地方紙社説(2008年6月)


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意欲を引き出してほしい 教員免許講習

2009年度に教員免許更新制が導入されるのを前に、先月から更新のための「予備講習」が一部で始まっている。

教員養成課程がある大学を中心に、文部科学省が指定した全国約100の教育機関が開講する。大半は教員が受講しやすい7‐8月の夏休みに実施されるが、本番前の試行で講習の問題点を洗い出し、改善を図るのが目的である。

新制度の狙いは、時代の変化に対応して教員の資質を向上させることにある。ぜひ実効ある講習を期待したい。

国公私立を問わず幼稚園から高校までの教員免許は、現在の終身制から10年間の期限付きになる。非常勤講師を含めて、更新には期限前の2年間に必修領域(12時間)と選択領域(18時間)の計30時間の講習を受け、講習実施機関から修了を認定されなければならない。

免許更新の最初の対象者は、2011年3月末で35歳、45歳、55歳になる教員である。予備講習は、その対象者が一足早く自主的に受講することを想定しており、修了認定を受ければ本番で受講免除もあるという。

文科省は「不適格教員の排除が目的ではない」と言うが、教員の身分にかかわる仕組みであり、決して生半可なものではない。受講生は心して学んでほしいし、講習をする大学などは講習内容の質が厳しく問われることになる。

今回、用意された講習内容は実施機関ごとに異なり、必修の「教育の最新事情」では、新学習指導要領の解説から学校と地域の連携のあり方まで幅広い。選択は生徒指導理論や教科別の最新の指導法を伝授するなど、これも多彩だ。

九州・山口では福岡教育、福岡県立、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、山口の各大学が名乗りを上げ、工夫を凝らした講習を準備している。

教員免許取得後10年以上を経過した教員は中堅、ベテランの部類に入る。現場に精通する一方、自らの指導力で補うべき課題も自覚しているはずである。

近年、ベテランといえども子どもの変化に追いつけず、これまで培った教育実践が通用しない現実もあるという。子どもとのコミュニケーション、間合いの取り方に悩む教員もいるだろう。

更新講習を、教員が自分を見詰め直す契機にもしたいものだ。

そのためには、講習は質とともに教員のやる気を引き出す内容が求められる。どこの、どの講習を受けるかは自由であり、より多くの受講生を集めるためにも、講習内容は現場教員の興味関心を引くものでなければならないだろう。

また、受講した教員をどう評価するか、修了認定の公平さも欠かせない。

予備講習が試行である以上、事後の検証が重要だ。大学など各実施機関は受講者から要望や感想を聴取する。それらを踏まえ、文科省は本番に向け改善方策を十分に練り上げてもらいたい。

西日本新聞 2008年6月30日

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教育基本計画 人材育成目指し予算拡充を

資源に恵まれない日本にとって、人材を育てて国の発展につなげるしかない。明治の元勲たちはそのことをよく理解していた。維新後、教育に力を注いで、短期間のうちに世界でも有数の教育レベルになったのはあらためて指摘するまでもない。

しかし、現在の政治家や官僚たちは、そのことをすっかり忘れてしまったのか。世界的な原油・食料高騰、地球温暖化などの環境、エネルギー問題など、人類が抱えるこれらの試練を前にむしろ、今こそ人材という「資源」が求められているのではないか。

政府が初めて策定する教育振興基本計画最終案の大枠が明らかになったが、その内容を見ると、そう思わざるを得ない。そこには、いかに教育予算を削っていくか、という方向性しか見えない。「教育への投資を惜しまず、必要な施策を果敢に実行していく必要がある」(中央教育審議会の答申)という理念からはほど遠い。教育は未来への先行投資、との視点がまるで感じられないのだ。

文科省は5月23日、GDPに占める教育投資の割合を現在の3・5%から「OECD諸国平均の5・0%を上回る水準に引き上げる」などの数値目標を掲げた計画原案を発表した。さらに、小中学校の教職員定数を約2万5000人増やすように、とも求めていた。

それが、今回の最終案では、いずれも財務省や総務省の反対で見送られてしまった。政府の歳出削減や地方公務員の削減方針に反する、というのが言い分だ。最終案で、投資については「諸外国の状況を参考に、必要な予算の財源を措置し、教育投資を確保する」とし、数値の明示は避けた。教員の増員に関しても「定数の在り方を検討する」との文言に修正するという。文字通り、木で鼻をくくったような表現だ。こんな抽象的な表現で、満足な教育予算が確保できるとは誰も思っていまい。

渡海紀三朗文科相は「満足できる記述ではないが、毎年の予算要求で頑張っていこうと決断した」と語っているが、見通しが甘いというべきだろう。それが困難だったからこそ、計画原案をまとめたのではないか。原案を貫き通すという決断こそが欲しかった。

2月に文科省が公表した改定学習指導要領では「ゆとり教育」を廃止し、授業時間・内容とも増やした。最近の児童生徒の学力低下に配慮したものだ。ただ、これは予算の確保が前提となろう。それなしに、教師の負担を増やすだけなら何の解決にもならない。現場の混乱を招くだけだ。

道路特定財源の無駄遣い、失われた年金、天下りによる談合など。最近の不祥事による税金の無駄遣いは目に余る。財源を言う前に、こうした点から改めるべきだ。

琉球新報 2008年6月29日

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図書・教材費流用を考える

ひっ迫する学校教育予算

■20%超が他の用途に
先に、文科省は、学校図書費と教材費の財政措置についての調査結果を発表した。両者とも地方交付税によって交付されるため、これまでも予算化率が問題になっていた。

07年度、国が全国の市町村に図書購入費として約200億円の財政措置をしたが、実際に自治体が本の購入に予算化したのは78%。20%超に当たる44億円が他の目的に使われている。つまり、図書購入費の流用だ。沖縄県の予算化率は69.1%で、石垣市はわずかに35.5%。

同様に、小中学校の教材備品にかかわる財政措置は813億円。内、66%の533億円が予算化された。本県は34.3%。

予算化率は自治体間でバラツキがあり、財政事情を映している。

93年、国は「学校図書館図書基準」を定めた。これは、子どもが本に触れる機会を増やすことで読書離れを防ごうと、各学校の蔵書を1・5倍に増やすことを目標にしている。しかし、現実は逆行していることになる。

■教育行政の姿勢が問われる
同「図書基準」ができた頃、現在のように流用が多額になることを懸念した本紙は、社説でも取り上げ、その健全な予算措置を求めた経緯がある。異常とも言える低予算化率は、やはり正していく必要がある。

だが、一方的に非難はできない。地方交付税の性格からして財政のやり繰りが見えるからである。例えば、学校図書費の流用が、同じ教育関連の就学援助費や修学旅行補助金、学校設備等に回っているかもしれないからだ。

そういうことが考えられる中でも、やはり、あえて言わねばならないだろう。今の低予算化率が常態化すれば法律の設立趣旨や崇高な理念が生かされないばかりか、首長の教育行政姿勢に疑念を挟まざるを得ないと。

学校の図書館には、せめて課題図書や指定図書が数冊もあって、子どもたちが競い合って読み、感想を述べ合う、そういう「子どものいる風景」をつくりたい。

■学校統合問題の浮上
みてきたように学校予算は逼迫(ひっぱく)している。そこでそれを打開する策の1つとして浮上したのが学校統合である。

かつてはどの学校でも校舎、運動場狭しと子どもたちが喜々として学び、遊んでいた。ところが、急激な少子化で、本来の学校教育を維持することに難渋している学校がある。統合が計画されている農村部の学校である。

ここで立ち止まって考えてみたい。この学校統合は、果たして少子化のみにその因を求めていいのだろうか。行政が農業振興をおざなりにし、農村を疲弊させた結果の人口流出ではないのか。農業振興が叶えば学校統合問題は起こらないと考える。しかし、現実も直視しなければならない。

石教委の場合、1年目は、近接する小規模校を統合することで適正規模校にし、複式学級を解消することなどで効果的な教育を図りたいとした。何よりも、子どもはある程度の集団でこそ育ち、人格の陶冶が実現できるとの思いからだ。

2年目は、財政問題を説いた。困窮する財政を無視して学校を語ることはできない。火災施設の補修、防犯カメラの設置等の危機管理体制もしかれていない状況にある。智恵を出し合いこの難局に当たりたい。

八重山毎日新聞 2008年6月28日

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医学部定員増 目先の危機にも対処を怠るな

政府がかたくなに続けてきた医師数の抑制方針から、ようやく舵(かじ)を切る。

大学医学部の定員を過去最多だった一九八一年の約八千三百人程度にすると、骨太の方針に明記する。ことしより五百人の増員で、さらに上積みする可能性もある。

政府は八二年に医師抑制を決め、九七年には閣議決定でも確認した。人口比では経済協力開発機構(OECD)加盟国で下位になり、国際水準に追いつくにはあと十三万−十四万人必要とされる。

しわ寄せはとりわけ地方の小児科や産科、救急部門で顕著だ。国民皆保険のもとで世界に誇ってきた医療制度の危機で、放置できない。

政府の方針転換に先立ち、すでに愛媛大などは緊急的に定員を増やしている。定員の一部を地域医療の担い手育成枠とする試みもしている。一方で、県立の五病院に限っても麻酔科を中心に三十人近く足りない現実がある。

こうした状況は幾重もの悪循環を招いている。過重労働で勤務医が次々やめ、残った医師をいっそう追い込む。さらに、患者が減って病院経営を悪化させている。

それでも厚生労働省は、問題は地域や診療科ごとの偏在だとして絶対数不足を認めてこなかった。医師を増やせば医療費が膨らむとの考えが根底にある。これには因果関係を否定する見方も根強い。何より現状では「民滅んで制度あり」になりかねない。

ようやくとはいえ認識を根本的に改め、増員に踏み切るのは英断といっていい。

ただし、増員の規模や財源には不透明な部分が残る。

医師数自体はいまも毎年三千五百−四千人増えている。適正規模を見きわめるよう綿密な将来推計が不可欠だ。

福田康夫首相は社会保障費の伸びを毎年二千二百億円圧縮する小泉政権以来の方針を踏襲する考えだ。だが、ひずみの噴出ぶりを見ると機械的抑制は限界と思わざるをえない。医師不足対策を担保する意味でも徹底論議したい。

医学部の定数を増やしても養成には十年ほどかかる。目先の危機への対処も手綱を緩めず進めてもらいたい。

一つには厚労省のいう偏在解消がある。地方へ医師を派遣してきた大学の医局は、研修先を自由に選べる新臨床研修制度で自ら医師不足に陥った。是正が急がれよう。

ことしの診療報酬改定では勤務医と開業医の格差解消が一部にとどまり、勤務医の待遇改善の政策的誘導としては踏み込み不足だった。出産などで退職した女性医師らを県が設けているようなドクターバンクと結びつけ、活用していく方策も有効だろう。

政府の決断を、あらゆる対策で危機に歯止めをかけるターニングポイントにしたい。

愛媛新聞 2008年6月24日

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医師増員 偏在解消を急ぐべきだ

地域の深刻な医師不足に対処するため政府は、医師数の「抑制」という従来の方針を改め、計画的に「増員」していく考えを打ち出した。四半世紀ぶりの路線転換である。

医師が過剰になったり、医療費が増えたりすることを懸念して政府は一九八二年、「医師数の抑制」を閣議決定した。

医師不足が社会問題化したことを受けて二〇〇六年、一部大学医学部の定員増を認めたが、その時にも「引き続き医学部定員の削減に取り組む」との一九九七年の閣議決定は変えていない。

今回、九七年の閣議決定を見直し、「抑制」から「増員」への路線転換を打ち出したことは、医師不足解消に向けて政府が本腰を入れて取り組む姿勢を示したものと受け止めたい。むしろ遅過ぎたぐらいだ。

地域医療をむしばんでいる医師不足には、さまざまな要因が複合的に絡んでいる。

若い医師は先端の技術を学びたいという意向が強く、離島や辺地には行きたがらない。過重労働を強いられる病院勤務に嫌気がさして、条件のいい開業医に変わる医師も後を絶たない。訴訟リスクを抱える産科や小児科などは、敬遠されがちだ。

二〇〇四年に新人医師の臨床研修制度が義務化され、都市部への研修希望が集中した。研修医が減った大学病院は過疎地などに派遣していた医師を引き揚げた。

問題なのは、「医師の偏在」が急速に進んだ結果、必要な医療が受けられないという深刻な現象が各地で起きていることだ。

県議会の二月定例会で仲井真弘多知事は「女性医師の再就業の支援や勤務環境の改善を図り、中長期的な医師確保につなげていきたい」と答えた。

医師不足が深刻な産科や小児科の女性医師の中には、子育てと仕事の両立に悩んでいる人が少なくないという。しばらくの間、「非常勤で、短時間働きたい」と希望する女性医師に対しては、多様な勤務形態を認めるなどの柔軟な子育て支援策が欠かせない。

琉球大学医学部の定員を増やしても、それが直ちに県内の医師不足の解消につながるわけではない。新人医師が、医師不足を訴える離島・辺地や産科・小児科などに勤務して初めて、医師不足解消に役立つのである。

医師不足で困っている地域や医師の少ない診療科目に新人医師を誘導していくためには、魅力的な施策を打ち出す必要がある。

福田康夫首相は、社会保障費の歳出抑制路線は今後も堅持するという。医師増員のための財源はどこから捻出するつもりなのだろうか。政府内の調整は進んでいないようだ。

財源問題が詰められていないため、どのくらい医師を増やしていくのかも、まだはっきりしない。

政府は社会保障費の伸びを年二千二百億円ずつ圧縮する目標を掲げ実施してきたが、抑制路線を維持するのはもはや困難だ。

医療費の削減が、結果として「医療崩壊」を招いている現実を直視しなければならない。

沖縄タイムス 2008年6月24日

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医師増員 偏在なくす対策も急務

地方を中心に深刻化する医師不足の現状を考えれば、もっと早く政策転換すべきではなかったのか。大学医学部の医師養成数を抑える政策を取り続けてきた政府が、ようやく定員増にかじを切った。現行の定員を五百人以上引き上げて、過去最多の水準にするという。

大学医学部は国公私立合わせて八十ある。入学定員は一九八一〜八四年の約八千三百人をピークに減り、今年は約七千八百人。緊急医師確保対策などで昨年より二百人増えたものの、八千人を割り込んでいる。

政府が抑制策にこだわってきたのは、「医師が過剰になれば、医療費が膨らむ」との懸念が背景にあるようだ。橋本内閣の財政構造改革の一環として九七年に「大学医学部の整理・合理化も視野に、引き続き定員の削減に取り組む」と閣議決定。小泉改革にも引き継がれてきた。

医師の総数は年々増えている。しかし、人口千人当たりの数でみれば、ドイツやフランスの三・四人に対し日本は二・〇人。経済協力開発機構(OECD)に加盟する三十カ国中の二十七位にとどまる。医師過剰を招くという従来の政府の主張は、説得力に欠ける。

将来的に医師数を増やすという点で、政府の削減方針撤回は前進だろう。一方で、若手医師が大都市に集中したり、産科や小児科が敬遠されたりする「偏在」に対しては、それほどの効果を期待できまい。

とりわけ気に掛かるのが、この十年余りの間に、三十歳代男性の病院勤務医が約八千人も減っていることである。過酷な勤務にあえぐ働き盛りの医師が、たまりかねて病院を去るケースも少なくない。

広島県内では、人口十万人当たりの実働医師数が全国で唯一、減少に転じた。診療科の廃止や縮小も相次ぐなど極めて深刻だ。「医療崩壊」が始まっているともいえよう。

厚生労働省が今月まとめた「安心と希望の医療確保ビジョン」は、医師増員に加え、当面の対策も盛り込んだ。医師臨床研修制度の見直し、女性医師が出産・育児と仕事を両立できる短時間勤務の導入、過重な負担を軽減する交代勤務制…。財政措置はもとより具体的な道筋を示すべきだ。

「医師の数を増やすだけでは解決しない」との声も聞かれる。問題の根っこにある医療費の抑制政策を続けるのか。政府の姿勢が問われる。

中国新聞 2008年6月22日

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教育への信頼を裏切った 教員採用汚職

教員採用で、これほど露骨な不正がまかり通ったことに驚かされる。大分県教委の教員採用試験をめぐって大分県警が摘発した贈収賄事件のことである。

逮捕された小学校の校長は、自分の長男と長女を小学校教諭にしたいと思い、昨年の採用試験の際に2回に分けて、教員採用を担当していた当時の県教委課長補佐に約100万円分の金券と現金約300万円を贈った疑いが持たれている。

同じく贈賄容疑で逮捕された別の県教委職員と小学校教頭の夫婦が金品授受などを仲立ちした、と県警は見ている。

校長らは大筋で容疑を認めているという。採用試験のデータを一括管理する立場にいた元課長補佐は、長男と長女の筆記試験と集団討論の1次試験の採点結果を見て、1次試験の合格ラインの点数を下げたとされる。2人は面接などの2次試験も合格して今春、採用された。

試験作成者、筆記採点者、面接官、合否判定者など、教員採用試験には多くの関係者が関与する。だが、元課長補佐のような立場の職員による工作が採用結果につながるのであれば、採用試験の仕組みに重大な欠陥があったことになる。

教員採用は公正でなければならない。4人の行為はそれをないがしろにし、公教育への信頼を揺るがす裏切りである。どのように不正が行われたのか。果たして今回だけなのか。大分県教委は警察とは別に徹底して調べるべきだ。その上で再発防止策を講じる必要がある。

近年、団塊世代教員の大量退職に伴い、東京や大阪など大都市圏では採用数を大幅に増やしている。小学校教諭で競争倍率が3倍前後の都府県もある。

一方で、九州を含めて地方は大量退職の時期が数年後であるのに加え、少子化で児童生徒数が減り続け、採用数がさほど増えていない現状がある。大分県でも昨年の採用試験では小学校教諭の競争倍率は11.5倍の狭き門だった。

しかし、そんな事情が今回の不正の言い訳として通るはずはない。

長男は3度目、長女は初めての受験だった。「2人とも合格させたかった」。校長はこう供述しているというが、親として、教育者として、許されざる行為に手を染めたと言うほかない。

収賄容疑の元課長補佐も、「1人当たり200万円」とわいろ額を持ち掛けたとされる仲介役の夫婦も同様だ。

昨年発覚した福岡市教委の教員採用試験漏えい事件は、教育委員会幹部や教員OBら教育関係者の内輪で起きた犯罪だった。今回も、逮捕された4人は教委と学校という密接な関係でつながる、いわば身内だったといえる。そこに、ゆがんだ仲間意識を垣間見るのである。

先の漏えい事件をめぐり、地方公務員法違反に問われた元市教委理事に対し、福岡地裁は判決で「採用試験に対する一般市民の信頼をも損なわせた」と指摘した。教育界に猛省を促したい。

西日本新聞 2008年6月22日

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医学部定員 必要な人材は育てたい

福田首相と舛添厚生労働相が大学医学部の定数削減を決めた一九九七年の閣議決定を見直す方向で一致したことで、三十年近く続いてきた医師数抑制政策は大きな転換点を迎えた。

地方などで深刻化する勤務医などの不足を、厚労省は医師の偏在の問題と説明してきたが、首相と厚労相はそれを修正したことになる。

医師数増加がゆくゆく医療費の増加要因となる可能性はあるものの、医師不足から医療制度の根幹が揺らいでは元も子もない。政府は医師不足の実態を把握した上で、国民が安心して医療を受けられる医師養成の計画を練り直す必要がある。

日本の医師養成の変遷は、経済協力開発機構(OECD)内における位置付けによく表れている。

一九七〇年前後、人口当たりの医師数で日本はOECDの平均を下回っていた。それを是正するために採用されたのが一県一医大政策で、旧高知医科大などが設置された結果、医師不足はかなり改善された。

八〇年代に入ると状況は一変する。日本以外のOECD加盟国の多くが医師増加政策を推進したのに対し、日本は八二年から財政健全化を理由に医学部定員抑制に転じる。医師数が増えればそれにつれて医療費も増加する、との考え方が根強くあった。

抑制路線は九七年の閣議決定で再確認されたが、その妥当性を揺さぶったのは医療の現実だった。医師不足から地方や救急病院では「医療崩壊」が進み、産科、小児科などの診療分野でも同様の現象が起きている。

日本の人口当たりの医師数は現在、OECD平均を大きく下回る。医師の総数は足りている、偏在が問題という厚労省の説明は、現実の前に説得力を失っていた。抑制路線の転換には十分な背景が存在する。

医師不足の状況は地域ごと、診療科目ごとに異なるから、学部の定員見直しは正確な現状分析が前提となる。その上で高齢化の進行、それに伴う疾病率の増加、将来の人口動向などを総合的、長期的な視点から検討し、現行計画にどれだけ上乗せするかが焦点になってくる。 

国民が負担できる医療費は無限ではない。無駄な部分はそぎ落とす努力を続けながら、必要な人材はしっかりと確保する。そんな難しいかじ取りが政府に求められている。

高知新聞 2008年6月19日

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県立学校再編 教育の機会均等に責任を持て

子どもの選択肢を狭め、教育や地域の格差に拍車をかけないか。懸念が浮かぶ。

県教育委員会が二〇〇九年度から五年の間に進める県立学校再編整備計画案をまとめた。目を引くのが高校再編に大胆に切り込んだ点だ。

中山と三間は職業学科を近隣校へ統合したうえで普通科の募集を停止、事実上廃校となる。今治北大三島、松山北中島両分校と定時制の北宇和日吉、大洲肱川両分校、西条は募集を停止。上浮穴、長浜、三瓶、三崎は分校化する。かつてない規模で、大きな波紋が予想される。

生徒の増減次第では変更の可能性があるという。とはいえ具体名が明らかになったことで来年以降の募集に影響しないか、心配だ。

実際、わずか三年前に分校化した今治南大島が本年度で閉校するのに続き、今治北大三島も募集停止となる。分校化する高校でも、それを目の当たりにして生徒や教員、住民らの不安は尽きまい。

再編案で気になるのは、必然的とはいえ対象が山間部や島しょ部に多く、地域で唯一の高校である点だ。

少子化を反映し、県内の中学校卒業者はこの二十年で六割以下に落ち込んでいる。県財政の厳しさも考えれば、効率性の追求にはやむをえない面がある。

それでも高校がなくなればさらに地域の活力をそぐ。過疎対策や一次産業振興が重要課題となる県政全体で、そうした側面をどうとらえるのか、広い視点で議論したい。

たとえば三崎が導入している習熟度別の少人数学習のように、小規模校ならではの意欲的試みもある。加えて再編対象の高校は、親元通学のニーズに応えたり周辺地域からの受け皿になったりして、97%を超える中学卒業後の進学率の一端を支えてきた。

そうした部分は正当に評価するべきで、県の財政事情を住民が負担する通学費や下宿代に転嫁するだけでは困る。なにより教育の機会均等は絶対に守らねばならない。

県教委は県立高校に進学率や就職率などの数値目標を導入させている。今回の再編作業は「二年続けて新入生が三十人を下回る」といった数値基準を明示して臨んだ。透明性を高める意義は理解できるにしても、ここでも競争原理を持ち込み、廃校などを各校の自己責任で終わらせないか。そんな印象も持つ。

県立松山盲、聾ろう学校の統合問題で県教委は説明不足を批判され、再編案でも先送りを余儀なくされた。昨年の県議選で本紙が行った候補者アンケートでは分校化や募集停止に反対する声が上回った。

県教委がなすべきは、これらを謙虚に受け止め、住民らの意見を丁寧にすくい取りながら慎重に進めることだ。

愛媛新聞 2008年6月14日

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少年法の改正 矯正を妨げない傍聴に

通常の裁判とは異なり、少年審判では原則、犯罪被害者や遺族の傍聴が認められていない。それが早ければ年内にも実現することになった。改正少年法が今国会で成立したのである。

凶悪な少年事件が多発していることは、いまさら指摘するまでもない。神戸の連続児童殺傷や長崎県佐世保市の同級生殺害など、今でもまざまざとよみがえる事件は少なくない。

そんな傾向を背景に2000(平成12)年以降、少年法が改正されてきた。最大の特徴は被害者支援と加害少年への厳罰化が進んだ点にあり、今回の傍聴を可能とする措置もその流れに沿った内容といえる。

傍聴によって加害少年を間近に見ながら、事件がなぜ起きたのかを知り、被害回復につなげる―。つまり、犯罪被害者や遺族の「知る権利」を従来より拡充することで、被害者側への保護や支援を強めたのだ。

犯罪被害者や遺族らが余儀なくされる痛みは計り知れない。心身ばかりか、経済的な問題を抱える場合もあるだろう。被害者側が改正を評価しているのも十分理解できる。

半面、懸念もある。被害者側が傍聴することによって加害少年が萎縮(いしゅく)し、本当のことを語ることができなくなる場合が考えられる。その結果、矯正教育の妨げにならないかという恐れが出てくるのである。

言うまでもなく矯正教育は、少年法の理念そのものだ。刑罰を科すことが主眼の刑事裁判とは違い、少年審判とその後の処遇は、少年の保護と立ち直りに重点を置いている。

傍聴には被害者や遺族らにとっても心配な点が残る。少年が反省していない段階で傍聴すれば、さらに心に傷を負ったり、憎しみが募ったりして、一層苦しむかもしれない。

突き詰めれば、「知る権利」と「矯正教育」をどう両立させるか。やはりこのことが今後、最重要課題として浮上してこざるを得ないのである。

審判を担当する家庭裁判所は、加害少年と被害者側の双方をにらみながら、いつ、どんな段階で傍聴を許可するか、あるいはしないか、極めて難しい判断を迫られることになる。

傍聴許可後の審判でも、被害者側の心情に配慮しつつ、加害少年の言い分にも耳を傾けるといったバランスの取れた進め方が欠かせない。

被害者側が傍聴できるのは、「殺人など他人を死傷させた重大事件」。しかも、加害少年が12歳未満の場合は傍聴対象から除外している。どの年齢で線引きするかは難しいが、現段階では12歳未満というのは妥当なところではないか。

損害賠償を請求する際などに限られている事件記録の閲覧やコピーを原則的に許可。被害者の死亡時に配偶者らに認めている審判での意見陳述を寝たきりの場合などにも広げたことも前進と受け止めていいだろう。

秋田魁新報 2008年6月13日

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「百年の計」の名が泣く 教育投資

政府が初めて策定し閣議決定する教育振興基本計画に、教育投資の数値目標を盛り込むのは是か非か‐。

そんな論争が、政府内で繰り広げられている。

文部科学省が「世界トップの学力水準を目指すためには教育予算の拡充が不可欠だ」と主張しているのに対し、財政再建を優先課題とする財務省は「断じて容認できない」と譲る気配はない。

霞が関でおなじみの「予算の分捕り合戦」だ、と看過するわけにはいかない。「百年の計」といわれる教育行政のあり方が根本的に問われているからだ。

基本計画は、改正教育基本法に基づいて策定される。100年先とまではいかないが、10年先の教育のあるべき姿を見通して、今後5年間で重点的に取り組む教育施策を体系的にまとめるものだ。

わが国の国内総生産(GDP)に占める公的教育投資の比率を、現在の3.5%から経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の5.0%を上回る水準に引き上げる。その新たな投資で、公立小中学校の教職員定数を約2万5000人増やし、学習指導要領の改定に伴う授業時間増や理数系教育の充実などに対応する。

文科省原案となる計画案には、そんな方針が数値目標とともに明記された。

財務省は猛反発している。子ども1人当たりの教育費で見れば「日本は主要先進国と遜色(そんしょく)ない」と切り返し、「予算の投入量ではなく、学力向上など成果目標で質を問うべきだ」と反論している。

教育を充実させるには当然、お金がかかる。教職員の使命感や情熱だけに頼るべきではない。問題は、借金が積み重なった国家財政の制約がある中で、教育投資の必要性をどう考え、予算配分でどんな優先順位をつけるかだ。

そんな国民的な合意を形成する論議を、政府は十分にリードしてきたのか。答えはノーである。大本の論議を抜かしてきたつけが、文科省と財務省の対立という構図で表面化したにすぎない。

とりわけ、文科省の責任は重い。中央教育審議会(中教審)は4月の答申で、教育投資の充実を求めたものの、数値目標の設定は見送っていた。

財務省との事前調整で「無理」と判断した文科省も、答申に基づいて計画案を策定しようとした。しかし、教育界から「失望した」と批判され、自民党文教族から「腰砕け」と突き上げられると、数値目標を書き込む方針に転じた。

ご都合主義とは、このことだ。「百年の計」という理想との落差には暗然とさせられる。

一体、何のための教育振興基本計画なのか。教育に寄せる国民の切実な期待や要望をくみ上げ、教育改革の起点とするのが本来の目的ではないのか。

本質的な教育論議を棚上げにしたまま、予算の奪い合いというレベルで問題を矮小(わいしょう)化させてはならない。

西日本新聞 2008年6月4日

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