、2年前に政界復帰を果たしたばかり。世界はすでに冷戦で分断され、日本の非軍事化・民主化を進めた米国の対日政策も大きく変わっていった。

国内では憲法を占領軍による「押しつけ」と批判する議論が生まれ、前年の55年に誕生した自民党は政綱に「自主憲法の制定」を掲げた。占領下で作られた憲法を変えたい保守派は、個人の尊厳をうたい「教育の憲法」と言われる基本法をやり玉にあげた。

審議会設置の法案は審議未了で廃案となるが、文相の荒木満寿夫が60年10月、基本法改正に積極姿勢を見せた。内閣の憲法調査会が憲法の見直しをしている点に触れ「教育の基本を定める基本法も独立を回復した全日本人の立場で検討していただく一つの課題だ」。

荒木は翌61年にも国会で基本法改正の必要性を強調し、こだわりを見せた。

基本法改正論と軌を一にするように、学校現場では中央集権化が進んだ。

54年の「教育2法」により教師の政治的中立性が強調された。56年の地方教育行政法で教育委員会の公選制は任命制へ変わる。勤務評定の実施や全国一斉の学力テストなどが始まり、教科書検定も強化された。

荒木の発言を事実上最後に、政府の基本法改正は姿を消す。

■警鐘鳴らす

60年代以降、管理強化に対抗するために、教師たちが裁判を次々に起こす中で、基本法の理念、とりわけ戦前との「不連続」を明確にした「教育は不当な支配に服してはいけない」とする10条に光があてられた。「国は教育内容にどこまで介入できるのか」「教師や親の教育権をどう考えたらよいのか」が論じられた。

時代を象徴する一つが、家長訴訟だ。

東京教育大教授の家永三郎が執筆した高校用教科書「新日本史」について、63年に5訂版が検定不合格処分、64年に約300項目の修正意見付きで条件付きの合格とされるなどした。

裁判で家永は憲法や基本法をもとに「教育内容の具体的な決定権は国にあるのではなく、親や教師など様々な主体の教育の自由を認めるべきだ」として「国民の教育権」を打ち出した。

「教育の中身は国が決めるもので、国家は教育内容に当然介入できる」という「国家の教育権」という国側の論理を否定した。

検定不合格処分の取り消しを求めた訴訟(2次訴訟)の東京地裁判決(杉本判決)は70年7月、「国民の教育権」説を採り、家長への検定は「教育基本法が禁じた不当な介入にあたる」と判断。これに対し、国家賠償請求訴訟(高津判決)は74年7月、「国家の教育権」説に立ち、原告敗訴を言い渡した。

論争に終止符を打ったのは、学力テストをめぐって争われた76年5月の最高裁判決だった。いずれの見解も「極端かつ一方的で妥当でない」と退けた。

当時の教育裁判の意義について、浪本勝年・立正大教授(教育法)は「国家統制が進む中で、教育内容に対する国の権力的介入は認められないという警鐘を鳴らし、基本法が歯止めの役割を果たした」と話す。

基本法や憲法の明文改定は脇において、経済大国への道を突き進んだ日本は、バブルの時代を迎える。

84年9月。「戦後政治の総決算」を掲げた首相の中曽根康弘が臨時教育審議会を発足させた。

「憲法と同じで、日本解体の政策の所作だ」と考える中曽根は基本法改正を念頭に置くものの論議には踏み込めなかった。

第3幕 調整 公明と選挙にらみ

教育基本法改正は、小渕首相のもとで再び政治の舞台に姿を現した。99年9月の自民党総裁選で小渕は「教育改革」訴え、「(基本法には)生涯教育や地域教育、家族教育などの視点がはめ込まれていない」と主張。00年3月に私的諮問機関「教育改革国民会議」を設置し、見直しに着手した。

その直後に小渕は病に倒れ、後継首相に文教族の大物で熱心な改正論者の森喜朗が選ばれた。しかし、同会議は00年末「自然、伝統、文化の尊重、そして家庭、郷土、国家などの視点が(基本法には)必要」とする最終報告を提出したものの、改正がすぐに具体化したわけではなかった。

連立を組む公明党と、支持母体で戦中に国家弾圧の経験がある創価学会は、改正の動きが強まることを警戒した。選挙支援で公明党依存を深める自民党にとって「公明党との調整が最重要」(文教関係議員)という状態はその後も続いた。

小泉政権下の01年11月、遠山敦子文科相が中央教育審議会に見直しを諮問。中教審は03年3月、「日本の伝統・文化の尊重」「郷土や国を愛する心」を盛り込んだ改正を答申した。与党は「与党教育基本法に関する協議会」を設け、直属の検討会で議論を始めたが、当初は、改正に向けた詰めの協議とはほど遠かった。

転機は04年1月に訪れた。協議会の名称に「改正を」を挿入することを決めた。検討会で議論が深まれば、夏の衆院選の前に意見を集約することになりかねない。支援者の間で議論を呼ぶテーマだけに、それを避けるために公明党は改正に向けた具体論をする場を設けて仕切り直しを図った。

自公が改正で足並みをそろえたのである。

同床異夢ながら与党間で理念がぶつかる「愛国心」をどう表現するかに焦点は絞られた。

キーパーソンは文教族の重鎮ながら、公明党の信頼も厚い検討会座長の保利耕輔元文相。04年6月の中間報告には自民党が主張する「国を愛する心」と「国を大切にする心」という「公明党案」が併記された。

05年11月、公明党の神崎代表は「(06年の)通常国会で決着をつけることも考えたい」と発言した。07年にある統一地方選と参院選で争点となることは避けたい−。そういう受け止めが公明党内に広がった。

この「好機」を森はとらえた。郵政民営化法案に反対し、無所属になっていた保利を06年1月顧問という立場で与党検討会に復帰させ、後任座長の大島理森元文相と二人三脚で一気に与党合意に持ち込ませた。

「『国を愛する』以外は我々の主張が通った」と公明党幹部が歓迎する内容だった。自民党内には反発もあったが「公明党の賛成しない改正はできない」(検討会幹部)のが現実だった。
(第1〜第3幕の肩書きは当時、敬称略)

広田照幸氏 東京大学教育学研究科教授(教育社会学) 
多様さ許さず内向きな未来像


国民の不安がせりあがる形で教育基本法改正の動きが出てきたとき「おいおい」と思った。議論があまりに乱暴で短慮だからだ。

乱暴なのは、子どもの問題も社会問題もすべて基本法のせいにし、心を操作して解決しようとしている点だ。法と道徳の区別が不十分で、教育の力を過信している。短慮なのは、戦後を清算しようとして逆に未来像が狭い点。これで改正するのは損だと思う。
冷戦の終焉とグローバル化の進行で、アジアは国民国家の枠を超えた流れが強まっている。なのに、改正案は同じ国民として一体感を求める。多様な価値観の個人が折り合いをつけていく市民的な公共像ではない。このままでは日本はアジアの孤児になりかねない。

問題の典型は「わが国と郷土を愛する」のくだりだ。愛国心は儀式で形にされやすい。しかも改正案には「態度を養う」が何カ所もある。日の丸・君が代問題で起こっているように身振り・手振りを細かくチェックされ、価値観の多様性を大事にする少数派はあぶり出される。教員や子どもの評価項目に細かく挙げられ、教材にも盛り込まれるだろう。

愛国心による洗脳がうまくいくとは思わないが、価値の刷り込みが徹底できないからこそ、かえって同調圧力や監視の目ばかりが濃密になる。ユニークな先生ほど生きづらく、サラリーマン教師ばかりを増やすだろう。

また徳目を並べて「よさ」を押しつける改正案が、学習者の姿勢や家庭教育、地域連携に踏み込んだのも気になる。統制されるのは今は教員だけだが、生徒や親や地域も「正しい国民」への身ぶりが強制されかねない。

「教育は法律の定めるところにより行われるべき」ともある。法や規制の縛りが強まり、教育の自律性が保障できるかが問題だ。

今の基本法は自立した個人の社会モデルに基づく。多元的な価値を許さない改正案に比べ、柔軟に未来をくみかえられる。現行法を選び直し、文言の実質化を考えるべきだ。

森喜朗氏 前首相、元文相 
規範教え込み社会を変えたい

 
改正は自民党結党以来の悲願だった。連合国軍総司令部(GHQ)が作った憲法同様、教育基本法の狙いは軍国主義をよみがえらせないこと。教育勅語には人間関係の大事なことを書いてあるが、戦前の教育は全部ダメということになり、昭和23(1948)年に衆参両院で廃棄宣言した。

戦後は教員組合が台頭し、偏向教育を行った。公の精神は軍国主義に、公に対する奉仕は国家に対する奉仕になるから駄目だ、と。それでいい結果が出ましたか?お風呂に子どもを沈めたとか高校生が人を殺したとか、今の社会は、考えもつかないようなことが起きる。その原因の根底は心の教育にある。

子どもたちに心の大切さを教えられないことが問題だ。教組は「そういうことを書いていない」と現行法を逆手に取り、教えてこなかった。改正案には「道徳心」や「公共の精神」が盛り込まれた。規範が入ることで、国旗掲揚とか、国歌斉唱の時の立ち振る舞いを含め、先生は子どもたちの心身の発達過程に応じて教え込んでいけるようになる。

命の大切さや、ありがたいとか、親にどうあるべきかとか、兄弟仲良くとか。このことを教えるには宗教的な情操教育が一番いい。公明党との調整で、盛り込まれず残念だが、百%満足できる改正はあり得ない。

愛国心は「『国』に国家権力や政府といった政治機構を含まない」ことで合意した。ただ、国はあくまでも国。ふるさとであり人間であり、日本という国を構成する条件を全部抱合して「国」ということでいい。愛国心だと軍国主義になりますか。日本人は好戦的な民族ではない。日本は民主主義、自由主義、平和主義だ。軍国主義に進むはずがない。

もちろん、基本法を変えるだけで教育がよくなるとは思わないし、子どもがすぐに変わるなんてこともないが、教育の基本法を立て直し、50年先、100年先に期待するということでしょうね。

西原博史氏 早稲田大教授(憲法)
国による価値の独占は越権だ

いい教育は法律では確保できない。法は、あってはならない教育を防ぐことしかできない。教育基本法もその役割を担ってきた。

戦前は、教育勅語の下で、子どもたちは天皇に尽くし、戦場で美しく散ることが唯一の価値だと教え込まれた。軍国主義教育の失敗から学んだのは、子どもたちを国家の道具と考え成長をねじ曲げてはならないということ。一人ひとりを「人格」の卵として尊重しようとする決意が基本法の核心にある。

ところが、その対極に「国民として持つべき精神」を統一しようとする考え方がある。特に勝ち組と負け組みが生じようとしている今、強制的な国民精神の統一でその分断を克服しようというのだろうか。基本法改正案も「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ことを教育の目標に掲げた。(2条5号)。

国の愛し方はいろいろある。政府の方針でも問題があれば異議申し立てをするという主権者としての責任に裏打ちされた愛国心もある。しかし、改正案の愛国心イメージはこれとは違う。古くからある、自分の力を超えた国を意識させる。一人ひとり大切にするのではなく、個人を個に従属させる論理だ。

このイメージをもとに、国が「施策を総合的に策定」(16条2項)すれば、「正しい愛国心」が国によって特定されかねない。

愛国心だけではない。改正案の2条は他に徳目を並べる。何をすれば「道徳心」や「平和に寄与する態度」に合致するのかを国が決め、学校が「体系的、組織的」(6条2項)に子どもに植え付け、評価する。親も(10条)、地域社会や関係者も(13条)、国が定義した徳目の教育を義務付けられる。

国家が特定の価値を独占した反省から教育基本法ができたのに、子どもたちが何を考えるべきかまで国が決めるのは、明らかな越権行為だ。自由にものを考える権利がないところに民主主義は成り立たない。

吉川稲美氏 東京商工会議所教育改革委員会副委員長
道徳など精神論の重視を評価

個人の自由を強調する現行法の元で育った世代は「公の精神」が薄れ、価値判断の基準が分からず、子どもたちに何を教えていいか分からなくなっている。だから、「公共の精神を尊ぶ」ことや「道徳心を培う」ことなど、改正案が精神論を重んじている点はよかった。

「伝統の継承」や「我が国と郷土を愛する」という表現もそうだ。自分の国に誇りを持って初めて、対外的にも活躍ができる。そういう意味では大いに期待したい。

ただ、国を愛する「態度」というのはひっかかる。態度は「心」があって初めて生まれてくるものだからだ。

不足しているのは、「報恩」と「感謝」の理念。自分たちは一人で生きていけるのではなく、ともに生かされている。そのことに恩と感謝を感じることが、教育の出発点だと思うし、子どもたちに教えてほしいからだ。

問題は、改正案の理念を、どこまで実践できるか。それには地域や先生が愛情を持って子どもたちに接していくことが重要だ。

愛情とは、厳しいことでも必要なときには言えること。改正案には「生涯学習」の理念もうたわれており、大人も自分を培っていかなければならない。

競争社会になって、物事の価値基準を利益優先に置きすぎるが故に、「徳」が薄れてきた。その意味では経済界にも責任はある。

法改正をめぐって中国や韓国には独自の考え方があると思うが、経済的な影響があるとは思っていない。どの国も自分の国の教育を真剣に考えるのは、当然。法改正案作成までの与党の協議は、公開した方が国民の関心が高まったと思う。

いまの仕事を始める前、元首相の佐藤栄作先生の事務所にいたことがある。先生は、決断するときには写経をなさった。その後ろ姿に言いしれぬ威厳を感じた。私たち大人が子どもたちに、生きる姿勢をもっと真剣に見せることが、本当の意味での教育だと思う。

朝日新聞 2006年 5月11日

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朝日新聞 2001年5月23日 「私の視点」
創価学会名誉会長 池田 大作
教育基本法 見直すより大いに生かせ

「艱難(かんなん)に勝る教育なし」――ギリシャの箴言(しんげん)と記憶している。

教育は観念ではない。頭脳だけでもない。実践であり正義である。「人格の向上」と「社会の繁栄」と「世界の平和」の源泉こそ、教育の本義であると私は思う。

かつて内村鑑三は、近代日本の教育が“艱難を避ける方法”を授け、才子ばかりをつくっていると嘆いた。本来、教育は“艱難に打ち勝つ力”を育(はぐく)むものでなければならない。

昨今、教育改革が政治日程に上るなか、小泉政権の下でも「教育基本法」の見直しが論議されている。

私自身は、拙速は慎むべきであると考える。基本法の眼目である「人格の完成」など、そこに掲げられた普遍的な理念は、教育の本義に則(のっと)ったものであり、新しい世紀にも、十分、通用するからだ。

たしかに、基本法がうたう「人格」や「個性」は抽象的だという指摘もある。しかし、憲法に準ずる基本法の性格を考えれば、抽象性ゆえの普遍性は、むしろメリットとして、大いに生かせるのではなかろうか。

第一に、「グローバリゼーション(地球一体化)」は、とどめようのない時流である。そこでは、国益と同時に人類益への目配りが欠かせない。普遍的かつ世界市民的な視野を養うことが、ますます重要になる。

第二に、「教育勅語」に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまうからだ。

現代は、あらゆる既成の権威が色あせ、家族という人類最古の共同体までも“ゆらぎ”に直面している。その底流を直視せずに、教訓的な徳目を並べても、復古調の押しつけとして反発されるだけで。

もとより私は、日本の歴史や伝統文化を軽んずるのではない。逆である。

軍部権力と対決して獄死した、ある卓越した教育者は「慈愛、好意、友誼(ゆうぎ)、親切、真摯」しんし)、質朴等の高尚なる心情の涵養(かんよう)は、郷里を外にして容易に得ることはできない」と述べた。地域や郷土に根ざした固有の文化や伝統を尊重してこそ、豊かな人格の土台も築かれる。

ただ、そうした心情の涵養、人格の形成は、外からの「押しつけ」ではなく、徹して「内発的」に成されるべきである。

周知のように、基本法は、アメリカのデューイの教育哲学と親近している。デューイも内発的な精神性を重視し、それを引き出すものこそ教育であり、「人間は、教育によって人間となる」と断じた。「内発」こそ、教育改革のキーワードでなければなるまい。

私自身、教育を生涯の事業として取り組んできた。すべての子どもの生命にある「伸びゆく力」と「創造力」を開花させるのは、やはり教育の現場、また家庭や地域における、人格と人格の触発以外にない。

目指すべきは「教育のための社会」である。社会のために教育があるのではない。教育のために社会があり、国家がある。発想を大きく転換して、21世紀こそ、子どもたちが「生きる歓び(よろこび)」に輝く世紀としていきたい。

大胆に改革を提唱する小泉純一郎首相も、教育に関する発言は、まだ少ないのではないかという印象を、国民は受けている。

未来のために最も重要であり、世界の平和と文化の創造の根本であり、人間が人間として幸福になるための真髄である教育を、ぜひ、忘れないでいただきたい。

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