地方紙社説(2008年7月)


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何より透明性が不可欠だ 教員採用試験

九州・山口の動きの鈍さは、どうしたことか。大分県の教員採用汚職事件を受け、文部科学省が行った全国調査の結果を見て、そう思わざるを得ない。

文科省の調査は、教員採用試験を実施する全国47都道府県と17政令市の計64教育委員会が対象だ。

採用試験で、評価の観点や方法など選考基準を公表していると回答したのは45教委だった。文科省によると、昨年の試験で公表したのは20教委だから、大幅に増えたようにも見える。

しかし、公表しているのは筆記試験の配点や面接の判定基準などが大半だ。筆記の配点のほか、面接、実技、論文、模擬授業と総合判定の判定基準すべてを公表しているのは7府県と2市の九教委で、さほど基準が厳密ではないものの、基準自体は全面公表している教委を含めても14教委にとどまっている。

もともと九州・山口で昨年まで選考基準を公表していたのは鹿児島県教委だけである。今回、文科省調査で「すべて公表」としたのは鹿児島県のみで、佐賀、大分、山口3県は筆記の配点など一部を公表しているという。調査時点で福岡、長崎、熊本、宮崎4県と福岡、北九州両市は何も公表していないというのだ。

教員採用だけでなく、採用試験は公平・公正でなければならない。それが、よりよい人材確保にもつながる。

大分県教委の汚職事件は、その公正さを根底から揺るがし、教育や教員不信を全国に拡大させたのだ。大分県の場合、密室での選考を隠れみのに、得点操作という前代未聞の不正行為が長年、続いていた。程度の差はあれ、不正は大分だけか、という声が広がっている。

地に落ちた教員採用試験の信頼を取り戻すには何が必要か。不正の入り込む余地をなくして公平性を担保することが大事であり、そのためには採用試験の透明性を高めるのが何より大切だろう。

その意味で、今回の調査結果からうかがえるのは、各教委の認識の深まりというより、その不十分さである。

選考基準を公表すれば「受験生が試験用の勉強に走る恐れがある」などとして、多様で有能な人材を確保できなくなるという。だが、それは教委の自信のなさの表明ではないか。基準を試験前に明らかにしておき、面接や模擬授業などを丁寧に評価して見識を持って採用する。それが本来のあるべき姿のはずだ。

基準だけではない。問題と解答も公表し、受験者に面接なども含め試験結果を通知する。受験者は自分の成績を確認できる。そんな仕組みにすべきだろう。

透明性を高めることは、多くの教委で問題化した口利きの排除にもつながる。

今回、選考結果と筆記答案など元データとの照合をしていない教委も27教委に上り、チェックの甘さも浮き彫りになった。教委は、もはや後ろ向きの姿勢は許されないと自覚すべきである。

西日本新聞 2008年7月31日

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教員、県職員採用試験 公平性と透明性の確保を

県の教員採用試験について、県教委幹部が国会議員秘書や県議会議員、公立学校の元校長らに、受験生の合否を事前に連絡していたことが明るみに出た。問い合わせは年間20〜30件あったといい、山口裕市教育長も3、4件の問い合わせを受けていたという。

県職員採用試験でも、県人事委員会に県幹部が県議の意向を伝達したり、県議が直接、事前通知を依頼したりしていたという。

とんでもない話である。特定の受験生だけに便宜を図る不公正な行為を、何の疑問も持たず、漫然と繰り返していたことを県や県教委はどう説明するのだろう。

県も県教委も「公平性を欠く行為で、今年からは行わない」という。「合否に影響する(金銭の授受)というような不正は、システム上ありえない」とも説明している。しかし、それでも疑念は残る。依頼者がそれぞれの権威を背景に声を掛け「よろしく頼む」と含みを持たせた例もあったというからなおさらである。

県教委は、採点やデータ入力など各業務段階ごとに複数者がチェックし、採点者に受験者が分からないよう配慮するなど不正防止対策を実施しているという。試験問題も公表し、総合判定のランクも開示してきた。

加えて、今回の事件を受け、解答例と配点を検査問題と同様に公開し、これまで規定のなかった答案用紙や判定書の保存を1年間と定めた。判定基準の公表も検討するという。

しかし、採用試験の実務を教委の事務局だけにまかせたままでいいのか。判定に第三者を加えることなど、改善の余地はまだありそうだ。県の人事委員会が実施している試験の総合得点と順位の開示も、やればできるだろう。

問題は県トップの認識だ。仁坂吉伸知事は記者会見で「不平等があった」と認めた上で、大分県を例に「そういうこと(汚職)がなければ、そんなにむちゃくちゃ悪いことかと思う」と発言した。

冗談じゃない。例えば、県議が特定の受験者に一足早く合格を伝えれば、そこに何の力も働いていなくても「合格できたのは県議のおかげ」という意識が生まれる。県議が依頼した時点で、どの受験者を気に掛けているか、担当者には無言の圧力がかかる。

こういうことを「圧力」と思わず、不公正と感じないことから、不正がはびこっていくのである。

県も県教委も監察査察室や不正通報の窓口を設置しているが、知事や職員の感度が鈍かったら、せっかくの制度も機能しない。

県教委が現状の聞き取りだけで「不正はなかった」と調査を終了させたことにも疑問が残る。山口教育長は「過去の問題を追及するより、今後の改善で信頼を得たい」というが、過去を不問にしてそれは可能だろうか。

大分県の事件がこれほど関心を集めているのは、県や県教委にも共通した構造的な問題だと県民が受け止めているからだ。その疑惑をどう解消していくのか。

県や県教委は「透明で公平な採用制度」の確立に、総力を挙げてもらいたい。それが県民の疑惑に答える最短の道である。(K)

紀伊民報 2008年7月30日

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教員採用汚職 不正排除へ透明性高めよ

大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件で商品券の授受があったとして、大分地検は収賄罪で県教委の元教育審議監を起訴、元義務教育課参事を追起訴するとともに、贈賄罪で元同課参事を追起訴し、妻の小学校教頭を起訴した。腐敗構造の全容解明が求められる。

起訴状によると、二〇〇六年に行われた小学校教員採用試験で元教育審議監と元参事は、教頭夫妻から依頼された長女の合格に便宜を図った謝礼として、それぞれ百万円分の商品券を受け取った。長女は勤務していた小学校を退職した。収賄罪に問われた元参事は、〇七年の小学校教員採用試験でも女性元小学校校長=贈賄罪で起訴=から現金と商品券を受け取ったとして収賄罪で起訴されている。

子どもたちを正しく導くべき教育界で、金品の授受や不正がまかり通ってきたことにあきれてしまう。これまでの調べで採用担当だった元参事は〇六、〇七年で点数操作により合格者全体の半数に当たる約四十人を不正合格させたとされる。

依頼された受験者の成績を加点する一方、一般受験者の点数を減らして調整していた。中には百点以上加点して合格させたケースもあるそうだ。不正行為を隠すためか、答案用紙を年度末ごとに廃棄していた。教壇に立つことを夢見て頑張ってきた受験者や、学校で教育を受ける子どもたちへの裏切り行為であり許し難い。

疑惑はさらに広がる様相をみせている。県教委からOBや県議会議員などに事前に特定の受験者の合否が知らされていた。口利きの疑いも浮上している。さらに校長や教頭への昇進試験でも金品が動いたとして、県警が立件を目指す構えだ。内部でもたれ合い、有力者の介入にもろい教育界の姿が浮き彫りになった。

共同通信の調べによると、全国で少なくとも十九道県と四政令市の教委が、特定の受験者の合否を県議や国会議員秘書らに個別に知らせていたことが分かった。このうち岡山、広島両県教委など十道県と二政令市の教委は正式な発表や受験者へ通知が届く前の事前連絡だった。「口利きや金品の授受などはない」というが、緩みが不正につながっては大変だ。疑いを招きかねない行為は慎むことだ。

教育界の信頼回復へ、教員採用試験の改善が急がれる。受験者に成績や正答、選考基準を開示するなど透明性を高めるとともに、複数の担当者によるチェック体制など不正が入り込む余地のないよう、徹底的にメスを入れなければならない。

山陽新聞 2008年7月28日

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教員採用 透明性が信頼を高める

大分の教員汚職事件は、選考基準の透明化が、信頼向上への課題であることを浮き彫りにした。

教員採用をめぐっては、これまでにも厳しい見方をされることがあった。うわさのレベルであっても、教育現場に混乱を招きかねない。そうならないように、公正性が維持できるよう制度面から対応する必要がある。

公立学校の教員採用選考で試験の配点や面接、実技などの判定内容といった「選考基準」を非公開とする教育委員会は、共同通信のまとめでは、四十七都道府県と十七政令市の半数にあたる三十二都府県市に上る。

うち二十二教委は今後、一部を含め公開を検討する意向という。公開の流れを着実に進めたい。

大分では、文書管理規定で十年間の保存が定められていた答案用紙や面接結果が、試験の半年後に破棄されていた。不正を隠す意図はなかったとのことだが、公開が制度化されていれば文書の取り扱いも変わり、不祥事の防止につながっていたはずだ。

全国の各教委の公開方法や範囲についてみると、筆記や面接など判定基準をホームページで公開する教委がある一方で、配点のみや、おおまかな基準公開にとどまるところがある。取り組みには温度差がみられる。

本県は成績開示や選考の各段階で複数が関与することなどを取り入れている。今後は第三者が受験者のデータと最終選考資料を抜き打ちでチェックする仕組みの導入も検討しているという。こうした姿勢は歓迎したい。

だが、県議からの合否問い合わせに結果を伝えていたことが判明した。不正はないということだが、こうした対応が不信を招く。制度を厳格化するだけでは不十分で、意識改革もまた不可欠と言える。

公開を考えていない教委はその理由に、試験用の勉強に終始する懸念や、偏った試験対策をさせないことを挙げている。確かに、選考は各教委が独自性を発揮して希望する人材を確保すればいい。だが、それと公開とは矛盾するものではないだろう。

大分では不正合格したとされる教員が辞職した。親族の関与が発覚しているが、当人は不正は知らなかったと釈明しているという。この事例はさておき、そうしたことは起こりうる。多面的な取り組みで不正が入る余地を排除することが大切だ。

高知新聞 2008年7月28日

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県教委でも口利き 公正な採用のため徹底防止を

大分県の教員汚職事件は底なしの様相だ。採用試験で県議らによる口利きが半ば公然化し、慣習化していた実態に驚くほかはない。

一方、愛媛県教委の調査によると、県議らが県教委に対し教員採用試験で合格を求めたり、結果を問い合わせたりする口利きが過去五年間に年間十数件あった。

聞き取り調査した十五人のうち計七人が口利きを経験していた。ほとんどが合否連絡の要望だったが、合格を求めるものもあったという。

憶測はされていたが、少なくない数の口利きが行われていたのは深刻な事態だ。合否の事前連絡も許せないが、合格を求める口利きに至っては言語道断だ。県民の信頼は揺らがざるを得ない。

県教委はこれまで口利きの存在について明言を避けてきた。もっと早く公表していれば口利き行為を減らせたに違いないし、毅然(きぜん)とした姿勢も示せたはずだ。

藤岡澄教育長は「口利きが合否を左右することはなかった」と、試験の公平性を強調する。しかし、本当にそうなのか、確信を持てない県民も多いだろう。

疑念を晴らすためにも口利きの中身を公表し、合否に影響がなかったことを何らかの手段で実証してほしい。そうでなければ不信感はくすぶり続けるに違いない。

試験問題や採点基準、得点などは希望者に開示し、面接でも外部人材を起用しているという。不正の起きにくいシステムだとしても、人間がかかわる以上「絶対」はない。さらに万全を期したい。

事務局が検討するという問題持ち帰りの許可や面接の採点基準公表などを早期に実現するほか、試験順位も開示すべきだろう。第三者の意見も聞くなど、あらゆる手法を駆使し、試験の透明性を一層高めていく必要がある。

教員採用に限らず汚職の温床となる口利きを防止するため、口利き行為を公文書として残し、公開する自治体が増えている。高知県では制度実施後、口利きが激減したという。不正の完全防止は難しくても、一定の効果があるのは確かだ。

県教委には口利きの文書記録がないという。二年半前には、自民党県議の県教委に対する口利きを疑わせる個人情報がインターネット上に流出したばかりだ。それを機に口利きの公文書化を実行しておくべきだった。知事部局も含め、口利き行為すべてを文書化して、公開する制度を早く実現させるべきだ。

当然ながら、口利きをする政治家や依頼する有権者の意識も改める必要がある。この際、県議会や各市町議会は「口利き全廃」の決議や申し合わせを行うなどして、徹底防止を誓ってもらいたい。

愛媛新聞 2008年7月27日

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教員不正採用問題「選考基準公開し透明化図れ」

大分県の教員採用汚職事件が全国に波紋を広げている。本県の教育委員会(田村充治教育長)も、2007年度まで過去5年間に行った教員採用試験について、関係した職員に不正行為がなかったか調査することになった。

本県は長年「コネやカネ」がものをいう保守的な政治風土だっただけに、大分の事件を契機に教育に向ける県民の目は厳しくなっている。調査を徹底し県民の信用を得てもらいたい。

「政治不信」「年金不信」「保険不信」と続き、今度は「教育不信」とは嘆かわしい限りだ。学校は本来、真実や正義、平等や公正というモラルや、人としてあるべき生き方を教える場である。そこが不正な金銭授受で汚されたのでは、教育関係者は子供たちに顔向けできないではないか。

大分県教委の教育審議監、参事らが校長や教頭への昇進人事や教員採用をめぐり金品で動いた疑惑は、底無しの様相をみせている。腐敗の温床となったのは教委という組織の閉鎖性だ。

不正の背景として少子化や学校統廃合などによる教員の縮小傾向がある。本県の採用試験の倍率は2000年度から十倍を上回り、08年度は過去最高の16・3倍で大分県よりも高い。だからこそ信頼される試験にするためには透明性を高めなければならない。そうでないと痛くもない腹を探られることになる。

文部科学省は全国の都道府県と政令市の教委に対し、教員採用についての選考基準や成績など開示しているか、不正防止のための措置を講じているかなど現状と改善策につき25日まで報告するよう求めている。

公立学校の教員採用選考をめぐって全国的には、合格発表前や受験者本人に通知が届く前に教委が合否を個別に連絡するのが慣例になっているところもある。個別連絡の依頼主は地元県議が多く、国会議員秘書や市議ら政治関係者、市町村長、教委OBといった人たちである。

これら有力者といわれる人たちは、教員に限らず地方公務員の採用や人事などでも「口利き」がうわさされやすい立場にある。本県も例外ではなく、コネやカネ依存の旧弊を引きずっているだけに厳しいチェックが必要だ。
 県教委の場合、採用試験の合格者の受験番号をホームページ上に掲載した後は、県議に限らず一般からの問い合わせにも応じているという。しかし、誤解を生む恐れがあるため今年度から行わないことにした。

県教委が教員採用で透明性を確保するため取っている方策は(1)解答用紙で受験者が特定できないよう受験番号だけを用い採点は複数実施(2)採点データ入力や資料管理も複数職員で当たる―など挙げている。選考基準については他県の例など調べ公開の方向で検討し採用を透明化するべきと考える。

陸奥新報 2008年7月21日

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どう子どもに伝えたら… 広がる教職腐敗

子どもたちに伝えていいものか、伝えるとしたらどのように…と考え込んでしまう。採用試験などをめぐる大分県の教職汚職が広がり、試験結果を発表前に教える不透明な行為が全国的に行われていることも分かってきたからだ。

大分県教委の参事は、上司からの指示や、自分の子どもを小学校教員の採用試験に合格させたい校長らの依頼で試験の点数を改ざんしていた。

点数改ざんは中学校教員採用試験でも行われ、校長・教頭への昇任試験では金品が動いた。さらに驚いたのは当事者の感覚だ。

合格させようと多額の現金、商品券を参事らに贈った校長の言葉は「ほかの人もやっているから」。「上司の指示を断ると出世できない」「不正を指示されたのは、それだけ評価されているからだと感じた」とは参事の話だ。

教育に携わる大人が不正に手を染めながら、大したことと思っていない。わが子のこと、わが身が大事と振る舞う。教員を、学校を信頼していた子どもたちがそれを知らされたら、どんな気持ちになるだろう。

大分県の事件を「戦後最悪の教育汚職」と断罪する識者は、同じような土壌が全国にあるのではないか、と指摘する。その通りかと思わせる問題が出てきた。

大分県教委の教育長は、受験者の合否を正式発表前に数人の県議に連絡していた。大分以外でも教委の幹部らが国会議員の秘書、首長らに合否を事前に知らせていた。県職員、警察官の採用試験で事前連絡していた自治体も少なくない。

こんな全国的な実態が浮かんだのは初めてか。試験結果の操作や金品授受などは行われていないというが、がくぜんとさせられた。

公的な使命があり、収入も安定している教員などの公務員は、大分に限らず雇用の場が少ない地方の人が目指したい職場だ。

その分、採用試験に合格するのは難しくなるから、カネやコネ、議員らの力を借りたくなったりする。本県でもそんなことが行われているのではないか、と心配になってくる。

県教委は、合否の事前連絡はしておらず、問い合わせはあったが、事後に伝えているので問題はないとしている。採用試験の採点などは大分と違い複数の職員で行っており不正はあり得ない、とも言っている。

ただ、本県を含む約七割の都道府県の県教委は、筆記試験や面接試験の配点割合といった選考基準を公開していない。透明性は不十分との指摘がある。

県教委は、過去五年分の教員採用試験にかかわった職員に不正がなかったか聞き取り調査するようだが、山形県教委は過去五年の受験者全員の試験結果と合否判定資料を総点検することにしたようだ。

大分県で二十日まで行われている採用試験では、不正を防ぐため採用事務に県教委だけでなく県人事委員会も加わり、試験成績の一覧表を県人事委も保管するよう改めた。

採用一次試験が二十四、二十五日にある本県でも透明性を高める工夫を重ね、受験者にも子どもたちにも“あらぬ疑い”を持つ必要はない、信頼して、と胸を張れるようにしてほしい。

東奥日報 2008年7月20日

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教員汚職の波紋 本県も襟を正すべきだ

2007年度と08年度の小学校教員採用試験で、計約40人を不正に合格させたとされる大分県の教員採用汚職事件は、同県教委ナンバー2の教育審議監宅が家宅捜索されるなど、泥沼の様相を呈している。こうした不正採用は大分だけの問題なのか。文部科学省は全国調査に乗り出したが、秋田県教委でも合否の発表前に照会を受けた県議などに知らせていたことが明らかになった。今後も採用方法などを総点検して透明性を一層高めることが必要だ。

大分県教委は不正合格者の採用を取り消すとともに、不正によって不合格とされた受験者は希望があれば採用するという方針を固めた。当然ではあるが、地方公務員法上の問題もあるなど難航も予想される。この汚職事件の一番の犠牲者は教育を受ける側の児童・生徒だろう。事件の全容解明はもちろん、一刻も早く立て直しを図らなければ、教育そのものが立ち行かなくなる恐れがある。

文科省は採用試験を実施している47都道府県と17の政令指定都市の教育委員会に対し、不正防止策などについて緊急調査に乗り出した。その中で、県教委でも合否について県議らに事前連絡していたことが判明した。県議については10年ほど前から教育次長が窓口になり、求めに応じて合否の正式発表直前に知らせていたという。

事前に連絡すること自体、誤解を招くあしき慣行。過去には県議のほか県幹部、スポーツ関係団体の幹部、元教員にも事前連絡していたことも判明した。他県では国会議員関係者、県教委の元幹部などに事前連絡していたことも明らかになっている。県教委はこうした関係者への事前連絡もあったかどうかを含め、徹底した実態調査をするべきだ。

今年も間もなく本県の教員採用選考試験が始まる。1次に関しては、1997年から不合格者にどの程度合格に達していなかったかを通知している。2002年からは問題用紙の持ち帰りを認め、06年からは受験者全員に筆記の得点を通知するなど、「全国に先駆けて透明性を高めてきた」(県教委幹部)という。非通知としていた2次も、早ければ今年の試験から通知する方向で検討しており、前向きな取り組みと受け止めたい。

少子化が進む中で本県の採用試験は高倍率で全国でも最難関の部類に入る。過去に「1次が通ればコネがものをいう」との話が漏れ伝わってきたことがある。公平・公正であるべき採用試験が少しでもゆがめられているようでは県民に疑念が広がるばかりだ。

県教委は▽選考の透明性▽複数による採点などのチェックシステム▽総合評価方式の在り方―などを総合的に点検すべきだろう。求めたいのは不正の余地の入らない選考システムの構築と、選考に携わる県教委幹部らの毅然(きぜん)たる姿勢だ。

秋田魁新報 2008年7月20日

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教員試験汚職 不正招く温床取り除け

大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件が全国に波紋を広げている。

受験者の合否について、教育委員会が、依頼のあった地元県議や国会議員秘書らに個別に知らせていた事例が三十道府県市(十八日現在)に及ぶことが明らかになった。

北海道や秋田、島根、熊本、宮城などは、公表前や本人に合否通知が届く前に連絡していたという。

受験者の合否を左右するものではないが、一部の有力者への計らいは、本来、公平かつ公正でなければならない公務員試験制度の信頼を大きく揺るがせるものだ。

大分県では、贈収賄などの容疑で現職の教育委員会幹部や校長ら五人が逮捕されている。特定の受験者を合格させるため金品の受け渡しがあったというから驚く。

有力者による口利きや、過去の試験で得点を最大百点余りも水増したほか、本来合格するはずだった受験者の点数を減点するという信じ難い改ざんも明らかになっている。まさに底なしの様相である。

普段、子どもたちに正義やモラルの大切さを説く教育者たちの背信行為に、唖然とさせられると同時に強い憤りを覚える。何より、信頼すべき人の裏切りを目の当たりにした子どもたちのことを思うと暗澹たる気持ちになる。

逮捕された容疑者の供述では、点数改ざんなどの「汚れ役」を引き受けたり、秘密を持ったりすることで出世できると思ったというから、一連の不正が組織内に慣例としてはびこっていたであろうことをうかがわせている。

県内では、同様の不正や合否の事前連絡があるのかどうか。県教育委員会は「不正はあり得ない」とするが、昔から「親が教員だと採用されやすい」といううわさはよく聞かれる。

試験の選考過程が外部から見えにくいこともあり、小さな疑心の芽は一連の事件の発覚によって大きく膨らむ。

昨年、採用試験での採点ミスが発覚し県教育行政への信頼を大きく損ねた。

その後も保存するべき文書の破棄が明らかになるなど、基本業務への認識が欠けているのではないかと思えることがあり、県民の信頼を取り戻すには至っていない。

県教委は採点ミスを教訓に業務改善検証委員会を設けた。採用試験の不正についても調査するという。

公平、公正な試験制度を維持する上でも表面的な調査にしてはならず、徹底的に解明するよう期待したい。

きょう二十日は県内でも教員採用試験が実施される。小中高校などに合わせて五千百人余りの志願者が、「明日の教壇」を夢見て狭き門に挑む。厳しい受験勉強の成果を存分に発揮してほしい。

教員は、子どもたちにとって実際に働いているところが見える一番身近な職業であり、未来を担う子どもたちの手本になるべき存在だ。

受験生も崇高な希望を持って晴れ晴れとした気持ちで試験に臨むはずである。難関を乗り越え勝ち取った教職が、金とコネ、そしてエゴで汚れることがあってはならない。

沖縄タイムス 2008年7月20日

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大分教員汚職  採用過程の透明化急げ

大分県の教員採用汚職事件は、腐敗の実態が明らかになるにつれ、県教育委員会を中心に「県総ぐるみ」の様相を見せ始めた。

現職の小学校長や採用担当の県教委参事ら計五人が贈、収賄容疑で県警に逮捕されたのに続き、十七日は県教委ナンバー2の教育審議監の自宅が贈収賄関連先として捜索を受けた。

逮捕された参事らは、成績の低い受験者に点数を上乗せする一方、合格ライン上にいた受験者の点数を減らし、総得点数のバランスを図るなどしたこともわかっている。

不正発覚を恐れてか、県教委は答案用紙の保管期間(十年)を無視、試験から半年ほどで廃棄していた。

トップの小矢文則教育長自身、県議から頼まれて発表前に採用試験の合否を教えていたことを認めた。採用試験で県教委に口利きをした大分県議らの数は、十人を超えるという。

上から下まで規律を失っていたようだ。教員の採用や昇格が、長年にわたり金品で買われるという前代未聞の事件は、一向に底が見えない。

県教委には再発防止策と、責任者の進退を含めた解体的出直しが求められるが、それにはまず、事件の全容解明が不可欠だ。

採用や昇格で、指示を出した者はほかにいなかったか。中学校や高校の教員採用でも、金品授受がなかったか。県警の徹底捜査をのぞみたい。

信頼回復へ、県教委は小学校教員採用試験で不正によって合格した者の採用を取り消し、本来は合格していた受験者を教員採用する方針を決めた。

不正合格者の中には、不正に全く関与せず、自分の採用の経緯を知らない人もいるに違いない。

一律に解雇すれば、地位確認訴訟などにも発展しかねない。とはいえ、不正を固定化しない県教委の判断は県民にも支持されよう。一度定めた方針は、貫いてもらいたい。

採用にかかわる不正が長く見過ごされてきたのは、選考過程が外から見えない仕組みになっていたからだ。

大分県教委は、選考基準だけでなく得点結果、解答例も公表せず、職員数人の義務教育課人事班で採点から判定まで一切の事務を取り扱っていた。

再発防止策は、選考過程の透明化から始めなければなるまい。採点や面接などに民間の識者や、知事部局の職員も入れ、試験にかかわる情報はすべて公開してはどうか。

教員採用にかかわる不正や疑惑は大分だけの問題ではなかろう。都道府県と政令市六十四のうち、選考基準を公表しているのは二十にすぎない。

全自治体が透明性について再点検するとともに、不正防止の取り組みを把握していなかった文科省が、抜本的な採用見直し策を示すべきだ。

京都新聞 2008年7月18日

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大分教員汚職 取り消しで終わらない

教員採用試験をめぐる汚職事件に関し、大分県教育委員会は過去の採用試験で不正な点数操作などによって合格したことが確認できた場合、教員の採用を取り消すことを決めた。

不正による合格、不合格者の扱いには確かに関心が集まる。これまでの調べでは、不正合格者はこの二年間だけで、合格者全体の半数に当たる四十人ほどに上るとみられる。

県教委は、可能な限り期間をさかのぼって確認する意向を示す。また、不正行為で不合格となった受験者は、本人の希望があれば採用する方針を示した。不正の実態を糾明し、不利益を被った人を救済することは不可欠だ。

しかし解明作業は簡単ではない。警察は、この二年間の受験者の本来の成績などを把握しているらしく、これらの押収データや資料などは提供が見込めそうだ。だが、隠ぺいもあるようで、本来は十年間保管すべき答案用紙などは既に廃棄されているという。

さらに、本人の知らないうちに関係者が金品を渡して依頼したケースなども考えられる。児童や保護者との信頼関係を再び揺るがせたり、場合によっては教員が不足する事態も想定され、現場が混乱しかねない。

採用取り消し方針は、問題に厳正に対処する意向を示すことで、動揺の沈静化や公教育の信頼回復を意図しているのだろう。確かにこれ以上、子どもたちを混乱に巻き込まないようにしたい。そのためには、不正の全容を明らかにすることが必要であることを忘れてはならない。

大分県内では以前から教員の不正採用のうわさがあったという。県議や国会議員秘書の口利きの証言もある。同県教育長が、受験者の合否を正式発表前に県議に連絡していたことも判明している。昇進人事でも金品が贈られるなど、不正行為は底なしの様相だ。

こうした行為は組織的と言われても反論できないと教育長が述べるような状態が続いてきた。その根源を徹底解明しなければ自浄は望めず、今後の対応も明確にはならない。

合否の事前連絡は他県でも発覚した。全国の教育現場に不信感を広めかねない事態だ。

文部科学省は採用実態の全国調査に乗り出した。透明性の確保や不正防止措置は本来、各自治体が責任を持って取り組むべきことだ。不正が入り込む死角はないか再確認が求められる。

高知新聞 2008年7月18日

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大分の教員汚職 教職を自ら汚す行為だ

こうなれば、教育に対する信頼が失墜したでは済まない。教育そのものが成り立たない事態と言ってもいいのではないか。大分県の教員汚職が底無し沼の様相を呈してきた。

学校は何が悪いことで、何が正しいことなのかを学ぶ場。そこで幹部教員らが金品授受による教員の不正採用に手を染めていたのだ。これ以上の「悪の手本」はないだろう。

自分の子供を教職に就かせるためだった点も見逃せない。いくら子供のためとはいえ結局、私利私欲を満たすためだったことになる。罪の意識がほとんどなかったということにも常識の欠落が見て取れる。

不正に採用された人の数も半端ではない。教員試験の点数水増しによる合格者数は、現在判明しているだけで約30人。今後膨らむ可能性もある。

その一方、本来合格していた人が不合格にされたケースも相当数に上る。人生を狂わされたと言っても決してオーバーではない。この不公平、不利益をどう解消していくのか。

何より問題なのは、不正合格教員がこれからも教壇に立ち続けることだ。保護者や児童生徒の間、さらに教員の間でも疑心暗鬼や不安が広がりかねない。信頼回復の道は険しい。

もちろんその前段としてウミは出し切らなければならない。不正採用は長年にわたり、常態化していたとの指摘もある。警察当局には徹底捜査を望む。

中でも注視しなければならないのは「腐敗の構図」の広がりだ。逮捕された5人以外にも関与していた教員はいないのか、どの程度組織的だったのか、いつから行われていたのか、突き止める必要がある。

県議や国会議員秘書による口利きの疑いも浮上している。その実態解明も不可欠だ。疑いが事実とすれば、腐敗は政界を巻き込み、一層広がりと深みを増すことになるからである。

採用以外に教員の昇進をめぐって金品授受があったことも驚きだ。教育うんぬん以前の問題であり、教職を自ら汚す行為だと指摘せざるを得ない。

不正採用に絡み、採用試験や面接結果が過去数年にわたり、試験の約半年後に破棄されていたことも明るみに出た。10年間の保存が定められているにもかかわらずである。

大分県教育委員会は「不正を隠す意図はない」としているが、果たして本当だろうか。少なくともタガの緩みの一端を表しているとはいえそうだ。

教員に関してとはいえ、コネと金がこんなにも幅を利かすようでは、正常な社会とは言い難い。大分県は今後、一種の「社会浄化運動」として変革に取り組むべきではないか。

秋田県はどうだろう。現時点では問題化していないが、深く潜行しているなどということはないか。対岸の火事とせずに、いま一度チェックし直す注意深さが欠かせない。

秋田魁新報 2008年7月15日

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法令順守へ意識改革急げ

横浜市立大学医学部の教授、准教授が、学位取得者から金銭を受け取っていた問題で、同大の対策委員会が再発防止策を柱とする最終報告書をまとめた。今回の謝礼金問題によって大学に対する信頼は大きく揺らいでいる。市大側は報告書の内容を重く受け止め、信頼回復に向けた取り組みを加速させなければならない。

最終報告書は、二〇〇四年度から〇七年度の四年間に謝礼金を受け取った教授、准教授が計二十二人いたと認定。受領額の総額は少なくとも五百七十八万円に上ることを明らかにした。その数は医学部の教員全体の三割を超えた。このほかにも「金銭を持ってきたが断った」とした教員が十八人もいた。謝礼金の授受という、いわば「悪しき慣行」が、医学部全体で横行していた実態を裏付けるもので、あきれるほかない。

「学位審査にかかわる金銭の授受は大学という最高学府の学位審査と学位に対する信頼を大きく損なう行為で、社会的責任は非常に大きい」。対策委が、こうした慣行を放置してきた大学当局の責任に言及したのも当然である。

今後の焦点は、市大側がこうした指摘を受け、いかに有効な再発防止策を打ち出せるかに移る。最終報告書を受け取った市大側は「ただちに再発防止策に取り組みたい」と、そこに盛り込まれた再発防止策に沿った対応を進める考えを示してはいる。

確かに、対策委が再発防止策として提言したいくつかの項目のうち、学位審査に関する謝礼金授受の禁止の明文化など、手続き面での改善はすぐにでも実行に移せるだろう。しかし、長きにわたって悪弊を容認し続けてきた大学そのものの体質改善は、そう容易ではないのではないか。

医局員の内部通報から発覚した今回の謝礼金問題では、内部通報者の責任を逆に告発する文書が一部医局員から大学当局に出されるなど、通報者の保護という観点からすると、首をかしげざるを得ない事態すら起きている。

今回の謝礼金問題では、その背景として、大学のコンプライアンス(法令順守)に対する意識の低さも浮き彫りとなった。対策委は報告書の中で、金銭を受け取った教授、准教授に対しては「みなし公務員としての意識が欠けていた」と猛省を促している。

そうした反省を求められる大学の体質下で、いくら制度上の改革を行っても、そこで講義し、学生を導く側の意識が追いつかなければ、「仏作って魂入れず」の結果にもなりかねない。

「果たして今の市大に自浄能力はあるのか」。最終報告を受けて開かれた市会常任委員会では、委員から厳しい見方も示された。まずは市民の批判や疑問に謙虚に耳を傾けてほしい。信頼回復への一歩はそこから踏み出すべきだ。

神奈川新聞 2008年7月12日

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就職活動早期化 弊害深刻化し放置できぬ

早期化が進む大学生の就職活動に一石が投じられた。国立大学協会、公立大学協会、日本私立大学団体連合会の大学三団体が、企業による学生の採用選考の活動時期が早すぎるとして、日本経団連など百三十七の業界団体・就職情報関連企業に是正を求める要請書を出した。

就職活動の時期について、大学三団体が連名で企業側に申し入れるのは初めてである。それほど問題が深刻化していることの証しだろう。

要請書は、学生の就職活動開始時期が三年生の夏ごろに早まっている点を挙げ「学生の能力・資質を高めるための貴重な学びの時間を奪っている」とし、採用活動は四年生の夏休みからにしてほしいと訴える。

確かに大学側の危機感は理解できる。専門教育が本格化する三年生の夏に就職活動が始まると、ゼミなどの授業が開店休業状態に陥るという。ちゃんとした教育ができる環境とは言い難い。短大の場合、一年生の夏から就職活動に入ることになる。

企業の採用活動は、優秀な人材を少しでも早く確保しようと前倒しされてきた。新卒者の採用ルールを定めた企業と大学の「就職協定」が一九九七年に廃止されたのがきっかけだ。

廃止当時、採用活動の開始時期は四年生の夏と決められていた。しかし、強制力のない紳士協定だったため水面下で動く会社が増え、協定は形骸(けいがい)化した面があった。

企業側の要請で協定は廃止されたが、就職活動の早期化に対する一定の歯止めにはなっていた。国際的な競争激化で、より高度な専門能力を備えた人材育成が大学に求められる中、就職活動の早期化は弊害が大きい。適正化に向け、ルールの厳守化策などを盛り込んだ協定復活を考えるべき時期である。

山陽新聞 2008年7月12日

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東大医科研 患者より功を取るのか

日本が世界に誇る医科学の最先端研究機関で、信じ難いモラル違反が明らかになった。

東京大医科学研究所の教授らのグループが、倫理審査委員会の承認や検体提供者の同意を得ないまま血液学の臨床研究を実施し、複数の論文を発表していたというのだ。

これらの論文には「承認を得た」など虚偽の記載があり、教授らはこのうち欧州の学会誌に今年発表した論文を自ら撤回している。

教授は白血病などの研究者で、問題の研究には、患者から採取した血液中のがん細胞が使われた。採取自体、患者にとっては負担やリスクを伴うものである。

研究の「功」を急ぐあまり、提供者をないがしろにしたというのか。最先端研究にかける多くの患者の期待を裏切る行為であり、許し難い。

論文が公になれば、虚偽であることは早晩判明しよう。リスクを冒してまでうその記載を重ねたのはなぜか。研究に参加したほかの研究者は承認や同意を得ていないことを知っていたのか。解明すべき疑問は多い。

人を対象にした医学研究には世界的な倫理指針「ヘルシンキ宣言」があり、研究への被験者の同意を文書で得ることなどを原則としている。厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」も同様の対応を求めている。

科学的・社会的利益より被験者の利益を優先することは、国際的に確立されたモラルだ。教授の行為は、優れた研究者である以前に、医師として求められる基本モラルを著しく欠いている。東大医科研の国際的信用も傷ついてしまった。

撤回された論文の基になった研究の一部には、文部科学省の補助金が使われている。同省の運用指針に照らし「不正行為」とみなされれば、応募資格の停止もありうる。公共的責任はそれだけ重い。

厚労省の指針違反としては、二〇〇四年以降、神戸市立医療センター中央市民病院の医師が「説明する時間が足りなかった」などを理由に、多くの乳がん患者に抗がん剤の臨床試験を実施した事例が昨年発覚している。

今回の問題と共通するのは、患者よりも自分たちの都合を優先する姿勢だ。

東大医科研は問題の背景にあるものと向き合う必要がある。

高知新聞 2008年7月12日

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教員採用汚職 被害者は子供や教員志願者

隣県大分の小学校校長や教頭が自分の子どもを採用試験に合格させるためにわいろを贈っていた。

県教委ナンバー2の教育審議監だった現・由布市教育長と試験担当参事によって、30人の点数が水増しされたとされ、校長・教頭への昇進に絡む商品券の提供もあったようだ。

現職の教育審議監までが県教委の幹部人事で商品券をもらったとの疑惑の渦中にいる。過去にも採用汚職はあったが、これほどひどい腐敗は前例がない。

被害者は合格していたのに落とされた採用試験受験者であり、不正な手段で教壇に立った者から教わる子供たちであり、カネもコネも無関係で全うな教員たちだ。

■「みんなやっている」
「200万円で何とかなる。うちの娘も大丈夫だった」「みんなやっている」

2007年に長男と長女が小学校教員採用試験を受けた女性の小学校校長は、県教委参事と小学校教頭の夫婦から、こう持ちかけられ、現金と商品券で二人分の400万円を試験担当参事に渡したとされる。

担当参事は06年と07年の試験に合格した計82人のうち30人について、上からの指示で点数をかさ上げしたと供述している。さらに中学校教員試験でも不正な操作をしていたとみられる。

大分の場合、教委が教員採用試験の問題作成から採点、面接まで一手に担い、解答や選考基準も公表してこなかった。

事件は拡大の様相を見せている。今年春に校長と教頭に昇進した三人が警察に出向き、同じ参事に謝礼などの名目で商品券を贈ったことを告白した。

■本県11・7倍狭き門
公立学校教員採用試験の競争率は、大都市圏を中心に下がっているが、地方では安定的な職業として人気があり、倍率は高い。

文部科学省がまとめた07年度試験実施状況の競争率は、問題の大分は16・0倍で、高知23・0倍や岩手20・6倍には及ばないものの全国平均7・3倍に比べて狭き門だ。本県は11・7倍。

大分県教委は採用事務を県人事委員会と共同実施する再発防止策を発表したが、まだ手ぬるい。腐敗の全体像の解明を進め、不正な合格者と合格ラインを超えながら落とされた受験者の扱いを考えなければならない。

東国原知事は教育委員会に聞いたところとして、「宮崎ではそういうことは一切ないということだった」と述べた。そう信じたいが、県の裏金問題では、当初は「ない」とされていたものが次々に明るみに出た。

「対岸の火事」と片付けるのではなく、たとえ、カネは動かなくても有力者の口利きはなかったか、足下を検証するべきだ。

それを一番望んでいるのは今月20、21日行われる来春採用の教員試験受験者をはじめとする教師志望の若者たちだろう。

宮崎日日新聞 2008年7月12日

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許しがたい不正と腐敗 大分・教職汚職

大分県で起きた小学校の教員採用をめぐる汚職事件は、全国に大きな衝撃を与えている。さらに、中学校でも同様に不正の疑いが浮上、未曾有の教職腐敗の様相だ。この問題を「他山の石」として、関係組織は、厳しく自らを見詰め、顧みる必要があろう。

事件は大分県教育委員会を舞台に、教員の採用や地位を現金や商品券などの金券で買い求め、与えたとされる聖職の腐敗だ。

大分県警には徹底捜査による事実の究明を望む。他方、同県教委や学校現場、教育界は国民に対し襟を正し、信頼回復に全力を挙げる必要がある。恥ずべき事件の温床、要因は何かを自らも検証すべきだ。

最初の事件は昨年の小学校の教員採用試験で、現場トップの小学校長が自身の長男、長女を合格させようと数回にわたり、現金や金券など数百万円を県教委義務教育課参事に渡した贈賄容疑、同参事は収賄の疑いで逮捕された。贈賄容疑の共犯で別の同課参事と妻の教頭も逮捕に至った。

それだけではない。元県教委ナンバー2の立場にあった油布市教育長らが、先に共犯で逮捕された参事の長女にも便宜をはかった事件が摘発された。

現時点では、延べ七人が逮捕(再逮捕二人)された。不正は、合格に満たない点数をかさ上げ、ゲタをはかせることで合格させたもの。許し難い行為だ。

関係者の話から、容疑事実以外にも、受験者十五人前後に対し最大百数十点を水増しし合格させていた。

そして驚くべきことに、一般受験者については減点し合格のはずの約十人を不合格にしていたとされる。

教員を目指し、勉強を重ねてきた受験者に対し、申し訳が立たない。何より、合格していたにもかかわらず、教員となる道を閉ざされた受験者に対し、早急に謝罪し、救うことが義務ではないか。

教育行政と教育現場を担う立場のものが手を染めた不正であり、教育がカネで汚され、ゆがめられたことに重大な不信を覚える。

子供たちに道徳を教え、導く立場の教育界が、道をはずれた。不正によって生まれた教員の被害者とは詰まるところ、教わる側の子供たちのはずだ。

一方、こうした作為によって合格した若者も、大きな傷を負うことになる。

いま、教員採用にかかわる県議の口利きの情報も出てきた。教員、管理職の人事でも金券が飛び交った疑念も浮上している。校長や教頭の管理職任用試験における疑惑であり、悪弊を通り過ぎ、組織ぐるみの教職疑獄の観も否定できない。道義に反し、手心で生まれた管理職であるなら、ふさわしい知識や能力、道徳性を期待できるだろうか。

こうした問題は、今に始まったことなのか。金券や現金の受け渡しは、常態化していなかったか。事件は、解明の入り口に立ったばかり。関係者の供述や証言によっては、大分県教育界で続けられてきた長い間の悪弊や問題も露呈しよう。

教職汚職はこれが初めてではない。聖職といわれる教育界だが、閉鎖社会と指摘する向きもある。大分県の問題の根は深い。本県を含め教育界全体の信頼が、あらためて問われている。

東奥日報 2008年7月11日

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教員採用汚職「透明性確保へ制度点検を」

公正であるべき教員採用にあたり、理不尽極まりない不正が行われていたことに、開いた口がふさがらない。

大分県の小学校教員採用をめぐる汚職事件は、取り調べが進むにつれて校長や教頭の昇格試験でも便宜供与の見返りに金品の授受が行われていた疑惑や、複数の県議や教委関係者による不正採用の口利きを依頼するメモの存在が明らかになるなど、不祥事は底なしの様相を見せている。

教員の採用をめぐっては昔から口利きや縁故採用などのうわさが絶えず、不正採用に絡む汚職事件の摘発は、これまでもたびたび見られた。度重なる摘発にもかかわらず不正が根絶されないのは、身内に甘い上、閉鎖的と指摘される教育界の体質が何ら改善されていないからではないか。

今回摘発された大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件については、全国的にみて「氷山の一角」ではないかという声が根強い。

今回の不祥事は、本県を含め、ほかの教委にとって「対岸の火事」ではない。それぞれの足元を見直し、改善すべきは早急に改善すべきだ。

大分県の教員採用をめぐる汚職事件でこれまでに逮捕されたのは5人で、いずれも教育関係者だ。受験した長男と長女を合格させるため、女性小学校長が県教委義務教育課参事に現金や商品券を贈っていた。

この仲介をした別の義務教育課参事と妻の小学校教頭も、長女を合格させるために商品券を贈っていた。この贈収賄事件では、当時県教委ナンバー2だった教育審議監も逮捕された。元教育審議監は不正採用を部下に指示していたというから、県教委ぐるみの不正工作と言っても過言ではなかろう。

逮捕された義務教育課参事は2007年度の採用試験で、県教委上層部の口利きがあった受験者15人前後の点数を最大百数十点水増しし合格させる一方、本来は合格だった一般の受験者約10人を減点し、不合格にしたと供述しているという。

ここにきて、口利きをした複数の県議や教委関係者名が記されたメモが大分県警に押収されていることが分かった。校長や教頭の昇格試験に際してもあったとされる贈収賄を含め、一連の汚職事件の全容が司直の手で委細漏らさず解明されるのを待ちたい。

教員採用試験をめぐる汚職事件の一因に挙げられるのが、地方における採用試験の高倍率である。大分県の場合は07年度の小学校教員採用試験の倍率は11.9倍だ。本県も志願者747人に対し採用者は63人で、11.9倍の狭き門である。

そうであればあるほど採用試験は公正でなければならず、絶対に口利きや情実がまかり通ってはならない。各都道府県教委は、透明度の高い採用や人事制度に向けて点検を急ぐべきだ。

陸奥新報 2008年7月11日

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大分教育汚職 対岸の火事とせず襟を正せ

一九六九年、愛媛の教育界は揺れに揺れた。教員異動や教科書採択をめぐる汚職が次々と発覚したのだ。国会質疑にも上り、当時の県教育長らが辞任する事態に至った。県教育史の汚点とされている。

あれから三十九年。地位も名誉もカネで手に入る―隣県大分の教育界には、そんな悪習がいまだにまかり通っていた。教員採用試験のみならず昇進や異動でも金品が動いていた。戦後最大の教育汚職に発展しようとしている。

子に同じ道を進ませたいと思うのは親心だろう。だが、逮捕された小学校校長らがとった行動は、紛れもなく人の道を大きく外れている。

わが子を採用するよう県教委幹部らに頼み、わいろを渡した疑いが持たれている。学校で子どもたちに真実や正義を説く立場のはずなのに、罪の意識がまったくなかったというから驚きだ。

わいろを受け取ったとして逮捕されたのは、県教委ナンバー2の元教育審議監と採用を統括していた参事だ。上層部から指示を受けた参事は、一部の受験者の得点を水増しする一方、本来合格だった十人を不合格にした。

試験制度の客観・公正性を県教委が組織ぐるみで破壊したといえよう。教員の質向上のための政策がいくら実行されても、入り口が腐敗していては無意味だ。本当の合格者の怒りは計り知れない。

この際、大分県警は厳正な捜査でウミを出し切ってもらいたい。県教委が当事者能力をなくした今では、内部調査の信頼性に限界がある。文部科学省は早急に立て直しに乗り出す必要があろう。

不正合格者の中には、複数の県議が口利きしたケースがあったという。教員採用をめぐる政治家の口利きの闇は本紙も追及してきた。行政への要望活動の透明化も併せて進めなければならない。

これは大分だけの特殊な問題なのか。二年前には大阪府で汚職が摘発されている。

真偽の程は別として、教員採用には疑惑の目が向けられることが多い。この手のうわさに子どもたちは敏感だ。

教育の独立性のためとはいえ、教育委員会が採用から人事までを取り仕切る制度には不透明さがつきまとう。閉鎖的ムラ社会のなれ合いを徹底排除する気構えがいる。

大分県教委は採用試験を県人事委員会との共同実施に改めることを決めた。しかし、信頼を取り戻すためには厳しい外部の目が必要だ。設問の作成から採点までを第三者が実施、評価する仕組みを全国的に検討したい。

県内の教育委員会も、大分の事件を対岸の火事とせず襟を正してもらいたい。不正の温床は根絶できたのか。三十九年前のことを忘れず、わが身を見つめ直してほしい。

愛媛新聞 2008年7月11日

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大分教育界汚職 ほかの教委は大丈夫か

教員採用試験で汚職があっただけでなく、昇格試験でも疑惑が噴き出した。大分教育界の不祥事は底なしの様相だが、問題の構図は大分に限られたものではない。ほかの教育委員会は大丈夫か。

大分県の教員採用をめぐる汚職事件で逮捕されたのは、小学校教頭夫婦や小学校校長、県教委幹部と、その地域の教育指導者だ。

教頭夫婦と校長がわが子を採用してもらうため県教委幹部に現金や商品券を贈ったという図式は、教師までもか、と社会に大きな衝撃を与えた。

問題はこれだけではない。二〇〇六年と〇七年の小学校教員採用試験に合格した計八十二人のうち少なくとも三十人について、逮捕された県教委義務教育課参事が「上層部の指示で点数を水増しした」と供述しているという。

さらに、校長や教頭に昇格する人事試験でも便宜供与の見返りに金品授受の疑惑が出ており、八日には同県佐伯市内の校長や教頭三人が警察に相談に出向いた。

この不祥事の噴出と拡大には、大分の教育界では不正が常態化していたのではないかと疑ってしまう。徹底的に解明してほしい。

しかし、それだけで済まされない。問題点を洗い出し、やり方を改め、全国に広がりかねない教育不信を一掃せねばならない。

新学習指導要領が導入されることで質、量とも先生の増強が求められるが、採用で不正が行われ、実力のある若者がはじかれ、本来は教職に就けない人に教壇に立たれては、子供にもマイナスだ。

金品授受など論外だが、教育界では採用やその後の人事でコネや情実が幅を利かせていると疑念を抱いている人は少なくない。

県によっては師範学校を前身とした大学の出身者による学閥力学が働いているという話も聞く。

教育関係者だけの「身内」で人事を扱っているからコネや情実がはびこるようになり、果ては金品が動くようになるのだろう。

大分県教委はこの夏から教員採用試験を県人事委員会と共同で行うといった改善案を示したが、いっそのこと、県教委は採用には関与せず、第三者機関に委ねてはどうか。

採用試験の配点は公表してほしいし、受験者に得点を通知することも不正防止の一助となる。試験データは、後の検証のために少なくとも五年の保存期間がいる。

この事件はほかの教委にとって対岸の火事ではない。それぞれの組織と制度を見直す機会だ。

中日新聞・東京新聞 2008年7月9日

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教員採用汚職 子どもに何と説明するか

捕らえてみれば先生とは、あまりにも情けない話ではないか。児童へのわいせつ行為など教員の不祥事が後を絶たない中で、これは極め付けだ。

大分県の教員採用をめぐる汚職事件のことである。教育界に身を置く両親が、採用試験で娘の「合格」を二百万円で買っていた。教育の世界で、あるまじきことだ。

かかわっていたのは当時、県教委ナンバー2だった教育審議監や採用の実務を担当していた義務教育課参事らだ。二〇〇七、〇八年度の採用試験で三十人以上を合格させるよう頼み込まれていたという。

依頼者の大半は教育関係者で、子弟を教職に就けさせるために行ったとされる。両親は大分県警の調べに「審議監に謝礼を払えば、便宜を図ってもらえると言われた」と供述している。

大分県では教育界ぐるみの不正行為が、堂々と行われていたということだ。子どもたちに、この事実をどう説明するのか。不合格となった受験生に何と釈明するのか。教育への信頼を失墜させた責任はあまりにも重い。

教員の世界は学閥などでまとまる身内社会の傾向が強い。人事などには閥が大きな力を持つといわれる。採用や昇格、異動に身内の慣例が働くケースも多いとされる。

そんな狭い社会が「社会常識」を鈍化させ、不正の温床になっていたのではないか。百万円単位でカネが動いた大分県はその典型といえよう。

文部科学省は今回の事件を個人の非行や、大分県だけの問題として片付けてはならない。自治体で行っている採用試験の在り方を調査し、その実態を把握すべきだ。

教育振興基本計画の策定に当たって、文科省は教職員数を五年間で二万五千人増やすことを主張していた。財務省の反発で数値は盛り込まれなかったが、このような不正がまかり通っているようでは、国民の理解は得られず、優秀な人材の確保も難しい。

このままでは教育界全体の信頼が地に落ちてしまう。子ども、保護者、教員の信頼関係がなくては教育は成り立たない。子どもの学力低下を憂える前に、教育界の再生が先だ。

「昇格に際して県教委の担当者に金品を贈っていた」など、大分県では採用試験以外にも次々と不正が明らかになっている。膿(うみ)は出し尽くさなければならない。徹底捜査を求めたい。

大分県に限らず教員の採用や昇格などでは縁故や謝礼の噂(うわさ)を聞く。不正はなかったか、儀礼の範囲を越えていないのか。本県でも精査が必要だろう。

教壇がカネとコネにまみれていた。教師の地位は下がる一方だ。立て直しは急を要する。

新潟日報 2008年7月9日

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教員採用汚職 「教育者」の名が泣く

これでも教育者なのか。子どもたちに一体、何を教えようというのか。

大分県教育委員会の教員採用試験をめぐる汚職事件で、県教委参事や小学校長ら五人が逮捕された。

わが子を小学校の教員採用試験に合格させるため校長や教頭らが、担当の県教委参事や幹部に多額の現金や商品券を贈った疑いがもたれている。

贈賄側が学校現場トップと準トップなら、収賄側は県教委ナンバー2の元教育審議監(現在は県内の市教育長)と参事。いずれも現職の教職員幹部というわけだ。

調べに対し参事は、これ以外にも多数の受験者の成績を水増しした、と供述しているという。

そればかりではない。参事は校長や教頭に昇格する人事試験でも便宜を図り、見返りに現金などを受け取っていた疑いも浮上している。

事実、八日には今春に昇格した校長一人と教頭二人が「昇格に際し、金品を贈るなど不正があったことを告白したい」と警察に出向いている。

不正の根は深く、腐敗は泥沼の様相を見せ始めている。

警察当局は、事件の全容解明に全力を尽くしてもらいたい。

本年度の採用試験が迫っているため県教委も応急手当てが必要だが、警察の調べを待ち、どこに問題があったのかしっかり検証する必要がある。

採用試験や昇格人事の在り方を見直すのはそれからだ。

事件で主導的役割を果たした参事は面接や試験結果の成績一覧作成などの実務を担当。わいろを受け取ったとされる二件のほか、二〇〇六〜〇七年度の採用試験で合格した八十二人のうち約三十人分の試験の点数を水増ししたと供述している。

なかには、百点以上増やし、合格させたケースもあるという。その影で不合格になった受験生の思いをくむことはなかったのだろう。

それにしても、この参事だけが試験結果の一覧作成に携わっていたわけではなかろう。誰一人として、成績の改ざんに気づかなかったというのか。

参事は逮捕された元教育審議監や上層部から成績水増しの指示を受けた、とも供述しているという。それなら分かる。県教委ぐるみの不正に発展する可能性もあるということだ。

解せないのは、逮捕された校長らが「ほかの人もやっているから」と、罪悪感をさほど感じているようにはみえないことだ。なれ合い体質なのか。

それでなくても「教員の社会」は縁故で採用されたり、人事が行われているのではないか、と言われがちだ。教育界への不信を広げた罪は重い。

大分県教委に限った事件かどうか。各教委は人ごとと思わず、足元を見つめ直す機会としてほしい。

京都新聞 2008年7月9日

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大分教員汚職 信じられぬ“なれ合い”

公正さが何よりも要求される教員採用でこれほど露骨な不正が横行していたことが信じられない。

大分県教委の教員採用試験をめぐる贈収賄事件である。小学校の校長や教頭らが、自らの息子や娘を試験に合格させるために県教委幹部に現金や金券を贈ったとされる。県教委ナンバー2だった元教育審議監の由布市教育長ら、現職の教職者五人が既に逮捕されるという異例の事態に陥っている。

不正はこれだけにとどまらない。二〇〇六年と〇七年の小学校教員採用試験合格者計八十二人のうち少なくとも三十人について試験の点数を水増ししたとされている。教員採用だけでなく、不正は校長や教頭に昇格する人事試験にも及ぶ可能性がある。縁故採用や情実人事という“なれ合い体質”が常態化していたとみていいだろう。

公教育への信頼を揺るがす許し難い行為だ。いつからどのように不正が行われたのか徹底解明し、公明正大な採用、人事制度を構築する必要がある。

影響は大分県内にとどまらない。現在、全国の学校現場は学力問題などをはじめとするさまざまな教育課題を抱え、しかも、猫の目のように変わる国の教育行政に振り回されている。

教育環境充実のため全国の教育現場から教員増員の要望は強いが、こうした不正は国民の不信感を生み、教員増実現への足かせともなりかねない。

教員採用試験をめぐっては昔から全国でうわさが絶えなかった。それは教員の子どもが教員になりがちで、しかも教員同士が結婚するケースも目立ち、師弟のつながりが強い―という独特の密接な人間関係が形成されやすい環境とも無縁ではなかったようだ。

だが、情報公開の流れとともに教員採用審査も工夫され、透明性は確実に高まってきた。本県でも、面接審査に民間や行政の目が加わるようになるなど、多くの関係者が関与する仕組みに変わっている。

大分県教委の場合、そうしたチェック機能が欠落していたようだ。試験事務を外部委託するなど防止策を発表したが、いかにも急場しのぎの印象が強い。さらに透明性を高めるため議論を今後深めるべきだろう。

本県を含め他の自治体も対岸の火事としてはいけない。集計から合否決定まで人間がかかわる以上、不正の余地が皆無とはいえない。担当者のモラルやチェック体制を再検証したい。

高知新聞 2008年7月9日

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ウミを出し切る覚悟持て 大分県教委汚職

大分県教委の教員汚職が底なしの様相を呈している。教員採用のみならず、異動・昇進の際にも金品が動いていたというのだ。元県教委ナンバー2も逮捕され、大分県教育界を巻き込んだ組織的な犯罪ではないかという疑念が浮かぶ。

県教委は目前の19日に1次試験が始まる2009年度採用試験を控え、成績の入力・集計の事務作業を外部の県人事委員会に委託するなどの不正防止策を打ち出した。しかし、これは当面の緊急策であることを忘れてはならない。

今回、公正であるべき教員採用に対する信頼が地に落ちただけではない。

管理職任用試験で便宜を図ってもらった謝礼として、県教委幹部に金券を贈った疑いがある小学校の校長、教頭計3人が、地元署に出向いて事情を説明したという。その1人で昇任試験に4度失敗していた教頭は「県教委幹部とつながりがなければ昇任もできない。事件は氷山の一角なんです」と本紙に語っている。

「氷山の一角」だからといって許されることではないが、採用も昇進も「頼めば何とかなる」「誰でもやっている」という風潮がまん延していたのなら、個人だけの問題で済むものではない。

わいろの金品額も少なくはない。50万円、100万円という現金や金券が行き交ったのだ。この金銭感覚にも、あぜんとさせられる。カネで職業や地位を買う。県教委幹部を含め教育者として倫理観のかけらも失った行為が平然と横行していた事態を、一体どう説明するのか。

最初に収賄容疑で逮捕された県教委参事は07、08年度の小学校教員採用試験で、合格者の半数の成績を加点して水増しする一方、一部受験者の成績を減点した疑いが持たれている。県教委上層部による「成績を加点する口利きの慣習があった」と参事は話しているという。

教員採用をめぐる不正も、自分の子どもを教員にしたい小学校校長らと県教委幹部の結託という、ゆがんだ身内・仲間意識が根本にあるとみられる。

近年、教員の資質が厳しく問われ、教員希望者は減少傾向ともいわれている。だが、学校で講師を務めながら採用試験に挑み続ける若者もいる。望みを捨てずに教員を目指す人はまだまだ多い。

今回の不正で、本来は合格した人が望みを絶たれていたとしたら、言語道断だ。昇任すべき教員がはじき出されていたのであれば、同じく許せない。

なぜ、こんな不正がまかり通ったのか。解明を警察に期待するばかりでなく、大分県教委は情実によるなれ合い体質を含めて、ウミを出し切る覚悟が必要だ。内部調査が難しいなら、第三者機関を設けてでも徹底解明を進めるべきだろう。抜本策は、その後のことである。

教員採用などの不正の話はほかでも聞く。それだけ中身が不透明だということだろう。今回の事件を機に、他県でも見直すべきは見直す努力を求めたい。

西日本新聞 2008年7月9日

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教員採用汚職 これで何を教え説くのか

教育者としての倫理とか資質とか、ご託を並べているどころの話ではない。著しく常識を逸脱した悪質な行為だ。

大分県の教員採用をめぐる汚職事件のことである。県警の捜査が進むにつれて事件の特異性のほか、病根の深さや広がりなど異常な事態が次々と浮かび上がってきた。

目を引くのは登場人物だ。わが子を教員採用試験に合格させるため金品を渡したのは、現職の女性校長や教頭夫婦らである。

一方、わいろを受け取ったのは、県教委のナンバー2だった教育審議監と採用試験の事務担当の県教委参事。贈収賄側ともに要職に就く教育界の指導的役割を負った者たちだ。

贈賄罪で起訴された女性校長は、長女と長男の合格を400万円積んで頼み込んだ。「お金で試験に通るならそれでいいと思った」と動機を語っているようだ。

不正行為を働き、それを恥じる様子があまり感じられない。教育現場のトップがこのありさまでは情けない。

この校長が不正に手を染めたきっかけにも驚かされる。「200万円でなんとかなる。わたしたちの娘も大丈夫だった」と教頭夫婦から持ち掛けられ、やすやすと誘いに乗ったというのである。

簡単な分別すらきかない。これで子どもたちにいったい何を教えようというのだろう。時代の担い手たちをどこへ導くつもりだったのか。

信じ難いことはまだある。調べによれば、2006年と07年の小学校教員採用試験に合格した計82人のうち少なくとも30人について、県教委上層部の指示で試験の点数を水増しした疑いが持たれている。不正行為が組織ぐるみで常態化していたのでないかとの疑念が消えない。

本来なら合格すべき多くの受験者が結果的にはじき出されたことを意味する。当局はこの罪深さと向き合わねばならない。

不正の横行を許す土壌がないかを含め、捜査とは別に徹底して解明を進め、全容の公表と防止策を明らかにする責任がある。

琉球新報 2008年7月9日

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教育振興計画 財源がなければ画餅に終わる

「教育立国」を宣言、「欧米主要国を上回る教育の実現を図る」とうたう割には予算の裏付けがなく、実効性に疑問を抱かざるを得ない。政府が先ごろ閣議決定した教育振興基本計画のことだ。

計画はまず、五年間に重点的に取り組む施策として「小中学校教職員の定数の在り方を検討する」としている。具体的な数値目標はないが、増員を意図する。

ほかにも「道徳教育の教材作りの国庫補助制度」「幼児教育の無償化」「小中学校施設約一万棟の耐震化促進」などを掲げている。すべて財源が必要な施策だ。

にもかかわらず、その財源は「経済協力開発機構(OECD)諸国など諸外国を参考に、必要な予算について財源を措置し、教育投資を確保する」としているだけだ。

文部科学省は「毎年の概算要求を通じて予算を確保したい」というが、それではあまりにも心もとない。基本計画で示したはずの「今後十年間を通じて目指す教育の姿」が、毎年の予算折衝次第でぶれかねない。

四月の中央教育審議会答申を受け、政府内で行われた調整では、教育予算や教員の大幅増をもくろむ文科省と、歳出削減を進めたい財務省の間で激しい対立があった。

例えば文科省は、国内総生産(GDP)に占める教育投資の割合を現行の3・5%からOECD諸国平均の5・0%に拡充するなどの数値目標を掲げ、約七兆円の予算上乗せが必要だと主張した。

しかし、その七兆円をどのように使うのか、投資の増額で教育の姿はどう変わるのかといった具体像を、最後まで示せなかった。財務省や総務省を説得できなかったのも無理はない。

結果的に、議論は数値目標を明記するかどうかに終始。少子化が進む日本の教育をどうするかなど、本質的な議論は置き去りにされた。

計画に盛り込まれた「一般行政職に比べて高い教員給与の優遇措置縮減」も疑問だろう。教員には質が求められる。人材の確保には、ある程度の優遇は必要だ。ましてや今は教師受難の時代だ。

授業時間数を大幅に増やす改定学習指導要領の全面実施は、小学校で二〇一一年度、中学校で一二年度に迫っている。予算や教員増の裏付けがなければ、現場の負担だけが増すことになる。

教育は「国家百年の大計」だ。改正教育基本法の目玉として初めて策定された振興計画には、それだけの内容がなく、文科省の気概も感じ取れなかった。

このままでは画餅(がべい)に終わる可能性が高い。単なる数字合わせではなく、現場の実情を踏まえた具体的な議論をもう一度やり直すべきだ。

愛媛新聞 2008年7月7日

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教育振興基本計画  未来への投資は必要だ

これでは「国家百年の大計」が心もとない。政府が初めて示した教育の中期目標、教育振興基本計画のことだ。

二〇〇六年に改正された教育基本法に基づき、今後十年間の方針や五年間で取り組む施策が盛り込まれている。

新学習指導要領の円滑な実施や全国学力テストの継続、子どもと向き合う時間を確保するための教職員配置の適正化など項目は八十近くに及ぶ。

「教育立国」を掲げ、国の発展の原動力となる人材育成を目指すが、内容は網羅的で、どんな人間に育てたいのか鮮明でない。何より、実効性を裏付ける「人とカネ」が記されていない。

文部科学省は計画の策定過程で教職員や教育予算の数値目標を盛り込もうとした。目標を明記することで予算増の根拠にしたいとの思惑があった。

ところが、文科省は歳出増に難色を示す財務省に「完敗」した。

もともと、文科省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)が計画を答申する段階で財務省の抵抗に遭い、数値目標が見送られた経緯はある。これを与党の文教族議員らが批判、あわてた文科省が計画案に数値目標を入れたことで財務省とのバトルが激化した。

日本の教育予算は国内総生産(GDP)比3・5%だ。それを文科省は、「十年間で経済協力開発機構(OECD)平均の5・0%を上回る水準」にしようとし、小中学校の教職員も五年間で二万五千人程度増やそうとした。

財務省は認めず、行革で地方公務員の削減を進める総務省も同調。「人とカネ」の担保はあいまいとなった。

教員増は期待薄だ。一方で、一一−一二年度に完全実施となる小中学校の新指導要領では「ゆとり教育」で減った授業時間や学習内容が復活する。

問題となっている学力低下の背景に子どもの学力の二極化がある。親の経済力など、生活環境とも無関係ではない。核家族化が進む中、集団の中で学ぶ意味も大きい。教員が子どもに向き合う時間も必要だ。公教育が担う責務がますます重くなるのは間違いない。

文科省は、道路特定財源の一般財源化に予算獲得のわずかな望みをつなぐが、教育への投資に対する説得力がなければ「連敗」は目に見えている。

実際、七十七億円をかけた昨年の全国学力テストの分析も不十分だ。現場の指導改善に生かせず、納税者でもある保護者の期待にも応えているとは言い難い。それでは、世論を味方にできず、財務省も説得できない。この悪循環のしわ寄せが、未来を背負う子どもにはね返ることを忘れてはならない。

資源の乏しい日本にとって、人への投資は国力も左右する。本来なら省益を超えた戦略を持つべきだろう。

「教育は大切」と誰もが口にする。だからこそ、その言葉に説得力を持たせるだけの力量が文科省には要る。

京都新聞 2008年7月5日

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教育振興基本計画 深みなく実効性に疑問

教育の大切さはいくら強調しても過ぎることはない。人づくりは物事の基本だからだ。社会経済が不安定感を増し、将来が不透明になっている昨今は、特に重要性が高まっている。

この観点からすれば、先ごろ閣議決定された「教育振興基本計画」は深みに欠けると指摘せざるを得ない。今後、教育をこうしていくのだという哲学が感じられないのである。

確かに字面上は、理想が高らかに語られている。「教育立国」を宣言し、「欧米主要国を上回る教育の実現を図る」という到達目標を掲げたあたりは、ほれぼれするほどだ。

問題はどう実現するかである。具体的な道筋が描けないようではほとんど意味をなさない。ああしたい、こうしたいという希望を並べるだけでは「計画」にはなり得ない。

実際、計画の策定・調整過程で教育の在り方をめぐる本質論議は希薄だったようだ。逆に見れば、根本議論の不足が道筋を描くための裏付け、つまり予算面にも大きく影響した。

計画の焦点は教育予算と教職員定数を大幅に増やす数値目標が明記されるかどうかにあった。せんじ詰めれば、文部科学省が狙う約7兆円の予算上乗せが認められるかどうかである。

財政再建が至上命題の財務省がすんなり通すはずもない。すんなりどころか、「教育だけを聖域にはできない」として、ことごとく退けたのだ。

財務省の言い分も分からないではない。半面、文科省側が財務省を納得させるほどの教育理念や根拠を持っていたかどうかも甚だ疑問だ。本質論議の不足を背景に、予算増で教育がどう変わるのかという具体像を最後まで示せなかったのだ。

国の将来を左右しかねない教育予算論議が事実上、省庁間の争いに委ねられていることもおかしい。教育の在り方について政府内でコンセンサスが得られていない証左であり、早急に議論を重ね、少なくとも一定の方向性は共有する必要がある。

仮に文字通り「国家100年の大計」との共通認識に達し、優先順位が上がれば、その分、予算が拡充されることになる。

ツケが回っていきそうな教育現場のことも心配でならない。学習指導要領が改定され、授業時間数の増加や小学校の英語必修化などで今後、ますます余裕がなくなりそうなのだ。

これに対し、計画は予算や教職員の増加を認めないと言っているに等しい。仕事を増やしておきながら、それをこなすための裏付けが与えられないとすれば、たまったものではない。

計画は教育基本法の改正に伴い、今回初めて策定された。計画名に付いた「振興」とは裏腹に、このままでは教育現場の負担が増すだけになりかねない。最悪の場合、混乱が起きる恐れも否定し切れず、一体何のための計画かとの疑問が生じる場面も出てこよう。

秋田魁新報 2008年7月4日

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教育基本計画 数値目標なしで進むのか 

国の重要な教育施策などを決めた初の「教育振興基本計画」が閣議決定された。改正教育基本法の掲げた理念を実施していくための具体的な計画である。

国の発展の原動力になる人材を育成する「教育立国」を宣言し、そのために十年先をにらみながら、今後五年間に行うべき具体策をまとめている。

今春に決まった新学習指導要領の遂行▽道徳や愛国心教育の充実▽学校校舎の耐震化▽幼児教育無償化の検討▽海外からの留学生増員-など、多岐にわたる八十項目余りが挙がっている。

基本計画の最終案は今春、中央教育審議会が文部科学相に答申した。すぐにも閣議決定されるはずだったが、延び延びになってきた。教育予算をめぐる文科省と財務省の綱引きのためである。

日本の教育予算は、主要国の中でも低く抑えられており、文科省は国内総生産(GDP)対比の支出を現在の3・5%から5%へ引き上げることを求めた。しかし予算の膨張に難色を示す財務省の壁は厚く、結局、数値目標の明記は見送られた。

初の基本計画として、高々と掲げられはしたが、予算の裏付けのないままでは、絵に描いたもちになってしまいかねない。

とりわけ文科省が数値目標として盛り込みたかったのは、五年間で二万五千人の教員増だろう。これも明記されなかった。

確かに、教員は本来の学習指導以外に、いじめ問題や親への対応などで多忙を極めている。教職員増は有効な解消策だ。学習時間増を軸にした新指導要領を遂行するためにも増やしたいのは分かる。

文科省は昨年、教育再生を重視した安倍前政権の方針もあって、三年間に約二万人の教職員増を求めたものの、本年度は千人増にとどまった。公務員削減の流れの中では「前進」と受け止める声もある。

ただ、こうした増員数の根拠が十分に示され、幅広い理解を得ているのかどうか。今後も続く財務省との交渉では、もっと説得力ある説明が不可欠だ。

このほか、基本計画で挙がった道徳や愛国心教育を具体的に進めるに当たっては、慎重な配慮をあらためて求めたい。先の教育基本法改正論議で焦点となった課題であり、さまざまな意見があるからだ。

教育基本法は地方自治体にも、実情に応じた基本計画の策定を求めている。地方分権を教育で先取りするぐらいの気概で、取り組む必要があるだろう。

神戸新聞 2008年7月4日

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歪めず薄めず、教えたい 沖縄戦と原爆

2011年度から完全実施される小学校社会科の新しい学習指導要領の解説書に、「沖縄戦」や「各地への空襲」「原爆投下」の事例が初めて明記されることになった。

文部科学省は第2次世界大戦で日本国民が受けた被害について学習する機会を充実させるためと説明しているが、多くの犠牲者を出したこれらの事実をこれまで小学校で教えるよう明記していなかったことに、むしろ驚きを感じる。

沖縄戦では、第2次大戦で国内唯一の地上戦闘が繰り広げられ「集団自決」に追い込まれた住民を含め二十数万人が犠牲になった。

広島、長崎への原爆投下は21万人余の命を奪い、いまも被爆した多くの人々の生命や健康を放射能がむしばみ続けている。

東京大空襲をはじめとする全国各地への米軍機による空襲では無数の家々が焼かれ、数十万人が命を失った。

いずれも戦争がもたらした悲惨な出来事として忘れてはならない戦争の現実であり、戦後、憲法で「不戦」を誓った私たち日本人が、次代に伝えていかなければならない歴史の教訓である。

そうした「事実があった」ことを知るのに、早すぎるということはない。小学生であっても事実を知ることで、戦争の悲惨さを感受できるはずだ。

それが、戦争の愚かしさを知り、それをどう受け止め、自らの人生のなかにどう生かしていくか、一人一人が「戦争と平和」を考え、学ぶ起点にもなる。

現行の小学校教科書にも沖縄戦や原爆の記述はあるが、どう教えるかは、文科省は授業で取り上げるかどうかも含めて学校現場の裁量に任せてきた。

しかし、教え方の指針となる学習指導要領の解説書で取り上げるからには、史実を正確に踏まえて教えるべきである。史実を薄めたり、歪(ゆが)めたりすることがあってはならない。

今回の小学校社会科の指導要領解説書への戦争被害の事例明記は、沖縄戦での集団自決をめぐる高校日本史の教科書検定問題がきっかけとなった。

文科省の教科書検定では「日本軍の強制」という記述が削られたが、沖縄県民の抗議で「軍の関与」があったことを示す記述の復活を認め、渡海紀三朗文科相が「歴史の教訓を風化させないように沖縄戦に関する学習が一層充実するよう努める」と約束した経緯がある。

文科相の約束を待つまでもなく、歴史の教訓を風化させないよう努めるのは、学校教育の当然の役割である。

戦争がもたらす惨禍をきちんと子どもたちに教え、平和の尊さを学ばせる。

指導要領解説書に沖縄戦、空襲、原爆が戦争被害の事例として取り上げられるのを機に、教師だけでなく国民一人一人が自分の問題として、あらためてそのことをかみしめたい。

西日本新聞 2008年7月4日

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教育基本計画 骨太な論議が欲しかった

地盤や土台がゆがんでいるのに、上物の建築に掛かるようなものではないか。

国が初めてまとめた教育振興基本計画が閣議決定された。今後十年間の教育の在り方や五年間に取り組む重点施策約八十項目が示されている。

計画は人づくりこそ国の発展の原動力だと位置付け、「教育立国」を宣言して教育振興に取り組む必要性を説いている。そのために公教育の質を引き上げ、国際社会をリードする人材育成などを行うべきだとする。

盛り込まれた施策は網羅的だ。特に重点的に取り組む事柄だけでも、子どもの学力や体力向上、障害児教育の充実、教員採用方法の改善、世界最高水準の研究拠点の形成などと幅広い。

どれも大切には違いない。ただ、今までいわれてきた課題を並べただけともいえる。一方、五年や十年でこれほど多くの施策を本当に実現できるのか疑問が残る。現場を支える人材の確保などが危ういからだ。

計画では、文部科学省が強く求めていた教育投資の数値目標明記は見送られた。教職員定数についても人数は示されず、「定数の在り方を検討する」との表現にとどめられた。

今回の計画策定をめぐる論議では、未来を担う子どもたちにはどんな教育がふさわしいかという本質論が置き去りにされ、カネの問題ばかりが表に出ていた印象が強い。

文科省は「国内総生産(GDP)比5%の教育投資割合」という考え方を入れることに固執し、文教族議員も巻き込んで財務省と攻防を繰り広げた。計画が総花的な内容になったのは予算確保のためという指摘もある。

教育の在り方は国の根幹を大きく左右する。多様な施策が必要なのは、それだけ日本の教育のゆがみが大きいことの証しだろう。適正な事業費支出を求めるならむしろ、そうした現実を正面から訴えるべきではなかったか。

文科省の銭谷真美事務次官は「計画実施のため、毎年の概算要求を通じて必要な予算を確保したい」と述べた。しかし財政難の中でその保証はない。

それだけに計画が現場の疲弊を助長しないか心配だ。授業が増え、校務や父母との折衝は複雑化している。うつ病などで休職した公立学校教職員は二〇〇六年度、四千六百人を超えた。

人員や予算の手当てがないまま計画を進めることになれば、教員の負担は膨らむ一方だ。職場環境の厳しさが悪循環を生み、子どもたちに影響が及ぶ恐れは十分ある。

計画を金科玉条にするのではなく、現場をきちんと踏まえることが求められる。文科省は自らの役割の基本に立ち返り、教育の土台の再点検と整備に乗り出すべきだ。

新潟日報 2008年7月3日

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教育基本計画 看板倒れの「十年の計」

高らかに掲げた「教育立国」の看板は、歳出削減路線には通じなかった。教育基本法の改正を受けて、政府は教育振興基本計画を初めて策定したが、焦点の教育投資や教職員定数増などの数値目標は軒並み削られた。実効性に疑問符が付いたといえよう。

基本計画は、10年先にあるべき教育の姿を見据えて、直近の5年間で取り組むべき施策を示すことを目指した。単年度主義の予算を、中長期計画に従って安定的に確保することが狙いだ。なるほど「国家百年の計」ともいわれる人材育成には、長期的視点で投資する覚悟が要る。

だが、基本計画は77もの施策を盛りながら、突っ込んだ処方せんを書き込むには至らなかったため、総花的な印象が否めない。その上、肝心の予算や教員増の裏付けを欠いているので、教育現場の負担だけが増えることは想像に難くない。

文部科学省は、国内総生産(GDP)比で3.5%にとどまっている教育投資を、経済協力開発機構(OECD)諸国平均の5%に引き上げるとしていた。教職員定数は5年間で2万5000人増やす考えだ。だが、財政健全化を推し進める財務省は強硬で数値目標はすべて見送られた。教職員定数の表現も「改善」から「在り方を検討する」に弱められた。

多忙化で疲弊する現場は、深刻化する教育問題に今でも対処しきれていない。なのに、3月に告示された改定学習指導要領では小学校で3年後、中学校は4年後から授業時間が増える。小学校英語の必修化や「活用」重視の学習など内容も濃くなる。改定要領の前提であったはずの教育条件整備を置き去りにしたツケはいずれ学校現場に回ってこよう。

今回の事態は、必要な予算について説得力あるデータを示せなかった文科省が招いたといえる。教育の投資効果は数値で測定しにくい面はあるにしろ、山積する課題や現状、教育改革の重要性を訴えて国民世論を喚起すべきだったろう。教育の本質論議をなおざりにしたまま、内々の財政論議、予算争奪戦に終始しては勝ち目は薄い。周到な戦略を欠いた文科省は足元を見透かされた。

教育における国の責任がしきりに強調され、国は画一的な統制を強めつつある。しかし、学校現場を支える教師の質と量を担保できないようでは、責任を果たしているとはいえまい。改定要領の目玉の知識・技能の活用も子ども1人1人に目が届かねば、単なる詰め込みに終わる。

南日本新聞 2008年7月3日

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基本計画決定 名ばかりの「教育振興」

閣議決定された教育振興基本計画は原案にあった財政支出を伴う記述が削られたうえ「国の財政は厳しい」との文言が加わった。十年先を見通すという触れ込みだが、名ばかりの「教育振興」だ。

基本計画は改正教育基本法に基づいてつくられ、十年先の教育のあるべき姿を示し、今後五年間で取り組む政策を体系的にまとめたものだ。中央教育審議会の答申を受けて文部科学省が原案をまとめ、各省協議などを終えて一日、閣議決定した。

決定では、国内総生産(GDP)に占める公的教育投資の比率を現在の3・5%から「経済協力開発機構(OECD)諸国の平均5・0%を上回る水準を目指す」という記述が原案から削られた。

3・5%で約十七兆二千億円だから、5%にするには約七兆四千億円上積みしなければならない。原案が計画として認められれば多大な財政支出を伴うことになるため、財務省が猛反対した。

文科省はこの財政支出によって公立の教職員定数を二万五千人程度増やす記述も原案に盛り込んでいた。行財政改革を進めようとする政府の方針と逆行するため、これには総務省が反対に回った。

計画をみると、その二カ所が削除されただけでなく、具体的な施策では「拡充」「充実」との字句が「支援」「推進」に直され、新たに「国の財政状況は大変厳しい」という文言が加筆された。

財務、総務両省の主張が通ったかたちだが、今回の各省協議は年度ごとの予算折衝ではなく、これからの教育のあり方を決める話し合いだった。そこでの結論が財政再建優先では、基本計画の上に乗る「教育振興」の名が泣く。

最終的には関係閣僚が調整したのだから、これが教育への福田政権の姿勢と言うこともできる。

学習指導要領が改定され、理数を中心に主要教科の授業時間が増え、小学校では英語教育が導入される。加えて道徳教育の充実と、長期的に低下傾向にある子供の体力向上への取り組みも必要だ。

さらに、いじめや不登校への対策も怠るわけにはいかない。現場の先生たちの多忙ぶりが問題視されて久しいが、熱意や使命感だけに頼るにはもはや無理がある。教育投資の大半は教職員予算だが、計画で厳しい見通しが示されたのだから、現場の仕事は増えることになりそうだ。

これで公教育の立て直しは図れるのか。十年先、暗たんとした状況に陥っていないか。

中日新聞・東京新聞 2008年7月2日

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教育基本計画 実現の道筋が見えない

「教育立国」を目指すのに、肝心なことが抜け落ちている。政府が初めてつくった「教育振興基本計画」だ。

改正教育基本法に基づいて、10年先の教育のあり方を見すえて、5年間の教育政策の目標と実現への道筋を示している。「欧米主要国を上回る教育の実現」を掲げ、力を入れることとして、小中学校の新学習指導要領による学力の向上、幼児教育の無償化の検討、小中学校1万棟の耐震化の促進などを挙げた。

だが、その裏付けとなる人材と予算の手当てが、基本計画に盛り込まれていない。これでは実現はおぼつかない。

「ゆとり教育」から転換して、授業時間も教える内容も大幅に増えた新指導要領は、来年春から一部前倒しして実施される。このままでは、学校現場の負担が増す一方だ。文部科学省は教育予算を拡充するために、具体的な手だてを講じなくてはいけない。

文科省は、5月に発表した基本計画案では数値目標を掲げていた。国内総生産(GDP)に対する教育投資の割合を、5・0%を超える水準まで引き上げ、公立小中学校の教職員の数も2万5000人程度増やす、というものだ。

それを最終的に引っ込めたのは、財務省の反対を押し返せなかったからだ。歳出を抑えたい財務省は、教育目標は投資の額でなく、学力の向上など成果で示すべきだ−と主張した。

投資を増やすことで、教育をどう変えるのか。財務省を説得できるだけの具体像が、文科省側に欠けていた面は否めない。ただ、教育への投資は、短い間にその結果が現れるとは限らない。

文科省が主張した「GDP比5%」の目標は、経済協力開発機構(OECD)諸国の平均値でもある。日本は現在3・5%、下から2番目だ。経済発展の恵みを、公教育に振り向けてこなかったことは明らかだ。

少子化が進むなかで、子どもたちはより少人数の学級で、先生のきめ細かな指導を必要としている。学ぶ環境を整えていくために、厳しい財政状況であっても、教育への支出を優先すべきだ。

残念なのは、中央教育審議会の姿勢だ。4月にまとめた基本計画に向けた答申が、そもそも数値目標を示すのを避けていた。財務省の反対を考慮したためという。

省庁の言うままに答申するなら、中教審の存在価値はない。本来の役目に立ち返って、広い視野から、現場の抱える問題にこそ、目を向けてほしい。

信濃毎日新聞 2008年7月2日

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教育基本計画 本当に投資拡充できるか

政府は、今後十年間を通じて目指す教育のあるべき姿や、五年間に重点的に取り組む施策を盛り込んだ初の教育振興基本計画を閣議決定した。

国の発展の原動力となる人づくりのため「教育立国」を宣言し、「欧米主要国を上回る教育の実現を図る」との到達目標を掲げたが、具体的な道筋は不透明と言わざるを得ない。

基本計画は、二〇〇六年の改正教育基本法で策定が義務付けられた教育政策の柱となるものだ。しかし、その裏付けとなる教育予算や教員定数に対する数値目標は盛り込まれなかった。計画の実効性が担保されるのか疑問である。

教育投資について、文部科学省は「国内総生産(GDP)に占める教育投資の割合を現在の3・5%から経済協力開発機構(OECD)諸国平均の5・0%超に拡充する」と数値目標の明記を主張していた。目標実現には約七兆円が必要となる。このため歳出削減を求める財務省が強く反対し、「諸外国の支出を参考に必要な予算について財源を措置し、教育投資を確保する」と示すにとどまった。

授業時間数を大幅に増やす改定学習指導要領の導入に伴い、小中学校の教職員定数を約二万五千人増やすとの数値目標も見送られた。「教職員定数の在り方などを検討」といった抽象的な表記に変更された。新指導要領の全面実施は小学校で一一年度、中学校で一二年度に迫っている。予算や教員増の裏付けがなければ、しわ寄せを受けるのは教育現場であることは間違いあるまい。

五年間で重点的に取り組む事項では、道徳教育の充実のため独自の教材づくりを国が支援する必要性が指摘された。いじめ、不登校などへの取り組みでは、外部の専門家からなる「学校問題解決支援チーム」などを活用するとした。さらに、大地震で倒壊する危険性が高い小中学校施設約一万棟の耐震化の促進なども盛り込まれた。

教育再生は政府の重要課題である。基本計画をめぐる調整過程で数値目標の明確な論拠、数値では測りにくい教育という将来への投資をどう考えるのかといった本質的な理念が十分議論されたのかどうか疑問が残る。

結果的に数値目標が盛り込まれなかったことで、文科省は毎年の予算確保に苦心することになろう。緊縮財政の下では、予算獲得は容易ではあるまい。教育現場の実態を踏まえた上で主張の根拠を強め、説得力ある議論を深めることが必要ではないか。「教育立国」宣言をお題目で終わらせてはなるまい。

山陽新聞 2008年7月2日

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教育振興基本計画 ツケ回る現場はたまらぬ

今後十年間の教育行政の基本方針を定める教育振興基本計画が閣議決定された。文部科学省と財務、総務両省の激しい綱引きの末、焦点の教育投資や教職員定数改善の数値目標はいずれも見送られた。

わが国の教育投資は国内総生産(GDP)比3・5%。文科省は、これを経済協力開発機構(OECD)諸国平均並みの5%への引き上げを主張していたが、基本計画は「教育投資の確保」との中立的表現にとどまった。最低でも「充実」のニュアンスを出したいとした文科省の思惑は打ち砕かれた。

教職員定数も、二万五千人の数値目標どころか「改善」の二文字も盛り込めず「定数の在り方を検討する」との表現にとどまった。

長期計画で安定財源確保を狙った文科省の「完敗」(幹部)である。渡海紀三朗文科相は「毎年の予算編成の中で必要な主張をしていく」というが、長期計画とは名ばかりだと告白しているのに等しい。教育は百年の計と言いながら「十年の計」も持てない、教育の貧困を象徴する事態だ。

忘れてならないのは、基本計画策定が教育基本法改正の呼び水に使われてきた点だ。もともと文科省をはじめ教育界は基本法改正への熱意は薄かった。それを改正に導いたのは、改正に基本計画策定を盛り込み、安定財源を確保できるという期待を持たせたからだ。その結果がこの体たらくだ。

改正を後押しした多くの関係者は裏切られた気分だろう。結局、基本法の教育目標に盛り込んだ「国を愛する態度」だけが残ったことになる。

気掛かりなのは、三月に告示された改定学習指導要領実施に向けた条件整備である。

小学校は二〇一一年度から、中学校は一二年度から全面実施されるが、授業時間数を増やし、小学校英語必修化や手間のかかる「活用」重視の学習など学校現場に大きな負荷がのしかかる。

要求した教職員定数二万五千人は、現行の指導レベルを維持するための最低限の数字だ。多忙化で疲弊する現場からすれば、ささやかな要求だが、計画はそれも認めないというのである。

今回の事態は、説得力あるデータも示せず、自民党文教族頼みでやってきた文科省の足元が見透かされた結果でもある。

改定要領は、中央教育審議会で「教育条件整備が前提」(委員)で論じられてきたはずだ。文科省内にさえ「数値目標を放棄する事態になれば、文科省なんていらないといわれる」という危機感があるのもそのためだ。

子どもとゆったり向き合う時間もなく、教材研究の時間も取れないのが現場の実態だ。それなのに学校現場を支える肝心のところを担保できないのでは、教育における国の責任を放棄したと非難されても仕方あるまい。

改定要領が目玉としている知識・技能の活用も、子ども一人一人に目が届かなければ、単なる詰め込みに終わる。クラスサイズも欧米では考えられぬ四十人という基準に据え置かれたままだ。

結局、すべてのツケは学校現場に回されることになる。これでは現場はたまったものではない。文科省の責任が厳しく問われるのは当然だ。

山陰中央新報 2008年7月2日

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「つけ」は現場に回るのか 教育基本計画

霞が関の狭い土俵で勝ち名乗りを上げたのは、やはり財務省だった。土がついたのは文部科学省である。決まり手は、歳出削減という寄り切りだった。

政府はきのう、改正教育基本法に基づく教育振興基本計画を閣議決定した。今後10年間を通じて目指すべき教育の姿を描き、向こう5年間で「総合的かつ計画的に取り組むべき施策」を集大成する。そんな触れ込みだった。

予算は会計年度ごとに編成し、執行するのが原則だ。科学技術基本計画のような例外を除けば、中長期的な財政支出を伴う計画は認められていない。

政府が初めて策定する教育振興基本計画は、そこに風穴をあける意味があったはずだ。確かに「人づくり」を担う教育は「国家100年の計」とも称される。

忙しくて子どもに向き合う時間が限られている教職員、大きな地震が起きれば倒壊する危険性のある校舎、学力低下にいじめ、不登校の問題など、教育現場に目を向ければ、予算と時間をかけて解決すべき課題は山積している。

そこで、今後10年間で教育に対する財政支出を、現在の対国内総生産(GDP)比3.5%から、経済協力開発機構(OECD)諸国平均の5.0%を上回る水準を目指す。小中学校の教職員定数を、今後5年間で2万5000人増やす。文科省は、こんな教育投資の数値目標を基本計画に盛り込むよう主張していた。

「まかりならん」と強硬に立ちふさがったのが財務省だ。「政府一丸となって歳出削減に取り組んでいるのに、教育だけを聖域にはできない」というわけだ。

「費用対効果が明確でない」とも財務省はかみついた。欧米先進国並みにカネを投じれば、どんな教育効果が目に見える形で期待できるのか。文科省サイドも数値目標が先走りして、説得力に乏しい側面があったことは否めない。

その一方で、人件費など多額の予算を必要としながら、効果を数値で測定しにくいのも、教育の特性であろう。

教える内容も授業時間数も増やす新学習指導要領は、小学校で3年後、中学校で4年後から全面実施の予定だ。

教育の予算も教職員の数も増えなければ、その「つけ」は、いずれ現場に回るのではないか。それが何よりも心配だ。

また残念なのは、霞が関の予算争奪戦の様相となり、本質的な教育論議が置き去りにされたことである。

少なくとも文科省は、教育投資拡充の正当性を主張するなら、財政当局だけを相手にするのではなく、幅広く国民に教育改革の必要性を訴えるべきではなかったか。内向きの姿勢では、世論の後押しなど望むべくもなかった。

閣議決定された教育振興基本計画は冒頭で、わが国は「教育立国」を目指す‐と高らかに宣言した。だが、財政上の裏付けを決定的に欠いた計画に、どこまで実効性はあるのだろうか。

西日本新聞 2008年7月2日

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教育振興基本計画 これでは現場の負担が重い

政府は今後10年間を通じて目指す教育の姿や、5年間に重点的に取り組む施策を盛り込んだ教育振興基本計画を閣議決定した。

改正教育基本法の目玉である同基本計画の策定を契機に教育予算の確保を目指していた文部科学省だが、財務、総務両省との激しい綱引きの末、焦点の教育投資や教職員定数改善の数値目標はいずれも見送られた。

長期計画で安定財源確保を目指した文科省の狙いは大幅に後退し、将来への展望がない。

渡海紀三朗文科相は「毎年の予算編成の中で必要な主張をしていく」というが、それでは長期計画は「名ばかり」と言われても仕方ないのではないか。

数値目標盛り込めず
焦点となっていた教育投資の数値目標について、文科省が原案に盛り込んだ「国内総生産(GDP)に占める教育投資の割合を5%超に拡充する」との表現は、「経済協力開発機構(OECD)諸国など諸外国の状況を参考に、必要な予算の財源を措置」との表現にとどまった。

最低でも「充実」のニュアンスを出したいとした文科省の思惑は見事に打ち砕かれた形だ。

小、中学校の教職員を約2万5千人増やすとの数値目標も「改善」の2文字も盛り込めず、「教職員定数の在り方などの条件整備を検討する」との抽象的な表現にとどまった。

「教育は百年の計」と言いながら10年の計についても、具体的な道筋を示すことができない日本の教育の現状を見せつけられる。

教育基本法の改正作業の過程で、安定財源確保が期待できる基本計画を盛り込むことが呼び水となったが、肝心の基本計画について文科省側は「方向性は明記できた」と言うにとどまり、今後に多くの課題を残した。

新学習要領大丈夫か
今年3月には小、中学校の教育内容を規定した新学習指導要領が告示されている。

近年の学力低下への懸念の高まりから「ゆとり教育」路線を変更、学習内容を増やし約30年ぶりに授業時間数も増加に転じた。

今回の基本計画は、この新指導要領実施に向けての条件整備になっているのだろうか。

小学校は2011年度から、中学校は12年度から全面実施されるが、授業時間数を増やし、小学校英語必修化や手間ひまがかかる「活用」重視の学習は学校現場、とりわけ教師らにこれまで以上に大きな負担がのしかかる。

文科省が要求してきた教職員2万5千人増は、現行の指導レベルを維持するための数字である。

今回の計画ではそれすら認めないのである。新指導要領下では現場はより多忙となり、教師が子どもと向き合う時間もなくなる。

教育における国の責任が強調される割には基本計画から周到な戦略が見えてこない。とりわけ文科省の責任は重い。

宮崎日日新聞 2008年7月2日

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「原爆」「沖縄戦」解説書 きちんと教える力培え

原爆投下や沖縄戦などの歴史を小学校で分かりやすく学べるようにするための適切な方向付けといえよう。

文部科学省は、二〇一一年度からの新しい学習指導要領の解説書に、広島・長崎への原爆投下や沖縄戦、東京大空襲など各地への空襲などの事例を明記する方針を決めた。初めてのことである。都道府県教委の指導主事らを集めたきのうの会合で説明した。

教師が授業をしていく際の指針となるのが解説書だ。指導要領の改定に合わせて小中高の教科ごとに作成され、指導要領の内容を補足する。

法的な拘束力はないが、出版社は解説書をもとにして教科書を編集している。今回の記述によって戦争の記述に、より厚みが増すとみられる。

現行の小学社会科の教科書でも原爆投下や沖縄戦などが扱われていないわけではない。しかしとても十分ではない。

原爆についてわずか一ページしか割いていない例もある。投下されたそれぞれの年月日と、両市で計二十一万人余が亡くなったなど簡単な内容しか書かれていないようでは、子どもたちが関心を持つことは難しかろう。

被爆県・広島にしてそうだ。原爆が投下された「八月六日午前八時十五分」を答えられない子どもたちが増えている。

広島県では、教職員組合を中心に独自の教材による平和学習が進められてきた。しかし旧文部省の「是正指導」に基づく県教委の方針が出され、その余波で平和教育は後退していった。年間カリキュラムを作成する小中学校の割合は、一九九七年の95%が〇四年には23%と激減している。

今回、文科省の姿勢転換のきっかけとなったのは、沖縄戦の集団自決をめぐる問題だった。高校日本史の教科書検定で「日本軍の強制」という記述が削除されたのに対して、県議会や県民が激しく反発し「軍の関与」という文言で復活した。

沖縄県民から「小学校の授業でも取り上げるように」と要請された渡海紀三朗文科相は「沖縄戦に関する学習が一層充実するよう努めたい」と約束していた。

新しい解説書によって、戦争がもたらす惨禍についてきちんと教えることが明確に示されたといっていい。

しかしそれだけで子どもたちが「戦争と平和」に関心を持つようになると考えるのは早計だろう。いかに教えるか、という問題が残っている。

原爆によって多くの人が亡くなっただけでなく、街の歴史と文化が破壊され、生き残った人も心身に癒やしがたい傷を負った。戦争そのものが悪だということが、小さな胸に響く教え方を、教師も考えなければならない。

平和学習の経験のない若い教師も増えている。ベテランと若手が知恵を出し合って、現場力を培いたい。そのための環境づくりも望まれる。

中国新聞 2008年7月1日

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教育振興計画 人も予算も増えないでは

改正教育基本法に基づき、政府が初めて策定する教育振興基本計画が、きょう閣議決定される。

計画は、今後五年間に実現すべき教育施策などを定めたものだが、その間には新学習指導要領が実施される。

学習内容や授業時間が約三十年ぶりに増加に転じるという一大変革に対応するため、文部科学省の原案は、小中学校教職員を約二万五千人増やし、「国内総生産(GDP)に占める教育投資の割合を5・0%超に拡充する」などの数値目標を掲げていた。

ところが最終案は、これらの数値目標が削除された上、「定数の在り方を検討する」「諸外国の状況を参考に、必要な予算を確保する」とそれぞれ表現が大きく後退してしまった。

策定を契機に、教育予算の大幅増を狙った文科省の原案は、財務省と総務省の強硬な抵抗によって「骨抜き」にされた格好だ。

予算と人の拡充は、政府の歳出削減や地方公務員の削減方針に反する、というのが財務省などの反対理由である。文科省も「教育で成果を挙げるには条件整備への投資が必要」「教育への投資を減らせば、将来への活力が失われる」と真っ向から対抗してきた。

財務省には財政再建という大義名分があるとはいえ、もとより日本の教育投資の対GDP比は3・5%と、先進国の最低レベルだ。せめて経済協力開発機構(OECD)諸国平均の5・0%を上回る水準に―と数値目標を掲げるのはもっともではないか。

教職員の多忙感は、既に看過できない状況にある。公立学校の教職員の精神性疾患が病気休職の主要因になっていることは、それを裏付けている。

「ゆとり転換」で、授業についていけない児童生徒への目配りはますます重要になる。きめ細かい授業のための条件が整備されず、負担ばかり増えるようでは現場の士気にも影響しよう。

計画にはこのほか、幼児教育の無償化の検討▽小中学校施設約一万棟の耐震化▽留学生三十万人の達成に向けた受け入れ拡大―など、大規模なプロジェクトが盛り込まれている。

相当な予算を伴うものばかりであり、施策が滞りなく遂行されるのか、不安はぬぐえない。これまで何度も主張してきたことだが、教育は「百年の大計」である。将来に悔いを残さないために、最後まで議論を尽くすべきである。

高知新聞 2008年7月1日

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新指導要領解説書 史実を正しく継承してこそ

文部科学省が、2011年度から完全実施される小学社会科の新学習指導要領の解説書に、「集団自決」(強制集団死)など多くの犠牲者を出した沖縄戦や連合国軍(米軍)の無差別爆撃、原爆投下といった事例を初めて明記することが分かった。正しい史実の継承へ向けて一歩前進であり、歓迎したい。

文科省はこれまで、第2次世界大戦の被害などを小学校の授業でどのように教えるかは一定程度現場の裁量に任せていた。

学習指導要領は、学校が児童・生徒に教えなければならない学習内容など教育課程の最低基準で、ほぼ10年ごとに改定されている。新学習指導要領で日本国民が受けた被害について、学習する機会を充実させるとしている。

昨年3月、文科省は高校歴史教科書から沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)を日本軍が強制したとする記述を削除した検定意見を公表。これに納得しない県民は11万6000人(主催者発表)が9月29日、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に参加し抗議した。

県民大会実行委員会などの要請に対し、渡海紀三朗文科相が「沖縄戦に関する学習がより一層充実するよう努めたい」としていたことの具体的な表れだろう。

学習指導要領の内容を補足する解説書は、文科省が各教科ごとに編集している。教諭の授業指導の指針になっており、教科書もそれを参考に作成されることから、学校現場に与える影響は大きい。

先の大戦で米軍は、沖縄の10・10空襲をはじめ、東京や名古屋などで国際法に反する無差別爆撃を展開。東京空襲では約10万人の市民が死亡したといわれる。広島と長崎に「悪魔の申し子」と言うべき原子爆弾を投下した。これら歴史的事実は、思想的解釈などはひとまず脇に置いて、正確に後世へ伝えていかねばならない。

望むべきは、解説書にとどまらず、小中高校の社会科(日本史)に正確な史実を掲載してほしいということだ。特に「集団自決」に関しては、昨年の教科書検定をきっかけに、危機感を覚えた体験者が重い口を開き「正しい事実を残したい」と体験を語り、手記を残すなどの行動に出た。

教科書検定審議会は、沖縄戦の体験者や研究者の意見を求めることはもとより、沖縄戦の記録を記した県史や市町村史、住民の体験記なども参考にしてほしい。

むろん被害ばかりでなく、日本が行った中国や朝鮮半島などへの戦争加害の事実もきっちりと伝えたい。

きょうという日は過去の上に成り立ち、あすはきょうの結果という。史実は正しく継承されてこそ、確かな未来は約束される。

琉球新報 2008年7月1日

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