教育再生会議報告 総花的で説得力はない
政府の教育再生会議が福田康夫首相に報告した第3次報告は、総花的で説得力のない内容となった。6月の第2次報告に続くものだが、安倍晋三前首相の意向で設置された諮問機関であることを考えれば、存在意義自体が既に薄れているとの印象を免れない。
報告は冒頭で「学力の向上に徹底的に取り組む」とうたい、全国学力調査や経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査の結果を徹底的に検証し、学力改善に取り組むとした。小中一貫教育の制度化、飛び級、小学校からの英語教育、戦後の学制である6・3・3・4制の見直しなども盛り込んでいる。
しかし、再生会議に対し冷淡に見える態度の福田首相がどこまで真剣に取り組むかは疑わしい。学制改革は学校教育法の改正を伴うものでもあり、首相が指導力を発揮しなければ実現はおぼつかない。
「学力」については、その在り方や実態の分析に文字通り徹底的に取り組んでもらいたい。文部科学相の諮問機関である中央教育審議会は先月、これまでの「ゆとり教育」から学力重視へ大きくかじを切る「審議のまとめ」を決定した。
ところが学力のとらえ方はあいまいだ。学力重視への転換の背景にはOECD調査での成績不振があるが、同調査は学んだ知識の実生活への応用力を評価するものであり、知識の詰め込みよりもゆとり教育に通じるところがある。そう考えれば報告にある学力とは何を指すのか判然としないのだ。義務教育段階での飛び級や小学校からの英語教育などの提言をみても、再生会議がどんな知的レベルを求めているのか、教育現場も子どもたちも戸惑うのではないか。
焦点の道徳について報告では「徳育」としての教科化を盛り込み、点数で評価はしないとした。これには再生会議の「生い立ち」が絡む。安倍前首相は道徳教育を取り入れた復古調の教育改革を目指し、再生会議を創設した。一方、学習指導要領の改定作業を進めている中教審の見解は異なる。道徳は成績評価の在り方など教科化には障害が多いとして、来年1月に行う答申では言及を見送る方針を固めながら、答申素案では再生会議に配慮して明確な方向性の提示を避けた経緯もある。
教科化は、国による特定の価値観を子どもに押し付けることになりかねない。中教審が教科化に異論を唱えるのは、教育へのそんな政治介入を疑問視したからであろうし、当然のことでもある。道徳への国の関与は、首相の交代で状況が変わる弊害も示すことにもなった。
道徳性は教え込まれて身に付くものではなく、家族や友達、周囲の大人たちと接する日常の中で培われる。報告には社会総がかりで徳育の充実に取り組むとあるが、上滑りの感が強い。子どもたちにとって深刻な問題であるはずのいじめ、不登校などについては一般的な記述にとどまり、熱意が感じられないのはどうしたことだろう。
再生会議の目的は省庁を横断して教育振興に取り組むことにあったはず。総花的な提言でなく、いっそのこと教育予算と教員確保に的を絞る手もあろう。
秋田魁新報 2007年12月27日
教育再生会議 誰に向けての提言なのか
政府の教育再生会議が第三次報告をまとめ、福田康夫首相に提出した。「六・三・三・四制」の弾力化や小学校からの英語教育の実施などを求める内容だ。
率直にいって「まだこんな会議があったのか」という印象である。安倍晋三前首相時代にはそれなりに存在感を示していたが、政権が代わってからはさっぱりである。福田首相自身、再生会議には無関心だ。
提言の中身も新鮮さに乏しい。学力向上策は焼き直しの感が否めず、「小中九年一貫校」は教育特区で実施済みだ。誰に対して何を求めているのかが伝わらない報告というしかない。
会議の報告がこんな体たらくになったのには理由がある。「美しい国」を掲げた安倍前首相という後ろ盾を失ったからである。時の首相が自分の価値観に基づいて教育に手を突っ込むこと自体、間違いである。
教育を論ずるには政権と間合いを取ることが必要だ。文部科学省の干渉をはね返す高い見識も求められる。再生会議はどちらの条件も満たしていない。中教審とのすみ分けも不明確だ。
委員の中から「中途半端な報告だ」と不満の声が上がっている。自分たちが論議した内容のはずなのに、なぜそんなことになるのか。事務局が首相官邸の顔色をうかがいながら「作文」した結果であろう。
これでは国民を納得させるようなものになるはずがない。学制の弾力化にしても思いつきの域を出ない。義務教育の根幹を変えるなら、科学的知見と実証に基づく論議が不可欠だ。
政府、与党内からは再生会議不要論さえ聞こえてくる。論議の方向性を自ら打ち出せないようでは、それも仕方あるまい。会議の存在意義を示すための提言なら時間と労力の無駄だ。
再生会議は「国民総掛かりの教育論議を起こす」として発足した。その掛け声はどこへ行ったのか。国際学力テストの結果にうろたえ、いじめ続発になすすべを知らない。
こうしたテーマに腰を据えて取り組むことこそ、再生会議に求められていたのではないか。教育は社会のありようを映す鏡ともいえる。
小手先の教育改革は現場に混乱を招くだけだ。対症療法ではない骨太の教育観を提示して国民に問うべきだ。
学力低下が事実とすれば、学ぶ意欲の劣化を疑わなければならない。授業時間数の増加や理科教員の増員も、子どもたちの学ぶ意欲を引き出せなければ効果は半減する。
文科省から軽視され、首相の熱意が薄れた今こそ出直す好機である。政治とは一線を画した本格的な教育論議を国民とともに巻き起こすべきだ。それができないなら解散するしかない。
新潟日報 2007年12月27日
集団自決記述 『強制』なしで伝わるか
「日本軍が強制した」との直接的な記述は認められなかった。検定前より入り組んだ表現になったため、理解しにくいものもある。高校生はこんな教科書から沖縄戦の集団自決をどう読み取るのか。
高校生が使う日本史教科書の検定で、沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述が削除されたことに教科書会社が訂正申請していた。一度取り下げて再申請した社もあり、申請承認まではすんなりとはいかなかった。
文部科学省の教科書検定審議会が認めたのは「日本軍による住民への教育・指導や訓練の影響などによって、『集団自決』に追い込まれた人もいた」「日本軍の関与のもと、配布された手榴弾(しゅりゅうだん)などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」といった記述だ。だが「日本軍は、住民に手榴弾をくばって集団自害と殺しあいを強制した」は認められず、取り下げを余儀なくされた。
「『強制集団死』とよぶことがある」などが認められたのは一定の前進と言えるが、大幅加筆や側注としての追加があり、解釈を読む側に委ねるような記述まである。
今回、検定審は「集団自決が起こった状況を作り出した要因にも様々なものがある。軍の関与はその主要なものととらえられる。一方、軍の命令で行われたことを示す根拠は確認できていない。住民の側から見れば、当時の様々な背景・要因によって自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる」などとの「とらえ方」を示した。
集団自決には複合的要因があり、「軍の命令」という証拠がないからストレートに「日本軍が強制した」と書くべきではない、ということだ。検定で削除まで行ったが、その後、沖縄県民からの猛反発で政治的問題にまで発展した。ここで見解を明示し、一定の制約を加えなくては検定自体の権威が保てなくなってしまうし、政治的圧力によって検定意見を変えることがあってはならない、からなのだろう。
だが、「様々な背景・要因」を持ち出して「歴史の真実」から目を背けていないか。「強制」という言葉を用いずに沖縄戦の悲劇の本質を伝えることはできるのか。軍が自決用の手榴弾を住民に配った事実があり、多くの沖縄住民が当時を証言している。強制はなかったとも解釈できる表現になっている記述があることこそ問題だ。
一連の問題を引き起こした今年春の検定は罪が重い。安倍政権だったから、ということはなかったのか。文科省は検定手続きの透明性を高めることに努力すべきだ。
中日新聞・東京新聞 2007年12月27日
教育再生報告/焦点が見えにくい提言だ
政府の教育再生会議が、小中一貫校の制度化など、「六・三・三・四制」の弾力化を柱とする第三次報告をまとめた。
義務教育九年間の一貫校拡大をうたうほか、学力があれば若年でも大学へ進める「飛び入学」の促進などを掲げる。一部に導入されているが、狙いは制度化による一層の普及である。固定した学制を緩めて子どもの発達に合った教育で学力向上を図ろうというものだ。
学制改革は過去にもしばしば論議の対象になっており、検討すべきテーマには違いない。ただ、再生報告の主役とすることがふさわしいのか疑問が残る。
このほか、理科教育強化のため小学校への専科教員配置▽徳育(道徳)の教科化▽大学進学者の学力レベル維持を目的とした「高卒学力テスト」導入の検討などを掲げた。さらに大学改革にも踏み込み、英語授業の推進や国立大学長の外部登用を促すために学長選挙の廃止なども盛り込んだ。
提言は教育全般にわたっている。しかし、いかにも焦点が見えにくい。
あえて報告の“背骨”を読み取るとすれば「学力向上」だろう。国際学力調査での低下傾向が背景にある。適切な対処は必要だが、報告では教育再生をもっぱら競争原理に委ねようという色合いが濃い。
「できる子をさらに伸ばす」ことには異論はない。しかし、学力に課題のある子をどうするのか。報告からは、それが見えてこない。いま、義務教育の底上げこそ緊急かつ最大の課題ではないか。
確かに、一次報告は「ゆとり教育」を見直して授業時間増を挙げ、二次報告でも土曜授業復活などを提言した。それは「量の拡大」であり、「質の改革」による底上げの方策が十分とはいえない。
再生会議は、教育を最重要課題とした安倍晋三前首相の主導で設けられた。前首相は、親が学校を選び、その多寡で学校への予算配分も決めるという究極の学校選択制度「バウチャー制」の導入を狙っていたとされる。教育を「市場原理」に任せることにほかならない。
もっとも安倍氏の退陣で競争色は後退した。今回の報告をみても、再生会議は主軸を失い、勢いに陰りがみられる。逆にいえば、再生会議自らが存在意義を示す機会でもあったが、実効性に欠けた総花的な内容では、本来の機関である国の中央教育審議会とは別に設ける意味がなくなる。
三次にわたる報告を終え、年度内にまとめの報告を出す。説得力のあるものにできなければ、存廃が問われよう。
神戸新聞 2007年12月27日
教育再生会議 報告内容を吟味したい
政府の教育再生会議が第三次報告を福田康夫首相に提出した。小中九年制一貫校の制度化や飛び級などの促進によって、一九四七年の学校教育法制定以来の学制である「六・三・三・四制」を弾力化するなどの提言を行った。
福田首相になって、再生会議に対する関心は極端に薄れた。もともと、教育再生を「戦後レジームからの脱却」の象徴としたかった安倍晋三前首相の肝いりで発足した。安倍氏の強い指導力があってこその再生会議である。熱気が冷めるのも仕方あるまい。
会議で福田首相が議論をリードすることはなかった。報告内容も総花的で目新しさに乏しい。小中九年制一貫校はすでに東京都品川区などが構造改革特区を利用するなどで特例的に行われている。効果の検証はまだ十分でなく、文科省は全国展開は特区の成果を見て検討する方針だ。
安倍氏が実現を目指し再生会議の目玉とされた「教育バウチャー(利用券)制」も地方の教育現場になじまないといった声が強く、国のモデル事業として実施することにとどめた。徳育の教科化は盛り込み、年間を通じて計画的に指導するとしたが、点数評価はしないと注記した。徳育を進めるにしても、手探り状態を脱していない。
再生会議は今後も議論を進め、来年一月下旬にも総括的な最終報告をまとめる方針だ。だが、首相の後押しがなければ報告の提言は実現が困難となろう。再生会議が強調する学校だけでなく家庭、地域、企業、行政など社会総掛かりの取り組みは大切だ。教育は国家百年の大計だけに教育再生に財源を確保し投資を行うべきだとの主張も当然だ。報告内容を吟味し、教育の再生に生かしたい。
山陽新聞 2007年12月27日
学習到達度調査 順位後退以外の問題が
「生徒の学習到達度調査結果」が発表され、日本は全分野で順位が後退した。文科省などからは子どもの学力低下を心配する声が上がったが、この順位、結果だけがわが国の教育制度の在り方を問う指標のように取り上げられることには疑問も多い。
調査は経済協力開発機構(OECD)が世界各国の15歳男女約40万人を対象に行ったPISAという学力テスト。日本では昨年6、7月にあり、いわゆる「ゆとり世代」の高校1年生約6000人が臨んだ。国語や数学といった教科ごとではなく、「数学的応用力」「科学的応用力」と「読解力」の3分野に問題は分かれている。
2000年から3年ごとに実施され、第1回調査で日本は読解力8位、数学的応用力1位、科学的応用力2位と、世界の“トップレベル”だった。その3年後、読解力と数学的応用力の2分野で順位を下げ、授業時間と教育内容を削減した「ゆとり教育」に対する見直し論争の一因になったともされる。そして今回、日本人が得意としていた「科学的応用力」も2位から6位となり、読解力15位、数学的応用力10位とすべての分野で順位を落とした。この結果を受け、文科省は「世界トップレベルから脱落した」とショックを受けたともいわれている。
確かに順位だけ見ると、毎回のように学力低下が進んでいるようだ。このテストが今や「世界学力テスト」的な感覚でとらえられ、国別の順位が明確に出るため、文科省としてもその結果は大いに気になるところ。ただ、1回目28カ国、2回目41カ国、3回目57カ国と参加国・地域が増え続けていることは、考慮する必要がある。今回、香港や台湾などのOECD非加盟国も上位に入っており、単純に日本のみが学力低下したとはいえないような気がする。
このテストの狙いは「国際的に通用する人材の育成という観点から見た自国の教育制度の水準を知る」ことであり、身につけた知識をいかに使いこなせるかを問うものだ。近年よく聞かれるリテラシー(活用能力)の部分に関するものが中心で、詰め込み型の丸暗記や繰り返しによる知識型学習では解きにくい内容。受験を勝ち抜くためのテストを中心とした日本の子どもたちが苦手としてきた部分ではないか。
現在、順位後退から重大な学力低下に陥っているかのような危機感が語られている。日本の教育における順位至上主義そのままの様相だ。一方、OECDはというと「科学の成績で日本はフィンランドなどと並び高い水準の成績を達成。教育機会の公平な配分を実現している」と評価。その上で「科学全般で素晴らしい知識基盤を備えているが、応用する場合は成績が下がる。単に科学的知識を再現するだけの学習なら、労働市場から消えつつある仕事向きの人材を育成しているリスクが強い」と警鐘を鳴らす。
順位以上に気になるのが科学に関する意識調査。日本の子どもたちの科学への関心の薄さが浮き彫りになった。「30歳時点で科学に関係する仕事に就いている」とするのは8%(加盟国平均25%)と最低で、自分の科学的能力に対する自信も最低。また文章の内容を読み取る「読解力」でも日本は加盟国平均を下回る。こうした事実は単に「ゆとり教育」を見直し、知識を詰め込むために授業時間を増やすといった小手先の改革だけでは解決できない課題を抱えているような気がしてならない。(平有治)
佐賀新聞 2007年12月27日
教科書問題 「軍強制」は明らか/検定意見は撤回すべきだ
沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)に関し、「日本軍による強制」の記述を修正・削除した高校歴史教科書検定意見問題で、教科用図書検定調査審議会(検定審)は、県民が求めた検定意見の撤回を認めなかった。
「集団自決」の現場にいながら命拾いをした多くの体験者らがこれまで「軍の強制」を証言してきた。その事実を検定審が一つ一つ丹念に検証した形跡はない。
そのことを抜きに「軍の直接的な命令」を示す根拠はないと断定することに、果たして正当性があるだろうか。
歴史的事実を追究する努力を尽くさず、体験者の証言を顧みることもなく「集団自決」の本質とも言える「軍の強制」を削除できるほど、歴史は軽いものなのか。
乱暴な論理
検定審は訂正申請した教科書出版社に対して「直接的な命令」「強制」の断定記述は「生徒が誤解するおそれがある」との指針を通知していた。
指針は検定審の考えを押し付けるものである。「集団自決」の実相と真摯(しんし)に向き合った教科書執筆者や教科書出版社に対する圧力以外の何ものでもない。
「それぞれの集団自決が、住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は、現時点では確認できていない」として、検定意見から一歩も踏み出さないとあっては、結論は分かり切っていたと言わざるを得ない。
専門家からの意見聴取にしても形式的なものだったと言えまいか。
検定意見が歴史に照らして正しいものであれば、それを堅持することは当然のことである。
しかし、今回の「集団自決」についての検定意見は妥当なものと言えるだろうか。
検定審の意見聴取に対して大城将保氏(沖縄県史編集委員)は「直接命令を下した指揮官名まで判明している事例も少なくない」と指摘している。
多くの沖縄戦研究者が検定意見を批判していることを、検定審はまず重く受け止めた上で、審議に臨むべきではなかったか。
意見聴取に対しては、日本軍の強制をめぐって多様な意見があった。検定審は結果的に「軍の強制はなかった」との意見を採用したとも言える。
だが、検定審がこれまでの沖縄戦研究の積み重ねを無視するに至った理由は、不透明と言わざるを得ない。検定審はその説明責任を尽くすべきである。
「軍命を示す根拠は確認できない」との理由だけで、納得する人がどれだけいるだろうか。
すべての「集団自決」で軍の強制を示す根拠はない。だからといって、軍の強制が明らかにあったケースがあるにもかかわらず「軍の強制」記述を一切認めないのはあまりにも乱暴な論理である。
史実後世へ
県内全41市町村議会で「検定意見の撤回」を求める意見書が可決され、県議会は二度にわたって決議した。検定意見の撤回などを求めた9月の県民大会には11万6千人(主催者発表)が集まるなど、検定意見の撤回は県民の総意と言っていい。
一連の大きなうねりが政府の訂正申請に応じる方針を引き出したと言える。
教科書出版社が「集団自決」の背景をより詳しくしたことには評価する声もある。一部の教科書は検定前に近い記述が認められた。
だが、日本軍の関与を薄めさせようとする検定審と教科書調査官の意図に変化はない。「集団自決」の重要なポイントである「軍の強制」の記述抜きには、正しい歴史を子どもたちに教えることはできないのではないか。
渡海紀三朗文科相は検定審の意見提出を受けて「歴史の教訓を決して風化させることのないようにと願う。沖縄県民の思いを重く受け止め、これからも子どもたちにしっかりと教えていかなければならない。沖縄戦の学習がより一層充実するよう努めたい」との大臣談話を出した。
大臣談話を実現するには「集団自決」に導いた「軍の強制」について、文科省や検定審は現地での聞き取りなど、幅広い調査を実施するべきである。
県民要求の一つは「記述の復活」である。今回の訂正申請承認を歓迎する声もあるが、中途半端な解決では後世に禍根を残すことにもなりかねない。
史実を後世に伝えるのは県民の責務であることを再確認したい。
琉球新報 2007年12月27日
教科書検定審報告(上) 史実をぼかす政治決着
「強制」認めず「関与」へ
高校日本史教科書の検定問題で教科用図書検定調査審議会は、教科書会社六社から訂正申請のあった沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する記述について、渡海紀三朗文科相に審議結果を報告した。
そこで県内のすべての高校生に質問したい。
以下の三つの文章は(1)が原文である。その後、文部科学省や審議会の意思が働いて(2)に書き改められ、多くの県民の強い抗議を受けて教科書会社が訂正申請をした結果、(3)の記述に変わった。さて、この三つの文章は、どこがどのように変わったのか。なぜ、このような変更をしなければならなかったのか。そのねらいは何か。
(1)「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」
(2)「日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」
(3)「日本軍によって壕を追い出されたり、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」
どうだろうか。
よくよく読み比べないと気付かないような変化なので、二度、三度とゆっくり読み直してほしい。
(1)は「日本軍」という主語と「集団自決に追い込まれた」という述語の関係が明確だ。だが、(2)は主語と述語が切れてしまい、両者の関係があいまいになっている。
(3)は原文とうり二つである。原文がほぼ復活したといえるが、主語と述語のつながりはやや弱くなった印象だ。
この一連の経過を通して見え隠れするのは「できれば日本軍という主語を消したい」「日本軍と集団自決の関係をあいまいにしたい」という背後の意思である。
検定審の結論は三点に要約される。
第一に、検定意見を撤回していない。第二に、「日本軍によって強制された」というような軍の強制を示す表現は採用していない。第三に、日本軍によって「追い込まれた」などの軍の関与を示す記述は認められた。
検定で消えた「強制」を「関与」という形で復活させ、この問題の決着を図ったわけだ。
沖縄戦の特徴とは何か
九月二十九日の県民大会で決議されたのは「検定意見の撤回」と「記述復活」の二点だった。
県民世論が検定審を動かし、ある程度の記述復活が実現したのは確かだ。
沖縄の取り組みは決して徒労に終わったわけではない。
しかし、教科書各社が「強制」の復活を目指し前後の表現を工夫しながら訂正申請したにもかかわらず、検定審は「このままの記述では訂正は認められない」と再度の書き換えを求めた。
なぜこれほど「強制」という言葉の使用を忌避するのか、不可解というほかない。
検定審は訂正申請を審議するに当たって県内外の専門家八人から意見を聴いた。その中で、ある専門家は、日本軍によって住民が追い詰められたことが沖縄戦の特徴であり、日本軍の存在が決定的な役割を果たしている、と述べている。
また、別の専門家は「『戦闘能力のないものは捕虜になる前に自決(玉砕)せよ』という方針は全軍的な作戦方針に基づくものであって、特定の部隊長がその場になって命令したか否かの次元の問題ではない」と指摘している。私たちもその通りだと思う。
隊長命令があったかどうかという問題と、日本軍によって強制されたという問題を混同してはならない。
検定制度改革が必要だ
沖縄からの異議申し立てに対し、「政治的な介入があってはならない」との声が上がった。だが、それを言うのであれば次の疑問にも答えてほしい。
二〇〇五年度までは軍の強制記述が認められてきた。なぜ、今回、学説の大きな変化がないにもかかわらず、検定意見がついたのか。係争中の裁判の一方の主張を検定意見の根拠にしたのはなぜなのか。
今回、あらわになったのは検定制度の密室性である。検定審の審議内容は非公開で、議事録も公表されていない。検定意見の詳細な内容は文書化されず、ほとんどが口頭説明だという。
検定審は突っ込んだ議論もせずに教科書調査官の検定意見原案を通してしまった。調査官が検定審とどういう関係にあるのかもベールに包まれたままだ。
検定制度は、透明性を確保するため抜本的に改革する必要がある。
沖縄タイムス 2007年12月27日
教育再生会議 役割は終わったのでは
政府の「教育再生会議」が第三次報告をまとめた。学力向上策としての理数教育充実、六・三・三・四制の学校制度の見直し、「道徳」の教科化などが柱だ。
子どもに学力や規範意識を身につけさせるという提言の狙いは、間違いではないだろう。問題はそのやり方だ。
再生会議が、今の教育のどこに問題があるのかをデータで明らかにし、対策を模索した形跡はない。政策の効果がどの程度なのかも判然としない。
提言の実現性や実効性があいまいでは、公教育の再生はおぼつかない。
学力向上が重要だと強調しながら、「できる子」への対策が並び、「そうでない子」への目配りが欠けている点でも不満が残る。
再生会議のメンバーには元スポーツ選手、エッセイスト、財界人など教育問題の素人が大半だ。
専門家でない人が、教育について独自の発想や意見を述べることが悪いわけではない。だが、その提言には実現性に疑問符がつく内容が散見される。
例えば、六・三・三・四制の見直しのためには、義務教育課程のカリキュラム編成のあり方や高等教育の内実に関する吟味が不可欠だ。
これを怠って、いきなり小中一貫校の制度化や「飛び級」の検討を促すという提言には無理がある。
「飛び級」は「できる子」には有利な制度だ。逆に「そうでない子」との格差を広げかねないことが心配だ。
再生会議は、学校選択制と予算配分を組み合わせた教育バウチャー制度のモデル事業化も提言した。
バウチャー制度は、保護者に利用券を渡して学校を選択させる。子どもが人気校に集中することが予想され、専門家や父母の間では学校間格差を助長するという批判や不安がある。
それを素通りして、素人の思いつきに近いアイデアが政策に反映されれば教育現場は混乱するだけだろう。
道徳の教科化もそうだ。特定の価値観を「教科」という形で子どもと学校に押しつければ、教育はゆがむのではないか。
再生会議は、安倍内閣が掲げた「戦後体制から脱却」を教育分野で後押しした。文部科学省と再生会議の間には教育の「二重構造」も生まれた。
しかし、政権が代わり、再生会議の提言の実現性も薄れている。
再生会議そのものの存在理由と役割に疑問符が付いているのではないか。
学校現場は子どもの学力低下やいじめ、教員の資質向上など多くの課題を抱えている。
教育改革は、子どもや父母、教師、地域住民など多くの国民の声に耳を傾けながら、国が責任を持って進めるべきものだ。文科省の責任は大きい。
このことを忘れれば、政府の教育改革は国民の共感を到底得られまい。
北海道新聞 2007年12月26日
審議会の慎重議論は当然
県立高校の入学式・卒業式で君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名収集を、県教委が県個人情報保護条例の「例外適用」を受けて続けられるかどうか−。その可否を審議する県個人情報保護審議会が開かれたが、結論は新年に持ち越された。
県教委が審議会に諮った経緯からしても、結論を出すのに慎重なのは当然だろう。通り一遍の議論で安易に判断してしまえば、個人情報保護の実効性を含めて条例の根幹を揺るがしかねない。
経過はこうだ。県個人情報保護審査会は十月、県教委が収集した氏名を「条例が原則取り扱いを禁じた思想信条に該当する情報」と認定、県教委に情報保管、利用をやめるよう答申した。
その際、審査会は収集がなお必要なら例外適用を受ける「正当な事務」に当たるかどうか、別テーブルの審議会の意見を聴くよう求めた。県教委は氏名収集を続ける意向で審議会に諮問した。
だが、審議会が不起立問題を審議するのは今回が初めてではない。氏名収集は二〇〇六年以降の計四回の入学式・卒業式で実施されたが、前年の〇五年は不起立者の人数調査が行われた。教職員からの中止申し立てを受け、県教委は調査の妥当性を審議会に諮問。審議会は同年九月、「特定の個人が識別される情報収集を行っていない」ことなどを根拠に、人数調査は「個人情報に当たらない」と教職員側の主張を退けた。
この折に審議会は「個人情報の調査をする場合、条例に違反しないよう十分な留意を」と付け加え県教委にくぎを刺した。
ところが県教委は審議会の付言にもかかわらず、氏名収集を始めた。その行為が審査会から「思想信条の情報」と指摘されると、今度は審議会に例外的に認めろという。そこには条例の目的や運用に対する誠実な姿勢が見えない。
「起立は社会的マナー」といった県教委の主張で例外規定を拡大解釈していけば、条例は形ばかりのものになる。条例の実効性をあいまいにする原因者が県教委という県の機関であることも問題だ。自ら決めたルールを守る姿勢に乏しいことは、地方分権の土台そのものをも崩しかねない。
県個人情報保護条例の目的は「基本的人権の擁護」にある。県教委が「例外扱い」を主張したところで、審査会が氏名収集は思想信条を侵害する行為とみなした結論が変わるものではない。
式典が混乱するわけでもないのに、教職員の不起立をことさら問題にし、さらに人権侵害行為まで正統化することは、教育の場になじまないだろう。氏名収集という威圧感によって精神的苦痛を与えるようなやり方に、「教職員いじめ」と感じる生徒も少なくなかろう。教育効果とはどういうものか、この際よくよく考えたい。
神奈川新聞 2007年12月26日
教育再生会議 底の浅い提言が また
小中一貫校の制度化、飛び級の検討、英語教育の充実−。政府の教育再生会議は、またも大量の“提言”を盛り込んだ第三次報告をまとめた。
学力低下や格差の拡大といった問題をなんとか改善したい、という熱意は分かる。だが、幼児教育から大学・大学院の改革、親のあり方まで、多様な論点を盛り込んだため、焦点が定まらない。一つひとつを丁寧に論議した上での提案なのか、大いに疑問だ。
第三次報告の目玉の一つが、学制の見直しである。「6・3・3・4制」を弾力化するよう求めている。一部で特例的に行われている小中の一貫教育について、一般にも取り組めるよう制度化を提言した。
私学を中心に中高一貫校が広がる中で、なぜ義務教育の「6・3制」を変える必要があるのか。報告では「子どもの発達に合った教育のため」としか触れていない。
論議の中では、弾力的なカリキュラムを組み、早熟傾向な子どもの発達に合わせた教育ができることや、不登校が増える中一ギャップの解消になるといった意見が出ていた。しかし、いまの10代前半の子どもたちを取り巻く問題を、学制変更で解消できるのか。先行事例などの丁寧な検証がないままに、改革の柱に掲げている面は否めない。
ほかにも実効性を疑いたくなる提言がある。学校の質の向上策として、教員の2割以上を社会人から採用することを掲げた。スポーツ振興のための「スポーツ庁」設置も検討課題になった。
大学改革では外部からの登用を促すため、国立大の「学長選挙の廃止」をうたう。国際競争力の向上を狙い、授業の30%を英語で行うことも盛り込んだ。
教育の改革にはスピードもインパクトの強い政策も必要だろう。だが、各委員の意見を並べたような提言では、説得力は乏しい。
経済協力開発機構(OECD)の調査が示す読解力や学ぶ意欲の低下といった難題を解決するには、互いを尊重しながら、自分で考える子どもを育てる教育を目指すべきではないのか。小手先の改革は教員や子どものストレスを増す。
会議の生みの親である安倍晋三前首相のカラーものぞく。安倍氏がこだわった「教育バウチャー制」は、学校選択制を通じて児童が多く集まった学校に予算を増やすモデル事業に盛り込まれた。道徳に代わる「徳育」の教科化、「親の学び」の支援など、論議が分かれる提言もあらためて登場した。
来年1月には最終報告を出す予定だ。あれもこれもと並べるならば、提言を繰り返す必要はない。
信濃毎日新聞 2007年12月26日
教育三次報告 できる子ばかりでない
三次報告も「競争」や「国際化」という文言が目立つ。公教育の目的はできる子を伸ばすことだけではないはずだ。設置した安倍晋三氏が首相の座を去ったいま、再生会議も存続に疑問符が付く。
三次報告の目玉は「六・三・三・四制の弾力化」の提言だ。学力向上のために「小中一貫教育を推進し、制度化を検討」「年齢主義を見直し、飛び級を検討」「大学への飛び入学を促進」と述べる。横並び主義を排除し、できる子は伸ばしたいとの意図がみえる。
論点の一つだった「バウチャー制」はモデル事業の実施を提案することにとどまった。バウチャーは、子供が自由に学校を選択し、自治体が児童・生徒数に応じて学校に予算を配分する方式で、市場原理を導入することになる。学校間格差を助長する懸念から反対意見は多く、一律導入提案の見送りは当然だろう。
大学・大学院の改革も重視する。「国際競争を勝つため」に「質の高い学生のみを入学させ」「英語授業の大幅増加を目指す」とする。英語教育は「小中一貫の全学年で教科として実施」と必要性を訴える。
飛び級やバウチャー制、英語の授業時間増などの提言は教育改革の一手段ではあろう。できる子は伸ばしてあげたいし、頑張っている学校や先生は応援したい。だが、教育再生会議の報告には「公教育再生」に大事な視点が欠けてはいないか。
たとえば、障害のある子供がかかわる特別支援教育への言及が一つもない。改革の必要性がないということなのか。少子化が進む一方で知的障害のある子供が急増しているという問題が生じている。一つの教室に仕切りを設けて二教室にし、急場をしのいでいる学校もある。
三次報告は「自立と共生は重要な方向性」とし「教育の全体的底上げを図り、質を高めていくことが大切」と強調する。そのためには、できる子ばかりでなく、学力がついていない子や特別支援を受けている子の教育も議論し、提言を行うべきではないか。いずれも公教育の分野であり、ここを素通りしては全体的底上げなど難しい。
再生会議は安倍前首相の肝いりで設けられた。「徳育」の教科化に中央教育審議会では慎重論が大勢を占める一方で、再生会議はなおもこだわりをみせるなど、三次報告には安倍カラーがにじんでいる。
教育が重点課題であることは言うまでもないが、政策理念となると、現首相は前首相のそれとは異なるのではないか。そうであれば安倍理念を反映する教育再生会議は存在する意味が失われているだろう。
中日新聞・東京新聞 2007年12月26日
教育再生3次報告 現場からの論議ほしい
安倍晋三前首相の意気込みを受け継いでいるのだろうか。きのうの総会で決まった教育再生会議の第三次報告には、競争力強化と伝統回帰が色濃くにじむ。まるで、構造改革の継続と戦後レジーム(体制)からの脱却という政治姿勢を引き写したかのようだ。
学校の教育活動を外部から第三者評価したり、学校選択制をモデル事業として実施したりする提言は、現状を「画一的」と批判的にみる立場からは歓迎されよう。「六・三・三・四」制の弾力化で「飛び級」や「飛び入学」が導入されると、各家庭で英才教育がますます激しくなりそうだ。
学力向上のためには競争が必要という理屈はそれなりに分かる。だが、競争を通じた成長という経済の論理が教育にそのまま通じるわけではあるまい。学力の全体水準を引き上げるには、教師や児童・生徒がそれぞれの集団で協力し合うことも必要ではないか。
競争力の強化は当然、効率重視につながる。組織でいえば、強いリーダーシップが求められよう。
報告は教育現場の荒廃への対策と相まって、学校の責任体制の確立を要請。校長の在職期間の長期化や予算、人事面での裁量拡大を促す。教職員組合主導になりがちな職員会議への対抗意識が見え隠れする。国立大での学長選挙の廃止も、教官らの反発が必至だ。
「上からの管理」という基調が目立つだけに、六月の第二次報告に続いて盛り込んだ「徳育の教科化」にも、疑問が残る。「すべての子どもたちに高い規範意識を身につけさせる」との前首相の熱意にこだわりすぎてはいないか。
人間としての道徳を教えることはもちろん大切だが、民主主義や平和の追求、人権の尊重といった戦後社会の理念を否定するのなら、幅広い支持は得られまい。
一方で、評価できる個別の提言は多い。理科や体育の専門教師を増やしたり、教師の社会人採用比率を高めたりするのは現場の実態に即した改善案だろう。過疎化対策として学校を統廃合する市町村への支援などは、極力急ぎたい。
ただ、こうした具体策を吟味していくと、再生会議そのものの存在意義があらためて問われる。政策論議なら、既存の関係機関で十分できたのではないか。来年一月には最終報告を提出するという。組織自体も見直してはどうか。個性的な顔ぶれの意見も結構だが、教師や保護者らを含めた現場から教育再生の論議を深めたい。
中国新聞 2007年12月26日
第3次報告 「再生」遠い論議の浅さ
十分な論議を重ねた上での提言なのか。政府の教育再生会議の第三次報告には、過去二回と同じような疑問がつきまとう。
報告は学力向上策を柱に据え、小中一貫教育の制度化や飛び級の検討など「六・三・三・四制」の弾力化をはじめ、さまざまな具体策を盛り込んでいる。
背景には繰り返し指摘される学力低下への危機感があるのだろう。ただし、具体的な方策を論じるためには現状の慎重な分析などが欠かせない。さもないと、論議は深まらず、説得力のある結論は得られまい。
最近の重要なデータとしては全国学力テストや経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)がある。結果の詳細な分析はまだこれからの段階だ。
論議の底の浅さは報告の内容からうかがえる。例えば、目玉といえる学制の弾力化では目的について「子供の発達に合った教育のため」とあるだけだ。教育現場に大きな影響を及ぼすテーマにもかかわらず、十分な検証を行ったとは思えない。
いま学力とのかかわりで大きな問題となっているのは、学習意欲の低下と低学力層の拡大だろう。PISAでも、日本の子どもたちには学ぶことへの動機付けが乏しいことが浮き彫りになった。
学校教育だけで解決できる問題ではないが、教育現場では少人数学級などによるきめ細かな対応が不可欠だろう。当然、教育予算の充実が必要だが、報告は付け足し程度にしか触れていない。
このほか、徳育(道徳教育)の教科化を「点数評価はしない」とした上であらためて提言している。中央教育審議会は根強い慎重論を踏まえて教科化を見送ったが、再生会議のこだわりは強いようだ。
再生会議は来年一月にも総括的な最終報告をまとめる予定だが、これまで三回の報告に共通しているのは具体策を次々に打ち出すことを主眼に置いていた点だろう。
そこには再生会議の生い立ちが深くかかわっている。安倍政権は「教育再生」を政権浮揚や参院選に向けた政治的アピールの材料に使おうとした。再生会議の存在感が安倍首相の退陣とともに急速に薄れたのも、そのためといってよい。
教育行政の役割は子どもたち、そして教員を支援することにある。それを脇に置いた教育改革論議がどうなるかを、再生会議の一年余の軌跡が物語っていよう。
高知新聞 2007年12月26日
心病む教員 負担の軽減を訴えている
県内の小中学校・高校、特別支援学校で二〇〇六年度、精神疾患を理由に一カ月以上連続して休んだ教職員が〇二年度の一・七倍に増えた。
特に小学校では百四人と四年で倍増した。数字を重く受け止めたい。心を病む先生が急増している背景には、学校現場や教員の日常から余裕がなくなっていると考えるからだ。
精神疾患による長期休職者が増えている理由について県教育委員会は「子どもや保護者、地域が学校に求める要望が多様化、複雑化し、ストレスを抱える教員が多くなった」と説明する。
〇二年といえば、ゆとりを掲げた新学習指導要領が小中学校で実施され、学校や教師の創意工夫が鍵となる総合学習が本格スタートした年である。
ところが、ゆとり教育は学力低下を招くとの批判を受け、〇五年二月の中央教育審議会で事実上、学力重視路線に転換した。文部科学省の一貫性のなさが、現場を振り回してきたというのが近年の教育の実態である。
〇一年度からは県内の小学校に少人数学級が導入され、小学一、二年は一学級三十二人以下になった。国語と算数、中学の英語、数学では少人数授業も始まった。
少人数学級、授業では子ども一人一人に目が行き届き、きめ細かな指導ができる。教育関係者は「成果は着実に上がっている」とする。
一方で、少人数指導は教師に負担を強いる。とりわけ本県は、小学校での少人数学級導入に際して財政支出を伴わないよう、学級を受け持たない教員を減らしてやり繰りしている状態だ。
当然、教員一人が受け持つ授業時間数が増える。授業準備や研修、校務などがなくなる訳ではない。学校内だけでは仕事を処理しきれなくなっているのが実情ではないか。過重な用務が教師の余裕を奪っているとみるべきだ。
文科省が今春実施した全国学力テストで好成績を収め、注目された秋田県も、〇一年度から少人数学級を導入している。本県と違うのは、県が単独で予算付けし、教員を増やしたことだ。授業の改善や教材開発に取り組む時間を十分確保できる体制が、テスト結果に反映したといえる。
来年度の政府予算案には、公立小中学校教員の約千二百人の増員と七千人の非常勤講師配置が盛り込まれた。これが本県の教員配置にどう影響するのかはまだ見えてこない。
いじめ問題への対応や子どもを狙った犯罪対策などにも追われ、教員の神経は休まる暇がない。
多忙解消策について県教委は、行事の精選や事務処理の効率化などを挙げる。しかし、現場の努力には限界がある。県独自で教員増に取り組む時だ。
新潟日報 2007年12月25日
最大なる課題は子どものやる気
先ごろ、OECDから06年度の国際学力調査結果が発表された。そして、わが国は前回よりも順位を落としている。学力低下に歯止めがかかっていない状態がここでも示された格好である。どう対応していけばよいか掘り下げてみたい。
■なぜOECDが実施
OECDは「経済協力開発機構」の略。加盟国の経済的発展、発展途上国への援助、貿易の拡大などを目的とする国際協力機関である。一見、教育と無関係に見えるOECDがなぜ学力調査をしているのか。それは、青少年の学力がその国の経済発展や国力に将来的に影響を与えることが大きい―としているからである。ことに経済的にライバル関係にある国より下位にある場合胸を張れるものではない。
オリンピックなど国際大会におけるスポーツでの活躍は国民を歓喜させ元気づける。大リーグでのイチローや松坂の例を出すまでもない。これと似ている。
青少年の学力が国際比較で低下し続けては、わが国の将来を憂えるのが人情だろうし国威の発揚とはならない。つまり、青少年の非行同様、未来に影を落としていると言っても過言ではない。そして、そのことは個々人の将来像にも当てはまることである。
この国際調査は義務教育終了段階の15歳つまり高校1年生を対象に行われている。従って、中学校卒業時の学力調査ということができる。この子どもたちにどう学力をつけさせるか。
■子どもたちの二極分化
わが国の子どもたちの学力は二極分化しているとのことである。つまり、できる子とできない子の階層に大別される。二瘤(こぶ)ラクダを連想すればよい。中間層が少なく、数学でいう正規分布曲線を描いていない。こういう実態の中ではトータル(平均値)としてみる学力調査はどうしてもじり貧にならざるを得ない。
底上げをしなければ学力の向上はおぼつかないと言ってもいいだろう。前述のラクダの瘤で言えば、後方の瘤を谷間に移動させるということだ。そのためには現在の能力に応じた、換言すれば習熟度に応じた授業態勢が必要ではないか。
1クラスの中には、個々人が現在までの生活の中で獲得した知識や技能、思考力や興味関心、覇気など多数の能力が粒子のように目に見えぬ形で飛び交っている。それを整理し効率よく合理的に授業を行い指導を施すことで、個々人の能力を高めたい。
ところが、そのことに異議を唱える父母が多いとのことである。差別とか面子(めんつ)が立たないからだとのことのようだ。「落ちこぼれ」「煮こぼし」の語が教育界にはある。「落ちこぼれ」は後ろの瘤の子で、「煮こぼし」は前の瘤の子である。どちらも能力に応じた教育が受けられず閉塞感の中で学校生活を送っていると容易に考えられる。公教育の隘路でもある。父母の教育への考え方、捉え方の転換が求められる。
■やる気なくしては叶わない
社会発展的に考えれば途上国の子どもの学ぶ意欲というものは、先進国の子どもに比して高いと言われている。このことはわが国の辿(たど)ってきた情況を考えれば頷けよう。以前と違い、「青雲の志」という気高い志操を若者に求めにくくなっている。
今回の調査でもそのことが表れている。
例えば、職業選択で、科学関連の職業を挙げた生徒は8%。OECD加盟国では4人に1人であった。
現行学習指導要領の骨格は「自ら考え自ら学ぶ」であるが、依然として児童生徒のやる気は薄い。このやる気なくして学力の向上は叶わない。応用力や活用力、読解力など授業方法の見直しの中でやる気を醸成していかなければならない。加えて、家庭での親子の語らいに活路を開きたい。やはり、未来を語り合うことなくして希望は生まれない。
八重山毎日新聞 2007年12月22日
OECD学力調査 学ぶ楽しさを教えたい
経済協力開発機構(OECD)が昨年、57カ国・地域の15歳約40万人を対象に実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)で、日本の高校1年生は科学的応用力、数学的応用力、読解力の3分野でいずれも国際的ランクを低下させた。
同調査は今回が3回目。日本は2003年度の前回調査で数学的応用力が1位から6位に下がるなど世界のトップレベルから脱落。「PISAショック」と呼ばれ、競争効果を狙って今年約40年ぶりに実施された小中学校の全国学力テストの復活など、文部科学省が「ゆとり教育」を実質転換するきっかけの一つとなった。
今回は前回に比べ、科学的応用力は2位から6位へ、数学的応用力は6位から10位へ、読解力は14位から16位へとさらに低下した。
科学的応用力、数学的応用力については得点も低下している。参加国・地域が41から57に増えたことを考慮しても、日本の学力の低下傾向は明らかと言える。
関心度は最低レベル
テスト結果もさることながら日本の高校生で心配なのは科学や理科に対する関心の低さだ。
生徒に対する質問調査で、「科学について学ぶことに興味がある」という質問に「そう思う」と答えたのは50%、「理科の勉強は自分に役立つ」と答えた生徒は42%で、OECD加盟国平均を大きく下回り、参加国中最低レベル。
科学関係の職業に就きたいと考える生徒はOECD加盟国平均の25%に対してわずか8%にすぎなかった。
初参加の台湾が数学的応用力、韓国が読解力でそれぞれトップに立ち、香港もトップクラスを維持する中で、日本のレベル低下は際立つ。
2000年の調査開始以来、全分野でトップクラスを維持するフィンランドは大学院で高度な研修を受けた教員による少人数教育で知られる。韓国や台湾など東アジアの国は生徒間の競争が激しく、塾や自宅などでの勉強時間が非常に長いのが特徴だが、学力アップの根底にあるのは、将来を見据えた科学や数学への興味だ。
日本の場合は関心や意欲の低さが順位低下をもたらした最大の理由だろう。
興味引くきっかけを
理科離れが顕著になったのは現行の学習指導要領で授業時間が減ったため、実験や観察の時間が少なくなったのが原因−という声は根強い。
小学校で理科を教えた県内の教員OBは「実験や観察は準備段階から時間がかかる。45分の授業時間内で実施するのは難しく、なかなかできない」と指摘する。
「PISAショック」を受けて、学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会は、小、中学校で国語や算数、数学、理科などの主要教科の授業時間数を全体で1割程度増やす素案をまとめた。
同時に、児童生徒の科学的興味を呼び起こすには授業の中身をどうしたらいいのか、具体的な方法論を示してもらいたい。
県内をはじめ青森、秋田両県からも年間に約11万人が訪れる盛岡市子ども科学館の千葉茂館長は「子どもは元来、自然や科学が好き。土日のサイエンスショーなど、表情は生き生きとしている」と語る。
和算のクイズが人気を集める一関市博物館など、県内にも親子で楽しめる施設は多い。子どもの科学的な興味をどう引き出すか。親の出番でもある。
小笠原裕(2007.12.13)
岩手日報 2007年12月13日
高校は予備校ではない
またもや「テスト」だ。
政府の教育再生会議が大学入試制度改革の検討項目に進学志願者への「高卒学力テスト」を挙げている。
テストに合格しないと大学を受験できなくなる仕組みを導入することで入学生の学力低下に一定の歯止めをかける狙いだが、高校の「予備校」化に拍車をかけないか心配だ。昨年、多くの高校で受験に関係のない必修科目を履修させていなかった問題の教訓を生かせないことになる。
高校で培われるのは学力ばかりではない。集団活動の中で社会性を養い、豊かな人間性を育てる大切な場所だ。そんな高校の役割を高卒学力テストによって矮小(わいしょう)化させてはならない。
教育再生会議の分科会の素案では、高卒学力テストを国公私立を問わず大学進学の志願者全員に受験させるという。必要な教科・科目のすべてに合格しなければ大学進学資格は認められない。
背景には「大学全入時代」をにらみ、入学者の学力を担保しないと大学制度が信頼を失うという危機感がある。
入試改革の一環で、面接や小論文で選ぶアドミッション・オフィス(AO)入試や推薦入試が拡大したのに伴い、「大学入学時に必要な学力が備わっていない学生が増加している」と素案は指摘。学力担保策の必要性を強調している。
しかし、高卒学力テストで志願者をふるいにかけることは、知識偏重でない選抜という理念からは違和感がある。これらの入試でハードルを下げ、学生を集める大学ではテスト導入に反発もあろう。
高卒学力テストと既存のテストとの関係も整理する必要がある。
大学入試センター試験、二次試験と続けば、受験生の負担はさらに重くなる。分科会ではセンター試験を資格試験にすべきとする意見もあった。八割以上の私大がセンター試験を利用している現状をみれば、より現実的かもしれない。
高等学校卒業程度認定試験(旧大検)との兼ね合いや難易度の設定も問題だ。
認定試験を高卒学力テストに一本化する案が浮上しているが、テストの難度が上がれば高校中退者らの再チャレンジを助けてきた「バイパス」機能は低下し、易し過ぎれば「ふるい」にならない。
高校進学率は98%に達し、多様な生徒が入学するようになった。学習内容を減らした「ゆとり教育」で育った生徒を受け入れ、卒業時には大学入試センター試験にも対応できる学力を要求される。
高校が教育制度の「矛盾の交差点」とも言われるゆえんだ。
厳格な単位認定や教育カリキュラムの工夫など、卒業時の学力を保障するための不断の努力が高校には求められる。
しかし、大学入試制度改革は本来、小学校から大学まで体系化した教育システムを前提に議論されるべきだ。現行のまま、高卒学力テストを導入しては、高校にさらなる矛盾を押しつけるだけだ。
京都新聞 2007年12月12日
考える力、学ぶ意欲が大切/国際学力調査
日本の高校一年生の学力が、国際的にみて順位を下げているという。文章の内容を読み取ったり、答えを導き出す過程が問われる「読解力」は特に振るわない。
基礎学力を底上げし、「考える力」「応用力」を伸ばし、「学ぶ意欲」を育てなければならない。
文科省は来年の学習指導要領改定に向けて、授業時数の増加を打ち出している。「ゆとり教育」からの実質的な転換だ。
授業の量的な拡大よりも大切なのは、質の向上だ。教員の技量向上のほか、一人一人に目が行き届くような少人数学級の実現や、児童・生徒がじっくり考えることができる時間をつくる必要がある。
授業の質を高める“特効薬”はない。自治体や教育現場の地道な努力に頼るしかないのが実情だろう。国は、その努力をバックアップする施策を講じる責任を負っている。
経済協力開発機構(OECD)が昨年、五十七カ国・地域の十五歳約四十万人を対象に「生徒の学習到達度調査」(PISA)を実施した。日本からは約六千人が参加した。
PISAは、知識や技能を実生活でどれだけ活用できるかをみる設問が中心となっている。OECD加盟国平均が五百点になるように採点される。
公表された結果によると、日本の高校生の「科学的応用力」は五百三十一点で前回の二〇〇三年調査より十七点減り、順位は二位から六位に下がった。「数学的応用力」は十一点減って五百二十三点、六位から十位になった。
「読解力」は加盟国平均レベルの四百九十八点で、前回と同じだった。順位は十四位から十五位に後退した。
二〇〇〇年の一回目のときは日本の数学的応用力は一位、科学的応用力は二位と、この二分野では「世界トップクラス」だった。
しかし、読解力は八位だったうえ、自ら勉強する時間や読書をする子どもの割合は最低レベルだった。専門家は、転落の兆候は当時から既にあったと指摘している。
順位の後退以上に気がかりなことがある。一つは、記述や論述の問題で白紙回答が他国と比較して多いことだ。
もう一つは、科学が役に立つと考えたり、科学に関心を持ったりする生徒の割合がOECD加盟国平均を大きく下回ったことだ。科学を楽しいと思ったりテレビや本など生活の中で科学に触れる生徒の割合は、参加国中最低レベルだったという。
さらに、科学関係の職業に就きたいと考える生徒の割合は加盟国平均が25%なのに、日本はわずか8%という。日本の高校生は、学ぶことについて意欲的でないとみえる。
「知識を活用する力」を身につけさせるためには、授業にきちんと向き合え、学ぶことが大切だと理解できる生徒を育てることから始めなければならないようだ。
PISAの順位に一喜一憂するより、日本の短所と分かった読解力不足について原因を探り改善へ向けて知恵を絞っていく必要がある。
東奥日報 2007年12月11日
真に必要な学力とは何か OECD調査
15歳を対象にした国際学力調査で、日本の子どもたちの学力が依然、低下傾向にあることが明らかになった。
経済協力開発機構(OECD)が2006年に実施した学習到達度調査(PISA)のことである。日本は無作為に選ばれた高校1年生約6000人が参加した。参加57カ国・地域の中で、科学的応用力が6位、数学的応用力が10位、読解力は15位だった。3分野すべてで03年の前回調査より順位を下げ、学力低下に歯止めがかかっていないのだ。
「PISAショック」という言葉が生まれた前回調査で、文部科学省は「わが国の学力は世界トップレベルとは言えない」との認識を示した。それより悪いとなれば、ゆゆしき事態には違いない。
そもそも、PISAとは何か。
調査に日本からかかわった国立教育政策研究所によると、「学校で得た知識や技能を、社会生活でどれだけ活用できるか」を調べるテストだという。習った知識や技能の習熟度を測るのではなく、習ったことを論理的に実際に使えるかを問う。2000年から3年置きに実施されているが、数学、理科、国語といった教科別でないのはそのためだ。
例えば今回、二酸化炭素排出量と地球の平均気温の経年変化を示す2つの折れ線グラフを読み解かせる問題があった。解答は、もちろん記述式である。こんな考えさせて書かせる問いが並ぶ。
PISAが求める「知識・技能を活用する力」は、現在の学習指導要領が掲げる「自ら学び、考える『生きる力』」と同じだ。文科省はこう言って、改定作業中の次期指導要領でも「生きる力」の育成方針を維持するという。
ならば、ここで深刻に反省すべきではないか。今回、受験した高校1年生は小学6年から現行指導要領下で学んできた。それでも生きる力は、期待するほど身に付いていないということだろう。
読み書き計算など基礎学力は無論、大事である。だが大体、日本の教育は知識偏重だった。出題も知識の量を問い、子どもは1つの答えを見つける。ところがPISAは正解が1つではないのだ。文科省から学校現場まで、日本の教育界は頭では生きる力の必要性を理解しながらも、実際にはその重要性がいまだ十分浸透していないのではないか。
今回のOECD調査を、あらためて「子どもに本当に必要な学力とは何か」を認識する契機にしなければならない。
調査では(1)記述式で無解答が多い(2)全般に学力の低い層の割合が多く、学力の二極化は依然解消していない‐ことも分かった。その根本には、相変わらず学習への関心・意欲が低い実態がある。
文科省は次期指導要領で授業時間増を目指すが、子どもに意欲を持たせるためにも授業改善が欠かせない。授業の質を上げるには教員を増やすことも必要だ。文科省の意気込みも問われる。
西日本新聞 2007年12月8日
OECD学力調査 学ぶ意欲の喚起が先決
日本の高校1年生は国際的にみて学力低下傾向にあることが分かった。57カ国・地域の15歳約40万人を対象に経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した学習到達度調査(PISA)の結果である。
具体的にはこうだ。3年前の前回と比べ科学的応用力が2位から6位、数学的応用力が6位から10位、読解力は14位から15位へと後退したのである。
この事実は重く受け止めなければならないが、順位だけに殊更こだわるのはどうか。大切なのは、調査で明らかになった問題点を詳細に分析、今後の教育に反映させる姿勢であろう。
気になるのは、日本が記述や論述の問題で白紙回答が他国と比較して多かったことである。丸暗記や反復学習による知識の詰め込みでは通用しないことに、あらためて思いがよぎる。
そもそもPISAが問うている学力とは、単に知識があるかどうかではない。義務教育で学んだ知識を実社会で活用する能力を評価するものだ。つまり社会に出た時、知識や技能を使って諸問題を解決する能力がどの程度あるかを探るものである。
日本の子供たちは基礎知識を活用する力が不足していることは以前から指摘され、だからこそ「ゆとり教育」を前面に出した現行の学習指導要領で「生きる力」を掲げた。「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する」との概念であり、PISA型学力に通じるものだ。
白紙回答が多かったということは、つまりは「生きる力」が十分にはぐくまれていなかったことの証左ともいえる。文部科学省は厳しく受け止めなければならない。
それ以上に気になるのは、科学への無関心や学習意欲の低下が深刻さを増してきた実態が明らかになったことである。
「科学についての知識を得るのは楽しい」という割合は最低レベルだ。科学関係の職業に就きたいと考える生徒に至っては8%にすぎず、25%という平均を大きく下回ったのである。
関心や意欲が希薄であれば、いくら大人が教育を叫んでも子供は真剣に向き合わない。その意味で問題の根は極めて深い。
まず、子供が興味を持つような実験や観察を授業に取り入れる方策から考えてほしい。学校現場からは「忙しい」「余裕がない」との声が聞かれるが、教師にはこれまで以上の工夫と高い指導力が求められる。同時に教師増員の本格検討も必要だ。
学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会は先月、「審議のまとめ」を決定した。「生きる力」の理念は重要としながらも、小中学校の授業時数を30年ぶりに増やすなど「ゆとり教育」からの転換を図る内容だ。
文科省はその方向で改定作業を進めているが、学力低下の原因が「ゆとり教育」にあるのか検証は不十分なままだ。
要は、学習への動機付けを促し活用する力を伸ばすような教育の「質」をどう高めるかだ。それが最重要課題であることは今回の調査結果からも読み取れる。少なくとも「量」を増やせばいいという問題ではない。
秋田魁新報 2007年12月7日
OECD学力調査 「考える力」つけなければ
知識偏重の教育はもう通用しないことが、あらためて浮き彫りになった。
学んだ知識の実生活への応用力を評価する経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で、日本はまた順位を下げた。
参加五十七カ国・地域の中で、日本の高校一年生の科学的応用力は前回二〇〇三年調査の二位から六位、数学的応用力は六位から十位、読解力は十四位から十五位に後退した。学力の低下は否めない。
今春に小中学生を対象に行った全国学力テストでも応用力不足の結果が出ている。思考力や表現力などを重視する教育への転換を求めたい。
文部科学省は、現在の学習指導要領でも「生きる力」の育成を掲げ、子どもの興味や関心を生かした指導を重視しているとする。これはPISAで求められている「自ら学び、考える力」にも通じるとして、次期学習指導要領でも中心理念に位置付けている。
それなら、なぜ思うような成果が出ないのか。原因を徹底的に分析する必要がある。
いま教育現場で行われているのは生きる力を育成するため、ゆとり教育で導入された総合学習の時間を減らし、放課後の補習などによる知識技能習得に重心を移すなど、理念とは違った中身になっている。
ゆとり教育の検証が十分になされないまま、学力低下の結果だけをとらえて対応策を考えても、真の問題解決にはつながらない。
調査では科学への関心などについても聞いているが、学ぶ楽しさを感じ、日々の生活で科学に触れている生徒の割合は参加国中で最低レベルだった。科学技術立国をうたう日本の将来が心配になってくる。
生徒に対する意識調査から見えてくるのは、授業の双方向性が少ないという点だ。
実験や討論を通じ、教師と生徒、生徒同士のコミュニケーションが密な国・地域の得点がおおむね高い。知識注入型の授業は応用力を伸ばしにくいことが示されたと言える。
記述式の問題で白紙の回答が他国と比較して多いことも分かった。答えを導き出した過程を自らの言葉で説明できない子どもが多い現状を教師は真摯(しんし)に受け止めてほしい。
打開策として、文科省が来年の学習指導要領改定に向けて打ち出したのは、ゆとり教育を見直し、授業時数の増加だ。その方向が正しいのかどうか。授業の質の観点を含めた慎重な検討が必要である。
注目されるのは、日本より授業時数の少ないフィンランドが前回に続き最高位を維持したことだ。授業時数が学力向上に直結しないのは明白だ。フィンランドの教育は教員養成や指導方法、教科書の内容など「授業の質」を重視している。
日本でも自治体や教育現場が教員の技量向上、子どもがじっくりと考えられる時間の確保、生徒一人一人に目が届く教員配置などに地道な努力を重ねるしかない。国もそれを後押しする施策を講じる責任がある。
調査結果発表に伴い来日したOECDのグリア事務総長は、科学への関心を高めるには日々の生活の中での習慣付けが大事で、学校だけでなく親の努力が必要だと指摘した。
大学受験という短期的目標にとらわれず、生涯にわたり「知る楽しさ」を持たさせる授業・教育という視点が、教育現場だけでなく、保護者にも求められる。大学や社会も「考える力」を本当の学力として評価するようにしたい。
徳島新聞 2007年12月7日
国際学力調査 自ら考える力育てよう
日本の学力はまた落ちていた。特に自分で考える応用問題に弱かった。経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した学力調査(PISA)で、日本の高校1年生は、科学的応用力、数学的応用力、読解力の全分野で、国際的なランクを低下させた。
調査は昨年、57カ国・地域の15歳約45万人を対象に行われた。前回(2003年)に比べると、科学的応用力は2位から6位へ、数学的応用力は6位から10位へ、読解力は14位から15位へと落ちていた。
初参加の台湾が数学的応用力でトップに立ち、同じアジアの韓国、香港も各分野で上位に食い込んでいる。台湾、韓国、香港は生徒間の競争が激しく、自宅での勉強時間も長いという。
過去3回の調査で、常にトップクラスを維持しているのはフィンランドである。その秘密を探ろうと、ここ数年、日本からもフィンランドの教育システムを視察に訪れる教育関係者が多い。
フィンランドがなぜ上位を維持しているか。理由はまず1学級当たりの生徒数の少なさ(約20人)が挙げられる。さらに教師は大学で高度なトレーニングを受けており、チームで互いにアドバイスし合ってカリキュラム制作に取り組んでいる。保護者も専門職としての教師を尊敬し、責任を分担していることなどが指摘されている。
日本は調査が始まった2000年、前回の03年と下げ傾向が続いていた。今回、実施3分野すべてで低下が見られたことは、日本の教育が先行き怪しくなっていると考えていいだろう。歯止めをかけるために対策が必要だ。
03年の調査で順位を下げたときに、学力低下の論議が盛んに行われた。文部科学省は「ゆとり教育」の見直しに着手した。総合的学習の時間を減らし、国語や理科などの授業時間を増やした。全国学力テストの実施にもつながった。方向が間違っていないか、再度確認したい。
PISAが問うているのは、単に知識があるかないかではない。義務教育を終えた子どもが社会に出たとき、身に付けた知識や技能を使って問題を解決する能力があるかどうかだ。
例えば科学的応用力の問題では、「動物や人間が一度細菌性の病気に感染し、それから回復すると、同じ最近による病気にかかりにくくなる。それはなぜか」などの問題があった。丸暗記では正答するのは難しい。ふだんからインフルエンザの予防接種はなぜ行うのか、などを考えておかなければならない。
日本の子どもは、こうした考える力が不足している。「勉強=暗記」と考えている子どもが多い。学校や塾でも受験のための暗記が中心になっており、「なぜ」「どうして」と考えることが少なくなっている。勉強がお仕着せになっており、自発的に学ぼうとする気持ちが希薄になっているのではないか。
生徒の意識調査でも「科学について知識を得るのは楽しい」という割合は、国際的に最低レベルだった。理科の授業で「生徒が自分の考えを発表する機会が与えられている」割合も際立って低かった。「意欲」「やる気」がなければ、どんなに高度な教育を行っても身につかない。
文科省も国際テストの成績をどう上げるか苦慮しているが、指導法を強制しすぎると、教師自身の考える力も育たない。フィンランドのように、教師がチームでカリキュラムに取り組めるような体制を整えることも必要ではないだろうか。(園田 寛)
佐賀新聞 2007年12月7日
国際学力調査 学ぶ楽しさがなければ
日本の高校一年生の国際的な学力順位が後退していることが明らかになった。
経済協力開発機構(OECD)が実施した「学習到達度調査」(PISA)で日本は科学や数学の応用力、読解力の各分野とも順位低下していた。
PISAは、義務教育で学んだ知識や技能を、実生活で活用する能力をみるテストだ。問題を発見する力や「考える力」が問われる。
学校で習った知識を丸暗記するだけでは、こうした学力は身につかない。
学んで知識を得ることの喜びや、それを実生活に応用する楽しさを、まず子どもに伝えることが大切だ。
前回の二○○三年調査でも、日本は順位を下げた。文部科学省は学習指導要領を改定し、授業時間を増やすことで学力向上を図る方針だ。
だが、子どもを無理に机に向かわせても、知識や応用力は身につくまい。逆に勉強嫌いが増えかねない。
今回のPISAで見逃せないのは、科学に対する学習意欲が低いことだ。記述式で無回答の割合が高い傾向もうかがえる。
子どもの好奇心をかきたて、実験や読書を通じて知識を深める−。勉強嫌いをなくすには、授業の工夫がますます大切になる。
日本の子どもの学力は、入試に支えられている面が大きいが、実際の高校入試では、暗記中心の出題が依然として幅をきかせている。
例えば、道教委が作成する公立高校入試問題の中には、「考える力」を問うどころか、短時間で計算の正確さを競うような設問もある。
こうした「入試学力」は本物の学力とはいえまい。
道教委は、これからの社会でどのような学力が必要かを真剣に考え、入試内容の改善に取り組んでほしい。
学力向上のため、道教委は、家庭や学校での読書時間の確保など五項目を緊急提言した。
身近なところから子どもの「勉強」の中身を見直す必要がある。家庭と学校が協力しながら、日常生活で活字にふれる時間を増やす工夫も必要だ。
PISAでトップクラスのフィンランドでは、中学校の一学級の生徒数を平均十八人に抑え、少人数教育を徹底させている。
教員配置も手厚く、子どもの能力や理解度に応じた個別指導に力を入れている。教員の能力向上のための研修制度も充実している。
こうした海外の事例を参考にしながら、義務教育課程での教育基盤整備を進めることが、国の責務だ。
PISAでは、日本では成績の低位層が多いことも明らかになった。義務教育段階で学力の格差がついているとすれば、教育の機会均等の理念は揺らぐのではないか。
北海道新聞 2007年12月6日
国際学力調査 考える力をいかに育てるか
経済協力開発機構(OECD)が15歳を対象に2006年に実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が公表された。
3回目となる今回は57カ国・地域の約40万人、日本では約6千人の高校1年生が受けたが、日本は「読解力」で前回(03年)の14位から15位、「数学的応用力」は6位から10位に順位を落とした。11月に公表された「科学的応用力」でも、前回の2位から6位に順位を落としている。
参加した国や地域が16増えたことや読解力の点数が前回と同じだったことなどを考えると単純には比較できないのだろうが、日本の学力低下に歯止めが掛かっていないことは間違いなさそうだ。
PISAは教科を横断した知識や技術を生活場面に活用する力を見るテストで、義務教育修了年齢を対象に2000年から3年ごとに実施され、今回は「科学的応用力」に重点を置いた調査となった。
点数は3分野ともOECD平均で500点になるように調整され、日本の科学的応用力は531点で前回より17点下がった。数学的応用力は523点で同11点低下した。読解力にいたっては498点で、1位の韓国に比べ58点も低かった。
日本の高校1年生は3分野すべての応用力でもはや世界上位にいないことが判明した。しかし、こうした数字に一喜一憂するより、もっと深刻なのは日本の高校生の科学への無関心、有用性や将来性への期待の小ささだ。
同時に実施した意識調査によると、「科学は自然を理解する上で重要」との質問に肯定的に答えた生徒の割合は82%で、57の参加国・地域の中で最低だった。科学について「知識を得ることは楽しい」も58%で、OECD加盟国平均より9ポイントも低い。
こうした意識の背景には、学校での理科の授業などに問題があるからではなかろうか。科学の不思議さや面白さを体験できる実験教室やテレビ番組などは子供たちの人気を集めているが、ゆとり教育で理科の授業時間が減らされた現状では子供たちの科学する心をはぐくむにも限界もあろう。
子供たちが授業でもっと楽しく科学を学び、さらに学習意欲を高めていけるような方策が必要であり、単に授業時間を増やすだけでは考える力を育てることは無理だろう。
日本の児童生徒は公式をそのまま当てはめるような問題は得意だが、自分で問題点を見つけ、自分で解決する力には欠けると指摘されてきた。応用力を育てるには詰め込み教育ではなく、1人ひとりの習熟度に合わせて自ら考える力を引き出すような授業を実践していくことが不可欠だ。
前回のPISAで読解力が低下したことでゆとり教育への批判が高まり、中教審は来年1月をめどに小中学校の主要教科と体育の授業時間を約1割増やすことを盛り込んだ新学習指導要領改定案を文科相に答申する予定だが、文科省は考える力を育てるために何をどう学ばせるのかを学校現場にもっと明確に説明すべきと考える。
陸奥新報 2007年12月6日
国際学力調査 好奇心引き出す授業を
経済協力開発機構(OECD)の調査で、学力論争が再燃しそうな結果が出た。
昨年行った「生徒の学習到達度調査」(PISA)で、日本の高校1年生の順位が後退した。科学的応用力は前回2003年調査の2位から6位に、数学的応用力が6位から10位になっている。
参加国が増え、前回と単純な比較はできないものの、日本の子どもたちに応用力や知識活用力が足りない状況は否定できない。今年の全国学力テストなどでも、同様の課題が指摘されている。順位は冷静に受け止めて、考える力をはぐくむ授業の在り方を考えたい。
PISAは3回目になる。社会で生きるために必要な知識や技能を生かす力、論理的な思考力をみる問題を主体にしている。今回は科学分野で詳しい分析をした。
日本の若い世代の理科離れはかねて指摘されてきた。それを裏付ける結果が出ている。
調査はOECD加盟国の平均が500点になるように採点されている。日本の高校生の科学的応用力は前回より17点低い531点だった。トップのフィンランドとは約30点の差がついている。
心配なのは、学習意欲や関心が低いことだ。科学が役に立つと考えたり、関心を持つ生徒の割合が、加盟国平均を大きく下回っている。将来、科学関係の仕事を希望する生徒もわずか8%である。
理科の授業が実生活に結び付いていないことをうかがわせる。生きるために必要な学力は、丸暗記や反復学習では十分に習得できないということだ。
実験や観察で目を輝かせる子どもたちの好奇心を高め、論理的に説明する力を育てるには、どうしたらいいのか。小学校から、授業の内容を根本的に見直す必要がある。
読解力の低下も悩ましい。加盟国平均レベルで、15位である。
PISAが求める読解力は、説明文やグラフなどから情報を読み取り、判断するといった生活に密着した内容である。文学作品を鑑賞するような国語の授業では、生きた学力の育成はおぼつかない。
今進めている学習指導要領の改定では「言語活動の充実」の方針を掲げている。方向は間違っていないが、授業時間や指導内容を増やすだけでは解決しないだろう。子どもがじっくり考え、意見を交わす時間と、教師が子どもに向き合うゆとりが必要だ。高校入試や大学センター試験の在り方も問われてくる。
PISAの順位がすべてではないものの、学力向上への具体的な手だてを示す責任が国にはある。
信濃毎日新聞 2007年12月6日
国際学力調査 課題克服への素材に
この成績で、日本の将来は大丈夫か。経済協力開発機構(OECD)が実施した生徒の学習到達度調査の結果に、そんな感想を持った人が多かったのではないか。
十五歳を対象に五十七カ国・地域の約四十万人が参加したテストで、日本の高校一年生は二〇〇三年の前回に比べ、読解力が十四位から十五位、数学的応用力は六位から十位、科学的応用力も二位から六位になるなどすべての分野で順位を下げた。
確かに考える力の不足、科学への関心や意欲の低さなど気掛かりな面もあるが指標の一つにすぎないことも事実だ。
順位に一喜一憂せず、今の教育に欠けているのは何か、どうすれば克服できるのかを考える素材としたい。
テストは知識や技能を実生活で活用する能力をみる設問が中心だ。だから、丸暗記や反復学習で身につける「知識型」の学力だけで答えるのは難しい。
記述や論述の問題で、日本が他の国に比べ、白紙解答が多かったのはそのためだろう。
得点ランクの分布をみると、上下の差が縮まったものの、上位の生徒が減ったからで下位が減ったわけではない。
応用力と底上げという二つの課題が依然、解消されていないことが分かる。
気になるのは、科学についての質問に対する日本の生徒の回答で、科学が役に立つと考えたり、関心を持つ生徒の割合が他の国よりかなり低い。
科学関係の職業に就きたいと考える生徒に至ってはOECD平均が25%だったのに対し、わずか8%にとどまった。
理科の授業で、実験や発表などの機会が平均の半分だったということと無関係ではないだろう。
二〇〇〇年の初回調査では「世界トップ」だったのが前回、大きく後退。「ゆとり教育」が批判の的になり、文部科学省の見直しの動きにつながった。
来年の学習指導要領改定に向け、中教審は小中学の主要教科の授業時間数を10%程度増やす方針を打ち出している。
だが、授業時間数を増やせば学力が向上するかどうかは明確ではない。
事実、今回の調査でトップクラスだったフィンランドと日本の義務教育の授業時間数に差はないとされる。質の高い教員による少人数教育に加え、学力に対する考え方にも違いがあるようだ。
授業時間を増やせばいいという話ではない。教員の技量向上、生徒一人ひとりに目が行き届く教員配置なども欠かせない。さらにいえば学力とは何かなど、もっと根本的な教育論議があってもよい。
ゆとり教育への検証もないまま、「猫の目」といわれる教育改革を繰り返していては学校現場が混乱するばかりだ。
京都新聞 2007年12月6日
国際学力調査 冷静に分析して生かそう
十五歳を対象にした国際的な学力調査の結果が発表され、日本は前回より順位を落としたことが分かった。教育のあり方が問われそうだが、他国との比較に振り回されるだけの一面的な受け止め方ではなく、冷静な目が必要だろう。
経済協力開発機構(OECD)が二〇〇〇年から三年ごとに行っている「生徒の学習到達度調査」である。三回目となる今回、五十七カ国・地域が参加し、日本からは約六千人の高校一年生が臨んだ。
調べたのは「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」。知識量を競うのではなく、物事を論理立てて考え、結論を導くような応用力を問う調査といってよい。
日本は、三分野ともそれぞれ十四位から十五位、六位から十位、二位から六位に下げた。前々回からも続落傾向をたどっている。確かに、順位の低下は低下として重く受け止めねばならないのだろう。
そもそも、学力とは何なのか。知識の多寡も学力を測る指標の一つには違いない。日本はこれまで知識偏重の教育だったことは否めない。記憶力を問うような入学試験のあり方にも左右されてきたといえる。
一方、基礎知識をもとに考え、活用する力を育てる教育は、不十分だったといわざるを得ない。今回の調査結果も、それを物語っているとみるべきだ。
今調査で最も気になるのは、理数的思考の弱さ、科学への関心の薄さである。「科学的応用力」の順位低落もさることながら、科学関係への職業希望が加盟国平均の25%に対してわずか8%だった。
近年、理数離れが叫ばれていて危機感がないわけではないが、あらためて浮き彫りになった。科学技術立国を目指す国の将来に暗い影を落とした形だ。
前回の発表では、日本の学力低下が大きな波紋を広げた。このことが約四十年ぶりという全国学力調査の復活につながり、小学六年と中学三年を対象に、今春実施された。さらに、「ゆとり教育」の転換を促し、授業時間数増を柱とする学習指導要領改定の骨子が固まった。
つまりは、学力強化への動きなのだろうが、単に詰め込み教育の復活であってはならないはずだ。思考力や応用力を、どうはぐくむのか、そのプランがまだみえてこない。「教育改革」の名のもとで、むしろ混乱が拡大されてきたように映る。
せっかくの国際調査だから、みえてきた課題をしっかり分析し、改革に活用すべきである。教育行政と教育現場がどう取り組むのか。三年後の成果をみたい。
神戸新聞 2007年12月6日
学力順位低下 興味と応用高める教育に
経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した十五歳の生徒を対象にした学習到達度調査(PISA)で、日本の高校一年生の順位が「世界トップレベルから脱落した」と物議をかもした二〇〇三年の前回をさらに下回る結果となった。
PISAは、〇〇年から三年ごとに実施されている。知識を実生活の中でいかに使いこなせるか、論理的な思考と応用力を調べるもので、「読解力」「科学的応用力」「数学的応用力」で評価する。
今回は五十七カ国・地域の約四十万人、日本は全国から抽出された約六千人が参加した。その結果、科学的応用力は前回の二位から六位、読解力は十四位から十五位、数学的応用力は六位から十位と、すべての分野で順位を下げてしまった。記述や論述の問題では他の国に比べて白紙回答が多く、答えを導き出す過程を自分の言葉で説明できない状況を露呈した。
知識を活用できるPISA学力は日本発展の上で欠かせない力である。低下傾向が止まらないのは心配だ。生徒の身に付くよう多角的な分析と対策が求められる。
前回の調査で、数学的応用力の順位が一位から六位、読解力が八位から十四位に落ちたことを受け、原因を「ゆとり教育」とする空気が高まった。文部科学省は、来年の学習指導要領改定で主要教科の授業時数を増やす方針だ。
しかし、授業時数を増やせば成果が上がるかといえば疑問である。日本より授業時数が少ないフィンランドが、全分野でトップクラスを維持していることからも明らかだ。問題は授業の内容をどうするかにかかっている。
今回の調査では、科学に関する生徒の意識調査も併せて行われた。それによると、科学が役に立つと考えたり、科学に関心を持ったりする生徒の割合はOECD加盟国平均を大きく下回っている。科学に楽しさや親しみを感じている生徒の割合も参加国中最低レベルという。さらに、科学関係の職業に就きたいと考える生徒は加盟国平均の25%に対して8%にすぎない。
これでは、日本が目指す科学技術創造立国も泣こう。受験目的の知識だけでは、生かすすべが分からない。授業についていけない生徒は興味を失って挫折してしまう。生きた知識にはならない。
学校は、身近な事象との関連の中で知識や活用のヒントを教える必要があろう。知識の詰め込みでなく、生徒自らが考え理論を展開させることが楽しく興味の持てるようにする授業の工夫が重要だ。教育関係者が奮起しなければ順位はさらに低下しよう。
山陽新聞 2007年12月6日
国際学力調査 伸ばす環境も大事だ
確かに教育関係者にショックを与える結果ではあろう。
経済協力開発機構(OECD)が昨年、五十七カ国・地域の十五歳約四十万人を対象にした「生徒の学習到達度調査」(PISA)で、日本の順位が全分野で低下した。
前回(二〇〇三年、四十一カ国・地域参加)に比べ、読解力は十四位から十五位、数学的応用力は六位から十位へ、得意だった科学的応用力も二位から六位への転落である。
PISAのテーマは「生きるための知識と技能」だ。答えに至るまでの「過程」が重視され、科学的応用力の場合、社会問題と関連する問題も多い。丸暗記や反復学習による「知識型」に偏りがちな日本の子どもが戸惑うのも不思議ではない。
過去三回の調査で全分野においてトップクラスを維持するフィンランドの場合、大学院で高度な研修を受けた教員による少人数教育が徹底されている。子どもたちは自分の考えを論理的に相手に伝える力をコミュニケーションを通して磨いている。
対して日本は、国内総生産に対する教育費の公的支出の割合が先進国では最低レベルで、一人の教師が多人数をカバーしており、子どもたちが自分の言葉で考えを相手に伝えるという訓練の機会は限られている。
PISAの結果は、日本の学校教育が、知識や技能を実生活で活用する能力を十分育てていない、ととらえるべきである。
ところが順位を下げた前回調査を機に「ゆとり教育」に批判が集中し、全国学力テストの約四十年ぶりの復活や、中央教育審議会による「小中主要教科の授業時間一割増」へと方向転換された。
前回に続いての順位下落で、学力低下傾向への懸念が高まり、「詰め込み教育」復活を求める論調が高まることも予想される。
だが、参加国の中で日本の子どもたちに際立っている課題は、学力向上の前提となる学ぶことへの動機付けが希薄なことだ。科学が楽しいと思ったり、テレビや本など日々の生活の中で科学に触れたりする生徒の割合は、最低レベルだった。
科学への興味や関心は、学校教育のみで育つものではない。はぐくむ大きな要素である自然との触れ合いや生活体験が、日本の子どもたちからますます失われている。
PISAはあくまでも一つの指標である。子どもたちの興味の芽を膨らませ、それぞれが伸びる環境づくりへの議論を高めたい。
高知新聞 2007年12月6日
OECD学力調査 問われている「生きる力」育成
経済協力開発機構(OECD)の学力調査(PISA)のテーマは「生きるための知識と技能」だった。
知識の量ではなく、身につけた知識をどう使いこなせるかの応用力(リテラシー)を問う出題が中心である。
似たような言葉があると思ったら、現行学習指導要領が掲げた理念「生きる力」にほぼ重なっている。
その調査で日本の高校1年生は、数学的応用力、読解力の分野でいずれも国際的なランクを低下させた。
だが、この結果から再び学力低下論に向かうべきではない。時代が求める「生きる力」をどう実現させられるかが問われていることを確認したい。
■文科省が路線を修正■
PISAの出題は教科書的な知識、つまり認知的側面だけでなく、興味や関心などを重視している。
学習指導要領に言う「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する」という「生きる力」の内実が問われていたと言っていい。
変化の激しい社会に対応できる主体的な学びの育成は、先進国共通の課題である。PISAへの参加国の急増はそうしたことが時代背景にある。
先進国に先駆けて日本はその「生きる力」の育成を掲げたのに、なぜ実現できなかったのか。その意味では厳しく受け止める必要がある。
現行指導要領は授業時間、教育内容を削減したことで、2002年春のスタート前から学力が低下するとの厳しい批判にさらされた。
これを受け文部科学省は「学びのすすめ」という大臣アピールを公表し、当初目指した総合的な学習の時間などを通じた「生きる力」育成を修正。
放課後補習や朝読書などによる知識・技能習得に重心を移し、理念とその実現を早々と棚上げしてしまった。
■国際的に最低レベル■
学校が一斉に授業時間確保に走ったのもこうした流れからだ。批判に押され、繰り返し学習など従来型の「量」へ回帰したのが現実だった。
調査に表れた生徒の意識は、一連の経緯を見事に映し出している。
「科学についての知識を得るのは楽しい」という割合は国際的に最低レベル。理科の授業で「生徒に自分の考えを発表する機会が与えられている」という割合も際立って低い。
「生きる力」の育成を掲げ、興味・関心を生かした指導を重視したはずなのに、中身はほとんどない。
向き合うべき課題を避けて通った文科省の責任は重大である。「個に応じた指導」を掲げながら、1クラス40人という基準を放置したこと自体そもそも論理矛盾ではないか。
結果を受けた文科省は、理科や数学などの授業時間と内容を増やし、教師の指導を強化する指導要領改定で対応するとしている。
だが、十分な動機付けもないまま教育の「量」を増やして、果たして「生きる力」がはぐくまれるだろうか。
総合的学習の時間削減という改定方向は、学びの質を改革した方向からの退却と言われても仕方ない。
「自ら学び考える教育への転換」は時代の要請である。今回の結果は、そうした転換ができなければ将来、教育先進国から取り残されるという厳しい現実を突きつけている。
内向きの論議に気を取られて教育課題の中心を見失ってはならない。
宮ア日日新聞 2007年12月6日
国際学力調査 安易な授業時間増では解決できない
じわじわ下がり続ける日本の15歳の学力。経済協力開発機構(OECD)が昨年行った学習到達度調査(PISA)で数学的応用力、科学的応用力、読解力のいずれの分野でも国際的なランクを低下させた。
3年ごとに実施されるPISAは知識を活用する力を問う。単に知識の多寡を測るのではなく、義務教育で身につけた知識や技能を使って、課題を解決できるかを試す問題が柱になっている。
前回(2003年)の調査では、日本は読解力の低落が際立ち、教育関係者はPISAショックに見舞われた。導入されて間もない「ゆとり教育」が集中砲火を浴びることにつながった。
今回は、前回まで上位を占めていた科学的応用力と数学的応用力でも得点と順位が大幅に落ち込んだ。深刻な理数離れを浮き彫りにしており、科学技術立国・日本の将来も危ぶまれてならない。参加国の増加を差し引いても、学力低下に歯止めがかかっていないのは明らかだ。
同時に実施された意識調査で、日本の15歳の科学に対する興味が参加57国中52番目に低かったのも見過ごせない。科学に対する関心や意欲のなさが順位低下を招いたともいえよう。
現行の学習指導要領は「自分で課題を見つけ、自ら学び、考え、主体的に判断・行動し、よりよく問題を解決する」を理念に掲げる。この「生きる力」の実現を目指したゆとり教育は「PISA型学力」の狙いとも相通じるものだ。
だが、ゆとり教育の手法や成果について十分な検証がされないまま、日本は従来型の「量」の学力へと回帰しようとしている。先進国に先駆けて、生きる力の育成を掲げながら、学力低下の批判にさらされると早々と棚上げしてしまった。文科省は来年の学習指導要領改定で授業時間、内容を増やす方針を示した。
今回のPISAでも日本より授業の少ないフィンランドは最上位を維持した。授業時数増が学力向上に直結しないのは明白で、教員養成や指導方法など「授業の質」がカギを握っている証左だろう。
だが、日本では授業の質向上に向けた具体的な手だての多くは現場に委ねられたままだ。「個に応じた指導」を掲げながら、1クラス40人という基準を放置してきた文科省の責任は重大である。
調査結果を受け、さらに量の拡大へと突き進むことが予想される。だが、授業の質を高め、学ぶ楽しさを教えていくための仕組みこそが欠かせない。文科省、自治体、教育現場の応用力が試される。
南日本新聞 2007年12月6日
学習到達度調査 今の教育改革でいいのか
小中学校で従来の「ゆとり教育」を転換し授業時間を増やす流れが鮮明になっている。一連の教育改革で果たして学力の問題を解決できるのか、根本的な疑念がわいてくる。
経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した学習到達度調査(PISA)で、日本の高校一年生は科学的応用力、数学的応用力、読解力のいずれも前回(二〇〇三年)よりランクを下げた。
今回は五十七カ国・地域の十五歳約四十万人が参加。日本の科学的応用力は二位から六位、数学的応用力は六位から十位、読解力は十四位から十五位にそれぞれ落ち込んだ。
PISAは「生きるための知識と技能」をテーマにしており、身に付けた知識を使いこなす力(リテラシー)が問われる。丸暗記や反復学習による知識重視の学力だけでは対応できず、自ら考えることが求められる。
知識は時間がたてば陳腐化する。変化の激しい時代には、生きる力、知識や技能を基に自ら考え、判断することが重要になる。今回調査では日本の教育の弱点が表れているのではないか。今後の改善に生かすことが大事だ。
生徒に対する質問調査では、「科学についての知識を得るのは楽しい」という割合は国際的に最低レベル。科学が役に立つと考えたり、科学に関心を持ったりする生徒の割合も低かった。
政府は「科学技術創造立国」を打ち出しているが、今回の調査結果を厳しく受け止める必要がある。
文部科学省は来年の学習指導要領改定へ向け、「ゆとり教育」の実質転換と約三十年ぶりの授業時数の増加を打ち出した。こうした方向で学力問題を解決するのは難しいのではないか。
PISAでは日本より授業時数が少ないフィンランドがトップクラスを維持した。大学院で専門教育を受けた教員による少人数教育で知られ、教育関係者の注目を浴びている。
本人のやる気を最重視し、頻繁なテストもない。低学力層の底上げで全体の平均点が上がり、高学力層の点数も伸びているという。フィンランドの教育哲学をもっと学ぶべきだろう。
日本の教育現場からは「今の現場には余裕がない。応用力を身に付ける指導は難しい」とため息が漏れる。教師は多忙になり、子供たちとじっくり向き合うゆとりがなくなっている。
改定学習指導要領の基本となる(1)授業時間数増(2)伝統や文化の尊重、国を愛する態度の育成(3)学習意欲向上―だけでいいのか、幅広い論議が必要だ。
授業の質を高めていくために、小規模学級の実現、教員の増員などについても真剣に検討していくべきだ。
沖縄タイムス 2007年12月6日
OECD学力調査 思考力重視の授業実施を
経済協力開発機構(OECD)が実施した生徒の学習到達度調査(PISA)で日本の高校生の学力低下傾向があらためて浮き彫りになった。
PISAは2000年から3年ごとに実施。日本は、数学的応用力が1位から03年に6位、06年には10位と順位を下げ、科学的応用力は03年までの2位から06年は6位に下降。読解力に至っては8位、14位、15位と大きく順位を落としている。
学力低下は大きな問題であることには違いない。しかし、順位に必要以上に神経をとがらせるのは禁物である。ましてや、授業時間を増やすことで巻き返せると考えるのは早計だ。
PISAは、義務教育終了段階の15歳児が持つ知識や技能を、実生活のさまざまな場面で直面する課題に、どの程度活用できるかを評価するものである。各教科の習得程度をみるものではない。
過去3回のPISAから分かってきたことは、単なる知識集積型では国際基準の学力は身に付かないということである。これまでの学力観の転換が今、日本に求められているのである。
常に全分野でトップクラスに位置するフィンランドと、順位を下げた日本との決定的な違いは、自らのために勉強するという「学びの目的」を、教育を通してしっかりと子どもたち自身に持たせることができているかどうかである。
フィンランドは「思考力重視」を教育理念に据えている。自ら学ぶ姿勢を身に付けさせることに重点を置き、義務教育期間は点数で子どもを順位付けする試験もない。
日本はどうか。03年に世界トップクラスから脱落したのを契機に、学力低下論争が本格化した。「ゆとり教育」の導入に伴い、授業時間や教育内容を削減したことで学力低下を招いたとの批判が上がり、文部科学省は見直しに着手している。
自ら学び、考える「生きる力」を身に付けさせることを狙った「ゆとり教育」を充実させることにこそ、巻き返しの鍵があるのではないか。
フィンランドの授業時間数は日本より少ないという。授業数を増やせば、学力が上がるという保証はない。
2000年調査で先進国の下位だったドイツは基礎学校を半日制から全日制にしたが、成績が伸びていないことからも、それは明らかだろう。
問題は授業時間数ではなく、授業の質にある。質を向上させるには、教育現場の地道な努力が求められる。
しかし、それだけでは不十分である。政府がどれだけ本腰を入れて、教育現場支援で実効性のある
施策を実施するかにかかっている。
琉球新報 2007年12月6日
OECD調査 学力低下厳しく受け止めよ
経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した学力調査(PISA)で日本の高校1年生は、科学的応用力、数学的応用力、読解力の分野でいずれも国際的なランクを低下させた。前回(2003年)と比べ、科学的応用力は2位から6位へ、数学的応用力は6位から10位へ、読解力は14位から15位へ、と落ち込んだ。
科学的応用力、数学的応用力については得点も低下している。日本の学力の先行きが怪しくなってきたのは確かだろう。
PISAが問うているのは単に教科書の知識があるかないかではなく、義務教育終了段階の子どもが社会に出たときに、身につけた知識や技能を使って問題解決する能力があるかどうかというものだ。認知的側面だけでなく、興味や関心などを重視しているのもそのためだ。
つまりは現行学習指導要領が理念に掲げた「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する」という「生きる力」の実現度合いが問われているといっていい。厳しく受け止める必要がある。
だが、先進国に先駆けて「生きる力」の育成を掲げたのに、なぜ実現できなかったのか。
現行指導要領は、授業時間、教育内容を削減したことで02年春のスタート前から学力が低下するとの激しい批判にさらされた。
窮地に立った文部科学省は「学びのすすめ」という大臣アピールを公表、当初目指した総合的な学習の時間などを通じた「生きる力」の育成から、放課後補習や朝読書などによる知識・技能習得に重心を移し、理念とその実現を早々と棚上げした。学校が一斉に授業時間確保に走ったのもこうした流れを受けてのことだ。
批判に押され、繰り返し学習など従来型の「量」の学力へ回帰したのが実際である。
調査に表れた生徒の意識は一連の経緯を反映している。「科学についての知識を得るのは楽しい」という割合は国際的に最低水準。理科の授業で「生徒に自分の考えを発表する機会が与えられている」という割合も極端に低い。「生きる力」の育成を掲げ、興味・関心を生かした指導を重視したはずなのに、中身はない。
向き合うべき課題を避けて通った文科省の責任は重大だ。「個に応じた指導」を掲げながら、1クラス40人という基準を放置したこと自体、そもそも論理矛盾だ。
結果を受け文科省は、理科や数学などの授業時間、内容を増やし、指導を強化する指導要領改定で対応するというが、十分な動機づけもないまま教育の「量」を増やして「生きる力」がはぐくまれるというのか。総合的学習の時間削減という改定方向は学びの質改革からの退却と言われても仕方がないだろう。
福島民友新聞 2007年12月5日
国際学力調査 学ぶ喜びをまず教えたい
経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した十五歳の学習到達度調査で、日本は読解力、数学的応用力、科学的応用力の三分野すべてで順位の低下が続いていることが分かった。
PISAというこの調査は、知識や技能を実生活に活用するための応用力を試す設問が多い。日本人が得意な暗記や計算力テストと違い、記述問題では白紙回答が他国より多かったという。日本の教育の問題点があらためて問い直されることになりそうだ。
調査は二〇〇〇年、〇三年に続いて三回目になる。日本は文章などの読解力は初回の八位から前回は十四位、今回は十五位に落ちてきた。
科学的応用力も初回と前回は二位だったが今回は六位に。初回一位で注目された数学的応用力も前回は六位に落ち、今回は十位にまで下がった。
今年、四十三年ぶりに復活した小中学校の全国学力テストは、〇三年のPISA結果に文部科学省が衝撃を受けたことが一つの契機だった。全国学力テストの結果分析でも同じく「応用・活用力」不足が浮き彫りになった。
これらの結果を受け、中央教育審議会の部会は十一月、「ゆとり教育」を転換し、小中学校の主要科目の授業時間を約三十年ぶりに一割増やす方針を決めたばかりだ。
授業や家庭学習の時間を増やせば、学力低下に歯止めがかかると考えるのは早計だ。勉強の意欲がわかない生徒を無理やり机に向かわせたところで、知識も応用力も身に付くはずがない。
学んで知る喜び、読書や体験を通じた感動。それらを教えることの大切さが、教育現場から忘れ去られていないか。もっと危機意識を持ちたい。
ユニセフの「十五歳の幸福度調査」で、日本は十人に三人が「孤独を感じる」と答え、先進国で最悪だった。
小学四年−中学一年生の4%がうつ症状だという北海道大学の研究や、「心の悩み」を訴えて保健室に駆け込む小中校生が十年間で約三倍にも増えているという文科省の調査結果もある。
学校が楽しくない。何のために勉強するのか分からない。教室で夢を語れない子どもが急増していることに、国はまず目を向けなければならない。
国内総生産比で見た教育費の公的支出は、日本はギリシャに次いでOECD最低のレベルだ。国はせめてOECDの平均水準に引き上げる年次計画を立てるべきである。
PISA調査で成績トップを誇るフィンランドの中学校は一学級平均で十八人、教員配置も日本とケタ違いだ。
「勉強」「勉強」と子どもをせき立て成績に一喜一憂するよりも、文科省は学ぶ楽しさをじっくりと教える環境整備に真剣に取り組むときである。
新潟日報 2007年12月5日
国際学力比較 考える力に課題がある
OECDの学習到達度調査で日本の国際順位は三分野とも前回より下がった。科学学習への意欲は低く、考える力に課題がみられる。人材育成がなにより大切な国にとっては気がかりな問題だ。
学習到達度調査は経済協力開発機構(OECD)が十五歳を対象に三年に一度実施している。義務教育を終えた子供が社会に出たとき知識や技能を使って問題解決ができるかどうかをペーパーテストで測定する。科学的応用力、数学的応用力、読解力から出題され、国際的な学力指標とされている。
初回の二〇〇〇年調査で日本は「科学」二位、「数学」一位、「読解力」八位だった。前回〇三年では科学は二位を維持したが、数学は六位、読解力は十四位と落ち込んだ。
〇六年調査で日本は科学六位、数学十位、読解力十五位と、三分野とも前回より順位が下がった。
科学と数学の得点はOECD平均を上回っており、国際的には上位につけている。しかし、各問題での解答欄が白紙という「無答率」はOECD平均よりも上だった。論述式問題になるほど無答の割合が高いという傾向がうかがえた。
調査は科学への態度と取り組みについても聞いているが、学ぶ楽しさや意欲度は参加国・地域で最低グループに属した。「科学は社会に有用か」との質問に肯定的回答をした割合は、科学一位のフィンランドが93%、二位の香港が97%に対し、日本は下から六番目の81%だった。
「理科から多くのことを学んで就職に役立てたいか」への肯定的回答では日本は最下位から二番目。多くの先進国は低調だが、人材が資源の日本としては心配なデータだ。
今春の全国学力テストでは「活用力に課題がある」という結果が表れた。限られた分野ではあるが、OECD調査でも考える力や学ぶ意欲の低下が浮き彫りにされた。
調査対象の高校一年生は学習量が軽減された「ゆとり教育」世代に当たる。すでに中央教育審議会はゆとり教育からの方向転換を示し、次の学習指導要領で理数系教科を中心に授業時間増という対策を打ち出している。
学力低下がゆとり教育の影響なのかどうか、じっくり検討する必要があるが、これは時間増だけで解決できる問題ではなさそうだ。
子供の学ぶ意欲を高め、考える力を養うにはどうすべきか。教員配置や研修制度など教育環境の整備は手を付けなくてはいけない当然の課題だ。そのうえで最終的には現場の先生が指導方法に工夫を凝らすなどの熱意に委ねられるだろう。
中日新聞 2007年12月5日
国際学力調査 課題に正面から向き合え
経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した学力調査(PISA)で、日本の高校1年生の低下が明確になった。前回(2003年)2位だった科学的応用力は6位、6位の数学的応用力は10位、14位の読解力は15位にそれぞれ順位を落とした。
科学的応用力、数学的応用力は得点も低下している。参加国・地域が41から57に増えたことを差し引いても、日本の学力の先行きが怪しくなってきたのは確かだろう。
PISAが問う学力は教科書の知識ではなく、義務教育終了段階の子どもが社会に出たとき、身につけた知識や技能を使って問題解決する能力があるかどうかというものだ。認知的側面だけでなく、興味や関心などを重視しているのもそのためだ。
現行の学習指導要領が理念に掲げた「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する」という「生きる力」の実現度合いが問われている。厳しく受け止める必要がある。
変化の激しい社会に対応できる主体的な学びの育成は先進国共通の課題である。PISAへの参加国・地域が急増しているのはそうした時代背景があるからだ。
だが、先進国に先駆けて日本は「生きる力」の育成を掲げたのに、なぜ実現できなかったのか。
現行指導要領は、授業時間、教育内容を削減したことで02年春のスタート前から学力が低下する、との激しい批判にさらされた。
窮地に立った文部科学省は「学びのすすめ」という大臣アピールを公表、当初目指した総合的な学習の時間などを通じた「生きる力」の育成から、放課後補習や朝読書などによる知識・技能習得に重心を移し、理念とその実現を早々と棚上げしてしまった。学校が一斉に授業時間確保に走ったのもこうした流れを受けてのことだ。
批判に押され、繰り返し学習など従来型の「量」の学力へ回帰したのが実際である。
調査に表れた生徒の意識は一連の経緯を見事に映し出している。「科学についての知識を得るのは楽しい」という割合は国際的に最低レベル。理科の授業で「生徒に自分の考えを発表する機会が与えられている」という割合も際だって低い。「生きる力」の育成を掲げ、興味・関心を生かした指導を重視したはずなのに、中身はスッカラカンだ。
向き合うべき課題を避けて通った文科省の責任は重大だ。「個に応じた指導」を掲げながら、1クラス40人という基準を放置したこと自体、そもそも論理矛盾だ。
文科省は、理科や数学などの授業時間、内容を増やし、指導を強化する指導要領の改定で対応するという。
しかし十分な動機づけもないまま教育の「量」を増やして「生きる力」がはぐくまれるというのか。総合的学習の時間削減という改定方向は学びの質改革からの退却と言われても仕方がないだろう。
「自ら学び考える教育への転換」は時代の要請である。今回の結果は、そうした転換ができなければ、将来先進国から取り残されるという厳しい現実を突きつけている。内向きの論議に気を取られていたら、それこそ時代を見失ってしまう。
岐阜新聞 2007年12月5日
OECD学力調査 立て直しへ急がば回れ
日本の高校生の学力低下はまだ続くのだろうか。経済協力開発機構(OECD)がきのう発表した学習到達度調査(PISA)の結果をみると「科学技術立国」をうたう日本のこれからが心配になってくる。
調査は五十七カ国・地域の十五歳、約四十万人を対象に昨年行われた。三年おき今回が三回目で、日本は順位を下げ続けている。
科学的知識を応用する力は二位→二位→六位。文章を読んで理解し考える力は八位→十四位→十五位。数学を生活に生かす力に至っては、一位から六位、さらに十位にと下がり方が著しい。
順位だけを単純に比較するのは正確な見方でないかもしれない。例えば科学的応用力でいえば「三位から九位までは統計的に有意差はない」とされているし、参加国が回を追って増えていることも順位に影響している。
ただこの三回を流れとしてみると、若い世代の知的な力が弱まりつつあるようで「何か手を打たねば」という気持ちになる。
第二回の結果が明らかになった時、政府は激しく反応した。ゆとり教育への逆風が吹き始めたころだ。「学力低下を招いたのはゆとり教育」とばかり、当時の中山成彬文部科学相は「増量路線」にかじを切った。
その延長で中教審がこの十月にまとめたのが、学習指導要領の改定案である。小学校では五教科の時間数を全体で約一割ほど、中学校では英語や理科を三割増やすなどの内容だ。
ただ集団での一律的な詰め込みの限界は、既に明らかではないだろうか。授業時間を増やしても、学ぶ気がなければ苦痛でしかあるまい。学ぶ面白さをどうやって伝えるか、さらに能力をどう開花させるか、がもっと考えられなければならない。
PISAの結果から「時間数を増やして学力を上げる」以外の方法を探ることも可能なはずだ。
例えば三回の調査で常にトップクラスにあるフィンランドは、日本よりも授業時間が少ない。「ついていけない生徒をつくらない」など一人一人をチームでサポートするシステムで知られる。
日本では、それぞれの子に教師がきめ細かく対応できているだろうか。それだけの余裕ある学校環境が保証されているだろうか。
PISAの結果を受け止めて考えるべきは、むしろそうした基本的な点ではなかろうか。
中国新聞 2007年12月5日
OECD学力調査 「学びの質改革に取り組め」
経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した学力調査(PISA)で日本の高校一年生は、科学的応用力、数学的応用力、読解力の分野でいずれも国際的なランクを低下させた。前回(二〇〇三年)と比べ、科学的応用力は二位から六位へ、数学的応用力は六位から十位へ、読解力は十四位から十五位へ、と落ち込んだ。
科学的応用力、数学的応用力については得点も低下している。参加国・地域が四十一から五十七に増えたことを差し引いても、日本の学力の先行きが怪しくなってきたのは確かだろう。
学力といっても中身はさまざまだが、PISAが問うているのは単に教科書の知識だけではなく、義務教育終了段階の子どもが社会に出たとき、身につけた知識や技能を使って問題解決する能力があるかどうかだ。認知的側面だけでなく、興味や関心などを重視しているのもそのためだ。
現行学習指導要領が理念に掲げた「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する」という「生きる力」の実現度合いが問われているといっていい。
変化の激しい社会に対応できる主体的な学びの育成は先進国共通の課題である。PISAへの参加国・地域が急増しているのはそうした時代背景があってのことだ。
だが、先進国に先駆けて「生きる力」の育成を掲げたのに、なぜ実現できなかったのか。
現行指導要領は、授業時間、教育内容を削減したことで〇二年春のスタート前から学力が低下するとの激しい批判にさらされた。
窮地に立った文部科学省は「学びのすすめ」という大臣アピールを公表、当初目指した総合的な学習の時間などを通じた「生きる力」の育成から、放課後補習や朝読書などによる知識・技能習得に重心を移し、理念とその実現を早々と棚上げした。その結果、学校は一斉に授業時間確保に走った。
批判に押され、繰り返し学習など従来型の「量」の学力へ回帰したのが実際である。
調査に表れた生徒の意識は一連の経緯を見事に映し出している。「生きる力」の育成を掲げ、興味・関心を生かした指導を重視したはずなのに、「科学についての知識を得るのは楽しい」という割合は国際的に最低レベル。理科の授業で「生徒に自分の考えを発表する機会が与えられている」という割合も際だって低い。
向き合うべき課題を避けて通った文科省の責任は重大だ。「個に応じた指導」を掲げながら、一クラス四十人という基準を放置したこと自体、そもそも論理矛盾だ。
文科省は理科や数学などの授業時間、内容を増やし、指導を強化する指導要領改定で対応するという。しかし、十分な動機づけもないまま教育の「量」を増やして「生きる力」がはぐくまれるだろうか。総合的学習の時間削減という改定方向は学びの質改革からの退却と言われても仕方がない。
「自ら学び考える教育への転換」は、時代の要請である。今回の結果は、そうした転換ができなければ、将来先進国から取り残されるという厳しい現実を突きつけている。内向きの論議に気を取られて時代を見失ってはならない。
山陰中央新報 2007年12月5日
科学的応用力も低下 「ゆとり、さらば」を急がねば
経済協力開発機構(OECD)が昨年、五十七カ国・地域の十五歳計約四十万人を対象に行った三回目の「生徒の学習到達度調査(PISA)」で、日本の高校一年生は前回(二〇〇三年)に比べ、科学的応用力の順位が二位から六位に下がったことが分かった。科学もか、だ。
高校一年生の学力は小中学校からの積み重ねである。日本は前回調査で数学的応用力が一位から六位に下がり、これがきっかけの一つになって「ゆとり教育」の転換につながったことは記憶に新しい。OECDの調査をめぐって相反する受け止め方があるのを承知の上で、あえて「ゆとり、さらば」の正しさがまた証明されたと受け止めたい。
ゆとり教育の転換を受けて、十年ぶりに学習指導要領の改訂作業を進めてきた中央教育審議会教育課程部会の「審議のまとめ」が先ごろ公表された。事実上の答申案と理解していいそうである。それによると、小中学校では国語、算数・数学、理科、英語など主要科目の授業が、ゆとり教育前の水準にまで回復されることになっている。
しかし、この改訂の実施は早くても二〇一一年度からだという。それまで手をこまねいていていいわけがあるまい。だから、文部科学省としても来年度予算の概算要求に三年間で教職員定数を約二万一千人増やすことを盛り込んでいるのだが、定員増を待つだけでなく、ムダな会議や雑務の削減などにより教師が子どもと向き合う時間を生み出す工夫を文科省、都道府県教育委員会、教育現場に求めたい。
OECDが義務教育の終了段階にある生徒を対象に二〇〇〇年の第一回から三年おきに学習到達度調査を行っているのは、読解力・数学の応用力・科学の応用力を国際比較することによって教育方法の改善や、標準化に供するためである。
オリンピックのように順位を競うものでないことや、まだ三回であり、その上、参加国も変動するために統計処理が難しくなることなどから、調査に対して学力低下に結びつけて心配するものから、そんな心配は無用とするものまで、さまざまな受け止め方が生じるのだが、学力の変動と調査は無関係だと断定するのは妥当でないといっておきたい。
北國新聞 2007年12月3日
中教審「審議のまとめ」を考える 人的支援なくしてはおぼつかない
■脱「ゆとり教育」へ
中央教育審議会(教育課程部会)は、今月7日、次の学習指導要領を「審議のまとめ」として了承した。今後は、「道徳の時間」の教科化などを継続審議し、来年1月答申をまとめ、これを受けて文科省は本学年度中に告示するとしている。新学習指導要領は11年度からの実施予定。
現行より学習内容が増え、授業時間も小、中学校でそれぞれ週1時間程度増える見通し。これまでのわが国の教育の方針「ゆとり教育」を十分検証することなく転換することになったのである。
国際調査における学力比較でかんばしくない結果が出て、この「ゆとり教育」がやり玉に挙げられていた。世論でも学力低下問題が高まり、早くから改訂が取りざたされた。だが、去る4月行われた学力調査では全国としては関係者の予想より高い結果が出ており、この脱「ゆとり教育」の可否に専門家、中央紙の論調もほぼ二分されている。
そんな中、渡海紀三朗文科大臣は09年度から部分的に先行実施を考えているようだ。子どもたちの現況を憂えた場合、理解できないことではない。殊(こと)に、今改訂で「教育内容に関する改善事項」として掲げた「社会の変化への対応の観点から教科等を横断して改善すべき事項」は急ぐべき内容であろう。
■先行実施したいもの
子どもたちに対して早く手を打ちたい教育内容が横たわっている。本来の教科指導のみでは取り上げにくい内容である。改訂は情報、環境、ものづくり、キャリア、食育など7つを挙げている。これを文科省は「社会の変化への対応」の観点から「教科等を横断」して「改善すべき」事項としている。
子どもたちを取り巻く社会環境は大きく変化している。時々刻々と新たな問題が生起していると言った方がいいかもしれない。
児童生徒の学習には、じっくりと基礎基本を学ばせる教科指導と即時臨時的に対処療法として学ばせる社会指導がある。
この社会指導についてこれまで学校は指導して来なかったわけではない。殊に近年は社会の要請、あるいは関係機関からの依頼により増えているのが実情のようだ。ただ、単発的に知識の伝達という側面が強かったように思える。
だが、改訂における「教育内容における改善事項」は、子どもたちを取り巻く深刻な社会環境の変化を受けて体系的に学ばせようとの意気込みが感じられる。これに学校はどう応えていけばいいか。
そのひとつに、子どもの心身の調和的発達|の指導がある。例えば次のようなもの。このところの、子どもを取り巻く性情報の氾濫(はんらん)はすさまじい。子どもは大人への憧憬(どうけい)があって階段を踏んで徐々に成長していく。だが、時に大人の邪(よこしま)な利益追求や欲求は、その階段を取り払い調和的な発達を奪うことがある。近年はそれが目に余る。私たちは、子どもが子供時代に一様に幸せを享受しなければ、やがて到来する社会が望ましいものになり得ないということを知らなければならない。
学校はその観点に立って、同様に食育やキャリア教育等も体系的な指導計画を創造しなければならないだろう。
■人的支援なくしては困難
そのためには文科省は各学校が実践を進めやすいような政策を立てる必要がある。その骨格になるものは人的支援、すなわち教職員定数改善である。これまで、文科省は数々の政策を学校に示してきたが、残念なことに人的支援を欠いたばかりに理念倒れになったものが少なくない。
さいわい、「審議のまとめ」は教師が「子どもたちと向き合う時間の確保」に言及している。つまり教員増を求めている。定数増政策に道筋を付けない限り新学習指導要領は腰砕けになるのでは―と気掛かりだ。
八重山毎日新聞 2007年11月29日
首相の決断に期待する どうなる教員定数増
財務省の財政制度等審議会が二〇〇八年度予算編成に関する建議を額賀福志郎財務相に提出し、予算編成作業が本格化している。
建議は歳出削減路線を堅持することを強調している。しかし、衆院の解散・総選挙を視野に格差問題への対応など、与野党を問わず予算の増加要求が高まっている。
こうした中で、文部科学省が重点要求している公立小中学校の教職員の定数増に対して、建議は「必要な状況にない」と切り捨てた。財務省の意向に沿った形だ。
自民党の文教族議員たちは、「頑張る学校応援団」を結成して、首相官邸に定数増の実現を働きかけることにしているが、文科省と財務省の綱引きがどうなるかなど、先行きは不透明そのものだ。
福田康夫首相は、就任後の所信表明演説で「教育は、家庭にとって極めて関心の高い問題。学校のみならず、家庭、地域、行政が一体となって、教育の再生に取り組む」と言明した。安倍内閣が設置した教育再生会議も残した。
首相の教育重視の姿勢は、変わっていないものと考える。先生たちが子どもたちと十分に向き合える時間を持つためにも、教職員の定数増は必要なのではないか。
厳しい予算折衝になろう。最後は福田首相の政治決断にゆだねられるかもしれない。首相の勇断を期待したい。
文科省は来年度予算の概算要求に、教職員七千百二十一人の増員と給与の一部に充てる百六十七億円の義務教育費国庫負担金の増額を盛り込んでいる。来年度から三カ年で定数を計二万千三百六十二人増やす計画だ。
文科省が定数増を求める根拠は、六月の学校教育法改正だ。校長ら管理職を補佐する「主幹教諭」を新設できるようになったからだ。主幹教諭の授業時間数を一般教諭の半分に減らすことで教員の補充が必要になる。
概算要求時の文科相である伊吹文明自民党幹事長は「法改正だけでは教育改革はできない。現場の人間や予算が必要だ」と強調していた。当然のことだ。
現内閣の渡海紀三朗文科相は教職員定数の大幅増を求めたことについて「方向性は正しい。年末の予算編成に向けて、わたしも財務当局との折衝をしっかりやる」と述べている。
財務省は、児童生徒の減少率に比べて教職員の減少割合が少ないことなどを理由に、定数増に反対する。少子化で実質的に教職員が増えたと主張する。
しかし、文科省によると、生徒指導の負担が増えて、教員の月平均残業時間が増える傾向にある。保護者からのクレームについて対応に苦慮したり、複数の役務を抱えて先生たちは忙しくなっている。
行政改革推進法は教職員数について「児童、生徒の減少に見合う数以上の純減」を定めている。文科省は定数増が認められれば行革推進法の見直しを求めるといい、財務省は定数増はこれまでの歳出削減改革の努力を壊すと反発する。
文科省と財務省の溝は深い。年末まで、つばぜり合いが続きそうだ。
東奥日報 2007年11月26日
高卒学テ案 また「入り口」いじりか
教育再生会議が大学進学者の学力を担保するため、志願者に資格試験を課し、合格できなければ大学受験できない「高卒学力テスト(仮称)」導入検討の議論を始めた。
十八歳人口減少による大学全入時代到来を控え、入学者の学力低下が見過ごせない課題として浮上してきたためだ。大学の約三割は授業で高校の内容を教えているという報告もある。早急に手を打たなければ国際競争に打ち勝つ人材を育てられないとの指摘は的外れではなかろう。
現在、日本の大学は淘汰(とうた)の波にさらされている。特に私大は深刻だ。四年制私大は全体の約四割が定員割れである。
私大にとって、学生確保は経営の根幹にかかわる。そのため推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試の名を借り、学力試験を課さない形での学生囲い込みが目立っている。そんな「青田買い」が、学力不足の大学生を増加させたと再生会議は指摘するのだ。
学力試験の軽減を進めた大学側に責任はある。しかし、責任を大学だけに押しつけるわけにもいかないだろう。本来、学力は小中高校の問題である。
日本の勉学システムが大学受験と密接に関係していることも理解しておかなくてはいけない。入試改革のたびに高校は振り回されている。未履修問題はその裏付けだ。
一方、企業は企業で、大学教育に大きな期待をしてこなかった。就職活動で大学教育が実質三年間になっているのに批判もない。大学教育に成果を求めないのでは、学生が勉強しないのも無理はない。大学生の学力低下は日本社会の構造的問題として受け止めるべきだ。
米国、イギリス、フランスなど、先進国には大学受験に資格試験を課す国が多い。米国は資格試験をパスしてなくても大学編入が可能な州立学校が用意されている。ただし、授業は厳しい。誰でも大学で学ぶチャンスが提供されているとともに、出口での質も確保されているのだ。
それに対して日本はいまもって大学の入り口論に終始している。今回の高卒学テ案も同様だ。有効な学力向上の手だてを尽くさず、大学教育軽視の土壌にもメスを入れずして、資格試験とは短絡的すぎる。手をつけるべきことはもっとあるはずだ。
資源のない日本が生き残るには優れた人材の養成しかない。日本の知的レベルを上げるためには大局的視点に立った改革が求められている。
高知新聞 2007年11月24日
評価は定まっていない
「土佐の教育改革」を評価する人としない人との割合が、ともに約35%と拮抗(きっこう)していることが本社などによる県民世論調査で分かった。
「わからない・無回答」も約30%おり、県民の見方はほぼ三者三様に分かれている。課題によって成果にばらつきがあり、まだ判断がつきかねている県民の多さがうかがえる。
同時に、「土佐の教育改革」の中身についての関心が、県民運動と呼べるほど高まっていないことも裏付けられた。
「百年の大計」といわれる教育だ。改革から十年余りの段階で、成否について判断を下すのは時期尚早という意見もあろう。だが、改革の成果に県民が必ずしも満足していないのはなぜか。多角的に検討していく必要がある。
「土佐の教育改革」は橋本県政の重要施策として一九九六年に始まった。「学力向上」「教員の資質・指導力の向上」「学校・家庭・地域の連携」の三つを大きな論点に、公開の場で討議を重ねてきた。
県教委は昨年、改革十年を振り返り、教職員や保護者の意識が高まったものの、成果が必ずしも学力向上につながっていない、と総括した。
改革の中で、全国的にも注目を集めたのが「開かれた学校づくり」などの施策だ。保護者代表も加わり、各校に「開かれた学校づくり推進委員会」が設置された。改革の効果で地域との連携を重視する姿勢が教職員間に浸透したことは間違いない。
指導力の向上には、児童生徒による授業評価が実施され、双方向の授業が模索されるようになった。
一方、保護者が特に期待する学力については、全体の底上げには至っていないとの課題が残されている。
こうした「土佐の教育改革」が目指す方向やその達成状況とは別に、県民個々の教育に対する考え方や要望がある。とりわけ保護者は期待や思いが強い分、評価についても“辛口”にならざるを得ないだろう。
だが、より耳を傾けなければならないのは、改革が始まった当初、小中学校に通っていた“改革世代”の声ではないか。
その「学生(二十歳以上)」をみると、否定派が肯定派の実に二倍もいる。県民全体の傾向に比べ、この評価の厳しさは際立っている。彼らが突き付ける「ノー」は何を意味しているのか。
改革の歩みを止めないためにも、その検証を避けてはならない。
高知新聞 2007年11月20日
「公教育」の存在意義示せ
県内の高校教員らでつくる教育研究所が、情報公開請求で県教育委員会から入手した資料を基に、学力格差を生む背景として各家庭の資力が大きく影響を及ぼす実態を明らかにした。この数年来「格差社会」のひずみが問われだしているが、その現状を具体的に裏付けたデータといえよう。
憲法が保障する「教育の機会均等」もなし崩し的に変質、家計状況で子どもの将来が決定付けられていく社会が出現している。
県立高全日制のうち、二〇〇五年度に生活保護世帯などで授業料減免を受ける生徒の割合が多い上位十校をみると、八校までが中途退学者が多い上位十校の中に含まれていた。学力不振が指摘されるいわゆる「課題集中校」が軒並み減免率が高くなる一方、減免率の低い上位十校は、いずれもトップ級の「進学校」であった。
同じ県立高でありながら、減免率の最大、最小の格差は五十倍以上に達し、年を追うごとに広がる傾向にある。「公教育」の土台そのものが崩れる状況にあって、教育行政は格差是正に向けた有効策を打ち出すべきであろう。
ところが県教委は本年度、県立高十校を「学力向上進学重点校」に指定、新たなエリート校づくりともいえる進学実績向上のための対策を始めている。実績の数値目標を掲げさせ、その達成のため一定の予算面の優遇をするというものだ。重点校は授業料減免率が低い上位十校のうち五校が含まれており、比較的に家計が安定した生徒たちが多く通っている。
一方で県教委は課題集中校など五校を、学習意欲のない生徒が多いという印象を与えかねない「学習意欲向上実践校」に指定した。家庭事情からアルバイトをせざるを得ない生徒たちが多い実態に配慮することなく、意欲性だけに特化して改善が図れるだろうか。高校をランク付けするような指定校制は、学校格差の固定化や助長につながりかねない。
県内公立高の進路状況調査によると、毎年、課題集中校を中心に全卒業者の一割弱がフリーアルバイター(フリーター)になる。県教委の三年前の調査でフリーター選択の理由を聞いたところ、希望した職に就けなかったり、事情があって進学希望をあきらめたり、本人が意思をあいまいにしたりする回答が七割近かった。
不安定な被雇用層を多く出すほどに、格差社会を定着させる流れをつくり出す。企業の都合に合わせて安いコストで雇用調整できるシステムに呼応することが、教育の果たすべき役割ではない。
学校や教育行政は、若者を使い捨てる経済構造に対峙(たいじ)し、学力の底上げ策を打ち出してほしい。家庭事情で子どもたちの将来が宿命付けられる社会は決して健全ではない。そこに警鐘を鳴らすことこそ公教育の存在意義である。
神奈川新聞 2007年11月20日
いじめ撲滅への対策が遅過ぎる
いじめ調査の定義が十八年度から変更され、各学校は発生件数ではなく、認知件数の報告に切り替えた。これは、文部科学省が北海道や福岡県などで、いじめを苦に中・高生が自殺するという痛ましい事件が発生したことを受け、被害者の気持ちに寄り添い、被害者の側に立った調査に変更したためである。責任を追及され、自らの意思で死を選んだ校長さえもいる。いじめ問題は、いま始まったことでない。やっと重い腰を上げ、撲滅に乗り出した文部科学省の姿勢に一定の評価はできるが、遅過ぎたとの印象が深い。
滋賀県内公立学校の報告によると、いじめ総認知件数は四百六十四件で、前年度までの発生件数(百十七件)に比べ四倍に達している。小学校と中学校で四倍近く、高校に至っては八倍というから、これまで、いじめに悩んでいた児童・生徒の姿が調査結果からうかがい知ることができる。理由に「冷やかし、からかい、言葉の脅し」「仲間はずれ、集団による無視」「叩かれた、蹴られた」が多い。新たに設けられた「パソコンや携帯電話による誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)」は、中学校で十三件、高校で十八件だった。
自己責任で行う生徒間の暴力は横ばいか減少傾向を示すが、どちらかと言えば、個人の存在を中傷するいじめは責任転嫁の陰湿な行為にほかならない。いじめがエスカレートすると、いじめに遭う子供の心境は計り知れず、堪忍袋の緒が切れた末に、自殺や殺傷事件に発展することを承知すべきであろう。
滋賀報知新聞 2007年11月20日
いじめ調査 教育現場の意識改革必要
全国の小中高校が二〇〇六年度に認知したいじめの件数が計十二万四千八百九十八件にのぼることが、文部科学省の問題行動調査で分かった。
前年度の六・二倍である。専門家はまだ「実態には程遠い」と口をそろえる。深刻さから目をそらしてはなるまい。いじめが絡む自殺者は六人いた。一気に認知件数が跳ね上がったのは、文科省がいじめの定義を拡大したのと、国私立校も調査対象に加えたためとみられる。
従来はいじめを「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」と規定し、その視点で集計していた。今回は「一方的」「継続的」「深刻な」といった条件を削除し、「児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と改め、よりいじめ被害者の気持ちを重視するようにしたという。
いじめの定義や調査方法を変えた背景には、いじめを苦にした中学生らの自殺が昨年相次ぎ、社会問題化したことが挙げられよう。にもかかわらず、いじめによる自殺件数は「七年連続でゼロ」という、およそ実態とはかけ離れた調査結果が文科省から報告されたことなどに批判が集まっていた。
今回の調査結果について文科省は、数字を重く受け止めるとする一方で「学校現場がいじめの発見に努力した結果」と件数の増加を初めて積極的に評価した。
どこまでをいじめに含めるかの判断は、学校や地域によって異なる。実際、都道府県別の児童・生徒千人当たりのいじめ件数は、熊本県の五〇・三件から鳥取県の二・一件まで大きな開きがあった。
いじめの内容では「冷やかしや脅し文句」などが最も多く66%を占めた。気になるのは、パソコンや携帯電話のメールなどによるひぼう中傷の「ネットいじめ」が4%(約四千九百件)あったことだ。本人の知らない間に、悪口やデマが不特定多数に広まる実態が深刻化している。教育現場では「発覚するのは氷山の一角」との指摘があり、今後も増えるとみられている。
調査結果は子どもの立場で使われなければ何の意味もない。重要なのはいじめと真剣に向き合い、解消しようとする姿勢、教師の意識改革だろう。教育現場でいじめの情報をどうやって吸い上げるか、さらにいじめを認知した後の対応、解決にどうつなげていくか。いじめられる側に立って、保護者とも連携した真摯(しんし)な取り組みが求められる。
山陽新聞 2007年11月19日
いじめ調査 一歩前進だが改善点も多い
二〇〇六年度に全国の国公私立の小中高校が認知したいじめ件数は十二万四千八百九十八件で、前年度の六・二倍に達したことが文部科学省の調査で分かった。昨年、いじめ自殺が相次いだ。これを受け、子どもの声を丁寧に拾った結果であり、実態把握が一歩進んだ点は評価したい。
前年度までのいじめの定義は「弱い者に一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」だった。それを今回調査では「児童生徒が攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」に改め、調査も子どもへのアンケートなどの活用を求めた。件数も「発生」ではなく「認知」に変えた。いじめられたかどうかは、当の本人にしか分からない。いじめと感じた子どもの側の声を尊重するのは当然だ。
調査方法に改善は見られたが、まだ疑問も多い。熊本は前年度の百二十五倍に当たる一万千二百五件で、都道府県別で最も多かった。千人当たりの件数も最多で五〇・三件。最少の鳥取の二・一件と二十四倍もの開きがある。
熊本県教育委員会は昨年十一月、いじめを苦にした自殺予告の手紙が県内から文科相あてに届いたのを受け、全公立小中高校の児童生徒を対象に無記名の緊急アンケートを実施。この結果などを精査して文科省に報告した。一方、鳥取県教委は「文科省の指示通り」に調べたという。地域によってこれほどいじめの件数に差があるとは考えにくい。無記名アンケートの結果を踏まえた熊本の方が、より実態に近いと見るのが妥当だろう。熊本と同様の方法で調査すれば、全国のいじめ件数は大幅に増えるのではないか。
過去七年間「ゼロ」だったいじめ自殺も、今回は六人いた。調査結果が実態とかけ離れているとの批判を受け、自殺の主な原因を一つ選ぶ方式から、複数選ぶ方式に変えたためだ。それでも全体で百七十一人だった自殺者の中で、いじめを受けていたのは六人しかいないというのは信じ難い。また、今回認知したいじめの81・0%は「解消した」としているが、それほど容易になくなるものなのか、疑問だ。
〇三年の中央教育審議会の答申では、いじめ、校内暴力を「五年間で半減」と数値目標を掲げていた。それからすると、今回は百八十度の方針転換だ。数字にこだわれば、件数を減らすために学校現場で「見て見ぬふり」が起こりかねない。問題の解決は、正確な実態把握から始まる。今回の調査が実態に一歩近づいたとは言え、都道府県の認知件数のばらつきなど調査方法で見直すべき点はまだある。
いじめを先生が発見した割合は、一九九七年度の33・8%から26・6%に低下した。パソコンや携帯電話を使った「ネットいじめ」は全体の4%。氷山の一角だろうし、さらに見つけにくい状況が起きている。いじめを防ぐには、先生がいじめられる側の痛みを教えるとともに、子どもとゆっくり話せる時間が必要だろう。そのゆとりを先生にどうして与えるかは、文科省が取り組むべき課題だ。
熊本日日新聞 2007年11月19日
いじめ調査 実態把握へまずは一歩
小中高校でのいじめが昨年度、約12万5000件で前年度の6倍以上に急増したことが文部科学省の調査で分かった。子どもの声を重視した調査方法に改めた結果だが、いくらか実態に近づいた数字ではないか。
いじめは、しつこく金品をたかるなど明確に判断できるケースだけではない。むしろ客観的にとらえることは難しい。軽い冗談にも心を痛める子どももいるだろう。調査結果を直視し、子どもたちとしっかり向き合える方策を探りたい。
文科省はこれまで、いじめの定義を「弱い者に一方的に攻撃を加え、相手が深刻な苦痛を感じた」としていたが「心理的・物理的攻撃を受けたことで精神的苦痛を感じた」と大幅に緩めた。児童・生徒へのアンケートも学校側に求めた。
文科省は件数の急増を「学校がいじめ発見に努力している証拠」と評価した。2003年に中教審が「5年間でいじめ半減」という数値目標を掲げていたことを考えれば、方針の大転換といえる。
「悪い数字は減らさなければならない」と学校現場が数値にこだわると対応を誤る。いじめを認めようとしない動きが再び広まらないよう意識を高めたい。
福岡県筑前町で自殺した中学2年男子の母親は「学校、先生が素直に事実を公開できる仕組みを作り、発見と解決が評価されることが必要」と話している。1件でもいじめを発見し、早い段階で解決する態勢をつくることこそ大切だ。
いじめのない学校は理想に違いない。しかし、いじめがあることを前提に対策を考えるのが、今は自然ではないか。
今後の課題として注目したいのは、いじめ発見のきっかけである。先生が発見した割合は1997年度には33.8%だったが、今回26.6%に低下した。また子どもの訴えで分かったケースも43.6%から28.7%に減った。先生と子どもたちの希薄な関係が浮かんでくる。
先生に相談できない子どもが増えてくるのは寂しい。また先生に相談すれば、逆にいじめがエスカレートするのでは、と心配する子がいるとしたら、そうした環境も変えていかなくてはなるまい。
鹿児島県内の公立校の場合、子ども本人や保護者の訴えでいじめが分かった例は51.3%と、全国平均より10ポイント以上高かった。県教委は「学校への信頼が残っているのでは」と分析している。
「いじめのサイン」を見落とすことがないように、先生と子ども、保護者の信頼関係をさらに深めていきたい。
南日本新聞 2007年11月18日
いじめ調査「真摯に実効ある対策を急げ」
2006年度に全国の国公私立の小中高校などで認知されたいじめの件数が12万4898件に上ることが、文部科学省の調査で分かった。前年度の2万43件の6.2倍、小学校では5千件から6万件へと一挙に12倍に激増した。
昨年相次いだいじめ自殺やその隠ぺい問題を受け、文科省がより実態に近い数字を把握しようと、いじめの「定義」を拡大したほか、国私立校も調査対象に加えたからだ。
いじめ件数の急増ぶりにショックを隠せない保護者や学校関係者も少なくないだろうが、定義が見直されるたびに件数が大きく変動するのは過去の例でも明らかである。要はこの数字から何を読み取り、いかに今後のいじめ防止対策に反映させていくかだろう。
子供たちが安心して過ごせ、居心地のいい場所になるように学校の在り方を根本的に見直すとともに、地域社会も参画してさまざまな支援の手を差し伸べることがますます求められるのではないかと考える。
今回の調査結果について、文科省は「定義を広げ、可能な限りいじめを拾い上げた」と説明しているが、いじめを苦に自殺した子供の遺族らからは疑問の声が上がっている。
調査では自殺した児童生徒は171人で、このうちいじめが絡んだ自殺は6人としているが、高一の長女をいじめ自殺で亡くし、全国で講演活動を続ける特定非営利活動法人「ジェントルハートプロジェクト」の小森美登里さんは「実態と懸け離れた数字。いじめもいじめ自殺もこの百倍あっておかしくない」と語っている。
「5年間でいじめ半減」を提唱した03年の中教審答申に代表される数値主義≠ノより、学校現場でいじめ隠しが行われているのではないかと疑問視する声も少なくない。
また今回の調査では、認知したいじめの81%に当たる10万1089件は「解消した」とされ、文科省は「件数は真(しん)摯(し)に受け止めるが、学校現場が多くのいじめを把握、解決する努力をした結果」としている。
だが、こうした見解を額面通り受け取るには疑問がないわけではない。
昨年秋、学校内のいじめが原因で福岡県筑前町の中学2年男子生徒と北海道滝川市の小学6年女児が遺書を残して自殺したが、福岡のケースは1年時の担任教師が生徒の両親から受けた相談内容を同級生に暴露したことなどが自殺の原因だった。
北海道の場合は、いじめを示す遺書があったにもかかわらず学校や市教委は「いじめはない」として1年間も公表しなかったが、遺書内容が報道されるとようやくいじめを認めた。
こうした事例に象徴される学校や教委などの無為無策や不適切な対応、さらには特有の隠ぺい体質が改まらない限り、子供たちが自ら命を絶つような悲劇はなくならないのではないか。
大事なのは学校や家庭、地域、行政が一体となっていじめと真正面から向き合い、根絶する態勢を構築することだ。学習指導要領を含め、学校の在り方をいま一度見直したいものだ。
陸奥新報 2007年11月17日
「実態データ」には程遠い
文部科学省が発表した二〇〇六年度の公立学校でのいじめの「認知件数」は十二万五千件近くに上り、「発生件数」としてカウントした〇五年度の約二万件に比べ六倍以上に跳ね上がった。県内では三倍近くになったものの、全国に比べれば、まだ増加率は低い。
子どもの行動上の諸問題に対しては、それぞれの実態に応じた対策をとるものだが、同省の調査結果は実態と懸け離れたデータであることをあらためて示した。
「発生件数」は実態に近い意味合い、「認知件数」は学校側の発見に限定した意味合いに受け止められる。だが、わずか一年間で狭義の認知件数が広義の発生件数をはるかに上回ってしまう極めて皮肉な結果が出てきたのだ。
急増要因について文科省はいじめの新たな定義に基づく調査をしたためとしている。これまでの定義から「弱い者に対して一方的」「継続的」「深刻」な行為とした文言が削除され、新定義は「一定の人間関係のある者から心理的、物理的な攻撃を受け精神的な苦痛を感じているもの」とした。
確かに、過去にもいじめのとらえ方を見直して件数が増えたことはあった。一九九三年度は約二万件だったが、九四、九五年度はいずれも六万件前後に急増した。愛知県の中二男子のいじめ自殺がクローズアップされ、当時の文部省は加害、被害双方に問題があるとの見方から「いじめられた側の立場に立った」調査を求めた。
今回、いじめの見方が大きく変わったわけではない。そもそもいじめは継続性があり、弱い者に向けられる。文言削除で増えたという理屈には少し無理がある。
昨年、中学生を中心にいじめ自殺が相次いだ。教師が認知しても有効な対応ができない場合が多かった。中には教師自身が誘発の原因だったケースもあった。悲劇が起きるたび学校は釈明に終始し、対応の遅れや不都合なことを隠そうとする体質も見えてきた。
年中行事化した文科省の「発生件数」調査も批判された。そうした中で、件数報告が多い学校ほどいじめの発見や対策に取り組んだ証しとの見方も強まり、学校は積極的に報告するようになった。
だが、それでも今回の調査結果は、全国平均でみて一校当たり小学校で三件弱、中学校で五件弱しかいじめを把握していないことになる。「その程度しか先生は知らない」「本当はもっと多い」(横浜市内の中学生)といった声も出る。急増したとはいえ、実態とはまだ程遠い調査と見抜いているのは当の子どもたちである。
いじめは水面下のうちに教師が敏感に察知し、適切に介在することが最も大事だ。文科省調査は実態データとみなすには心もとないが、学校が実はあまり察知能力がないことを証明する資料に活用すれば、それなりに意味がある。
神奈川新聞 2007年11月17日
いじめ調査 きめ細かい対応に生かしたい
全国の小中高校で二〇〇六年度に認知されたいじめの件数は十二万四千件余りに上ることが文部科学省の調査で分かった。
二万件余りだった前年度と比べ六・二倍という急増ぶりだ。といっても児童生徒のいじめ環境が激変したわけではない。いじめの定義を見直し、いじめに当たるケースを広く解釈したことが最大の要因だ。
なにより被害者の立場や気持ちを重視する方向に見直したのは評価できる。これまでの調査結果と比べると、より実態に近くなったともいえる。
調査を重く受け止め、それぞれの教育現場でいじめ問題に向き合う意識改革がさらに進むよう望みたい。きめ細かい取り組みで早期の発見と解消に生かすことが肝心だ。
どこまでをいじめととらえるかは確かに難問ではあるが、これまでの定義はやはり無理があった。調査結果も実態を表してきたとはいえない。
つまり、これまでは「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」と規定。一九九四年度以降は「学校の事実確認」という条件を削った。
この変更で全国の報告件数はいったん増えたものの、この十年間は減少し続けた。特に、いじめ自殺が七年連続ゼロという結果はとても調査に値しないものだ。数字を減らすことが目的化したり、いじめ隠しに走ったりするようなことは教育現場にあってはならない。
そこで今回、「一方的」「継続的」「深刻な」の条件を削除した定義に改められた。いじめ被害者の立場にたって広く認定にあたるのは当然だ。
もっとも、定義変更により実態に向き合うことを目指したとはいえ、全容の把握に結びつくとは限らない。十二万件というのは児童生徒百人のうち一人に満たない割合であり、全学校の45%ではいじめがないという結果だ。「なお実態に程遠い」との専門家の指摘があるのは見過ごせない。
都道府県別にみて、いじめ件数にばらつきが大きい点も気になる。前年度比二―三倍から三十倍超までさまざまで、中には百二十五倍というのもあった。本県の認知件数は前年度の約十倍にあたる千八百二十四件だった。調査手法について検証する必要がありそうだ。
いじめの内容は千差万別で、実態はますますとらえにくい。「冷やかしや脅し文句」「仲間外れや無視」などが多いが、パソコンや携帯電話のメールなどによる誹謗(ひぼう)中傷の「ネットいじめ」が急増している。
ネット特有の匿名性や閉鎖性が発覚を難しくしており、氷山の一角ではないかとの見方もある。新たな問題として対応を考える必要がある。
全体として各学校現場のいじめ問題に取り組む姿勢がうかがえるものの、なお不十分といわなければならない。児童生徒の置かれた状況に目を向け、いじめの事実と正面から向き合う姿勢を再確認したい。
愛媛新聞 2007年11月17日
いじめ調査 数より子どもに目を
昨年度に全国の国公私立の小中高校が認知したいじめの件数は約十二万五千件で、前年度の約六倍に急増したことが、文部科学省の問題行動調査で分かった。
昨年相次いだいじめ自殺を受け、被害者の気持ちを重視する方向へいじめの定義を拡大、国私立校も対象に加えたのが要因だ。
言い換えれば、従来の調査方法が実態といかにかけ離れていたかということでもある。
だが今回の結果でも、「実態には程遠い」というのが専門家たちの一致した見方だ。被害を受けた児童生徒は百人のうち一人にも満たない。
都道府県別でみると、前年度比で二―三倍から三十倍を超えるところまでさまざまだ。調査内容の信ぴょう性について疑問が残る。
行政の取り組みの“温度差”もある。熊本県の場合、全公立校生に無記名の調査を行い、個人面談で実態を精査した結果、いじめ件数は前年度の百二十五倍に跳ね上がった。
従来の“数減らし主義”の弊害は、数を減らすことが目的化し、いじめ隠しにもつながることだ。子どもたちの置かれている状況に関心が向けられなければ本末転倒である。
他の都道府県も熊本県の姿勢にならい、数字が増えることを恐れず一人一人の声に耳を澄ますことで、被害者の救済につなげたい。
県内でも、いじめは前年度の約四倍に増えている。いじめ発見のきっかけでは「保護者からの訴え」が全国でいじめ自殺が相次いだ時期と符合するように急増している。
「いじめは命にかかわる問題」との危機感が保護者に高まっていることの表れであろう。こうした認識をより多くの人へ広げていきたい。
いじめ以外で、本県にとって頭が痛い問題が、暴力行為の多さだ。数ではいじめを上回り、児童生徒一千人当たりの発生件数は三年連続で全国ワースト一位となった。
暴力の内訳は「生徒間」が最多で、「対教師」の約二・五倍だ。生徒間の暴力はいじめとの関連がないか、慎重な見極めが必要だ。
公立校では件数全体の約八割を中学校が占めている。だが、中には教員を加配している生徒指導モデル校など、暴力行為を減少させた実績のある学校もある。
こうした学校の情報を共有しながら、いじめや暴力行為に至る前段で早めに手を打つことだ。まずは子どもたちが発するサインに敏感な学級づくり、家庭づくりを目指したい。
高知新聞 2007年11月17日
数字に表れない苦しみに迫れ
昨年度に全国の国公私立の小中高校が認知したいじめの件数が12万5千件と前年の六倍に達したことが、文部科学省の調査で分かった。
昨年、いじめによる自殺が相次いだのを受けて、被害者の気持ちを重視した調査方法に変えた結果である。
県内でも県教委がいじめの定義から「一方的」「継続的」などの条件を削除した結果、全体で前年度の約13・5倍の664件となった。
調査のやり方次第で件数は大きく変わり、いじめの実態がいかに深刻であるか裏付けた結果でもある。数字に表れていない多くの子どもの苦しみ、悩みに迫る対策が急務だ。
■「定義」緩め大幅増加■
今回の文科省調査は、前年度までの「弱い者に、一方的に攻撃を加え、相手が深刻な苦痛を感じた」とした、いじめの定義を「心理的・物理的攻撃を受けたことで精神的苦痛を感じた」と大幅に緩めた。
子どもに対するアンケート調査などの活用も強調された。実際にいじめかどうかは当の本人でなければ分からないことが多い。子どもの声を重視した点は評価できる。
今回の調査でいじめ件数が一気に跳ね上がった。より実態に近づけただろうが、数字以上にある深層の現実を忘れてはならない。
実際、全国の都道府県の調査では方法や定義にばらつきがあり、件数には相当な開きが出た。例えば熊本県の場合は、件数が実に前年度の125倍という結果がある。
調査のやり方次第でこうも件数が変わること自体、いじめが根深くあるということだ。いじめはない方がいいに決まっているが、「あって当たり前」と考えた上で子どもと向き合うことの方が現実的な対応といえる。
■見つける」に力点を■
文科省はいじめが社会問題化した1985年度に全国調査を開始。その後、定義を変えるなどして件数の大きな増減を繰り返してきた。
2003年の中央教育審議会の答申で、いじめ、校内暴力について「5年間で半減」という数値目標を掲げていた。当然、いじめが少ないほど学校や教師の評価につながる。結局、見て見ぬふりやいじめ隠しが横行し、被害を受けた子どもや家族が苦しんだ例は多い。
文科省や教育委員会のいじめ対策が件数減らしだけにこだわり過ぎた反省点だろう。教育現場では一人一人の子どもに向き合い、少しでもいじめや、いじめにつながる状況を見つけだすことに力点を置くべきだ。
今回の調査で、いじめ発見のきっかけについて、教師が発見した割合は以前に比べ低くなった。子ども自身からの訴えで分かることも減っている。
一方でいじめ発見に至るケースとして増えているのがアンケート調査によるものだという。教師と子どもの微妙な距離感を象徴している。
いじめの「早期発見、早期対応」といっても子どもの心が見えなければ対応のしようもない。日ごろから子どもと深くふれあう中で、心の動きやその子どもの人間関係の変化などに気づくことができる。
現場の教師の過酷な勤務実態の改善や教師自身の眼力を高める研修の充実などが図られるべきである。
真のいじめ対策は表向きの件数を減らすことではなく、隠れたいじめを早く見つけだしてやることだ。
宮ア日日新聞 2007年11月17日
今年七月、神戸市の私立高で三年の男子生徒が飛び降り自殺した。携帯電話のメールを使って現金を要求した同級生四人が恐喝容疑などで逮捕されたが、男子生徒は遺書で相手を非難することもなく、「世界一の幸せ者でした」と書き残して亡くなった。
脅迫まがいの言葉が並ぶ携帯電話の画面に追い詰められ、死を選ぶしかなかった生徒の絶望感を思うとやりきれない。
一方で、逮捕された生徒は「遊び半分で始めた」と供述している。被害生徒の携帯電話には面識のない他校の生徒からも嫌がらせメールが送られていた。
被害者の心の傷は自殺に至るほど深いのに、加害者側は面白半分で罪悪感に乏しい。この「ずれ」は従来のいじめより格段に大きく、看過できない。
「ネットいじめ」は親や教師など子どもたちの身近にいる大人の世代にとって未体験の領域だ。事件のあった高校の校長も会見で「ふざけあいだと思っていた」と認識の甘さを露呈した。
ネットに対する大人の苦手意識も手伝って、ネットいじめは深く潜行する。ひとたび、浮上した時には取り返しのつかない結果となる危険性がある。
しかし、実態把握は容易ではない。
文部科学省はきのう公表した二〇〇六年度の学校での問題行動調査で初めて、いじめの態様区分に「携帯電話やパソコンでのひぼう中傷」を加えた。
いじめの認知件数は全国で約十二万四千八百件、そのうち携帯電話やパソコンによるものは約四千八百件に上った。
京都府内の公立学校では二十六件、滋賀県内は三十五件だった。
ここ数年、いじめを苦にした子どもの自殺が相次ぎ、そのたびに「いじめはダメ」と叫ばれ続けてきた。
子どもたちはますますいじめを隠し、携帯電話が格好のツールとなった。今回の数字は「氷山の一角」にすぎない。
佛教大の原清治教授が京都市内の小中学生約四百人に実施した抽出調査では、携帯電話を持つ八人に一人が携帯によるいじめ被害を訴えたという。
中にはネットいじめへの恐怖心から、検索サイトに自分の名前を入れ、悪口が書き込まれていないか、チェックを続ける子もいる。原教授は「その恐怖心を知って掲示板などに悪口を書き込み、検索して初めて相手が気付くようにする『落とし穴型』もある」と警鐘を鳴らす。
京都市教委の呼びかけで先ごろ、PTAや警察、携帯電話会社などが対策の検討を始めた。情報モラル教育などの予防策は当然だが、被害者救済の受け皿や加害者を把握する手だて、法規制の在り方についても多角的に議論してほしい。
ネットの利便性ばかりに目を奪われるのでなく、影の部分で苦しんでいる子どもたちがいる。このことを社会の大人が自覚し、子どもたちの防波堤となるシステムづくりを急ぐ必要がある。
京都新聞 2007年11月16日
学習指導要領 授業時間数増で解決できるのか
よく考えれば分かることだが、教育を「人間形成」という観点で見るか、「学力向上」でとらえるかによって、その方法論は大きく違ってくる。
学習指導要領の改定を進めている中央教育審議会がまとめた中間報告は、勢いを増す「ゆとり教育」批判の圧力に押され、その舵かじを「学力向上」に大きく切ったことがうかがえる。
小中学校で主要教科の時間数や教育内容を増やす一方、現行指導要領の目玉「総合的な学習の時間」を削減。
中学校の選択教科も大幅削減され、必修教科に置き換わることになる。
「ゆとり教育」路線を事実上放棄する180度の方向転換に、戸惑いを覚える現場教師も少なくないはずだ。
求められる「質」改革
現行要領の自ら学び考える「生きる力」の育成を目指すという理念は「ますます重要」とはしている。
だが、手だてとして中教審が示した中身は、学力低下批判に押され、なし崩し的に進めてきた授業時間数、知識・技能の基礎学力重視という流れを追認しただけとしか思えない。
情報や知識の量が無限に拡散していく時代に突入した先進国の共通した教育課題は、知識の多さより、学ぶ意欲と方法をどう育てるかにある。
求められるのは教育の「質」の改革であり、授業時間数を増やすという処方箋せんで済むとはとても思えない。
中間報告は、授業時間数を増やす理由を「教科において知識・技能を活用する学習を行うため」としている。
活用を通して思考力、判断力を育てるという趣旨は理解できる。
しかし、増やすと言っても、週当たりでみれば小学校低学年が2時間、中・高学年と中学校は1時間という限られた枠にすぎない。活用の余地がどれだけあるのか、疑問が残る。
「ゆとり教育」を転換
中教審の基本的な考え方が、前政権から引き継がれた「ゆとり教育」批判としての「学力向上」に主眼があることははっきりしている。
だが、学力低下は「ゆとり教育」の「結果」ではない。社会の変容による勉強に向かわない子どもたちの増大、勉強の意味が教育現場で失われたことによる「原因」なのである。
情報が氾濫(はんらん)し、街にもメディアにも勉強以上に面白いものがあふれ、自由な個性が大事だというメッセージを送る現代社会で、どうして地味で退屈な勉強の意義を見いだせるだろう。
そういう子どもたちの「教育からの逃走」を、授業時間数を増やすことで克服できるのだという。現場への視点がずれているとしか思えない。
問題は、現行要領が自ら学び考える「生きる力」の育成という理念を掲げながら、なぜ生かせなかったのかという検証が不十分な点にもある。
中間報告は、主体的な学びができなかった原因を学校の指導の在り方に帰している。だが果たしてそうか。
自ら学ぶ力の育成という高度な目標を掲げながら、一人一人に目が届く体制でなかったというのが最大の理由だろう。主体的な学び、「生きる力」を育てられる条件にはないのである。
小学校英語の導入、言語力強化…。今回の見直しでまた学校現場に大きな負担が加わる。だが体制は放置され、新たな課題を押しつけられて後は知らぬでは、現場は救われない。
教育の再生と信頼を取り戻すにはもっと多角的な検証の議論が必要だ。
宮ア日日新聞 2007年11月13日
授業時間増 「詰め込み」は避けたい
中央教育審議会の教育課程部会が、学習指導要領を改定して小中学校の授業時間数を一割程度増やす方針をまとめた。
授業時間が増えるのは約三十年ぶりだ。文部科学省が進めてきた「ゆとり教育」の転換となる。
数学(算数)や理科、英語などの主要教科の時間が増える。中教審は、基礎知識を踏まえ、活用する力を身につけるのが目的だと説明している。
この「脱ゆとり」教育が、かつての「詰め込み教育」に戻ってしまってはこれまで積み重ねた教育の経験や意義が見失われてしまうだろう。
暗記中心に偏らず、子どもに「考える力」を身につけさせるためには、教員側にも「教える力」を鍛えることが求められる。
教員増や優秀な人材確保など、現場の創意工夫を保証する文科省の政策も欠かせない。
中教審が「脱ゆとり」を急ぐのは、政府の教育再生会議などから強い学力低下批判が持ち上がったからだ。
授業増は学力向上の手だての一つだが、問題は単純ではない。
経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査では、授業時間が日本より少ないフィンランドが好成績をあげている。授業増が学力向上につながると考えるのは早計だろう。
授業時間を増やしても、知識を暗記するだけの詰め込みに終始するならば肝心の「考える力」も育つまい。
OECDは、日本の子どもの問題点は学ぶ意欲そのものが低いことだと指摘している。その結果、「できる子」と「そうでない子」の格差が広がっていると分析している。
授業増の結果、学ぶ意欲の乏しい子どもがさらに勉強嫌いになったのでは意味がない。それではますます学力格差が広がるだけだろう。
子どもの興味や関心をかきたてる授業の工夫や、暗記に頼らない指導など教える技術の向上が欠かせない。
主要教科に代わって、大幅に削減されるのが「総合的な学習の時間」(総合学習)だ。
子どもが自ら課題を見つけ解決する「生きる力」を身につけるため、五年前から小中学校に導入された。
中教審は「生きる力」をめぐって文科省と社会の認識にずれがあったことを認め、異例の反省文をまとめた。
総合学習がうまくいかなかったとすれば、その原因は何だろう。
文科省は、総合学習のやり方や内容を、すべて学校に「丸投げ」した。
現場では教科書もなく、子どもの自主性を尊重するあまり、指導に尻込みしたという教員も多い。
文科省と学校は、総合学習の成否を検証し教訓を引き出す必要がある。総合学習の導入を朝令暮改の政策に終わらせてはならない。
北海道新聞 2007年11月5日
指導要領改定 生きる力は伸びるのか
学習指導要領の改定内容がほぼ固まった。30年間減らし続けた授業時数を増やす。「ゆとり教育」からの転換だ。
国の方針転換に振り回されるのは、学校と子どもたちである。授業時数を増やせば学力問題が解消されるといった単純な話ではない。日本の子どもに足りないとされる知識活用力を向上させるにはどうすればいいのか、もっと論議を積み重ねる必要がある。
中央教育審議会の「審議のまとめ」は、事実上の答申案である。文部科学省は来年3月に新しい指導要領を告示する予定で、早ければ2011年度からの実施となる。
自ら学び、考え、主体的に判断する「生きる力」。現行の指導要領が掲げているこの理念は、改定後も継続する。全国学力テストでも「応用力」の不足が明らかになった。知識の習得と活用する力を伸ばすには、「生きる力」の必要性が高まっているとの判断からだ。
総合学習の時間は大幅に減らす。代わりに重点にするのは「言語活動の充実」である。
たとえば、社会見学のリポートで視点を明確にして記録、報告する。仮説を立てて観察・実験を行い、結果を評価しまとめる−。総合学習で目指すものを、各教科に振り分けるような印象だ。
中教審は答申案の中で、いまの学校教育に対する“反省”も述べている。生きる力の理念が十分に理解されていないこと、各教科の時間が減り、総合学習との連携が十分でないこと、などを課題に挙げている。
だからといって、主要教科の時間や内容を増やすことで解決する問題ではないだろう。
急な方針転換は、これまで学校が取り組んできた教科横断の学習の芽を摘むことになる。授業時数と学力の相関関係も明らかではない。知識を活用する力を育てるにはどんな指導が求められるのか、中教審は具体的に示す責任がある。
いちばん心配なのは、教員が忙しくなり、子どもに向き合うゆとりがなくなることだ。
中教審は教員定数の見直しを求めている。授業の時間数も内容も増やす中で、きめ細かな指導をするには、習熟度別や少人数指導、特別支援教育の充実が必要であると指摘、教員の増員を要求する。しかし、政府は公務員を減らす方針でいる。教員も例外ではない。
家庭や地域とのかかわりに時間をとられ、事務作業にも追われて、教員の仕事は忙しくなっている。小学校では英語指導も加わる。
負担が増え、疲れ果てる先生が増えるようでは、子どもの「生きる力」の向上にならない。
信濃毎日新聞 2007年11月5日
先生を増やすことも必要/「ゆとり教育」修正
学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会の教育課程部会が、「審議のまとめ」を大筋で了承した。
「まとめ」によると、小学校の主要五教科の授業時数を全体で一割程度増やす。中学校は理科、英語を三割増とするなど必修教科の時間数を増やす。
「総合的な学習の時間」を削減し、前回の改定で削減した学習内容の一部復活も盛り込んでいる。「ゆとり教育」を部分修正した格好だ。
これで実質的な審議は終わり中教審は今月上旬に内容を確定した上で、年明けごろまでの答申を予定している。文部科学省は来年三月にも改定学習指導要領を告示、早ければ二〇一一年度から実施する。
三十年間減らし続けた授業時数を増やすためには、教員の定数をどうするかも課題だ。増員は公務員を削減するという政府方針に逆行するため、予算確保には大きな壁がある。
しかし、子どもと向き合う時間を確保するには、増えている事務作業などから教師を解放する必要がある。
答申案は文科省の教員増員計画と足並みをそろえた形になっている。教員の定数増を実現してもらいたい。
「審議まとめ」が示した授業時数によると、小学校(一単位時間は四十五分)は六年間で現在の五千三百六十七時間が五千六百四十五時間となる。
総合的な学習の時間が、四百三十時間から二百八十時間に減る。その一方で、国語は千三百七十七時間から千四百六十一時間に、算数は八百六十九時間から千十一時間にと、大幅に増やす。
国語、算数とも一、二年の授業時数増加が他学年より多い。基礎学力の向上を図るということだろう。
中学校(同五十分)総授業時数は、百五時間増えて三千四十五時間になる。英語は三年間で三百十五時間から四百二十時間に増えて、最も授業が多い教科となる。
授業時間を増やす大きな理由に、全国学力テストの結果でも課題とされた「知識を活用する力」を身に付けさせることが挙げられている。全教科で「言語力」を向上させるのが目的だという。
具体的な方法論が伴っていないとの批判もあるが、現場の教師自らが指導方法を工夫すべきではないか。国や教育委員会の方針を待つだけの教師であってはいけない。
そうした創意工夫ができるようにするためにも、頑張っている教師には「ゆとりある時間」を与えるべきだ。
文科省は〇八年度予算の概算要求で、今後三年間で小中学校の教職員を二万一千人増やす計画を打ち出している。
財政制度等審議会が開いた部会では「荒唐無稽(むけい)」と集中砲火を浴び、予算折衝でどうなるか前途も厳しい。
福田康夫首相は所信表明演説の中で「先生が子どもたちと十分に向き合える時間を増やす」と言った。
教員の増員計画が空手形にならないようにしてもらいたい。授業増だけに終われば、現場にツケが回ることになる。
東奥日報 2007年11月1日
中教審部会まとめ「入試改革含めた見直し必要」
文部科学相の諮問機関である中央教育審議会の教育課程部会が、小中学校の主要教科と体育の授業時間数を約1割増やすことを盛り込んだ新学習指導要領改定への「審議のまとめ」(中間まとめ)を大筋で了承した。
1980年度以降、減少を続けた授業時間は約30年ぶりに増加に転じ、「総合的な学習の時間」を削減して、ゆとり教育からの路線転換が図られることになる。
だが一方で、今回のまとめは現行の学習指導要領の「生きる力」を育成するという「ゆとり教育」の理念は一層重要と位置付け、「『ゆとり』か『詰め込み』の二項対立」からの脱却をも求めている。
中教審は7日に正式決定した後、国民からの意見募集などを行い、来年1月をめどに渡海紀三朗文科相に答申するが、今回のまとめとほぼ同じ内容となる見込みだ。文科省は今年度内に改定指導要領を告示し、2011年度から実施する予定だ。
しかし今回のまとめについて、学校現場からは不安や困惑の声も少なからず上がっているようだ。これまで5年間のゆとり教育をきちんと検証したのか、入試改革など学習環境整備は依然手つかずではないかという声に文科省は明確に答える必要があろう。
まとめによると、授業時間数は小学校では算数が現行よりも16.3%増、理科が15.7%増となるほか、英語は5年生から必修となり、6年生とともに年間35時間ずつ割り当てる。
中学校では3年間で計155―280時間あった選択教科を1年生で廃止。2―3年生は総合学習に吸収し、両学年とも年35時間を上限に教科指導できることにした。この結果、理科は32.8%増、英語は33.3%増、数学は22.2%増となった。
一方、ゆとり教育のための目玉として設けられた総合的な学習の時間は小中学校とも削減され、小学校で280時間、中学校で190時間となる。
授業時間数を増やし、総合的な学習の時間を削減するという路線転換の背景には、「ゆとり教育の弊害」と指摘する向きも少なくない学力の低下を回復させる狙いがある。
しかし、現行の学習指導要領は従来の知識偏重教育の反省に立って生まれたことを忘れてはなるまい。授業時間数を増やせば、今の子供たちに欠けているとされる思考力や表現力などを含めた「確かな学力」が養えるかといえば、事はそう簡単ではないだろう。
今回のまとめについて、現場の教員からは「教育方針がころころ変わり、現場が混乱する」「机上でない議論をしてほしい」といった不安や困惑の声が聞かれるという。
文科省は今後の学習指導要領の改定作業などを通じ、授業時間数を増やす理由や、「生きる力」を身に付けさせるために何をどのように学ばせるのかなどを、もっと詳しく明解に学校現場に説明する必要がある。
学校の中で子供たちの学習意欲をいかに高めていくのか。そのため高校、大学入試の見直しと連動させ、いかに改革していくのかが急務といえる。
陸奥新報 2007年11月1日
授業増の指導要領 現場の声踏まえ議論を
授業時間の増加で、一人一人の個性を伸ばせる教育が実現できるのだろうか。二〇一一年度から実施される学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会(中教審)の教育課程部会がおととい、「まとめ」を了承した。
一九七七年の改定以来、授業時間や学習量を減らし続けてきた学校教育。事実上の答申案となる今回のまとめは、「ゆとり教育」の全面的な見直しへと、大きくかじを切る形になる。
小学校では主要五教科の時間数を全体で約一割増やす。中学校も理科や英語を三割増やすなど必修教科の時間数を多くする。ゆとり教育の目玉だった総合学習の時間が、小中ともに大幅に削減されるのと対照的だ。
もともと、ゆとり教育は「詰め込み」の反省から生まれた。基本理念は、子どもたちが自ら学び、考え、問題解決できる「生きる力」をはぐくむことだった。学校の週五日制も延長上にある。
今回のまとめは、その理念を実現する手だてが「必ずしも十分でなかった」とし、反省点も盛り込んだ。学校や保護者との間に十分な共通理解がなかった▽各教科と総合学習の適切な役割分担と連携が十分図れなかった―などとしている。相次ぐ批判に押される形だったとしても、自ら検証したことは評価できよう。
その上で「知識・技能を習得し、思考力・判断力を育成するため、授業時間数を増やす」との考え方を打ち出した。しかし、授業時間が多くなることが、生きる力を育てることにどうつながるのか、いまひとつ見えてこない。
文部科学省が公表した全国学力テストの結果をみる限り、基礎知識の理解度や学習意欲の点では全体的によかった。「学力低下批判は的外れだった」との指摘もうなずける。
授業増の方針自体は、先に安倍晋三前首相の肝いりで発足した教育再生会議が打ち出している。それを単に踏襲しただけでないのなら、国民が納得できる根拠を示してもらいたい。
この先懸念されるのは、方針転換による教育現場の混乱である。今世紀に入って、小中の指導要領は一部手直しも含めると、三回も変わることになる。
時の政権の意向で振り回されるようでは「国家百年の大計」もあったものではない。現場や保護者の声を踏まえた議論を尽くすべきだ。性急に過ぎてはなるまい。
中日新聞 2007年11月1日
「ゆとり」転換 実態の見極めが足りぬ
全国学力テストの結果公表から半月も経ずに「ゆとり教育」からの方向転換が事実上決定した。
三十年ぶりの授業時数の増加である。日本の公教育の一大転換にしては現行制度への検証と総括があまりに不十分で拙速がすぎるとの印象はぬぐえない。
学習指導要領改定に向けた中教審教育課程部会の結論は中学理科、英語を三割増にするなど小中学校で主要教科の授業時数を増やし、「総合的な学習の時間」を大幅削減するというものだ。
今回の結論は文部科学相への事実上の答申案となる。早ければ二〇一一年度から実施される改定学習指導要領の全体像を表すものである。
小中学校ともに国語、社会に比べて、算数・数学、理科の増加が顕著となった。英語は小学校五、六年で週一コマ新設され、中学校は現行から一コマ増えて週四コマになる。そうした増加分は主に「総合学習」の削減分を充てたが足りず、結局、総授業時数が増えた。
問題なのはなぜ学習指導要領の改定が必要なのか、その根拠が乏しいことだ。
国は一九七七年以降、学習内容と授業時数を減らしてきた。二〇〇二年度からは完全学校週五日制となり、「生きる力」育成を狙った「総合学習」も始まった。こうした動きが「ゆとり教育」である。従来の「詰め込み」では創造的な研究や仕事をする次代の人材が生まれにくい―との反省から生まれたものだ。
しかし、〇三年の経済協力開発機構(OECD)による「学習到達度調査(PISA)」で日本の子どもが順位を下げたことによって、「ゆとり」が学力低下を招いたとの反発が噴き出した。特に教科内容三割削減と引き換えに登場した「総合学習」への風当たりは厳しい。
文科省はこうした一部世論や政財界の外圧を押し返せず、「ゆとり」見直しを余儀なくされ、今日に至ったというのが実情だろう。
学テ結果反映せず
だが、授業時間数の増加と学力向上の因果関係を示すデータはない。さらに、PISAに参加した子どもは旧学習指導要領下で主に学んでいたのである。
「総合学習」の功罪も検証されていないままでの、「総合学習」の授業時数削減と、機械的な主要教科の授業時数増加は乱暴すぎよう。
審議まとめには「生きる力」に関して、「文科省と社会との間に共通理解がなされなかった」との反省が盛られた。「ゆとり」への何らかの総括が必要と判断しての文言だろうが、これでは総括になっていない。
共通理解を得る努力はしたのか。総合学習の指導法の研修や改善が現場で共有できたのかなど、検証すべき点は数多いはずである。
先日公表された全国学力テスト結果を反映させてないのもおかしい。結果を分析したうえで指導要領を見直すという手順が筋だろう。実態の見極めが明らかに不足している。
PISAでは日本の「学校外」での学習時間の短さも浮き彫りとなっている。学力の責任は学校にのみ押し付けるものではない。学ぶ意欲の低下など、根源的な問題の改善策も示されていないようでは現場は混乱するばかりだ。
中教審は教育環境整備として、教員増加を明示したが、実現しなければ改定指導要領の破綻(はたん)は目に見えている。その時、しわ寄せを受けるのは子どもである。猫の目のように変わる改革に対して疑問は積もっている。慎重な議論と詳細な説明を尽くさなければ禍根を残す。
高知新聞 2007年11月1日