全国紙・専門紙社説(2008年1〜6月)


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骨太2008 改革の原点に立ちもどれ

経済財政運営と構造改革の指針となる「骨太の方針2008」が閣議決定された。例年にない歳出圧力の中で財政再建の道筋を決めた「骨太2006」をどう堅持するかが最大の焦点だった。

骨太2006は基礎的財政収支の黒字化を歳出・歳入一体改革で2011年度に達成することを目標とした。歳出では11・4兆〜14・3兆円の削減を掲げ、分野ごとに削減目標を定めた。

今年の骨太方針は一応、骨太2006の黒字化目標を堅持し、最大限の歳出削減を行う姿勢を示しはした。しかし、その中身は歳出、歳入ともまったく裏づけを欠いたといわざるを得ない。

改革への不満やねじれ国会下での人気取り競争を背景に財政規律が緩んだためだろう。それは大田弘子経済財政担当相が「暴風雨」と表現したようにあらゆる歳出分野に及んでいる。

焦点の社会保障分野では、骨太2006が決めた毎年2200億円の削減目標を堅持するといいながら、医師不足や少子化、後期高齢者医療制度への対策を別枠とした。明らかな尻抜けである。

文教分野では「教育振興基本計画」に基づく教育の推進が盛り込まれたが、その答申は7・5兆円の異常な予算増額を求めている。計画の決定がこれからとはいえ、規律はここまで緩んでいる。

歳入面も同じだ。注目の消費税を含む税制抜本改革は「早期に実現を図る」と時期の明示を避けた。福田康夫首相が今秋の税制抜本改革での消費税引き上げに強い意欲を示しながら、直後に修正したのと軌を一にしていよう。

来年度からの基礎年金国庫負担割合引き上げのための安定的財源の確保も、まだできていない。それは消費税を指すが、与党内にはたばこ増税や道路特定財源の一般財源化でしのごうとする動きもある。姑息(こそく)で改革に値しまい。

日本経済は米国の景気後退懸念や原材料高騰の影響を受け、骨太2006で想定した成長と税収は下方修正が余儀なくされている。ここで歳出削減の手を緩め、歳入を図る税制抜本改革を先送りすれば、基礎的収支の黒字化目標達成は極めて危うくなる。

たった2年で骨太2006の道筋が崩れるようだと、日本は市場の信認を失い、国民も不安を増幅させよう。年末の予算編成に向け、改めて歳出・歳入一体改革の原点に立ち戻らねばならない。

産経新聞 2008年6月28日

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教育基本計画 予算増に明確な論拠を示せ

教育は、「国家百年の計」である。厳しい財政事情の中でも、教育予算の確保は重要だ。だが、国の教育振興基本計画の原案で文部科学省が示した数値目標は、あまりに粗雑に過ぎるのではないか。

基本計画は、今後10年間に目指す教育像と、直近5年間に取り組む施策を盛り込むものだ。

文科省は、今後10年間で教育への公的支出を国内総生産(GDP)の5%以上にする、と明記した。現在の対GDP比3・5%から5%に引き上げるには、あと7・4兆円が必要になる。

文科省の数値目標を達成するには、消費税約3%分の財源を捻出(ねんしゅつ)しなくてはならない。

文科省は計画案作成に際し、数値目標がない点を批判された。慌てて経済協力開発機構(OECD)諸国の平均値5%を目標に持ち出し、金額を積み上げた。

財務省は、「教育予算は主要先進国に比べて遜色(そんしょく)はない」「教育支出と成果は密接な関連がない」と主張している。

さらに、少子化が進む中、人口に占める児童・生徒の比率はOECDでも最低水準で、1人当たりの公的教育支出は増えている、と反論している。

総務省も、教育予算の7割以上を負担する自治体にしわ寄せが行くなどとして、難色を示す。

文科省と財務、総務両省の主張は、対立したままである。

だが、社会保障など巨額の予算が必要とされる現状を考えれば、文科省は、より説得力のある教育予算の数値目標と施策内容を示さなければなるまい。

学習内容などを増やした新学習指導要領の実施にあたって、教員の充実は確かに必要だろう。

新指導要領の全面実施は、小学校が2011年度、中学校が12年度だが、学力低下が顕著な理数については来年度から事実上、先行実施される。小学校5、6年の英語も11年度から必修となる。

ただ、文科省は、そのために約2万5000人の増員を求めている。学校現場に過重な負担をかけないためだとしても、本当にこれほど必要なのか。

計画案は、児童・生徒の体力面の目標では「1985年ごろの水準回復を目指す」と具体性を増したが、学力面ではなおあいまいな表現が目立つ。

教育の成果は、数値で測りにくい面があるのも事実だ。だが、学力面での目標設定は、教育の質向上への努力を促すだろう。一層、工夫してもらいたい。

讀賣新聞 2008年6月6日

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教育再生 地に足が着いていないのでは

政府の教育再生懇談会が第1次報告を福田康夫首相に提出した。子供をネットの有害情報から守ることや小学校からの英語教育強化などを掲げている。

「再生懇談会? 教育再生会議ではないの」という方もいるかもしれない。

教育再生会議は06年10月、安倍晋三内閣が教育改革政策の目玉として設け、安倍氏退陣後の今年1月に幕を閉じた。その間3次にわたる報告で「ゆとり教育」の見直しと学力の向上、徳育の充実、教員免許の更新制などを提言した。

その最終報告で、提言項目を促進するための新たな会議を設けるよう求めており、福田内閣が2月末に有識者によって構成、発足させた。それが今回の教育再生懇談会である。

一方で、教育の重要施策を審議し答申する文部科学相の諮問機関・中央教育審議会(中教審)がある。今春告示された新学習指導要領はこの答申に基づいている。これで小学校の5、6年生に英語が導入されることになった。

ところが、再生懇は報告で英語教育について「小学3年生から早期必修化を」と主張し、まず大規模にモデル校を設けるよう求める。先生や保護者は「どうなっているのか」と言いたくもなろう。

ことほどさように、学校教育の基本指針で腰が定まらないような印象を与えては、現場は戸惑う。

近く閣議決定される初の「教育振興基本計画」にもそれはいえる。文科省側と、財政再建優先の財務省側が折り合わず、計画を担保する数値目標は宙に浮いた。文科省側はあくまで新指導要領に必要という小中学校の教員2万5000人増や、10年間で国の教育支出を国内総生産(GDP)の3・5%から5%へ引き上げることを主張するが、なお確たる見通しはない。

教育に限らず、政策は立案過程と目的がわかりやすく、一連の流れが見えやすくあるべきだ。今のさまざまな教育政策はどうだろうか。どこで何が論じ合われているのかと戸惑う人は少なくないだろう。

確かに、英語教育の抜本的な見直しを論じ合うことは必要だ。子供たちを囲む有害情報の遮断策も、重要な喫緊の課題といえる。これらについて、さまざまな機関で積み重ねられてきた論議も踏まえて重複を避け、もっと整理した形で改革論議や考え方を示し、方向づけていけば、国民の理解は得やすいはずだ。

それでこそ財政上の特別措置にも納得が得られ、当局同士が角突き合わせる不一致ぶりも避けられるのではないか。

私たちは新指導要領の前倒し実施が決まった際も「とる物もとりあえず」で先を急ぐばかりでは子供の学習意欲をそこねる懸念があると指摘した。教育改革論議では常にその戒めに立ち戻らなければならない。

毎日新聞 2008年5月27日

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科学技術政策 世界との競争に遅れるな

日本は将来、国際的な地位と豊かな生活を失うかもしれない――。

そうした危機感を、文部科学省がまとめた今年の「科学技術白書」が露(あら)わにしている。

世界経済に占める日本経済の比率は2006年に9・1%と、10年前の半分まで下がった。

少子高齢化による労働力人口の減少で、1人当たりの国内総生産は低下し、経済協力開発機構(OECD)に、「日本人はもっと働け」と言われている。

白書が強調しているのは科学技術の活用だ。その成果を使い、働き手は減っても、価値の高い製品やサービスを生み出すしかないという。誰しも異論はない。問題はその仕組みが日本にあるかだ。

白書は、「国際的大競争の嵐を越える科学技術の在り方」をテーマに、欧米や中国など海外の取り組み例を分析している。

共通するのは、有能な研究者を確保しつつ、成果が不確実な「ハイリスク」研究にも果敢に挑むという政策を、政府が前面に立って進めていることだ。

人材確保では、中国の「海亀政策」がある。海外の有能な自国研究者を給与や保険面で優遇して呼び戻す。日本の国立大学や公的研究機関は、財政制度の制約からこうした方策が取りにくい。

米国や英国では、もともと、科学・工学系博士課程の学生の4割以上が外国人だ。その定着を目指している。日本は、これが1割前後しかない。教育段階から、大きな差がついている。

ハイリスク研究も、米国では法律で、予算配分の目標を設けるよう義務づけている。中国は、失敗しても研究者を寛容に扱う、と法律に明記している。

日本では、公的資金を使った研究は、他の施策と同じく綿密な評価が求められる。事務作業も膨大で、研究者から「予算申請と評価作業で研究する時間もない」という嘆きをよく聞く。

厳しい財政状況下でも、科学技術には毎年、3兆円以上の予算が投じられている。これが十分に生きる制度改革が要る。

有望な研究を後押しすることも無論、重要だ。政府の総合科学技術会議がまとめた「革新的技術戦略」はその一環だろう。

例えば、ロボットや様々な細胞に変化する「新型万能細胞(iPS細胞)」の研究に予算を重点的に配分し、実用化に向けた法制度の検討も政府が支援する。

大胆かつ繊細な科学技術政策が大競争時代には欠かせない。

讀賣新聞 2008年5月26日

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宇宙基本法―軍事には明確な原則を

衆参両院合わせて、国会での実質的な審議はたった4時間。日本が宇宙を軍事利用することに堂々と道を開く宇宙基本法が成立した。

宇宙利用については、平和目的に限るとした69年の国会決議に基づき、「非軍事」が原則だった。だが、基本法は「我が国の安全保障に資する」と付け加えることで、軍事目的にも使っていく方向へ転換させた。

すでに自衛隊は、事実上の偵察衛星である多目的の情報収集衛星を利用してきた。今後は、偵察衛星を持ち、ミサイル発射を監視する早期警戒衛星の保有の道も法的には開ける。

たしかに宇宙技術は40年前とは様変わりだ。だからといって、大原則の変更なのに議論が尽くされなかったのは極めて遺憾だ。与党と民主党が政策合意を目指すのはいいが、広く国民的な議論を巻き起こす努力もせぬまま、数さえ整えば採決してしまうというのは乱暴ではないか。

基本法の運用にはいくつもの課題と懸念がある。

第1条に「憲法の平和主義の理念を踏まえて」とうたっているものの、では何をすることが日本の安全保障に資するのか否かがはっきりしない。

ならば、今後の関連法案づくりなどの機会や審議を通じて、以下のような原則を明確にせねばならない。

攻撃兵器を宇宙に配備するのは専守防衛の憲法原則に反する。衛星を攻撃したり、衛星から地上を攻撃したりといったことは論外である。さらに、国際的な緊張を高めたり、軍拡を誘発したりすることがあってはならない。

たとえば、日本を敵視し、国際ルールを無視して核兵器を開発する北朝鮮の動向を探るためなら、今の情報収集衛星より性能の高いものを持つことに国民の理解は得られるかもしれない。

だが、中国やロシアを想定した将来のミサイル防衛構想に日本の衛星が組み込まれるとなれば、話は違う。東アジアや世界の緊張を高め、軍拡競争の引き金になりかねない。こうした役割を日本が担っていいはずがない。

イランの脅威などを理由に欧州にミサイル防衛網を配備しようという米国の計画が、ロシアの激しい反発を呼んでいることにも学ぶべきだろう。

もっとも大事なのは、現実感覚を失わないことだ。高い偵察能力は抑止力だという理屈もあろうが、早期警戒衛星のような巨費を要するシステムを持つ必要があるとはとても思えない。米国との賢明な役割分担という視点からも考えるべきだ。

また、安全保障の名の下に透明性が曇っては、日本の宇宙開発全体がゆがんでしまうことにもなりかねない。

国会は、具体的な利用方法をめぐって妥当性をきちんと吟味し、原則を確立していく責任がある。

朝日新聞 2008年5月22日

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宇宙基本法案 軍事利用に懸念は消えない

宇宙空間の軍事利用に道を開く「宇宙基本法案」が自民、公明、民主3党の賛成で衆院を通過した。3党による議員立法で、今国会で成立する見通しだ。

成立すれば、政府が認めていなかった自衛隊の衛星保有やミサイル防衛(MD)のための早期警戒衛星、高い解像度を持つ偵察衛星の開発・打ち上げが可能となる。しかし、法案が目指す方向性に懸念を表明せざるを得ない。

宇宙利用に関しては、日本も67年に批准した国連の宇宙条約がある。宇宙への大量破壊兵器(WMD)配備を禁止したが、通常兵器配備は可能とされている。

日本は69年に、国会で宇宙利用を「平和の目的に限り」とする決議を全会一致で採択し、政府は「平和目的」とは「非軍事」であると説明してきた。法案はこれを転換し、「非軍事」のハードルを「非侵略」まで引き下げ、防衛利用を認めるものである。

自民党の国防族議員は05年、宇宙分野の企業や防衛庁幹部らと「日本の安全保障に関する宇宙利用を考える会」を発足させ、国会決議見直しを検討してきた。今回、法案の第1条に「憲法の平和主義の理念を踏まえ」と加えたことで、民主党が共同提案に同意した。

しかし、法案が将来の宇宙への兵器配備に向けた「入り口」になるのではないか、との懸念が残る。

「考える会」が06年8月に自民党に提言した「わが国の防衛宇宙ビジョン」では、防衛衛星には、情報・通信のための衛星のほかに、システム障害を引き起こす攻撃からの防御を目的とした「拒否衛星」も含まれるとした。この衛星は通常兵器とされる。

また、「防衛宇宙ビジョン」は、国会決議見直しの最終段階として、攻撃衛星のうちの通常兵器配備を指摘している。具体的には「衛星誘導の無人偵察機」を想定しているという。

宇宙への兵器配備は通常兵器であっても、憲法に基づく軍事戦略である専守防衛に反する。法案は確かに「防衛宇宙ビジョン」そのものではないし、「憲法の平和主義」の文言が盛り込まれた。しかし、法案が、これを推進した「考える会」の目指す宇宙利用に向けた第一歩になるのではないか、との疑念はぬぐえない。

一方、宇宙開発の透明性に対する懸念もある。現在の情報収集衛星についても国民に開示されている情報は少ない。「防衛宇宙ビジョン」では「秘密保全制度」の確立が強調され、法案では「情報の適切な管理」がうたわれた。軍事衛星打ち上げには巨費が投じられることになるが、軍事が宇宙利用の柱になることで透明性は一層低下する可能性が高い。

衆院での委員会審議はわずか2時間だった。知らぬ間に法案が通過したというのが国民の実感である。参院には十分な審議で懸念を解消するよう望みたい。

毎日新聞 2008年5月15日

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新学習指導要領 とる物もとりあえずはダメ

理数に力を入れ、授業を増やす小中学校の新学習指導要領が来春から段階的に前倒し実施される。一方で、初めて閣議決定される予定の「教育振興基本計画」の中央教育審議会答申は、必要な教員増など具体的な数値目標が不足し、現場を落胆させた。「教育再生」をいうなら、財政上しっかりした下支えが必要だ。


新指導要領完全実施は小学校が2011年度、中学校が12年度からだが、その前に算数・数学、理科の時間増をすませておく。小学校高学年の英語活動もできる学校から始める。


教育振興基本計画は改正教育基本法で国に策定が義務付けられた。10年後のあるべき状況を見据え、今後5年間に重点的に取り組むべき施策を示すものだ。


文部科学省の中教審答申はその重要施策の一つに新しい学習指導要領の着実な実施を挙げ、教職員定数の改善をはじめとする条件整備が必要とした。だが、予算措置に必要な数値(人数)や投資額はなく、財務省の意をくむように「財政は大変厳しい。歳出改革の努力を継続する必要がある」という。文科省は予算の裏づけになる目標数値を計画に入れる意図だったが、抑制姿勢を通す財務省との折衝は不調だった。


中教審委員の中からも「これでは基本計画によって何かが変わるという印象を受けない」と不満の声が出た。閣議決定前になお数値を入れようとする動きが出ているが、こうした状況は、声高に叫ばれる「教育立国」の足元の心もとなさを象徴している。


教員増員を目指す文科省に障害になっているのは、先の「骨太の方針」や行政改革推進法で減員が方向づけられていることだ。しかし、安倍晋三政権で教育改革を最重要政策課題と位置づけ、教育基本法を改め、学習指導要領を全面的に新しくした流れからいって、方針や法を改めてでも教育環境整備は同時並行で進めなければならないはずだ。

とる物もとりあえず。大急ぎで当座しのぎをすることをいうが、必要な増員も掛け声倒れになりかねない状況で、教科学習や授業時間を増加させられる現場から見れば、国の文教政策はそんなものか、である。「授業内容3割減」の現行指導要領告示から10年で大転換した新要領。地に足の着いた進め方をしなければ、現場にしわ寄せをしたまま空転しかねない。

子供たち一人一人の学習成果が上がるなら、前倒しは当然歓迎だ。ただ改訂教科書もなく、適任の人材も不足したまま先を急ぐばかりでは「前のめり」になり、子供の学習意欲をそぎ落とす懸念もある。昨年の全国学力テストは「個々の児童生徒の指導に役立てる」といいながら、結局は都道府県の得点ランキングに目が集まった。

そんな本末転倒になってはならない。

毎日新聞 2008年5月12日

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教育基本計画 メリハリつけた振興策を

今後5年間で取り組む教育の重点施策を示す国の「教育振興基本計画」の策定が遅れている。

教育予算拡充で財務省などとの調整がつかないためだ。教育投資にはメリハリをつけ公教育の再生を進めたい。

基本計画は、改正教育基本法で策定が義務づけられた。教育目標を数値などで分かりやすく示し、目標実現への施策を明示することで、計画的な教育振興が期待されていた。

しかし中央教育審議会が4月に答申した計画案は、目標と施策が明確に示されたとは、とても言い難い。

答申では表題に「『教育立国』の実現に向けて」と掲げ、「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)のない教育水準を確保する」とした。

施策では、道徳教育充実のため副教材への国庫補助制度のほか、「校舎耐震化1万棟」「留学生30万人計画」など一部に数値目標を挙げてはいる。

だが学力向上や生徒指導など肝心の公教育再生や、世界に通用する大学の教育・研究環境改善に向け、明確な目標や施策が示されてはいない。

審議の中では「いじめや校内暴力を半減させる」「高卒段階で英語で日常会話ができる」といった目標がいったんは提言されたが、答申には盛り込まれなかった。

渡海紀三朗文部科学相は9日の文科相経験者との会合で、現在は国内総生産(GDP)比3・5%の年間教育投資額を、経済協力開発機構加盟国の平均の「GDP比5%」とする数値目標を盛り込む考えを示した。

しかし、財務省などは難色を示している。

教育予算の大部分を占めるのは教職員の人件費だ。文科省や教育関係者からは少人数学級や習熟度別授業などを進めるため教員定数増を求める声が強い。

だが少子化の中でどのくらいの教員増が必要なのか、計画案では不明確だ。

教員の不祥事が絶えず、指導力不足の教員がきちんと把握されていない。ダメ教師をいくら増やしても教育再生は実現できない、という不信感があるのも事実だ。

理数教育で魅力ある授業を進める高校を支援する「スーパーサイエンスハイスクール」など効果をあげている事業がある。熱心な教員や学校を厚く支援する施策推進を計画で明確に示すべきだ。

産経新聞 2008年5月12日

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宇宙基本法―あまりに安易な大転換

宇宙の軍事利用に積極的に道を開く宇宙基本法案が、衆院の内閣委員会で可決された。ねじれ国会の中、自民、公明の与党に民主党も加わった議員立法で、今国会で成立する見通しだ。

法案は宇宙開発の目的として「我が国の安全保障に資する」との文言を盛り込んだ。「平和の目的」に限るとした1969年の国会決議を棚上げし、宇宙政策の原則を大転換させるものである。

約40年前の国会決議のころとは宇宙をめぐる事情は様変わりした。多くの国が軍事衛星を打ち上げている。自衛隊も事実上の偵察衛星である情報収集衛星をすでに使っている。核とミサイルの開発を進める北朝鮮の動向を探るためなら、宇宙から情報を得ることに多くの国民が理解を示すだろう。

それでも、国会決議は自衛隊の衛星利用に一定の制約になってきた。政府は情報収集衛星を自衛隊に持たせず、内閣府の管轄にしてきた。情報収集衛星の解像能力も、民間で一般的な水準に抑えられてきた。

今回の基本法は、現状を追認するばかりでなく、そうした制約も取り除いてしまおうというものだ。

ところが、そうすることによる国家としての得失はどうか、自衛隊の活動にどんな歯止めをかけるのか、といった論議は抜け落ちたままだ。しかも、たった2時間の審議で可決するとは、どういうことか。あまりに安易で拙速な動きである。

基本法が成立すれば、自衛隊が直接衛星を持ち、衛星の能力を一気に高める道が開ける。それにとどまらず、将来のミサイル防衛に必要な早期警戒衛星を独自に持つことができたり、様々な軍事目的での宇宙空間の利用が可能になったりする。

だが、内閣委員会で、提案者の議員は具体的な歯止めについて「憲法の平和主義の理念にのっとり」という法案の文言を引いて、専守防衛の枠内であるという説明を繰り返しただけだ。

基本法の背景には、日本の宇宙産業を活性化したいという経済界の意向もある。衰退気味の民生部門に代わり、安定的な「官需」が欲しいのだ。

だが、宇宙の軍事利用は、日本という国のありようが問われる重大な問題である。

衛星による偵察能力の強化は抑止力の向上につながるという議論もあるだろうが、日本が新たな軍事利用に乗り出すことは周辺の国々との緊張を高めないか。巨額の開発、配備コストをどうまかなうのか。宇宙開発が機密のベールに覆われないか。そうしたことを複合的に考える必要がある。

国民の関心が乏しい中で、最大野党の民主党が法案の共同提案者になり、真剣な論議の機会が失われているのも危うい。

朝日新聞 2008年5月10日

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日本国憲法―現実を変える手段として

たった1年での、この変わりようはどうだろう。61回目の誕生日を迎えた日本国憲法をめぐる景色である。

昨年の憲法記念日のころを思い出してみる。安倍首相は、夏の参院選に向けて憲法改正を争点に掲げ、そのための手続き法である国民投票法を成立させた。集団的自衛権の政府解釈を見直す方向で、諮問機関も発足させた。
ところがいま、そうした前のめりとでも言うべき改憲気分は、すっかり鳴りを潜めている。福田首相は安倍時代の改憲路線とは一線を画し、集団的自衛権の見直しも棚上げにした。

世論も冷えている。改憲の旗振り役をつとめてきた読売新聞の調査では今年、93年以降の構図が逆転し、改憲反対が賛成を上回った。朝日新聞の調査でも、9条については改正賛成が23%に対して、反対は3倍近い66%だ。

90年代から政治やメディアが主導する形で改憲論が盛り上がった。だが、そもそも政治が取り組むべき課題を世論調査で聞くと、景気や年金など暮らしに直結する問題が上位に並び、改憲の優先順位は高くはなかった。イラクでの米国の失敗なども背景に、政治の熱が冷めれば、自然と関心も下がるということなのだろう。

むろん、政界再編などを通じて、9条改憲が再浮上する可能性は否定できない。ただ、今の世の中の流れをみる限りでは、一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張が訴求力を失うのはあたり前なのかもしれない。

■豊かさの中の新貧困
9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、実は憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった。

すさまじい勢いで進む経済のグローバル化や、インターネット、携帯電話の広がりは、日本の社会を大きく変容させた。従来の憲法論議が想像もしなかった新しい現実が、挑戦状を突きつけているのだ。

たとえば「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉に象徴される、新しい貧困の問題。

国境を超えた競争の激化で、企業は人件費の削減に走る。パートや派遣の非正規労働者が飛躍的に増え、いまや働く人の3分の1を占める。仕事があったりなかったりの不安定さと低賃金で、生活保護の対象になるような水準の収入しかない人たちが出てきた。

本人に問題があるケースもあろう。だが、人と人とのつながりが希薄になった現代社会では、個人は砂粒のようにバラバラになり、ふとしたはずみで貧困にすべり落ちると、はい上がるすべがない。

戦後の日本人は、豊かな社会をめざして懸命に働いてきた。ようやくその目標を達したかに思えたところで、実は袋の底に新しい穴が開いていた。そんな状況ではあるまいか。

東京でこの春、「反貧困フェスタ」という催しがあり、そこで貧困の実態を伝えるミュージカルが上演された。

狭苦しいインターネットカフェの場面から物語は始まる。カフェを寝場所にする若者たちが、かたかたとキーボードをたたきながらネットを通じて不安や体験を語り合う。

長時間労働で倒れた人、勤め先の倒産で給料未払いのまま職がなくなってしまった若者、日雇い派遣の暮らしから抜け出せない青年……。

最後に出演者たちが朗唱する。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権をうたった憲法25条の条文だ。

憲法と現実との間にできてしまった深い溝を、彼らは体で感じているように見えた。

■「自由」は実現したか
民主主義の社会では、だれもが自分の思うことを言えなければならない。憲法はその自由を保障している。軍国主義の過去を持つ国として、ここはゆるがせにできないと、だれもが思っていることだろう。だが、この袋にも実は穴が開いているのではないか。そう感じさせる事件が続く。

名門ホテルが右翼団体からの妨害を恐れ、教職員組合への会場貸し出しをキャンセルした。それを違法とする裁判所の命令にも従わない。

中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、政府が関与する団体が助成金を出したのを疑問視する国会議員の動きなどもあって、上映を取りやめる映画館が相次いだ。

インターネット社会が持つ匿名性は「両刃の剣」だ。多数の人々に個人が自由に発信できる世界を広げる一方で、無責任な書き込みによる中傷やいじめ、プライバシーの暴露が、逆に個人の自由と人権を抑圧する。

こうした新しい現実の中で、私たちは自由と権利を守る知恵や手段をまだ見いだしていない。

憲法で「全体の奉仕者」と位置づけられている公務員が、その通りに仕事をしているか。社会保険庁や防衛省で起きたことは何なのか。憲法の精神への裏切りではないのか。

憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るのか。みなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。

憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。その視点があってこそ、本物の憲法論議が生まれる。

朝日新聞 2008年5月3日

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憲法記念日 論議を休止してはならない

この国はこれで大丈夫なのか――日本政治が混迷し機能不全に陥っている今こそ、活発な憲法論議を通じ、国家の骨組みを再点検したい。

昨年5月、憲法改正手続きを定めた国民投票法が成立し、新しい憲法制定への基盤が整った。

ところが、同法に基づいて衆参両院に設置された憲法審査会は、衆参ねじれ国会の下、民主党の消極的姿勢もあって、まったく動いていない。

超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相)が1日主催した大会に、顧問の鳩山民主党幹事長らが欠席したのも、対決型国会の余波だろう。

大会では、憲法改正発議に向けて憲法問題を議論する憲法審査会を、一日も早く始動させるよう求める決議を採択した。これ以上、遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい。

与野党は、審査会の運営方法などを定める規程の策定を急ぎ、審議を早期に開始すべきだ。

憲法審査会で論じ合わねばならぬテーマは、山ほどある。二院制のあり方も、その一つだ。

現行憲法は、衆参ねじれ国会を想定してはいた。例えば、憲法59条。衆院で可決した法案を参院で否決、または60日以内に議決しない場合、衆院は3分の2以上の賛成多数で法案を再可決し、成立させることができる。

政府・与党は、これに基づき、インド洋での海上自衛隊の給油活動再開のための新テロ対策特別措置法と、ガソリン税の暫定税率を復活させるための税制関連法をそれぞれ再可決、成立させた。

この再可決は、憲法の規定上、何の問題もない。

かつて、参院議長の私的諮問機関は、参院改革の一環として、衆院の再可決要件を、「3分の2以上」から「過半数」に緩和することを提言した。自民党が新憲法草案を作成する過程でも、同様の案が一時、浮上した。

もちろん、こうした改革には憲法改正が必要で、直ちに実現できることではない。

ただ、参院の機能は、衆院に比べてあまりに強すぎないか。衆参両院の役割分担を見直す必要はないか。与野党には、こうした憲法改正にかかわる問題を大いに論議してもらいたい。

衆参ねじれ国会は、国として迅速にしなければならぬ意思決定を困難にしている。こうした国会機能をめぐる議論を積み重ねることが、新しい国会ルールの形成にもつながるのではないか。

讀賣新聞 2008年5月3日

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憲法記念日 「ことなかれ」に決別を

あれほど盛んだった改憲論議が、今年はすっかりカゲをひそめてしまった。国民の関心は憲法よりも、暮らしに向かっている。

戦後最長の大型景気も天井を打って下り坂に転じた気配が濃厚である。ガソリンだけでなく、食品も値上げラッシュだ。

ところが、所得は一向に伸びない。老後を支える年金や医療保険改革は前進しない。暮らしの悪化の実感の前に、憲法問題は背後に追いやられてしまった。

しかしながら、実は今年ほど、憲法が切実な年もないのではないか。

右翼のいやがらせへの懸念を理由に、裁判所の決定を無視してかたくなに日教組の集会を拒んだ東京のホテル。国会議員の介入を機に映画館の上映中止が相次いだ映画「靖国」。

憲法の保障する集会の自由、表現の自由が脅かされている。「面倒は避けたい」と思うのは人情だ。しかし、このとめどもない「ことなかれ」の連鎖はいったいどうしたことか。意識して抵抗しないと基本的人権は守れない。私たちの現状は、やや無自覚に過ぎるように見える。

◇感度が鈍っている
NHKが5年ごとに「憲法上の権利だと思うもの」を調査している。驚いたことに「思っていることを世間に発表する」こと(表現の自由)を権利と認識するひとの割合が調査ごとに下がっている。73年は49%だったのが、03年は36%まで落ち込んだ。表現の自由に対する感度が鈍っているのが心配だ。

その意味で注目されるのが、イラクでの航空自衛隊の活動に対する名古屋高裁の違憲判決だ。

高裁は「バグダッドは戦闘地域」と認定し、空輸の法的根拠を否定した。対米協力を優先させ、憲法の制約をかいくぐり、曲芸のような論理で海外派遣を強行するやり方は限界に達している。そのことを明快に示す判決だった。

しかし、この判決の意義はそれにとどまらない。憲法の前文は「平和のうちに生存する権利」をうたっているが、それは単なる理念の表明ではない。侵害された場合は裁判所に救済を求める根拠になる法的な権利である。そのような憲法判断を司法として初めて示したのである。

ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか。
4月から始まった「後期高齢者医療制度」は高齢の年金生活者に不評の極みである。無神経な「後期高齢者」という名称。保険料を年金から一方的に天引きされ、従来の保険料より高い人も多い。「平和のうちに生存する権利」の侵害と感じる人が少なくあるまい。

「憲法」と「現実」の懸隔が広がっている。働いても生活保護以下の所得しか得られないワーキングプアの問題など典型だ。年金を払い込みながら記録されていない「消えた年金」もそうであろう。「生存権」の侵害に監視を強める地道な努力が必要である。

その努力の中心になるべきは、言うまでもなく国会だが、野党はもとより、与党もひたすら「生活重視」を唱えている。むしろ「内向き」過ぎると心配したくなる。ところが「生活重視」で一致するのに、スムーズに動かない。いわゆる「ねじれ国会」の弊害である。

しかし、「ねじれ国会」の非効率性だけを言うのは一方的だ。「ねじれ」になる前の自民党はどうだったのか。強行採決を連発する多数の横暴そのものだったと言えるだろう。

「ねじれ」以降、自民党は話し合い路線の模索に転じ、福田康夫首相は道路特定財源の一般財源化を約束するに至った。「ねじれ」なしでは起こりえなかったことである。カラオケ機を買うなど、年金や道路財源のデタラメな運営も「ねじれ国会」の圧力があって明らかになったことだ。

◇ルールの整備急げ
私たちは「ねじれ国会」は、選挙で打開を図るのが基本だと主張している。選挙のマニフェストを発表する際、喫緊の重要課題について選挙結果に従うことを約束しておくのも一案だろう。こうしたルールの整備によって「ねじれ」を消化していくことが、民主政治を成熟させることにほかなるまい。

憲法が両院不一致の場合の打開策としている両院協議会は、いま、ほとんど機能していない。両院それぞれ議決した側から10人ずつ委員を選ぶ仕組みだから、打開案がまとまりにくい。委員選出の弾力化など、その活性化に早急に取り組んでもらいたい。

ただ「ねじれ」の有無にかかわらず、参院は「ミニ衆院」という批判を(払拭ふっしょく)する必要がある。明治から約120年の歴史を有する衆院と違い、参院は戦後改革で生まれた。憲法の精神の体現といってよい。参院はその自覚に立って独自性の確立を急ぐべきである。

憲法で保障された国民の権利は、沈黙では守れない。暮らしの劣化は生存権の侵害が進んでいるということだ。憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい。

毎日新聞 2008年5月3日

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憲法改正で二院制を抜本的に見直そう

衆参両院の多数派が異なるねじれ国会で政局が迷走する中で、61回目の憲法記念日を迎えた。現行の二院制度は日本国憲法の最大の欠陥である。議院内閣制がきちんと機能するように憲法を改正し、よりよい二院制度をめざしたい。ねじれ国会の迷走を貴重な教訓として憲法改正論議に生かすべきである。

私たちはかねて、参院が大きな権限を持つ現行制度の下では議院内閣制が立ち往生しかねないと指摘してきた。そうした懸念が現実となったのがねじれ国会の迷走である。

衆院の優越より明確に
テロ防止のための国際協力に4カ月近くの空白が生じた。日銀総裁の決定も混迷に混迷を重ねた。予算を執行するための関連法案の成立も容易でない状況が続いている。

現在は与党が衆院で3分の2以上の多数を握っており、参院で法案が否決されるか、2カ月以内に議決しない場合に衆院で再可決できるので国政の混乱もまだこの程度で収まっている。しかし、与党が衆院で3分の2以上の勢力を持つのは極めてまれである。与党が衆院で単なる過半数しか持っていない場合、政治はたちまち行き詰まってしまう。

議院内閣制は衆院多数派が内閣を組織し、国会と国民に責任を負う仕組みだ。参院はこれに対する「チェック機関」「再考の府」であり、参院が強大な権限を持つと議院内閣制の趣旨は貫徹できなくなる。現行憲法は首相指名、予算、条約承認で衆院の優越を明確に認めているが、普通の法案については衆院の3分の2の再可決規定があるだけである。

衆院の優越規定がそれだけでは明らかに不十分である。予算が成立しても歳入などの裏付けとなる関連法案が成立しなければ予算執行に支障が出る。条約が承認されても関連の国内法が成立しなければ実際の効力が発生しないケースも出てくる。国会同意人事も最終的には内閣の責任になるのだから衆院の優越を認めないのは不自然である。

英国の上院は貴族院であり、ドイツの連邦参議院は州政府の代表で構成されている。いずれも国民の直接選挙ではなく、その分、権限は制約されている。一方、イタリアの上院は国民の直接選挙で下院と完全に同等の権限を持っており、解散の場合は常に上下両院同時である。解散がないのに大きな権限を持つ日本の参院は世界的に見ても異様である。

私たちは衆院の優越をより明確にするため憲法59条を改正し、衆院の再可決の要件を3分の2から過半数に緩和すべきだと主張してきた。参院に従来通り2カ月の審議期間を保証すれば、チェック機関、再考の府としての機能は十分に果たせるはずである。道路特定財源問題では参院が2カ月間審議を引き延ばした結果、内閣は再可決の条件整備のために一般財源化方針に踏み切らざるを得なくなったのが一例である。

現行の二院制度を前提とする限り、ねじれを解消する手段は最終的に衆院第一党と参院第一党の大連立しかないだろう。衆院選の民意を踏まえた結果なら大連立もやむを得ないと考えるが、大連立が常態化するのは好ましくない。議院内閣制はやはり二大政党による政権交代可能な政治体制が基本である。

憲法を改正して参院の権限を縮小し、衆院の優越をより明確にするのに合わせて、参院の選挙制度も抜本的に見直すべきである。現行の3年ごとの半数改選は米国上院をまねたものでほとんど無意味だ。6年の任期も長すぎる。全国単位の比例代表制は廃止した方がいい。

参院は地方代表で構成
衆院議員が全国民の代表とするなら、参院議員はドイツのように地方の代表として位置づける。将来の道州制導入をにらんでブロックごとの比例代表選挙か、あるいは直接選挙をやめて間接選挙とし、総定数は100人程度とする。このような案も一考に値しよう。

自民党は2005年に新憲法草案を公表したが、参院の改革には全く触れていない。民主党も憲法に関する基本的な考え方をまとめているが、参院のあり方への言及がない。両党ともこれまで参院をタブー視して党内議論を封じ込めてきた。ねじれ国会の迷走はそうした両党の姿勢に反省を迫っているともいえよう。民主党も将来政権を担うときに参院が足かせになる可能性があることをもっと真剣に考えた方がいい。

昨年5月に成立した国民投票法で衆参両院に憲法審査会を設置することが決まった。だが、同審査会の組織や運営ルールを定める審査会規程の協議を民主党が拒否し続け、いまだに憲法審査会が活動できずにいる。議論すべきテーマは二院制度見直しだけにとどまらない。自衛隊の国際貢献などの安全保障、抜本的な地方分権、環境や生命倫理などいくらでもある。一刻も早く憲法審査会を始動させるべきである。

日本経済新聞 2008年5月3日

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憲法施行61年 不法な暴力座視するな 海賊抑止の国際連携参加を

憲法施行61年を迎えた。施行された昭和22年当時には想定できなかった事態が続発している。

サブプライム問題に伴う金融危機、資源争奪に加え、中国の軍事力強大化や北朝鮮の核の脅威にさらされている。この国際環境の激変とパワーゲームを前に日本は日銀総裁を空席にしたように国家意思を決められなくなっている。

より深刻なのは、日本が国家として当たり前のことを実行できなくなっていることだ。4月21日、中東イエメン沖で日本郵船の大型タンカー「高山」が海賊に襲われ、被弾した事件は、日本が公海上で海賊を撃退することに無力なことをみせつけた。憲法解釈によりがんじがらめだからである。

これでは日本は国際社会の平和と安定に寄与することはむろん、国の安全を保っていくことも難しい。憲法守って国滅ぶである。

高山が被弾した海域の周辺では海上自衛隊の補給艦と護衛艦が多国籍海軍へ給油支援を行っている。普通の国の海軍なら、自国船舶が海賊に襲撃されたら、自衛権によって不法な暴力を撃退するが、海自はそうした行動を取れない。

それは、新テロ特別措置法が給油支援に限定しているだけでなく、不法な暴力を抑止する国内法規定がないうえ、普通の軍隊に付与される「平時の自衛権」が認められていないためだ。
 日本は自衛権の発動に急迫不正の侵害などの厳格な要件を課している。このため海賊の攻撃に自衛権は適用されず、撃退は憲法解釈で禁止されている「武力行使との一体化」行為とみなされる。

≪自衛権がなぜ使えない≫
国連安保理は現在、海賊を領海内まで追跡、逮捕できる権限を付与する決議を準備しているが、日本はパトロールすら実施できないと弁明するのだろうか。

問題海域は日本の海上交通路(シーレーン)と重なる。日本の国益にかなう国際共同行動に日本がもし憲法を理由に参加しないなら、国際社会はどう受け止めるだろうか。国際社会との連携こそ、貿易立国・日本の基軸であり、その実現に総力を挙げるべきだ。

この国際社会の行動を国会はどの程度直視しているのだろう。政争に明け暮れているのが実態ではないか。憲法問題の調査、研究を行うために昨年8月、衆参両院に設置された憲法審査会がいまだに、定員や審議方法などを定める規程を決められないまま、開店休業なのは、その一例である。

この怠慢に民主党の責任は大きい。同党は国民投票法採決を与党が強引に進めたと批判、昨秋の執行部人事でも憲法調査会長を置くことなく、憲法問題に背を向けている。憲法審査会での憲法改正原案の起草・審査は現在凍結されているが、平成22年5月に解除される。それまでに国民の平和と安全をきちんと守れる国のありようを与野党で論じ合うのが、立法府の最低限の責務だろう。

≪タブーなく参院見直せ≫
衆参両院の意思が異なる「ねじれ」が日本を停滞させてもいる。この問題では国民の利益や国益を守るため、与野党の歩み寄りが必要不可欠だが、参院のあり方もタブーなく見直すべきである。

自民党が平成17年10月にまとめた新憲法草案や参院憲法調査会の報告書でも、参院は現状維持にとどまっている。参院見直しに参院側が反発したためである。

フランス革命の理論的指導者だったシェイエスは「第二院は何の役に立つのか。第一院と一致するなら無用、異なれば有害」と語ったが、日本における二院制のあるべき姿を憲法改正を含めて明確にしなくてはなるまい。

これまでの日本は憲法解釈に基づき、できることとできないことを仕分けしてきた。できることは超安全な地域での給油支援などだった。武力行使との一体化を避けるためだが、憲法第9条の「国際紛争を解決する手段としての武力行使」は2国間の戦い、いわば侵略戦争のための武力行使を意味している。国際的な警察行動や制裁はそこに含まれないと考える有力説もある。

海賊も撃退できない憲法解釈がいかにおかしなものか。自民党の新憲法草案で自衛軍保持と集団的自衛権の行使容認をまとめた福田康夫首相は熟知していよう。小沢一郎民主党代表も「普通の国」が持論だったはずだ。国民の常識が通用する憲法体制の構築に与野党は競い合ってほしい。

産経新聞 2008年5月3日

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教育基本計画 目標を数値で示すべきだ

教育投資や学力向上などの目標を数値で示し、国民にわかりやすい内容にするべきだ。

中央教育審議会が、国の中長期的な教育施策を定める初の教育振興基本計画について答申をまとめた。

基本計画は改正教育基本法に基づくもので、今後10年間に目指す教育像と直近5年間に取り組む施策を盛り込む。だが、答申では、教育にどれだけの予算を投入し、教育の質向上につなげるかなど、具体的な展望が見えてこない。

国の計画を参考に地方自治体も計画を作るだけに、計画を閣議決定する前に、より踏み込んだ内容にしてもらいたい。

計画で最大の注目点は、諸外国に比べて低いと指摘される教育への投資である。

しかし、答申は副題に「教育立国の実現」を掲げながら、「必要な予算について財源を確保し、欧米主要国と遜色(そんしょく)ない教育水準を確保すべく教育投資の充実を図る」と抽象的な表現にとどまった。

新学習指導要領では、授業時間や学習内容が増加する。小学校では2011年度、中学校は12年度から全面実施だが、理数については移行措置として来年度から時間、内容ともに大幅に増える。

教職員の増員が不可欠だ。しかし、この点も、「定数の改善をはじめ条件整備を着実に実施する」としか記されていない。

中教審の議論でも、「これを読んで何か変わるとは、思えない。財政当局寄りの表現だ」と批判が出た。自民党の文部科学部会などは、計画に投資や増員の数値目標を入れるよう決議した。

さらに問題なのは、5年間で学力を現在よりどれぐらい引き上げるかが、不明確なことだ。

答申では、「これまで教育施策では目標を明確に設定し、成果を検証して、新たな取り組みに反映させる実践が十分ではなかった」と改善を求めている。だが、目標値がほとんどない。

海外や自治体独自の教育基本計画には、学力などの目標値が明記されているものも多い。

英国は、08年までの5年間に全国テストの英数で11歳児の85%が標準レベルに達することなどを掲げている。フランスやフィンランドなども目標値を示している。

沖縄県では、全国学力テストで国語と算数・数学の正答率の平均値を小6、中3ともに11年度には70%にする、としている。

具体的な指標があればこそ、それを達成するための努力や工夫があるのではないか。

讀賣新聞 2008年4月30日

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教育振興基本計画 今後更に後退の恐れ

教育関係者に漂う失望感
各省調整は未了
私学助成「充実」から「推進」にトーンダウン

中央教育審議会(山崎正和会長)は四月十八日、文部科学省内で開いた総会で、教育振興基本計画に関する答申をまとめ、渡海紀三朗文部科学大臣に手渡した。同省は今年二月の時点まで、中教審の答申をそのまま政府の「教育振興基本計画」として閣議決定する、と中教審委員に説明していたが、この日の総会では、政府としての教育振興基本計画は、中教審答申を基に与党や各省調整を経て策定すると軌道修正を明らかにした。各省との調整では教育投資に絡む事項の後退は必至。財務省は財政再建を理由に教育予算の拡大に強く反対しており、改正教育基本法に裏付けられた教育振興基本計画に大きな期待を寄せていた教育関係者には急速に失望感が広がっている。

中教審答申は、「教育立国」の実現に向けて、十年先を見通して、今後五年間(平成二十年度から二十四年度)に総合的・計画的に取り組むべき施策等をまとめたもの。

十年先の教育の姿としては、公教育の質を高め信頼を回復する、高校や大学等における教育の質を保証する、世界最高水準の教育研究拠点を重点的に形成するとともに、大学等の国際化を推進するなどとしている。

具体的には七十五項目の施策を列挙したが、五年間で達成を目指す数値目標の記載はほとんどない。記述内容が最終段階まで明らかにされなかった答申の中の「目指すべき教育投資の方向」の行(くだり)では、「今後十年間を通じて、必要な予算について財源を確保し、欧米主要国と比べて遜色のない教育水準を確保すべく教育投資の充実を図っていくことが必要」と指摘。

しかし同時に「この際、歳出・歳入一体改革と整合性を取り、効率化を徹底し、まためり張りを付けながら、真に必要な投資を行う」としている。

私立学校に関しては、その自主性を尊重しつつ、私立学校の教育研究に対する支援を行い、また学校法人の自主的な努力による健全な経営の確保を促す観点から、学校法人に対し、経営に関する指導・助言等の支援を行うとともに、積極的な財務情報等の公開を促すとしている。私学助成は推進する、との記述。

今年二月末の時点の答申の案文では「私学助成を更に充実」と記載されていたが、その後の各省調整で「推進」に後退した。この日の総会では全私学連合代表を務める安西祐一郎・慶應義塾長も再度、閣議決定を前に教育投資充実に向けた努力を文部科学省に要請。また委員からは福田首相が提唱した「留学生三十万人計画」の実現のための予算は既存の高等教育予算からではなく特別に手当てするよう求める意見も聞かれた。これに対して渡海文科相は、留学生問題に関しては、日本のトップリーダーが発言したことで、責任を持って取り組む意向を明らかにし、教育振興基本計画については「与党の手続きも、各省の調整も終わっていない。頑張りたい。計画は指標になるもの」との考えを示した。

全私学新聞 2008年4月23日

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全国体力テスト そんな調査より指導者育成を

文部科学省が今年度から、小学5年と中学2年の全児童生徒を対象に「全国体力テスト」を始め、毎年続けるという。昨年再開した全国学力テストのいわば体力・運動版である。

しかし、疑問がある。多額の費用(今年度予算3億3500万円)をかけて全員参加方式での調査をすることに、どれほどの意味やメリットがあるのか。

同様の内容で、各世代にわたり全体状況をつかむ抽出調査は文科省が毎年行っている。そして全国の約7割の学校が独自に同じテストをし、抽出調査の全国平均などと児童生徒の体力が比較できる。

それに加えて今回、全員対象の調査をする意義について文科省は「子供の体力低下が指摘されており、その現状をきめ細かく把握し、分析する必要がある。各児童生徒に結果を提供し、状況改善の参考にもなる」とする。上体起こし、反復横跳び、五十メートル走など8種目の実技テストに併せ、生活、食事、運動習慣も調査票で集約し、体力との関連を調べるという。

結果は、文科省が都道府県別の平均値などを公表、教育委員会には各学校のデータ、学校には各児童生徒の個別データが渡される。

全員参加型と各校のデータを文科省が集約することで、都道府県別の「体力ランクづけ」が可能になった。これによって毎年の順位に関心が傾き、その向上のために過度の督励が行われるおそれがある。そして、結果的にこの新しいテストがもたらすものはこれだけかもしれない。ただ数値向上にハッパをかけられるだけでは、運動が不得手な子供はますます運動嫌いになりかねない。

既存の調査で全国平均と個人の比較は今も可能だ。生活習慣や食事、クラブ活動などと体力の相関関係については、日常子供たちと接する学校現場の先生が掌握できる立場にある。手法に迷う先生があれば、教育委員会から専門的なアドバイスや支援ができよう。

確かに子供の体は大きくなったが、調査で体力・運動能力は低下傾向が続いている。また「運動好きの子と嫌いな子、あるいは運動する子としない子」というように子供たちが二極化する傾向も指摘されている。

この状況に必要なのは、既にある調査の上に重ねる新調査ではなく、指導的な先生など人材の養成・拡充だろう。地域のスポーツ指導者や近隣の学校同士の協力も有効だ。

子供たちの体力・運動能力の低下や二極化は、適切で魅力ある指導を受ける機会に恵まれることによって改善が期待できる。監督、コーチによって同じ選手やチームが発揮する力ががらりと変わるのと同じだ。

毎年億単位の事業費が使えるなら、「体を動かす楽しさ」を教え、指導できる人材を増やすことにこそ注ぐべきではないか。

毎日新聞 2008年4月3日

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集団自決判決―司法も認めた軍の関与

太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍が最初に上陸したのは那覇市の西に浮かぶ慶良間諸島だ。そこで起きた「集団自決」は日本軍の命令によるものだ。

そう指摘した岩波新書「沖縄ノート」は誤りだとして、慶良間諸島・座間味島の元守備隊長らが慰謝料などを求めた裁判で、大阪地裁は原告の訴えを全面的に退けた。

集団自決には手投げ弾が使われた。その手投げ弾は、米軍に捕まりそうになった場合の自決用に日本軍の兵士から渡された。集団自決が起きた場所にはすべて日本軍が駐屯しており、日本軍のいなかった所では起きていない。

判決はこう指摘して、「集団自決には日本軍が深くかかわったと認められる」と述べた。そのうえで、「命令があったと信じるには相当な理由があった」と結論づけた。

この判断は沖縄戦の体験者の証言や学問研究を踏まえたものであり、納得できる。高く評価したい。

今回の裁判は、「沖縄ノート」の著者でノーベル賞作家の大江健三郎さんと出版元の岩波書店を訴えたものだが、そもそも提訴に無理があった。

「沖縄ノート」には座間味島で起きた集団自決の具体的な記述はほとんどなく、元隊長が自決命令を出したとは書かれていない。さらに驚かされたのは、元隊長の法廷での発言である。「沖縄ノート」を読んだのは裁判を起こした後だった、と述べたのだ。

それでも提訴に踏み切った背景には、著名な大江さんを標的に据えることで、日本軍が集団自決を強いたという従来の見方をひっくり返したいという狙いがあったのだろう。一部の学者らが原告の支援に回ったのも、この提訴を機に集団自決についての歴史認識を変えようという思惑があったからに違いない。

原告側は裁判で、住民は自らの意思で国に殉ずるという「美しい心」で死んだと主張した。集団自決は座間味村の助役の命令で起きたとまで指摘した。

だが、助役命令説は判決で「信じがたい」と一蹴された。遺族年金を受けるために隊長命令説がでっちあげられたという原告の主張も退けられた。

それにしても罪深いのは、この裁判が起きたことを理由に、昨年度の教科書検定で「日本軍に強いられた」という表現を削らせた文部科学省である。元隊長らの一方的な主張をよりどころにした文科省は、深く反省しなければいけない。

沖縄の日本軍は1944年11月、「軍官民共生共死の一体化」の方針を出した。住民は子どもから老人まで根こそぎ動員され、捕虜になることを許されなかった。そうした異常な状態に追い込まれて起きたのが集団自決だった。

教科書検定は最終的には「軍の関与」を認めた。そこへ今回の判決である。集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない。

朝日新聞 2008年3月29日

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「軍命令」は認定されなかった

沖縄戦の集団自決は、旧日本軍の「命令」で行われたのか否か――。

高校日本史教科書の沖縄戦の記述をめぐる教科書検定問題との関連でも注目された判決だった。

集団自決を命じたとの虚偽の記述により名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元将校らが作家の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償などを求める裁判を大阪地裁に起こしていた。

判決は、旧日本軍が集団自決に「深く関与」していたと認定した上で原告の訴えを棄却した。

しかし、「自決命令それ自体まで認定することには躊躇(ちゅうちょ)を禁じ得ない」とし、「命令」についての判断は避けた。

昨年の高校日本史教科書の検定では、例えば「日本軍に集団自決を強制された」との記述が「日本軍の関与のもと、配布された手榴(しゅりゅう)弾などを用いた集団自決に追い込まれた」と改められた。

軍の「強制」の有無については必ずしも明らかではないという状況の下では、断定的な記述は避けるべきだというのが、検定意見が付いた理由だった。

史実の認定をめぐる状況が変わらない以上、「日本軍による集団自決の強制」の記述は認めないという検定意見の立場は、妥当なものということになるだろう。

沖縄の渡嘉敷島と座間味島の集団自決をめぐっては、戦後、長い間、隊長「命令」説が定説となっていた。沖縄の新聞社が沖縄戦を描いた「鉄の暴風」などが根拠とされた。

しかし、渡嘉敷島の集団自決の生存者を取材した作家の曽野綾子氏が1973年に出した著書によって、隊長「命令」説は根拠に乏しいことが明らかになった。

これを受けて家永三郎氏の著書「太平洋戦争」は、86年に渡嘉敷島の隊長命令についての記述を削除している。

座間味島についても、元守備隊長が自決命令はなかったと主張していることを、85年に神戸新聞が報じた。隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったが断られたという女性の証言を盛り込んだ本も、2000年に刊行された。

一方で、日本軍が自決用の手榴弾を配布したとの証言もある。

ただ、集団自決の背景に多かれ少なかれ軍の「関与」があったということ自体を否定する議論は、これまでもない。この裁判でも原告が争っている核心は「命令」の有無である。

原告は控訴する構えだ。上級審での審理を見守りたい。

讀賣新聞 2008年3月29日

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沖縄ノート判決 軍の関与認めた意味は大きい

太平洋戦争中の沖縄・座間味島、渡嘉敷島での住民集団自決に軍の命令があったかどうかが最大の争点となった「沖縄ノート」裁判で、大阪地裁は「日本軍が深くかかわったと認められる」との判断を示した。

大江健三郎さんの著作「沖縄ノート」などの記述で名誉を傷つけられたとして損害賠償や出版差し止めを求めた両島の守備隊長やその遺族の主張は全面的に退けられた。

軍の関与認定にまで踏み込んだことは、歴史認識や沖縄の心、極限状況における軍と国民の関係を考える議論に一石を投じるもので、その意味は大きい。

裁判の中で大江さんは、当時の軍と住民の関係において住民は集団自決しか道はないという精神状態に追い詰められており、日本軍としての強制・命令はあった、と主張していた。

判決は、大江さんが引用し、「軍命令があった」とする戦後間もなくの証言集などの資料的価値を認め、住民証言は補償を求めるための捏造(ねつぞう)だとする原告の主張を否定した。

さらに、集団自決に貴重な兵器である手りゅう弾が使用されたこと、集団自決したすべての場所に日本軍が駐屯していたことなど、事実を一つ一つ積み重ねて軍の関与があったと判断し、大江さんの主張をほぼ認めた。

裁判は、06年度の高校日本史教科書の検定にも影響を与えた。文部科学省は、原告らの主張を根拠の一つとして、軍の「強制」があったという趣旨の記述に対して検定意見を付け、これを受けていったんは修正、削除された。

しかし、沖縄県民をはじめとした激しい反発が起こり、軍の「関与」を認めたり「強制的」とする記述が復活した。判決は、当初の検定意見に見られる文科省の認識のあやふやさに疑問を突きつけた形で、文科省として反省と検証が必要である。

沖縄県民の反発の背景には、本土防衛の捨て石にされたという思いや、それをきっかけに現在の米軍基地の島と化したことへの怒りがある。

判決は、当時の軍がいったん米軍に保護された住民を処刑するなど、情報漏れを過度に恐れていた点を指摘している。国民を守るべき軍隊が戦闘を最優先目的として国民に犠牲を強いた構図が浮かび上がり、沖縄県民が共有する不信を裏付けたことになる。

裁判はさらに上級審に持ち込まれ、論争の長期化が予想される。だが、戦後六十余年がたち、集団自決への軍の命令の有無という個別の行為について確認することは難しくなっている。

しかし、客観的な事実の検証なくして、歴史の教訓を導き出すことはできない。判決はそうした点で、一つ一つの事実を冷静に判断することの重要性を示したものと受け止めたい。

毎日新聞 2008年3月29日

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教科書検定作業 自由な議論と透明性の調和図れ

教科書検定の作業で最も大事なのは、不当な干渉を排除することだ。議論の過程を透明化するとしても、そうした配慮が不可欠だろう。

教科書検定のあり方を改善するため、文部科学相の諮問機関、教科用図書検定調査審議会で検討が始まった。昨年、沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定で「審議経過が不透明」などの批判が出たのを受けたものだ。

学習指導要領改定に伴う検定基準見直しとともに、夏までに結論を出す。

教科書の記述が適切かどうかを審査する同審議会は、総会をはじめ、教科ごとの部会、その下の小委員会も、すべて非公開になっている。総会だけは、発言者を匿名にした議事の概要が作成され、検定後にホームページで公表されるが、部会、小委員会は議事概要もない。

文科省は、委員が静かな環境の下で自由に意見を交換し、審議を円滑に進めることなどを理由に挙げている。

2000〜01年、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが執筆した中学歴史教科書の申請本が外部に流出し、検定の合否も決まっていないのに、中国、韓国政府が強く反発した。

この教科書は検定に合格したが、審査の過程で不当な干渉や圧力が加われば、検定の公正さや中立性が脅かされる。冷静な議論を交わせる環境を確保することは、極めて大切なことだ。

現在は、教科書会社の申請本と検定済みの見本、検定意見書と修正前後の対照表が、検定後に公表される。

ただ、審議経過が一切非公開のため、検定意見書や検定済みの見本などを見ても、結論に至る過程はわかりにくい。

部会や小委員会の議事概要を検定が終了した後に公表することを、検討してもよいのではないか。

適切な事後検証は、次回の検定に生きるはずだ。例えば、文科省職員である教科書調査官の調査意見書を基に、委員がどんな議論をしたのかが点検できる。調査官や委員に、緊張感や責任感を一層持ってもらうことにもつながる。

検定では、複雑な事象やさまざまな議論がある問題などについては、必要に応じて専門委員が選ばれ、調査官が意見書を作る際の資料を提供する。

沖縄戦の集団自決をめぐる申請本の記述には、集団自決の際に日本軍の強制があったかどうか定かでないとして、検定意見が付けられた。沖縄戦の専門家の意見も聞いていれば、検定意見により説得力を持たせることができただろう。

専門委員の有効な活用方法も含め、改善策を検討してもらいたい。

讀賣新聞 2008年2月29日

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お節介すぎる学習指導要領

学校で何をどのくらい、どう教えるのか。そのよりどころになるのが、文部科学省のつくる学習指導要領だ。戦後しばらくは、教員が授業の目安にする程度の存在だった。

ところが、昭和30年代の改訂から記述がどんどん細かくなり、学校現場への拘束力も強まった。均質ではあるが冒険はあまり許されない。そんな戦後公教育の根本に、この準法規的な性格を持つ文書がある。

文科省が小中学校の新しい指導要領案を公表した。3月末にも告示され、小学校は2011年度から、中学校は翌年度から全面実施となる。

授業時間数を1割ほど増やし「総合的な学習」は減らす。小学校高学年に「外国語活動」を新設する。こうした施策が話題になっているが、指導要領の些末(さまつ)な記述や画一性は相変わらずだ。

新指導要領のごく一部を挙げてみよう。小学校5年生の理科で「花にはおしべやめしべなどがあり、花粉がめしべの先に付くとめしべのもとが実になり、実の中に種子ができること」を教えるよう定めている。

これだけでも細かいが、注記がある。「おしべ、めしべ、がく及び花びらを扱うこと。受粉については、虫や風が関係していることにも触れること」。万事、こんな調子だ。

もっとも、現行指導要領はもっと縛りがきつい。「おしべ、めしべ、がく及び花びらを扱うことにとどめること」などとクギを刺している。いわゆる歯止め規定である。

今回の改訂では随所にあったこの種の規定を外し、指導要領は最低基準であることを明確にした。しかし記述そのものはなお拘束性が強く、指導項目はむしろ増えている。

国が授業のあり方を事細かに定める手法が均質な学力を保証してきた面はあろう。しかし一方で、その画一性が現場を萎縮させ、創意工夫の余地を奪ってきた。現場も指導要領を金科玉条のようにとらえがちだ。

経済協力開発機構(OECD)は昨年発表した学力調査結果のなかで、学校の裁量の大きい国ほど好成績を収めていると指摘した。日本でも地方分権の流れを受け、地域や学校での独自の試みが盛んになっている。指導要領も、あまりにお節介な性格を改める必要があるはずだ。

日本経済新聞 2008年2月19日

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少年法改正 審判傍聴は極力限定すべきだ

法制審議会が、犯罪被害者らに少年審判の傍聴を認めることなどを盛り込んだ少年法改正の要綱を答申した。法務省は今年度中に法案を国会に提出する方針だが、要綱のままでは少年の健全育成を目指す少年法の理念が転換を迫られることになりかねない。国会での慎重な議論が不可欠だ。

少年審判は少年を科罰するのではなく、再び非行に走らないように導くことを目的としている。非行の真相を解明し、保護処分の要否を決するだけでなく、家庭環境や非行に至った経緯などを精査した上で、少年と家族らとの関係を改善する役割を担っている。

青森県で先月、18歳の長男が母親と弟妹を殺害、放火した事件でも母親の飲酒と交友が動機につながったと指摘されたが、非行には環境が深く影響する。背景を探り、親身になって少年の心を開かせて悩みや不満を吐き出させることが、再犯防止には欠かせない。

このため少年審判は、公開が原則で対審構造となっている刑事裁判と異なり、非公開が原則。審判廷は小部屋で、審理は通常丸いテーブルを囲んで「懇切を旨として和やかに(少年法22条)」、少年と審判官が対話する形で行われる。

旧来の少年法が、被害者救済の視点を欠いていたことは否めない。00年の改正で記録の閲覧・謄写、意見聴取、審判結果の通知などの規定が新設されたが、最近も被害感情や被害の実態が少年に伝わらない弊などが指摘されている。

今回の改正は被害者団体の要望を受けたもので、審判傍聴は、刑事裁判への被害者参加制度の新設と連動している。非行少年にとっても被害者側の精神面での被害を直視することは有意義であり、少年自身から真相を聞きたいとの被害者側の意見も尊重すべきだ。

しかし、狭い審判廷に被害者や遺族が同席すれば、少年が萎縮(いしゅく)し、真実が明かされずじまいになる可能性が大だ。被害者参加制度にも報復感情がむき出しになるのではないかとの懸念があるのに、その行方を見定めぬうちに少年審判の傍聴を認めるのは性急ではないか。満14歳未満の少年まで対象とする要綱には、疑問なしとしない。

被害者側への影響も考慮すべきだ。少年審判は逮捕後50日前後で開かれる。刑事裁判の初公判より早いため、興奮状態から冷めぬ少年が反省の色を示さないことが少なくない。暴言などで、被害者側が傷つく危険性も見逃してはならない。

しかも、現行の少年審判規則には、裁判長が相当と認める者の審判への在席を許す規定がある。実際に被害者が参加した例もある。この規定を必要に応じて弾力的に運用すれば、被害者側の要望に応じられるはずだ。制度化のデメリットを勘案すれば、新たな法改正が得策とは考えにくい。

毎日新聞 2008年2月18日

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「日本史」必修 歴史が好きになる教育を

神奈川県教育委員会が、県立高校で「日本史」を必修科目にする。国や郷土の歴史を学ぶ重要性は高まっており、県教委の独自の試みを評価したい。

学習指導要領では平成元年改定で高校は世界史が必修になった。日本史、地理はどちらかを履修すればいい。小中学校の歴史が日本史中心で、高校では国際化に対応し、世界の歴史を広く学ばせようというねらいからだ。

だが自国の歴史を学ぶ日本史が必修でないことには異論があった。神奈川県では約3割の高校生が日本史を学ばずに卒業するという。

指導要領改定で中央教育審議会の論議のなかでも、世界史派、日本史派のほか、世界史・日本史を組み合わせた「総合歴史」のような新科目が必要だとの提案もでた。

しかし中教審は今回の指導要領改定の答申で日本史必修化は見送ったため、神奈川県教委は平成25年度をめどに世界史必修に加え、日本史か、県の郷土史などの新科目を必修にする。

同県の松沢成文知事が「しっかりした日本人、国際人の育成に日本史は不可欠」というように、国際化のなかでこそ国の歴史や文化を学び、日本人として自覚をはぐくむ教育が求められている。外国人との交流で自国について聞かれても情報発信できない事態は残念なことだ。

必修増が生徒の負担増につながるとの意見に対し、文部科学相経験者の町村信孝官房長官は「負担が増えずに学力は向上しない。社会人の基礎を身につけさせるという県の判断であれば尊重すべきだ」とも述べている。

日本史必修でもっとも懸念されるのは指導内容だ。近現代史を中心に、ことさら日本を悪者にする自虐史観や教師が歴史観を押しつけるような授業がある。歴史が嫌いになるだけだ。

また年号などの暗記だけでは関心がわかない。学力テストでは明治維新の人物の業績などを知らない子供たちが多いという残念な結果もある。先人の業績に夢や感動を覚えるような面白い授業をする教師は少ない。

神奈川県教委は課題学習など授業も工夫するという。他の教委を含め、小中学校から歴史が好きになるよう見直す契機にもしてもらいたい。

産経新聞 2008年2月17日

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新指導要領―教師力の育成が先決だ

学習指導要領は、文部科学省がそれぞれの教科の時間数や各学年で教えるべき内容を決めているものだ。

その小中学校の指導要領の改訂案がまとまった。11年度以降、この内容に沿った授業が全面的に始まる。

指導要領は約10年ごとに改訂されている。今回の特徴は40年ぶりに授業時間数と教える内容を増やしたことだ。小学校の高学年で新たに英語も取り入れた。

その心は次のようなことだろう。

学力低下が批判される中で、ゆとり教育などと悠長なことはいっていられない。授業時間を増やすしかない。知識を活用する力が足りないといわれているから、知識の量を増やしつつ、知識を活用できる授業時間をひねり出したい。

では、この指導要領によって学力が上がり、日本の子どもたちの弱点である考える力が育つのだろうか。

たしかに授業時間を増やすことで解決できる問題はあるだろう。むずかしい内容についても、時間をかけて教えれば子どもたちの理解は進むかもしれない。

だが、学力の底上げや考える力を育てるためには授業に工夫が求められる。まして、教える内容が増えるのだから、教師への負担はいっそう重くなる。

授業の質は教師の量と質にかかっている。本来は教師をもっと増やし、教師の質も高めなければならない。文部科学省もそうした条件整備が必要だと認めているのに、指導要領を変えただけで、手をこまぬいているように見えるのはどうしたことか。

これで、さあ目標を達成しろといわれても、現場としては羽がないのに空を飛べといわれているようなものだろう。

指導要領の運用にも注文をつけたい。

その分量は小中学校とも100ページ以上に及ぶ。何をどこまで教えねばならないかを学年ごとに細かく決めている。

私たちはこれまで社説で、こんなに細かく規定することに疑問を投げかけてきた。時間数も内容も幅を持たせて現場の工夫にまかせた方がいい。指導要領から逸脱しているなどと文科省が口をはさむことはできるだけやめてもらいたい。

もうひとつ忘れてならないのは、教育基本法が改正されて初めての改訂だということだ。改正基本法に「愛国心」が盛り込まれ、今回の指導要領には道徳教育の充実が定められた。

教育再生会議が強く求めていた道徳の教科化はさすがに見送られたが、道徳教育推進教師が学校ごとに指定され、全教科を通じて道徳心を教えることになった。武道の必修化もその流れにある。

道徳心を子どもに教えることは必要だが、特定の価値観を画一的に押しつけるようになっては困る。どのように教えるかは教師たちにまかせた方がいい。

指導要領は学校現場に示した目安ぐらいに考えるとともに、子どもたちの学びやすい環境づくりに力を注ぐ。そうした姿勢こそが文科省に求められている。

朝日新聞 2008年2月16日

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新学習指導要領 21世紀担う人材どう育てる

基礎も応用力も大切にし、学力の向上を図る。同時に、豊かな心や健康な体をはぐくみ、力強く生きていけるようにする。いつの時代も教育が目指すのは、バランスの取れた人材の育成だろう。

文部科学省が新学習指導要領案を公表した。小学校は2011年度、中学校は12年度から完全実施される。

教育基本法の改正後、初めての改定となる指導要領では、「生きる力」の育成という従来の理念は変えないまま、授業時間、学習内容を増やす。「ゆとり教育」を打ち出し、学習内容を約3割も減らした現行の指導要領とは対照的だ。

「詰め込み教育」への逆戻りではなく、当面の目標である学力向上とともに、自分で考え、学ぶ姿勢を身につけさせていくことが大切だ。

理解力や表現力などを養う言語活動、理数教育、伝統・文化の教育、道徳教育、体験活動、外国語教育の充実が、6本柱だ。教育基本法の改正で、新たに教育の理念となった「伝統・文化の尊重」「公共の精神」を各教科・科目に反映させようとしている。

学力低下が顕著な理数では、学習内容を小中学校の9年間で15%程度増やし、一部の内容を09年度から先行してスタートする。教師や児童・生徒が混乱しないよう、できるだけ早くその内容を確定し、十分に周知する時間をとって、準備に努めてほしい。

現場の教師に特に不安が大きいのは、小学校5年から導入される英語だ。

小学生のうちに積極的にコミュニケーションを図る態度を身につけさせ、中学校で英語を学ぶ素地を作るのが狙いという。文科省では、教師に研修を受けさせる一方、英語を母語とする外国人の指導助手を使ったり、英語に堪能な地域の人材の協力を得たりする方針だ。

小学校英語は正式な教科ではなく、教科書はない。このため、総合学習のように教師の力量によって大きな差が出る事態にならないよう、工夫に努めなければならない。緊密な情報交換など、小中学校の連携も欠かせない。

理解力や表現力などは学力を伸ばす基本だけに、各教科で発表や討論などを通じて育成する。中学校では、肝心の国語の授業時間が英語より短いのは気がかりだ。指導要領に不都合が生じれば、柔軟に見直す姿勢も求められる。

危機的な財政事情が続き、教育予算の確保が難しい状況だ。その中で、文科省は、教職員定数の増加や施設・設備の充実など、学校現場を支える環境の整備に力を入れてほしい。

讀賣新聞 2008年2月16日

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学習指導要領 手間をかけてこそ改革だ

学校教育の指針と内容の基準を国(文部科学省)が示す学習指導要領改定案が公表された。軽減されてきた教科授業内容が40年ぶりに増加に転じ、道徳、伝統文化の重視を強調する。

いわゆる「ゆとり」路線を主因とみなす学力低下批判と、教育基本法改正の理念を映す。10年前「21世紀の新しい教育」をうたった現指導要領に代わる改定の理念は何か。文科省はまず現要領“不調”の精密な検証が必要だ。

詰め込み教育の反省で、1970年代から授業内容の軽減が進んだ。80年代末には「新しい学力観」を提唱、意欲や関心を重視し、選択もさせた。ひとくちにいえば、今回、こんなことだから学力が下がるという声が文科省を囲んだのだ。

例えば、今回の改定で中学の標準授業時数から「選択教科等」の枠が消え、小中学校とも「総合的な学習の時間」が削減され、教科授業を増量するのに充てられた。「興味・関心重視から共通性の重視へ」と文科省はいう。この転換は「新しい学力観」の実質的な否定といえる。

高校改定案は秋に出るが、神奈川県は独自に県立高校で日本史を選択から必修にする。国や郷土の歴史学習は有意義で必修に理はある。だが、選択制が想定・期待してきた「興味・関心による自発的に深める学習」という意義も大きい。全国に必修化が広がる可能性があるが、なし崩しではなく、現制度の基本理念を踏まえたうえで検証し、論議すべきではないか。

まさに現指導要領についてそれがいえる。検証が不足したまま、改定を急いだ感がぬぐえない。

現要領の象徴は総合学習導入だった。各学校、各教員が独自にテーマや手法を決める。この実施は学校、教室によって濃淡、成否が分かれ、多くの学校で「国際理解」名目で英会話などが行われる実態に変じた。皮肉にも今回の改定で小学校高学年で始まる「外国語活動」はその追認・拡充ともいえよう。

総合学習がなぜ期待通りの成果を示し得ないのか。現場に聞くと、準備、研修、情報、人員、余裕など、不足を指摘する声が多い。

今回の改定ではこれを教訓に生かし、教員の資質、能力の向上策も含め、国は財政措置など計画的にバックアップする必要がある。

「言語力と活用力」の育成をうたい、理数強化、伝統文化、道徳充実、外国語……と力点を並べる改定案だが、現場教員を細かく縛るのではなく、主体的に運用されるべきだ。例えば、道徳については各校の推進教員の下で一律な内容を押しつけるのではなく、戦後の道徳教育の考え方だった「学校教育全体を通じ日常子供と教員が接しながら学び取っていく」が基本だ。

一方的な「お仕着せ」になること。それを最も戒めなければならない。

毎日新聞 2008年2月16日

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新指導要領 伝統文化を授業に生かせ

小中学校の新しい学習指導要領案が公表された。教育基本法改正を踏まえ、伝統文化の尊重や言語力育成など、ゆとり教育の中でおろそかにされていた指導を重視している。実際の授業に生かしてもらいたい。

伝統文化の尊重は、新指導要領の大きな特徴だ。道徳や社会科のほかにも各教科に盛り込まれた。

たとえば国語では古典の指導を充実させ、小学校低学年で「金太郎」や「因幡(いなば)の白兎(うさぎ)」といった昔話などを取り上げる。音楽では唱歌などの指導も重視する。

こうした物語や歌は、祖父母や親から幼いころに聞かされた人が多いだろう。しかし、知らない子が増えている。家庭、地域の教育力が低下し、世代を超えて伝えられるべきものが失われたり、忘れられがちだ。

先人の生き方や文化遺産などの学習を通じ、国や郷土について深く知ることは、自分の生まれ育った国だけでなく、他国を尊重する国際人育成につながる。神奈川の県立高校が独自に日本史を必修とするのもこうしたねらいからだろう。

言語力の育成に重きを置いたことも評価したい。

ゆとり教育では、読み書きなど基礎基本を繰り返して教え、身につけさせる教育が徹底されなかった。言語力は国語だけでなく算数・数学などを含め各教科に通じる学力の支えである。

小学校の学年別配当漢字は見直さなかったものの、国語の教科書で「挑戦」を「ちょう戦」と書くような交ぜ書きをなくし、ふりがなをつける。交ぜ書きは漢字の意味を無視したもので弊害が大きかった。

これまで約10年ごとの指導要領改定のたびに授業時間、学習内容が削られてきた。昭和40、50年代に比べ学習量は半減している。ゆとり教育で消えたものは多かった。

指導要領は、教育基本法改正後、今回が初めての改定で、幅広い知識・教養のほか、豊かな情操を培うことなど知、徳、体それぞれの充実策を各教科で明確にしている。

だが教育現場では伝統文化の尊重さえも「愛国心の押しつけ」などとして嫌う傾向がある。教員は指導要領を形骸(けいがい)化させずに取り組んでほしい。

産経新聞 2008年2月16日

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君が代判決―都教委は目を覚ませ

卒業式の君が代斉唱で起立しなかったからといって、定年退職した都立高校の教職員らの再雇用を拒むのは、裁量を逸脱、乱用したもので違法だ。東京地裁がこう判断し、13人に計2700万円の賠償を支払うよう東京都に命じた。

東京都では国旗・国歌への強制ぶりが際立ち、抵抗する教職員が次々に処分されている。定年を控えた教職員に対しては再雇用をしなかった。こうした処分に対する訴訟も相次ぎ、今回の判決はそのひとつだ。

国歌斉唱で起立しなかったことは、ほかの教職員や来賓には不快かもしれないが、積極的に式典を妨害するものではなく、再雇用を拒否するほどのものか疑問だ。これが判決の論理である。

私たちはこれまで社説で、「処分をしてまで国歌や国旗を強制するのは行き過ぎだ」と主張してきた。様々な歴史を背負っている日の丸や君が代を国旗・国歌として定着させるには、自然なかたちで進めるのが望ましいと考えるからだ。

今回の判決は都教委の強制ぶりを戒めたもので、評価したい。

再雇用拒否の当否が争われた裁判では、東京地裁の別の裁判長が昨年、都教委の主張を認めた判決を出している。「一部の教職員が起立しないと式典での指導効果が減る」との理由だが、再雇用を拒むほどのことではないという今回の判決の方が常識にかなっている。

今回の裁判でもう一つの論点は、起立させる校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反するかどうかだった。判決は「職務命令は原告らに特定の思想を持つことを強制したり、禁じたりしていない」として合憲とした。

この点については、東京地裁の別の裁判長が06年、都教委の通達や指導を違憲と判断した。その当否は別として、裁判官によっても分かれているほど判断が難しい問題を、教育の場で一方的に押しつけるのは好ましくない。

今回の判決を機に、都教委には改めて再考を求めたい。

都教委の強硬姿勢が際立ったのは03年、入学式や卒業式での国旗掲揚や国歌斉唱のやり方を細かく示す通達を出してからだ。この通達のあと、延べ400人近い教職員を戒告や減給、停職の懲戒処分にした。再雇用を拒否された人は、今回の原告を含めて約40人にのぼる。

教職員は君が代斉唱の時に、踏み絵を迫られる。立って歌っているかどうかを確認するため、校長だけでなく、都教委の職員が目を光らせる。

こんな光景が毎年繰り返された結果、残ったのは、ぎすぎすした息苦しい雰囲気である。子どもたちの門出を祝い、新しい子どもたちを迎える場としては、およそふさわしくない。

あまりに行き過ぎた介入は教育そのものを壊してしまう。今年も卒業式や入学式の季節が近づいているだけに、都教委にはそろそろ目を覚ましてもらいたい。

朝日新聞 2008年2月9日

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教育再生会議―安倍氏と共に去りぬ

世が世ならば……。そんな無念の思いで、この日を迎えた委員も少なくなかったろう

政府の教育再生会議が、最終報告を福田首相に提出した。これまで3回にわたった提言を速やかに実行するよう改めて求めている。

しかし、再生会議の生みの親だった安倍晋三氏がすでに政権を去っており、今後、提言がどのくらい実現されるかはわからない。

再生会議が設けられたのは06年秋、教育改革を最重要課題に掲げた当時の安倍首相の肝いりだった。ノーベル賞を受賞した野依良治氏を座長に、各界の有識者が名を連ねた

21世紀の日本にふさわしい教育体制を築くため、教育の基本にさかのぼって改革する。これが会議の目的だった。その幅広い顔ぶれから、活発な議論と骨太の提言を期待した人もいただろう。

しかし、同時に、時の政権とあまりに近すぎるという危うさを抱えていた。

1次報告の「基本的考え方」に、安倍氏のキャッチフレーズである「美しい国、日本」がそのまま引用されていることが象徴的だった。

教員免許の更新制や、文部科学相による教育委員会への指示を認めることなどがそろって1次報告に盛り込まれたのも、官邸からの強い意向だった。これらが教育3法の改正につながった。

私たちは社説で、この改正の持つ問題点を再三指摘した。学力の向上やいじめの解決につながるのか。文科省の管理が強まれば、教師を萎縮(いしゅく)させ、現場の工夫をそいでしまわないか。しかし、そうした疑問が会議の場できちんと議論された形跡はない

安倍氏が熱心だった徳育の教科化は、最終報告の提言にも盛り込まれている。だが、文科省も中央教育審議会も消極的で、見送られる公算が大きい。

時の政権の影が色濃ければ、その行く末も政権とともにあるものだろう。福田政権になって、文科省や官邸はすっと距離を取り始めた。これに対し、委員からは不満や恨み言が聞かれた。

しかし、どうだろう。提言そのものに力があれば、旗振り役の安倍氏が去っても、その提言は世論の支持を得たのではないか。結局、提言には見るべきものがなかったということだろう。

とはいえ、いまの教育に改革が必要なことは言うまでもない。各界から様々な知恵を出し合う場も必要だろう。

その際、大切なのは政治や行政の思惑から離れて一から議論を積み上げることだ。時の政権がやりたいことを後付けするのでは意味がない。

そのうえで、印象論や思いつきだけで議論をしないことだ。過去の改革を検証し、専門家の意見に耳を傾けることも欠かせない。

教育再生会議の寂しき幕切れから学ぶべきことは多い。

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教育再生会議 提言の実現度の点検が大事だ

政府の教育再生会議の最終報告は、過去3回の報告内容が確実に実行されるかどうか厳しく点検するよう求め、そのためのチェックリストを示した。

提言は実現されてこそ意味がある。しっかり点検する必要がある。

政府は月内にも点検にあたる組織を発足させる。問題は新組織にどんな権限を持たせ、何を基準に達成度を測っていくかだ。遅れている点は作業の促進を求める権限も、持たせるべきではないか。

リストは、多岐にわたる提言を反映し、学力や教員の質の向上など6分野で36項目に及ぶ。しかし、進捗(しんちょく)状況を具体的にどうチェックしていくのかが定かではない。検討を急ぐべき課題だ。

教育再生会議は2006年10月、安倍前首相の下で発足し、学力と規範意識の向上を掲げた。数々の提言も、この目的を達成するためのものだ。

理数系の応用力や国語の読解力など学力向上につながったか。全国学力テストや国際学力調査などの結果に反映させることができたかどうか――。点検で重視すべきは、こうした点だ。

規範意識の向上は成果を測りにくい。だが、いじめや少年犯罪の件数が減ったかどうかなども、目安になるだろう。

教育再生会議は、政府の有識者会議としていち早く「脱ゆとり教育」を打ち出し、教員免許の更新制をはじめ、学校教育法など教育3法の迅速な改正も後押ししてきた。ただ、提言が網羅的でつながりを欠く、掘り下げ方が足りない、などの批判もあった。

中央教育審議会の答申との食い違いもある。例えば道徳教育では、教育再生会議が「徳育」として教科にするよう提言したが、中教審は教科化を見送った。

教育再生会議の提言を点検する際、新組織の位置づけを明確にしないと文教政策が混乱することになりかねない。

人選も重要だ。点検作業は教育現場を知らないと難しい。メンバーは民間の有識者を中心に数人程度で構成する方向で検討が進められているが、学力向上や家庭・地域との連携で実績のある教師を加えた方が、効果的なのではないか。

福田首相は先の施政方針演説で、「明日の日本を担う若者を育てる環境を整えることは大人の責任だ」と教育再生に取り組む考えを明らかにした。教育再生会議の最終報告の場では、「成果を十分生かしていくよう、提言の実現、フォローアップをしていきたい」と述べた。

福田首相は、教育改革を重要課題に掲げた安倍前首相に比べ、教育に関しては発言が少なく、姿勢が見えにくい。ぜひ指導力を発揮してほしい。

讀賣新聞 2008年2月2日

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教育改革論議の仕切り直しを

安倍晋三前首相の肝いりで発足した教育再生会議が幕を閉じた。議論は迷走を続け、目ぼしい収穫を得ることはできなかったが、教育の行方に対する国民の関心は極めて高い。その構造自体を変える道を、社会全体であらためて探る必要がある。

最終報告はこれまでの報告に盛った6・3・3・4制の弾力化などの提言を集約し、提言の実施状況を点検するための新機関を設けるよう求めた。首相官邸に新たな会議が置かれ、2月中に発足する運びだ。

しかし、そもそも再生会議の提言そのものに漠然とした指摘が多く、文部科学省などの施策との重複も目立つ。福田康夫首相も教育改革については明確なビジョンを示していないから、官邸の新会議が何をどう推進するものか心もとない。

そうした実情を踏まえれば、むしろ今後は再生会議の提言だけにとらわれず、いま一度、根本から教育改革論議を仕切り直すべきだろう。

その際にまず欠かせないのは、教育の分権と多様化の視点である。教育制度や内容の大枠は国が定めるべきだとしても、なるべく規制を緩め、地方や学校現場がもっと創意工夫を凝らし様々な試みを打ち出せる仕組みに改めていく必要がある。文科省―教育委員会―学校の上意下達システムも見直す時期に来ている。

もうひとつ重要な点は、たんに知識だけでなく応用力や創造性を養う教育への転換をいかに進めるかを真剣に考えることである。おもに応用力を問う経済協力開発機構(OECD)による学力調査では、日本は回を追うごとに成績を落としている。このままでは国際的な人材育成競争から立ち遅れる懸念もある。

調査で好成績を上げている国のなかには官僚統制を緩め、地域や学校に大きな権限と責任を持たせているケースもある。それだけが学力向上の決め手ではないにせよ、硬直した教育制度が退屈な授業を生み、子どもたちから「考える習慣」を奪っている面があるのは否めない。

再生会議はこうした構造的な問題に切り込まず、むしろ中央集権的な施策も打ち出した。それでも提言のなかには現状打開への様々なヒントもあろう。その功罪を見極め、新たな教育改革を目指すべきである。

日本経済新聞 2008年2月2日

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教育再生会議 提言は着実に実行しよう

政府の教育再生会議が徳育の充実などを改めて求めた最終報告を福田康夫首相に提出した。文部科学省や中央教育審議会に迅速な教育改革を促す役割を果たした。

その最大の成果は、ゆとり教育の是正である。再生会議は昨年1月の第1次報告で、授業時間の「10%増」を求めた。この提言はその後の中教審の審議に生かされ、今年1月、30年ぶりに授業時間を増やす次期学習指導要領の最終答申が出された。

国語、算数(数学)など教科学習の時間を大幅に削減した今のゆとり教育は、平成8年の中教審答申で打ち出された。中教審はこの過ちを容易に認めようとしなかったが、昨秋の中間報告で、「授業時間を減らしすぎた」など5つの反省点も明記した。

再生会議はさらに、指導力不足教員の排除を含めた教員免許更新制の導入や学校運営を効率化させるための「副校長」「主幹」ポストの設置などを求めた。中教審で、これらの提言を法案化するための審議がただちに行われ、教員免許の有効期間を10年とする改正教員免許法など教育再生関連3法が昨年の通常国会で成立した。

中教審委員や文科省の官僚がこれだけせかされるように動いたことは、かつてはあまりなかった。

教育再生会議は一昨年10月、官邸主導による公教育再生を目指す安倍晋三前首相の肝いりで発足した。今回の最終報告を含め、3回の提言を行った。その評価をめぐり、一部マスコミの社説や識者談話の中に、「結局、提言には見るべきものがなかった」「いずれも時代錯誤もはなはだしい提言だった」などと全否定する論評もあるが、あまりにも一面的な見方である。

ただ、再生会議が再三にわたって提言した「徳育の教科化」について、中教審や文科省で十分な議論が行われなかったことは極めて残念である。再生会議は徳育の教科書づくりも求め、ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などの活用を例示したが、これらが真剣に検討された形跡はない。

再生会議の提言は内閣が代わったからといって、なおざりにされるべきものではない。徳育の教科化を含め、着実に実行されることが必要である。内閣に設置される点検機関に、実施状況の厳しいチェックを求めたい

産経新聞 2008年2月2日

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道徳教育 心とらえる教材が必要だ

学習指導要領の改定で、道徳教育の充実策が課題になっている。文部科学省、中央教育審議会は引き続き徳育の教科化を検討するとともに、子供たちの心をとらえる教材づくりを進めるべきだ。
 
中教審は指導要領改定に向けた答申で、徳育の教科化は見送ったものの、道徳教育の充実は必要だと強調している。しかし、その具体策となると、学年など発達段階に応じた指導のほか、既存の教材の充実・活用、家庭や地域との連携・交流などを進める−などにとどまり、決め手に欠ける。
 
小中学校で週1時間ある「道徳の時間」では、民間の教材会社の副教材などが使われている。教科でないため1人1冊でなく学年共用の学校もある。教師用の指導書も十分ではない。
 
相次ぐ少年の凶悪事件などを受け、平成14年度から文科省は道徳の補助教材として書き込みができる「心のノート」を作成、小中学生に配布した。
 
漫画やイラストを用い、学校生活や日常生活など身近な場面を題材に、ルールを守ることや命の大切さなどを考えさせる工夫がされている。
 
だが、道徳教育の専門家からは、先人の生き方を知り、自らについて考えるといった点では、教材として物足りなさを感じるとの指摘もある。
 
政府の教育再生会議も、提言のなかで「ふるさとや国内外の偉人伝、古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと」の必要性をあげている。
 
文科省の調査では道徳の授業を「楽しい」「ためになる」と感じる小中学生は、学年が上がるにつれて減っていく。中教審答申も、道徳の授業については「指導が形式化している」と認めている。進路指導や偏った反戦教育に悪用するケースもみられる。
 
国語や音楽など他教科を含め、教科書には運動選手や文化人など子供たちに身近な新しい話題も必要だろうが、時代を超えた意味を持つ先人の物語や名言を教えることも重要だ。
 
教育再生担当の山谷えり子首相補佐官は、「教科書も厳格なものではなく“準検定教科書”を用意すればいいという考えもある」と教科化が実現しない場合の教材充実策をあげている。道徳教育充実の有効な手だてとして、子供たちの心に残り、考えたくなる物語を含めた教材に知恵を絞りたい。

産経新聞 2008年1月28日

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株式会社大学 きちんと教育をしているのか

多数の学生が本人かどうか確認できない。こうした大学が果たして大学の名に値するのか。文部科学省が改善を指導したのも当然だろう。

指導を受けたのは、全授業をインターネットで行う初の4年制大学をうたったサイバー大学(福岡市)だ。

大学設置基準では、授業を履修した学生に単位を与えることになっている。本人確認できない学生が多いサイバー大は、単位認定の基準を満たしていない疑いがあるためだ。620人とされる学生のうち、今週初めの時点で3割、現在も1割の学生を確認できていない。

文科省は、早急に全員を確認するよう求めている。学校教育法に基づく改善勧告も視野に入れているという。

同大は、ソフトバンクの子会社が、昨年4月に開校した株式会社立大学だ。IT総合学部と世界遺産学部がある。

文科省は大学として認可した際、11項目の留意すべき事項を示した。ネットで授業を受ける学生の「替え玉」を防ぐため、対面式のオリエンテーションで学生本人を確認することもその一つだ。それがいまだに果たされていないのだから、大学側の責任は重い。

学校教育法では、大学の設置主体を国、自治体、学校法人に限定している。規制緩和の一環で、構造改革特区法によって、自治体が国に申請して認められた特区では、株式会社でも大学を設置できることになった。

経営悪化などで大学の運営に支障が出そうな場合には、自治体が学生の転学をあっせんするなどの責任を持つ。

現在、株式会社立の大学は6校ある。資格試験予備校が作ったLEC東京リーガルマインド大は昨年、大学と予備校の授業が混然一体になっているとして、改善勧告を受けた。文科省は今回、サイバー大以外の4校にも、教授会の規則がないなどの留意事項を指摘した。

大学には、質の高い教育・研究を行い、人材を養成する役割がある。しかし、株式会社立大学に対する文科省の数々の指摘を見ると、大学にふさわしい実態を伴っているとは言い難い。

規制緩和は、新しい大学の参入によって競争を促し、教育の質を高めるのが狙いだった。認可基準を緩める代わりに、認可後のチェックを厳しくした。

だが、株式会社立大学の現状から判断すると、しっかりした事前チェックは欠かせまい。多くの問題点を把握しているのに、それでも大学として認可することが妥当かどうか、再検討すべきだ。

株式会社立大学の場合は、自治体の責任も重い。いま一度、点検が必要だ。
 
讀賣新聞 2008年1月26日

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