科学技術白書
2008年05月24日
国際的競争に浮き足立つな
今年の「科学技術白書」は中国やインドなどの急成長が引き起こす競争の嵐の中で、科学技術によるイノベーションの創出を強く訴える内容になった。
イノベーションとは「単なる技術改革でなく、広く社会システムや制度を含めた新しい価値を生み出し、社会的に大変化を起こすこと」と白書は定義する。
さらに「これまでとは異なる激しい国際的な競争が恐るべき嵐となって立ちふさがっている。この嵐を乗り越えなければ、今日の豊かで安定した国民生活を失う恐れもある」と危機感をあおる。
しかし、国際的な大競争に浮き足立つことなく、着実に日本の科学と技術を発展させていくことが大切だろう。
■知的労働に国境なし■
インターネットの普及で知的労働に国境はなくなった。米国の情報関連企業がソフトウエアの強いインドに研究拠点を設置する時代になった。
そのインドは欧米で活躍する研究者を呼び戻してイノベーションの原動力にしようとしている。
日本にまだ優位性がある。しかし、インド、中国を侮ることはできない。中国の研究費総額は急速に伸び、日本を上回る勢いだ。
白書は分野ごとに技術レベルを国際比較し、日本が得意とされる物づくりやナノテクノロジー、材料などで5年後の相対的低下を懸念する。
中国やインドとの差も縮まり、5年後には情報通信の分野では「追い付かれるだろう」と予想している。
両国はこの十数年、安い労働力で急成長した。現在は知的集約型の研究開発に力を入れており、日本や欧米の強力なライバルになろうとしている。
これら人口大国の台頭はしばらく続き、世界に劇的な変化をもたらすに違いない。
■市場形成に時間必要■
日本は1995年に科学技術基本法を制定して科学技術予算を増やしてきたが、成果がまだ見えていない。
予算には2006年度からの5年間で計約25兆円が投じられようとしている。道路予算に迫る金額だ。当然、費用対効果に対する評価は厳しくなる。
厳しい財政難の中で、公共投資のような批判を浴びないように、研究者も予算の使い方の無駄を削り、研究内容を説明して、国民の納得を得るべきだろう。
しかし、光触媒や青色発光ダイオードなど、日本人研究者の独創的な発見から市場が形成されるまで長い年月を要した。
長期的視点を持ち、重点分野に限定せず、研究者の自由な発想による基礎研究の推進が重要だ。
山中伸弥京都大教授が発見したヒトの新しい万能細胞、人工多能性幹細胞のように波及効果を期待できる独創的な研究を増やす仕組みが待望されている。
ただし、国家間の競争を強調して、科学を動員しようとするのは誤った考えだ。
科学は国家や産業のしもべではないということを胸に刻んでおきたい。
宮崎日日新聞 2008年5月24日
「防衛目的」の拡大恐れる 宇宙基本法
2008年5月12日 00:08 カテゴリー:コラム > 社説
日本の宇宙開発・利用の方針を定めた宇宙基本法案が、衆院内閣委員会で可決された。自民、公明、民主の3党が共同提出した議員立法で、今国会中に成立する見通しだ。
宇宙利用を「非軍事」に限定してきたこれまでの日本の宇宙政策では、国際的な技術開発競争、宇宙ビジネス競争に後れを取りかねないため、政策を転換しようというものだ。
立法趣旨は理解できる。宇宙利用の技術開発や宇宙産業の振興は、技術立国を目指す日本が取るべき方向でもある。
ただ、留意しておかなければならないことがある。この新法ができれば、「防衛目的」の宇宙利用が初めて法的根拠をもつことになるという点だ。
法案は「国の安全保障に資する宇宙開発利用を推進する」とし、国連宇宙条約が禁じていないとされる「自衛の範囲の軍事利用」に道を開いている。
これによって、自衛隊は自前の「防衛目的」衛星を保有できるようになる。これまで民生用の技術水準に抑えられていた情報収集(偵察)衛星の高性能化が可能になる。
防衛省は、ミサイル防衛の中核となる高度な監視・早期警戒衛星の導入も法解釈上、可能としている。
日米が共同で取り組むミサイル防衛(MD)計画が進むなかでの政策見直しである。「防衛目的」が拡大解釈される恐れはないのか。疑念がつきまとう。
法案の内容や軍事利用の歯止めについて、国民や日本の軍事動向に敏感な近隣諸国への説明は欠かせない。
にもかかわらず、法案は衆院内閣委でほとんど議論もなく即日可決された。与党と民主党が内容を協議したうえでの共同提出法案とはいえ、これでは国民の理解を得られまい。
宇宙政策の転換だけでなく、日本の安全保障政策の大転換でもある。参院審議では国民への丁寧な説明と十分な議論を求めたい。
宇宙条約は国際的には「非侵略の軍事利用は禁じていない」と解釈されているが、条約の主眼はあくまで「軍事利用制限」にあることを忘れてはならない。
日本は条約締結を受けて1969年に「宇宙利用は平和目的に限る」とする国会決議を全会一致で採択した。以来40年近く、この決議は日本の宇宙政策の原則となってきた。
高度な性能をもつ衛星による情報収集は、ミサイル発射だけでなく環境破壊や災害、テロなどの防止に役立ち、国際貢献にもつながる。だからといって「平和利用の原則」を捨ててしまうのは、平和憲法をもつ国としていかがなものか。
新法の第一条に宇宙開発は「憲法の平和主義の理念」を踏まえて行うと明記したのも、「防衛目的」の拡大に歯止めをかけるためと解すべきだ。新法が施行されても厳格な運用を求めたい。
西日本新聞 2008年5月12日
【宇宙基本法案】 「非侵略」ならよいのか
2008年05月10日08時10分
非軍事目的に制限してきた日本の宇宙開発政策を転換し、「非侵略」の範囲であれば軍事利用を認める宇宙基本法案を、自民、公明、民主の三党が議員立法で提出した。
同様の法案は与党が昨年六月に提出したものの、参院選の大敗などでそのままになっていた。今回、民主党も加わったことから今国会中に成立する見通しだが、日本の防衛政策の変質につながりかねないだけに、慎重かつ幅広い論議が欠かせない。
日本の宇宙政策のベースでもある一九六七年発効の宇宙条約は、核兵器など大量破壊兵器の宇宙配備や天体の軍事利用などを禁じている。
この条約については「非侵略の軍事的利用は可能」との解釈が国際的には一般的とされる。ただし、日本では六九年に国会が宇宙開発は「平和利用に限る」と決議し、政府は「平和利用は非軍事の意味」としてきた。
この国会決議は一部棚上げされ、現在は日本の事実上の「偵察衛星」である情報収集衛星のデータを自衛隊も利用している。ただし、画像の解析度が一定レベルに抑えられていることなどから、自民党は安全保障の上で問題があるとして見直しを進めてきた。
宇宙基本法案はこうした状況を根本から変えることになる。ミサイル防衛(MD)に使う早期警戒衛星など、自衛隊が独自に高解像度の偵察衛星を開発・運用することができるようになるからだ。
日米の軍事的一体化が進む中、自衛隊が偵察衛星で入手した情報は米軍にも提供されるだろう。その情報をもとに米軍が先制攻撃に踏み切る可能性も否定できない。防衛政策の基本である「専守」や、集団的自衛権の行使を禁じる憲法との整合性はどうなのか。
また、昨年一月に中国が行った衛星の破壊実験などが示すように、高性能の偵察衛星は宇宙での軍拡競争に拍車をかける恐れがある。
さらに、宇宙開発の柱の一つ公開の原則の問題もある。情報収集衛星の取得データは基本的に非公開で、既に公開原則は崩れているとはいえ、防衛目的となれば秘密主義はより強まろう。予算面でも、軍事利用が平和利用に優先する可能性は否定できない。
自民、公明、民主三党の共同提案ではあるが、こうした多くの問題を徹底論議することなしに成立へと突っ走ってはならない。
高知新聞 2008年5月10日
憲法記念日(下) 表現の自由の曲がり角
自由にものが言いにくくなっているのではないか。このところ、そのように感じる出来事が相次いでいる。
靖国神社を扱ったドキュメンタリー映画の一時上映中止。日教組の集会を予定したホテルの一方的な契約破棄。イラク派遣に抗議してビラ入れをした市民への有罪判決…。
憲法二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。一連の“事件”は、いずれも「表現の自由」を、根元から揺るがすものばかりだ。
何が壁になっているのか、どうすればいいのか。あらためて考えてみたい。
<国民の自主規制>
表現の自由をめぐる最近の動きの特徴の一つは、国民の側の自主規制の傾向だ。
例えば、李(リ)纓(イン)監督による映画「靖国 YASUKUNI」が、上映の危機に陥った問題である。一部政治団体の抗議などを警戒した東京都内の映画館を中心に、中止に踏み切る動きが広がった。
最終的には各地で公開の運びとなったものの、一時は上映の日程が危ぶまれる事態に陥った。
日教組の全体集会の会場となったグランドプリンスホテル新高輪(東京都)が、右翼団体の妨害行為などを理由に一方的に契約を破棄したケースと似ている。
公権力が直接中止を働きかけたわけでもないのに、映画館やホテルが事なかれ主義に走った。
経緯はどうであれ、「表現の自由」の基盤を国民の手で崩した意味は重い。戦前の言論統制から解放されて60年以上もたったというのに、先行きが危ぶまれる。毅然(きぜん)とした姿勢が求められる。
<警察の姿勢に危うさも>
映画「靖国」については、背後に国会議員の動きがあったことも見逃せない。
自民党議員の要請がきっかけとなり、国会議員を対象にした異例の試写会が行われた。議員は、映画の政治的な中立性に疑問を投げ掛け、映画が文化庁所管の日本芸術文化振興会から助成金を得ていることを問題にした。
議員が税金などの使い道をチェックすることに異論はない。だが、表現や思想にかかわる文化事業の中身に踏み込むことには、慎重であるべきだ。表現活動を萎縮(いしゅく)させる恐れがあるからだ。道路財源の使い道とはわけが違うことを、あらためて確認しておきたい。
表現の自由をめぐる最近の2つ目の特徴は、政治的な主張を書いたビラ配りなどに、警察の捜査の手が伸びていることだ。
例えば、2004年に自衛隊のイラク派遣に反対するために自衛隊宿舎内に立ち入った市民団体のメンバーが、住居侵入容疑で逮捕・起訴された。一審は無罪となったものの、高裁、最高裁は有罪と判断している。
ほかにも、同様のビラ配りなどによる逮捕が目立っている。「住居」に立ち入ったのは事実としても、窃盗などの犯罪が目的ではない。ビラを配るために入った結果である。
これで逮捕となれば、政治的な活動が制限されるばかりか、市民の知る権利が侵害されかねない。捜査のあり方や司法判断に再考を求めたい。
「表現の自由」を取り巻く状況が、情報社会が進むにつれて複雑になっている点にも、注意を払う必要がある。
「表現の自由」は、国民が政治をチェックし、参加を果たしていく重要な“武器”である。そのためには、意見を自由に発信するだけでなく、必要な情報を手に入れなければならない。「表現の自由」と「知る権利」は表裏一体の関係にある。
<対話の回路を>
マスコミは本来、国民の知る権利を代弁する役割を担っている。戦後の新聞・放送・出版は、国や自治体の問題点を国民に伝え、政治をチェックする機能を曲がりなりにも果たしてきた。
ところが、近年になってマスコミの取材活動に対し、プライバシーの侵害だとして抗議の声をあげるケースが増えてきた。マスコミ=国民が、ともに権力に立ち向かう図式が崩れてきた、と見ることができる。
国民の立場にどこまで思いを寄せ、利害を代弁できているか、あらためて振り返る必要性を、われわれ報道現場に働く者は痛感している。
ただ、マスコミの取材活動が法律によって制限されるようなことがあってはまずい。そうなれば、国民の「知る権利」が著しく後退するからだ。
先に述べたように、「表現の自由」は国民の自主的な規制の動きと、警察の取り締まりの双方から挟み撃ちに遭っている。ここにさらに、取材活動に足かせをはめられれば、国民が権力の動きに目を光らせることはますます難しくなるだろう。
マスコミと国民の対話の回路をもっと太くしていきたい。「表現の自由」の将来がかかっている。
信濃毎日新聞 2008年5月3日
憲法記念日 平和に生きる権利 今こそ
昨年のいまごろは、安倍晋三政権下で改憲の手続きを定める国民投票法案が大きな議論になっていた。
いま、福田康夫首相が憲法に言及する場面はほとんど見られない。
ねじれ国会の下、年金や道路財源問題など早急に取り組まねばならない課題が山積しており、それどころではないというのが本音だろう。
衆参両院に設けられた憲法審査会は運営規定もまだ決まっていない。二〇一〇年に改憲発議は可能になるが、改憲の動きは表面的にはやや勢いが落ちてきたようにも見える。
日本国憲法が施行されてきょうで六十一年となる。憲法とは何か、私たちの暮らしにどうかかわるのか。この機に思いをめぐらせてみたい。
*軽視された違憲判断
国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とする現憲法には人々の「戦争は二度といやだ」という強い願いが込められている。
なかでも前文と九条は世界に向けた平和と不戦の表明でもある。
その誓いを戦後、政府はないがしろにしてきたのではないか。そう問いかける司法判断が四月十七日、名古屋高裁で示された。
イラクに派遣された航空自衛隊の活動は武装兵士を戦闘地域に輸送するものであり、憲法九条が禁じる武力行使にあたると指摘したのだ。
自衛隊を海外に送り出すために憲法を拡大解釈してきた政府の姿勢を厳しく戒めるものとなった。
政府は、判決をことさら軽視しようとしている。隊員の心境について航空幕僚長はお笑いタレントのせりふを引用し、「そんなの関係ねぇという状況だ」と言った。
憲法は国の最高法規だ。九九条は大臣や国会議員、公務員らに憲法の尊重と擁護義務を負わせている。
にもかかわらず政府が違憲判断を真摯(しんし)に受け止めず、文民統制を崩しかねない制服組の発言を放置する。法治国家としてどうなのだろう。
政府はイラク派遣を人道支援、国際貢献と言ってきた。しかし、政府がいまなすべきことははっきりしている。イラクから撤退し、憲法にのっとって武力に頼らない国際貢献のあり方を考え直すことではないか。
*生存権が脅かされる
憲法の前文に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。
その「平和に生きる権利」がいま脅かされ、侵害されてはいまいか。
三十一歳のフリーターが月刊誌に発表した「希望は戦争」という論文が昨年、反響を呼んだ。
戦争は社会の閉塞(へいそく)状態を打破してくれる。生活苦の窮状から脱し、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性をもたらしてくれる。戦争は悲惨でもなくむしろチャンスだ−。
慄然(りつぜん)とさせられる物言いだが、こうした発言が出てきた社会のあり様(よう)を深刻に考えなければなるまい。
米国では実際に、貧しい若者たちが生活の保障を求めて軍に志願し、イラクへと送られている。
憲法二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっている。
しかし、ワーキングプアと呼ばれる新たな貧困層が増え続けている。年収二百四十万円以下が一千万人を超え、百万円以下も珍しくない。
後期高齢者医療制度にお年寄りから悲鳴が上がっている。社会保険庁のずさんな管理で、わずかな年金さえ受け取れない人がいる。生活保護世帯は全国で百万を超えた。
二五条は二項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定めている。それを実践し、憲法を暮らしに定着させるのは国の責務なのだ。
*軍事に頼らぬ平和を
北海道新聞社が四月に行った世論調査によると、七割の人たちが憲法を改めるべきだと答えている。
「時代の変化に応じた方がよい」との理由がもっとも多かった。環境権やプライバシー権、知る権利といった、新たな権利の保障などが念頭にあるのだろうか。
ただ、これらの人権は現憲法でも保障されているとする憲法学者は多い。確かに憲法は「不磨の大典」ではない。国民的論議を広げていくことは必要だろう。
九条については改憲容認の人たちでも、六割近くが変更しなくていいと答えた。逆に変更して戦力保持を明記するべきだとした人は大幅に減って、三割にとどまった。
自民党の新憲法草案は、現憲法前文の「平和のうちに生存する国民の権利」を捨て、戦力不保持と、交戦権の否認を定めた九条二項を削除し自衛軍の創設を盛り込んでいる。
戦後、海外で一度も武力行使をせず、血を流さなかった日本の姿を大きく変えることになる。
イラクの惨状は、武力で平和はつくれないという当たり前のことを見せつけた。軍事力に頼らず平和を目指そうとの流れが世界で生まれつつある。平和憲法を持つ日本がその先頭に立ってもいいのではないか。
北海道新聞 2008年5月3日
“軽視の風潮”を憂慮する 憲法施行から61年
作家の半藤一利さんが、雑誌連載の文章を「日本国憲法の二〇〇日」という題の本にするために書き加え始めたのは二〇〇三年三月二十日。米英軍がイラク攻撃を始めた日だった。
米ブッシュ政権は、自国を攻撃する可能性がある他国を先制攻撃できる、と主張して戦争を始めた。それをいち早く支持した当時の小泉政権を、半藤さんは本の中でこう評している。
−いまの日本の指導層の頭のなかでは、すでにして「大理想」は空華(くうげ)に化しているのであろう。非命に斃(たお)れた何百万の霊はそれを喜んでいるであろうか−。
指導層には妄想に見えるのか、と半藤さんが嘆く大理想とは何か。敗戦一年後の一九四六年十月、連合国軍最高司令官マッカーサーと会談した昭和天皇は「戦争抛棄(ほうき)の大理想を掲げた新憲法に日本はどこまでも忠実でありましょう」と話されたそうだ。
先の戦争で戦死したり空襲などで斃れた国民は約三百万人。日本と戦った国の犠牲は約二千万人に上る。非戦を誓う憲法は、加害で奪い、被害で奪われた多くの命を土台にして、四七年五月三日に施行された。
六十一年後の今、憲法は古くなったから全部変えるべき、時代に合わないところは改めた方がいい、ますます大切にすべき、といった議論が続いている。
意見は違って当然だが、このところ憲法に絡む深刻な問題が相次いでいる。悲惨な歴史を背負う重い憲法を軽視する風潮が広がっているようにみえる。憂慮せざるを得ない。
名古屋高裁は四月、航空自衛隊がイラク・バグダッドに行っている空輸活動は憲法九条に違反すると判断した。だが、防衛省の航空幕僚長は、この違憲判決について「現場で活動中の隊員の心境を代弁すれば『そんなの関係ねえ』という状況だ」と発言した。お笑いタレントの言葉を使い、司法判断をからかった。
本紙朝刊に連載中の「物言えぬ社会」が伝えるように、憲法二一条が保障する集会や言論・表現の自由を脅かす問題も続いている。
靖国神社がテーマのドキュメンタリー映画が「反日的」と批判され、一部の右翼団体の抗議行動もあったなどのため、映画館が上映を中止する動きが三月から連鎖的に広がった。
日教組の集会が二月に開かれる予定の東京のホテルは、右翼団体による集会の妨害行動で客の安全が保てなくなる、周辺にも迷惑がかかる、として会場を貸す契約を一方的に破棄した。貸すよう命じた地裁、高裁の判断にも従わなかった。
面倒に巻き込まれるのは誰でも嫌だ。ただ、自分の意見と違う相手を強く攻撃して自由に言いにくくする圧力に屈し続けると、集会を開いたり映画を観賞する場を提供しない流れができてしまう。戦前・戦中のようになる。それが怖い。
小川に石を投げると波紋が広がり、すぐ消える。だが、石は沈んで川の底に残る。一つ、また一つと投げられ続けて底の石が増えると、小川の流れを変えかねない。気づいたときは息苦しい空気が社会を覆って手遅れに。それは杞憂(きゆう)だと言えるかどうか。憲法記念日に考えたい。
東奥日報 2008年5月3日
きょう憲法記念日 今こそ冷静な論議必要
ことしも「憲法記念日」が巡ってきた。国政運営のふがいなさもあり、やれ年金だ、ガソリンだと日々の暮らしに追われ、普段はあまり考える機会がないかもしれない。
しかし、その暮らしなり政治なりの大本をたどってゆけば、憲法に突き当たることは何ら変わらない。いわば「国の屋台骨」である憲法に思いをはせる1日とするのも悪くはない。
現在の憲法は多くの犠牲と塗炭の苦しみの上に成り立っている。まずこのことをしっかり胸に刻み直す必要がある。戦争の記憶が遠ざかれば、戦争の足音が近づきかねないからだ。
憲法は基本的に国家権力に枠をはめるもので、国民に責務や義務を課す性格のものではない。これも決して忘れてはならない重要なポイントである。
政権は国を思いもよらない方向に引っ張って行ったり、国民が望みもしない政策や法律を生み出したりする恐れを秘める。それに歯止めをかける「よりどころ」が憲法なのだ。
憲法をめぐっては一昨年秋から昨年秋にかけ、見逃せない動きがあった。安倍政権の下で憲法の改正手続きを定めた国民投票法が成立。焦点の9条改正論議も随分活発化した。
一連の動きで気づかされたのは、政権ないし首相はその気になれば、相当のことができるということである。権力の大きさや怖さを実感させられたという人がいても不思議はない。
もう一つ着目すべきなのは、かなり熱っぽかった改憲論議が、安倍政権から福田政権への交代により、ほとんど下火となったことだ。あの騒ぎは何だったのかと思うほどである。
熱しやすく冷めやすいとでも表現すればいいのだろうか。憲法を改正するかどうかは最重要課題であり、賛成にしろ反対にしろ、論議を歓迎すべきなのは民主主義の基本である。
その意味で熱っぽさが収まった今こそ、冷静に議論すべき時であり、賛成派も反対派もお互いの主張に耳を傾けることができるのではないか。
つい最近、憲法に関して意味の重い判決が出た。イラクでの航空自衛隊の空輸活動は、他国の武力行使と一体化しており、9条に違反すると名古屋高裁が判断したのである。
小泉、安倍、福田の歴代政権が合憲としてきた論拠を司法が否定したことになる。にもかかわらず、政府関係者には判決を軽視する発言が目立ち、危うさを感じざるを得ない。
判決は自衛隊の海外派遣を随時可能にしようと、政府や自民党が目指す恒久法の制定に冷や水を浴びせた格好にもなった。仮に制定するとしても、国民の理解が得られるかどうか。
憲法は全く手をつけてはいけないものではない。しかし、9条の平和条項のように「守るべきもの」と時代の変容に合わせ「是正すべきもの」を見極める目が何より肝要である。
秋田魁新報 2008年5月3日
憲法論議の行方 「仕切り直し」が必要だ
何という様変わりだろう。1年前の憲法記念日と比べ、憲法を取り巻く状況の変化をこう感じる県民が多いのではないか。
日本国憲法の施行60周年の節目に当たった昨年5月、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立。改憲志向の安倍晋三前首相が旗振り役となって、憲法改正が戦後初めて具体的なスケジュールに上ることになった。
しかし、「戦後レジーム(体制)からの脱却」を旗印として、自民党公約の冒頭に「3年後の国会で憲法改正発議を目指す」と掲げて臨んだ昨年夏の参院選で自民党は惨敗。国会は衆参の多数が異なる「ねじれ」状態となり、与野党の対立が深まった。
安倍前首相から政権を引き継いだ福田康夫首相は憲法論議に慎重な姿勢のうえ、「宙に浮いた」年金やガソリン税などの暫定税率、後期高齢者医療制度などの課題対応に手いっぱいの状態。国民投票法成立を受けて昨年8月に衆参両院に設置された、憲法改正原案などの審査を行う「憲法審査会」はたなざらしになったままの状態が続き、改憲論議は沈静化している。
一方で日本の国際的役割の増大や経済のグローバル化、情報化社会の進展などに伴って憲法を取り巻く環境が変化してきているのも確かだ。
ことに現在の憲法の下で紛争地域における国際貢献の在り方は日本に突きつけられた重要な課題だ。2001年9月に米中枢同時テロが起きて以来、小泉政権が対米支援のために成立させたテロ対策特別措置法やイラク復興支援特別措置法は国会での論戦が十分だったとは言い難い。
名古屋高裁は4月、航空自衛隊がイラクで続けている空輸活動について憲法違反の判断を示した。空自のイラク派遣は来年7月末、海上自衛隊のインド洋派遣は来年1月にそれぞれ期限を迎える。
政府は自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法(一般法)の早期制定を目指すが、そのためには判決を重く受け止める必要がある。集団的自衛権にしても本来は政府解釈の変更で切り抜ける問題ではなく、堂々と憲法9条の改正案を提示して国民の判断を仰ぐのが当然だろう。
国民投票法は、国会が発議する憲法改正案への賛否を国民に直接問いかける仕組みづくりにすぎない。
このため法案の中身については、改憲の発議に必要な衆参3分の2以上の合意形成を目指し自民、公明、民主の与野党3党の実務者が内容を検討。あと一歩で合意できる段階で、参院選をにらんで与党修正案が強行採決され合意形成は幻に終わった。
こうして成立した国民投票法は、現時点では投票権者年齢すら確定せず、付帯決議の多い不十分な内容のままだ。
そうであれば、国民投票法をもう一度練り直し、与野党の合意できる内容にすることを考える必要があるのではないか。衆参の「ねじれ」が続く現状では「仕切り直し」なしに憲法論議は深まらない。
小笠原裕(2008.5.3)
岩手日報 2008年5月3日
憲法・生存権 「最低限」の生活の盾として
伝染する病でもあるかのように自殺のニュースが相次ぐ。全国の一年間の自殺者数(警察庁集計)が初めて3万人を超えた1998年以降、同じような状態が続いてきた。
一人一人が背負い込んでしまった「生きづらさ」の社会的な総和が、集計値に映し出されているだろう。
原因・動機別の内訳は、どの年も「健康問題」が最も多く、次いで多いのが「経済生活」である。
国民の「生存権」を掲げる憲法二五条を思い起こす。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」
昨年5月、国民投票法(憲法改正手続き法)が成立し、公布された。振り返れば、改憲論議が高まった小泉純一郎―安倍晋三政権下のその時期に、生存権を脅かす不安の影は、わたしたちの暮らしの場で一層濃くなったのではなかったか。
「最後のセーフティーネット」であるはずの生活保護の切り下げが進む。申請窓口での選別が厳しくなり、「母子加算」「老齢加算」が縮減・廃止された。老齢加算の廃止については70歳以上の受給者が憲法違反と主張して、青森、秋田など各地の地裁に提訴して争っている。
生活保護よりさらに低い水準に設定されているのが最低賃金制度。東北は各県とも全国平均を下回る。その最低賃金に合わせるようにして、国は生活保護基準の引き下げを決めた。
「最低」の限界を競い合うような現状でいいか。「聖域」なき歳出削減、財政改革を目指すとして、最低限の暮らしを維持する権利までをも対象にする基本路線で本当にいいのか。
健康で文化的な生活が、自己責任とは無縁に根こそぎ破壊されてしまうのが戦禍である。だからこそ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」(憲法前文)して、戦後社会は出発した。
先月、イラクでの航空自衛隊の活動を違憲と判断した名古屋高裁判決は、憲法前文の「平和のうちに生存する権利」、平和的生存権をはっきり位置付けた。あらためて記憶に刻み込んでおこう。
「現代において憲法の保障する基本的人権は平和の基盤なしには存立し得ない」「平和的生存権はすべての基本的人権の基礎にあって、単に憲法の基本的精神や理念を表明したにとどまるものではない」
国会で改憲発議が可能になる国民投票法の施行は2年後の2010年5月。政治のていたらくを見れば、現在の「二大政党」が今後、どんな曲折を経て憲法改正の具体像を提示してくるかを見通すのは容易ではない。
しかし、大切なこと、忘れてはならないことは明らかだ。「最低限度の生活を営む権利」「平和のうちに生存する権利」。盾として、この二つを手放さない心の構えを保ちたい。
河北新報 2008年5月3日
憲法記念日 冷静に考える機会にしよう
憲法改正の具体的な手続きを定めた国民投票法の成立を目前にして、昨年の憲法記念日は国民の関心も高かった。あれから1年。昨年の熱気はどこへやら、政治の場での憲法論議はすっかり影を潜めた。
任期中の憲法改正を公約に掲げた安倍晋三前首相が突然退陣。後を継いだ福田康夫首相は改憲に慎重姿勢を取っていることが大きい。民主党の小沢一郎代表も「国民生活優先」を強調。年金記録問題や後期高齢者医療制度、ガソリンなどの暫定税率復活など差し迫った問題で与野党が対立してきたこともある。
国民投票法では、投票できるのは18歳以上などと定め、法施行後に改憲案の審査などが可能となる憲法審査会も衆参両院に設けられた。しかし、会議は開かれず休眠状態だ。
とはいえ、憲法をめぐる諸問題は、形を変えながらも絶えず意義や生かし方を問い掛けてくる。その一つが、国会の在り方だ。「衆参ねじれ国会」では図らずも、憲法の規定が大きな焦点となった。
例えば、衆院での再可決や参院での「みなし否決」を定めた憲法59条は、今や政権に重くのしかかる。税制改正法案審議では「みなし否決」や再議決をめぐって与野党が激しく攻防。福田首相は政権の浮沈をかけて再可決、成立させた。2院制の見直し論も浮上している。
一貫して憲法問題の中心だった9条をめぐる論議は表面上、沈静化した。安倍前首相が画策した集団的自衛権行使の解釈変更も当面、政治日程に上ることはなさそうだ。
一方、インド洋での給油継続の新テロ対策特別措置法で苦慮した福田首相は、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法の制定に意欲的だ。
だが、防衛省をめぐる一連の不祥事やイージス艦の漁船衝突事故などで国民の自衛隊への視線は厳しい。足元が揺らぐ中での恒久法制定に説得力はあるのか。憲法前文および9条の理念とどう合致するのかにも、さらに丁寧な説明が必要だ。イラクでの航空自衛隊の空輸活動は違憲とした名古屋高裁の判断もある。
国民の生命・財産保護は国家の責務だが、格差社会が進む中で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条の精神が揺らいでいるのも気になる。
非正規雇用者や年収200万円以下の人の増加は深刻な社会問題だ。後期高齢者医療制度はお年寄りを直撃する。時代に合った制度をどう構築するのか、政治には国民目線に立つ視点が一段と求められる。
憲法21条にうたわれている言論や表現の自由、「知る権利」についても気掛かりな出来事が目立つ。
公正で開かれた自由な社会の礎となるのが憲法だ。政局に左右されず今こそ冷静に憲法を考えたい。
福島民友新聞 2008年5月3日
憲法記念日 根付かせよう表現の自由
憲法をめぐり今年は表現の自由を阻害するような出来事が相次いだ。表現の自由は民主主義の根幹にかかわっており、日本の民主主義が鋭く問われている。憲法改正(改憲)の機運は、施行から六十年を迎えた昨年の憲法記念日とはうって変わり、下火だ。
憲法二一条は「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定している。ところが、政治的な圧力や自己規制によって、表現活動が委縮しつつあるように見える。
今年二月、日教組が東京都内で予定していた教育研究全国集会の全体集会が中止に追い込まれた。会場予定のグランドプリンスホテル新高輪が右翼団体の街宣活動の可能性などを理由に契約を破棄。会場使用を認める東京高裁の仮処分決定にも従わなかった。ホテル側は右翼団体などからの圧力を否定し、「客らの安全安心を守ることを第一に考えた」と説明した。
三月には、靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」をめぐって、異例の国会議員向け試写会が開かれたり、一部の映画館が上映を中止したりした。
県内では一月、つくばみらい市で開催を予定していたドメスティックバイオレンス(DV)の被害と支援をテーマにした講演会が中止となった。市役所前で拡声器で中止を求めるなど、講演会に反対する人たちからの抗議を受けた市が混乱の恐れがあると判断した。
トラブルを避けたいとの気持ちは理解できる。自己規制する当事者を批判し、勇気を持てというだけでは解決しない。こうした風潮がなぜ起きているのかを分析し、社会で支える必要がある。
一方、改憲の動きは止まっている。消えた年金や後期高齢者医療制度、道路特定財源の問題、さらには景気変調や格差拡大と、改憲よりも国民生活に差し迫った課題が山積しており、当然といえる。
憲法改正の手続きを定める国民投票法は昨年五月、与党の強行採決により成立。十八歳以上に投票権を与えたことに伴う関連法制の整備などは積み残された。しかし、続く七月の参院選で自民党が惨敗、参院で野党が過半数を占めた。その後、新憲法制定に執念を燃やしていた安倍晋三首相が退陣し、改憲の機運は一気にしぼんだ。
改憲を論議する衆参両院の憲法審査会は始動していない。野党側が反対し、審査会の委員数や議事手続きを定める審査会規程が制定できないためだ。憲法審査会は国会に提出された改憲原案の審査のほか、自ら原案を起草して提出することもできる。ただ、国民投票法は二〇一〇年まで改憲原案の提出や審査を凍結している。
改憲の焦点は九条。国民の意見は分かれている。改憲を急ぐ必要なく、議論を深めることが大切だ。そのためにも表現の自由をしっかりと根付かせなければならない。
茨城新聞 2008年5月3日
憲法記念日に考える 『なぜ?』を大切に
日本国憲法の規範としての力が弱まっています。現実を前に思考停止に陥ることなく、六十年前、廃虚の中で先人が掲げた高い志を再確認しましょう。
昨年七月、北九州市で独り暮らしの男性が孤独死しているのが発見されました。部屋にあった日記に生活の苦しさがつづられ、最後のページには「おにぎりが食べたい」と書いてありました。
男性はタクシー運転手をしていましたが肝臓の病気で働けなくなり、四月まで生活保護を受けていました。病気が少しよくなり、福祉事務所の強い指導で保護を辞退したものの働けず、にぎり飯を買うカネさえなかったようです。
忘れられた公平、平等
全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶ちません。憲法第二五条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことでしょう。
国が抱える膨大な借金、将来の社会を支える若者の減少など、日本は難局に直面しています。しかし、最大の要因は弱者に対する視線の変化でしょう。
行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させました。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、第二五条は規範としての意味が薄れました。
リストラでよみがえった会社の陰には職を失った労働者がたくさんいます。「現代の奴隷労働」とさえ言われる悪条件で働くことを余儀なくされた非正規雇用の労働者が、企業に大きな利益をもたらしています。
年収二百万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は一千万人を超えると言われます。
黙殺された違憲判決
安い賃金、不安定な雇用で住居費が払えず、インターネットカフェや漫画喫茶に寝泊まりしている人が、昨年夏の厚生労働省調査で五千四百人もいました。これは推計で実際はもっと多そうです。
憲法には第二五条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第二七条)という規定もあります。
「なのになぜ?」−ここにもそう問いたい現実があります。
「戦力は持たない」(第九条第二項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没しました。乗組員二人はいまだに行方が分かりません。「戦争はしない」(同条第一項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸しています。
市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月十七日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言しました。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示しました。
しかし、政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の一人は人気お笑い芸人のセリフをまね「そんなのかんけえねえ」と言ってのけました。「判決は自衛隊の活動に影響を及ぼさない」と言いたかったのでしょうが、「憲法なんて関係ねえ」と聞こえました。
イラク派遣反対のビラを自衛隊官舎に配った東京都立川市の市民は住居侵入容疑で逮捕され、七十五日間も拘置されたすえに有罪とされました。団地の新聞受けにビラを静かに入れて回っただけなのに「他人の住居を侵し、私生活の平穏を害した」というのです。
ビラ配布は、組織、資力がなくても自分の見解を広く伝えることができる簡便な手段です。読みたくなければ捨てればいいだけでしょう。それが犯罪になるのなら憲法第二一条が保障する「表現の自由」は絵に描いたモチです。
これでは、民主主義にとって欠かせない自由な意見表明や討論が十分できません。
国民から集めた税金で職場にマッサージチェアを設置したり豪華旅行をするなど、「全体の奉仕者」(第一五条第二項)である公務員による私益優先のあれこれが次々明るみに出ました。
長い間に「主権在民」(前文)が無視されて、主権在官僚のようなシステムを組み上げられてしまったのです。
憲法は政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦(とりで)です。
国民に砦を守る責任
憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第九九条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第一二条)、いわば砦を守る責任があります。
その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたいものです。
東京新聞・中日新聞 2008年5月3日
憲法記念日 人権擁護し理想の追求を
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」-。前文で国際社会にこう誓った日本国憲法が、きょう施行六十一年を迎えた。
焦土から復興に立ち上がった先達の努力によって、現在の日本は自由な民主主義諸国の一角を占めるに至った。先輩たちへの感謝を忘れてはなるまい。ところが、最近、この成果を土台から腐食させるような問題が続いている。
第一が、ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止、日教組集会の会場使用拒否などで表面化した表現の自由、集会の自由の危機である。一部の映画館、ホテルが右翼団体の街頭宣伝活動などに萎(い)縮(しゅく)した結果、自由が封じられた。嫌がらせや不法行為には警察を含めて行政、社会が毅(き)然(ぜん)とした態度を取るべきだ。ところが「靖国」の例では、騒ぎの発端をつくったのは与党の国会議員だった。
そこで思い出されるのが、反戦ビラ配布が狙い撃ち同然に検挙された立川反戦ビラ事件だ。政府に批判的な表現を抑圧し、萎縮させるような権力の動きがあった。
表現の自由は民主主義の土台である。もし萎縮の連鎖や権力の暴走が続くようなら、日本は戦前のような「物言えぬ社会」「専制と隷従、圧迫と偏狭」の社会に戻ってしまうだろう。国民一人一人が、表現の自由を守り抜く決意を持たなければならない。
第二は、貧困、格差の問題だ。憲法二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、生存権を定めた。高齢者や障害者の福祉が切り捨てられ、汗水流して働いても生活保護水準、貧困ラインを抜け出せない人々がいるのは、大きな人権侵害であると指摘したい。
世界を見渡せば、医療福祉が整備され、格差の小さな国は、社会経済も安定し、国民の幸福度も高い。日本がこのまま福祉や年金、医療を崩壊させ、働く貧困層を拡大させたらどうなるか。社会はすさみ、経済の底力も失われるだろう。選ぶべき道は明らかだ。
最後に、平和主義の問題だ。名古屋高裁は先月、航空自衛隊によるバグダッドへの多国籍軍武装兵員輸送を憲法九条違反とした。しかし、政府は判決を無視したままだ。なし崩し的な自衛隊の運用、平和主義からの逸脱をこのまま進めていいのだろうか。あすから三日間、千葉市で「9条世界会議」が開催される。憲法九条の世界史的な意義を再確認したい。
日本人は今、目先の利益や安心に汲々(きゅうきゅう)としているように見える。果敢に難問に挑み、世界に理想や模範を示すという気概を失ってはいないか。日本国憲法は人類の経験と知恵、理想の集積である。この憲法から勇気を得て「名誉ある地位」への努力を進めたい。
神奈川新聞 2008年5月3日
憲法記念日に考える 自由に物が言えますか
六十一回目の憲法記念日が巡ってきた。昨年のいまごろは、「戦後レジームからの脱却」を掲げ、憲法改正を声高に訴える安倍晋三首相の下で改憲をめぐる論議がかまびすしかった。一年前がうそのような穏やかさである。
安倍前首相は戦力の不保持を規定した九条を中心に、憲法が「時代にそぐわない」として改正を唱えた。昨年五月十四日には改憲の手続き法である国民投票法が成立した。
国会や国民の間で議論が尽くされたといえない中、性急に改憲準備を進める前首相の姿勢には危うさがあった。憲法論議が落ち着きを取り戻したことを歓迎したい。
◆息苦しさが忍び寄る
いま、私たちが優先すべきは憲法を変えることではない。戦後六十年以上を経て、社会の土台のあちらこちらにほころびが見える。憲法を尺度に世の中の揺らぎを自覚し、どう対処するかを考えることこそが求められている。
文化庁の補助金の在り方について国会議員から注文を付けられた「靖国 YASUKUNI」の上映を中止する映画館が続出した。一流ホテルが右翼団体の妨害による混乱を避けたいと日教組の教研集会を一方的に断った。このところ、憲法二一条が定める「表現の自由」を揺るがす出来事が目立つ。
旧憲法下では政府による検閲や言論弾圧が横行し、戦争に反対できない風潮を生んだ。二一条はその反省に立って盛り込まれた規定だ。戦後も表現の自由は安泰だったわけではない。権力の圧力をはじめ、直接的な暴力にもさらされてきた。
こうした状況が一向に改善されないどころか、むしろ陰湿化し根が深くなっているといえないか。「自粛」という名の規制がそれである。
映画館は多彩な映像作品に接する空間だ。ホテルはさまざまな集会の場として欠かせない。これらの施設がむやみに規制や選別を行えば、表現の自由は保障されない。こんな当たり前の事実があらためて示された。
顧みたいのは、私たち一人一人も不必要な自己規制にとらわれていないかということだ。数年前、県内の高校が作家の大江健三郎さんに講演で「政治的発言への配慮」を求め、大江さんが辞退したケースはどうだろう。
職場や学校で不当な扱いを受けても声を上げない。おかしなことを見聞きしても「かかわりたくない」と口をつぐむ。その膨大な積み重ねが「自主規制社会」を招いたのではないか。
◆内向するネット空間
得体(えたい)の知れない圧迫感が社会を覆っている。その中で、行き過ぎと見えるほど自由な表現を謳(おう)歌(か)している空間もある。インターネットを介したコミュニケーションである。
ブログに象徴されるように、ネットの登場は個人の情報発信力をその広がりとスピードの面で飛躍的に向上させた。半面、ネット上には身勝手な言葉や情報が際限なくあふれ、歯止めが掛からない状況が続いている。
「キモイ」「ウザイ」「殺す」。気にくわない人間をやり玉に挙げた書き込みがある。自殺への誘いがある。硫化水素自殺の続発はネットでガスの作り方が紹介されたことがきっかけだ。
憲法が国民に保障している自由や権利について、一二条は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と諭し、さらに「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と訴える。
ネットの一部では自主規制の反動のように、内向きで陰湿な感情がむき出しである。生身の人間同士のような気遣いや責任感はない。特定の個人や団体を標的に中傷や悪口が殺到する。
ネットは、法律が及ばない聖域のようだ。そのため政治の側が有害サイト規制に乗り出す動きもある。表現の自由は他人を傷付けたり、おとしめたりすることまで保障するものではないことを自覚すべきだ。
◆踏みとどまるために
長野市で北京五輪の聖火リレーが行われた先月二十六日、JR長野駅前に大勢の中国人留学生やチベット支援者らが集まり、主張をぶつけ合った。
そこでは、チベット亡命政府の旗を持つ日本の青年に、中国の若者が「無責任な行動はやめてほしい」と迫っていた。青年は「これはチベットを支持するという表現だ」と応じた。
日本をはじめ民主主義諸国での聖火リレーは中国、チベット双方を支援する勢力が対立し、混乱した。それが北朝鮮や中国国内に入ると一気に沈静化した。チベット問題の本質が図らずも浮かび上がったといえよう。
他者を尊重し、自らの主張を自由に唱える。私たちが享受する表現の自由は憲法の根幹をなす原理だ。過剰な自主規制と暴力的なネット言論がそれを危うくしていないか。
憲法というフィルターを通して見えるのは社会のゆがみやひずみである。表現の自由が揺らいでいるとしたら、自由そのものが危うくなっているということだ。憲法記念日にあらためてそのことをかみしめたい。
新潟日報 2008年5月3日
憲法記念日 理念は生かされているか
施行から六十一年の憲法記念日を迎えた。生活様式が多様化し、国民意識も変化して、施行時と時代状況は様変わりしている。憲法の精神はいま、私たちの生活にどう生かされているだろうか。
憲法をめぐっては、戦争放棄をうたった九条の改正問題が長らく焦点となってきた。福田内閣となって改憲論議は下火になっているが、自衛隊海外派遣の恒久法化など九条に絡む諸問題は常に横たわっている。平成二十二年には国民投票法が施行され、改憲発議が可能になる。
ただ実際には、衆参両院に設置された憲法審査会がいまだに始動していない。国民の間に改憲待望論が高まっているともいえない。「時代に合わなくなっている部分がある」とする声は確かにあるが、九条改正となると慎重論が根強いのが実態だ。
いま求められているのは性急な改憲論議よりも、憲法の理念に照らして社会の現状や普段の暮らしがどうなっているのか、検証することではないか。
憲法は言うまでもなく国の最高法規であり、その下に多数の法律がめぐらされ、権力を縛り、国民の生活と権利を守る憲法秩序が形づくられている。
ところが近ごろは、その意に反するようなとげとげしい出来事が多い。相次ぐ食品偽装で浮き彫りとなったのは、効率と利益追求に走る企業の姿だった。そこでは消費者の安全は無視され、「公共の福祉」という発想は見当たらない。深刻な状況が明らかになった学校裏サイトは匿名性を悪用した一方的な個人攻撃であり、大切な個人の尊厳を踏みにじるものだ。
二一条が掲げる表現の自由や、「知る権利」をめぐっても心配なことが続いた。靖国神社を扱ったドキュメンタリー映画の上映中止が相次いだり、政治的ビラの配布が住居侵入罪に問われた件などだ。社会を萎縮(いしゅく)させるような動きが目立たないだろうか。
憲法の理念とはかけ離れた社会問題もクローズアップされている。自殺者数が年間三万人を超え、子どもの虐待事件が頻発している。若者を中心とした非正規雇用の拡大は将来にわたり格差を生み続ける不安の種であり、ワーキングプア(働く貧困層)の増加は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の−」と生存権を定めた二五条の精神には程遠い。
さまざまな問題をよそに、この国の政治は機能不全ぶりをさらけ出している。重要案件がなかなか処理されず、まともな議論すらされずに国民生活に混乱を生じさせている。それは取りも直さず、衆参ねじれに対応できる国会運営ができていないということだ。
選挙による政権交代がほぼ皆無で長らく一党優位体制が続いてきたために、それに合わせた慣例しか積み上げられてこなかった。憲法が規定する統治機構がまだ成熟していないといえる。
衆参の第一党が異なる状況はしばらく続くだろう。その中でも、国民生活に資する政治は行われなければならない。二院制と政権交代を前提に、与野党の合意のあり方をもっと真剣に議論すべきである。それは憲法改正以前の問題だ。
北日本新聞 2008年5月3日
下火の憲法論議 せめてまともな審査会に
安倍内閣から福田内閣に替わって憲法論議がすっかり下火になった。昨年の参院選で、憲法改正の旗を掲げた安倍自民党が大敗し、「憲法より生活」を訴えた民主党が参院の第一党になったのだから、改憲論議が国会の表舞台から消えても不思議ではないが、その参院選の結果生まれた「ねじれ国会」は、皮肉にも二院制の在り方、参院の存在意義といった憲法問題をより鮮明に浮かび上がらせることになった。
それでも現在の与野党には、憲法問題に真正面から向き合う意欲がほとんど感じられない。国民投票法の成立に伴い、昨年八月に設置された衆参両院の憲法審査会はまさに、「仏作って魂入れず」の状態である。審査会の委員数や議事手続きなどを定める規程がいまだに制定されず、審査会の実体がない状況は政治の怠慢というほかない。速やかに、あるべき姿に整え、機能させる必要がある。
憲法は「衆院の優越」を認めており、今は衆院の再議決権を使って「唯一の立法機関」の役割を果たしている状況である。しかし、与党が衆院で三分の二以上の議席を有するのは希有なことであり、普通なら再可決の可能性はほとんどなかろう。衆参両院とも民意を代表し、法案については実質的にほぼ同等の立場にある。互いに譲り合うことがなければ、国会はマヒするばかりである。
このような時は、例えば、衆院の優越を担保する方法を現実に即して考え直すよい機会と言えるが、与野党とも目をそらしたままである。民主党の小沢一郎代表と菅直人代表代行はかつて、選挙によらない議員で構成する参院や一院制を唱えていた。参院第一党になった今、そうした積極的な改革案は忘れ去られたようだ。
憲法改正の論点は多数あり、「与党対野党」という発想を超えた議論を望む意見も国会にある。しかし、そうした声は政権争いの中に埋没している。国民投票法で二〇一〇年には改憲発議が可能になる。その時に向けて具体的な改憲論議が求められる時期なのに、与野党とも「無為」の日々を過ごすつもりなのだろうか。
北國新聞 2008年5月3日
憲法記念日(中) 生存権を確かにしたい
人も社会も元気がない。明るい将来を見通すことも難しい。生きにくい世の中になったという切実な声があちこちから聞かれるようになった。
働いても収入が低く、ぎりぎりの生活を強いられるワーキングプア(働く貧困層)や生活保護世帯が増えている。
医療や福祉など、暮らしのさまざまな場面で社会的弱者へのしわ寄せが強まるばかりだ。そんな人たちを支えるはずのセーフティーネット(安全網)もほころびを見せ始めている。
<政治は暮らしに冷淡>
憲法二五条。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。生存権の保障である。今の社会は生存権が急速に心もとない状況に追いやられている。
政治は国民の悲痛な声に耳を傾けているだろうか。首をかしげざるを得ない。暮らしに思いを寄せる力が欠けている。
「国が借金まみれになったのは税金の使い方を間違ったからでしょう。政治家や官僚が無駄遣いの責任を心から感じていれば、母子家庭など社会的弱者にしわ寄せはこないはず」
北信地方で暮らしている30代の女性の言葉である。
小さな工場でパートとして働いている。従業員の8割近くがパートと派遣だ。働き始めて10年近くになるが、正社員への道はない。新しい職を探しても書類ではじかれてしまうことが多い。
年収は多いときで180万円ほど。仕事がなく、100万円ほどのときもあった。小学生の娘は病気がちで、医療費もかかる。毎月、クレジットカードでお金を借りて、生活費の穴埋めをしている。国民健康保険料を払うのがやっとで、国民年金の保険料を支払う余裕はまったくない。
<深刻化する格差>
「その日を生きるので精いっぱい。憲法二五条なんて夢のような話」とつぶやいた。
国税庁が昨年秋にまとめた民間給与の実態調査によると、2006年の年収が200万円を下回った人は21年ぶりに1000万人を超えた。02年は850万人余だったから、わずか4年間で20%も増えたことになる。
100万の大台を突破した生活保護世帯も危機的だ。政府は、老齢加算と母子加算の廃止を決めた。さらに保護水準の引き下げにも手を付けかねない状況である。
先進諸国の中では最も低い水準の最低賃金も大きな問題だ。大企業は潤い、中小企業は苦しいまま−。経済の格差がそのまま暮らしの格差となり、企業や社会の活力を失う結果を招いている。
主な原因は小泉政権が進めた構造改革路線である。安倍政権も踏襲して傷口を広げた。暮らし重視を訴える福田政権も格差については無策に近い。
競争と効率ばかりが重視された結果、痛みに耐えきれず、多くの人が脱落していった。その矛盾が格差という亀裂を生んだのだ。
社会に広がったこの亀裂は、人と人とのつながりを分断し、孤立化させている。ネットカフェ難民や路上生活者が増えていることばかりでなく、9年連続で年間自殺者が3万人を超えていることがその深刻さを物語っている。
ここで確認しておきたいことがある。生存権は、連合国軍総司令部(GHQ)ではなく、当時、貧困問題の解消に取り組んだ日本の国会議員や在野の研究者らの熱意と努力が実らせたということだ。忘れてはならない。
敗戦後の社会とは違うけれど、時代が変わろうとも、生存権は守り通さなくてはならない。今、求められるのは、生存権を確かなものにすることである。そのためにはどうしたらいいか−。
<異議を申し立てよう>
二五条第二項を思い起こしたい。国に対し、生存権の具体化について努力する義務を課している。政府、与党はそのことを肝に銘じるべきだ。
そして、私たち国民は政府の怠慢に、さまざまな手段で異議を申し立てることを考えたい。
近年、生活保護の老齢加算、母子加算の廃止や減額は、最低限度の生活を保障した憲法に違反するとして、取り消しを求める提訴が相次いでいる。食べて寝るだけが人間なのか、という重い問いを投げかけている。
昨年の参院選でも、先日の衆院山口2区補選でも、与党が負けたのは、年金や新医療制度など生存権に直結する課題を政府、与党が軽視した結果である。
暮らしを守るために国民は立ち上がり始めた。とはいっても、この動きは赤子のように、まだよちよち歩きの状態だ。
生存権に魂を吹き込むには、他者の苦しみに共感する力が必要になる。無関心のままでは異議申し立ても力を発揮しない。共感を連帯へと育てられたら国を動かす大きな力になるだろう。
生存権を守るため、国民の側から取り組みを強めていきたい。
信濃毎日新聞 2008年5月3日
憲法記念日 今こそ憲法理念に思いを
日本国憲法は施行61年の記念日を迎えた。「還暦」の節目に当たった昨年の記念日は、憲法改正手続きを定めた国民投票法の成立目前とあって、いやが上にも国民の関心を集めた。
それから1年。政治の場での憲法論議はすっかり後景に退いた。改憲を公約に掲げた安倍晋三前首相が退陣し、福田康夫首相は慎重姿勢を取っていることが大きい。そのため衆参両院に設けられた憲法審査会も休眠したままになっている。
とはいえ憲法をめぐる諸問題は、形を変えながらも絶えずわれわれの眼前に突きつけられている。その一つが国会の在り方だ。参院で民主党が第一党を占める「衆参ねじれ国会」で、憲法の規定が焦点となった。
例えば「法律案は(中略)両議院で可決したとき法律となる」という59条は、今や政権に重くのしかかっている。同条2項の衆院での3分の2による再議決、同条4項の法案のみなし否決などをめぐって与野党が激しく攻防。二院制の見直し論も浮上している。
一貫して改憲論議の中心だった9条をめぐる争いは表面上、沈静化した。安倍前首相が画策した集団的自衛権行使の解釈変更も当面、政治日程に上ることはなさそうだ。
一方、インド洋での給油活動継続の新テロ対策特別措置法で苦慮した福田首相は、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法の制定に意欲を示す。
だが国会の関与を少なくし、政府の判断だけでいつでも自衛隊を海外に送り出す仕組みは、憲法前文および9条の理念と合致するだろうか。慎重な議論が必要だ。
イラクでの航空自衛隊の空輸活動は違憲との判断を名古屋高裁が下した。小泉内閣以来、政府が説明してきたことが司法によって否定されたわけであり、意味は重い。
ところが政府関係者からは判決を軽視するような発言が目立つ。司法の判断に耳を貸そうとしない態度は遺憾だ。
国民の生命・財産保護は国家の責務だが、格差社会が進む中で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条の精神は揺らぎ始めた。
非正規雇用者や年収200万円以下の人の増加は今や深刻な社会問題であり、後期高齢者医療制度(長寿医療制度)はわずかな年金に頼らざるを得ないお年寄りを痛打した。自己責任を問うだけでは問題は解決しない。時代に合った制度をどう構築するか、政治には25条に魂を入れるべく不断の努力が求められている。
憲法21条にうたわれている言論や表現の自由、「知る権利」についても気掛かりな出来事が目立つ。
政治的ビラ配布で住居侵入罪に問われたり、取材記者に情報を提供した自衛官が防衛秘密漏えいの疑いで書類送検されたりした事案だ。また都内のホテルが右翼団体による妨害を理由に日教組集会の会場使用を拒否したことや、映画「靖国 YASUKUNI」に横やりが入って上映中止になったことも見過ごしにできない。
社会が萎縮(いしゅく)すれば人権と民主主義は危うくなる。公正で開かれた自由な社会を守り発展させるため、むしろ今こそ冷静に憲法を議論すべきではないか。1年後に迫った裁判員制度を円滑にスタートさせるためにも、憲法の理念に思いを巡らせたい。
岐阜新聞 2008年5月3日
憲法記念日 冷静に議論すべきとき
「還暦」の節目となった昨年の憲法記念日は憲法改正の手続きを定めた国民投票法成立がからみ、国民の高い関心を集めた。それから1年。憲法論議は政治の舞台ですっかり鳴りを潜めている。
改憲を公約した安倍晋三前首相は退陣し、福田康夫首相は改憲に慎重姿勢をとっていることが大きい。そのため衆参両院に設けられた憲法審査会も休眠状態になっている。だが、憲法をめぐる問題は絶えずわれわれの目の前に形を変えながら突きつけられている。
その一つが国会の在り方だ。衆参ねじれ国会で憲法の規定が焦点となった。「法律案は(中略)両議院で可決したとき法律となる」という59条が今や政権に重くのしかかっている。衆院での3分の2による再議決(同条2項)、法案のみなし否決(同4項)をめぐって与野党が激しく攻防、2院制見直し論も浮上している。
改憲の中心にいた9条をめぐる争いは表面上、沈静化した。安倍前首相が画策した集団的自衛権行使に関する解釈変更も、しばらくは政治日程に上らないだろう。
福田首相は自衛隊の海外派遣恒久法の制定に意欲的だが、国会の関与を減らし政府判断だけでいつでも送り出す仕組みは、はたして憲法前文や9条の理念と合致するのか、慎重な議論が必要だ。
先日、イラクでの航空自衛隊の空輸活動は「違憲」と名古屋高裁が判断した。小泉内閣以来の政府説明を司法がきっぱり否定した意味は重い。ところが、政府関係者から判決を軽視する発言があった。司法の判断に耳を貸さない態度は遺憾である。
格差社会が進む。非正規雇用や年収200万円に届かない人は増加の一途。後期高齢者医療制度は、細々と年金暮らしのお年寄りを痛めつけた。憲法25条の精神が揺らぎ始めている。
21条にうたわれる「知る権利」についても気掛かりな動きが相次いだ。政治的ビラ配布で住居侵入罪に問われたり、取材記者に情報提供した自衛官が防衛秘密漏えい容疑で書類送検された。都内のホテルが右翼団体の妨害を理由に日教組集会の会場提供を拒否。映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止も見過ごせない。
社会が萎縮(いしゅく)していけば、人権や民主主義は危うくなっていく。公正で自由な社会を守り発展させるには、今こそ冷静に憲法を議論すべきなのだろう。変えるべきは変える、守るべきは守る。「イエス、ノー」をはっきり意思表示することだ。国民1人1人が自分のこととして考えたい。拙速であってはならないが、早ければ2年後に改憲は可能という期限が切られている。
福井新聞 2008年5月3日
憲法記念日 非正社員の生存権が危うい
「明日から来なくていい」。突然、首を言い渡されることも珍しくない。失業が前提なのだ。
そうかと思えば、「すぐに来られるか」と再度、声をかけられることもある。低賃金のうえ、企業にとっては景気や受注に合わせて労働力を調節できる便利な「調整弁」でもある。
これが、アルバイトやパート、派遣社員など非正規雇用の実態という。そんな若者らによる小さなメーデーの催しが先月末、京都市内であった。
主催したのは関西非正規等労働組合(通称・ユニオンぼちぼち、京都市南区)。京都や大阪などの非正規雇用の若者たち約五十人が加盟する。
「恩恵としての祝日よりも、権利としての有給を」を合い言葉に集合。
恩恵としての祝日は給料が出ない。休んでも給料が出る権利としての有給を−というわけで、プラカードを手に約百人がデモ行進した。
若者を中心に非正規の雇用が増え、全従業員の三分の一を超えた。いくら働いても収入が低く、ぎりぎりの生活を強いられるワーキングプア(働く貧困層)も増加の一途をたどる。
今や、日本の現状は「格差」というよりも、むしろ「貧困」とみるべきだとの指摘が相次ぐ。
国民投票法成立など、安倍晋三政権下で盛んだった憲法改正論議は、昨夏の参院での自民党大敗を受けて誕生した福田康夫政権では一転、開店休業の状態が続く。 代わって若者の貧困との関係でクローズアップされたのが生存権だ。 きょうは六十一回目の憲法記念日。暮らしの足元で、憲法がないがしろにされてはいないか。
解雇前提で調整弁?
生存権は、日本国憲法の第二五条で保障している。
1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定め、続く2項では「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と記す。
国民が、人間らしく生きてゆくために必要な条件、待遇などの確保を国に要求する権利なのだ。
ただ、憲法改正といっても大抵の人は実感がないように、日常生活のなかで、憲法を意識することはほとんどないかもしれない。
ユニオンぼちぼちの結成にかかわった副執行委員長の中村研さんも「解雇されるのが当たり前の状況の中で危機感は強いが、すぐに二五条を意識するわけではない」。
非正規やフリーターであることは、努力が足りないなど自己責任が強調されてきた。ものが言えない時期が続いていたのが「仕事を。残業代を払え。私たちも苦しいんだと声をあげられるようになったのが大きい」と言う。
それにしても「解雇が前提」、「調整弁」というのでは、若者たちの生存権が危うい。
派遣法改正が後押し
若者の雇用・労働事情が急激に悪化したのは一九九〇年以降だ。バブル崩壊後のリストラを背景に、九三、四年から長期の「就職氷河期」に入る。
新卒でも正社員になれず、フルタイムの非正社員が増えた。
背景に、日経連が九五年に打ち出した雇用戦略や小泉純一郎政権時の「市場原理主義」に基づく経済成長路線と規制緩和があるのは間違いない。
中でも、コスト削減を狙う企業を後押ししたのが労働者派遣法の改正だろう。限定されていた派遣の対象が、九九年の改正で原則自由化され、日雇い派遣が一気に拡大した。
企業にとってはメリットだが、低賃金で不安定な非正規雇用の若者への社会的な対応はなかったと、龍谷大の脇田滋教授は指摘する。
ほかの国でも同様の問題があるが、「パート」から始まったのは日本だけといい、特有の結果を招いたとみる。
六〇−七〇年代、正社員が九割を占める中、家計補助として行われた主婦のパート、学生アルバイトが事の始まりで、それゆえに賃金や社会保障、雇用環境への要求は弱い。
低劣な労働条件であっても社会問題化せず、労働組合も目をつぶってきたというのだ。
権利脅かすのは誰だ
組合はここへきて気づいたが、今も憲法二五条で保障する若年労働者の生存権を脅かしているのは政府であり、企業ではないかというわけだ。
そうした目で周囲をみると日本社会で「最後のセーフティーネット」とされてきた生活保護制度も心配になる。
老齢加算の廃止に続き、母子加算の削減も始まった。
窓口で受給者を減らす「水際作戦」が問題化したこともあった。北九州市で生活保護を打ち切られた男性が餓死した後、残された日記に「おにぎりを食べたい」と記されていたのは記憶に新しい。
財政健全化も分からないではないがそこには、弱い立場の人たちへの思いが欠けている。
同じことは、七十五歳以上のお年寄りを対象とした後期高齢者医療制度にも当てはまるのではないか。
「生きさせろ」の叫びは、非正規雇用の若者だけに限らない。
若者に希望、お年寄りに安心−が福田首相の国づくり方針のはずだ。
政府が憲法二五条の生存権を脅かしてどうする。
京都新聞 2008年5月3日
憲法記念日 暮らしの中から論議を起こそう
福田政権になって憲法論議が下火になっている。もともと政策の優先度が高くなかったうえ、「ねじれ国会」への対応で手がいっぱいなのだろう。そうした中、基本原則である平和主義や基本的人権が揺らぐ事例が目につく。新たな課題も生じている。
憲法はきょう、施行六十一年を迎えた。その精神は、どこまで私たちに根付いたのだろう。知らず知らずのうちに空洞化していないか。改憲論議が小休止の機会に、身の回りから問い直してみたい。
◇
「隊員の心境を代弁すれば大多数は『そんなの関係ねえ』という状況だ」
先日、航空自衛隊のイラク空輸活動を違憲とした名古屋高裁判決について、田母神俊雄空幕長がこう述べたのには驚いた。
その後、一部がお笑いタレントと同じ表現だったのは「不適切」としたうえ、判決が「直ちにわれわれの行動に関係しないという意味で言った」と釈明している。
それにしても、当の空自幹部である。発言が憲法を取り巻く今のムードの反映とするなら、暗然とするしかない。
精神は生きているか
この一年、憲法をめぐる浮き沈みは激しい。改憲を鮮明に打ち出した安倍前首相の下で国民投票法が成立したときには、いよいよという緊張感すら漂った。
ところが、安倍氏が政権を投げ出したことで見直し論議はしぼむ。後を継いだ福田首相は施政方針で「国会で真(しん)摯(し)な議論を」としたが、様変わりの感がある。
とはいえ、議論すべきことは多く、むしろこれからが本番だ。時代の変化をにらんだ検討は継続していかねばならない。
同時に、人間でいう「還暦」を越えた憲法が本当に国民生活に生かされているか、あらためて自問するときではないか。空幕長の発言に限らず、このところ憲法がかすむような動きが絶えないからだ。
・日教組集会の会場となるホテルが、右翼団体の妨害などを理由に使用を拒否。
・靖国神社をテーマにしたドキュメンタリー映画の上映中止が相次ぐ。
・中国潜水艦の事故や奈良県の放火殺人事件に関する報道や出版をめぐり、情報を漏らした側の刑事責任が問われる。
それぞれ関連があるわけではないし、問題の性質も違う。しかし、憲法が保障する言論や集会、表現の自由を損ないかねない危うさは共通している。
「ここ数年、世の中が変だと思うところがある」。二年前、政治家としての発言が反発を受け、実家に放火された加藤紘一衆院議員が印象を漏らしたことがある。
目には見えない圧力が、自由であるべき活動の萎縮(いしゅく)につながってしまうなら、民主主義の根幹がおかしくなる。「関係ねえ」が当たり前になるようでは、戦後日本のかたちが足元から崩れかねない。私たちがめざす社会は遠ざかるばかりだろう。
目を向けるべきは、国民一人一人の基本的人権の現状にとどまらない。
いくら働いても、ぎりぎりの生活しかできないワーキングプアや生活保護を受ける世帯が増えた。競争や自立をキーワードにした成長が叫ばれる一方、格差や貧困が切実に響く。年金、医療など老後の暮らしもまた、不安でいっぱいである。
そんな時代だからこそ、生存権が重い意味をもってくる。健康で文化的な最低限度の生活を営む国民の権利と、社会福祉をレベルアップさせる国の義務を記した憲法第二五条を、実のあるものにしたい。
国民の声にこたえる政治の実行力に期待したいところだが、肝心の政治は衆参の「ねじれ」で混乱ばかりが目につく。
憲法の規定に基づき、いったん参院に送った法案を衆院で再議決する。半世紀あまりなかった事態である。二院制に託された理念を形にしていくためには、どんな国政運営が求められるのか。
ここでもまた、憲法の精神を実際の現場でどう生かすかが問われている。
より広く、より深く
憲法は国の大本を定めた最高法規だ。理想を高く掲げるとともに、この国をどう治めていくかを記し、国家という権力に枠をはめている。私たちの日常生活の隅々にまで入り込み、支えている。
ただ、これまでの憲法論議で最大の焦点は第九条だった。「戦争放棄」と「戦力の不保持」を盛り込んだ条文をめぐって、改憲派と護憲派が火花を散らしてきた。
九条は国の進路を左右する。常に中心テーマになるのは当然だが、陰に隠れてほかのテーマが見えにくかった面は否めない。気づかないうちに、身近なところで憲法の存在感が薄れていないだろうか。
来年から裁判員制度が始まる。自衛隊の海外派遣をめぐる恒久法づくりの動きもある。「地方自治の本旨」に沿った分権改革も道半ばだし、環境権や子どもの権利などについての議論も求められる。
二〇一〇年には国民投票法が施行され、改憲案の発議が可能になる。一人一人による選択のときは近いかもしれない。
もう一度、暮らしの中から憲法を考えたい。より幅広く、深い論議が必要だ。
神戸新聞 2008年5月3日
憲法記念日 今こそ冷静な議論が必要
日本国憲法は施行六十一年の記念日を迎えた。「還暦」の節目に当たった昨年の記念日は、憲法改正手続きを定めた国民投票法の成立目前とあって、いやが上にも国民の関心を集めた。
それから一年。政治の場での憲法論議はすっかり下火になった。改憲を公約に掲げた安倍晋三前首相が退陣し、福田康夫首相は慎重姿勢を取っていることが大きい。そのため衆参両院の憲法審査会も休眠したままになっている。
とはいえ憲法をめぐる諸問題は、形を変えながらも絶えずわれわれの眼前に突き付けられている。その一つが国会の在り方だ。参院で民主党が第一党を占める「衆参ねじれ国会」で、憲法の規定が焦点となった。
例えば「法律案は(中略)両議院で可決したとき法律となる」という五九条は、今や政権に重くのしかかっている。同条二項の衆院での三分の二による再議決、同条四項の法案のみなし否決などをめぐって与野党が激しく攻防。二院制の見直し論も浮上している。
一貫して改憲論議の中心だった九条をめぐる争いは表面上、沈静化。安倍前首相が画策した集団的自衛権行使の解釈変更も当面、政治日程に上ることはなさそうだ。
一方、インド洋での給油活動継続の新テロ対策特別措置法で苦慮した福田首相は、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法の制定に意欲を示す。だが国会の関与を少なくし、政府の判断だけで自衛隊を海外に送り出せる仕組みは、憲法前文、九条の理念と合致するだろうか。慎重な議論が必要だ。
イラクでの航空自衛隊の空輸活動は違憲との判断を名古屋高裁が下した。小泉内閣以来、政府が説明してきたことを司法が否定したわけで、意味は重い。だが政府関係者からは判決を軽視するような発言が目立つ。司法の判断に耳を貸そうとしない態度は遺憾だ。
国民の生命・財産保護は国家の責務だが、格差社会が進む中で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法二五条の精神は揺らぎ始めた。
非正規雇用者や年収二百万円以下の人の増加は今や深刻な社会問題であり、後期高齢者医療制度(長寿医療制度)はわずかな年金に頼らざるを得ないお年寄りを痛打した。自己責任を問うだけでは問題は解決しない。時代に合った制度をどう構築するか、政治には二五条に魂を入れるべく不断の努力が求められている。
憲法二一条にうたわれている言論や表現の自由、「知る権利」についても気掛かりな出来事が目立つ。政治的ビラの配布で住居侵入罪に問われたり、取材記者に情報提供した自衛官が防衛秘密漏えいの疑いで書類送検されたりした事案だ。都内のホテルが右翼団体による妨害を理由に日教組集会の会場使用を拒否したことや、映画「靖国 YASUKUNI」への横やりも見過ごしにできない。
社会が萎縮(いしゅく)すれば人権と民主主義は危うくなる。公正で開かれた自由な社会を守り発展させるため、むしろ今こそ冷静に憲法を議論すべきではないか。一年後に迫った裁判員制度を円滑にスタートさせるためにも、憲法の理念に思いを巡らせたい。
山陰中央新報 2008年5月3日
憲法記念日 9条以外も考えてみよう
きょう五月三日は憲法記念日。改正手続きを定めた国民投票法の成立で一気に加速すると思われた改憲の動きが静かになっている。
昨年の参院選で民主党が大勝して衆参両院の勢力に「ねじれ」が生じ、与野党の対決姿勢が強まったからだ。戦後レジーム(体制)からの脱却を掲げ、「私の内閣で」と改憲に強い意欲を示していた安倍晋三前首相の突然の辞任も勢いをそいだ。
「改憲」「護憲」「加憲」「創憲」など各党の旗印は多彩だが、論点はこれまで「戦争放棄」をうたった九条に特化してきた。前文と百三条からなる憲法には、九条以外にも私たちが生きていく上での基本となる重要な条項が盛り込まれている。
にもかかわらず、国民の関心は総じて薄い。論争が穏やかになった今年は憲法全体への関心を高め、日本の将来を幅広い視点で考えてみたい。
動かない政治
四月下旬、ガソリンスタンドに車の列ができた。揮発油税の暫定税率が復活して再び値上がりする前に、という駆け込み給油である。
この一年で大きく変わったのが、衆参の「ねじれ」による国会運営の状況だろう。暫定税率などをめぐっては、参院第一党の民主党は審議を長引かせて、期限切れへと追い込んだ。
これに対し、暫定税率の復活を図る与党は参院送付から六十日間の「みなし否決」を経て、衆院本会議で再可決した。みなし否決で衆院再可決による成立は五十六年ぶり二例目という異例のことだ。
暫定税率のように、ねじれ国会になって審議が動かなくなるケースが増えた。日銀総裁人事では再議決を使えないため、一時は総裁が空白になる事態にもなった。財務省出身者の総裁就任に難色を示して譲らない民主党に対して政府・与党も歩み寄らず、「審議の停滞や混乱は民主党のせいだ」とアピールする。
そこには次期衆院選をにらんだ政局優先の思惑や駆け引きがあり、国民不在といわざるを得ない。動かない政治に自民党内からは「憲法改正も視野に見直そう」との声も聞こえてくる。
成熟への試金石
国会は衆院と参院の二院制をとる。参院の在り方はさまざまに論じられてきたが、衆参のねじれによって再びクローズアップされてきた。
スムーズな国会運営を実現するために「参院を廃止して一院制に」との指摘もある。確かに改革すべき点は多い。だが、参院は本来、丁寧な審議で衆院の審議をチェックする役割を担う。「良識の府」と呼ばれるゆえんである。
衆参のねじれは決して悪いことではない。政府・与党の暴走を抑え、与野党でよりよい政策に仕上げる成熟した政治への試金石といえよう。
ところが、現状は政権をめぐる与野党の党利党略の場になっている。政治が動かないのは、制度より与野党に動かす工夫や努力が足りなかったからにほかならない。
再議決以外にも、衆参で議決が異なる場合に両院の代表者が話し合う「両院協議会」など現行憲法の中で行き詰まりを打開する手はある。一気に改憲とはなるまい。
身近に引き寄せて
憲法は「国民主権」を基本原理に掲げている。だが、その趣旨が十分生かされているかといえば疑問だ。
国民主権を実現する手だてとしては、選挙で選んだ政治家や政党を介しての行使がある。だが、政治家は自らの考えや利害関係で公約とは違う動きをし、政党もご都合主義で連立や再編をする。国会の行政監督機能も弱い。これでは主権の実感は薄かろう。
そうした中で、国民主権の趣旨が生かせるものが出てきた。例えば司法制度改革である。二〇〇九年五月には裁判員制度がスタートする。国民が裁判官とともに重大事件の刑事裁判の審理を行う。市民感覚を司法に生かすことが期待されている。
住民に身近な行政は、できる限り地方にという地方分権も国民の意思による政治へと近づける。分権の流れは止まるまい。
お任せから自らが参画して責任を負う真の国民主権へ、憲法の掲げる基本原理が身近になっている手応えが感じられだした。現行憲法をもっと磨く必要があろう。
山陽新聞 2008年5月3日
憲法記念日 じっくり論議深めたい
日本国憲法はきょう、施行六十一年を迎えた。広島市など各地で集会や講演会、トークイベントなどが予定されている。あらためて憲法について考えたい。
すっかり静かになったように見える憲法論議である。昨夏の参議院選挙で自民党が大敗。改憲を公約に掲げた安倍晋三前首相が退陣し、その後の福田康夫首相は慎重姿勢をとっているのが大きい。衆参の与野党勢力が逆転した「ねじれ国会」では、改憲は当面の政治課題に隠れ、憲法審査会も休眠状態となっている。
ただ、改正への手続きを定めた国民投票法は既に成立している。施行は二年後に迫る。改憲論議が沈静化している今こそ、じっくり議論を深めておきたい。
憲法をめぐって考えさせられることが最近いくつかあった。
一つはイラク派遣の航空自衛隊の活動について、名古屋高裁が出した違憲判断である。判決の主文ではなかったものの、現状のバグダッドを「戦闘地域」と認定し、空自が多国籍軍の武装兵を輸送しているのは他国の武力行使と一体化した行動であり、憲法九条に違反するとした。
政府は小泉内閣以来、「非戦闘地域」であることをイラク派遣の法的根拠としてきた。その論拠が崩れれば憲法の枠をはみ出してしまう。「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域」という強引な説明を、イラク情勢の変化もあって司法が否定した意味は大きい。
自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法制定の動き、安倍前首相が意図した集団的自衛権の解釈変更の問題もある。戦争放棄をうたう憲法前文および九条の理念と合致するのかどうか。いま一度、冷静に考えたい。
もう一つは、国会の在り方である。「法律案は…両議院で可決したとき法律となる」という五九条が、政権に重くのしかかっている。参院で野党が多数を占める「ねじれ国会」であることから、衆院の三分の二による再議決、「みなし否決」などをめぐって与野党が攻防を繰り広げる。二院制など「統治機構」が、新たな憲法論議の課題にもなってきた。
知る権利や表現の自由をめぐる問題も浮上した。ドキュメンタリー映画「靖国」の上映を、予定していた映画館が中止した。街宣車が押し掛け、上映中止を迫ったとされる。日教組の集会をめぐっては、都内のホテルが一度引き受けていた会場使用を断った。言論への圧力に、社会が萎縮(いしゅく)すれば人権と民主主義は危うくなる。
日常の生活ではどうだろう。憲法は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定める。
しかし、非正規雇用者やワーキングプアが増加。格差の広がりは、今や深刻な社会問題だ。後期高齢者医療制度(長寿医療制度)は、年金に頼るお年寄りの生活を脅かしているようにも受け止められる。こうした身近なところからも、しっかりと憲法を見つめる目を培うことが欠かせない。
中国新聞 2008年5月3日
憲法記念日 平和主義を守り育てよう
日本国憲法が施行されてから、きょうで六十一年になる。
この間、日本の社会は政治、経済、文化などあらゆる面で変化し、国際情勢も様変わりした。
それに合わせて国のかたちも見直していく必要があるだろう。しかし、変えてはならないものがある。憲法の基本原則である国民主権、平和主義、基本的人権の尊重だ。
いずれも長い時間をかけて到達した普遍的な理念であり、価値である。どんなに時代が変わろうとも、これを守り、より発展させていかなければならない。
憲法記念日に当たり、まずそのことを強調しておきたい。
現憲法に対しては「占領軍に押し付けられた」「時代にそぐわない」として、改正を求める声がある。
最大の焦点は平和主義をうたった九条だ。一項で戦争の放棄を、二項で戦力の不保持と交戦権の否認を定めている。
国民の間には、戦力の保持や海外での武力行使を認めるべきだとの主張がある。一方、九条を守ろうという動きも広がっている。全国で七千以上、徳島県内でも百二十の団体が発足している「九条の会」などだ。
先月には、名古屋高裁が航空自衛隊のイラク空輸活動は違憲との判断を下した。日本は国際平和にどうかかわっていけばいいのか、あらためて考える契機としたい。
政党では、自民党が二〇〇五年に「新憲法草案」を発表している。その中で、九条二項を削除して「自衛軍」を保持するとし、国際社会の平和・安全を確保するための国際協調活動を行うとした。海外での武力行使に道を開くことになる。
民主党も同年にまとめた「憲法提言」で、国連主導の集団安全保障活動への参加を憲法に位置づけるとした。ただし、武力行使は最大限抑制し、必要最小限にとどめるという。
共産、社民両党は護憲、公明党は条項を加える加憲を主張している。
国際社会の一員として、日本が世界の平和や安全の維持に貢献しなければならないのは当然である。問題はどのような協力をするかだ。
軍隊を派遣し、軍事面で貢献する方法もあるだろう。だが、イラクや多くの紛争地帯をみると、軍事力だけでは平和の構築はできない。
平和憲法を持つ日本は、医療や福祉、教育など非軍事面での協力をもっと拡大すべきである。
政府開発援助(ODA)を含む経済支援や人権外交にも力を入れなければならない。そうした活動が平和主義の発展につながる。
基本的人権では、プライバシー権や環境権といった新たな権利を憲法に明記してほしいとの意見がある。国のかたちの問題では、分権改革を進めるため、地方自治の在り方をより明確に示す必要もあろう。
衆参両院は国民投票法の成立を受けて、昨年八月、憲法審査会を設けた。議論は始まっていないが、一〇年五月には国民投票法が施行され、憲法改正が可能になる。
憲法を変えるべきなのか。変えるならどこをどう変えるのか。判断するのは国民である。じっくりと時間をかけて議論したい。
徳島新聞 2008年5月3日
憲法記念日 改正論議の前に急ぐことがある
施行六十年の節目だった昨年の憲法記念日から一年。情勢は大きく変わった。
任期中の憲法改正を掲げ、昨夏の参院選の争点にもした安倍晋三前政権が参院選で惨敗。結局、政権を投げ出した。
改憲や教育基本法改正などを「戦後レジームからの脱却」と位置づけ、集団的自衛権行使の憲法解釈変更にも積極姿勢を示した「安倍政治」は、あまりにも保守回帰が目立った。
参院選では年金記録の不備や「政治とカネ」をめぐる閣僚の不祥事などがクローズアップされたが、保守回帰を急ぐ「安倍政治」に有権者がノーを突きつけた側面も見逃せまい。
また、改憲の手続きを定める国民投票法が昨年五月中旬に成立、公布された。施行は公布から三年後の二〇一〇年。それまで改憲案の原案提出や審査が禁止される。いわば改憲論議の猶予期間となった。
この過程で安倍前首相はミスをした。投票法案は与党と民主党の修正協議が合意寸前だったが、改憲を争点化したため協力態勢は空中分解。改憲の機運と可能性が一気にしぼんだ。与党は墓穴を掘ったといえる。
昨年八月に衆参両院に設置された憲法審査会も始動できず、宙に浮いた状態だ。さらに政権を引き継いだ福田康夫首相は憲法論議に慎重な姿勢だ。
ある意味で、憲法について冷静な論議ができる時間が与えられたことになる。熱に浮かされたような改憲論議ではなく、地に足の着いた幅広い論議が今こそ求められよう。
その一方で気になるのは、憲法の空洞化といえる現象がますます目立つことだ。
例えば、名古屋高裁は航空自衛隊のバグダッドへの空輸活動を「他国の武力行使と一体化し憲法九条に違反する」と明快に認定。この判決が確定した。にもかかわらず、政府は派遣を続けている。憲法をないがしろにするゆゆしき事態だ。
また四月に始まった後期高齢者医療制度(長寿医療制度)は年金に頼るしかない高齢者、とりわけ低所得者層を直撃した。事務の混乱も重なり、お年寄りたちは悲鳴を上げている。
働いても十分な収入が得られないワーキングプア(働く貧困層)の問題も深刻だ。若年層や母子家庭など弱い立場の人たちが、非正規社員を増やしてコストダウンを図る企業戦略の犠牲になっている。
記録の不備で何千万件という年金が宙に浮いた問題といい、医療、福祉、雇用などさまざまな分野で人々が生活の不安におびえている。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法二五条の空洞化が進んでいるのは確かだろう。
「国民が主権者となった国家が、無軌道に道を踏み外さない仕掛けが憲法」―樋口陽一東大名誉教授はこう述べる。現在、まさに国家が道を踏み外しつつあるのではなかろうか。
声高に改憲を主張する前に、政府は一刻も早くこうした事態を改める義務があるはずだ。
愛媛新聞 2008年5月3日
憲法と社会権 ほころび目立つ網の目
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
国民一人一人が人間らしい生活を送るための「生存権」を規定した憲法二五条だ。連合国軍総司令部(GHQ)の草案にはなく、制憲議会の衆院審議で加えられた歴史を持つ。
規定に基づき生活保護をはじめ、最低賃金、健康保険や年金などの制度が整備された。セーフティーネット(安全網)と呼ばれる仕組みだが、問題はきちんと機能しているかどうかだ。
近年、網の目のほころびが目立つようになった。「最後のセーフティーネット」である生活保護では、高齢者や母子家庭への補助が削られるなど給付水準の低下が続き、受給制限も問題となっている。高齢化やリストラによる受給世帯の増加と、国の厳しい財政状況が背景にある。
年金、医療、介護などの社会保険でも給付の引き下げや新たな負担が相次ぐ。いま問題となっている後期高齢者医療制度もその一つだ。
加えて「ワーキングプア(働く貧困層)」の問題がある。長時間働いても生活保護水準以下の収入しか得られない人たちが、人件費抑制を狙いとした企業の非正規雇用の拡大によって増加している。賃金だけでなく、社会保障面でも正社員とは格差がある。
憲法が保障しているのは単なる「最低限度の生活」ではなく、「健康で文化的な生活」だ。
「食べること」に必死だった戦後間もなくのころとは物差しが異なる。負担を恐れて医療機関にかかることをためらわざるを得ないような生活は「健康で文化的」とは到底いえまい。
資本主義の競争社会では格差が生まれ、社会経済的な「弱者」が生じるのは避けられない。すべての人が網の目からこぼれないようにしなければ、社会の不安は増すばかりだろう。
機会の平等
教育もまた同じような状況にある。憲法二六条の「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」は、本人が希望する教育を受けることができるという「機会の平等」をうたったものだ。ところが、格差の拡大とともに機会の平等は失われてきている。
例えば有名大学進学のため、私立の進学校に入ったり、塾通いをしたりする傾向が一層強まっているが、保護者の経済力に大きく左右される。また、経済的な事情で高校進学をあきらめざるを得ない子どもも少なくない。
東京都は八月から低所得世帯を対象に、生徒の塾費用を無利子融資する制度を導入するという。格差対策ではあろうが、その制度さえ利用できない子どもは将来への希望をますます見いだせなくなるのではないか。
地域間格差を含め、格差が当たり前のようになった流れを食い止めるためには、公教育の充実が欠かせない。国による教育投資は、この国の未来への投資でもあるはずだ。
憲法施行から六十一年。これまで憲法をめぐる論議は九条を中心に行われてきた。むろん、日本の針路にかかわる重要な問題だが、身の回りに目を凝らすと憲法のほころびにあらためて気付かされる。
生存権や教育権、勤労権などの「社会権」もその一つだ。一度立ち止まって在り方を考えないと、この国の土台がぐらつきかねない。
高知新聞 2008年5月3日
「生存権」が尊重される社会に 憲法と暮らし
憲法記念日に、国民の暮らしについて触れるのは、そのことが今、とても気掛かりだからです。
とりわけ、社会的弱者とされる高齢者、障害者、低所得者らの生活が守られているだろうか、人として尊厳を持って生きていけているだろうか、と気になります。
憲法二五条は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とし、国は「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定しています。
国民が等しく不安のない暮らしを続けられる、少なくとも生活に行き詰まることはないよう措置する努力を、憲法は国に求めているのです。
ところが、現実はどうでしょう。弱者を苦境に追い込むような状況になっていないでしょうか。
■弱者へのしわ寄せ進む
例えば高齢者医療です。本年度から始まった後期高齢者医療制度は「高齢者切り捨て」との批判が絶えません。
75歳以上を従来の健康保険から切り離して別保険とし、保険料徴収は取りこぼしがないよう年金からの天引きとしました。
問題は、低所得の高齢者に配慮のない、その仕組みです。保険料徴収を都道府県単位に一本化したことで、市町村が独自に行ってきた低所得者への軽減措置がなくなったのです。
子女に扶養されている高齢者も、いずれ保険料を徴収されることになります。わずかばかりの年金を頼りに暮らす高齢者には、新たな重い負担です。
全体の医療費が増えれば当然、保険料は上がります。高齢者は受診を手控えるようになるでしょう。「切り捨て」批判もむべなるかなです。
政府は負担軽減策の検討を始めましたが、医療費抑制という制度の狙い自体に疑問があります。確かに年間30兆円を超す医療費の35%超が老人医療費です。高齢者の8割が加入する国民健康保険は赤字です。高齢化が進めば当然、医療費は膨らみます。
しかし、それは高齢化社会の必要コストだと考えられないでしょうか。国内総生産(GDP)比8%という日本の医療費は、先進国のなかで目立って低率です。先進各国は医療費増を当たり前のことと受け止めているのです。
医療費抑制がさまざまな「副作用」を引き起こしているのも周知の通りです。産科や小児科の医師不足、救急現場での患者のたらい回し…。安心の暮らしを保障する医療が、国民を戸惑わせ、弱者を不安にさせています。
医療だけではありません。老後の生活資金である年金のずさんな管理、医療同様に財政の論理が前面に出てサービスが削られる介護保険制度も、国民の将来を暗くさせています。
高齢者や失業者、母子家庭などの最後のよりどころである生活保護すら十分機能していると言えない実情です。
憲法二五条を具体化した生活保護法は「保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」とわざわざ規定しています。
しかし、現状は、財政難から自治体が審査を厳しくする傾向にあります。北九州市で生活保護を打ち切った後、対象者の孤独死が相次いだのは記憶に新しいところです。
■無視できぬ若年貧困層
はつらつと人生を送るべき若者にも危うさが付きまとっています。ワーキングプア(働く貧困層)の問題です。
労働者の4人に1人が年収200万円以下、日雇い派遣労働者の平均月収は13万円余りです。多くが若者です。
借家住まいではやっていけず、インターネットカフェで寝泊まりする者が1日6万人と推計されています。
生活保護水準以下の実態を、さすがに国も無視できず、最低賃金法に「健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護にかかわる施策との整合性に配慮する」の一項を加え、最低賃金の底上げをしました。
市場競争経済が所得格差を生んでいると言われます。そこからこぼれ落ちた若者を苦境に追い込むのではなく、一定の生活を保障し、再起を応援する仕組みこそ今、求められています。
政府は企業への正規雇用の働き掛けや、失業者の再起のための職業訓練などに着手していますが、まだまだ十分とは言えません。
憲法二五条は「最低限度の生活」を保障する立法や必要な措置を国に義務付けています。政府は台所事情が怪しくなったからと、弱者の生活の基準を切り下げてはなりません。
財政支出が膨らむのは仕方のないことです。負担は持てる国民が自然に分かち合えるよう、政府が誘導すればよいのです。それが政治です。
内閣府の国民生活調査では、「生活に悩みや不安を感じる」人は過去最高の69.5%に達しています。この数字を政府は重く受け止めるべきです。
人が助け合う温かさを失った社会に未来はありません。弱者を包み込める社会こそ、憲法が求めているものではないでしょうか。
西日本新聞 2008年5月3日
憲法記念日に 無関心ではいけない
日本国憲法の改正に必要な国民投票法が、昨年5月に制定されて1年。あれほど盛んだった改憲か護憲かの論議は、すっかり鳴りをひそめてしまった。きょう5月3日は憲法記念日。九条の是非はともかく、憲法に無関心であってはならない。
国民投票法は安倍内閣のもと、与党の賛成多数で成立した。公布から3年後の2010年5月18日に施行される。憲法改正には国民投票で過半数の賛成が必要と憲法九六条に定められており、その具体的な手続きを規定したものだ。
投票できるのは18歳以上の日本国民だが、選挙権の年齢や民法の成人年齢が20歳なので、法制上、18歳以上が国政選挙で投票できるように改正するまでは20歳以上となっている。
国民投票法が成立した3カ月後の昨年8月、衆参両院に憲法審査会が設置された。憲法改正原案や改正の手続きにかかわる法案などを審査するためのものである。
ところが、憲法改正に意欲を燃やしていた安倍晋三前首相が、昨年9月に突然の辞意表明を行って以来、憲法改正への熱気は、すっかり消えてしまった。憲法審査会は委員の選出もできず、1回も開催されていない。後任の福田康夫首相は、ねじれ国会への対応に追われ、憲法改正にはほとんど言及していない。
民主党も自民党とは違った独自の改正案を作成するなど、一時期、憲法改正に意欲的だったが、最近は距離を置くようになった。ねじれ国会では世論を味方につける必要があり、憲法改正のように世論の賛否が分かれている問題に対しては、発言しない方が無難との考えのようだ。
小沢一郎代表は4月28日の記者会見で「憲法問題には緊急性がなく、国民生活の問題が最優先」と語るなど、当面は医療問題や年金問題に専念する構えだ。
超党派の議員でつくる「新憲法制定議員同盟」は1日、「新しい憲法を制定する推進大会」を都内で開いたが、民主党から役員になっている鳩山由紀夫幹事長や前原誠司副代表は欠席。与野党が対決姿勢を鮮明にしているねじれ国会の中で、憲法改正論議を進めることの難しさを浮き彫りにした。
憲法論議を徹底的に行えば、安全保障に対する意見の対立で、自民、民主とも党が割れる危険性をはらんでいる。ポスト福田の主導権争いは、憲法問題が再編の鍵になるともいわれている。
とはいえ、憲法をめぐる諸問題から目をそらすわけにはいかない。たとえば、ねじれ国会の運営では、憲法の規定が焦点となっている。
五九条二項の「衆院での3分の2による再議決」、同条四項の「法案のみなし否決」などをめぐって与野党の対立は激化している。ねじれ解消のために2院制の見直し論も浮上している。
名古屋高裁は、イラクでの航空自衛隊の空輸活動を違憲と判断した。政府の説明が司法によって否定されたことになる。政府関係者からは「司法判断がおかしい」との声が聞かれるが、それなら憲法解釈を明確に説明しなければならない。
憲法は施行されて61年になる。その間に国民の生活形態も変わり、国際情勢も変化した。九条と自衛隊の問題ばかりがクローズアップされるので、論争に嫌気がさして無関心となる国民が増えていないだろうか。
憲法は国民一人一人の生活、行動の規範だ。自分の問題として冷静に憲法の在り方を考えたい。(園田 寛)
佐賀新聞 2008年5月3日
憲法記念日 被爆地から9条考えよう
六十一回目の憲法記念日を迎えた。節目の施行六十周年の昨年からこの一年、戦後初めて改憲に向けて動きだす歴史的な転機を迎えるなど、憲法をめぐる状況は大きく揺れ動いた。
憲法改正論議の焦点はいうまでもなく第九条だ。
戦後の平和と繁栄は、日米安保による核の傘や米軍基地、自衛隊の存在を挙げ日米関係を発展させるため改憲が必要とする考え方。
一方、戦争の放棄と戦力・交戦権を否定した九条があるからこそ、平和を維持し、緊張緩和と戦争防止の歯止めになってきた。
こうした好対照な認識差が、改正賛否の核心部分といえよう。
「任期中の憲法改正」を公言していた安倍首相(当時)は昨年春、野党の反対を押し切り、改憲のための手続き法である国民投票法を成立させた。だが、参院選の与党惨敗後登場した福田首相は、野党との対話姿勢に転じた。投票法に伴う両院の憲法審査会もいまだに始動していない。改憲論議も沈静化のように映る。
だが、一方で自民党は、自衛隊の海外派遣を随時可能とする恒久法の成立を目指し動きだした。海自がインド洋で行う給油活動のための時限立法である「新テロ特措法」などに代わるものだ。今国会中の法案提出は見送られる公算だが、年内提出・成立が目標とされる。
この恒久法は、「専守防衛の自衛隊」から逸脱しかねない、究極の「解釈改憲」として大いに論議の余地がある。国民への十分な説明が必要であり、九条の根幹ともかかわる今年の最重要課題になるだろう。
さて、被爆県長崎は、戦後一貫して核兵器廃絶と平和をアピールしてきた。その象徴である被爆者たちは「ノーモア戦争、ノーモア被爆者」を掲げ、いかなる戦争にも反対し武力に頼らない平和な世界を、と訴え続ける。毎年夏、内外に発信する被爆地の心であり、総意ともいえよう。
昨夏の長崎平和宣言で、田上富久市長は「被爆国の政府として、日本国憲法の平和と不戦の理念にもとづき、国際社会において、核兵器廃絶に向けて、強いリーダーシップを発揮してください」と訴えた。
広島市の平和宣言でも、秋葉忠利市長は、政府に対して「核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う」と言及した上で「世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守すべき」と迫ったのだ。
被爆地市民・県民にとって、基本的な考え方は極めて明快だ。堂々と平和憲法を、九条を生かす立場でありたい。
そもそも憲法とは何か。国民の権利や自由を制限する一般法とは違い、国家権力をチェックし権力の乱用や行使を制限するものであること。あらためて原点を押さえたい。
国民投票法は、三年間の凍結が解除となる二〇一〇年には改憲発議が可能となる。改憲か、護憲か。県民が選択する時期もそう遅くない。十分論議をしておきたい。(蓑田剛治)
長崎新聞 2008年5月3日
憲法記念日 国会の真価が問われている
憲法の施行から丸六十一年。昨年は六十年の節目の年で改正手続きを定めた国民投票法が成立し、憲法論議に国民の関心も高まった。しかし、昨年七月の参院選で自民党が惨敗し、改憲に積極的だった安倍晋三首相が退陣。論議の熱気はすっかり冷めたように思える。
しかし、国民投票法は二〇一〇年五月には施行され、改憲の手続きは整う。熱気が冷めた今だからこそ、冷静に考える機会としたい。
●政治の機能不全
この一年で憲法をめぐる新たな状況が生まれた。最大のものは「ねじれ国会」となり、政治の機能不全が指摘されたことだ。一月にはインド洋での海上自衛隊の給油活動を再開するための新テロ対策特別措置法が衆院で再可決、成立した。参院で否決された法案が再可決で成立したのは五十七年ぶりだった。四月三十日には揮発油税などの暫定税率を復活させる税制改正法が、送付から六十日以内に採決されなかったとの憲法五九条の「みなし否決」に基づき衆院で再可決、成立した。これも五十六年ぶりの異例な事態だった。
憲法は衆院の優位を定めており、手続きとして問題はない。だが再可決には「三分の二以上の多数」という高いハードルを設けており、あくまで「非常手段」だ。
ねじれを解消するには衆院の解散・総選挙で民意を問うのが本来だろう。だが、三分の二以上の議席を占める与党が応じるとは考えにくい。選挙で必ずねじれが解消する保証もない。
こうした中、迅速な意思決定のため、二院制改革という憲法改正も視野に入れた議論が必要だとの声も上がっている。参院の権限を弱めようという議論だ。もちろんこれには参院での優位を手掛かりに攻勢を強めている民主党が応じるはずがない。ただ、数に頼った政局優先の姿勢では、民主党への批判も高まる。
国会の機能不全が長期化し国民生活に影響が出ることは許されない。議会制民主主義の真価が問われている。どう克服していくのか、新たな合意形成のルールづくりを含め、与野党は論議を深めてほしい。
●厳格な解釈求める
戦争放棄の九条をめぐっても、新たな司法判断があった。四月、名古屋高裁は、イラク復興特別措置法に基づく航空自衛隊のバグダッドへの空輸活動を違憲と判断した。あらためて自衛隊の海外派遣の在り方が問われた。高裁はバグダッドは「戦闘地域」に当たり、空輸活動は「外国軍の武力行使と一体化した行動である」と、歴代政権が合憲とした論拠を否定した。
高裁は厳格な憲法解釈を求めた。政府はこれを重く受けとめるべきだ。いま自民党が検討している自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法論議への影響も必至だ。
●支えるのは国民
このほかにも憲法にかかわるニュースがあった。一つは日教組の「教育研究全国集会」の全体会場に予定されていた東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪が開催直前になって、右翼団体の妨害行為などで受験生や周辺住民に迷惑をかけるとして使用を拒否した。もう一つは、中国人監督による映画「靖国 YASUKUNI」の相次ぐ上映中止だ。いずれも抗議行動などに過剰に反応したものだった。モノを言いにくい空気が生まれているのか。憲法が保障した集会の自由や、表現の自由もその重要さへの認識や社会の関心が薄らげば揺らぎかねない。支えるのは国民だ。
あらためて憲法が果たしてきた役割と重要性を再確認し、未来のあるべき姿も考えたい。
熊本日日新聞 2008年5月3日
憲法記念日 諸課題に思いを巡らせよう
日本国憲法は1947年施行から61年の記念日を迎えた。
「還暦」の節目だった昨年は、憲法改正の手続きを定めた国民投票法(昨年5月14日成立)の法案審議中とあって、憲法問題が国民の関心を集めていた。
ところが昨年夏、改憲志向の安倍晋三前首相の下でその推進役だった自民党が参院選で大敗した。以後、政治の場で憲法論議はすっかり冷え込んでしまった。
福田康夫首相は憲法改正問題には慎重姿勢で、衆参両院に設けられた憲法審査会も休眠状態だ。
だが国会での再可決や自衛隊活動、裁判員制度など憲法をめぐる問題は多い。それらをとらえ、憲法の理念に思いを巡らせたい。
■司法の違憲判断重い■
ガソリンなどの暫定税率がわずか1カ月で復活することになった税制改正法案をめぐる衆院での再可決は、数で勝る与党が憲法の規定を盾に強行した。
参院で民主党が第一党を占める国会のねじれ状態の下で、与党にとって最終手段になったのだろうが、相次ぐ再可決に二院制の見直し論も浮上してきた。
憲法9条の解釈をめぐって常に論議の対象になってきたのが自衛隊の海外活動だ。
インド洋での給油活動継続の新テロ対策特別措置法で苦慮した福田首相は、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法の制定に意欲を示している。だが、ときの政府の判断だけで自衛隊を送り出す仕組みが9条の理念に合致するのか。慎重な議論が必要だ。
最近では名古屋高裁がイラクでの航空自衛隊の活動について違憲判断を示した。小泉内閣当時、対米支援のため国会論議が不十分な中で通した特措法に基づく自衛隊活動だがその司法判断は重い。
ところが政府には活動を再検証し、見直す空気はなく司法の判断を軽視している態度は遺憾だ。
■危うい「表現の自由」■
憲法21条にうたわれている言論や表現の自由は、私たちの「知る権利」を保障するもので民主主義社会の根幹をなすものだが、最近気掛かりな出来事が目立つ。
映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止が相次いだ。右翼団体などの抗議活動に対して映画館側が過剰に反応した。
映画の主張がどのようなものであっても権力や暴力などによる封殺は、自由に物が言えなくなる社会をあらわにする。
ほかにも政治的ビラ配布で住居侵入罪に問われたり、取材記者に情報を提供した自衛官が防衛秘密漏えいの疑いで書類送検されたりした事案も微妙な問題で見過ごすことはできない。
裁判員制度についても意見はさまざまだ。基本的に裁判員になることが義務化され、辞退できる理由が厳格に制限されることなどが人権侵害に当たるとの主張もある。1年後の円滑なスタートには制度の在り方が憲法の理念に沿うものか、さらに検証が必要だ。
憲法をめぐる諸課題は常に私たちの身の回りに突きつけられている。公正で開かれた自由な社会の実現のため、冷静な議論を重ねていくことが大切だ。
宮崎日日新聞 2008年5月3日
憲法記念日 国のありようを冷静に問い直したい
あの熱は何だったのか−日本国憲法をめぐる論議のことである。施行から60年という節目だった昨年、国民投票法が成立し、世の中は改憲に向けて大きく動いた。賛否の声が沸き立ち、憲法論議を初めて身近に感じた国民も少なくなかった。
1年がたち状況は随分変わった。何しろ「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げて改憲論議を主導した安倍晋三前首相が退陣し、慎重派の福田康夫首相になったのだから無理もない。しかも政治は「ねじれ国会」の下、混迷を極めており、改憲を論じる余裕はなさそうだ。
しかしさまざまな問題の根底に憲法が横たわっていることを忘れてはなるまい。熱が引いた今だからこそ、冷静に論議できることもあろう。現憲法が誇る国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という基本理念の持つ意味を再度かみしめ、この国のありようを問い直したい。
未成熟な国民投票法
国民投票法が成立したのは昨年5月だった。憲法が改正規定を持ちながら、その手続きを定めていないため、改憲を目指す人々が第1段階として取り組んだ。当初は自民、公明の与党が民主党とともに成立させようとしたが、参院選を前に対立が強まり合意はならなかった。
おかげでその中身は詰め切れていない。例えば公務員や教職員の「地位を利用した投票運動」はしてはならないと規定したものの、具体的な行為についてはあいまいなままだ。投票権者も18歳以上としたが、民法や公職選挙法など関係法令の整備が条件となっている。
さらに最低投票率制度の是非も課題として残された。最低投票率の規定がなければ、限られた有権者の賛成で憲法が改正される恐れがある。与党は改憲反対派によるボイコット運動の影響を懸念するが、国の骨格にかかわる問題だけに一定のラインを設ける必要はあろう。
これらの問題は衆参に設けられた憲法審査会で検討されなければならない。しかし与野党が激突する状況である。民主党は委員数や議事手続きなどを定める審査会規定の制定にも応じていない。2010年にも改憲を発議したいとしていた与党の筋書きは狂ったといえよう。
ただ国民の間で改憲に対する関心が薄らいだわけではなさそうだ。南日本新聞社が最近行った県民世論調査でも、改憲に「非常に関心がある」「少し関心がある」は計75.1%に上った。昨年の前回調査より6.7ポイントも増えている。
しかも改憲の必要性について「必要」「どちらかといえば必要」が計57.8%だった。これは前回調査より4.0ポイント多い。ただし「必要ない」「どちらかといえば必要ない」も34.6%で9.4ポイント増えた。国民投票法の成立が改憲、非改憲の意思表示を促したとみてよかろう。
興味深いのは議論の対象である。社会保障が前回比9.7ポイント増の47.6%で一番多い。やはり年金や後期高齢者医療制度などに対する不満が反映したものと思われる。2番目は環境権で8.6ポイント増えて33.1%だった。地球温暖化などが数字を押し上げているのだろうか。
戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法九条は1.7ポイント増の27.4%で、知る権利やプライバシー権に次いで4番目にとどまった。また九条改憲反対派は前回比7.5ポイント増の51.7%で、賛成派は4.6ポイント増の39.1%だった。反対派が初めて5割を超えたことに注目したい。
ほしい国際貢献論議
九条をめぐっては先月、名古屋高裁が航空自衛隊によるイラクでの空輸活動を違憲とする判断を示した。首都バグダッドはイラク復興支援特別措置法が活動を禁止している「戦闘地域」に当たると認定し、兵員空輸は「外国軍の武力行使と一体化した行動」としたのである。
原告が求めた派遣差し止めなどの訴えは退けられたものの、判決の持つ政治的な意味合いは小さくない。イラク特措法はもともと「非戦闘地域」の定義のあいまいさなどが指摘されてきた。判決は米国支援のために無理を重ねた法律の問題点を正面から問うたと言っていい。
そもそも自衛隊の海外派遣について国民的合意ができているとは言い難い。海上自衛隊によるインド洋での給油活動を行うための新・旧テロ対策特別措置法の審議過程でも集団的自衛権とのかかわりが議論された。現状での自衛隊活動の領域拡大に不安を抱く人は多い。
にもかかわらず、政府と自民党は自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法の早期成立を目指している。日本の国際貢献のあり方について深い論議もないまま恒久法成立を急いでいいのだろうか。県民世論調査でも制定賛成派36.0%に対して反対派が51.3%を占めた。
ただ最近、伝統的な国連の平和維持活動(PKO)だけでなく、多国籍軍などが国際平和で果たす役割は大きくなっている。日本が積極的に貢献すべき場面があるかもしれない。その際、憲法と照らしてどのような形で関与すべきか検討しておかなければならない。
憲法を考えるとき、大切なことは国の行く末である。あるべき国の全体像が示されないのに改憲を迫られても戸惑う。国際貢献をはじめ幅広いテーマで各政党の理念を聞きたい。「ねじれ国会」の先には政界再編も予想される。再編の軸になるのも憲法問題に違いない。
南日本新聞 2008年5月3日
憲法を考える(上) 9条を「国際公共財」に
二国間同盟を維持する上で最も大切なのは「相互の信頼」だといわれる。信頼とは、してほしいと相手国が望んでいることをすることだ。
「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上部隊の派遣)という米国の要求にこたえて小泉政権は、いち早くブッシュ政権支持を表明し、急ごしらえの法律に基づいて自衛隊をイラクに派遣した。
だが、大量破壊兵器は発見されず、フセイン政権がアルカイダに協力したことを示す証拠も見つからなかった。中東を民主化するというもくろみも「アメリカ的価値の押し付け」だとイスラム世界の激しい反発を招いた。
イラク攻撃は国連憲章違反の疑いが濃厚である。米国でも「誤った戦争」だとの評価が定着しつつある。問題は「毒を食らわば皿まで」の姿勢に終始する日本の外交・安全保障政策だ。
イラク国内の戦闘地域と非戦闘地域の区別を問われ、小泉純一郎首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と答えた。
航空自衛隊によるイラクでの空輸活動は憲法九条に違反するとの名古屋高裁の判決に対し、田母神俊雄航空幕僚長はちゃかすように答えた。「私が(隊員の)心境を代弁すれば『そんなの関係ねえ』という状況だ」
この発言からは憲法九九条の「憲法尊重擁護義務」を守ろうとする姿勢が全く感じられない。戦前の歴史をひもとくまでもなく、指揮官が平気でこのような物言いをし始めるのは危険である。ここに見られるのは憲法九条に対する根深いシニシズム(冷笑主義)だ。
在日米軍はすでにして安保条約の枠を超えた活動をしている。事前協議制は空文化し、極東条項も、あってなきがごとき状態だ。憲法九条だけでなく安保条約さえも、現実との乖離がはなはだしい。
米国が日本に求めているのは、日米同盟を米英同盟のような同盟関係に変えることである。もっと言えば、集団的自衛権が行使できるように日本の法制度を変えることだ。
だが、想像してみよう。もし、九条がない状態でイラク戦争を迎えていたら、どうなっていたか。米国の国家戦略に従って海外に軍隊を派遣し共に血を流して戦う―そのような同盟関係を築くことがほんとうに望ましい日本の未来像だといえるのか。
九条改正や同盟強化を言う前に、F15戦闘機の未明離陸をなんとかしてもらいたい。それが嘉手納基地周辺住民の心境だろう。
沖縄戦から六十三年がたつというのに沖縄は今もって「戦後ゼロ年」(目取真俊さん)のような状況にある。米軍駐留を維持するための施策が社会構造までいびつにしてしまった。
憲法前文と九条に盛り込まれた平和主義と国際協調主義は、戦争体験に深く根ざした条項であり、沖縄の歴史体験からしても、これを捨て去ることはできない。
ただ、護憲という言葉に付着する古びたイメージを払拭するには、護憲自体の自己改革が必要である。九条を国際公共財として位置づけ、非軍事分野の役割を積極的に担っていくことが重要だ。
沖縄タイムス 2008年5月3日
憲法記念日 今こそ理念に輝きを
きょうは憲法記念日。1947年5月3日の施行から61年を迎えた。この間、憲法は日本の平和と国民の人権を守る砦(とりで)の役目を担ってきた。だが、いま日本は「違憲」の国になりつつある。憲法を取り巻く動きを検証した。
戦前の大日本帝国(明治)憲法と、戦後の日本国憲法の大きな違いは主権在民。つまり、天皇主権から国民主権への転換だ。新憲法は天皇を国の「象徴」とし、「主権が国民に存する」と宣言した。
戦前。国民は「天皇の赤子」だった。天皇のために国民は命を賭して国を守り、そのために多くの国民が戦争の犠牲になった。
司法判断無視の政府
その反省から、憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意」し、第9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」を明記した。
しかし、現実は自衛隊という紛れもない「軍隊」を保持し、海外に派遣している。
ことし4月17日、名古屋高裁はイラクに派遣された航空自衛隊の空輸活動が「他国の武力行使と一体化し、憲法9条に違反する」との判断を下した。
だが、政府は「違憲」判断を事実上無視し、自衛隊の派遣を継続している。
憲法は国の最高法規で「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と、第98条は定めている。
そして第99条は、大臣や国会議員、公務員らは「憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記している。
法治国家のはずの日本で最高法規の憲法を守らず、従わず、尊重せず、「違憲」行為を重ねる政治が行われている。
尊重どころか改憲論議も加速している。焦点は常に「9条」で、軍隊の保有が改憲派の主な狙いだ。
政権与党の自民党は立党50周年を機に2005年11月に新憲法草案をまとめている。
草案は憲法前文から「国家不戦」の決意を削除。「戦争の放棄」を「安全保障」に変更し、「自衛軍の保持」を明記。国内のみならず国際任務での自衛軍の活動を盛り込んでいる。
安倍晋三内閣の下で、すでに憲法改正をにらんだ国民投票法を成立させている。
自民党と連立を組む公明党は、9条を維持しながらも「新たな人権」を盛り込む「加憲」論に立つ。
野党最大の民主党は改憲、護憲の両勢力が党内で拮抗(きっこう)する中で、自由闊達(かったつ)な憲法論議を是とする「論憲」「創憲」論を展開している。これも突き詰めると「改憲」の流れにある。
「護憲」勢力の社民党や共産党は、平和憲法の趣旨の徹底を目指す「活憲」論で迎え撃つなど、攻防は水面下で激しさを増している。
護憲のうねりつくろう
最近の映画「靖国 YASUKUNI」の上映をめぐる動きも憲法論議に発展した。
文部科学省は国会議員らの要求で、同映画の試写会を行った。試写後、主要シーンの削除や上映禁止を求める動きが議員らから出た。
憲法は言論の自由、出版など「表現の自由」(第21条)を保障し、検閲を禁じている。「靖国」をめぐる動きは事前検閲や表現の自由を侵害する「違憲」行為にも映る。
沖縄の現状はどうか。戦後、沖縄が平和憲法の庇護(ひご)の下に入ったのは1972年の本土復帰後だ。
それまでの米軍統治下の沖縄では国民主権はおろか「自治は神話」とまで言われ、基本的人権は保障されず、多発する米軍犯罪の被害に泣き、銃剣とブルドーザーで家や土地を奪われ、財産権を侵害され続けてきた。
いま、沖縄は日本に復帰し平和憲法の下にある。それなのに「法の下の平等」に反する米軍基地の過重負担、深夜早朝の爆音被害、実弾演習被害、有害物質の流出や禁止兵器の使用、そして繰り返される米兵犯罪で「平和的生存権」が侵害され続けている。
条文だけの憲法は役に立たない。尊重し、守り、守らせてこその立憲・法治国家である。
人権や自治のない米軍統治下で平和憲法を希求し、本土復帰運動を展開した沖縄である。
失われつつある平和憲法の理念を問い掛け、順守し、実効性を取り戻す運動を沖縄から始めたい。
琉球新報 2008年5月3日
大原則は守られているか きょう61回目の「憲法記念日」
■民意反映されぬ法の制定
後期高齢者医療制度が、反発を集めている。保険料の年金天引き、さらに1年間滞納すれば保険証とり上げ、と実にシビアだ。法成立から2年、高齢者に特化した新制度ながらもその間、国民への説明を欠いたまま施行したのが混乱の源だろう。
道路特定財源問題も同様だ。財源不足を大義に大多数の国民の反対を押し切って、ガソリンの暫定税率を再可決した。民意が反映されず、次々と法が制定されてゆく。これほど恐ろしいものはない。
わが国の憲法は「国民主権」「平和主義」「基本的人権」を三大原則に定めている。後期高齢者医療制度、暫定税率問題の2例を見ても、それが守られているのか疑問である。
戦後生まれの政治家が多数を占めるようになり、憲法改正論が活発化している。中でも平和主義の根幹をなす「憲法9条」の戦争放棄、戦力の不保持に踏み込む主張が、国会で交わされるようになった。PKO協力法を制定、自衛隊の海外派遣を可能にし、イラク戦争を機に9条を改正しようとする動きが加速、国民保護法、憲法改正に向けた国民投票法案など次々と成立している。
■沖縄の憲法9条への思い
沖縄は憲法9条を守ろうとする9条の会活動が全国の中でも活発だ。石垣市にも2つの組織がある。それは大戦で唯一の地上戦が行われ、多くの命を失ったからだ。国民保護法に関しても沖縄の世論は冷ややかである。戦時には逃げ場がなく、軍隊が国民を守らないことを実体験しているのだ。
八重山は、銃弾の代わりに軍命でマラリア有病地へ強制疎開させられ、多くの家族を失った。この悲しみが消えることはない。
県民が長く叫び続けていることは基地の整理・縮小だ。全国の7割もの米軍基地を抱え、昼夜問わず離着陸する米軍機の騒音や後を絶たない米兵の事件事故に悩まされている。基地と隣り合わせの生活は「日米地位協定」、国益優先で基本的人権が守れない。基地機能の分散も、国内各地で反対運動が起こり、海兵隊司令部のグアム移転が決まっただけだ。
憲法改正論の浮上で、八重山でも自衛隊や米軍の動きが目立つようになった。防災演習に自衛隊が参加したり、与那国町へは自衛隊幹部がひんぱんに訪れるようになった。
給油を理由に米軍機が石垣、波照間空港を利用する回数も増え、与那国町長が入港を拒否したものの、米艦船が強行に祖内港へ入港、公然と港内調査を行ったことも記憶に新しい。
■国際貢献の美名のもとで
「軍靴の音が聞こえる」と9条の会は危機感を募らせる。国民の手の届かないところで政治が動き、改憲へ着々と準備が進められているからだ。先日は自民・公明・民主の110人の議員が超党派の改憲研究会に参加した。国際貢献の美名のもとで、憲法改正の必要性を訴えている。
ところがどうだろう。イラク戦争の大義となった大量殺りく兵器はなかった。米大統領もこれを認めた。違憲の声がある中で、わが国は自衛隊をイラクに派遣した。さらにいまもインド洋へ補給艦を出動させ、国際貢献に高い評価を受けている、と自画自賛する。イラク戦争の総括はどうなったのだろうか。
4月17日、名古屋高裁はイラクでの航空自衛隊「国際貢献活動」を違憲と判断した。バグダッドを戦場と認め、そこに人員や物資を運ぶ活動を「多国籍軍の武力行使と一体」と判断したのである。
だが憲法違反の判決にも政府、与野党に大きな動きは見られない。
先に県内では、高校教科書の沖縄戦集団自決の軍関与記述削除が社会問題化した。県民総決起大会が行われ、文科省に記述の復活を詰め寄った。しかし司法判決で軍関与の判断が下されながらも、国の姿勢は一貫して誤りを認めていない。
昨年5月に公布された憲法改正手続き法は2年後に施行される。これも国民的論議を尽くし得ぬまま短期間に成立問題点が数多く指摘されているのである。
きょう3日は61回目の「憲法記念日」だ。わが国がどこに向かおうとしているのか、しっかり考えたい。
八重山毎日新聞 2008年5月3日
憲法記念日(上) 九条は暮らしも支える
61回目の憲法記念日がめぐってくる。これまでの数年間に比べれば、改正論議が落ち着きを見せている中での記念日だ。
福田康夫首相の姿勢が影響している。「広く国民、与野党で議論が深められることを期待している」。改正について国会で問われると、そんなあいまいな答えでやり過ごしている。
小泉純一郎元首相は「非戦闘地域」という奇妙な理屈を編み出し、戦闘の続くイラクに自衛隊を派遣して憲法の足元を掘り崩した。安倍晋三前首相は、憲法に立脚してきた戦後日本の歩みを「戦後レジーム(体制)」と呼び、そこからの「脱却」を訴えた。
<水面は穏やかでも>
前任者2人に比べると福田首相は憲法問題から明らかに腰が引けている。内閣支持率が30%を割る現状では、憲法どころではない、というのが本音だろう。
半面、改正論議は煮詰まった状態にあるのも事実だ。
憲法とセットで定められた教育基本法は安倍政権の下で見直され、教育の目標に「わが国と郷土を愛する態度を養う」ことが盛り込まれた。改正の是非を問うための国民投票法は2年後、2010年に施行される。
例えて言えば、湖の水面は穏やかでも、水位はかなり上がっている。首相が代わったり政界再編が起きたりすれば、水は一気に流れ出す可能性がある。
そのときに備えるためにも、憲法のあり方について、いま、考えを深めたい。
大事なのは、憲法を暮らしの視点からとらえ直すことだろう。
<高度成長の基礎に>
元駐アフガニスタン大使、駒野欽一さんから聞いた話を紹介したい。日本政府は新憲法の制定を進めるアフガン政府に対し、法律の専門家を派遣して支援してきた。アフガンの人たちがいちばん聞きたがったのは、日本が経済大国への歩みを進むに当たり、平和憲法がどんなふうに役だったかの話だったという。
戦後日本が経済建設にエネルギーを集中できたのは、軍備を切り詰めたことが大きかった。
九条の歯止めがなければ、東西冷戦が厳しさを増す中で、日本は米国からより大きな軍事的役割を求められていたはずだ。韓国のように、ベトナム戦争を米軍と一緒に戦って死傷者を出していた可能性だって否定できない。日本企業のアジア進出にも警戒の目が向けられていたかもしれない。
日本人が享受してきた安全で豊かな暮らしは多分に、憲法に支えられている。このことは繰り返し強調されてよい。
防衛庁の制服組トップ、統合幕僚会議議長を務めた西元徹也さんは、九条が日本の安全保障政策の足かせになっていることを講演などで繰り返し訴えてきた。その西元さんも、日本が軍事的野心を持たないことを世界に向けて証明する上で、憲法が大きな役割を果たしてきたことは認める。
憲法は平和を旨とする日本の基本政策の、いわば“保証書”にもなっている。
「実質的に自衛隊は軍隊だろう」。小泉元首相は5年前、国会審議でさらりと言ってのけた。
自衛隊は軍隊なのだろうか。確かに、装備を見れば軍隊に見えないこともない。予算は世界有数の額である。
「陸海空軍その他の戦力」は持たない、という九条の規定から遠く隔たったところまで、自衛隊は来ているのは事実だ。
半面、自衛隊は専守防衛政策の「たが」をはめられている。航空母艦、戦略爆撃機など、国土を遠く離れて攻撃できる兵器は持っていない。集団的自衛権はむろん行使できない。
「特別裁判所は、これを設置することができない」。憲法はこんな言い方で、政府に対し、軍事専門の法廷(軍法会議)を設けることも禁じている。
国防の義務規定、軍事機密の保護規定、徴兵制…。軍事システムを運用するこうした法制度を日本は持っていない。
自衛隊と軍の間には今のところ無視しがたい溝がある。自衛隊は軍のように見えて、まだ軍になりきれていない。
<「自衛軍」ができたら>
自民党の新憲法草案には「自衛軍」の創設がうたわれている。その方向で改憲が行われたら、社会の在り方も一変するだろう。
軍事機密には特別の保護の網がかぶせられる。国会には秘密公聴会が設けられる。
「自衛軍」の創設は、自衛隊の現状の追認にとどまるものでは決してない。日本は軍事的価値に重きを置かない社会であることをやめて、戦争ができる国になる。質的な転換である。
平和で豊かな暮らしを守るためには、九条の縛りを緩めてはならない。自衛隊を「軍」にしてはならない。
◇ ◇
憲法について、「暮らし」の観点から3回続きで考える。
信濃毎日新聞 2008年5月2日
国民が「命」を吹き込む大切さ 憲法と政治
昨年秋ごろから急に注目されるようになった憲法の条項があります。いわゆる「3分の2」条項です。
「衆議院で可決した法案を参議院が異なった議決をした場合、あるいは60日以内に議決しないときには、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再び可決したときは法律となる」
憲法は59条の第2項と第4項で、そのように規定しています。
半世紀以上も使われなかった条項です。が、今年に入って、この規定を使って2つの法律が成立しました。眠っていた憲法条項がよみがえった。そう言えます。
ひとつはインド洋で米艦船などへの自衛隊の給油を可能にする法案。もうひとつは一昨日成立したガソリンなどの暫定税率を維持する法案です。
法律の中身については国民の賛否が2分されていますが、成立までの過程は「憲法と政治」や「憲法と国会」のありようを決めるのは国民だということを、あらためて教えているような気がします。
憲法が骨格を示した「この国のかたち」に血を注ぎ肉を付けて、どう生かしていくか。それは私たち国民の主体的な判断と選択にかかっている。半世紀ぶりの再可決にみられる昨今の政治状況がそれを示しています。
■抑制機能としての二院制
自衛隊の給油活動再開とガソリンの暫定税率復活に「3分の2」条項が使われたのは、衆参両院で多数派が異なる「ねじれ国会」が出現したからにほかなりません。
政権にとっては国際貢献や歳入確保いう大義があるのでしょうが、それが民意を的確に反映したものだったかどうか、議論が分かれるところです。
日本の国際貢献や道路整備のあり方を具体的に議論しないままの「数の力」での再可決に、疑問や反発を感じた国民も多いはずです。
しかし、政権与党に衆院議席の3分の2以上を与えたのは国民自身です。野党に参院多数を与え「ねじれ国会」状況をつくり出したのも、また国民の選択によるものです。
両院で与党が多数を握っていた小泉純一郎政権や安倍晋三政権の時代は、野党が反対でも政権が目指した理念や政策を具現する法律が次々に成立しました。強行採決もたびたびでした。
それが、参院で少数与党となった福田康夫政権では様変わりしました。
憲法で衆院議決が優先される予算と条約を除く法案は、参院で野党が否決した場合には「3分の2」条項を使わなければ成立しません。
福田政権が野党との政策協議を提唱し、世論の動向をにらみながら硬軟取り混ぜた国会運営を強いられているのも、このためです。
小泉、安倍政権の時代と現在とどちらがより民意を反映した政治になるのか。立場によって評価は分かれるでしょうが、国会を民主主義に基づく国民合意形成の場という視点でとらえるなら、答えはおのずと明らかです。
昨年夏の参院選で国民が選択した「ねじれ国会」はその意味で、政治に抑制と補完を求めた憲法の「2院制」条項に命を吹き込みました。
■「ねじれ」を生かしてこそ
じつは憲法42条に定めた2院制は、マッカーサー草案では1院制になっていたものを日本側の要求で実現させた条項です。
当時の憲法制定国会の議事録には2院制採用について「不当な多数圧制に対する抑制と行き過ぎたる一時的な偏奇に対する制止的任務を課す」との政府説明が残されています。
一部の政党の偏った判断で政治が暴走しないための、当時の日本人の知恵だと考えます。
政権党が長く両院の多数を制してきたため、近年は2院制の意義と機能も喪失しかけていましたが、「ねじれ国会」の下でいま、あらためて2院制の意味が見直されています。
「ねじれ国会」には、政策決定に必要な法案成立や法改正が遅れ、円滑で効率的な国政運営ができないといった否定的な見方もあります。
昨年秋に表面化した自民党と民主党の大連立構想の根拠にもなりました。しかし政治を効率だけで語れば、民意は二の次に置かれかねません。
憲法が定めた「3分の2」条項は、法律の不成立が国民に重大な損失をもたらす場合に行使できると解するべきでしょう。多用すれば、対立する意見の封じ込めと同じです。
行使する側の政権与党には、民意がどこにあるのか絶えず検証する必要があります。野党には、それを使わせないで合意を形成する議論と民意を見極める力量が求められます。
与野党が対立してばかりいたのでは「ねじれ国会」で生き返った2院制の機能が生かされません。
さまざまな民意を国政に反映させる場である国会は民主主義政治の基本であり、その機能は「国のかたち」の根幹をなすものと言えます。
憲法が国会を「国権の最高機関」とする所以(ゆえん)です。そのことを憲法記念日を前に、あらためて思います。
西日本新聞 2008年5月2日