地方紙社説(〜2006年5月)


■2006年1〜5月
2006年5月30日 西日本新聞 大幅延長の必要はない 国会会期
2006年5月25日 西日本新聞 急ぐ理由が理解できない 教育基本法改正
2006年5月25日 愛媛新聞 教育基本法改正案 拙速の審議は避けるべきだ
2006年5月24日 神戸新聞 「慎重な議論を」声強く 教育基本法改正案きょう審議入り
2006年5月21日 日本海新聞 教育基本法 実態踏まえ丁寧な審議を
2006年5月20日 沖縄タイムス 教育基本法改正案 愛国心強制する結果招く

2006年5月19日 宮崎日日 教育基本法改正案 実態踏まえた丁寧な審議を
2006年5月19日 山陰中央新報 慎重審議を尽くすべき
2006年5月19日 岐阜新聞 教育基本法改正案 実態踏まえ丁寧な審議を
2006年5月19日 北日本新聞 教育基本法 変えれば良くなるのか
2006年5月19日 中国新聞 教育基本法改正案 強行採決避ける道探れ
2006年5月18日 福島民報 「愛国心」 与野党はもっと語れ
2006年5月17日 熊本日日 現実感乏しい教育基本法改正
2006年5月17日 京都新聞 教育基本法審議 気になる「強制」「便乗」
2006年5月17日 東京新聞 教育基本法 じっくり議論を深めて
2006年5月17日 新潟日報 教基法改正案 「大計」は時間をかけて
2006年5月17日 信濃毎日新聞 教育基本法 改正論議の行方が心配だ
2006年5月17日 北海道新聞 教育基本法 民主党案も納得できぬ

2006年5月12日 河北新報 教育基本法改正案 拙速な審議は避けるべきだ
2006年5月8日 福井新聞 教育基本法改正 愛国心でかすむ具体性
2006年5月7日 北海道新聞 教育基本法 拙速審議は禍根を残す
2006年5月1日 神奈川新聞 教育基本法改正
2006年4月30日 京都新聞 教育基本法改正 将来像の明確な説明を
2006年4月30日 沖縄タイムス 教育基本法改正案 国民の疑問に応えよ
2006年4月29日 東京新聞 条文化にはなじまない 愛国心
2006年4月29日 琉球新報 教育基本法・改正急ぐ状況ではない/理念を生かす施策こそ必要
2006年4月28日 信濃毎日新聞 教育基本法 改正を急ぐべきでない
2006年4月16日 北国新聞 教育基本法改正 「郷土愛」をはぐくんでこそ
2006年4月16日 徳島新聞 教育基本法改正案 論議がもっと必要だ
2006年4月15日 宮崎日日新聞 教育基本法改正案 愛国は強制して生まれるのか
2006年4月15日 岐阜新聞 教育基本法改正 「愛」は強制できるのか
2006年4月15日 熊本日日新聞 教育基本法改正 「愛国」命じれば心育つのか
2006年4月14日 中日新聞 あわてる必要はない
2006年4月14日 北海道新聞 教育基本法 「愛国心」強制を恐れる
2006年4月14日 新潟日報 教育基本法 改正の理念が見えない
2006年4月14日 神戸新聞 教育基本法 改正への理解得られるか
2006年4月14日 山陽新聞 教育基本法改正 将来に禍根残さぬ議論を
2006年4月14日 高知新聞 【教基法改正】荒廃は解決できない
2006年4月14日 琉球新報 教育基本法改正案 愛国は強制するものでない
2006年4月14日 東奥日報 教育基本法改正 愛国心は強制できるか
2006年4月14日 中国新聞 なぜそんなに急ぐのか 教育基本法改正案
2006年4月14日 愛媛新聞 教育基本法改正案 内心を縛る懸念はぬぐえない
2006年4月14日 沖縄タイムス [愛国心]強制では生まれない
2006年4月14日 京都新聞 教育基本法改正  文章いじりに終始した
2006年4月14日 信濃毎日新聞 教育基本法 なぜ今、愛国心なのか
2006年4月14日 河北新報 教育基本法改正 幅広く国民の意見を聞いて
2006年4月2日 中日新聞 “自由”を問い直す 週のはじめに考える

■2005年以前
2005年8月15日 北国新聞 終戦記念日 「日本人」の意識を育てたい
2003年5月7日 沖縄タイムス 愛国心評価 心の管理は許されない
2003年3月24日 神戸新聞 教育基本法 まだまだ議論が足りない
2003年3月22日 沖縄タイムス 教育基本法改正  「公」重視の見直しだ
2002年11月16日 沖縄タイムス 教育基本法見直し 公でなく個の尊厳こそ
2002年11月16日 東奥日報 見切り発車の中教審報告
2002年11月15日 神戸新聞 教育基本法 負の改正なら納得できぬ
2001年11月28日 神戸新聞 教育基本法 「改正」を急ぐよりも
2001年11月28日 東奥日報 教育再生へじっくり審議を
2001年11月28日 沖縄タイムス 教育基本法 見直しより生かす道を


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西日本新聞社説 2006年5月30日
大幅延長の必要はない 国会会期

国会は6月18日の会期末が迫り、会期延長問題が焦点になってきた。

小泉純一郎首相は一貫して、会期延長には消極的だ。自民党執行部にも、小幅な延長はあっても大幅延長は非現実的、との空気が強い。

にもかかわらず、同党内には大幅延長を求める声が消えない。とりわけ、教育基本法の改正に熱心な勢力にそうした声が強い。

自民党内には、教育基本法改正案だけでなく、与党が単独で国会に提出したばかりの国民投票法案の処理にめどをつけたい、との思惑もあるようだ。

自民党にとっては、いずれも長年の懸案だ。高い支持率を維持している小泉首相の在任中に、一挙に処理してしまおうとの計算もうかがえる。

だが、教育や憲法は国の将来にかかわる重いテーマだ。しかも政府、与党が提出した法案には、国民の間に根強い異論がくすぶっている。会期延長して駆け込み処理を図るような問題ではない。

私たちは両法案について、急がずにじっくり論議を重ねるべきだと主張してきた。両法案の成立を念頭においた会期延長には反対だ。

小泉首相がいまだ高支持率を保っているといっても、4カ月後には退陣する身だ。国民世論を二分しそうな微妙な問題は、じっくり議論を重ねるためにも、次以降の政権に委ねるのが筋ではないだろうか。

政府が今国会に提出した重要法案のうち、5年に及ぶ「小泉改革」の総仕上げと位置付けられる行政改革推進法が既に成立した。国民の負担増を伴う医療制度改革関連法も、成立が濃厚だ。

それで政府・与党サイドに余裕と欲が出てきたのか、防衛庁を「省」に昇格させる法案の今国会提出を模索する動きまで浮上している。

この法案は、防衛施設庁の官製談合事件に対する国民の批判を受けて、お蔵入りになっていたはずだ。それが息を吹き返しそうなのも、国会の会期延長論に連動している。

こんなどさくさ紛れの動きが急浮上するようでは、会期延長の必要性に関する疑問はさらに募る。

国民の政治的関心が、「ポスト小泉」を決める9月の自民党総裁選に移りつつあることも指摘しておきたい。

その総裁レースでは、小泉政治のどの部分を継承し、どの部分を改めるのかが争点になりつつある。日本の今後にかかわる重要な問題であり、論争を深めてほしいテーマだ。

ただ、総裁候補と目される人の多くは現職閣僚であり、国会開会中は何かと、総裁選絡みの言動は制約を受ける。

彼らに日本の針路を大いに論じてもらうためにも、今国会は会期通りに閉じるのが良策ではないのか。延長するにしても、必要最小限にとどめるべきだ。

西日本新聞社説 2006年5月25日
急ぐ理由が理解できない 教育基本法改正

教育基本法を改正する政府案に対して民主党が対案となる「日本国教育基本法案」を提出し、衆院の教育基本法特別委員会で24日、実質審議入りした。

戦後教育の指針となってきた「教育の憲法」を全面的に見直すかどうか。重要な国会審議の幕開けである。多くの国民が政府の考え方に関心を寄せ、与野党の論戦に注目していたはずだ。

だが、残念ながら、小泉純一郎首相や小坂憲次文部科学相の答弁を聞いた限りでは「なぜ今、教育基本法を改正する必要があるのか」という素朴で根本的な疑問は解消されなかった。

首相は改正の理由について「個人の権利も大事だが、同時に礼節や自立心、公共道徳などは今のままでいいのか。戦後60年で、(教育基本法を改正する)いい機会ではないか」などと答弁した。

自民党は憲法とともに教育基本法の改正を「党是」としてきた。同党総裁でもある首相の発言は、こうした保守の基本姿勢を代弁したものだろう。

だが、会期の残りが1カ月を切った終盤国会でようやく実質審議に入った法案を「ぜひ今国会で成立させたい」理由としては明らかに説得力を欠く。

首相はまた、「与野党で対立法案になる法律ではない」とも強調した上で、民主党案にも一定の理解を示し、「共通認識を持てると期待している」と述べた。 であるならば、与党が改正案を論議する段階から、野党にも協議を呼び掛けるべきではなかったか。国民的な論議が盛り上がらないまま、政府案が唐突に閣議決定され、国会へ提出された印象を国民に与えているのも無理はない。

その意味では「憲法と同様に衆参両院に調査会を設け、1、2年かけて与野党でじっくり論議してはどうか」という民主党の提案は傾聴に値する。

焦点の「愛国心」について、首相は「国家というもの(に対して)は誰もが自然に愛国心が芽生える。日ごろの生活の中ではぐくむものだ」とも語った。

だとすれば、あえて法律に書き込む必要はあるのか。「ひとつの価値観を強制するものではない」(首相)としても、疑問に感じた国民は少なくないはずだ。

「我が国と郷土を愛する態度」を養うとした政府案と、「日本を愛する心を涵養(かんよう)」するとした民主党案について、首相は「大きな違いがあるとは思えない」とあっさり答弁した。

残り時間が限られた中で、与野党の歩み寄りを促し、法案の成立を最優先させようとする首相のしたたかな戦略かもしれない。だが、国民の間でも賛否が分かれる重要な法案で対立軸があいまいになるような国会審議は御免だ。
「国家100年の大計」といわれる教育の根幹を論議する重大な局面である。いたずらに急ぐ必要はない。徹底的な国会論戦をあらためて与野党に求めたい。拙速は将来に禍根を残すだけである。

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愛媛新聞社説 2006年5月25日
教育基本法改正案 拙速の審議は避けるべきだ

終盤国会の目玉である教育基本法の改正案が、衆院特別委員会で実質審議入りした。

六月十八日の会期末まで実質の審議期間はわずかしかなく、順調に審議が進んでも衆院通過はぎりぎりになるとみられる。ただ、小泉純一郎首相は会期延長に否定的で、今国会での成立を目指すとしている。

だれが見ても日程が苦しいのに、今国会の成立にこだわるのはおかしい。教育の憲法ともいえる基本法を改正するのなら、国民の意見を十分に聞き、国会では慎重に審議すべきだ。

ぎりぎりの期間で拙速に審議するようなことは断じて避けなければならない。

それにしても不審なのは、特別委の審議を聞いていても、今なぜ教育基本法を改正するのかという根本の疑問が解消しないことである。

改正の意義を問われた小泉首相は「あいさつやありがとうを言わない子どもや大人が増えてきた。学校に行かない子やいじめもなくならない」などと答弁している。

あいさつなどは家庭や学校で教えているだろうし、教えてなければ指導すればいいことだ。なぜ基本法まで変えるのか、という答えにはなっていない。

改正案は前文で「公共の精神を尊び」とあるように、公共性を重視する姿勢を打ち出している。あいさつの勧めなどはその一環だろうが、果たして法律で強制することだろうか。

「学校に行かない子やいじめもなくならない」という説明もどうだろう。現在の教育現場の荒廃はゆがんだ受験体制、受験教育が原因になっている部分が多いと思われる。

「公共心」や「国と郷土を愛する態度」などを条文化したからといって不登校やいじめ、非行がなくなるとは思えない。法改正よりもっと先にやるべきことはいっぱいあるはずだ。

小泉首相が家庭教育の重要性などに言及する際、よく「法律以前の問題」という言葉を使う。まさに法律以前にやるべき課題が多いのであり、基本法改正の緊急性はないはずだ。

特別委で答弁する首相を見ていると、どこか表情がうつろで答弁に熱意が感じられない。首相は本当に法改正の必要性を感じているのか。そんな疑いさえ持ってしまう。

現在の基本法のどこがどう問題なのか。それをはっきり国民に説明できないのでは、改正案を持ち出す資格はない。首相には説明責任をしっかり果たすよう求めたい。

民主党は対案の「日本国教育基本法案」をまとめ提出した。懸案の「愛国心」については、政府案が「我が国と郷土を愛する態度」とぼかした表現をしたのに対し、民主党案は「日本を愛する心を涵養(かんよう)」とストレートに表現している。教育予算の確保を重視する姿勢をアピールしていることなども特徴だ。

「態度」と「心」はどう違うのか、など両案をじっくり比較検討することも必要だ。そのためにも、時間を十分かけて審議しなければならない。

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神戸新聞 2006年5月24日
「慎重な議論を」声強く 教育基本法改正案きょう審議入り

「愛国心」に関する表現をめぐり、二十四日に衆院特別委員会で審議入りする教育基本法改正案について、兵庫県内でも集会や街頭活動など動きが活発になっている。目立つのは「国民的議論が尽くされていない」「法律で縛るのはなじまない」と慎重さを訴える声だ。一方、兵庫県教委はもっと日本の文化や歴史を教えようと、独自科目を設ける動きを強めている。国を愛する心とは。学校現場で何を教えるのか。約六十年ぶりの法改正は多くの論点を突き付けている。

政府案は「我が国と郷土を愛する態度を養う」と条文で表記。民主党は「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」との表現を前文に入れた対案を示す。

これに対し、県弁護士会は「国民への説明と議論が不十分」と反対声明を発表、集会を開いた。

教育現場では、県教職員組合が法改正に反対するチラシを二十万枚作製、一般家庭のポストへの配布を始めた。山名幸一委員長代行は「基本法は学習指導要領などすべての根拠となる。『国を愛する態度を養う』視点の教科書ができ、授業内容まで強制される恐れがある」。一方で「現場教師が法改正の意味合いを十分分かっていない」と危ぐする。

県高校教職員組合も五月末と六月初めに、ターミナルなどでビラ配りや署名集めを計画。「今国会で成立させるのはあまりにも拙速」(永井章夫書記長)との立場だ。

違う視点から法改正に異議を唱える声もある。県教委がつくろうとしている高校の科目「日本の文化(仮称)」。歌舞伎や茶道など文化・芸能について由来や歴史的背景を学ぶ。来年度からの全県立高校導入に向け、近く副読本作成が始まる。

構想委員長を務める中村哲・兵庫教育大大学院教授(和文化教育)は「法律への明記は子どもの価値観やものの見方を強制することにつながり、教育になじまない」と指摘。「国を愛する気持ちは大切だが、目的にするものではない。(科目作成のように)具体的で自然なアプローチこそ気持ちが培われる」と話す。

県教委の岡野幸弘教育次長も「自分の国を知り、発信できる生徒を育てるのがねらいだ」と、国会での法改正との違いを強調している。(徳永恭子、宮本万里子)

教育基本法改正 教育基本法は1947年に施行、「教育の憲法」と呼ばれる。改正案議論の焦点は「愛国心」に関する表現。政府案では第二条に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」。民主党の対案は前文に盛り込み、「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い(中略)他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求することである」としている。

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日本海新聞社説 2006年5月21日
教育基本法 実態踏まえ丁寧な審議を

終盤国会の焦点となっている教育基本法改正案の審議が衆院で始まった。会期末まで残りはほぼ一ヶ月。与党側は特別委員会で集中審議し、成立を急ぐ構えだが、政府側の説明を聞いても相変わらず、なぜ今基本法改正なのかという肝心の要点がはっきりしないままだ。

大人の側に余裕必要

小泉純一郎首相は改正案提出の本会議で「法制定から半世紀経過し、教育を取り巻く状況は大きく変化。道徳心や自立心、公共の精神なども重視が求められている」「新しい教育理念を明確にして国民の共通理解図り、国の未来を切り開く教育の実現を目指す」と改正理由を述べている。

情報化や少子高齢化が進み、家族や地域の変容など教育を取り巻く状況が変化し、いじめ、校内暴力、若者の意欲の低下などの問題が生じているのは確かだが、そうした問題を基本法のせいにするのは無理がある。

むしろ都市化や消費社会の拡大が進み、家庭、学校、地域社会が力をそぎとられる中でそうした問題が増幅されていると見るべきである。

十七日の党首討論で小泉首相は法律以前に「子どもが愛されていると体全体で感じることが大切」と訴えたが、今起こっているさまざまな少年の凶悪犯罪事件の背後には、だれにも受け止めてもらえず、自己肯定できない多くの子どもたちの姿がある。

子どもをゆったりと受け止めるためには、大人の側に余裕がなければならない。親が子どもにじっくり向き合う余裕を持てないことは極めて深刻な問題なのである。

家庭崩壊につながる経済格差の拡大や、長時間労働の問題などは結局、家庭から余裕を奪い、自分を肯定できない子どもを生み出していく。政治に問われているのは、子どもたちの心の基盤を支えるための具体的な施策であり、基本法の文言を書き換えることではないはずだ。自分が大切だと思えない子どもに、相手を思いやる道徳心は育たない。

なぜ改正か明確に

改正案が教育目標に盛り込んだ「国と郷土を愛する態度」について小坂憲次文部科学相は「態度を養うことと心を養うことは一体と考える」と答弁した。与党協議で公明党に配慮して、「心」を「態度」と和らげた表現にしたように見えるが、根っこは同じだ。

心にはさまざまな形がある。それをひとつの態度でくくるようなことになれば、憲法が保障する内心の自など絵に描いたもちだ。

小泉首相は「児童や生徒の内心に立ち入って強制するものではない」と答弁したが、平行して進む学習指導要領の改定作業で到着目標明確化の方針が出ている。結果的に限りなく強制に近い指導ということになりかねない。

小泉首相は特別委員会で精力的に審議し今国会で成立させる意向を示しているが、なぜ今基本法改正なのか、具体的に明らかにする必要がある。

七十回を数えたという与党協議も、どんなやりとりだったのか、不明のままだ。条文は抽象的で、具体的なイメージを抱くには無理がある。野党が求めるように、与党協議の会議録を公表すべきだ。

ほかならぬ教育の基本法を改正しようというのである。首相がいうように「国民の共通理解」を得ようというなら、実態を踏まえた丁寧な審議が不可欠だ。急ぐ必要はない。


沖縄タイムス社説 2006年5月20日
教育基本法改正案
愛国心強制する結果招く

終盤国会の焦点である教育基本法改正案の審議が衆議院で始まった。会期末まで約一カ月。与党は特別委員会で集中審議し、成立を急ぐ構えだ。

しかし今改正の必要があるのか疑問だ。法案は戦後教育を大転換する内容で、当事者である子どもたちの立場にたった幅広い論議が必要だ。

教育基本法は日本国憲法とともに「個の尊重」を重視する戦後教育を支えてきた。両法は双生児のような存在と表現してもいい。

法改正を目指す根底には、憲法改定の前に、まず教育基本法からという思惑もあるのだろう。それだけに今回の改正の意味合いは重大である。

小泉純一郎首相は改正案提出の本会議で「法制定から半世紀経過し、教育を取り巻く状況は大きく変化。道徳心や自立心、公共の精神などの重視が求められている」「新しい教育理念を明確にして国民の共通理解を図り、国の未来を切り開く教育の実現を目指す」と改正理由を述べている。

これまで、少年の凶悪犯罪などが発生するたびに、保守的勢力は伝統の尊重の否定が公共心の希薄化につながり、個の尊重が無責任を生んできたなどと批判してきた。

しかし、凶悪な少年犯罪の発生と教育基本法を直接結び付けて論じるのは論理が飛躍し過ぎている。

情報化や少子高齢化、核家族化などが進み、家族や地域の変容など教育を取り巻く環境が変化し、いじめや校内暴力、若者の意欲の低下などの課題が生じているのは確か。しかし、こうした問題を教育基本法だけのせいにするのは無理がある。

都市化や消費社会化が進み、家庭、学校、地域社会が力を失う中で、こうした種々の問題が増幅されているとする見方に説得力がある。

こうした問題に法改正で対処する考え方では、処方せんを誤ってしまう。

焦点の愛国心について、改正案は教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」としている。だが、その内実は愛国心と同じではないか。

小泉首相は「児童や生徒の内心に立ち入って強制するのではない」と答弁しているが、並行して進む学習指導要領の改定作業で到達目標明確化の方針が出ている。

憲法が保障する思想・良心の自由、内心の自由に、公権力が踏み込むような結果を招きかねない危険性がある。未来を担う子どもたちを、国にとって都合のいい存在に育てかねない。

法的な義務はないと確認したはずの国旗国歌法のその後の運用をみても、強制につながらないとは言えない。

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宮崎日日(2006年5月19日)
教育基本法改正案
実態踏まえた丁寧な審議を

終盤国会の焦点となっている教育基本法改正案の審議が衆院で始まった。会期末まで残り1カ月。与党側は特別委員会で集中審議し、成立を急ぐ構えである。

だが、政府の提案理由の説明でも、なぜ今基本法改正なのかという肝心な点がはっきりしないままだ。

小泉純一郎首相は今国会で成立させる意向を変えていない。教育の根本法を改正するのである。首相がいうように「国民の共通理解」を得ようというのなら、実態を踏まえた丁寧な審議が不可欠である。

増幅される少年問題

首相は改正案提出の本会議で「法制定から半世紀経過し、教育を取り巻く状況は大きく変化。公徳心や自立心、公共の精神などの重視が求められている」「新しい教育理念を明確にして国民の共通理解を図り、国の未来を切り開く教育の実現を目指す」と改正理由を述べている。

情報化や少子高齢化が進み、家族や地域の変容など教育を取り巻く状況が変化し、いじめ、校内暴力、若者の意欲低下などの課題が生じていることは確かである。

しかし、こうした問題を基本法のせいにするのは無理がある。むしろ、都市化や消費社会の拡大が進み、家庭、学校、地域社会が力をそぎ取られる中で、これらの問題が増幅されているとみるべきだ。

首相は17日の党首討論で法律以前に「子どもが愛されていると体全体で感じることが大切」と訴えた。いわゆる「愛されている実感」のことを指している。今起こっているさまざまな少年の凶悪事件の背後には、誰にも受け止めてもらえず、自己肯定できない多くの子どもたちの姿がある。

与党会議録公表せよ

子どもをゆったりと受け止めるためには、大人側に余裕がなければならない。親が子どもにじっくり向き合う余裕を持てないことは極めて深刻な問題なのである。

家庭崩壊につながる経済格差の拡大や長時間労働の問題などは結局、家庭から余裕を奪い、自分を肯定できない子どもを生み出していく。政治に問われているのは子どもたちの心の基盤を支える具体的な施策であり、基本法の文言を書き換えることではないはずだ。自分が大切だと思えない子どもに相手を思いやる道徳心は育たない。

改正案が教育目標に盛り込んだ「国と郷土を愛する態度」について、小坂憲次文部科学相は「態度を養うことと心を養うことは一体と考える」と答弁した。与党協議で公明党に配慮して、「心」を「態度」と和らげた表現にしたように見えるが、根っこは同じだ。

心にはさまざまな形がある。それを一つの態度でくくるようなことになれば、憲法が保障する内心の自由など絵に描いたもちだ。

首相は「児童や生徒の内心に立ち入って強制するものではない」と答弁した。だが、並行して進む学習指導要領の改定作業で到達目標明確化の方針が出ている。結果的に限りなく強制に近い指導ということになりかねない。

自民、公明両党の与党協議は70回を超えたというが、どんなやりとりがあったのか。不明のままである。改正案の条文は抽象的であり、具体的なイメージを抱くには無理がある。理解するためにも野党が求めているように、与党協議の会議録を公表すべきだ。

会期末までに審議が深まるとは思えず、基本法改正は急ぐ必要はない。

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山陰中央新報(2006年5月19日)
慎重審議を尽くすべき

教育基本法改正案の審議が衆院で始まった。国会の会期末まで残りほぼ一カ月となり、与党側は特別委員会で集中審議して成立を急ぐ構えだ。だが、政府側の説明を聞いても相変わらず、なぜ今基本法改正なのかという肝心の点がはっきりしない。終盤国会の焦点となっており、国民の共通理解を得られる丁寧な審議をすべきだ。

小泉純一郎首相は改正案提出の本会議で「法制定から半世紀経過し、教育を取り巻く状況は大きく変化。道徳心や自立心、公共の精神などの重視が求められている」「新しい教育理念を明確にして国民の共通理解を図り、国の未来を切り開く教育の実現を目指す」と改正理由を述べた。

情報化や少子高齢化が進み、家族や地域の変容など教育を取り巻く状況が変化し、いじめ、校内暴力、若者の意欲の低下などの課題が生じているのは確かだが、そうした問題を基本法のせいにするのはそもそも無理がある。むしろ、都市化や消費社会の拡大が進み、家庭、学校、地域社会が力をそぎ取られる中で、そうした問題が増幅されているとみるべきである。

小泉首相は十七日にあった党首討論で、法律以前に「子どもが愛されていると体全体で感じることが大切」と訴えたが、昨今の少年の凶悪事件の背後には誰にも受け止めてもらえず、自己肯定できない多くの子どもらの姿がある。

だが、大人の側に余裕がなければ、子どもをゆったりと受け止めることは難しい。親が子どもにじっくり向き合う余裕を持てないことは、極めて深刻な問題だ。

家庭崩壊につながる経済格差の拡大や長時間労働の問題などは結局、家庭から余裕を奪い、自分を肯定できない子どもを生み出す。政治に問われているのは、子どもたちの心の基盤を支えるための具体的な施策であり、基本法の文言を書き換えることではない。自分が大切だと思えない子どもに、相手を思いやる道徳心は育たない。

改正案が教育目標に盛り込んだ「国と郷土を愛する態度」について小坂憲次文部科学相は「態度を養うことと心を養うことは一体と考える」と答弁した。与党協議で公明党に配慮して、「心」を「態度」と和らげた表現にしたように見えるが、根っこは同じだ。

心にはさまざまな形がある。それを一つの態度でくくるようなことになれば、憲法が保障する内心の自由など絵空事だ。

小泉首相は「児童や生徒の内心に立ち入って強制するものではない」と答弁したが、並行して進む学習指導要領の改定作業で到達目標明確化の方針が出ている。結果的に限りなく強制に近い指導ということになりかねない。

小泉首相は特別委員会で精力的に審議し今国会で成立させる意向を示しているが、なぜ今基本法改正なのか、具体的に明らかにする必要がある。七十回を数えたという与党協議も、どんなやりとりだったのか。条文は抽象的で、具体的なイメージを抱くには無理がある。野党が求めるように、与党協議の会議録を公表すべきだ。

「教育の憲法」と位置付けられた根本法の初の抜本改正。首相がいう「国民の共通理解」を得ようとすれば、実態を踏まえた審議が不可欠だ。急ぐ必要はない。

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岐阜新聞(2006年5月19日)
教育基本法改正案
実態踏まえ丁寧な審議を

終盤国会の焦点となっている教育基本法改正案の審議が衆院で始まった。会期末まで残りほぼ一カ月。与党側は特別委員会で集中審議し、成立を急ぐ構えだが、政府側の説明を聞いても相変わらず、なぜ今基本法改正なのかという肝心の点がはっきりしないままだ。

小泉純一郎首相は改正案提出の本会議で「法制定から半世紀経過し、教育を取り巻く状況は大きく変化。道徳心や自立心、公共の精神などの重視が求められている」「新しい教育理念を明確にして国民の共通理解を図り、国の未来を切り開く教育の実現を目指す」と改正理由を述べている。

情報化や少子高齢化が進み、家族や地域の変容など教育を取り巻く状況が変化し、いじめ、校内暴力、若者の意欲の低下などの課題が生じているのは確かだが、そうした問題を基本法のせいにするのは無理がある。

むしろ都市化や消費社会の拡大が進み、家庭、学校、地域社会が力をそぎ取られる中でそうした問題が増幅されているとみるべきである。

十七日の党首討論で小泉首相は、法律以前に「子どもが愛されていると体全体で感じることが大切」と訴えたが、今起こっているさまざまな少年の凶悪事件の背後には、だれにも受け止めてもらえず、自己肯定できない多くの子どもたちの姿がある。

子どもをゆったりと受け止めるためには、大人の側に余裕がなければならない。親が子どもにじっくり向き合う余裕を持てないことは、極めて深刻な問題なのである。

家庭崩壊につながる経済格差の拡大や長時間労働の問題などは結局、家庭から余裕を奪い、自分を肯定できない子どもを生み出していく。政治に問われているのは、子どもたちの心の基盤を支えるための具体的な施策であり、基本法の文言を書き換えることではないはずだ。自分が大切だと思えない子どもに、相手を思いやる道徳心は育たない。

改正案が教育目標に盛り込んだ「国と郷土を愛する態度」について小坂憲次文部科学相は「態度を養うことと心を養うことは一体と考える」と答弁した。与党協議で公明党に配慮して、「心」を「態度」と和らげた表現にしたように見えるが、根っこは同じだ。

心にはさまざまな形がある。それを一つの態度でくくるようなことになれば、憲法が保障する内心の自由など絵に描いたもちだ。

小泉首相は「児童や生徒の内心に立ち入って強制するものではない」と答弁したが、並行して進む学習指導要領の改定作業で到達目標明確化の方針が出ている。結果的に限りなく強制に近い指導ということになりかねない。

小泉首相は特別委員会で精力的に審議し今国会で成立させる意向を示しているが、なぜ今基本法改正なのか、具体的に明らかにする必要がある。

七十回を数えたという与党協議も、どんなやりとりだったのか、不明のままだ。条文は抽象的で、具体的なイメージを抱くには無理がある。野党が求めるように、与党協議の会議録を公表すべきだ。

ほかならぬ教育の根本法を改正しようというのである。首相がいうように「国民の共通理解」を得ようというなら、実態を踏まえた丁寧な審議が不可欠だ。急ぐ必要はない。

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北日本新聞(2006年5月19日)
教育基本法
変えれば良くなるのか

政府が提出した教育基本法改正案の審議が衆院で始まった。制定から六十年近く経過し、社会の変化とともに教育をめぐるさまざまな問題が出てきたため、根本にさかのぼって改革するのだという。

確かに、学校では学級崩壊や学力低下、子ども同士のいじめや凶悪犯罪の低年齢化も深刻だ。国民の間にも、こうした問題を教育を変えることで解決してほしいという考えが根強い。しかし、基本法を変えれば良くなるのだろうか。

改正案で最も特徴的なのは、「教育の目標」として数多くの徳目が掲げられていることだ。情操と道徳心、健やかな身体、自立の精神、正義と責任…現行基本法にはなかった「公共の精神」や「伝統と文化を尊重する」、「我が国と郷土を愛する」も挙がっている。

こうした徳目自体に異を唱える人は恐らくいないだろう。抽象的文言であり、人によって異なる受け止め方も包摂されるからだ。しかし、いったん法律になれば、人それぞれでは済まなくなる。施策を実施する側の考えが、先生や子どもたちを縛ることは目に見えている。

法案をめぐる与党協議では、「愛国心」をどう盛り込むかが焦点だった。公明党が戦前のような国家主義教育につながることを恐れたからだが、「国」のほかに「郷土」を加え、「心」を「態度」に変えても、さほど違わない。小泉首相は「児童や生徒の内心に立
ち入って強制するものではない」と答弁したが、何をもって「国や郷土を愛する」とするかは、学習指導要領で示されることになる。

現行基本法は、憲法の理念に基づいて教育政策の基本方針や国、自治体、教育関係者がなすべきことに重点が置かれている。改正案は、国民はこうあるべきだと訓辞を垂れるようなものに変わり、さらに国や自治体に教育内容や教育計画策定などの権限を具体的に付与するものとなっている。上からの統制がより強化されるということである。

都市化や家族の変容、経済格差の拡大などで、子どもを取り巻く環境は悪化している。しかし、こうした社会の問題を教育に負わせても、何の解決にもならないだろう。むしろ、「教育の憲法」の精神主義への傾斜によって、教育現場が一層息苦しくなることを恐れる。

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中国新聞社説 (2006年5月19日)
教育基本法改正案
強行採決避ける道探れ

国会の会期末(六月十八日)まで、残り一カ月を切った。政府・与党は、終盤国会の焦点とされる教育基本法改正案などの処理をめぐり、会期延長に踏み切るのか。緊迫した局面も予想される。

改正の対象になっている教育基本法は、戦後間もない一九四七年に制定された。「教育の憲法」とも呼ばれる。法の施行から約六十年。初めての見直しは、この国のあすを担う子どもたちの生き方を大きく左右する影響力を持つ。

百年の計を誤らないためにも、拙速な審議は厳に慎みたい。強行採決など数に頼んだ強引な国会運営では、とても国民の理解は得られまい。

政府・与党は今国会での法案成立を目指し、十六日の衆院本会議で提案の趣旨を説明。審議は始まったばかりだ。与野党の立場の開きの大きさなどから、与党内には「四十日程度の大幅な会期延長は不可避」との見方もある。秋の自民党総裁選期日もにらみながら、与野党間の激しい駆け引きが続きそうだ。

こうした状況の中、与党内で強行採決への誘惑が高まることは想像に難くない。医療制度改革関連法案が、委員会での強行採決を経てきのうの衆院本会議で可決され、直ちに参院に送付されているだけに、なおさらである。

おとといの党首討論で、民主党の小沢一郎代表は小泉純一郎首相に審議が煮詰まらないままの強行採決を控えるように要請。小泉首相も賛意を示した。小沢代表が主張するように、重要法案であればあるほど少数意見に耳を傾けることは、健全な民主主義を守り育てるために不可欠の要件だ。首相の賛意が本当なら、今後の審議にリーダーシップを発揮すべきだ。

審議入りした教育基本法改正案の最大の特徴は、政府・与党、民主党案ともに「愛国心」の表現が盛り込まれている点だろう。

政府・与党案は「我が国と郷土を愛する態度」などと、印象を薄めるのに腐心した跡が見える。一方の民主党案は、「強制力をもたせないように」と、与党案のように条文には明記せず、前文に挿入した。

しかし、共産、社民両党は「戦前回帰につながる」として廃案を主張。教育現場でも、戸惑いや反発が少なくない。

こうした隔たりが埋まらないまま、強行採決に至る事態は断じて避けなければならない。審議未了なら仕切り直しをすればいい。

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福島民報(2006年5月18日)
「愛国心」
与野党はもっと語れ

今国会は、6月18日の会期末まで1カ月を残すだけとなった。後半国会の大一番、小泉純一郎首相と民主党の小沢一郎代表との初の党首討論がきのう行われ、新時代の“教育の憲法”となる教育基本法改正について互いが穏やかな口調に熱い思いを込めて持論を展開した。

法案の焦点は、愛国心などの理念をどう盛り込むかにある。重要法案の一つであり、党首討論では法案の背骨になる「教育の責任」の在り方に絞って論じ合った。

この中で小沢代表は「実際に責任を持つのは地方の教育委員会だ。文科省は財政は握っているが、最終的な責任を問われない。改正の主眼はこのひずみを正すことだ」と政府案を批判した。首相は委員会での慎重審議に同意しただけで、双方、愛国心の本論には触れなかった。

焦点の愛国心の取り扱いに関して政府案は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我(わ)が国と郷土を愛する(中略)態度を養う」としている。愛国心と直接的には表現を避け、「国」と「愛」をあえて離した所に置く妥協が見られる。公明党が「戦前の国家主義を思い起こさせる」と難色を示したからだ。

とは言え、衆院本会議の質疑では野党から「“心”を“態度”と言い換えているが、結局は指導を通じて心の内側の自由を侵害することにつながる。“態度”はかえって強制を伴う評価の対象になりやすい」と反論が出た。首相は「我が国というのは歴史的、文化的な共同体を指すのであって、時々の政府や内閣を意味するものではない」とかわした。

さらに続けて「決して排他的な国家主義の道は歩まず、子どもたちを戦争へ追いやるようなことはない」と説明した。しかし「条文は読み方次第でいくらでも時代に合わせられる」として野党が抱く疑念は簡単には消えそうにない。

民主党は本会議や党首討論で明らかになった論点を整理し、月内にも対案を提出する。現時点の素案では規制の強い条文を避け、前文に愛国心のさわりを書き込む。ただし「日本を愛する心を涵養(かんよう)し、祖先を敬い(中略)伝統、文化、芸術を尊ぶ」と政府案よりも率直に表す。

法案の記述は表現が少し違うだけで趣旨は実によく似通っている。というより、こと愛国心のくだりでは民主党案の方がずっと保守的な印象を与える。本会議を受けて開く衆院特別委員会で存分に審議を重ねれば相互理解の接点を見いだせるのではないか。

改正案は3年前の通常国会で提出寸前まで進んだことがあるが、イラク情勢の緊迫化で日の目を見なかった。与党として今国会で成立させたいとの意欲が強く、首相の意とは別に会期延長の動きが高まっている。特に来夏は参院選を控え、公明党は自党の考え方を反映させた法案をぜひ通したいところだろう。

野党にもそれぞれ思惑はある。民主党は対案作成や国会戦略があって次期国会への継続審議に持ち込む構えを見せ、共産、社民党は改正を阻む。与野党の主張はなかなかかみ合わず、むしろ対決姿勢が一層際立ったといえる。国民の側も愛国心の受け止め方は千差万別だ。門口論争で終わった党首討論の続きは委員会でじっくり聞きたい。(渡辺 義男)

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熊本日日(2006年5月17日)
射程
現実感乏しい教育基本法改正

与党提出の教育基本法改正案が審議に入った。民主党も対案を提出する。国会会期中に成立するかどうか、国民の反応も影響しよう。

二つの改正案は現行の教育基本法と共通する部分も多い。結局、愛国心に関する表記が最大の違いだ。与党案が「我が国と郷土を愛する態度」としたのは、公明党が国家主義的な色彩が出ることに抵抗した結果という。

一方、民主党案は「日本を愛する心」と一歩踏み込んだ。与党内の対立を見た小沢一郎代表が「揺さぶり」をかけたと見る向きもある。安倍晋三官房長官も「政局的な意図が込められているのでは」と語った。どちらにせよ、永田町の教育の現状に関する理解度は低い。どれほど現実感のある論議ができるのか、注視したい。

政治家が国民の一体感低下に不安を感じるのは分かる。それが愛国心という形で語られるようだ。別の表現をすれば、格差拡大や階層化にかかわる問題でもあろう。しかし、その清算を教育に求めるべきだろうか。求めたとして、可能だろうか。会社の経
営に失敗した社長が、言葉だけは立派な社訓を残したがるような印象がどうしてもぬぐえない。

審議入りした十六日、熊本市内の中学校教諭に現在の悩みを聞くと、「PTA総会で保護者の私語が止まない。運動会の団体練習では生徒がまとまらない。人間関係がバラバラ。自分を大事にする感覚の低下も影響してますね。教育基本法の改正ですか…教師の関心は低く、話題にもなりません」。

現場はさめ切っている。(木)

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京都新聞 2006年5月17日
教育基本法審議
気になる「強制」「便乗」

一九四七年の制定以来、約六十年ぶりに全面改定した教育基本法改正案が、衆院で審議入りした。

野党は、民主党が対案の要綱をまとめ、月内にも法案化して国会に提出する。

終盤国会の最重要法案で、「愛国心」の取り扱いを含め、論点の多い法案だ。「教育の憲法」にあたる法だけに、政争の具とせずにじっくり審議を重ねてもらいたい。

改正案は現行法にない「大学」や「私立学校」をはじめ、「家庭教育」や「幼児期の教育」などを盛り込んだ十八条で構成されている。三年前の中教審答申を受け、与党の約三年に及ぶ協議結果を踏襲した内容となっている。

焦点の「愛国心」については、第二条の「教育の目標」の中で、「我が国と郷土を愛するとともに(中略)国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と表記している。戦前の国家主義的教育の弊害を恐れる公明党に配慮した。

一方、民主党は、「日本を愛する心を涵養(かんよう)」と明記する方針だが前文に入れることで強制力を持たせない配慮をする、としている

自分の国に愛着を感じ、誇りに思うことはごく自然な感情だ。問題は、これらの表現が基本法に盛り込まれることが現実の教育にどう具体的に影響するかで、そこがよく見えない。

教育現場では国旗・国歌をめぐる混乱が長く続いてきた。卒業式の君が代斉唱をめぐる教員の大量処分など、強権を行使してきた東京都教委の例もある。

本来、「強制」ほど教育になじまないものはない。今回の改定が「強制」に新たな根拠を与える恐れはないかが気になる。小泉純一郎首相は衆院本会議で「児童、生徒の内心の自由を侵害するものではない」と述べたが、教師の自由をどう考えているかも知りたい。

それも含めて要注意なのが、第十七条で国が定めるとしている「教育振興基本計画」の中身だ。同計画は、国が教育に責任を持つとも読めるし、地方への権限移譲を認めないとも読める。

国会では明言を避け、事後に省令などで意を通す省庁は珍しくない。基本法改正に「便乗」する形で、同計画が文科省にフリーハンドを与えることにつながらないか、チェックが必要だ。

その他、各条文を読めば、「公共の精神」「規律を重んじ」「保護者が子どもの教育に第一義的責任を有する」など、中身を確認したい記述も多い。

これらの疑問点に加え、民主党も対案を出すことを考えれば、拙速な審議は論外だ。小泉首相は会期延長の考えを重ねて否定している。

与党の法案協議は非公開だった。約六十年ぶりの全面改定の割に国民への啓発は乏しい。時代に合った見直しは必要だが、本当に内心の自由を侵す恐れがないか十分な点検が要る。百年の計を誤らぬためにも慎重に事を進めるのは当然だ。

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東京新聞社説(2006年5月17日)
教育基本法
じっくり議論を深めて

教育基本法改正案の審議が、衆議院で始まった。現行法にない「愛国心」が条文化されるなど、国論を分かつ理念も盛り込まれている。誰にも分かる言葉で、しっかり議論を深めてほしい。

小坂憲次文部科学相は、改正案提出の趣旨説明で次のように述べた。

一九四七年制定の現行法を取り巻く環境は、少子化や情報化社会の進展などで激変した。国民が豊かな人生を実現し、わが国が一層の発展を遂げ、国際社会の平和と発展に貢献できるよう教育基本法の全部を改正する。

民主党が近く国会に提出する予定の「日本国教育基本法案」の前文にも「日本を愛する心を涵養(かんよう)」する、とうたわれている「愛国心」については、早くも文言をめぐってのやりとりがあった。

政府案が、教育の目標で定めている「伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する態度を養うこと」などとする、「態度」という言葉について、民主党教育基本問題調査会会長の鳩山由紀夫氏が、「心」とどう違うのかをただした。

これに対し、小泉純一郎首相は「態度は心と一体として養われるものである」と述べるにとどまった。答えになっていない。これで納得できる人は、いるのだろうか。

条文の中にある「伝統」や「文化」についても、きちんと議論してもらいたい。抽象的すぎて一体何を指すのか分からない。それが決まらなければ尊重のしようがない。

日本経済史・思想史が専門のオーストラリア国立大学教授のテッサ・モーリス=スズキさんは、本紙への寄稿で次のように述べている。

「伝統と文化」や「愛国心」が政治的に議論されると、「尊重されるべき伝統と文化」そして「愛されるべき国の姿」を、政府や与党が恣意(しい)的に決定してしまう。

このような批判を避けるためには、審議を通じて問題提起し、家庭や職場でも、議論が巻き起こるようにすることである。

そもそも、自分の国を愛するような感情は、自然にわき出てくるものであり、われわれはこれまで、条文化にはそぐわない、と主張してきた。いま、なぜ、教育基本法に盛り込まなければならないのか。そこのところも、納得のいくまで、分かりやすく議論を尽くしてほしい。

改正案を審議する特別委員会のメンバーは全部で四十五人。うち自民が二十七人、公明は三人。与党が合わせて三十人を占めている。議論が生煮えのまま、法案を数で押し切るようなことは許されない。

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新潟日報社説 2006年5月17日
教基法改正案
「大計」は時間をかけて

国会の会期末が一カ月後に迫っているときに出す法案だろうか。衆院で審議入りした教育基本法改正案のことだ。小泉純一郎首相は「一カ月あれば十分だ」と話しているが、甚だ疑問である。

教育は国家百年の大計といわれる。基本法は一九四七年の制定以来、六十年にわたってわが国教育の指針となってきた。その全面改正が短期間の審議で足りるというのは暴論に近い。

党利党略が目につき、政争の具となりかねない状況も気掛かりだ。ここは「教育とは何か」の原点に立ち返り、国民と問題点を共有しながら一歩ずつ慎重に審議を進めることが肝要である。拙速は許されることではない。

そもそも、改正の理由が不明確だ。小坂憲次文部科学相は趣旨説明で「豊かな人生を実現し、わが国が一層の発展を遂げ、国際社会に貢献できるよう」と述べているが、説得力に乏しい。

多くの国民が教育の現状を憂慮し、子育てに不安を感じているのは事実だろう。道徳心や公徳心が薄れ、社会の規範意識が揺らいでいるという指摘も、現状認識としては間違ってはいまい。

問題は、基本法を改正すれば教育の諸課題が解決するかのごとき乱暴な論議が横行していることである。教育問題の根は深い。社会のありようや政治、経済とも密接に結びついている。

基本法を抜本改正するのなら、国の形や政治と教育の関係を整理した上で、百年先を見据えた論議をすべきだ。

その観点で政府案と民主党の「日本国教育基本法案」を点検すると、つじつま合わせや党略が丸見えである。教育を政局のテコや政争の具にしてはならない。もっと真摯(しんし)な教育論議を求めたい。

両案の最大のポイントは「愛国心」の表現である。政府案は第二条「教育の目標」に「わが国と郷土を愛する態度を養う」とうたい、民主党案は前文で「日本を愛する心を涵養(かんよう)し」と記している。

「愛する」という心の動きを法律に盛り込むことの是非から論議したい。ひとたび法律になれば強制力を伴ってくる事態も想定される。「愛せ」という前に、愛されるにふさわしい国とは何かが問われているといえよう。

現行の基本法は教育の理念や目標の大枠を十一カ条に凝縮している。教育を受ける権利を重視し、現場の自主性を尊重した内容といっていい。

改正案は国の関与を強める方向だ。「教育は誰のためにあるのか」が審議の核心である。とても会期内に収まる話ではない。国民的論議が必要だ。

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信濃毎日新聞社説(2006年5月17日)
教育基本法
改正論議の行方が心配だ

政府が提出した教育基本法改正案が衆院本会議で審議入りした。民主党が対抗して準備中の改正案も含め、内容には問題が多い。国民の意向を幅広く踏まえた論議が欠かせないテーマである。今国会で成立を急ぐのは避けるべきだ。

愛国心が改正の主な論点になっている。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」。政府案にはこんな表現で盛り込まれている。

なぜ今、愛国心をうたう必要があるのか、政府から納得のいく説明はない。日の丸・君が代をめぐるトラブルが学校で続いている実情を考えると、現場に新たな摩擦が持ち込まれないか、懸念が募る。

民主党案はある面で、政府案以上に問題が多い。「日本を愛する心を涵養(かんよう)し」と、政府案も踏み込めなかった愛国「心」をずばり、前文でうたっている。

現行法は教育行政について、「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」と定めている。軍国主義的な考えで教育がゆがめられた過去への反省に立った規定である。

民主党案はここを「民主的な運営を旨として行われなければならない」と言い換えている。基本法の根幹に触れる修正だ。

民主党案にはほかに「公共の精神」「自由と責任」など、保守的な意味合いもある文言がちりばめられている。現行法にはない家庭教育の項目も、新しく設ける。

教育の目標を定めた第一条からは、「個人の価値をたつとび」「自主的精神に充ちた」など、個人の自立を重視する現行法の表現が消えている。政府案と同様に、あるいは政府案以上に、現行法の理念から隔たった改正案といえる。

教育基本法は憲法とセットで、戦後日本の平和の歩みを方向づけてきた。今の教育が学校の荒廃など問題を抱えているのは事実としても、解決の道は、「人格の完成」を教育の目的に掲げる現行法の理念を踏まえ直して開くほかない。

政府案、民主党案を見ると、自民・公明両党と民主党に任せたのでは、改正論議が間違った方向に進む心配が否定しきれない。特に民主党案は、党内の総意をどこまで踏まえているかの疑問も残る。

国会の会期はあと1カ月ほどしかない。論じなければならないテーマは米軍再編、社会保険庁改革、「共謀罪」問題など山ほどある。

これら懸案を差し置いて、基本法に手を加える必要は認められない

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北海道新聞社説(2006年5月17日)
教育基本法

民主党案も納得できぬ

政府提出の教育基本法改正案が衆議院で審議入りした。民主党は対案を今月中に提出し、妥協点を探る動きもある。

政府案に対して、わたしたちは「愛国心の強制を恐れる」と指摘してきた。民主党案は、政府のこうした姿勢に立ち向かうのではなく、逆に懸念を深める内容にみえる。

国民の間では、改正が本当に必要なのかについて十分な論議はされておらず、幅広い合意があるとは言いがたい。とりわけ愛国心の問題は賛否が大きく分かれている。会期も残り少ない中、成立を急ぐべきではない。

政府案は、教育の目標を定めた第二条に「我が国と郷土を愛する…態度を養う」などと愛国心に関する項目を盛り込んでいる。

本会議で質問に立った民主党の鳩山由紀夫幹事長は、政府案は国を愛せと押しつけるもの、と批判した。

だが、民主党案は愛国心に関して「日本を愛する心を涵養(かんよう)」とうたい、「心」の明記に踏み込んだ。条文ではなく前文に入れて、押しつけにならないよう配慮したと説明している。

「心」の明記については、与党協議の中で公明党が「戦前の国家主義教育を想起させる」と反対を表明、政府案からはずれた経過がある。

民主党には、この妥協に批判的な自民党議員の支持を得て、与党を分断する狙いがあるとも言われる。

現行教育基本法の精神は、教育勅語や国家神道など、かつて日本を戦争に追いやった国家的、全体主義的な国民教育への反省を基礎に、世界の平和に貢献することを積極的な国の誇りとするものだ。

民主党案は、政府案にある「他国の尊重」などの文言をはずす一方、「祖先を敬い子孫を想(おも)い」「宗教的感性の涵養」などを含めている。政府案よりも一層、戦前への回帰を思わせると言わざるを得ない。

故郷を誇り、先祖に敬意を表し、命の神秘を思うことは人の自然な気持ちで、大切なものだ。問題なのは、それを法律に書き込み、個人の内面に国家が入り込む余地を残すことである。

民主党内には「平和教育」を語ってきた議員も少なくないはずなのに、党内がこの内容でまとまるとはどうしたことか。現場の教員の戸惑いも深まるばかりだろう。

懸念があるのは政府案も同様だ。小泉純一郎首相は本会議で「内心の自由を侵害するものではない」と胸を張ってみせたが、強制の懸念は決して杞憂(きゆう)ではない。

国旗・国歌法成立の際も、政府は教育現場に強制はないと説明したが、現に多くの教員が処分されている。

政府案も民主党案も納得できるものではない。改正の是非を含め、国民の幅広い議論に時間をかけるべきだ。

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河北新報社説 2006年5月12日
教育基本法改正案
拙速な審議は避けるべきだ

衆院は11日、「愛国心」の表現について「国と郷土を愛する」と盛り込んだ教育基本法改正案を審議する特別委員会を設置した。小泉首相が16日にも本会議で趣旨説明を行い、審議入りする。1947年制定以来、「教育の憲法」と位置づけられ、戦後教育の理念とされてきた教育基本法は59年ぶりに、大きなヤマ場を迎えた。

改正案は、新たに「生涯教育」「家庭教育」「幼児教育」などの条項を大幅に追加したほか、9年と定めている義務教育の年限を削除しており、慎重かつ丁寧に議論すべき問題が多い。今国会は、会期末の6月18日まで実質30日を残すだけで、拙速な審議は避けてほしい。

現行法が前文と11条なのに対し、改正案は前文と18条で構成。前文に「公共の精神を尊び」や「伝統を継承し」の文言を入れ、公共心や伝統を重視する姿勢を打ち出した。「愛国心」については、2条(教育の目標)で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と記した。

また、17条に、改正案の理念を実現するため、具体目標を掲げた「教育振興基本計画」を、政府が策定することを盛り込み、行政施策的な要素を加えた。改正案は、中央教育審議会の2003年3月の答申や、その後の自民、公明与党の教育基本法改正検討会の3年間の議論を踏まえ、政府が提出した。

少年犯罪の増加、いじめ、不登校など深刻化する教育の環境に危機感を抱き、再建しようとする意欲は理解できないわけではない。子どもたちが将来、社会生活を営む上で必要な「公共心」の重視にウエートを置いたことも、うなずける面はある。

だが、法を変えるだけで教育の状況が一変するとは思えない。憲法と一体不可分に制定された教育基本法は、個人の尊厳の尊重、真理と平和の希求、人格の形成という基本理念をうたっており、この理念を達成する施策が十分実施されなかったから、環境が悪化したとも言える。

教育をめぐる問題は、現場が知恵を絞りながら、一つ一つ地道に対応することで解決できるのであり、上からの命令や指示だけで事がスムーズに運ぶとは考えにくい。

「愛国心」についても、生活の場や交流を通して、はぐくまれ、にじみ出るものであり、法に書き込むことには、「内心の自由を侵す」として反対意見も少なくない。素晴らしい地域、郷土、そして、その延長としての国であれば、自然と愛する気持ちは生まれるのであり、そうした環境をつくり出さねばならないのは、政治家をはじめとした大人である。押しつけや強制は、かえって反発を呼ぶ。

教育は国家百年の大計であり、本来なら、教育現場や国民各層の声を広く聞いた上で、法案が練られ、提出されるべきだったと思う。今回の審議では、スピードや効率性重視ではなく、さまざまな角度から熟考を重ねる必要がある。

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福井新聞論説 2006年5月8日
教育基本法改正
愛国心でかすむ具体性

戦後間もない一九四七年の制定以来、初めてとなる教育基本法改正案が国会に提出され、連休明けから審議入りする予定だ。「愛国心」の表現をめぐって駆け引きも見られたが、改正によって教育をどう変えるのか、本質の議論を尽くしてほしい。

法制定の趣旨を示す前文では、現行法にない「公共の精神を尊び」「伝統を継承し」「我が国と郷土を愛する…態度を養う」ことを明記。公共性を重視し愛国心を高める姿勢を強く打ち出している。

確かに戦後の日本人は、国を愛する気持ちが世界の国々に比べて希薄だとよく指摘される。また「個人」が優先される傾向が強すぎて、自己中心的でルール無視の風潮が社会を覆っている。愛国心や公共性の欠如を実感する場面にも遭遇する。

また今の教育が万全だとも思えない。学校現場ではいじめ、不登校、学力低下など多くの問題を抱えているし、犯罪の低年齢化や凶悪化、職業に就かないニートや引きこもりの増加など社会的課題も多い。

ただ、今の基本法のどこに不具合があって教育荒廃が起きたのか、改正案提出では明確に検証されていない。さらに公共性や愛国心を目標に書くことで、新しい教育はどう変わるのかが見えてこない。

振り返れば、改正の端緒になった六年前の教育改革国民会議報告、三年前の中央教育審議会答申でも、どんな教育を実現するかといった説明はなかった。理念の具現化より結論のスピードに走った感がある。

「教育の憲法」ともいわれる教育基本法は、主として国や自治体など教育する側が目指す方向を定めたものである。そこが国民の義務を説いた教育勅語と違うところだ。

しかし、今回の改正案では、愛国心に加えて「保護者は子の教育に第一義的責任を有する」という規定もあり、国民への注文と受け止められる文言がある。そこに時計の針を逆戻しすると感じる人もいる。

与党側は、六月十八日までの国会会期を延長して成立させたい意向だが、愛国心一つとっても「心」か「態度」かで与党が対立した。また野党も含めて内部に食い違いがあり、意見集約はかなり難航しそうだ。

また改正の理念で一致を見たとしても、それに伴って学校教育法や学習指導要領がどう変わるのか、きちんと示さなければ国民や学校現場の戸惑いは増すばかりだろう。

なぜなら最近の教育の軸があまりにぶれていること、そして愛国心などの文言解釈に終始し、教育内容の具体性がかすんでしまう恐れがあるからだ。

基本法は教育の根本法である。それにふさわしい国民合意を得るには、各界各層の意見を聞いて教育の現実と将来をじっくり検証する過程が必要だ。国会の政治力学だけで改正を急いではいけない。

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北海道新聞社説(2006年5月7日)
教育基本法

拙速審議は禍根を残す

政府は、教育基本法の改正案を国会に提出した。与党は大型連休明けに、衆院に特別委員会を設け、今国会での成立を目指す方針だと言う。

基本法は「教育の憲法」と言われ、戦後教育の根幹をなしてきた。一九四七年の制定以来およそ六十年ぶりの改正は、教育のあり方に大きな転機をもたらすだろう。だというのに、会期が残り少なくなった、この時期にあえて提出したことに、疑問を感じる。

しかも、改正案は「愛国心」や「公共の精神」を盛り込み、国の規制も強めて、現行基本法や憲法の理念を骨抜きにしかねないものだ。賛否も、大きく分かれている。

教育は、社会の将来を左右する重要な事柄だ。国民的な議論も経ずに、変えていいはずがない。与野党は、国民の意見を十分に聞き、改正の是非を含めて徹底的に議論する必要がある。

国民も無関心でいられない。審議の行方を注意深く見守っていきたい。

現行の基本法は、前文と十一条からなっている。改正案は、前文を変更するとともに、新たに「教育の目標」や「家庭教育」「教育振興基本計画」などを加えて十八条にした。

全体を通じて言えるのは、現行法が高く掲げている「個人の尊厳」の理念を極力薄めようとする意図が、見え隠れしていることである。

前文に「個人の尊厳」の文言を残したとはいえ、新たに「公共の精神を尊び」や「伝統を継承し」といった表現を登場させた。

第一条からは「個人の価値」や「自主的精神」の文言が消えている。個人主義と利己主義を同一視して批判する勢力に、後押しされたものだろう。

国の規制を強める意図も見える。

「愛国心」は、与党案のまま「我が国と郷土を愛する」との表現で盛り込まれた。条文化することで、国が心の領域にまで踏み込み、強制する法的根拠を与えてしまう恐れがある。

愛国心だけでない。現行法は、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」としているのに、改正案は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」として国の関与を明確にした。

まだある。保護者が子どもの教育に第一義的責任があることを盛ったほか、学校や家庭、地域住民が相互の連携や協力に努めることも条文化した。これでは、国が家庭や地域に介入する口実にされかねない。

改正案は、さまざまな問題をはらんでいる。改正によって教育はどう変わるのか、愛国心はどう教え、達成度の評価までするのか。政府は、疑問や不安に、丁寧に答える責任がある。

与党も、昨年の衆院選大勝に乗じて押し切るようなことがあってはならない。拙速審議は将来に禍根を残そう。

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神奈川新聞社説(2006年5月1日)

教育基本法改正

政府は教育基本法改正案をまとめ閣議決定、国会に提出した。連休明けに新設される特別委員会で審議される。改正案は前文と一八条。焦点は愛国心とそ
の表現だった。自民党は「国を愛する心」を主張、公明党の「国を大切にする心」と対立が続いたが「我が国と郷土を愛する態度」で決着した。足して二で割ったような表記である。字句にこだわり、教育とは何か、の本質的な哲学が見えてこないのは残念である。

現行の教育基本法が施行されたのは一九四七年三月。戦前の軍国教育、戦時体制下の皇民化教育も敗戦で瓦解、それに代わる新しい民主主義教育の"憲法"として制定された。六三制、教育の機会均等、平和主義、男女共学、教育の自由、義務教育の無償などが骨子となっている。

前文と一一条。GHQ(連合国軍総司令部)の指令に基づいたのは事実としても簡潔であり、国家に忠実な戦前の教師像、児童・生徒像のくびきから解放された表現に満ちている。確かに現行条文には愛国心や家庭教育、学校生活の規律などについての規定はない。しかし、五十九年たった今、読み返しても特段の違和感はない。改正する必要があるのかどうか、疑問である。

与党二党がこだわった愛国心の表現について自民党の言う愛国心に「戦前の国家主義を連想させる」と公明党は反発した。戦前に受けた宗教弾圧を想起したはずである。果たして愛国心、郷土愛は法律に明記しなければ生まれないものなのか。強制されなければ身につかないというのだろうか。

国民が戦後六十年、営々として築いてきた民主主義はそれほどもろいものとは思えない。あの敗戦で強制こそ怖いものはない、と私たちは心底から知ったはずである。教育基本法に書いたから教育現場がよくなるというのなら、教育とは何と楽なものであろう。

公明党は愛国心に慎重だった。改正検討委員会が六十八回も開催されたのはそのためである。公明党が国家主義を連想させると言ったのは、正しい。その公明党も大島理森(ただもり)座長(自民)の折衷案で妥協している。

自民党は早くから法改正を求めていた。「国への忠誠、家族愛などが書かれていない」というのである。二〇〇〇年十二月、森喜朗首相(当時)の私的諮問機関・教育改革国民会議が見直しを提言。中央教育審議会が〇三年三月、文部科学相に基本法の改正を答申している。自民党はよほど現行の基本法が気に入らないとみえる。

「およそ、人は命令では働かない」。経済学の祖アダム・スミスが「国富論」で言いたかったのは、このことだった。愛国心、郷土愛も同様である。国民の自由な意思に任せればいいではないか。法律で強制されるいわれはない。

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京都新聞社説(2006年4月30日)
教育基本法改正

将来像の明確な説明を

政府は「教育の憲法」といわれる教育基本法の改正案を国会に提出した。

五月の連休明けの審議入りを目指すが、盛り込まれた「愛国心」や「公共の精神」などを巡って与野党での激しい論戦が予想される。

改正案が成立すれば一九四七年の教育基本法施行以来で初となるが、重要法案が重なっているだけに、小泉純一郎首相が会期(六月十八日)を延長するかどうかも成立の鍵を握っていそうだ。

改正案は現行法の「個人の尊厳」「教育の機会均等」「不当な支配に服することなく」など重要規定を残した。

一方、新たに自民党が強く求めた「愛国心」や「道徳心」の理念、「公共の精神」「伝統を継承」などもうたった。

憲法と強く結びついた教育基本法の従来の理念に、保守的な色彩を加えた「妥協型」といえそうだが、成立にかける自民党の意気込みが感じられる。

このほか、九年としてきた義務教育年数を削除した。幼稚園、高校の義務化、「飛び級」などに備えたとみられる。

障害者教育、生涯学習への言及や、教育改革の見取り図となる教育振興基本計画に一項を立てたのも目立つ。

教育を巡る環境は約六十年前と現在とでは大きく変わった。世論調査では「教育基本法は現代の教育環境に対応できていない」と指摘する声も多い。

それだけに改正案の提出は必然とも言えそうだが、提案の経緯を見ると教育改革よりも政治的な思惑を優先させた問題点が浮かび上がる。

三年に及んだ与党間協議は今月中旬決着したが、最後までもつれたのは「愛国心」の表現だった。自民党は「国を愛する心」を強く主張したが、公明党は「国を大切にする心」を譲らなかった。

公明党は「愛国心」が戦前の国家主義を連想させるのを懸念したのだ。結局、両党は「我が国と郷土を愛する」との表現などで折れ合った。

「愛国心」を巡る文言のやりとりに振り回されてきた両党協議の内容は外部にきちんと説明されず、結果、「愛国心」や「公共の精神」などが教育改革とどう連動し、教育全体の姿を変えていくのかが明らかにならなかった。

その後、政府内で「危機的な状況に直面しているわが国の教育」(二〇〇三年の中教審答申)を立て直す処方せんとして与党合意案がふさわしいかどうかの十分な議論もなく、合意案を衣替えしただけで提案している。

自民党文教族の元閣僚は「この状況を逃せば改正できない」と打ち明け、与党の圧力があったことを物語る。

学校現場では「愛国心」教育の行き過ぎも指摘され、「内心の自由」への懸念も広がっている。

教育基本法は未来を担う「人づくり」の大黒柱だ。国会審議では政府は改正案による教育の将来像を明確にし、拙速を避けて幅広い議論を尽くしてほしい。

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沖縄タイムス社説(2006年4月30日朝刊)
教育基本法改正案

国民の疑問に応えよ

教育は国家百年の大計である。にもかかわらず、その根幹を成し「教育の憲法」といわれる教育基本法の改正をなぜそんなに急ごうとするのだろうか。三年間の与党検討会で自民、公明両党の教育基本法改正協議会は「愛国心」を「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(略)…」にすることで合意した。それを受けて政府が二十八日、教育基本法改正案を閣議決定したのである。

与党は連休明けに衆議院に特別委員会を設けて審議入りを目指すという。

自民党は公明党の意をくんで「愛国心」という表現を避けたが、それでも本音の部分には「愛国心」の文言を盛り込みたいとする議員が多く、党内で駆け引きが続いている。

むろん国を愛する心は大事であり否定すべきものではない。ただ、本来、個人の心情の問題であるはずの愛国心をなぜあえて法律に書き込もうとするのかが腑に落ちないのである。

法律で定めた場合、教師が子どもたちに「国の愛し方を教える」ことにつながる。評価の対象になれば画一的になり強制にも結びつくはずだ。それでは本当の意味での愛国心が生まれるはずがない。

心の問題を法律で定めることが憲法が保障する思想信条の自由に反するのは言うまでもない。

国が心を統制していくことを許してはならず、絶対に「ノー」だと叫び続けなければならない。

確かに教育現場ではいじめや不登校、学力低下などを理由に、教育が荒廃しているという言葉を耳にする。

だが現行の教育基本法がいまの教育の状況をつくり出しているのかどうか検証されたとはいえず、国民に対して説得力のある説明もなされていない。

本当に改正が必要なのかどうか。あるとすればどう変えなければならないのか。

民主主義の原理と個人の自由を守るという憲法の理念に照らして、きちんと分析していくことが求められよう。

改正案を国会に提案した小泉内閣はまた、現行法のどこがどうおかしいのか―国民に対し具体例を提示し、一緒に論議していかなければなるまい。

国民主権という憲法の精神を踏まえた現基本法に比べ、国民に義務を強いる“教育勅語”に似ているという批判にもきちんと応える責務があろう。

国の将来にも深くかかわる問題だけに国会での審議は当然として国民への周知も重要となる。拙速な改正は国を危うくするだけであり、国民に情報を開示し慎重に論議すべきだ。

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東京新聞社説(2006年4月29日)

条文化にはなじまない 愛国心

教育基本法改正案が国会に提出された。「愛国心」を条文化するなど、現行法にはない理念が盛り込まれている。国民の声を聞きながら、改正の是非も含め、じっくりと議論を進めてほしい。

政府案は前文と十八条からなっている。主な改正点は次の通りだ。

前文で「公共の精神を尊ぶ」ことを明記し、義務教育の延長をにらんで、現行法で「九年」としている年限を削除。さらに教育を取り巻く環境の変化を考慮し「生涯学習」「家庭教育」「教育振興基本計画」などの理念を盛り込んでいる。

国会の審議で最大の焦点となる「愛国心」については「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と条文化している。

制定後約六十年たつ現行の基本法については、現状にそぐわない部分もでてきたとして三年前、中央教育審議会が改正の答申を出していた。

小泉純一郎首相は常々、靖国参拝を「心の問題」と強調している。

自分の国を愛する、というような感情も、よい政治が行われ、国民一人一人の安全や安心が担保されていれば、国民の心の中に自然と芽生えてくるたぐいのものだ。基本法を改定してまで条文化することにはなじまない。

教育の憲法ともいえる基本法に明記すれば、当然、それに連なる学校教育法などの関連法令、さらには教える内容を定めている学習指導要領にも色濃く反映され、強制の度合いを深めていくことになろう。

小中学校の社会科や道徳で先取りしている「国を愛する心」を持つとの目標を、さらに拡大・推進したい、との思いが見て取れる。

教育現場では既に二〇〇二年、福岡市の小学校で「愛国心」を通知表で評価していることが表面化したが、条文化すればこうした動きにも法的な根拠を与えることになる。

国旗国歌法が成立したとき、小渕首相(当時)は「強制するものではない」と、国会で答弁した。にもかかわらず、国歌を斉唱する際、起立を事実上強制する教育委員会が出てきたのが現実だった。

愛国心が基本法で明文化されれば、学校の現場で拡大解釈されない、との保証はない。

与党は連休明けに、衆院に特別委員会を設け、会期内の成立を目指す。巨大与党の数にものをいわせ、法案を押し切るようなことだけは、やめてもらいたい。

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琉球新報社説(2006年4月29日)
教育基本法

改正急ぐ状況ではない/理念を生かす施策こそ必要

政府は教育基本法の改正案を28日、閣議決定した。政府は法案を国会へ提出し、与党は衆院に特別委員会を設置し、今国会での成立を目指す方針だ。「教育の憲法」ともいわれ、戦後の教育制度の根幹となってきた同法の改正に向けての国会審議が近く始まることになった。

同法の全面改正が国会の議論の場に上るのは、1947年の制定以来初めてだ。約60年ぶりの改正に向けて、大きく動きだしたことになる。

決定された政府案は自民、公明の与党で合意された折衷案そのままだ。教育の将来的なビジョンを政府内で十分に検討したのか、はなはだ疑問が残る。

なぜ改正が必要か

教育基本法の改正は、2003年3月に中央教育審議会が遠山敦子文部科学大臣(当時)に対して改正を答申して以来、自民、公明の与党内で議論が続けられてきた。

自民党内には、もともとGHQ(連合国軍総司令部)によって制定された憲法と教育基本法の改定を求める声は強く、今回の改正案は自民党内での基本法への批判を大筋で取り込んだものだろう。

基本法改正について与党は「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」や「個の重視で低下した公の意識の修正」などを改正の理由に挙げる。戦後教育の弊害としてこれらの問題をとらえている。

確かに少年犯罪の増加や学級崩壊など、子供たちを取り巻く環境は憂慮すべきものがある。しかし、これらの問題を戦後教育の弊害としてだけとらえるのは無理があるのではないか。現在の学校教育の中で果たして「個」が過度に尊重されているのだろうか。「個」を尊重する理念は、教育基本法が制定された当時よりも後退しつつあるのではないか。

社会や学校で起こっている問題の原因を教育基本法だけに押し付けているのではないか。問題は、社会のありようにかかっているはずで、基本法を改正しただけでこれらの問題が解決するとは思えない。なぜ改正が必要なのか。政府は国民に説明すべきだ。

今回の改正案では、愛国心について「国と郷土を愛する態度」としたほか、教育目標に「公共の精神」「伝統と文化の尊重」など、徳目的色彩の強い理念が盛り込まれている。

「個人」より「国家」により重きを置いた形の改正であり、「愛国心」を法律で規定し、心の問題を法律で規定することを危ぶみ、警戒する国民は多い。憲法の保障する思想、信条の自由を侵害することになるという懸念だ。

法律で「心」を縛るといった批判に対して、改正案では「心」といった言葉を避け、「態度」に表現を変えている。しかし、表現を変えたからといっても基本的な精神は変わらない。

改憲の動きと連動

自民党の憲法改正案も、国や社会を愛情と責任を持って支える責務を持つことが強調されている。個人よりも国家に重きを置いており、教育基本法の改正と改憲の動きは連動している。改正案では、家庭教育の項目も盛り込み、「家庭は子育てに一義的に責任を有する」と規定している。家庭の中にまで国家が入り込むようなものだ。

中教審が改正答申を行って以来、3年。議論は非公開の中で行われてきた。広く国民の意見を反映させるといった形にはなっていないし、改正に対する異論や懸念の声に耳を傾けて、その疑問、疑念に応える姿勢はとっていない。

「教育をどうするのか」。現在のわたしたち社会の重要な課題であることは間違いないが、教育基本法を改正することで問題が解決するものではない。教育をどうするのか、具体的なビジョンを国民に提示すべきではないか。

政府、与党は残り2カ月余りに迫った今国会の会期中に成立を目指すというが、これだけ異論のある法案を2カ月で成立させようとするのは拙速だ。

教育基本法は、戦前の国家主義の反省の上に立って「個人の尊厳」「個人の価値」を尊重することをうたっている。憲法に基づいたものだ。その基本的な理念は、国民に受け入れられており、その理念を生かすことこそが必要だ。改正を急がなければならない状況にあるとは思えない。

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信濃毎日新聞社説(2006年4月28日朝刊)
教育基本法

改正を急ぐべきでない

政府は教育基本法改正案を28日に閣議決定し、国会に提出する見込みだ。与党は衆院に特別委員会を作り、今国会での成立を目指す。

会期末まで2カ月足らずしかない。基本法は憲法と並ぶ大事な法律である。短い時間で改正の是非を論ずるのは無理がある。拙速な論議は慎まねばならない。

2003年3月に、中央教育審議会が「愛国心」や「公共心」を養うことなどを盛り込み、改正を求める答申を出している。それを受けて、自民・公明の検討会が会合を重ねて、改正案をまとめた。

現行法が個人の価値観の尊重をうたうのに対し、改正法案は心のありようや家庭の在り方に踏み込んでいる。そこにまず、違和感を覚える。

法の精神をうたった「前文」で、「個人の尊厳」は残ったが、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす」という表現が削られた。代わりに「公共の精神を尊び」「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」と、「公共心」を明記した。

教育の目的を定めた第一条では、「個人の価値をたっとび」「自主的精神に充ちた」といった、「個」を尊重する表現が消えている。

改正案には「教育の目標」が加わった。その中に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐぐんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」とする“愛国心条項”が盛り込まれた。

新設の「家庭教育」の項目では、保護者に「生活のために必要な習慣」や「自立心」を子どもに身に着けさせることを求める。さらに、国や地方公共団体に、保護者への「学習の機会、情報の提供」などを要請する。家庭の在り方に行政が踏み込むことになりかねない。

基本法改正の背景には、子どもたちの問題への危機感がある。凶悪な少年犯罪が目立ち、いじめ、不登校、虐待など問題は相次ぐ。公共のマナーを知らず、学ぶ意欲も低下していることを憂う声は少なくない。

だからといって、基本法を変えれば問題が解決するというものではない。子どもたちの問題は、社会全体のありようを映し出したものだ。現場で1つひとつ丁寧に対応していくしかない。

「愛国心」や「公共心」は自然とはぐくまれるものだ。法で規定されることで、子どもたちはより息苦しくなってしまうのではないか。

改正論議は自公内のやりとりにとどまっている。本来なら、広く国民や教育現場の声を踏まえるべき問題だ。改正を急いではいけない。

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北国新聞社説(2006年4月16日)
教育基本法改正 「郷土愛」をはぐくんでこそ

自民、公明の与党がまとめた教育基本法改正案は、おおむね常識的な内容と言えるが、そのなかで「郷土愛」の涵養(かんよう)を教育目標に盛り込んだことを評価したい。外国にもあまり例のない新しい試みである。

子どもらが、ふるさとの歴史、伝統、文化を学び、それに深い愛着と誇りを持つことは、よき日本人として成長するうえで、たいへん大事である。そうした郷土愛をはぐくんでこそ国を愛する心、態度が生まれてくるといってよい。

与党案にいう「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」の養成も、郷土を学び愛着をもつことが一つの出発点であり、土台であるというべきである。

経済のグローバル化が進み、多様な文化の共生の必要性が強く叫ばれているが、自己をまず知ることで自他の違いが理解でき、相手を敬う態度も身に付くように、異文化を受け入れ敬意を払う共生の精神や真の国際性の育成は、自らの地域の文化を理解し、尊重し、誇りを持つことに始まるのである。

「国を愛する」とは心の働きであり、法律で規定することは、内心の自由の侵害につながりかねないといった反対論も聞かれるが、国民として自分の国を愛する気持ちを抱くのは、ごく自然なことである。戦前の国家主義や全体主義に通じるものでないことは言うまでもない。

政府は与党案に基づいて法案化作業を進め、四月中にも国会に提出する考えという。教育基本法の改正ですぐに教育現場がよくなるものでもないが、教育の指針は時代に合わせて速やかに正しておくべきだろう。しかし、同法改正は改憲に似て言うほど簡単ではない。

野党の民主党は対案を出す構えを見せており、共産、社民両党は改正に反対している。自民党内には、野党とは逆の不満がある。国を愛する「心」ではなく「態度」と表記した点など、公明党に譲歩して自民党の主張が後退したことに批判が根強いのである。これだけの重要法案を通すには国会の会期延長は必至とみられるが、小泉首相は早々と延長を否定している。法改正には政府・与党のよほどの覚悟が必要であり、まさに本気度が試されていると認識しなければなるまい。

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徳島新聞社説(2006年4月16日)
教育基本法改正案

論議がもっと必要だ

「教育の憲法」といわれる教育基本法の改正案を、与党が正式決定した。

政府は五月の大型連休前後の国会提出を目指しており、同法は一九四七年の制定以来、約六十年ぶりの改正に向けて大きく動き出した。

最大の焦点だった「愛国心」は、「我が国と郷土を愛する態度」といった表現で「教育の目標」に盛り込まれる。

自民党が「国を愛する心」を主張したのに対し、公明党は「戦前の国家主義を連想させる」と反発、「国を大切にする心」を唱えた結果、「我が国を愛する態度」といった妥協案で決着した。

しかし、表現がどうであれ、愛国心を盛り込んだことに変わりはない。

教育基本法は、国民に愛国心を強要して、戦争に駆り立てた戦前の軍国主義教育への反省から生まれたものだ。同法に愛国心を盛り込むことは、戦前回帰と受け取られても仕方がないだろう。

「教育の国家統制が進み、憲法が保障する思想、良心の自由の侵害につながる」「国旗掲揚、国歌斉唱の強要に歯止めがかからなくなる」

そんな危機感を抱く国民も少なくない。もちろん理由があってのことだ。

国旗・国歌法ができたとき、政府は「強制しようというものではない」としたにもかかわらず、東京都などでは「日の丸」掲揚時の起立や「君が代」斉唱を教員らに強制し、従わない場合は懲戒処分にしている。

福岡市の小学校では、学習指導要領に盛り込まれた愛国心を通知表で評価するという事態まで起きた。

こんな息苦しい教育を、子どもたちが喜ぶだろうか。国の根幹にかかわる教育基本法である。改正には慎重が上にも慎重でなければならない。

「個人」の尊重を基調とした現行法に比べ、改正案では「公共」重視の姿勢も打ち出された。「個性ゆたかな文化の創造をめざす」とした前文は、「公共の精神を尊び、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」と明記される。

もちろん「公共心」は必要だ。しかし、いじめや学力低下、学級崩壊など、教育の荒廃が問題になる度に、その原因を「個人」を尊重した戦後教育や教育基本法に押し付けるのは無理がある。

同法には、憲法に基づいて「真理と平和を希求する人間の育成」や「教育の機会均等」「男女共学」など、自由で伸びやかな教育の理念がうたわれている。

その精神はすっかり国民に浸透しており、今どうしても変えなければならない必然性があるとは思えない。なぜ改正を急ぐのか、政府は国民の納得がいくように説明する責任がある。

改正案には「家庭教育」の項目を設け、父母らに「生活のために必要な習慣を身に付けさせ、自立心を育成するよう努める」ことも求めている。一見もっともな条文だが、国家が家庭の中にまでずかずかと踏み込むことは許されない。

何より問題なのは、二○○三年に中央教育審議会が同法改正の必要性を明記して以来三年間、論議が”密室“で行われてきたことだ。教育の在り方より、「愛国心」の表現に関する不毛な言葉いじりに終始してきた感も否めない。

「百年の計」といわれる教育基本法を、時の連立政権の妥協案で安易に改正していいわけがない。国民の活発な論議を期待したい。

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宮崎日日新聞社説(2006年4月15日)
教育基本法改正案

愛国は強制して生まれるのか

自民、公明両党が進めてきた教育基本法改正で与党協議がまとまり、今国会に改正案が提出されそうだ。自公の主張が折り合わなかったのが教育目標の「愛国心」をめぐる表現であった。

自民党は「国を愛する」とするように主張し、公明党は「国を大切にする」と求め、対立していた。与党協議では結局、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という妥協的な表現に落ち着いた。公明党が歩み寄った印象だ。

「国を愛する」ことを条文化することが教育現場をどう良くするのか。与党協議でも肝心な点は明確にされていない。学習指導要領で先取りした目標を法的に裏付ける狙いが透けて見える。

憲法に抵触しないか

与党案の教育目標には「国を愛する」だけではなく、「公共の精神」「伝統と文化の尊重」が新たに掲げられている。これらは戦後、ずっと続いた保守陣営からの教育基本法批判ともいえる「個人が前面に出すぎて公共の精神が失われ、教育荒廃を生んだ」「日本の味がしない」などを踏襲したといってもいいだろう。

「国を愛する」ことを目標に書き込むことで、政府・与党は教育体制や教諭、教科書、子どもたちをどうしたいのか。「国を愛する」という心をどう評価していくのか。はっきりしない。

一般的にいって、家族や郷土を愛する心はごく自然に生まれてくるものであり、国を愛する心も程度の差はあっても同じことといえよう。愛は心の働きである。法律で外から押し付けられるものではないはずだ。

心の働きにまで注文をつけることは憲法19条が保障する思想、信条の自由に抵触する恐れが限りなく強い。

「伝統」の意味不明確

教育基本法の改正の流れができた6年前の教育改革国民会議報告、3年前の中央教育審議会答申でも、基本法をどう見直すかの提案はあったものの、なぜ改正か、改正してどういう教育プログラムを実現するかについての説得力ある説明は欠落したままだ。

基本法の規定があるから教育荒廃が起きたという検証もない。どこが、どのように不具合なのかを明らかにしないまま、定義も不明確な抽象的な理念をもてあそんできた印象は免れない。

与党案が新たに掲げた「伝統」の2文字にしても、何を伝統とするのか。かつて清瀬一郎文相は国会で「国家、公に対する忠誠」などと伝統の意味を語った。これなのか。違うのか。

教育基本法は国民主権の憲法の精神を踏まえ、主として国や自治体など教育する側を対象に、目指すべき理念を定めたものであり、国民の権利を制限したり、義務を命じたりしたものではない。国民に義務を説いた教育勅語と根本的に違うところだ。

ところが、与党案の教育目標に加わった「国と郷土を愛する」や「家庭は子育てに第一義的な責任を有するものであり、親は子の健全な育成に努める」という項目は国民に対する注文であり、逆戻りと受け止められかねない。中教審で使った各国の資料をみると、英国、米国、ドイツには日本の教育基本法に当たる法律はない。ましてや、愛国心の育成を基本法で掲げているのは中国ぐらいである。

教育基本法は教育の根本法である。法律で「愛国心」を求めることがどこにつながるのか。このことを明確にしない改正案論議であってはならない。

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岐阜新聞社説(2006年4月15日)
教育基本法改正

「愛」は強制できるのか

自民、公明両党が進めてきた教育基本法改正をめぐる与党協議がまとまり、改正案の今国会提出に向け動きだした。最後まで自公の主張が折り合わなかった愛国心をめぐる表現は、結局「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という妥協的表現に落ち着いた。

「国を愛し」とするよう求める自民党に対し「国を大切にする」と主張した公明党の対立は結局、公明党が歩み寄った印象だ。

与党案の教育目標には、このほか「公共の精神」「伝統と文化の尊重」が新たに掲げられたが、これらは戦後ずっと続いた、保守陣営からの「個人が前面に出すぎて公共の精神が失われ、教育荒廃を生んだ」「日本の味がしない」などの基本法批判を踏襲したといっていい。

だが、例えば「国と郷土を愛する」と目標に書き込むことで教育をどう変えたいのか、という肝心な点は明らかにされていない。そもそも愛は心のはたらきであり、法律で外から強制することになじまない。心のはたらきにまで注文をつけるとなると、憲法が保障する思想信条の自由に抵触するおそれが限りなく強い。

振り返れば、改正の流れをつくった六年前の教育改革国民会議報告、三年前の中央教育審議会答申も、基本法をどう見直すかの提案はあったが、なぜ改正か、改正してどんな教育プログラムを実現するかについて、説得力ある説明は欠落している。

基本法の規定があるから教育荒廃が起きたという検証もない。どこがどう不具合なのか明らかにしないまま、定義も不明確な抽象的な理念をもてあそんできた印象は免れない。

与党案が新たに掲げた伝統の二文字にしても、何を伝統とするのか。かつて清瀬一郎文相は国会で「国家、公に対する忠誠」などの言葉で伝統を語っているが、これと同じなのか、違うのか。説明がないままだ。

そもそも教育の目的などについては多様な考え方がある。そうした理念を国家が示すことについては、民主主義社会においては、よほど慎重であるべきだ。

国民主権の憲法の精神を踏まえた基本法は、主として国や自治体など教育する側を対象に、目指すべき理念を定めたもので、国民の権利を制限したり、義務を命じたものではない。国民に義務を説いた教育勅語と根本的に違うところだ。

ところが与党案の教育目標に加わった「国と郷土を愛する」や、「家庭は子育てに第一義的な責任を有するものであり、親は子の健全な育成に努める」という項目は、国から国民に対する注文であり、教育勅語へ逆戻りと受け止められかねない。

中教審に資料として提出された各国の資料を見ても、英国、米国、ドイツには日本の基本法に当たる法律はない。ましてや愛国心の育成を基本法で掲げているのは中国くらいだ。

基本法は教育の根本法である。改正して何をしたいのか明確にして、初めて小泉純一郎首相の言う「国民的論議」(施政方針演説)が成り立つ。

それも提示しないまま、改正案というのでは話が違う。法の文言いじりにエネルギーを費やすのは、目の前の教育課題から目をそらすためと勘繰られても仕方がないだろう。

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熊本日日新聞社説(2006年4月15日)
教育基本法改正

「愛国」命じれば心育つのか

自民党と公明党でつくる教育基本法改正協議会は、前文と十八条からなる法律の改正案を決定した。焦点だった「愛国心」の表現は、「我が国と郷土を愛する態度」とし、「公共の精神を尊ぶ」を盛り込むことなどで合意した。改正案がまとまったのは一九四七年の制定以来初めて。五月にも閣議決定の方針だ。

改正の背景に社会の変容や教育の混迷の影響があることは容易に推測できる。戦後の日本は、「平和憲法」を掲げ、国民が一丸となって高度経済成長を成し遂げた。共通の目標を持ち得た時代であった。しかし、産業構造の変化もあって、日本は「改革の時代」を迎え、国民の間の「格差」拡大も指摘されている。合わせて、家庭や地域の教育力も低下して少年犯罪も目立ち、学校現場は児童生徒の学力低下や無気力化に悩んでいる。フリーターやニートなど社会への帰属感が薄い若者も増加中だ。国民共通の目標を持ちにくい時代となったと言えよう。

このため、政治家が愛国心の育成などを目標として定めようとする心情も理解できる。「国や郷土を愛する」ことも一般的には望ましいことだ。ただし、教育基本法は、国や自治体など教育する側を主な対象に目指すべき理念を定めたもので、国民の権利を制限したり義務を命じたものではない。ところが、与党案は愛国心、公共心、家庭教育の責任などを国から国民に注文するような内容に変化している。法律で強制する効果も不明で、憲法が保障する思想信条の自由に抵触する恐れもある。

これからの日本に生きる若者たちが自分の国を愛するためには、安心して暮らせる雇用の場を増やし、医療福祉などの社会保障を整備することも必要だ。国は若者が評価するような具体的な政策を打ち出すべきで、このままでは愛国という目標の押しつけと受け取られかねまい。

教育は、教師と児童生徒の人間的なふれ合いの中で行われるもので、その質について第三者が評価することが難しい部分もある。あえて行おうとすれば、外面的に画一化を求めることになりがちだ。その一例だが、北海道美唄市の小学校では、今春の入学式で、学校側は教職員用のいすを用意しなかった。校長は「君が代斉唱の時に起立しない教職員が出ることを防ぎたかった」と説明した、と地元紙は報じている。君が代を国歌に制定する際、政府は強制を否定したはず

だが、結局はこのような現象が起き、斉唱に協力しなかった教職員の処分も行った地方教育委員会もある。今、教師は、教育の混迷の中で全体的に疲れている。日々の授業を成立させ、家庭との連携を深めるためには、少人数学級の推進や専門的な人材の加配などを望んでいる。具体的な教育プログラムの改善策も示されないまま、愛国心を深める教育だけが求められれば、学校現場の疲労感がさらに深まることになる。

自民党は、教育基本法の改正を足掛かりにして憲法改正も行いたい意向のようだが、拙速は避けるべきだ。国民の間の論議を十分に聞いてからでも、法案を出すのは遅くない。また、「戦前の国家主義を連想させる」として反発していた公明党が賛成した。その理由については、さらに分かりやすい説明が必要だ。

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中日新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法

あわてる必要はない

教育基本法改正の論点となっていた「愛国心」の表現が自公間で合意された。個人の尊厳を基本理念としてきた現行法は改正へ向け動きだそうとしている。教育は国家百年の大計。拙速は避けたい。

自民党と公明党との間で調整が続いていた「愛国心」については、次のような表現で決着をみた。

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

自公両党の妥協の産物である。前半で「国を愛する」という文言にこだわった自民党をたてた。「愛国心が戦前の国家至上主義的な考え方につながることを危惧(きぐ)」した公明党には、伝統と文化という文言を入れることによって、「国」という概念から統治機構を排除した配慮がうかがわれる。

なぜいま、合意を急いだのか。巨大与党の小泉政権のうちに解決しておきたい自民党と、今秋の首脳人事や来年の参院選を控える公明党との思惑が一致した、との見方がある。

基本法の改正については三年前、中央教育審議会が答申で「国を愛する心」や「公共の精神」など八項目を、あらたに盛り込むべき概念として挙げた。

「国を愛する心」については「国家至上主義的な考え方や全体主義的なものになってはいけない」と、既にその時クギを刺している。

基本法は教育の憲法である。その基本法で定められれば、学校現場で教育内容を規定している学習指導要領などにも、より色濃く反映されよう。基本法でうたう以上、教育現場での扱いをどうするのか。現場が混乱しないのか。

かつて国旗・国歌法が成立したとき、小渕首相(当時)が「児童や生徒に強制するものではない」と国会で答弁したにもかかわらず、現実には卒業式で国歌斉唱時に、起立を半ば強制している教育委員会もある。

現行法では、前文で「個人の尊厳」や「真理と平和を希求する人間の育成」などがうたわれている。改正の前文案でもこれらの理念は引き継がれているというが、この理念が教育現場で実践されていれば、いま社会問題となっているいじめや虐待、拝金主義などの問題は克服されていよう。改正する前に現行法の理念を実践することが先である、ともいえる。

教育基本法改正に関する与党検討会の議事録は公開されていない。いまのところその予定もない。教育は国民みんなのものだ。改正の是非をじっくりと考えたい。

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北海道新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法

「愛国心」強制を恐れる

与党は、教育基本法改正協議会で改正案を決めた。

最大の焦点だった「愛国心」の表記については「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」とすることで決着した。

私たちはかねて、「愛国心」という心の領域にかかわる事柄は、国が強制するものではないと主張してきた。

改正案は、両党の意見を取り込んだため、あいまいな部分があるとはいえ、国が改正法を根拠にして「愛国心」を押し付けてくる恐れがある。とくに一九九九年に成立した国旗・国歌法が、半ば強制になりつつある現実をみると、危惧(きぐ)はいっそう強まる。

教育基本法は四七年の制定以来、「教育の憲法」として位置付けられてきた。約六十年ぶりの改正は、戦後教育に大きな転機をもたらすのに、国民的な議論もないまま、ことを進めようとする姿勢も疑問である。

基本法の改正は、憲法改正の露払いと言われている。これらを考え合わせると、改正案は到底、認め難い。「愛国心」の表現は、政治的な妥協の産物と言える。

自民党が「国を愛する」を主張したのに対し、公明党は戦前の全体主義を思い起こさせるとして「国を大切にする」を唱え、意見が対立してきた。

合意が成ったのは、昨年の衆院選大勝を背景に、結党以来の懸案を実現しようとする自民党と、与党に踏みとどまろうとする公明党の思惑が、一致したからに違いない。

だが、愛国心の表現は、寄せ木細工のような危うさをはらんでいる。

与党は、文中の「国」は統治機構を含まないことを互いに確認したと言う。だが、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国」という表現だけでは、その意思が明確に伝わってこない。これでは、いずれ確認自体が忘れ去られてしまいかねない。

案には「他国を尊重し」との文言も入ってはいる。しかし、時の政権が法律の条文から都合の良い部分を取り出して、恣意(しい)的に運用することは、いまに始まったことではないのである。

国旗・国歌法では、当時の首相が「強制するものではない」と国会で答弁していたのに、実際には卒業式や入学式などで君が代斉唱時に起立を強制する動きが広がっている。道内でも、美唄で教職員を起立させるため、いすを置かない小学校も出ている。

「愛国心」教育も、同じ道をたどらないという保証は、どこにもない。基本法は憲法と同様、平和主義、民主主義とともに個人の尊厳をうたっている。「愛国心」教育で個人の内心にまで踏み込んでは、思想・良心の自由とも齟齬(そご)をきたそう。憲法、基本法の理念が骨抜きになってはならない。

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新潟日報社説(2006年4月14日)
教育基本法

改正の理念が見えない

「米百俵」の故事を引き合いに出すまでもなく、教育を語ることはあるべき未来への熱い思いを論じることである。

ところが、与党の協議会が決めた教育基本法改正案からは将来展望や改正の理念が感じ取れない。「愛国心」をどう表現するかに腐心し、大本の論議が置き去りにされた結果である。

前文と十八条からなる基本法改正案が今国会に提出されるのは確実だ。ずさんさと拙速を絵に描いたような改正案をそのまま認めるわけにはいかない。

自民、公明両党による基本法改正論議は、二〇〇三年の中央教育審議会(中教審)答申を受けて本格化した。

答申は「郷土や国を愛する心」などの理念を基本法に付け加えるよう求めた。深刻化するいじめや不登校、凶悪犯罪の低年齢化などに有効に対処するには、基本法の改正が不可欠だと強調した。

随分乱暴な論理である。いじめや不登校と基本法の間にどのような因果関係があるのか全く説明されていない。最近問題となっている学力低下も基本法のせいだというのだろうか。

改正案は第二条「教育の目標」を大きく変更した以外は、第三条に「生涯教育」を付け加えたのが目立つぐらいだ。

端的にいえば「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する態度を養う」の文言を盛り込むことが、改正の目的であろう。

大都市では就学援助を受けている児童・生徒が20%を超える。一方で高額の納付金が必要な私立一貫校の人気はうなぎ上りだ。教育格差の拡大は、放置できない水準に達している。

基本法の改正より抜本的な教育改革こそ急がれる。その際の柱は「未来を信じることが出来る教育の確立」である。猫の目のように変わる文部科学省の方針は、不安をかき立てるだけでしかない。

与党と文科省に問いたい。伝統と文化を軽んじてきたのは誰か。郷土を愛する態度を喪失させたものは何か。胸に手を当てて考えてほしい。

本県をはじめ地方には、大地に根を張り地域を愛する多くの人々がいる。「愛する態度」を法律で押し付けるのは余計なおせっかいである。

さらにいえば、義務教育までは地方が責任を負っている。基本法で「国」などを強調することは、市町村の教育に独自性を、という方針にも反している。

今国会の会期は六月十八日までだ。小泉純一郎首相は会期延長はないと明言している。基本法改正案の審議も拙速でこと足れりということなのか。

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神戸新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法

改正への理解得られるか

自民党と公明党が、教育基本法の改正で合意し、与党案が決定した。「教育の憲法」ともいわれる重要な法律が、一九四七年の制定以来、初めて全面改正へ大きく踏み出すことになる。

中央教育審議会が三年前に「改正答申」を出した。これを受けて与党協議を重ねたが、ずっと平行線をたどってきた。「愛国心」をめぐって、両党間に大きな考え方の相違があったからだ。

自民党が「国を愛する心」の記載を主張するのに対して、公明党は「戦前の国家主義を連想させる」などと反発してきた。

ようやく、与党の検討会が「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」との表現で合意した。また公明党が求めていた「他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との文言も盛り込まれた。ここでは「『国』は政府など統治機構を含まない」ことを両党で確認している。

合意文を見る限り、まさに自公両党の折衷案そのものといえるだろう。問題は、いま改正しなければならないという必要がどこまで国民に理解されたか、だろう。

答申は改正の理由として@モラル低下に伴う少年犯罪や学級崩壊などの教育危機の克服A個人の尊厳を重んじるあまり、欠如した「公意識」の修正Bグローバル化など社会変化への対応-などを挙げた。

自民党は、戦後教育の弊害是正を理由にしている。しかし、教育現場や社会で起きているさまざまな問題の要因を、教育基本法だけに押し付けることには無理がある。まして、法を改正するだけで、問題が解決するとも思えないのだ。

現行法は約六十年が経過し、カバーできない分野があることも否定できない。改正案には、「生涯学習」 「家庭教育」など数項目の条文も新たに加えられる。

ただ、三年に及ぶ検討は非公開だった。見直しが、これからの教育にどう生きるのか-など本質的な議論がどこまで尽くされたのか。目立ったのはもっぱら愛国心をめぐる字句の調整であり、改正論議が国民に浸透したとはとてもいえない。

国民の間では、「国を愛するのは自然な心で、明記は当然」とする一方で、「心の問題に法律で枠をはめる必要があるのか」「国歌斉唱や国旗掲揚の強制に歯止めがかからなくなる」との声も根強い。こうした異論や疑問の声を軽視してはならない。

愛国心論議だけでなく、改正法の全体像について、いま一度広く意見を求めるべきである。成案化はそれからでも遅くない。

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山陽新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法改正

将来に禍根残さぬ議論を

与党の教育基本法改正検討会が十三日、改正案を正式に決めた。焦点となっていた「愛国心」問題は「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」との文言で決着した。

これまでの協議で自民党は「国を愛する心」を主張、公明党は「戦前の国家主義を連想させる」などと反発し、対立してきた。自民の「我が国を愛する」と、公明の「他国を尊び」を併存させた折衷案で両党が譲歩した形だ。

字句をめぐる議論に終始した感は否めない。「国」は、政府などの統治機構を含まないことを確認しているが、自民の主張する「国」と「愛する」が基軸であることに変わりはない。「国を愛する」ことを入れる必要性や、それで教育現場をどう良くしていくのかなど、与党の協議からは伝わってこなかった。

国を愛する気持ちや郷土愛は、法によって上から強制されるものではない。日々の生活の場や地域の人々との交流を通して、自然とはぐくまれていくものだろう。改正案は小中学校の道徳や社会科の学習指導要領で先取りしている「国を愛する心」を持つとの目標を、法的に裏付けたいとの狙いが透けて見える。

さらに問題なのは改正が今なぜ必要なのか、という根本の部分の説明や議論が、国民の間に浸透していないことである。改正によって学校現場や家庭での教育がどう変わるのかは全く見えてこない。

「教育の憲法」と位置付けられてきた基本法は、制定以来五十九年がたつ。この間、教育をめぐる環境は、いじめや不登校、学級崩壊など深刻化がいわれてきた。家庭の教育力の低下も指摘される。その原因を基本法に求める議論も出たが、どの部分が教育を悪化させたのか、時代にあっていないのか、検証は十分ではない。その前に基本法の理念が実践されてきたのか、問うことが必要だろう。

教育基本法は、一九四七年に生まれた。教育勅語に支えられた戦前・戦中の教育と決別し、日本国憲法が掲げる平和主義や国民主権などの理念を教育の力によって実現するために制定されたものだ。憲法と不可分の関係にある。教育基本法改正は、憲法改正への布石となる要素を含むことも忘れてはならない。

基本法の改正は、戦後教育の転換という歴史的意味を持つ。改正案は今月中にも国会に提出される方向だ。基本法改正には賛否がある。巨大与党の数の力で押し切る問題ではない。国民の意見を広く聞き、将来に禍根を残さない議論がいる。

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高知新聞(2006年4月14日)
教基法改正

荒廃は解決できない

自民、公明両党が教育基本法の改正案を正式決定した。

これを受けて、政府は改正案の作成、国会提出へと進むことになる。だが、現行法のどこに問題があり、なぜ改正が必要なのか。その検証も不十分なままの「はじめに改正ありき」の姿勢は極めて問題だ。

改正を主張する人たちは、いじめや不登校などの教育荒廃、少年による凶悪犯罪などと基本法を絡める。「個人の尊厳が行きすぎた結果」という認識だ。そこで、与党改正案は「公共の精神」「道徳心の涵養(かんよう)」を盛り込もうとする。

だが、それらの問題と基本法を結び付けるのは筋違いだ。基本法をきちんと読めば分かる。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充(み)ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

第一条は教育の目的をこううたっている。「人格の完成」、言い換えれば「人間的な成長」に目的を置いているのであり、教育の使命としてこれ以上のものがどこにあるというのだろう。

教育をめぐるさまざまな問題は、基本法の施行から59年間、目的実現への努力が十分ではなかったために起きているのではないか。「公共の精神」などを新たに加えたからといって、教育の荒廃が解決するわけではない。

十分な論拠がないにもかかわらず、与党協議に先立つ中央教育審議会への政府の諮問段階から、「公共の精神」は「伝統・文化の尊重」などとともに方向付けがされていた。その狙いは何なのか。解き明かす鍵は「愛国心」にあるだろう。

内心の自由

「愛国心」の記述をめぐっては、自民党と公明党が対立してきたが、最終的に「我が国と郷土を愛する態度」で決着した。だが、問題の本質はそうした表現、言葉の使い方にあるのではない。

多くの国民は生まれ育った古里、そして国に対し何らかの愛情を抱いているだろう。一方では、国を愛するが故に、現状の国の姿には愛情を持てないという人もいよう。それはあくまでも心の問題だ。

どういう表現であれ、「愛国心」を法律に書き込めば、強制力を伴って心の領域にまで踏み込み、内心の自由を侵すことにつながりかねない。その危うさは日の丸・君が代にみることができる。

国旗・国歌法の施行後、東京都などでは教員処分を背景にした強制が進んでいる。「愛国心」の基本法への明記によってその動きが加速し、さらに「愛国心」の強制へと突き進む可能性は否定できない。

戦前の教育は教育勅語に代表されるように、家族間のモラルを忠君愛国的なモラルに結び付け、国家への犠牲的協力を要求した。その反省に立ち、国家主義的な方向を排したのが教育基本法だ。

ところが、改正案には国家重視の志向が色濃く出ている。自民党の新憲法草案とも相通ずる。むろん、戦前のような国家主義体制に戻ることはあり得ないにしても、国家を個人の上に置こうとする流れには十分に注意する必要がある。

教育基本法の改正は子どもたちの未来を左右する。だが、国民の関心はまだまだ低い。苦しんでいる子どもたちを救い、将来を展望するために、いま何をすべきなのか。その視点を持ちながら、今後の論議を注視していかなければならない。

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琉球新報社説(2006年4月14日)
教育基本法改正案

愛国は強制するものでない

与党は教育基本法改正協議会で、改正案を正式に決定した。焦点だった「愛国心」の表現は「我が国と郷土を愛する態度」になった。前文には「公共の精神」などの文言を新たに盛り込み、「公」重視の姿勢を打ち出している。

教育基本法の改正案がまとまるのは1947年の同法制定以来、初めてだ。案通りに改正されたら、戦前の国家主義の反省を基に「個人の尊厳」「個人の価値」を中心にした現行法の基本理念が大きく変わることになる。

60年前の反省は忘れ去られたのだろうか。そもそも、国を愛するのを法律で求めるのはふさわしくない。愛するのは、優れて個人の内面の領域の問題だ。国が強制するのはおかしい。ナショナリズムをかき立てる動きで危うい。

国による心の統制は、憲法が保障している思想、良心の自由を侵害することにならないか。

改正は、2000年、当時の森喜朗首相の私的諮問機関・教育改革国民会議が、伝統や文化の尊重、家庭、国家などの視点から基本法の見直しを提言したことから大きく動きだした。中央教育審議会(中教審)は 03年の答申で、新たな理念として「郷土や国を愛する心」や「家庭教育」を明記した。

自民党は「国を愛する心」を主張したが、公明党は「国を大切にする心」を主張した。与党合意案は双方が歩み寄った形だ。ただ、愛する「心」や大切にする「心」でなく、「態度」に表現を変えたとしても、懸念はぬぐえない。

教育現場では、02年に福岡市の小学校で愛国心を通知表で評価していることが表面化した。

国旗・国歌法が制定される際も、当時の小渕恵三首相は「強制するものではない」と国会で答弁したにもかかわらず、学校現場では国歌斉唱のときに起立させられることがある。現に、東京都立高校の定時制に通っていた石川弘太郎さんは、ことしの卒業式を前に学校側から君が代斉唱時に起立するよう要請された。要請は計3回あったという。教育現場では強制が強まることを心配する声が強い。

改正されたら、通知表で「愛国心」に対する評価を求めたり、国歌斉唱・国旗掲揚の強制が強まるのではないか。懸念は消えない。

自民党の改憲案でも、国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務をもつことが強調されている。個人より国家に重きを置いている。改憲の動きと教育基本法改正の動きは連動している。

沖縄は多数の住民が犠牲になった戦争体験をした。「愛国心」を植え付ける動きには「戦前の歩みを連想させる」と警戒したり、批判したりする人が多い。

法律で「愛国」を求めるべきではない。

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東奥日報社説(2006年4月14日)
教育基本法改正

愛国心は強制できるか

自民、公明両党は教育基本法改正案を正式に決定した。

三年間に及ぶ協議を経ての決定だが、焦点となっていたのは「愛国心」をどう扱うかだった。

自民は「国を愛する心」の明記を主張。公明は「愛国心は戦前の国家主義を連想させる」として、「国を大切にする心」を唱え、対立していた。

改正案では「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展する態度を養う」として、直接的な「愛国心」の表現を和らげた。両党はこの場合の国には、政府や国家権力などの統治機構を含まないことも確認した。また「愛する心」ではなく「愛する態度」と、表現を抑えてもいる。

しかしいくら印象を和らげようとしても、同法改正案のキーワードは「国」と「愛する」であることには変わりはない。

「国を愛する」ことが全面的に出てきたことに、違和感を覚える。

国に対する思いには、個々人の世界観が反映される。「愛する」ことを上から教育されたり、押し付けられたりするものではないだろう。

現在の教育基本法は戦後間もなくの一九四七年に制定。「個人の尊厳」「個人の価値」などを基本理念としてきた。

個人に重点を置くことに対して、個人の権利尊重に偏りすぎで、公共の精神をなおざりにしたとの批判がある。

しかしだからといって「愛国心」を強く打ち出すことで、公共の精神が育成されるかは、疑問がある。

「愛国心」が基本法に盛り込まれることで、国旗掲揚や国歌斉唱などが、これまで以上に強要されるのではとの懸念もある。

また日本国内に住む外国人の子どもにも、日本を愛することが強制されかねず、精神的な圧迫ともなる。

同法は「教育の憲法」である。それが考え方の違う自民、公明両党の妥協の産物で改正されようとしている。

与党間での「愛国心」をめぐる語句の調整に傾斜しがちだったこともあり、基本法の改正案には、わが国の教育をどうするのかという、明確な哲学、ビジョンが感じられない。

「愛国心」については、さまざまな考え方、受け止め方がある。個人の思想信条にどこまで踏み込めるのかという根源的な問題もある。それらが基本法改正の論議に反映されたとは言い難い。むしろ密室の中での論議に終始したといえる。

いじめや学級崩壊、学力の低下、不登校に高校中退者の増加など、教育現場の荒廃が深刻になっている。基本法を改正すればすむという問題ではない。

与党の正式決定を受けて、政府は月内に改正案を作成し、五月の連休明けにも閣議決定。今国会に同法案を提出し、成立を目指すとしている。

しかし、戦後六十年続いてきた、わが国の教育の根本を変える改正案なのに、国民的な議論は盛り上がっていない。「愛国心」を一方的に押し付けるだけでなく、時間をかけて幅広い議論を経た上で、改正に取り組んでもいいのではないだろうか。

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中国新聞社説(2006年4月14日)

なぜそんなに急ぐのか 教育基本法改正案

どうしてそんなに急がねばならないのか。教育基本法改正をめぐって、与党の動きがにわかに慌ただしくなってきた。

自民、公明両党による同法改正協議会はきのう「我が国と郷土を愛する…態度」などの文言を加えた改正案を正式決定した。改正を目指す理由として「教育の荒廃」などがあげられてきたが、改正で「荒廃」が解消するわけでもなかろう。慎重な取り扱いと野党を含めた幅広い議論が要る。

日本国憲法を受けて基本法は前文で「真理と平和を希求する人間の育成を期する…」としている。改正案は「教育の目標」に両党間で論点になっていた愛国心を「愛する…態度」に直して合意した。妥協が図られたといえよう。

基本法が一九四七年に施行されて約六十年。この間、自民党は「軍隊を持てない平和憲法」の改正と併せて教育基本法の見直しに意を注ぎ「愛国心」にこだわってきた。その下支えとして徹底させたのが、教育現場における君が代斉唱、日の丸掲揚だった。

自民と公明は二〇〇三年から協議を始めた。公明には「愛国心」への拒絶感が根強くあった。戦前、支持母体の創価学会が愛国を声高に叫ぶ国家主義政府によって弾圧されたからだ。

その拒絶が、ここに来てオブラートに包まれだしたようにみえる。背景の一つには、昨秋の衆院選で自民が絶対多数を確保した力関係の変化があろう。もう一点は公明のお家の事情との見方がもっぱらである。

来年の参院選と統一地方選が控える。与党である限り、ついて回る自民の「攻勢」。それを、一定の譲歩を引き出したうえで今年決着させたい考え方だ。選挙年における内部の路線上の混乱を避けたい思いがあったとしても不思議でない。もしそうであるなら、党利党略に「教育」が利用されることにならないか。

自民内部には国会の会期延長論も出始めているとも伝えられる。何はともあれ通すとも受け取れる。自民多数のおごりの表れと見なされても仕方なかろう。民主党の失敗に続いて与党のごり押しで、国会が混乱するようなことがあってはならない。格差、年金問題など多くの政策課題がある。

「我が国と郷土を愛する…態度」といった文言はあいまいだ。いったいだれが判断するのか。心の領域とする人も少なくない。拙速は国民の一体感を損なう。

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愛媛新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法改正案

内心を縛る懸念はぬぐえない

与党が教育基本法改正案を決定した。会期延長がからむため今国会での成立は微妙にせよ、一九四七年の制定以来、初の改正へ踏み出したことは確かだ。

改正案では「個人の尊厳」を維持する一方、新たに「公共」重視を盛り込んだ。「家庭教育」のような保守色のにじむ義務規定も設けており、教育を受ける権利に重きを置いた現行法から大きくかじを切るものだ。

とりわけ焦点となったのは「愛国心」の取り扱いだ。私たちは、国家が内心を法で縛ることは認められないと主張してきた。改正案は慎重姿勢の公明党に配慮して表現を抑制したとはいえ、本質は変わらない。やはり現行法を貫く理念を生かす道こそ探るべきだ。

約七十回を数える与党検討会の協議は字句の調整に終始した感が強い。いじめや学力低下、少年犯罪の凶悪化など教育現場の直面する問題点をどう克服するか、そのために教育基本法改正が本当に必要かといった本質論が伝わってこない。

愛国心をめぐっては自民党と公明党が対立、国会提出も先送りされてきた経緯がある。

改正案は、与党検討会座長の原案どおりに決着した。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という表現だ。

「国」「愛する」を残して自民党の主張を入れた一方、「国」から統治機構のニュアンスを消すとともに「心」を「態度」とし、「他国の尊重」も併記したのは公明党の懸念に配慮したかたちだ。合意優先でいかにも妥協の産物といえる。

さらに、与党間の対立を来年まで持ち越せば、参院選に悪影響が出かねないとの懸念が広がっていたという。自民党の総裁選や公明党の執行部交代もからんで、まず政治日程ありきというほかない。

愛国心を一概には否定しないにしても、心や態度のありようは多様であり、法律で一律に押しつけるのはなじまない。憲法の定める思想や良心の自由に抵触するおそれもぬぐえない。

さらに、いったん法律で規定されればさまざまなかたちで強制される可能性があるのは、国旗・国歌法の先例を引くまでもなかろう。福岡市の小学校では四年前、愛国心を通知表の評価項目に入れていることが問題化したが、改正案ではそれらに法的根拠を与えかねない。

憲法の掲げる民主的・文化的な国家の建設、世界平和といった理想の実現を「根本において教育の力にまつべき」と前文でうたうのが教育基本法だ。

改正が実現すれば戦後教育の転機となるだけでなく、憲法改正論議に影響を及ぼすことは十分考えられよう。実際、改正案から浮かぶ方向性は自民党の新憲法草案とも重なる。

であればこそ、なぜいま改正なのかを含め、時間をかけて国民の合意形成に努めるべきだ。そのためには、非公表となっている与党の検討経過を国民に明らかにすることも欠かせない。

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沖縄タイムス社説(2006年4月14日)

[愛国心]強制では生まれない

濃淡の差はあれ、自分の国を愛さない人はいないはずだ。

それは、家族や郷土を愛することと同じで自然発生的なものである。

それをあえて「我が国と郷土を愛する…」と条文化し、教育基本法改正案に盛り込まなくてはならないのか。

与党の教育基本法改正検討会が合意した教育基本法の「愛国心」をめぐる記述のことである。

河村建夫元文部科学相は「国を愛する心を持つことを目標にした学習指導要領に法的根拠を与えることができる」と、その狙いを強調する。

つまり、小中学校の道徳や社会科の学習指導要領で先取りしている「国を愛する心」を持つとの目標を法的に裏付けたいのである。

しかし、それは「憲法(第一九条)が保障する思想、良心の自由の侵害につながる」と、有識者らは批判し反対している。

それぞれの立場や思想があるのに「愛国心」を学校で評価するよう求められ、結局、押し付けになるからだ。

「法律は行為の在り方を定めるが、心の在り方を決めるものではない。子どもたちの内心の自由への介入だ」(高教組・松田寛委員長)との指摘も当を得ている。

何よりも押し付けられた「愛国心」が、心の底からのものとなるかどうかは極めて疑問と言わざるを得ない。

では、政府の本当の狙いはどこにあるのか。
東京都などが行っている「日の丸掲揚」と「君が代斉唱」の強制と同様に、「愛国心」も政府が合法を装った国民の「洗脳」の一つという見方がある。

昨年十月、自民党は現憲法を大幅に改定する「新憲法草案」を作った。今や堂々と叫ばれている憲法改定に向けた「地ならし」の一環で、愛国心で憲法改定への外堀を埋めたいのが政府の意図ではないのか。

しかし、国を愛する心というのは国家や政治家の押し付けで生まれるものではないし、まして憲法で強制するものでもない。

「いい国であれば、愛国心は自然とわき出るもの」(ひめゆり平和祈念資料館証言員・津波古ヒサさん)だからだ。

今の日本人は、飽食の下で心の教育まで国家統制されかねない危険な流れの中にいる。

国民に対する「愛国心の強制」の延長線上からは「国民の権利の制限や義務の強化」、はては「徴兵制」の足音までも聞こえてきそうだ。

政治におけるこのような動きには、敏感になり、監視していきたい。

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京都新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法改正

文章いじりに終始した

「愛国心」をめぐる表現が焦点だった与党・自民、公明両党の教育基本法改正案が正式に決まった。

「教育は、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

与党の基本法改正検討会を舞台にした協議は三年に及んだが、「愛国心」をめぐる文章いじりが中心だった。新たに前面に出した「公共の精神」なども含め、教育改革にどう連動し、教育全体の姿を変えていくのか、定かでない。

与党協議では、自民党が「国を愛する心」を強く主張。これに対して公明党は「戦前の国家主義を連想させる」として反発、「国を大切にする心」を唱え、対立してきた。自公連立にも影響する重要なテーマだった。

その両党が歩み寄って、国を「愛する心」を「愛する態度」で妥協した。しかし、「心の働き」にかかわることには何ら変わりない。憲法が認める「内心の自由」に触れる微妙な問題をはらむ。

政府は五月の連休明けにも改正案を国会に提出する方針だ。今国会で成立させるには六月十八日までの会期延長が不可避との見方が強い。だが小泉純一郎首相は「延長は考えていません」という。

では今なぜ決着なのか。与党の取りまとめを急がせたのは、教育改革にあまり熱心でなかった首相だけにだ。

後半国会の関心は九月の自民党総裁選に移るのは避けがたい。そこで行政改革推進法案と並ぶ目玉法案にしたて、首相の求心力を維持する狙いを込める。

統一地方選、参院選を来年に控え、巨大与党を背に一気に懸案を片づけ、秋の総裁選につなげる。賛否が分かれる小沢民主党をも揺さぶる。そんな思惑があるのかもしれない。

教育基本法は「教育の憲法」とも呼ばれる。あすの日本、世界を支える「人づくり」の法的支柱である。

その改正の焦点である「愛国心」論争は一九五〇年代から半世紀に及ぶ重大な心の問題だ。政治の思惑が優先してはなるまい。

国を「愛する」気持ちは一般論でいえば、だれも異論はない。だが「国を愛する」の条文化が、教育現場をどれだけよくするのかも、はっきりしない。

社会を揺るがす青少年事件などが起きるたびに、基本法改正が叫ばれる。「個人の尊厳」を重んじた基本法と、今日の「教育の荒廃」がどう絡んでいるのか。基本法の理念をどこまで実践してきたのか。ていねいな説明は聞かない。

基本法改正は「国を愛する心」を持つことを目指す学習指導要領に法的裏付けを与えるのは確かであろう。ただ運用次第で教育現場が大きく変わる可能性がある。「内心には踏み込まない」とした国旗国歌法の運用例をみれば明らかだ。

政府は月内に改正案を作成する方向だが、与党は検討会の議事録など情報公開し、国民的な議論に付すのが先決だ。

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河北新報(2006年4月14日)
教育基本法改正

幅広く国民の意見を聞いて

与党の教育基本法改正検討会(座長・大島理森元文相)は12日、同法改正の焦点となっていた「愛国心」の表現をめぐり、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」とすることで合意した。

改正案は5月の連休明けにも提出される運びで、1947年制定された教育基本法は、59年ぶりに一大転機を迎える。現行法は前文と11条だが、改正案は、新たに「家庭教育」「幼児教育」などの条項を追加し前文と18条で構成。「9年」と定めている義務教育の年限の削除も決まっており、議論すべき問題は、
山積していると言える。

与党の検討会は2003年6月スタート、これまで約70回会合を重ねた。最後までもめた「愛国心」の表記については、自民党は「国を愛する心」を主張。公明党は「愛国心」には、軍国主義時代の偏狭なナショナリズムや無批判な自己犠牲を連想させるとして、「国を大切にする心」を唱え対立してきた。
 合意したのは、自民、公明の折衷案で、「我が国を愛する」は自民案を、「他国を尊び」は公明案を、それぞれ採用した。「国」には国家権力や政府といった「統治機構」を含まないことも確認した。

教育基本法の制定以来半世紀以上を経て、教育をめぐる環境は、いじめ、不登校、高校中途退学者の増加などが深刻化しており、時代状況の変化に伴い、法の補完や補強するのは当然だ。しかし、憲法と一体不可分に制定された教育基本法には、個人の尊厳の尊重、真理と平和の希求、人格の形成という基本理念がうたわれており、この理念を曲げてはならないし、理念の実現に向かってたゆまぬ努力が必要なのはいうまでもない。教育基本法に欠陥があったから、教育に多くの問題が発生したと考えるのは逆さまの論理だ。

そして、今回、与党で合意された「我が国と郷土を愛し」という意味を、国民一人一人が、深く考えてみる必要があるのではないか。地域や郷土、その延長としての国への愛は、生活の場や人々との交流を通じて、自然とはぐくまれるものであろう。強制力、押しつけでは反発を呼ぶ。

もう一つ、法案提出がなぜ、この時期なのか、しっくりしない。自民党には後半国会の目玉にして、9月の任期まで残り少なくなった小泉政権の求心力を維持し、公明党にも、間もなく交代するとみられる神崎執行部の最後の仕事としてけりをつけたい事情が見え隠れする。

教育基本法の改正をめぐっては賛否が渦巻いている。「愛国心」の一層の明記を求める声がある一方で、法改正は内心の国家管理につながり、個人の精神の自由を奪うなどとの反対意見も多い。与党は法案を提出する前に、ただちに国民各層の声を聞く場を設けてほしい。59年ぶりの改正は歴史的な意味を持つからである。

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信濃毎日新聞社説(2006年4月14日)
教育基本法

なぜ今、愛国心なのか

教育基本法を見直して「我が国と郷土を愛する態度」を盛り込むことを与党が決めた。「愛国心」を新たにうたう必要性がどこにあるのか、分かりにくい。日の丸・君が代問題で悩んでいる現場を混乱させないか心配にもなる。

「国を愛する」といった表現を基本法で条文化するよう求める声は、自民党内にかねて強い。これに対し与党の公明党は、愛国心条項はかつての「忠君愛国」を思い起こさせるとして慎重だった。

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」。約70回の検討会会合を経て、自公が合意した文言である。

自民党がこだわる「国」と「愛」、公明党が重視する「国際」や「平和」の視点をミックスした折衷的な表現だ。国を愛する「心」は「態度」と言い換えられている。

生まれ育った土地を愛するのは、ごく自然な感情である。それが日本という「国」にまで広がることも、格別なことではない。

しかし「我が国と郷土を愛する態度」を教育基本法に盛り込むとなると、話は別になる。

気掛かりな点をここでは2つ挙げたい。第1は、教育現場に要らぬ緊張を持ち込みかねないことだ。

7年前に国旗国歌法が制定されて以降、学校の卒業式などで日の丸・君が代をめぐるトラブルが続いている。「掲揚、斉唱を強制しない」という政府の約束は、反古(ほご)同然の実情がある。

愛国心の規定に沿った教育が始まった場合、教育の本質から外れた同じようなトラブルが、教師や父母、子どもたちを悩ませる可能性が否定しきれない。

第2は、教育が復古調の政治潮流にさらされかねないことだ。基本法は家庭や民族、国家を軽視している、との批判が、自民党の一部などに根強くある。愛国心条項により、「個人の尊重」「人格の完成」など世界人権宣言にも通じる理念がゆがめられないか、心配だ。

愛国心は憲法見直しでも論点の1つになっている。基本法を突破口に、憲法改正につなげようとする思惑も見え隠れする。

教育基本法は憲法とセットで、戦後日本の針路を導く役目を果たしてきた。国家よりも個人を重んじる基本法の理念は、戦争の歴史への反省に裏打ちされている。

見直す必要は今は認められない。

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中日新聞社説(2006年4月2日)

“自由”を問い直す 週のはじめに考える

権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。

「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。

首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。
押しつぶされる“心”

どちらも他人の心の内を理解しようとせず、自分の気持ちのままに振る舞う権利を主張する点が似ています。強者、優位にある者のごう慢さを感じます。

不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラを配ったりした人が逮捕されています。

「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。

そこで「自由」について基本から考えます。

一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。

しかし、国王の権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源(えんげん)です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権力者を規制する原理です。

権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。
内心に踏み込む法規範

日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動きもあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付けようとする人たちがいます。

法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。

「およそ立憲の政において君主は人民の良心に干渉せず」−百年以上も前の政治家、井上毅がずばり言い切りました。

小泉構造改革の柱、規制緩和や市場原理の基本である自由競争に関しても疑問が浮かびます。

経済活動における自由とは、役所や役人からあれこれ細かな指図を受けないで、当事者同士の合意に基づいて取引や契約ができる状態をさします。これも「権力からの自由」であって、強い者が思うままに振る舞う自由ではありません。

フランス人権宣言第四条には「自由とは他人を害しない範囲で自分の権利を行使できること」とありますが、日本の現実は「強者がより強くなる権利」になっていませんか。

例えば、雇用規制緩和、働き方の多様化など美辞麗句のもとパート、派遣、契約、業務請負など企業側の労働力コストを引き下げる雇用形態が広がりました。その陰で、大部分のごく普通の労働者は企業の支配的地位の前に不利な条件でも労働を余儀なくされています。

国税庁調査による民間企業労働者の平均給与は七年連続で減少しています。参入が自由化されたタクシー業界では、運転手の年収が十五年前の30%減です。平均が生活保護基準を超えているのはわずか十都県、家族を抱えて二百万円以下の人もいます。それでいて車両を増やし、収入を確保している会社が多いのです。

市場原理とは強い者だけが生き残る「ジャングルの自由」のことなのでしょうか。

「規制緩和」や「構造改革」「市場原理」などのかけ声に金縛りになったかのような日本社会は、小泉改革を批判的に論じるには勇気を要する雰囲気に支配されています。

でも、小泉内閣の強引な手法に懐疑の目を向ける人がやっと最近になって増えました。現実を無視できなくなったのです。

映画「白バラの祈り」が全国各地で上映され、静かに、しかし着実に観客を集めています。一九四三年のドイツで、ナチズムに抵抗する運動をした若者が逮捕され処刑されるまでの五日間の実話です。

良心圧した追随、迎合

映画のテーマは、事実を直視し、心の命ずるままにナチに反対した若者の良心だけではありません。ヒトラーに忠勤を励む政治家や官僚、権力者に追随、迎合する民衆など、当時のドイツ社会を映しています。

時代は違いますが、何となく類似性を感じさせる日本の現状に対する不安が、人々に映画館へ足を運ばせるのではないでしょうか。

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北国新聞社説(2005年8月15日)
終戦記念日 「日本人」の意識を育てたい

六十回目の終戦記念日を迎えた。還暦という年月を経て、それなりに成熟した民主主義国家になった。バブルが弾けて深く傷つき、長い不況に見舞われながらも、経済規模は世界第二位を維持している。豊かな暮らしを求めてよく頑張った六十年であるが、国民の意識や精神の面はどうだろうか。日本という国や、「日本人」であることに誇りを持って生きてきただろうか。その点では未熟であると言わねばなるまい。

その未熟さは、ある意味では戦後の思潮によって強制された結果といってよい。個人の尊重、人権の尊重を第一とする戦後民主主義の中で、愛国心や国家意識を説くことがはばかられてきたからである。

例えば、自分の国や民族のことを大事に思う気持ち(ナショナリズム)は人間として当たり前であり、かつては右翼・左翼、保守・革新を問わずに共有されていた。ところが戦後の日本では、ナショナリズムはどちらかといえば、危険なもの、悪いものとして忌避されてきた。戦前の行き過ぎた国家主義の反省からであるが、戦後のナショナリズム否定もまた行き過ぎであった。

いま、隣国との付き合いがうまくいっていない。特に日中関係は戦後最悪ともいわれる。日本の歴史教科書問題や小泉純一郎首相の靖国神社参拝などが原因とされ、その点をことさら取り上げて、日本のナショナリズムを問題視する向きが国内にある。しかし、過剰なナショナリズムの危険性では、中国の方がはるかに問題である。そのことは措(お)くとして、日本はむしろ戦後のナショナリズム理解の誤りを正し、良き「日本人」であろうという意識をはぐくむことが大事であろう。

といって、愛国心の涵養(かんよう)などと大上段に構えることはない。まず、自分たちが住むこの地域に目を向けることから始めればよい。

ふるさとの歴史や伝統、文化を虚心に学べば、自ずとふるさとが好きになり、地域を大切にしたいと思うようになるはずだ。そうしてはぐくまれる郷土愛や愛郷心の延長線上に、国を愛する心がある。

また、自分たちのまちを美しくする取り組みが各地に広がり、積み重ねられれば美しい日本が形づくられ、それに伴って、ふるさとや国に対する愛着心や誇りもわき上がってくるだろう。美しいふるさとがテロや侵略の被害に遭っては困ると思えば、守る意識が生まれてこよう。

そのようにして生じる「国を愛する心」はごく自然なものであり、憲法前文に盛り込まれてもなんら不思議ではない。
ふるさとを大切に思う気持ちとその実践から、国づくり、人づくりが進むと心得たい。

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