地方紙社説(2007年9〜10月)


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全国学力調査 結果生かすことに全力を

「知識を活用する力、特に国語力に課題が見られる」

今年4月、43年ぶりに文部科学省が実施した「全国学力・学習状況調査」で、県内の小中学生の学力はこのように評価された。県教委や各市町村教委、学校現場は、この結果をどう受け止めるのか。

調査は小学6年生と中学3年生を対象に実施、全国で約222万人、県内では約1万8500人が受けた。教委や学校が全国のデータと比較して、課題改善を図ることなどを目的としている。

教科は国語と算数(中学生は数学)で、基礎的な「知識」を問うA問題と、知識の「活用」を調べるB問題の2種類で実施。県のB問題正答率は全国平均を下回った。国語Bの正答率は、小中学生とも全国で低い方から3番目で、国語の場合、中学生はA問題もワースト4だった。

B問題は、課題解決のための構想を立て、実践し、改善につなげる力を試す。その正答率が全体的にA問題に比べて10〜20ポイントほど低かった。

国語力は「話す」「聞く」「書く」「読む」能力であり、すべての学習の土台となる、実生活に不可欠な力でもある。それが不足していることは、県学力診断テストや和歌山、岩手、宮城、福岡の4県で昨年度まで実施した統一学力テストでも指摘されてきた。

この課題をいかに克服し、国語力の向上を図るか。

テストに合わせ、学習意欲などを質問した調査では「国語の勉強は大切だと思いますか」との問いに、県内の小中学生のほぼ9割が「当てはまる」「どちらかといえば当てはまる」と答えた。子どもらは問題の大切さを認めているのだ。この認識を生かし、国語力の向上に生かすための指導が、県の教育界挙げての課題となる。

全国調査だったが、結果の公表は都道府県別にとどめられた。文科省によると、大都市やへき地など、地域規模で大きな差は見られず、ほとんどの都道府県が全国の平均正答率のプラス、マイナス5%の範囲内にあったという。

県教委は今後、教育関係者らでつくる「県検証改善委員会」で結果の分析を進めるが、市町村や学校ごとの公表はしないという。結果を公表せずに、どのように今後の教育に生かしていくのか。県教委の責任と手腕が問われる。

全国学力調査は、来年度以降も続ける予定という。しかし、その結果を今後の教育に生かさなくては調査の意味がない。「テストはしました」「結果は公表しません」「今後の教育にどう生かすかはこれからの課題です」というだけでは、教育現場を混乱させるだけに終わりかねない。

実際、県内では毎年、公立小中学校を対象に独自の学力診断テストを実施している。そこから得られた膨大なデータをこれまで、どのように生かしてきたのか、今後どう活用するのか、という点検も欠かせない。

巨額の税金を投じ、大掛かりに実施した調査である。それを都道府県のランク付けだけに終わらせるのではなく、学力を向上させ、子どもたちの学習、生活環境の改善のためにこそ、有効活用する必要がある。今回の調査で明らかになった弱点を見極め、対策を講じることこそ肝心だ。(E)

紀伊民報 2007年10月31日

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「ゆとり」修正 心配な教育現場の負担増

中教審の教育課程部会が、学習指導要領改定に向けた事実上の答申案である「審議のまとめ」を大筋で了承した。批判の強かった「ゆとり教育」を部分修正し、中学理科、外国語(英語)を三割増にするなど小中学校で主要教科の授業時数を増やし、一方で現行の指導要領の目玉として導入された「総合的な学習の時間」を大幅に削減した。

「ゆとり教育」がゆるみにつながり、学力低下を招いたと経済界などから非難されていた。審議まとめは、全国学力テストの結果でも課題とされた知識を活用する力を身に付けさせるには、現在の授業時数は十分ではないとして、増加を打ち出した。

答申は、年明けごろまでに行う予定で、文部科学省は来年三月、約十年ぶりとなる改定学習指導要領の告示を目指している。早ければ二〇一一年度にも実施される。

授業時数増以外にも、審議まとめは小学校の英語活動の必修化や中学校の武道必修化のほか、伝統文化に関する教育や道徳教育の充実などを盛り込んだ。教育基本法改正を受けての取り組みが目立つ。

問題は、盛りだくさんな教育内容に、教育現場が対応できるかどうかだ。審議まとめは、教員を増やす必要があると強調した。条件整備に言及したのは異例だが、教育環境が整わなければ現場は混乱しかねない。

総合学習の大幅削減は納得できない。自ら学び自ら考える「生きる力」をはぐくむという導入の狙いは、軽視してはなるまい。審議まとめは「各教科との適切な役割分担と連携が図れていない」と反省点を記したが、改善策がはっきりしない。中教審は答申に向け、教育現場に根差したさらなる議論が必要だ。

山陽新聞 2007年10月31日

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君が代不起立 氏名収集の不当性は明白

県教育委員会が県立高校の入学式、卒業式での君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を収集していることについて、県個人情報保護審査会が県教委に是正を求める答申を行った。

不起立を「過去に日の丸・君が代が果たしてきた役割を踏まえた、一定の思想信条に基づく行為」と認定、不起立者の氏名収集は、思想信条に関係する情報の原則取り扱い禁止を定めた県個人情報保護条例に違反するとした。

県教委はこれを受け、二〇〇六年から収集してきた延べ百九十三人分の資料を廃棄する方針を示した。答申は憲法が保障する「思想良心の自由」を具体化したものとして高く評価したい。

答申のポイントは、不起立情報を「外部的行為」「内面に係わる情報ではない」とした県教委の主張を退け、明確に思想信条の問題と認定した点だ。

現在、都教委など一部自治体教委は、君が代斉唱時の起立、斉唱を教職員に職務命令し、従わない教職員には処分を行っている。しかし、そのような「強制」は、思想良心の自由の侵害であるとの疑いは免れず、数々の訴訟が提起されている。司法の判断は分かれているが、懲戒処分してまで起立、斉唱させるのは行き過ぎだとして、憲法違反と認定、損害賠償を命じる判決も出ている。

一方、県教委は今のところ、不起立の教職員に対する処分は行っておらず、校長を通じて「粘り強く指導していく」とのスタンスだ。しかし、問題となった氏名の収集は、不起立者への一種の「圧力」であると同時に、処分の前提資料にもなりうるものだった。答申の意味は大きい。

条例は、思想信条に該当する情報であっても、あらかじめ個人情報保護審議会の意見を聴いて必要との答申を得れば、取り扱いは可能だとする例外規定を設けている。県教委はこの例外規定を使い、来春以降の入学式、卒業式でも氏名収集を行う姿勢を見せている。答申も例外規定による収集再開の可能性を示唆している。しかし、今回の答申が出たことを踏まえ、県教委はこれまでの対応を大きく見直すべきだろう。

日の丸・君が代は国旗・国歌として法定され、多くの国民に受け入れられている。然るべき敬意を払われて当然であろう。しかし、答申が指摘するように、一定の歴史観・世界観、思想信条に基づき「起立できない」「歌えない」という人々がいるのも認めなければならない。積極的に式を妨害するなど他者の人権を侵害するようなケースでない限り、そのような人々の人権も守られなければならない。それが、基本的人権の尊重を定める憲法の原則である。

各学校現場の知恵と工夫、柔軟な対応によって、憲法が求めるバランスは実現できるはずだ。

神奈川新聞 2007年10月30日

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歴史教科書 こんな検定は要らない

教科書検定は今のままでいいのか。沖縄戦の集団自決をめぐる記述の問題は、そんな疑問を抱かせる。

時の政権の意向を反映したような検定意見を出したかと思えば、次には手のひらを返すように記述を変えようとする。こんなやり方は、教科書作りになじまない。検定制度自体を見直すことも考えたい。

沖縄戦の集団自決で、日本軍の強制があったか、なかったか。高校の日本史教科書での記述をめぐり、文部科学省は迷走している。

今回の教科書検定は、軍の関与を削除するよう求めた。それまでは強制があったとの記述は認められていたのに、突然の方針転換である。教科書会社は記述を修正し、検定に合格している。

流れが変わったのは、9月に開いた沖縄県の抗議集会がきっかけだった。検定意見の撤回を求める声に、政府与党が反応した。文科相は「撤回」ではなく、記述の「訂正申請」には応じる考えを示している。

教科書会社は、軍強制を明記する方向で、近く文科省に訂正を求める見通しだ。27日には、執筆者の1人が申請内容を明らかにする異例の記者会見を開いている。

混乱を招いた責任は文科省と教科書検定審議会にある。なぜ今回の検定意見となったのか、説明すべきだ。軍の命令はなかったと元指揮官らが裁判で争っていることを理由に挙げているが、納得できない。復古調の色が強い安倍前政権の政治路線と、無縁だったとは思えない。

結果的に記述削除が間違っていたとするならば、検定意見は撤回すべきだ。教科書会社が訂正を求めたので検討する、では責任をなすりつけたようなものだ。

検定審議会の中立性もあやうい。検定意見のもととなる調査意見書は文科省の職員が作ったものだ。専門的な見地から十分に検討しての削除要請だったのか、疑問を抱かざるを得ない。

教科書検定は、戦前の教育の反省から生まれたものである。政府の見解に沿って口を出すような検定ならば、廃止も含めて根本から見直した方がいい。

歴史の教科書は、とりわけ慎重に扱うべきだ。歴史認識は本来、多様なものである。画一的な見方や考え方を押しつけるようでは困る。選ぶのは学校や生徒の側である。

教科書検定は、執筆者や出版社の自主規制も生みかねない。従軍慰安婦の問題でも日本軍の関与に触れる記述は姿を消した。

著者の創意工夫に期待するというなら、明らかな間違いを正すなど最小限にとどめるべきだ。

信濃毎日新聞 2007年10月30日

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全国学力テスト/薄らいだ島根の学力低下

小中学生を対象に今年4月実施された全国学力テストの結果が公表された。学力低下が懸念されていた島根県の児童生徒についてはほぼ全国平均並みの正答率で、分野によっては全国平均を上回るなどの結果が明らかになった。

しかし、その一方で塾を含む家庭での学習時間が小中学生とも全国平均を下回り、学習意欲の点で課題を投げかけている。

今回の学力テストは全国の小学6年生と中学3年生の全員を対象に43年ぶりに行われた。いたずらに競争をあおるとの理由で中断されていたが、ゆとり教育による学力低下を指摘する声もあって復活させた。

これまでの中断の経緯もあって文部科学省は、結果の公表の在り方について競争を刺激したり、学校ごとの序列化に結びつかないよう慎重を期している。

その配慮は大切だが、必要以上に神経質になって、せっかくの全国規模の試みが教育に十分生かせなくなるようなことは避けたい。

子どもたち自身が自分の学力を客観的に見詰めるとともに、教科指導や家庭、地域の教育環境を考える材料に広く役立てるべきだ。

今回の学力テストを県内では361小中学校、1万3158人の児童生徒が受けた。

その結果、小学6年生では国語の知識を問う国語Aの平均正答率は全国平均を少し下回ったが、知識を活用する力を試す国語Bでは全国とほぼ同じだった。算数Aの正答率は全国並みだったが、算数Bで下回っていた。

中学3年生では国語A、同Bとも全国平均より正答率が高く、数学Aが全国を下回ったのに対し、同Bは上回るという結果だった。

全国と比べた島根県の子どもたちのおおまかな傾向として、基礎的知識より応用力が優れていることがうかがわれる。

しかし一方で▽国語では話したり聞いたりする力に比べ、漢字辞典の引き方など読み書きの力が弱い▽数学では理解度に個人差が大きく、図形や数量関係を苦手とする生徒が多い−などの傾向も浮き彫りにされた。

テストの結果はまずまずとしても、気になるのは学習意欲である。同時に実施された学習状況調査で、授業以外に県内の子どもたちが学習する時間は全国平均より短いことが分かった。

塾を含め家庭で2時間以上学習する中学生の比率は県内の場合14%で、全国平均と比べて22ポイントも下回り、小学生も同じ傾向が示された。国語や算数・数学の教科を好きかとの問いに「好き」と答える比率も小中学生とも全国平均に達しなかった。

家であまり勉強せず教科を好きにもなれない、という消極的な態度が浮かび上がる。都会地と比べ県内には学習塾が少なく、子どもたちの間でも競争意識が薄い。そうした教育環境も影響しているのではないか。

それを牧歌的とみるか、教育の危機と感じるか。都会地の子どもたちと学力に遜色(そんしょく)ない結果が出たが、それは公立レベルでの比較である。

有名校への進学を目指して私立に殺到する都会地の抜け駆け競争をみるとき、県内の子どもたちに学習への動機づけが求められる。

山陰中央新報 2007年10月29日

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全国学力テスト/数字を「独り歩き」させるな

小学6年と中学3年を対象に実施された全国学力テストの結果が公表された。

本県の成績は小学国語が21位、算数が22位、中学国語が23位、数学が32位と、全国平均以下の中学数学を除けばまずまずの結果となった。県教委は本県の学力を「おおむね全国平均」とし、「県教委の取り組み、各校のきめ細かい指導の積み重ねが反映された」と、まずはほっとしているようだ。

しかし応用力である活用する力は中学国語を除いて全国平均を下回り、学習現場での課題が浮き彫りになっている。そのため、知識や技能を活用しなければ問題を解決できない学習の場を設定する必要がある。

文科省の分析でも、「知識」の問題はいいが、それを実生活で応用できるかを試す「活用」に課題がある、としている。ゆとり学習の反省から、「活用重視」を柱に進めている学習指導要領改定のお墨付きにしたいという文科省にとっては、今回の結果はシナリオ通りのものである。

活用に課題、というのは、1980年代の国際学力テストなどで「計算はできるが応用は苦手」とされたように長い間、日本的学力の課題とされ、今回の学力テストであらためて、応用力不足が明らかになった。

県教委は今回の結果を受けて、文科省委託で設置した有識者会議「県検証改善委員会」と共同で、授業改善サポートブックを各校に配布する。と同時に模範となる模擬授業を各校にネット配信するなどの支援事業に取り組み、応用力不足の課題解決を図るという。

全国の状況は、都道府県ごとの成績のばらつきはあまりなく、ほとんどが平均正答率プラスマイナス5ポイント以内。1―3の地域がワンランク上か下という結果だ。大都市とへき地との格差も縮小した。

学校ごとの成績も約7割が、全国平均正答率のプラスマイナス10ポイントの範囲内に収まり、文科省は「大きなばらつきはない」との分析だ。

今後は文科省から市町村教委に送られる全国学力テストの結果データを、公表するかどうかも課題になる。県内60市町村教委のうち53市町村教委は公表しない方針で、その理由として「数字が独り歩きして、学校間の序列化につながる」などが挙げられている。

一方、「議会で求められれば公表する」「保護者の関心が高いだけに、学校と協議して公表の可否やその範囲、方法を検討したい」など、条件付きながら公表に前向きな教委もある。

いずれにしても、調査の限界を見定め、子どもの姿と離れた数字に振り回されてはいけない。やはりここは、本当に個々の子どもの学習改善につながるかどうか、という原点から考えたい。

福島民友新聞 2007年10月28日

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この現実を直視しよう 全国学力テスト結果公表から

■「強い衝撃を受けている」
このところの本県児童生徒のスポーツや学芸における全国的な活躍には目を見張るものがある。そんな中、25日それを打ち消すかのように全国学力テスト結果が公表された。全国平均を大幅に下回った正答率に「強い衝撃を受けている」(仲村守和県教育長)など教育関係者のみならず県民も等しくそういう思いでいることだろう。ここは「厳粛に受けとめ、県民総ぐるみの学力向上対策を」(同)から再出発したい。

文科省は今年4月、同テストを実施し、今月14日その結果概要が分かった。その時点では、そう悲観しなくていいのではないかー率直にそういう思いをしたのだが、都道府県別平均正答率が公表されるに及んで、そう悠長に構えておれなくなった。本県は全教科で最下位、その上、全国平均を大幅に下回ったからだ。

■空回りだったのか学力向上対策
小学校6年と中学校3年の全員を対象に43年ぶりに実施した学力テストだけに結果が注目されていた。

全国的に見ると、小、中学校とも国語、算数(数学)でA問題(基礎知識を問う)の正答率が約70%―80%に達している。B問題(応用力をみる)は約60%―70%だった。今回の正答率を「予想より高い」と見ていいのではないか。

A問題とB問題との間に小学校で20ポイント、中学校で10ポイント近い差がついたが、問題の性質上このくらいの差は止むを得まい。むしろ、この差を縮小することが学力向上対策と考えれば新たな展開を講じることができよう。

ところが、全国的な総論ではなく、沖縄県としての各論で見れば、とても良しとするわけにはいかない。目を覆うばかりの結果が出たからである。

本県は、昭和63年から全県をあげて県教育委員会の最重要施策として学力向上対策に取り組んできた。その間、それなりの成果を見た。本土国立大学や有名私立大学への合格者の激増などもそのひとつであろう。

今回の全国学力テストのように全国規模の学力比較で見ると、まだ道半ばの感がする。厳しい言い方をすれば、空回りだったのかの疑念さえわく。ここは学校も父母も地域もゼンマイを巻き直して出直さなければなるまい。

どの子にもそれ相当の学力を身に付けさせ、地域からいい人材を輩出しなければ、文化的地域としての発展は望めない、ということを私たちは知らなければならない。素朴で言い古された言葉で言えば「国家百年の計は教育にあり」である。

■適正な活用を
今回のテストは、学力低下批判を受ける中で実施された。この貴重な全国的なデータを学校や教育委員会が、どう活用していくかが問われている。

大都市、へき地などの人口による地域間に差はない。就学援助率が高くなるにつれて平均正答率が下がる傾向にある。つまり、所得間格差等のデータもある。そういうことから学校ばかりが責められるものではない。為政者も乗り出さなければならない。

実施前に懸念されていた教育委員会や学校間の序列化が生じるようなことは避けたい。文科省は本テストを毎年実施する意向のようだが、その必要はあるまい。毎年実施では調査ではなく学力テストになってしまい、適正な活用が損なわれる懸念があるからだ。

つまり、進学塾や受験産業等がこの種の問題集を作成しテスト対策に乗り出すことが十分考えられる。これでは表層的な知識獲得になってしまい真の学力にはならないだろう。そうしたことから、知らずに学校間の競争になり序列化を生むことになりはしないか。それが、できない子の排除という歪(いびつ)な教育を助長をすることにもなりかねない。そのことを過去において私たちは経験している。最近でも、東京都足立区でも校長自らがかかわって似たようなことが起きている。

ここは教育における競争原理や市場原理をかなたに追いやり、データを駆使して授業の中で子どもの学力をつけたい。つまり本テスト結果を「競争道具」でなく「指導資料」として子どもにかざしたい。そうでなければ学力などとても身につかないものである。

八重山毎日新聞 2007年10月27日

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何のための調査だったか/全国学力テスト

全国の小学六年と中学三年一人一人に、学力テストの正誤表が手渡される。だが半年も前のテストでは、ほとんどの児童生徒は問題も覚えていない。テストの結果をこれからの勉強に役立てようとしても、卒業まで時間がない。全国学力テストは一体、何のための調査だったのだろうか。

文部科学省は全国学力テストの結果を公表。基礎的な知識を問う問題の正答率は高かったが、知識を活用する問題の正答率は低かった。応用力が弱いということは、これまでも繰り返し指摘されてきた。七十七億円もの巨費を掛けて全国一斉に行ったテストの結果、分かったこととしては物足りない。

全国学力テストは国際比較調査で日本の学力が低下しているとして、二〇〇四年に当時の中山成彬文科相が提言した。

テストの結果を見ると、過去の学力テストと同じ二十五問のうち二十二問で正答率が高くなるなど、子どもたちの学力は低下していないようだ。

文科省は都道府県別の正答率を発表したが、ほとんどプラスマイナス5ポイントの範囲内で、大都市とへき地の成績にも大きな差はなかった。四十三年前のテストでは格差があったのが解消されており、教育環境が整備されてきたためだろう。

一方で所得が低く就学援助を受けている子どもが多い学校ほど、正答率が低かった。家庭の経済力が、教育に影響を与えており、早急な支援策が必要だ。

本県の正答率は小、中学生とも全国平均を上回り、都道府県別でも上位となった。喜ばしいことだが、その理由については分からない部分が多い。
文科省は都道府県ごとの正答率は公表したが、各教育委員会に対して、市町村別や学校ごとの正答率の公表は、過度の競争をあおり、序列化を進めることになりかねないとして、発表しないよう求めている。

しかし本県の順位に目が行くように、保護者や住民にすれば、市町村や学校の成績が気になるのは当然ともいえる。
全国のすべての小学六年生と中学三年生を対象にした全員調査だから、順番ができ、序列が気になるのであり、一部を対象にした抽出調査にすれば、そのような心配はなくなる。

学習の理解度や全体的な傾向を調べるのであれば抽出調査で十分だ。また一人一人の児童生徒の学力向上を目指すのであれば、学校内のテストや自治体単位のテストの方が有効だ。全国一斉調査の意義はあまりない。

文科省は来年以降も全国学力テストを実施する方針だが、基礎的なデータは今年でそろったので、来年以降は一部を対象にした抽出調査で十分だろう。

わが国の教育費は先進国の中では最低クラス。学力テストにかける七十七億円があれば、教員の増員を図ることもできる。

文科省は学力テストと同時に児童生徒の生活習慣や学習意欲についても調査した。朝食を食べ、規則を守る子は正答率が高かったとしている。だが“理想の子ども像”をイメージし、現実の子どもをその型に押し込めるようなことがあっては本末転倒だ。あえてくぎを刺しておきたい。

東奥日報 2007年10月26日

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全国学力テスト 冷静な分析こそ重要だ

学年全員を対象とする悉皆(しっかい)調査としては43年ぶりとなった全国学力テストの結果が出た。小学6年、中学3年とも本県の平均正答率が、国語と算数・数学で全国トップクラスとなったことに、新鮮な驚きを受けた県民が多いだろう。

教育関係者はもちろん、子供や保護者たちも大きな自信になることは間違いない。

ただし、今回の結果だけをとらえて一喜一憂することは避けなければならない。むしろ結果を冷静に分析し、今後に生かす努力こそ重要である。

全国的にみると、基礎的知識の問題はいいが、それを応用できるかを試す活用力に課題を残す傾向を示した。この点は本県も同様だが、ありていに言えば「案の定」というのが率直な印象だ。

「活用力の重視」を柱に進めている学習指導要領改定のお墨付きにしたいという、文部科学省のシナリオ通りの結果とみることもできる。

都道府県ごとの成績に大きなばらつきはなく、大都市とへき地との格差が縮小したのも特徴だ。学力低下批判が渦巻く中で、「総じて良好」という調査結果には、教育現場は胸を張っていい。

気になるのは、就学援助を受けている子供が多い学校ほど正答率が低い傾向が出たことだ。即断は禁物だが、家庭の所得によって格差が生じているとしたら、看過できない問題である。分析を進め、省庁を超えての対策が求められる。

トップクラスとなった本県は、小学6年が国語と数学の全4種類で全国1位だ。中学3年も、国語の1種類で1位となったのをはじめ、全4種類で3位以上。「予想外の好成績」(県央部の教師)という思いは、多くの教育関係者に共通したものだろう。

原因は何か。県教委が強調するように、平成13年度から全国に先駆けて実施した少人数学習、翌14年度から悉皆調査の形で毎年行っている学習状況調査などが奏功したとする見方は、素直に受け止めたい。

しかし、そればかりではないはずだ。この際、これまでの施策を一度総括するつもりで、きめの細かい多面的なアプローチが必要だ。

本県が好成績を上げたことに冷水を浴びせるつもりはないが、この結果を手放しで喜べないことも指摘しておかなければならない。文科省が公表した都道府県別のデータは、あくまで私立を除いた公立だけのものであり、第一、このテストが示す学力は「特定の一部分」にすぎないからである。

むしろ心配なのは、県内の教育現場から「来年へのプレッシャーだ」との声が早くも聞かれることだ。文科省は来年以降も学力テストを計画しており、来年順位を落とせば何を言われるか分からないという重圧だ。

そんな気持ちで子供を指導するとすれば、それこそ本末転倒である。今後、学校や市町村の序列化を招き、競争を過度にあおる懸念も払拭(ふっしょく)できない。

さらに言えば、77億円も要する悉皆調査が今後も必要か。抽出調査を含め、テストの在り方を見直す議論も必要だ。

秋田魁新報 2007年10月26日

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学力テスト 続ける意義が見いだせぬ

全国学力テストの結果が公表された。基礎学力に問題はないが、応用力が不足している実態があらためて明らかになった。

想定範囲内の結果であり、学力レベルが維持されていたのは喜ぶべきことだろう。

半面、都道府県別の成績にはバラつきが出た。序列化を懸念する声もある。文部科学省は過剰反応をしないよう呼び掛けているが、テストそのものがランキングを競う性格を持っていたといえよう。

学力の水準を確かめるためなら、これまで行ってきた抽出調査で十分だと専門家は指摘している。

二〇〇四年、当時の中山成彬文科相は、抽出を見直し全児童・生徒を対象とすることについて「競い合うことが大事と分からせたい」と述べた。

学力向上のため学校同士、地域同士を競わせるという思惑が今回の全国テストには込められていた。

テストの結果の取り扱いも問題だ。文科省が公表する平均正答率などのデータは都道府県別、地域特性などまでだ。しかし、都道府県教委には市区町村別、市区町村教委は学校別と個人別が渡されていく。

これら資料の公表範囲などを各教委に任せたことで、地方教委の対応は乱れている。新潟市は情報公開の精神に沿った対応をするとしている。その一方で非開示とする市町村がある。

明らかになるデータは部分的でも、つなぎ合わせれば「成績ランキング」の作成は簡単だ。文科省が序列化を招きたくないというなら、公表基準をしっかりと示すべきではなかったか。

学力テストは来年も実施される予定だ。このままでは点数至上主義に陥り、成績の悪い児童・生徒を疎外する動きが出かねない。息苦しい教育現場を一層窮屈にする可能性もある。

愛知県犬山市は学力テストに参加しなかった。少人数学級や副教材づくりに独自財源を充ててきた。教育で大切なのは、子どもたちが自ら生きる力を身に付けることだという。地方の個性を生かした環境づくりも訴える。

文科省には膨大なテスト結果が資料として集まった。これをどう生かそうとしているのかが見えてこない。

所得が低いため就学援助を受けている子どもの正答率が低かった。学力の底上げのためには、このようなデータこそ重視すべきだ。へき地と大都市で差がなかったことも興味深い。

文科省は結果を丁寧に分析し、地方分権の流れを生かしながら新たな教育行政に生かす必要がある。ただ、そのためのテストなら毎年行うまでもない。七十七億円もの費用を掛けたテストが、競争の激化をもたらすだけでは教育貧困が進むばかりだ。

新潟日報 2007年10月26日

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学力テスト結果/十分な分析で課題把握を

小学六年と中学三年を対象に国語と算数・数学で実施された全国学力テストの結果が公表され、県内公立校の平均正答率は両教科の基礎的知識を問うA、活用力を問うBともに全国で五位以内に入った。今回の結果は教育関係者らが積み重ねてきた努力の表れといえるが、今後はこの結果を教育現場でどう生かしていくのかが問われる。

県内では昭和三十年代から教職員による自主組織、県小学校教育研究会(小教研)、県中学校教育研究会(中教研)が授業の研究や研修、学力調査を実施している。調査の結果をそれぞれの学校、教員が授業の改善や個別指導に生かしてきた。

一方、県教委は指導主事による全小中学校への訪問を半世紀以上続けている。また、富山市堀川小学校が半世紀にわたって独自の教育理念の下、子どもたちが自ら考え学ぶ力をはぐくむ授業を研究、実践するなど、各校の主体的な取り組みもあり、子どもたちの学力を支えてきた。

テスト結果を受け、県教委と市町村教委、各校がさらなる底上げに向け学力面の課題や生活習慣・生活環境と学力の相関関係などを十分かつ速やかに分析し課題を把握してほしい。授業の改善や児童生徒の一人一人の指導につなげ、教育施策にもしっかりと反映させることが必要だ。生活習慣や生活環境については学校と保護者が情報を共有し、連携して対応を進めることが求められる。データを「宝の持ち腐れ」にしてはならない。

文部科学省は今回のテストに七十七億円をかけ、全国のほとんどの公立校で実施したが、同省はこれまでも全国レベルで抽出調査を行って、学力の動向を把握してきたはずだ。今回の結果について、同省は「知識」の問題は良かったが、実生活で応用できるかを試す「活用」に課題があると分析した。これは長年にわたって指摘されてきたことであり、テストを行わずとも自明ではなかったか。

ほとんどの公立校で行ったために、データの公表は学校の序列化につながりかねないという懸念を生んでいる。ただ、就学援助を受けている子どもが多い学校ほど正答率が低いというデータが得られたことは、「格差」を裏付け、省庁を超えた国の施策の必要性を明確に示した。

文科省は来年以降もテストを継続する方針だが、一年で学力水準や講じるべき施策が大きく変わるとは考えにくい。個別指導に役立てたいのなら、県や市町村、校内でのテストでも良いのではないか。

教育現場が抱える課題は、山積している。多くの教育関係者は子どもたちが人とかかわる能力や、困難に立ち向かう力が低下していると指摘する。こうしたこと
が不登校やいじめの背景になっているのではないか。

よりきめ細かな生徒指導が求められる一方で、学校は保護者からの無理難題への対応にも追われている。教員の増員などで、子どもたちと触れ合う時間を確保すると同時に、保護者や地域が教員と連携する意識を持ち、学校教育にも積極的に参画することが求められる。

北日本新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 気負わずに上位を目指そう

四十三年ぶりの全国学力テストの結果を見て、教育関係者のみならず、県民の多くがひとまず胸をなで下ろしたのではないか。石川県の学力レベルは全国平均より高く、知識の活用力を問われる中学の数学Bは全国三位に食い込んでいた。この詳細なデータは、学習指導を進めていくうえで、まさに「宝の山」となるだろう。

ただ、石川県の場合、北陸三県内での比較では、富山県や福井県に及ばなかった。小学校の国語Bや算数Bでは、平均点が100点満点で3点も福井県に水を開けられている。石川県の授業以外の勉強時間が全国平均より低いことが原因の一端なのかという疑問もわく。

一度の試験で何が分かるのかという声もあるように、たかがテスト、されどテストである。今回の結果をあれこれ深刻に考え過ぎず、さりとて浮かれることもなく、さらに上位を目指すために何をすべきか、あまり気負わずに考える機会にしたい。学校や保護者、地域が問題意識を共有し、学校教育の改善に一歩踏み出すことが重要なのではないか。

石川県教委は、文部科学省の通達に従って、市町別のデータを公表しないが、金沢市や富山市、南砺市は公表する方針である。学校数が多いため、公表しやすい事情はあるにせよ、結果を市民全体で受け止め、現状に即した教育の実現を図ろうとする積極性は評価できる。

文科省や県教委などが市町別データの公開をいやがるのは、「学校間の序列化や過度の競争を招く」からだというが、子どもたちには、高校、大学受験が待っている。実社会に出れば、もっと厳しい競争にさらされる。小さいうちは競争しなくてもよいという考え方は、決して子どもたちのプラスにならない。

私たちは、全国学力テストの正答率が公表された際、知識の活用力に優れた学校がどんな指導法をしているのか、調査すべきと主張してきた。残念なことに、今回の発表には、それがなかった。綿密な調査が必要であり、かなりの時間もかかるだろうが、実績を上げている学習指導のノウハウは貴重である。高得点を上げた小中校を追跡調査し、優れた指導例を広く公表してこそ、経費と手間をかけて統一テストをした意味が生きてくる。

北國新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 数字を独り歩きさせるな

「知識」の問題はいいが、それを実生活で応用できるかを試す「活用」に課題がある。今春、小学6年と中学3年を対象に行われた全国学力テストの結果に基づく、文部科学省の分析だ。「活用重視」を柱に進めている学習指導要領改定のお墨付きにしたいという文科省のシナリオ通りである。

「活用に課題」というのは、1980年代の国際学力テストなどで「計算はできるが応用は苦手」とされたように長い間、日本的学力の課題とされてきたことだ。こんな当たり前のことを再確認するのに77億円もかけて学力テストをやる必要があるのか。

都道府県ごとの成績のばらつきはあまりなく、ほとんどが平均正答率プラスマイナス5ポイント以内。1―3の地域がワンランク上か下という結果だ。大都市とへき地との格差も縮小した。

学校ごとの成績も約7割が、全国平均正答率のプラスマイナス10ポイントの範囲内に収まり「大きなばらつきはない」との分析だ。文科省もまずはほっとしたというところだろうが、それで済ますわけにはいかない。

国には、平均の範囲からこぼれ落ちた地域や学校に、カネと人を含めてどう手当てするかが問われている。ワンランク下となった地域には若年失業率が高いなど学校の努力を超えた問題も背景にある。

単に学校の指導にことを矮小(わいしょう)化して済ますのでなく、格差解消の観点から、省庁を超えた処方せんも考える必要がある。それが学力テストに踏み込んだ国の責任だ。

事態を複雑にしているのは、学年全員参加型の調査であることだ。全員参加となれば、市町村ごと、学校ごとのランキングにストレートに結び付く。教育委員会や学校が結果をどう公表するか、大きな議論となるだろうが、調査の限界を見定め、子どもの姿と離れた数字に振り回されてはいけない。

やはりここは、本当に個々の子どもの学習改善につながるかどうか、という原点から考えたい。

試験から半年も経過、子どもはどう答えたかとうに忘れている。返却されるのは答案でなく、問題ごとの○×のリストだ。「知識」ならいざ知らず、目玉の長文記述の「活用」も○×だけというのでは、どこでどうつまずいたか、肝心な点が分からない。学校現場で、個々の子どもの学習改善に生かすには相当に無理がある。全員参加型調査自体を問い直す必要もある。

結果を学校教育の評価にストレートにつなげるのも考えものだ。

テストは例えば中学数学は21問。これで中学の数学2年間の成果すべてを測れるのか。おまけに「活用」問題は「家庭や地域を含めた実生活に立脚する学力が含まれている」(解説資料)。学力には学校の指導のほか親の経済力、塾などさまざまな要素が絡むということだ。

格差があるとしても、何がそれをもたらしたのか丁寧な分析が必要だ。単に数字の比較を独り歩きさせ、学校間競争や予算配分につなげるようでは、テストのための勉強が横行し、教育はゆがんでくる。成績を上げるための不正が相次いだ東京都足立区の例をみれば明らかだ。

参加を決断したのは個々の教委だ。子どもの分かり方に応じた指導の改善という基本を踏み外さぬよう願いたい。

岐阜新聞 2007年10月26日

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学力テスト  目的も活用策も見えぬ

全国の小中学校を対象に四十三年ぶりに実施された「全国学力テスト」の結果が公表された。

文部科学省は「貴重なデータが得られた」と胸を張るがテストの対象となったのは学力の一部分で、一つの指標にすぎない。

数値が一人歩きして地域・学校間の競争や序列化をあおり、教育現場に重圧をかけるようなことがあってはなるまい。

テストは国語と算数・数学について行われた。基礎知識を問う「A問題」の正答率が高く、知識の応用力を見る「B問題」はそれより10−20ポイント低かった。

文科省は、応用力に課題があるとしながらも「知識を中心に指導の成果が出ている」と分析している。その通りなら、安倍晋三前政権下で、ゆとり教育が学力低下を助長したと批判した教育再生論議の根拠がぐらつくことにもなろう。

一方、渡海紀三朗文科相も「都道府県にばらつきがなく、教育の機会均等は保証されている」と評価したが、全教科で正答率が最下位となった沖縄県の例をはじめ、地域間格差の存在を軽視すべきではない。

学力テストと同時に行われた意識調査でも、就学援助を受けている子どもが多い学校ほど正答率が低いという傾向が見られた。統計上の数字に表れない問題点も見すえた詳しい分析が欠かせない。

問題は、集めたデータをどう検証し、生かすかだ。文科省は、都道府県や政令指定都市の教育委員会に検討委員会を設置し、データの検証や活用策を講じるよう求めているが、肝心の国としてどう対応しようというのかが見えてこない。

国が率先して大がかりなテストを実施しながら、あとの検証や対応は地方まかせとの印象がぬぐえない。しかも、巨額の予算を使って民間業者に業務委託する姿勢は、地方や教育現場の不信をいっそう招きかねない。

テスト結果の公表の仕方にも問題が残る。文科省は、序列化につながらないようにと都道府県別の正答率データなどの公表にとどめたが、市町村や学校が独自の判断でデータを公表することについては容認した。

情報公開制度などを通じて、市町村順位や学校順位などが流布する可能性がある。データが学校間のランク付けなどに悪用されないよう、文科省は責任を持ってデータ公表のあり方を示すべきだ。

文科省は来年以降も毎年、大規模な全員対象のテストを継続する方針という。だが、学力の傾向を知ったり、児童・生徒の指導に生かすためなら、抽出テストや自治体、学校のテストで十分だという声もある。

何のために学力テストを行い、結果をどう活用するのかを、はっきりさせるべきだ。安易にテストを繰り返すだけで有効な分析と対策がなければ、壮大な無駄との批判は免れまい。

京都新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト/どう生かすかが問われる

日本の小中学生は、まずまずの基礎知識を身に付けているものの、活用や応用する力が弱い。これは以前から指摘されてきたことである。

文部科学省が公表した全国学力テストの結果でも、活用力不足という従来の課題があらためて浮き彫りになった形だ。

全国学力テストは今春、四十三年ぶりに実施された。小学六年と中学三年を対象とし、国語と算数(数学)の二教科に絞り、併せて児童生徒の生活習慣も調べた。国公立は一市を除いてすべて参加したが、私学は六割程度にとどまった。

実施理由について、文科省は「全国的な学力や学習状況をつかみ、各学校が課題を見つけて指導の素材に」と説明してきた。学力の国際調査で日本の低下傾向が表れ、批判が高まっていることも背景にある。

結果は、心配されるほどの学力低下は見られなかった。また、都道府県で順位がついたものの、都市部とへき地の学力格差も、比較的小さいことが分かった。

総じて、危機的な状況にあるとはいえないが、幾つかの課題も見えた。家庭の経済事情が学力に影響していることなど、対応の難しい問題も浮上している。

さらに、懸念されるのは、全国一斉テストによる学校の序列化ではないか。過去に全国テストを中止した理由が、学校間競争の過熱だったことを忘れてはならない。今回のテストでも、東京都内の小学校で試験中に教師が答案を指で示して、誤答に気づかせる不正が発覚している。

全国一斉テストを行った以上、指導や施策に生かすべきで、学校間競争の具にしてはならない。二教科以外に生活習慣などの調査も行った。朝食摂取や読書の有無などと正答率の関係を調べているが、こうした結果を学習や生活指導にどう生かすのか、十分に示されていない。これでは、テストの意義が薄れる。

なのに、文科省は来年度の実施を決めた。テスト費用は数十億円かかることを忘れてはならない。日本は教育予算が先進国でも最低レベルであり、重ねて実施する意味や狙いを説明する必要がある。

今回のテストについて「解像度の低い調査結果で、読み取れるものも限定的」と厳しい指摘をする専門家もいる。学力の傾向をつかむためなら、文科省が数年ごとに行っている抽出による学力テストや、地域が独自で行う学力テストで十分だとする意見にも耳を傾けてはどうか。

「次回」を急ぐより、まずは結果の検証や活用にこそ力を注ぐべきだろう。

神戸新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 十分分析して欠点を補え

全国の小学校六年生と中学校三年生計二百二十二万人を対象に今年四月、四十三年ぶりに行われた全国学力テストの結果を文部科学省が公表した。

国語と算数・数学の二教科で、基礎的知識を問うA問題と知識の活用力を調べるB問題の二種類が行われた。子どもたちの学力水準を把握し、教育行政を含む指導の向上に役立てるのが目的である。

結果をみると、A問題は平均正答率が73―82%と高い数値を示した。一方、B問題は61―70%と相対的に低めだった。経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査と同傾向で文科省は「知識を中心に指導の効果は出ているが、活用力に課題がある」と分析している。岡山県は教科・問題別で全国平均をやや下回る項目が多く、広島、香川県は全項目で平均以上だった。

公立校の正答率を都道府県別でみると大きなばらつきはなく、大都市とへき地など地域間でも差は少なかった。過去の学力調査と同一の問題では多くで正答率が上がっており、一概に学力の低下がいえない結果となった。

しかし、専門家はテストの内容に疑問を呈している。基礎知識を問うA問題はやさしすぎ、B問題の方は設問の数が少なすぎ指導上の課題が見えにくいというものだ。大きくないとはいえ地域間で成績のばらつきが出たことについても、文科省は「理由はよく分からない」としている。

仮に問題が不適切なら結果は信頼性に欠ける。少なくとも結果の分析は現段階では十分ではないようで、指導の向上に生かすデータとしては力不足の感が否めない。

だが、文科省は今回の結果を学習指導要領改定や、自治体への予算配分、教員配置など教育施策に生かすという。十分なデータに基づかないとしたら危険である。

文科省は、学力テストと同時に行った学習状況の調査結果も踏まえ生活習慣が身に付いた子は正答率が高く、就学援助を受ける子が多いほど正答率が下がるといった傾向を導いている。これらもいささか早計ではないか。

問題の適否を含め、学校規模や学級人数などのデータとテスト結果をクロスさせて詳細に分析、検討することが先決だろう。都道府県間などの成績差の要因も調べる必要がある。教育施策に反映させるのは、その後のことだ。

全国一律テストだったことで、自治体や学校の序列化につながりかねないと懸念が広がっている。実施校を絞った方式でも必要なデータは得られるという意見も根強い。今後に向け、テストのやり方自体も検証すべきだろう。

山陽新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 数字に振り回されるな

今春、四十三年ぶりに実施された全国学力テストの結果が公表された。基礎的な知識はおおむね備えているが、その活用力にやや難点がある。地域間の大きな格差も見られない―という内容である。 全国の小学六年生と中学三年生を対象に、計約二百二十万人分が集計された。この膨大なデータを教育の改善にどう役立てるかだ。調査結果の数字が独り歩きして学校の序列化につながらないよう配慮するのは当然である。

身に付けるべき知識を問うA問題は、国語、算数・数学の各教科で平均正答率が73―82%と高い水準だった。これに対し、知識や技能を活用する力をみるB問題では、61―72%と10ポイントほど低い。学力の国際比較調査と同じ傾向が出ている。

データをどこまで公表するかは自治体の裁量に委ねられている。学校単位のデータを公表すれば、学校間の過度な競争をあおることにつながりかねない。文部科学省は学校別での公表は控えるよう要請している。しかし、情報公開の時代、データが表に出てくるのは避けられない。市町村教委や学校は難しい対応を迫られることになるだろう。

問題は、個々の子どもの学習改善にどれだけ有効に活用されるかである。子どもや保護者に返却されるのは簡単な正誤表だけ。自分が全国状況と比較して「できた」か「できなかった」かだけだ。これでは、個々の指導に生かせと言われても、現場は戸惑うばかりである。

テストの目的が「指導に生かす」ということならば、文科省はまず調査結果を詳細に分析し、指導改善にどうつなげるか、具体的に示さなければならない。

ただ、全国規模の調査とはいえ、教科も学年も一部に限られている。テストが測れるのは学力のほんの一面でしかない。調査の限界を踏まえ、冷静な対応が必要だ。ストレートに学校や教員評価に結び付けるのは無理があろう。

今回の学力テストには、七十七億円の巨費が投じられた。文科省は学力テストを、来年以降も継続する方針である。そもそも全員調査が必要なのかどうか。全国の平均的傾向をつかむのなら、サンプル調査で十分ではないか。子どもの学習改善が目的なら、自治体や学内のテストでも可能だ。四月に実施したテストの結果発表が、当初の予定より大幅にずれ込んだのも合わせて、再検討してほしい。

中国新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 順位争いが心配だ

今春、四十三年ぶりに実施された「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)の結果が出た。

徳島県内の中学三年生は知識を活用する力をみるB問題の国語を除き全国平均を上回ったが、小学六年生は国語、算数とも平均以下だった。基礎的知識を問うA問題とB問題の正答率の差が、小学生は20・2ポイント、中学生で14・6ポイントもあった。

従来から指摘されてきた応用力不足があらためて浮き彫りになった。

これは詰め込み教育では対応できない。県教委は、これまでの学習指導法などを再検討し、学校の現場に反映させてほしい。

学力テストは「ゆとり教育」が学力低下を招いているとの批判を受ける形で復活した。全国の結果も、本県と同様に、A問題の平均正答率は小中学生とも73−82%と高い数値を示す一方、B問題は61−72%と10−20ポイント程度低かった。

中央教育審議会などで「ゆとり教育」を見直す教育改革が審議されているが、「学力」とは何なのかを、もう一度問い直す必要がある。

テストの正答率が都道府県別に公表されたことで、今後、順位競争になってしまわないか懸念される。

現場の教師が数字を上げようとして、子ども一人一人の姿が見えなくなったのでは本末転倒だ。

文科省は、平均正答率が低かった自治体には教員配置を増やすことなどを検討するという。しかし、教員を増やしたくても、財政力の弱い地方の自治体には予算的に難しい。

文科省は来年以降もテストを継続する方針だ。約七十七億円もかけ、同じような内容のテストが必要なのか疑問に思う。

今回、子どもや保護者に返却されるのは簡単な正誤表だけで、現場からは「役に立たない」との声が聞かれる。テストの中身、実施方法について再検討する必要がある。

徳島新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 結果を教育現場にどう生かす

文部科学省が、この春実施した全国学力・学習状況調査(学力テスト)の結果を公表した。

子どもの学力低下が指摘される中、全国の学力水準状況を把握し、学校現場や教育委員会の課題を明らかにするねらいがある。愛知県犬山市を除く国公立と、私立の約六割の小中学校の計約二百二十五万人が参加した。学年全員の調査としては四十三年ぶりである。

対象学年の小学校六年、中学校三年とも国語、算数・数学の各教科で、基礎的知識を問うA問題は平均正答率が73―82%と高い数値を示した一方、知識を活用する力をみるB問題は61―72%と10―20ポイント程度低かった。約七十七億円を投じた調査結果を指導に有効活用したい。データを教育現場でどう生かすか、行政は重い課題を背負ったといえる。

経済協力開発機構(OECD)が二〇〇三年に実施した学習到達度調査で、日本の高校一年生は読解力が二〇〇〇年の八位から十四位に、数学的応用力も一位から六位に下がった。文科省が学力テストに踏み切った理由の一つである。

子どもたちの基礎的知識の理解度が高水準だったことは好ましい。だが、知識の活用力に課題があることが分かった。速やかな改善策を求めたい。

都道府県別の平均正答率が公表されたが、本県の公立校はほぼ全国並みの数字だった。関係者はひとまず胸をなで下ろしたのではないか。

一部の県では都道府県別の平均正答率が教科によって全国平均を上下したが、大きな差はなかった。大都市、へき地など人口規模による地域間にも著しい差がなかったことは評価できる。学校現場の踏ん張りがあればこそである。

気がかりなデータは就学援助を受けている子どもが多い学校ほど正答率が低い傾向だ。文科省は「割合が高い学校の中には正答率が高い学校もあり、一概には言えない」とするが、統計上は家庭の所得による格差の存在を示したといえる。教員増員などの手当てが必要だ。

学力テストと同時に学習状況調査も実施した。生活習慣や意識とテストでの正答率の相関関係を分析し、学力が向上する「理想の子ども像」を浮かび上がらせた。朝食を欠かさず、登校前には持ち物を確認し、宿題と読書をするなどだ。理想の型にこだわることなく、個性ある子どもの育成に目を向けたい。

結果公表で心配なのは、やはり自治体、学校間の序列化や過度の競争だ。文科省は各教育委員会に市町村名や学校名を公表しないよう要請している。本県でも市町、学校別の正答率など数値による公表はしないという。情報公開の時代ではあるが数字の独り歩きは避けたい。教育的配慮も必要だろう。

文科省は来年以降も学力テストを計画している。全員調査は一人一人の指導に生かすためというが、学習改善にどれほど役立つかは疑問だ。抽出調査で十分ではないか。巨費投入の是非も検証しなければならない。

愛媛新聞 2007年10月26日

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学力テスト 継続より分析の徹底を

知識を中心に指導の成果が出ているが、活用力に課題がある―全国学力テストの結果を文部科学省はこう分析している。

また、就学援助を受けている子どもが多い学校ほど正答率が低い傾向があるという、新たな「格差問題」も浮かび上がった。

だが、四十三年前の結果と比べ、都市部とへき地の成績にほとんど差が見られなくなったのは大きな前進だ。学校現場の奮闘と教育行政の一定の成果であることは間違いない。

「総じて良好」という評価を得た全国学力テストだが、本県にとっては厳しい結果となった。

小学校は全国平均に対し、ほぼ同水準の正答率だったが、中学校は数学で大きく下回った。県内で毎年実施されている到達度把握検査で課題とされてきた傾向が、全国学力テストでも裏付けられたことになる。

県教委は今後、外部の有識者らでつくる「学校改善支援プラン検討委員会」で結果を分析し、授業改善などに生かすという。課題克服の契機となるような分析を期待したい。

正答率の数値や全国での順位に目が奪われがちだが、注目すべきは本県の中学生の授業への関心度や学習意欲の低迷だ。

小学生段階では全国平均レベルにある算数・数学への関心が、中学生になると全国平均を大きく下回る。意欲に関する設問でも同様の傾向が表れている。

授業への関心度や学習意欲は、学力向上の大前提だ。「土台づくり」が不十分では学力の底上げは難しい。子どもたちがどの段階で「つまずき」を経験しているのか。伸びようとする力を阻んでいるのは何か。そこに問題の本質が隠されているととらえるべきであろう。

文科省は来年以降もテストを継続する方針というが、データの検証は尽くされたとは言えず、有効な対策も打ち出されていない。たとえば学級の規模別に結果を比較し、望ましい学習環境を分析するなど、多様な視点での活用が考えられるはずだ。

教育予算は「先進国で最低レベル」と言われるほど限られている。学力テストに巨費を投じて継続しても果たして見合うだけの効果があるのか。教員の増員など学校現場のより切実なニーズを優先すべきだ。

言うまでもなく、学力テストの結果が学校の序列化や、子どもたちの自信喪失につながってしまっては逆効果だ。結果が独り歩きしないよう取り扱いには慎重を期したい。

高知新聞 2007年10月26日

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全国学力テスト 授業の改善に生かせ

基礎は分かっているが、応用問題に弱い―。文部科学省が43年ぶりに学年全員を対象に実施した全国学力テストの結果を公表した。地域の格差もはっきり目に見える数字となった。結果を分析し、今後の授業方法の改善、見直しに生かしたい。

学力テストは4月24日に実施した。全国の国公立と、私立の6割の小中学校の小学6年生と中学3年生合わせて約222万人が参加。国語と算数、数学の基礎知識を問うA問題と活用力を問うB問題に挑んだ。

全国平均で見ると小6は国語、算数ともA問題とB問題の正答率に20ポイント近い差があった。中3では国語、数学のA問題とB問題の差は10ポイント弱である。年齢とともに応用が利くようになったのか。それでもまだ基礎と応用の正答率には開きがある。

応用問題には柔軟な発想力が必要だ。公式を暗記するだけの授業ではつまらない。生徒に考えたり、表現したりすることの面白さを教えたい。基礎知識を実生活で生かすには、教師の人生体験や幅の広さも問われるだろう。

県内は、小6の基礎問題は国語、算数とも公立の全国平均と同程度だが、応用問題では国語が3ポイント、算数が1・5ポイント低かった。中3は数学はABとも全国平均と同程度だったが、国語Aは1・1ポイント、国語Bは2ポイント低かった。

国語力は読書量が影響するようだ。テストと同時に調査した児童生徒の意識調査では、「読書が好き」な児童生徒は「好きでない」児童生徒よりも国語の正答率がはるかに高い。算数、数学の応用問題でも、文意を理解できず答えられなかった児童生徒も多いという。応用問題の対策として、読書の奨励は効果的ではないだろうか。

1960年代の調査で問題となった都市部と地域の格差は、今回縮まった。しかし、都道府県別の平均正答率では最も高い秋田と最も低い沖縄を比べると、数学では20ポイント近い開きがあった。小中ともかなりの差があった。

秋田県教委は、好成績の理由として「朝食を家族一緒に食べたり、自宅での復習が定着した」と家庭教育の充実を挙げている。続いて正答率が高かった同じ日本海側の福井県教委は「少人数学級できめ細かな授業を行ってきた成果」と説明する。

一方、沖縄県は生活調査から家庭学習時間が少ないことが分かった。授業や指導の方法で問題はなかったかも検証する必要があるだろう。沖縄県教委は「強い衝撃を受けた」「見直すべきところは見直したい」と改善への意欲を見せている。

今回の学力テストについては、「競争をあおり、学校の序列化につながりかねない」という批判があった。文科省は来年以降もテストを継続していく方針だが、序列化につながらないよう配慮を呼びかけたため、ほとんどの市町村教委が学校別や市町村別の結果公表はしない方針だ。

もともと学力テストの復活は、2003年の国際学力調査で日本の順位が落ちていたことが契機だった。ゆとり教育で生徒児童の学力が国際比較で落ちているのでは、との懸念から全国テストが実施された。自分の立ち位置を知って、そこから学力向上へ努力しようというわけだ。

それならある程度、結果の公表は必要だろう。まず国は平均値より下回っている地域や学校へ予算と人を含めた手当てを行うべきだ。過度の競争は避けるべきだが、適度の健全な競い合いは、児童生徒の向学心を刺激することになる。(園田 寛)

佐賀新聞 2007年10月26日

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学力テストと教育再生会議

小学六年生と中学三年生を対象に行われた「全国学力・学習状況調査」の結果が公表された。予想された通りの内容。基礎知識はあるが、知識を活用する力が低い。家庭の経済力と学力には相関関係があるなど。社会の状況も反映して低下する思考力をどう伸ばすか。学校教育の課題となる。

安倍晋三前首相の肝いりで発足した教育再生会議は、この結果をどう受け止めたのだろう。再生会議は当初、教育バウチャー制の導入をめざした。政府が学校教育利用券(バウチャー)を発行し、保護者は公私立の学校から「行きたい学校」を選ぶものだ。学校が競い合って全体の教育水準も上がるという説明だった。新自由主義的な手法である。ただし、特定の私立学校への希望集中を生むなど、学校間格差を拡大させるという問題も指摘された。

福田内閣で新任された渡海紀三朗文科相は、「バウチャー制は不要。教育に市場原理を持ち込むべきではない」と述べた。文科省が安倍路線の修正機会を狙っていたことがよく分かる。

再生会議は、義務教育の「六・三制」見直しを唱え始めている。「小学四、五年の段階で発達上の段差がある」のが主な理由。そのことは教育現場でもよく聞くが、「四・五制」にすれば解決するのだろうか。無理に「目玉」をつくろうとしているようにも感じる。

「教職員を増やし、子どもの発達を支える体制を充実させる」。学力テストの結果は、そう教えていないだろうか。再生会議も思考力を問われる場面だ。(春木)

熊本日日新聞 2007年10月26日

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全国学力調査 根拠が失われた「学力低下」への批判

全国の小学6年生と中学3年生を対象にした全国学力・学習状況調査の結果が公表された。基礎知識を問う問題は平均正答率が73−82%と高く、まずまずの結果だった。

一方、知識を活用する力を見る問題の平均正答率は61−72%にとどまり、文部科学省は「知識を中心に指導の成果が出ているが、活用力に課題がある」と分析した。だが、活用力に課題があることは以前から指摘されてきたことだ。

テストの解答は○×方式で、正誤についての細かな分析もしづらい。この程度のことを再確認するために77億円をかけた全員参加の調査が必要だったのか。抽出方式で十分ではなかったか。

「ゆとり教育」の導入に伴う授業時間の削減で学力低下が懸念されるなか、全国の学力水準を把握し、課題を明らかにしようというのが調査の目的だった。

しかし、調査結果は懸念を裏付けるものではなかった。「教育再生は待ったなし」という学力低下批判や、中教審が9月にまとめた、小中学校の主要教科の授業時間を増やすとした素案などは、前提となる根拠を失ったといえるだろう。

都道府県ごとの成績の差は小さく、学校単位でみても約7割が全国平均正答率の前後10ポイント以内に収まっている。問題の作り方もあるのだろうが、テストの結果を直接学校現場に反映させるのには無理があるといわざるを得ない。

調査では、同時に調べた生活習慣や意識と組み合わせ、「朝食を食べる」「読書が好き」といった子どもは「正答率が高い」などと、理想の子ども像を浮かび上がらせた。半面、塾で学校より進んだ勉強をしている子どもは正答率が高い一方、就学援助の割合が高い学校の平均正答率は低いという結果も出ている。

家庭の経済状況と学力に相関関係があるとすれば、それは子どもの問題ではないはずだ。ワンランク下となった学校や地域には若年失業者が高いなど家庭や学校の努力を超えた問題が背景にある。

文科省や政府は格差是正の観点から、こうした問題のある学校や地域に対して何らかの対策を示さねばなるまい。それが全国調査をした責任でもある。

調査結果の公表を受け、鹿児島県教育委員会は学力向上検証委員会を設け、結果分析と今後の改善策を探るという。

正答率だけを競うことになればテストのための勉強に傾き、知識偏重教育に逆戻りしかねない。子どもの能力に応じた指導の在り方や教師の質の向上策など、多角的で幅広い論議を求めたい。

南日本新聞 2007年10月26日

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全教科最下位 学校だけの問題ではない

強烈な「学テ・ショック」
沖縄で「26ショック」と言えば、男性の平均寿命が全国二十六位に下がったことを指すが、今度は強烈な「学テ・ショック」が県内関係者を襲った。

小学校六年と中学校三年を対象にした全国学力テストの結果、沖縄県は、都道府県別の平均正答率が二教科八種類のすべてで最下位だった。

県教育庁は相当な衝撃を受けているようだが、その反動のほうがむしろ心配だ。

学テ対策と称してテスト漬け、点数主義の教育がまん延し、学テの順位アップに貢献したかどうかが教師を評価する主要なモノサシになるようでは学校現場がいびつになるだけである。

テスト結果に過剰反応をするのは好ましくない。仮にも沖縄の児童・生徒が劣等感を抱くようになり自己卑下するようになったら、これこそ問題だ。

最下位という順位よりもむしろ問題にすべきは次の四点である。
 第一に、全国的に見れば都市部とへき地の成績に大きな差がなく、都道府県別の差も小幅だったにもかかわらず、沖縄だけが目立って低かった。
 第二に、基礎知識を問う問題の正答率が高く活用力を試す問題の正答率が低い、というのが全国的な傾向だが、沖縄は基礎問題も悪かった。
 第三に、就学援助を受けている子どもが多い学校で全国的に正答率が低い傾向が見られた。
 第四に、生活習慣に関する質問紙調査で沖縄は朝食の摂取、規則的な睡眠などの項目でいずれも全国平均を下回った。

学力テストの結果から浮かび上がるのは、沖縄の経済社会環境の悪さだ。
 県内の公立小中学校で就学援助を受けている生徒の数は二〇〇六年度に過去最多を記録した。
 非正社員や一人親世帯が増え、教育費を負担に感じる世帯が増えている。
 家庭が崩れ、居場所をなくした生徒の飲酒・深夜はいかいも目立つ。
 学校現場で「学びからの逃走」と呼ばれる現象が起きていないか。「学力格差」というよりもむしろ、「意欲格差」と呼ぶべき事態が進行していないか。
 問題は複合的で、構造的だ。

まず冷静に背景分析を
県教育庁は今後、検証改善委員会を設置し、児童・生徒の学習環境と学力との相関関係などを分析した上で、学校改善支援プランを作成する方針だ。

むろん今回のテストの結果が子供たちの学力のすべてを物語るわけではない。衝撃を受けるだけでなく、沖縄の児童・生徒の正答率が低かった原因はどこにあるのか、まずは冷静に背景を分析していくことが重要である。

県は一九八八年度から学力向上に力を入れており、達成度テストやドリル読書指導などの成果を強調してきた。

大学入試センター試験の平均点では全国最下位を脱出するなど、この間の地道な取り組みの成果が表れ始めているのは確かだろう。

その一方で、進学組だけにとどまらない義務教育課程はどうなっているのかが今回あらためて問われている。

県の学力向上対策が鳴り物入りで始まってほぼ二十年になる。この間の施策で何が足りなかったのか、欠落していた部分はなかったのかどうか、きちんと総括していく必要がある。

今回のテスト結果についての詳細な分析を踏まえて、県の学力向上主要施策「夢・にぬふぁ星プランII」(二〇〇七―一一年)の内容はこれで十分なのかどうか、再検討しなければならないだろう。

「学力」再考のチャンス
学力の問題は児童・生徒、学校の責任だけに帰すことはできない。家庭や地域との連携が不可欠である。

肝心なことは今回の結果をどう生かしていくかだ。児童・生徒の探究心に火を付け、学ぶことの面白さを感じてもらうことが大事である。子供たちは大きな潜在力を秘めている。要はそれをどう引き出していくかだ。

生きる力をどう育てていくか。教育の本旨をはきちがえた点数至上主義に陥ることなく、学力とは何かを原点に返り再考していくチャンスでもある。

今回のテスト経費は約七十七億円。文部科学省は来年以降も継続する方針だが、調査を抽出調査にとどめ、各地域の学力向上を支援する具体的な施策を検討する方がより効果的だろう。

全国学力テストを実施した以上、格差是正策や三十人学級の実現など、学力向上へ向けた取り組みを側面から支援していくべきだ。

沖縄タイムス 2007年10月26日

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全国学力テスト 過剰な反応は禁物だ/将来を見据えた教育論議を

文部科学省が実施した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果が24日、公表された。沖縄県は全教科で全国最下位との結果が出た。基礎的知識「A問題」のみならず、活用を問う「B問題」も約20ポイント程度低く、県教育界に大きなショックを与えた。だが、結果への過剰反応は禁物だ。

実施段階から「狙いや効果が不透明」との批判も多かった全国学力テストである。文科省は「学力向上」と「競争意識の涵養(かんよう)」、そして「悉皆(しっかい)(全員調査)」とした理由について、子どもたちの「個々の学習指導に生かすため」と説明していた。

あいまいなテスト結果
しかし、教育専門家は今回のテストに「A問題は易しすぎ、B問題は設問数が少なすぎて指導上の課題が見えにくい」と、切り捨てている。しかも、公表された結果も個別指導への具体的な道筋を示すには「非常に解像度が低い」と苦言を呈している。

「競争意識の涵養」を狙うテストへの教育界や自治体からの反発に、文科省が配慮し、「各校の習熟度別学習への取り組み状況と正答率の相関」など一部データの公表を控えたのも「結果の低解像度」の要因と指摘されている。

テストの実施に77億円もかかった。教育改革に必要な情報なら悉皆でなく「抽出調査で十分」で「少ない予算ではるかに課題を鮮明にできる」との指摘もある。現場の教師からはテストに大金をかけるより、「これだけあれば千人の教員が雇える」との声もある。

文科省は来年度以降も実施を計画しているが、批判や苦言、提言にきちんと応え、今回の結果を本来の教育改革に、いかに効果的に生かすかが先である。

子どもたちの学習環境の実態と教育・指導体制の現状はどうか。習熟度や理解度に差があるとすれば、なぜその差が生じているのか。効果的な教育を実践している学校・地域の取り組みとの違いは何か。「教育の機会均等」「学ぶ権利」を、国としてどう確保し、保障できるか。そのための調査はどうあるべきか。教育現場の教師や父母、自治体も交えた徹底的な論議が必要であろう。

沖縄の課題に戻ろう。テストの結果、沖縄県の公立校の平均正答率は全国平均を約5―15ポイントも下回っている。しかも「多くの設問で無回答率が全国の2倍近い数値」となったことに、「問題を解いていく粘り強さと意欲が欠けている」(仲村守和県教育長)のではないかとの懸念が出ている。これは学力以前の問題である。

全国最下位になった原因について、仲村教育長は「授業の形態や方法、生活習慣などいろいろな要素がある」と解釈しているが、漠然としていて分かりにくい。

テスト結果の公表が「低解像度」のために、習熟度など学力差の原因がつかめないというのであれば、テスト参加の意義も薄れる。

学習力向上へ
教育行政の長として、結果の詳細な公表を文科省に要求すべきである。その上で結果をきちんと分析し、実態と課題を把握し、課題克服に向けた施策を実行するのは、行政の義務であろう。

全国学力テストは、43年ぶりの実施である。1960年代に実施された学力テストでも、沖縄は全国最下位であった。「本土との学力格差」問題は戦後一貫して県教育界の最重要課題となってきた。当時の琉球政府は、学力トップの“先進県”に調査団を派遣し、授業方法や家庭学習、地域の取り組みなど徹底調査し、教育予算を増額するなど「最下位脱出」を図った。だが成果らしい成果を上げるには至らなかった。

今回のテスト結果に、県教育委員会も「検証改善委員会」を設置し、改善策を打ち出す方針だ。

だが、ネガティブな結果ばかりに目がいくが、沖縄の子らは「将来の夢や目標を持っている児童生徒が全国平均より高く、勉強や読書が好きな子どもたちの割合も比較的高かった」との結果も出た。

数年で全国屈指の進学校となった京都市立堀川高校は、個々の個性や意欲を伸ばす教育改革で、全国を驚かす“奇跡”を手にした。

競争をやめ、知識偏重から思考力を高める「学習力」形成に力を入れたフィンランドは、国際学力調査でトップクラスに躍進し「学力世界一」の国となった。

今回の「学テ」で県内の弱点も分かった。だが「学力」がすべてではない。知識偏重から知恵を重視する教育への転換も図りたい。

琉球新報 2007年10月26日

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学力テスト 結果をどう生かすのか

文部科学省が、四月に実施した全国学力・学習状況調査(学力テスト)の結果を発表した。

テストの目的は、子どもの学力が全国、都道府県レベルでどの程度の位置にあるかを確かめ、学習指導に生かすことだ。

成績の順位に目を奪われて一喜一憂しては、テスト本来の目的がかすんでしまう。

学校や教育委員会は、子どもの解答の内容を分析し、今後の指導に役立てていくことが大切だ。

全国の小学六年生と中学三年生計約二百三十万人、道内は九万三千人超が参加し、国語と数学(算数)の学力を調べた。文科省が発表したのは、全国と都道府県別の平均正答率などだ。

道内の小中学生の成績は、各教科で全国平均を下回り、数字の上では最低レベルになった。

しかし、都道府県別の平均正答率の差は数ポイントだ。有意な差とは言えまい。文科省も「地域ごとの成績のばらつきはない」と強調している。

成績順位だけを見て、「北海道は学力が低い」と短絡的に判断することは早計だろう

文科省は、個人の成績を教育委員会を通じて本人と学校に通知した。肝心なのは、点数ではなく、子どもがどんな解答をしたかを分析することだ。

例えば中学校国語では、基礎知識を問う設問の正答率は全国平均で八割を超えた。しかし、知識を活用する力をみる問題では七割台にとどまった。

こうした傾向は、これまでの国際的な学力調査でも明らかになっている。基礎知識の習得だけでなく、活用力を養う必要がありそうだ。

小学校算数では六年生で整数のかけ算や足し算ができない子どもがいた。低、中学年で習う知識が、高学年になっても身についていないようだ。

こうした子どもには、学校全体での取り組みも必要だろう。

文科省は、市町村別や学校ごとの成績は公表しなかった。一部の父母や教育関係者の間には、これも公表すべきだという強い希望がある。

しかし、成績で学校や市町村をランク付けするようなことは避けねばならない。数字の独り歩きも心配だ。

文科省は、来年度以降も学力テストを継続する。地域のランク付けに使われるなど弊害が目立つようならば、再考する必要がある。

子どもの学力は、学習内容や指導方法のほかに、家庭の経済的事情や生活習慣など複雑な要因で左右される。

文科省は、さまざまな角度から子どもの学習状況を把握し、学校や教育委員会、父母の意見に耳を傾けながら対策を練り上げてほしい。

現行の学習指導要領で、なぜ活用力が身に付いていないかの検証も欠かせないだろう。

北海道新聞 2007年10月25日

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学力テスト結果を生かせ

文部科学省が全国学力テストの結果を公表した。本県の児童生徒の学力は、おおむね全国平均のレベルだった。全国の傾向と同様に、基礎的な知識は身に付いているが、読解力や知識を活用する力に課題があることも分かった。県教委、各市町村教委、各校は今回の調査結果を細かく分析して学力向上にしっかりと役立ててほしい。

学力テストは、「ゆとり教育」による児童生徒の学力低下が指摘される中、学力の水準をつかむため国公私立校の小学校6年と中学校3年を対象に4月24日に実施した。小学校は国語と算数、中学は国語と数学で、基礎学力を問うA問題と応用力を問うB問題に分けた。国立は全校が参加し、公立の不参加は愛知県犬山市教委の小中学校だけだった。私立は約6割が参加した。本県からは公立は小学校529校、中学校243校が参加、それぞれ2万人余りが受けた。

全国の公立で本県の順位は小学校が国語A16位、国語B21位、算数A15位、算数B30位、中学校が国語A24位、国語B15位、数学A31位、数学B32位だった。順位を見れば、全国平均の前後に位置しており、数字の上からはまずまずの結果といえる

ただ、本県の大学進学事情が依然として厳しい現状も読み取れる。小学校の算数ではA問題が15位だったのに中学校の数学A問題は31位に下がっている。大学入試センター試験や各種模擬試験などで本県の大学受験生が数学と英語で他県に比べて得点が低く、難関大学への合格が振るわない原因となっていることが指摘されている。今回の結果でも小学校の算数で頑張っていても中学校の数学になると苦手になっている傾向がうかがえる。中学で数学が嫌いにならないような指導があらためて求められるだろう。

私立の平均点は小中学校の各教科とも公立の平均点を大きく上回っている。私立の中高一貫校などを抱える都道府県は全体の平均点がアップし、本県の順位は相対的に下がることになる。したがって本県は公立で全国平均だからといって決して安心するわけにはいかない。

今回得られたデータで県内の地域、学校によって格差があることが明らかになるだろう。「朝食を毎日食べる」といった基本的な生活習慣がある児童生徒は正答率が高いという明確な相関関係があるとの調査結果も出ている。

膨大な費用をかけた学力テストをどう生かすか。単に都道府県、地域、学校間の序列化を進めるために実施したのではないはず。県教委が設置した検証改善委員会は学力テストの結果を詳細に分析した上、授業改善のための情報や資料を提供する方針だ。

授業でどうすれば児童生徒の理解を深めることができるのか、どのような指導が足りないのかなどを具体的に示し、教師の指導力を一層高めてもらいたい。児童生徒に基礎的な知識を身に付けさせた上、学ぼうとする力を高め、学ぶ力を育ててほしい。同時に県内での地域、学校間格差の是正も進めなければならない。今回の結果をうまく活用して、教育の現場に活力があふれることを期待したい。(佐藤 晴雄)

福島民報 2007年10月25日

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学力テスト結果 データを有効活用せよ

ことし春に行われた全国学力テストの結果がまとまった。二百二十万人を超えるデータは使い方によっては学校間競争をあおる道具になってしまう。学力向上のため、有効に活用すべきだ。

全国学力テストはことし四月、小学六年と中学三年を対象に行われ、愛知県犬山市を除くすべての国公立校と約六割の私立校が参加した。

四十三年ぶりの調査となり、対象のうち約98%の約二百二十二万人分が集計された。

膨大なデータだが、都道府県教育委員会には域内の自治体別と学校別、市区町村教委には所管の学校別と個人別、各学校には学級別、個人別といったデータが配られる。文部科学省は「このテストで測れるのは学力の一部。学校の序列化や過度な競争につながらないよう、扱いに配慮してほしい」とし、学校別での公表は控えるよう要請している。

公表範囲などは自治体に委ねられるが、学校単位のデータを非公表にするのはどうだろうか。通っている学校の状況は親や子にとって関心が高い。伏せたところで情報公開請求が出れば開示せざるを得なくなる。防衛省や厚生労働省のケースを挙げるまでもなく、行政機関だけに情報がとどまることは問題が多い。

確かに、テスト結果が学校間競争をあおる道具として使われることへの懸念はぬぐえない。東京都足立区の独自テストでは先生が誤答部分を指さして子供に気づかせていた行為が発覚した。不正してでも好成績をあげようというのは本末転倒だ。

文科省は公立校の都道府県ごとの正答率を公表した。秋田、福井が高く、沖縄や高知、大阪は低い状況がうかがえる。かつての全国テストでは高得点を求めて広島や香川などで先生の誤答指さしなどが横行し、全国テストが中止される要因になった。愚行を繰り返さないためにまずはデータを詳細に分析し、改善すべき点の把握に努めることだ。

テストと併せて学校や子供への質問調査も行われた。就学援助を受けている子供の割合が高い学校はテストの正答率が低いという相関関係が表れている。各教委は何らかの支援が必要な学校がどこか分かったはずだ。学力の全体的な底上げを図るためには、質問調査の結果も有効に使いたい。

一方、習熟度別授業や少人数指導を行っている学校ほど正答率が高かったのかというと、そのような相関関係はなかったという。同省は「一時点の調査では表れない。学校や学級単位で時間を追って調べてみなければ」と説明する。調査の方法など、検証すべき課題の一つだろう。

東京新聞・中日新聞 2007年10月25日

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学力テスト 序列化につなげるな

全国の小学6年と中学3年を対象とした学力・学習状況調査の結果が公表された。基礎的な知識はおおむね備わっているが、活用する力が十分ではないとの結果だ。学力格差といわれている割には、地域によって大きな差はなかった。

どんな分野でつまずきが多く、指導をどう改善するか。学校や教育委員会は結果を授業に反映させる努力を重ねるべきだ。数字が独り歩きして学校の序列化にならないよう、慎重に扱うのは無論である。

テスト結果にほっとした学校関係者は多いだろう。

小学校では国語、算数とも基礎的なA問題の正答率は8割を超えた。中学では国語が8割、数学が7割を上回っている。

応用力をためすB問題は、正答率がAより10−20ポイントほど低い。知識を生かして問題解決につなげる面で課題がある。学力の国際比較調査と同様の傾向が出ている。

たとえば、小学校の平行四辺形の面積を求める問題で応用力不足は明らかだ。単純な計算問題では96%ができたのに、さまざまな数値を盛り込んだ地図上で平行四辺形の公園の面積を考える問題では、正答率は2割足らずだった。

こうした傾向は中学になると強まる。数学のB問題で成績のばらつきが広がるのが気掛かりだ。

都道府県別、自治体の規模別では、成績に大きな差はなかった。ただし、わずか数ポイントの差だが、小規模自治体より大都市や中核市の正答率が上回っている。就学援助を受けている子どもが多いほど、正答率が下がる傾向も出た。地域の学習環境や親の経済格差によるものか、より詳しい分析が必要だ。

この結果から導かれる結論の一つは、知識をもとに考えたり、生活に生かす力を養うカリキュラムを充実させる必要性である。授業時間を増やし、総合学習の時間を減らす方向でいいのか、検討を重ねたい。

長野県はいずれのテストも全国平均を上回った。市町村教委、学校、家庭では、個々の結果を冷静に受け止めたい。

数値をどう扱うか、論議が重ねられてきた。国の平均値と比べた表現で示す自治体や、学校ごとに結果を考察し保護者に説明する自治体がある。町村では学校が少なく、扱いは慎重にならざるを得ない。

77億円も投じたテストの結果は、学校間の格差を広げないためにこそ生かすべきだ。たとえば、成績が低い学校は問題点を洗い出し、必要に応じて教員の配置を手厚くするといった取り組みを考えたい。

点数を掲げて、学校のしりをたたくのでは本末転倒になる。

信濃毎日新聞 2007年10月25日

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文科省の「宿題」こそ重い 全国学力テスト

文部科学省は、今年4月に実施した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を発表した。全国の小学6年生と中学3年生の計約225万人が参加した。学年のほぼ全員が対象となるテストの実施は43年ぶりだった。

その結果はどうだったか。国語と算数・数学の各教科で、「身に付けておかなければ後の学年の学習に影響する」ような基礎的知識を問う問題は、平均正答率が73‐82%と高い水準だった。

これに対し、「知識や技能を実生活のさまざまな場面に活用する力」を試す問題では、61‐72%と10ポイントほど低かった。

基礎・基本の学力はおおむね備えているが、その応用力にやや難点がある。単純に比較はできないが、文章を深く読み込み、資料を活用して解答を導く読解力が伸び悩む‐という過去の国際学力調査などと同様な傾向がうかがえた。

公立校の正答率を都道府県別に見ると、沖縄や北海道などを除くほとんどが平均正答率のプラスマイナス5ポイントの範囲に収まっており、文科省は「ばらつきは小さい」と胸をなで下ろしている。大都市とへき地など地域規模別でも「大きな差は見られない」という。

しかし、早合点は慎まねばなるまい。全国規模の調査とはいえ、学年も教科も特定の一部であることに、まず留意する必要がある。限られた時間のペーパーテストだけで、児童生徒の学力を判定する調査方法にも限界はあるだろう。

調査結果の数字が独り歩きして、序列化や過度な競争につながらない教育的な配慮も当然、求められる。

その上で、重要なのは、膨大な労力と費用を投じて実施した調査の結果を、どう分析して教育の改善に役立てるか‐ということだ。

文科省は「義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点」を強調した。各地の学力や学習状況をきめ細かく把握することで、教育施策の成果と課題を検証し、児童生徒の学習意欲の向上につなげたい‐として、実施に踏み切った。

ところが、文科省の分析は、出てきた数字を単純比較した域を出ておらず、物足りない。数字が意味するものを読み解く「読解力」は文科省こそ、問われているのではないか。

例えば、国や自治体から就学援助を受けている子どもが多い学校ほど正答率が低い傾向が浮かび上がった。こうした所得格差と学力格差の相関関係をどう分析し、どんな対策を取るのか。明確な方向性を示すべきだ。文科省は来年度以降も継続する方針だが、「比較可能なデータを蓄積したい」というだけでは、国民の理解は到底得られまい。

豊富なデータから教育改革の糸口を探り、その成果を現場へ戻すことができるのか。それとも「宝の持ち腐れ」に終わるのか。文科省は重い「宿題」を背負ったといえる。

西日本新聞 2007年10月25日

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学テの結果公表 序列化招く学校別成績

全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の学校別成績は公表しない方針としている市町村が、県内四十一の全市町村にまたがることが沖縄タイムス社のまとめで分かった。実施直前の市町村教委アンケートでは温度差はあるが、八教委が公表を考えていたのに比して、教育現場ではより冷静な対応を取る傾向が浮き彫りになった。

各市町村ともやはり「競争や序列化を助長する」懸念を一掃できないようだ。無理もない。テストには全国の小六、中三の計二百二十万人以上が参加。学校別の成績を公表すれば序列化がなされ、学校間、地域間の競争が過熱することは容易に想像できる。

過度の競争は子どもたちから共に学び合い、共に教え合う心を奪い、豊かな人間関係をはぐくむ土壌を奪ってしまう。義務教育の機会均等が失われてしまっては何のためのテストか分からない。保護者の経済力などによる格差が深刻化しつつある現状に、さらに拍車を掛けてしまう。

しかし少子化傾向とも相まって子どもを取り巻く環境は厳しい。学齢期の子を持つ親が自分の子どもをできるだけ成績のいい学校に行かせたいと思うのは自然な感情だろう。中には情報開示請求をしてまでも、と考える親も現れるに違いない。仲村守和県教育長は情報開示を求められても、不開示とする方針を示している。行政が社会の動きをどう制御するか、教育行政への将来展望の深さと力量が問われる。

文部科学省はテストの狙いを学力の維持、向上を図るため各地域の学力を把握、分析する必要があるとしている。教育の機会均等をいかに図るか。自治体が、成績不振の学校に人員と予算を重点配分するなどの施策を取るための指標にするよう方向付けるのは国の責務だ。

間違っても「できる子」と「できない子」の二極化を招いたり、テストの結果のいい学校に「学力のある子」が集中、学力レベルが低いと判断された学校が敬遠されるような事態を招いてはいけない。

沖縄タイムス 2007年10月23日

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全国学力テスト 応用力も高い学校公表を

文部科学省が今年四月、小学六年生と中学三年生の全員を対象に四十三年ぶりに実施した全国学力テストの平均正答率の概要が分かったとして、それが報道された。やはりそうかという感想を持たされるものだった。すなわち、小中学校いずれも各教科で基礎知識を問う問題は予想を上回る約70―80%に達したが、応用力をみる問題では、それより10―20ポイント程度低い約60―70%だったのだ。

文科省は「成績ランキング」に転用できる情報は公表しないとしており、都道府県教育委員会にもそうするよう通達している。が、「応用力も(・)高い」学校については、その指導法は他の学校にとって参考になるはずだ。百歩譲って学校名は伏せてもいいから、何らかのかたちで公表してほしいものだ。

教えられた知識がどれだけ身についているかをみる問題はそれなりにできるけれども、教えられた知識の応用となると、相当に問題があるというのは日本の学校教育の弱点といわれてきた。公表された概要からすると、その弱点はなお克服されていないと考えざるを得ない。

が、応用になると、思ったようにいかないのは日本だけか。そうではないと思う。たとえば、米国に留学したことのある人が必ずといっていいほど口にすることがある。それは「自ら学ぶ」ということを非常に大事にして、そのための指導に力を入れているということである。

教えられる側からすると、教育には「学ぶことを学ぶ」という面と、もっぱら詰め込まれる「教えられる」という面とがあるといわれる。英語でいえば、前者は「learning」で、応用力を鍛えることにつながり、後者は「teaching」であり、知識を教えてもらうことといえる。

米国がlearningを重くみているというのは、応用力を鍛えることの難しさを知ってのことだろうと思う。言い換えれば、教育の弱点を正視し、それを克服するために頑張っていると考えることができる。

弱点を克服する指導法とはどんなものかを公表してこそ学校教育が改善されるのではないか。序列化を恐れてそうした急所を公表しないのは間違いに思われるのだ。

北國新聞 2007年10月16日

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文科省の介入 検定のやり直しが必要だ

「やっぱり」というのが、県民の率直な感想だろう。そして「ずさん」な検定に、怒りを感じたであろう。高校歴史教科書検定で、沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述の削除・修正に、文部科学省の教科書調査官が深く介入していた。

これまで政府は教科用図書検定調査審議会が「文科省の役人も安倍首相も容喙(ようかい)(口出し、干渉)できない仕組みで教科書の検定は行われている」(伊吹文明文科相=当時、現・自民党幹事長)として、審議会の中立性を強調し、「政治不介入」を根拠に県民が求める「検定意見の撤回」を拒んできた。

しかし、審議会の委員は、文科省の教科書調査官の意見が事実上、集団自決への軍強制記述削除を決めたと証言した。

杜撰(ずさん)とは「著作で典拠などが不確かで、いいかげんなこと。物事の仕方がぞんざいで、手落ちが多いこと」(広辞苑)を指す言葉だ。

教育行政トップの大臣発言が、簡単に覆る。事実をよく知らず、その場しのぎで、いいかげんに発言したのであろうか。伊吹発言は、まさに「杜撰な発言」の典型であろう。

審議会に「沖縄戦の専門家がいない」との証言にも驚いた。「沖縄戦の専門家がいれば(検定結果は)だいぶ違っただろう」という。軍強制の史実の削除は、専門家不在で決定された。これは検定制度の「杜撰さ」を露呈するものだ。

「審議会は専門的、学術的立場から中立公平に審議するものだ」と渡海紀三朗文科相は10日の衆院予算委員会で答弁している。

しかし、専門家不在の中で、文科省の調査官が仕切り、意見を左右する。しかも、審議委員が「集団自決をめぐる学術的な大きな変化があったとは思えない」と学術的に「違和感」を感じる中で、「軍強制」記述が削除された。

専門的、学術的立場、中立公平の審議は、望むべくもない現実がそこにある。渡海答弁も、現状を無視した「杜撰な答弁」と言わざるを得ない。

検定意見撤回を求めて集まった11万人超の県民の怒りに、文科省は検定過程に沖縄戦研究者を専門委員の立場で参加させる方向で検討を始めるという。専門家不在の「杜撰な審議」への反省と対応だ。

検定やり直しは当然だが、審議委員が「審議会を全くの第3者機関にすることは難しい」と疑問視する「中立公平さ」の確保、研究成果の反映など「学術的」不備への対応など克服すべき課題は多い。

これまでの杜撰な検定制度を徹底的にあらため、史実に忠実で正確な教科書作りに向け、真に中立公正で専門性の高い教科書作りの制度の創設を求めたい。

琉球新報 2007年10月12日

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再生会議はもう要らない

安倍晋三前首相の肝いりで発足した政府の教育再生会議の存在感が薄まってきた。当然であろう。同会議の提言は安倍前政権の実績づくり、パフォーマンス的な色彩が強く、議論が熟さないまま性急に打ち出されてきたからだ。教育現場には、子どもの実情にそぐわないなどとして違和感や不満が募っていた。国は、こうした「改革」が現場と懸け離れてしまった状況に危機感を持ってほしい。

同会議が六月の第二次報告で提言した「道徳の教科化」は、安倍氏の退陣表明後、中央教育審議会が学習指導要領の次期改定で見送る方針を固めた。十二月の第三次報告で盛り込むとみられた学校自由選択制を意味する教育バウチャー(利用券)制度は、渡海紀三朗文部科学相が「市場原理の導入は教育になじまない。要らない」との考えを示した。こうした提言の相次ぐ“却下”は、時の内閣の崩壊とともに表れた格好だ。

これまでの提言も教育現場では不評だった。その制度やシステムの導入に向け、現状を極端に問題視する政治的手法を採り、現場との距離を遠ざけた。例えば、教員の免許更新制導入に当たっては「ダメ教師の排除」をことさら強調した。教員が全般的に指導力不足との印象を与え、熱心な教員のやる気までそいできた。

「勧善懲悪的」な図式で主張を正統化するやり方は、分かりやすく即効性があるように見えるが、子どもの心身の発達にかかわる教育課題は、学校、家庭、地域こぞっての地道な取り組みを抜きに解決できるものではないだろう。

ゆとり路線の見直しで授業時数を10%増やす提言に不信感を持つ現場関係者は少なくない。「学力低下」批判への対応だけで、授業増加分の必要性や中身に触れていないためだ。上滑りな提言内容に対して現場の不信感が強まったのには、昨秋以来、いじめ自殺が相次いだことと関係がある。

同会議は加害の子どもへの「社会奉仕活動への参加」など懲罰的な抑止策を提言。出席停止制度の活用、体罰の範囲について政府通知の見直しまで明記した。問題児の排除、一定の限度内での体罰容認の考え方は、子どもの人権について国際的評価を得にくいばかりでなく、真摯(しんし)に取り組む教員たちから本質的な解決につながらないと受け止められたのだ。

子育て提言案では母乳育児の励行を盛り込もうとし、批判が殺到して引っ込める一幕もあった。そんな同会議が道徳を教科化し、子どもの倫理観、考え方のありように優劣をつけようとした。多様な価値観を尊重することに立脚した公教育になじむべくもない。

「教育の中立性」の観点からも国が教育内容に過度に介入することは好ましくない。現場との溝を埋める第一歩は、このまま同会議を存続させないことである。

神奈川新聞 2007年10月10日

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教科書検定 沖縄県民の声は重い

太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述が削除された教科書検定をめぐり、沖縄県で大規模な抗議集会が開かれた。これを受けて、政府が記述の修正を認めることで、決着する方向となった。

悲惨な沖縄戦の実態を最もよく知る沖縄県民の声は、重く受け止められなければならない。

タカ派色の強かった安倍晋三前首相が退陣し、福田康夫首相に交代した途端に、事態が動き出したように見える。

渡海紀三朗文部科学相は「政治が検定に介入してはならない」としながらも、教科書会社からの「訂正申請」があれば再度、教科書検定審議会に諮る考えだ。

本来、教科書検定は、戦前の軍国主義教育への反省に立ち、教科書の記述に関する判断を第三者の検定審議会に委ねることで、政治介入を防ぐ制度である。

来年度から使われる教科書検定で問題とされたのは、高校の日本史教科書にあった七カ所の記述だ。「日本軍に『集団自決』を強いられた」などの表現に「沖縄戦の実態について誤解するおそれがある」との検定意見が付き、出版社は「追いつめられて『集団自決』した」などと表現を修正した。

文科省は、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定しており、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多いことから断定的表現を避けたとしていた。

それまでの教科書検定では、集団自決が日本軍の強制によるものとの記述を認めてきた。それにもかかわらず、今回の検定でいきなり、「強制」の削除を求めたことに無理があったのではないか。

沖縄県民が反発したのは当然である。

沖縄県議会と沖縄の四十一市町村議会は、検定意見の撤回などを求める意見書を可決した。

さらに、九月末に開かれた検定意見に抗議する超党派の沖縄県民大会には十一万人が参加し、検定意見の撤回と記述の回復を求める決議を採択した。

決議では「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定し、歪曲(わいきょく)しようとするものだ」と怒りの声を上げている。

仲井真弘多知事らは、渡海文科相らに検定意見の撤回と記述の回復を要請した。

県民大会を踏まえて、福田政権が決着に向けて動き出すと、それまで検定意見について「教科書検定審議会で専門的、学術的な見地から出されている」として記述の回復を拒否してきた文科省も、「訂正申請」を容認する姿勢に転換した。

教科書会社は今月中にも、文科省に対して、記述の「訂正申請」をする意向だ。

検定で「強制」の記述を削除させた検定意見は、文科省の職員である教科書調査官が提出した調査意見書を、審議会が踏襲してそのまま検定意見としたようだ。

これでは審議会の在り方が問われるだろう。

審議会の審議過程は非公開となっているが、透明性を確保してもらいたい。

審議の詳しい内容を明らかにし、国民に分かりやすい検定制度にすることが大事だ。

徳島新聞 2007年10月10日

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検定意見 経緯を情報開示せよ

沖縄戦における「集団自決(強制集団死)」への旧日本軍の強制・関与を削除した歴史教科書検定問題で、渡海紀三朗文部科学相が「記述の回復」について、完全に元通りにするのは困難だと述べた。

理由は、県民大会で決議した「検定意見書の撤回」が「検定への政治介入で制度を歪めることになる」からだという。本当にそうだろうか。

本紙の調べで、教科用図書検定審議会は文科省職員である教科書調査官の「調査意見」を追認しただけで、きちんと審議しなかったことが分かっている。

「申請図書は、別紙調査意見のとおり検定意見相当箇所がある」と指摘した初等中等教育局の原義書を考えれば、調査意見書の作成段階から文科省が一定の方向性を決めていた可能性も否定できないのではないか。

伊吹文明前文科相は「文科省の役人も私も、ましてや安倍首相(当時)も、一言の容喙(口出し)もできない仕組み」と述べたが、一連の動きは文科省による政治介入を疑わせるものになっているのである。

削除理由の一つとして引用された『沖縄戦と民衆』(大月書店)の著者である林博史関東学院大学教授は「『集団自決』は文字どおりの『自決』ではなく、日本軍による強制と誘導によるものであることは、『集団自決』が起きなかったところと比較したとき、いっそう明確になる」と記している。

林教授は、自らの著書を確認すればそれは明らかであり、なぜ調査意見書を提示した調査官はこのことを無視したのかと問うてもいる。

これでは教授が言うように、検定意見をつけるため都合のいい部分だけを抜粋したとみられても仕方がない。

疑わしいところがある以上、調査意見を付した経緯や審議会の審査方法について、国会はその詳細を明らかにする必要があるのではないか。

教科書検定制度は、教科書の記述に関する判断を第三者である教科用図書検定審議会に委ねることで、政治介入の防波堤にしている。

それが防波堤になり得なかったのは明白であり、検定意見を執筆者に伝える際、時間をとってその場で反論できるシステムになっていないことにも疑問が残る。

沖縄戦の実相を教科書に記述するかどうか、最後に判断するのは審議会である。

なぜ沖縄戦研究者の学説と異なる一方的な説を調査官が採用したのか。審議会は自らの責任でもう一度審査をし直し、検定意見を検証すべきだ。

沖縄タイムス 2007年10月8日

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教科書検定 小手先の修正で済まぬ

検定済みの高校日本史教科書の記述が修正される可能性が強まった。

○六年度の教科書検定で日本軍が沖縄戦で住民に集団自決を強制したとの記述が削除された問題で、文部科学省が記述の修正の検討を始めた。

九月末に沖縄で、検定意見の撤回を求める大規模な集会が開かれた。文科省は、この動きを無視できないと判断して方針を変えたのだろう。

だが、検定意見をそのままにしておいて、教科書の記述内容だけを変えるというのでは筋が通らない。

文科省は検定意見を撤回し、理由を丁寧に説明する必要がある。お茶を濁しただけの修正ならごめんだ。

沖縄戦の記述は、先の検定で大きく変わった。「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」と書いた教科書が、「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と修正された。

日本軍に集団自決を強いられたという記述が、追いつめられて集団自決したと修正された教科書もあった。

文科省の検定意見は、軍の強制や命令があったかは不明だという考えに基づいている。

沖縄には、集団自決を目撃した多くの体験者がいる。日本軍から「米軍の捕虜になるな」と厳命され、自決用の手榴弾(しゅりゅうだん)を配られたとの証言もある。

証言から伝わるのは、軍が住民に強い影響力を持ち、集団自決も軍の関与なしには起こらなかったことだ。

文科省の検定意見は歴史から目をそむけている−。これが沖縄の訴えの核心である。

仲井真弘多(ひろかず)沖縄県知事らの要請を受けた渡海紀三朗文科相は、軍関与の記述復帰に向け柔軟な姿勢を表明した。歴史をゆがめかねない検定意見だったことを認め、撤回するのが筋である。

教科書検定では、まず文科省の教科書調査官が記述についての意見書をまとめ、文科相の諮問機関である「教科用図書検定調査審議会」に検討を委ねる。軍関与にかかわる記述削除も調査官の意見書から始まった。

政府は、一度決まった検定意見を政治の意向で変更することについては、「介入につながる」との理由で否定的な立場を取り続けている。

しかし一連の経過を振り返れば、政府は審議会を隠れみのにしているとしか思えない。

文科省の苦境を忖度(そんたく)するかのように、一部の教科書会社が記述を修正する方向で検討を始めた。

教科書会社が記述を書きかえた例は過去にもある。今回は、どんな根拠に基づいて修正するのか。教科書会社側にもきちんとした説明を求めたい。

教科書会社から訂正申請を出させ、それをもとに文科省が沖縄戦の記述を差し替える−。そんな小手先で取り繕えるような問題ではない。

北海道新聞 2007年10月5日

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教科書検定「意見の撤回と記述の復活を」

沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制した―との記述が高校日本史の教科書検定で削除された問題で、沖縄県民の強い怒りと反発が政府や国会を動かしつつある。

民主、共産、社民、国民新の野党四党は衆参合同の国対委員長会談で教科書検定のやり直しなどを求める決議を両院に共同提案することで合意し、衆参の議院運営委員会理事会で提案し与党に賛同を求める方針を確認した。

一方、沖縄県の仲井真弘多知事らは3日、渡海紀三朗文部科学相らと同省で面会し、検定意見の撤回と削除された記述の復活を要請した。

日本軍の命令や強制、誘導によって集団自決があったことは「沖縄県史」や各市町村史にも数々の証言が紹介されている。軍の関与は隠しようのない事実であり、検定によって沖縄戦の史実をゆがめてはならない。

文科省は沖縄県民の強い怒りを真摯(しんし)に受け止め、検定意見を撤回すべきと考える。

先月29日に同県宜野湾市で開かれた集団自決をめぐる教科書検定意見の撤回を求める県民大会には約11万人(主催者発表)が集まり、撤回要求に応じない文科省の姿勢を厳しく糾弾した。会場には「歴史の改ざんやわい曲は決して許されない」という抗議の声と憤りが満ちていたと報じられた。

先の戦争や米軍基地問題などに対する県民の思いに「本土」とかなりの温度差があることへのいらだちも、今回の抗議行動が復帰後最大規模となった背景にあっただろう。

事の発端は今年3月末、2008年度から使用される高校の日本史教科書について、文科省が修正を求める検定意見を付けたことだ。集団自決に日本軍の命令や強制などがあったと記述した5社・7冊の教科書に対し、文科省は「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との意見を付した。

この結果、教科書会社は文科省の合格判定を得るため記述を修正し、すべての教科書から集団自決をめぐる日本軍の強制の記述が消えた。

しかし、この検定では文科省の教科書調査官が検定意見を発案し、教科用図書検定調査審議会が議論のないまま通したことが明らかになっている。これでは検定の客観性や信頼性に疑問を抱かざるを得ない。

こうした経緯をみれば、沖縄県民が怒るのは当然である。撤回要求は県民の総意といえるが、この問題は決して沖縄だけの問題ではないということを沖縄以外の国民も認識すべきだ。

歴史をゆがめる教科書検定はこれまでにも繰り返され、中国や韓国などの反発も招いている。国が政治的な意図をもって歴史を改ざんしたり、わい曲しようとすれば、大きな禍根を残すのは火を見るより明らかだ。

沖縄の怒りがあまりに大きいため、文科省は記述の修正が可能か検討を始めた。文科省は基本的には「検定の撤回はできない」との立場だが、過去には「日本軍による住民殺害」の記述をめぐり検定が変わったことがある。

沖縄県民の心の叫びを真摯に受け止め、検定意見を撤回すべきだ。

陸奥新報 2007年10月4日

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「再修正」は政治の責任だ 「集団自決」検定

沖縄戦で旧日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述を削除した教科書検定をめぐり、政府が「日本軍の強制」記述を復活させる方向で検討を始めた。

先月29日に11万人が集まって開いた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」で見せた沖縄の人々の怒りが国に届き、政府を動かしたといえる。

検定でいったん合格した教科書の記述を書き換えることは事実上、検定意見の撤回を意味する。異例の措置である。

本来、教科書の記述内容に政治が介入するのは「教科書の中立・公正」を保つうえから避けるべきである。

しかし、今回の問題の発端は、集団自決を生んだ「事実」に目を背けて、「日本軍の強制があった」としていた従来の記述を修正・削除するよう求めた文部科学省の方針転換にある。

事実に沿って記述を復活させるのは、修正を求めた側の責任でもある。それは不当な政治介入ではない。

検定意見は政府から独立した検定調査審議会が出すが、今回の集団自決に関する検定意見は文科省が事前に調査意見書で示した方針どおりに決まったという。これでは検定制度自体が形骸(けいがい)化する。

この意見によって、例えば「日本軍に集団自決を強制された人もいた」としていた記述を「集団自決に追い込まれた人々もいた」とするなど、教科書会社は日本軍の関与がなかったかのような記述に書き改めた。

集団自決に軍の直接的な命令があったかどうかは別にして「軍の強制や関与、誘導があった」ことは生き残った沖縄の人々の多くが証言している。

集団自決の悲劇が「軍の関与なしには起こり得なかった」というのが、沖縄の人々にとっては「紛れもない歴史的事実」である。それは国民の沖縄戦に関する共通認識ともなってきた。

この「事実」を修正するには、それを覆すだけの十分な根拠と議論が必要だ。今回の文科省の検定意見は、軍命令の有無をめぐる民事訴訟が係争中であることなどを理由としているが、沖縄の人々の証言に比べ、あまりに軽い。修正根拠として薄弱すぎる。

これでは「軍の強制」削除を求めた検定が、戦後史観や戦後教育を変えようとした安倍前政権の歴史観や意向をくんだものとみられても仕方あるまい。

そうだとすれば、文科省の検定意見こそが政治介入である。次世代に戦争の実相と教訓を引き継いでいくためにも、来年度の高校歴史教科書を直ちに事実に沿った記述内容に戻すべきだ。今ならまだ間に合う。歴史をゆがめずに済む。

「おじい、おばあはウソをついているというのですか。たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい」

抗議の県民集会で沖縄の高校生2人が訴えたこの言葉を、政府・文科省は噛(か)みしめるべきだ。

西日本新聞 2007年10月4日

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「集団自決」検定 審議会の在り方も問われる

沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定問題が動き出した。

検定意見の撤回を全面否定してきた文部科学省が、教科書会社に記述を修正する「訂正申請」を促す形で記述復活の方向へかじを切ったのだ。「旧日本軍の関与」に言及した記述は復活する見通しとなった。

先の抗議集会に集まった十一万人の沖縄県民の怒りの声が、流れを変えた格好だ。沖縄県民の思いを受けとめた記述の復活は当然だろう。

再三の撤回要求に対し文科省は、「検定意見は検定調査審議会の専門家が決めたもので、撤回や変更はできない」と拒否してきた。方針転換の背景には、地方への配慮を掲げた福田政権の姿勢も影響しているようだ。県民集会後、政治家の間からは「関係者の工夫と努力と知恵があり得るのかもしれない」(町村信孝官房長官)など、見直し発言が相次ぎ“政治決着”への流れが強まった。

しかし、文科省としては「政治不介入」という検定制度の大原則を破るわけにはいかない。そこで教科書会社からの訂正申請を促し、修正を認めるという形で事態の沈静化を図るようだ。

ただ、こうした決着の仕方は政治のさじ加減で教科書の記述が変わるような不明朗な印象を残しはしないか。検定意見の当否の見直しは、あくまで学説を踏まえて行われるべきだ。

今回の問題は、今年三月末に公表された高校歴史教科書の検定で、沖縄戦の集団自決について軍の強制や関与を明記した表現に「誤解の恐れがある」との検定意見が付き、「追い詰められて集団自決した」などと表現が書き換えられたのが発端だった。

文科省は検定意見の理由として(1)直接の命令があったかどうかは不明確(2)住民に「集団自決」を命じたとする本の記述は誤りだとして、元指揮官らが岩波書店と作家大江健三郎さんに出版差し止めを求めた訴訟の係争中であるなどを挙げていた。

だが、歴史研究では「軍が強いた」という見方は通説だった。今春まで同様の記述が認められていたのもそのためだ。それなのに確定していない裁判の原告の主張をくむような形で、検定意見を示したこと自体、おかしな話だった。

検定意見について文科省は「審議会の判断」としている。だが実際には同省の職員である教科書調査官が提出した調査意見書を、審議会が専門的な見地からの異論も出さずそのまま承認していた。

教科書検定制度は、教科書記述に関する判断を専門家による審議会に委ねることで、政治介入を防いでいる。しかし、その審議会が住民の証言や主流の学説も退けたことは、問題だったと言うしかない。なぜ、学説に基づいて判断するという最低限のルールが守られなかったのか。審議会の在り方も問われている。

また、監督官庁である文科省に反論しにくいという事情はあるにしろ、教科書会社には、検定の段階で粘り強く反論してほしかった。

熊本日日新聞 2007年10月4日

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教科書検定/沖縄の総意が山を動かす

太平洋戦争末期の沖縄戦で起きた「集団自決」は、日本軍の指示によるというのが定説だ。「米軍に捕まるなと手りゅう弾を渡された」など、多くの体験談が残る。

昨年までの高校日本史の教科書は、そんな証言を踏まえて「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」と、記述するのが一般的だった。

ところが、今年の検定では「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と、日本軍の関与を示す表現が削除された。

この修正に対し、沖縄で「事実を覆い隠すものだ」として、怒りや抗議が巻き起こったのは当然だろう。

先日、検定による修正の撤回を求めて沖縄県民大会が開かれ、仲井真弘多知事を先頭に、沖縄戦の体験者、県内の首長や超党派の国会・地方議員ら、約十一万人の県民が参加する大きなうねりとなった。

この強い抗議行動に、政府も動かざるを得なくなったようだ。渡海紀三朗文部科学相は、「教科書会社から訂正申請があれば真(しん)摯(し)に対応する」と再修正を認める可能性を示唆した。また野党も、撤回を求める国会決議案提出の構えを見せる。

沖縄県民の総意が、大きな「山」を動かしつつあるというべきだろう。

近年、検定で自衛隊のイラク派遣や従軍慰安婦に関する記述が政府見解に沿うように改められる傾向があった。教科書検定制度を敷く以上、その内容に政治が口を挟むのは避けねばならない。そうした意味で、再修正するにしても無用な誤解を与えないような措置が必要だ。

それにしても、なぜ、戦後六十年余りにわたって定説とされてきた記述が今回、修正されたのか。

検定意見は「誤解するおそれがある」と指摘する。文科省は「軍指揮官による直接命令が確認されていないとする学説も多く、断定を避ける狙い」と説明した。

確かに、専門家の間には論争がある。すべての集団自決に軍の関与があったのか、指示や命令がどのようになされたのか、今となっては証明は難しい。だが、少なくとも多くの戦争体験者が軍の関与があったとしてきた証言を軽視すべきではない。これまで教科書が採用してきた見解を覆す根拠は乏しい、というほかない。

沖縄では本土唯一の地上戦が行われ、県民の四人に一人が亡くなった。集団自決はそれを象徴する出来事であり、戦争の悲惨さと愚かさを伝える責務がある。

教科書がその重要な役割を担っていることは、あらためていうまでもない。

神戸新聞 2007年10月3日

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集団自決記述 「軍強制」を速やかに回復させよ

政府は沖縄県民と真正面から向き合わなければならない。

沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」を強制したとの記述を削除した教科書検定に沖縄で反発が強まっている。町村信孝官房長官はおととい、「関係者の工夫と努力と知恵があり得るのかもしれない」と発言し、渡海紀三朗文部科学相も省内に対応を指示した。沖縄県民はこぞって文科省の検定意見撤回と記述の回復を求めている。政府は速やかに実現すべきだ。

文科省はこれまでの教科書検定で沖縄戦の住民集団自決は旧日本軍の強制によるものとの記述を認めてきた。それが今年三月末公表の高校歴史教科書の検定意見では「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現」と指摘し、教科書会社は強制とする記述を削除して検定に合格した。軍の自決命令の有無をめぐり、当時の軍指揮官らが作家大江健三郎さんらを訴えた名誉棄損訴訟が係争中であることも理由の一つとされた。

自決強制の記述削除に沖縄県民の怒りが爆発した。九月二十九日に宜野湾市で開いた超党派の県民大会には、想定した五万人をはるかに上回る十一万人が参加した。一九九五年の米兵による少女暴行事件に抗議する八万五千人の県民大会を超す、沖縄の本土復帰後では最大の集会となった。県民十人に一人が結集した「島ぐるみ」の抗議を軽く見てはいけない。

県議会やPTA連合会などで構成する大会実行委は「集団自決に軍が関与したことは明らかで、記述削除は歴史の歪曲(わいきょく)だ」とする。世代を超えて政府に異議を突きつけた事実は重い。

今回の記述削除問題は沖縄戦体験者の記憶と若い世代の関心をあらためて呼び覚ました。検定意見への憤りから高齢者たちは「集団自決」の新証言を口にし始めた。沖縄戦最大の悲劇が軍の関与なしに起こり得るはずもない。県民の総意が「教科書に真実を」と、政府に強く再考を迫ったのも当然だ。

こうした沖縄県民の反発に政府は対応せざるを得なくなり、教科書の記述を修正する「訂正申請」の可能性が出てきた。検定済みの教科書に誤字や脱字、事情の変化などで明らかに誤りの部分があることを見つけた場合、発行者は訂正をしなければならないとされる。

文科相は検定済み教科書の記述に誤りがあった場合などに、発行者に訂正を求める勧告をすることができるが、これまで勧告が出された例はない。そこで教科書会社側の自主的な申請の形をとり、訂正を承認する方法を模索している。検定意見による修正でいったん合格した教科書の記述を戻せば、事実上の意見撤回だ。極めて異例な事態だが踏み切るしかない。

沖縄県の仲井真弘多知事らはきょう、政府に検定意見の撤回を要請する。将来に禍根を残さない決着を望みたい。

抗議の県民大会で高校生代表は「たとえ(戦争が)醜くても真実を知りたい。学びたい。そして伝えたい」と訴えた。歴史の真実は曲げてはならない。

愛媛新聞 2007年10月3日

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「集団自決」削除 歴史歪める検定に信頼はない

太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に対して「集団自決」を強制したとする教科書記述を削除した文部科学省の検定意見撤回を求める動きが強まっている。

沖縄では「歴史の事実を歪(ゆが)めるもの」として、検定意見撤回を求める大規模な抗議集会が開かれており、ようやく政府内に事実上の記述復活を模索する動きが出てきた。

文科省は教科書出版社からの訂正申請で事態の沈静化を図りたい考えだが、そうしたやり方は小手先の解決策でしかない。教科書に対する信頼を確保するため、これを機に検定制度のあり方をきちんと総括すべきだ。

■史実や学説で対応を■

今回の問題は高校日本史の教科書検定で、「日本軍に集団自決を強いられた」との記述に「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との意見が付けられ、「追いつめられて集団自決した」と、あたかも軍の関与がなかったかのように書き換えられたものだ。

これをめぐって沖縄で開かれた超党派の県民集会には、約11万人が集い、検定意見の撤回を訴えるとともに記述の回復を求める決議を採択した。

この検定では全国の歴史担当教員や研究者らでつくる歴史教育者協議会も「沖縄県民が体験した歴史の事実を抹殺するもの」と批判、検定意見撤回を求める決議を行っている。

これに対して「沖縄県民の気持ちは私も分かります」(福田首相)として、検定結果公表から半年たちやっと沖縄の声が政府に届いた。

だが、文科省は検定意見そのものを撤回するのは困難として、出版社側からの訂正申請を承認するという形でことを収めようとしている。

ここは正面から検定意見の当否について、歴史的な事実や学説を踏まえて対応しなければ沖縄戦をめぐる争いの火種は残されたままとなる。

■検定過程オープンに■

教科書検定制度は、教科書の記述に関する判断を第三者の教科書検定審議会に委ねることで、政治的な介入を防ぐとしている。

ところが今回の検定では、意見の付け方そのものに疑義があった。

文科省の言い分は「軍による直接の命令があったかどうか不明」というものだ。「強いられて」という表現が、高校生に命令があったかのように誤解されるというものだが、根拠となったのは、当時の守備隊長が「命令はなかった」と起こした民事訴訟だ。

しかし、この裁判はまだ確定しておらず、文科省はあくまで原告側の主張を取り入れているだけだ。

歴史研究の上では、「米軍の捕虜になるな」という命令を受け、手りゅう弾を配った事実があれば全体状況から「軍が強いた」というのが通説だ。

こうした学会の通説に疑義を唱え、未確定の訴訟をもとに教科書記述に反映させるのは無理がある。

歴史教科書の検定における判断の生命線は、多くの体験者らによる証言などに基づいた歴史研究、学説である。そうしたルールを踏み外した乱暴な判断を行えば、そこに政治介入があったと疑念をもたれても仕方がない。

沖縄の県民大会で、ある高校生が「私たちが使う教科書に真実を残してほしい」と訴えている。

未来を担う子どもたちの教科書。その信頼性を高めるため検定の過程をオープンな形に見直すことが必要だ。

宮ア日日新聞 2007年10月3日

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集団自決記述 検定意見も見直すべき

沖縄県民の怒りがかたくなな国の姿勢を突き動かした。太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍が「集団自決」を強制したとの表現が、教科書検定で削除された問題で文部科学省が記述の修正に向け検討を始めた。

先月29日に開かれた、検定意見の撤回を求める沖縄県民大会には11万人が参加した。1972年の本土復帰後で最大規模に膨れ上がったのは「史実の改ざんを許してはならない」という年代や党派を超えた沖縄ぐるみの抗議だ。

追い詰められた揚げ句、家族に手をかけ、自ら命を絶つしか選択肢がなかった集団自決(集団強制死)は、沖縄戦の悲劇を象徴する。重い歴史を否定することは、沖縄の人々の戦中・戦後と精神的基盤を否定することにもつながろう。

検定結果の公表から半年、遅ればせながら沖縄の声が届いたのは一歩前進だ。ただ、文科省は教科書会社が「訂正申請」をする形で事態を沈静化させたい構えで、検定意見の撤回は困難とする。だが、小手先のやり方で政治決着しても、沖縄戦をめぐる混乱は繰り返されよう。

集団自決をめぐっては、従来認められてきた通説の「日本軍の命令や強要があった」とする記述を削除するよう、初めに意見書を付けたのは文科省の調査官だった。「直接的な軍命令があったか不明確」などがその根拠で、当時の指揮官が自決命令はなかったとし、民事訴訟で争っているのも影響したとみられる。

だが、まだ確定していない裁判の原告側の主張を背景に学会の通説に疑義を唱え、軍のかかわりを全否定するのはおかしい。検定調査審議会も十分に議論せず、判断の生命線のはずの学説状況を踏み外し、調査官の意見に沿って集約した。

こんな内情にほおかむりしたまま、政府は「専門的、学術的な見地から出される検定に政治的に介入すべきでない」との見解を崩していない。それでは責任逃れと言われても仕方がない。

教科書の内容を非公開審査する審議会の独立性、透明性に疑問符が付きまとうことはこれまでも指摘されてきた。今回の乱暴すぎるやり方には政治介入があったのではとの指摘もあったほどだ。疑念を持たれること自体、教科書検定制度の信頼を根底から揺さぶることになる。

未来を担う子どもたちに、歴史の実相を見誤らすような教科書を与えることは避けたい。正面から検定意見の当否についてきちんと検証する一方で、審議会や検定制度のあり方も見直す必要がある。

南日本新聞 2007年10月3日

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教科書記述訂正 説明責任は済んでいない

宮古、八重山での郡民大会を含め「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に復帰後最多の11万6千人(主催者発表)もの人々が結集したことで、とうとう政府も重い腰を上げざるを得なくなってきた。

教科書の発行者が記述の訂正を申請すれば教科用図書検定規則に基づき「学習を進める上に支障となる記載」に当たるかどうかを判断して対応する方針を政府が2日の閣議で決定したのだ。

渡海紀三朗文部科学相は「検定結果に対していろんな意見があるので、その中身をもう一度審議会で検討しなければいけない」と述べ、再検討する意向を示した。

今回の検定によって、日本軍が「集団自決」を強制したとの記述を削除・修正した教科書発行者5社のうち複数が訂正を申請する方向で調整に入っている。

改ざんされた記述が正しい形で復活する可能性が出てきたことは喜ばしいが、政府の態度はあまりにも誠意に欠けている。

文科相が発行者に訂正を勧告するという選択肢は「政治による介入になる」として否定し、あくまで発行者の判断で訂正申請が出た場合に対応するとの姿勢を示しているからだ。そもそも、教科用図書検定調査審議会に修正を求める検定意見の原案を示したのは文科省である。

審議会には沖縄戦を研究した委員がおらず実質的審議がなされない中で原案通り検定意見が決まった。教科書発行者はこの意見を踏まえ、記述変更を迫られた。

教科書の記述を書き換えさせたのは文科省にほかならない。にもかかわらず、検定経過の適否を明確にしないまま、発行者の訂正申請にげたを預けるやり方は、責任転嫁以外の何ものでもない。

何よりも批判されるべきなのは、事ここに至るまで、記述の削除・修正を求める検定意見が出された経過に関し、文科省が何一つ説明責任を果たしていないことだ。

政府は、どのような歴史の検証、研究を踏まえて検定意見がまとまったのか、まず国民、県民に説明する義務がある。

その上で、自らの非を潔く認め、沖縄県民に謝罪すべきだ。教科用図書検定調査審議会や教科書発行者に責任を押し付けるのは不誠実極まりない。

沖縄戦では、住民が日本軍によって「集団自決」に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑をかけられて殺害されたりした。

仲里利信県議会議長が県民大会で指摘していたように、軍命による「集団自決」が、自ら進んで死を選択したとする殉国美談に仕立て上げられたのではたまらない。

政府は自らの責任において、教科書の記述を正しい形で速やかに復活させるべきだ。

琉球新報 2007年10月3日

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速やかに検定意見撤回せよ 八重山でも3500人が怒りの結集

■県民大会は11万人が参加
来年度から使用される高校の歴史教科書検定で、文部科学省が沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」から日本軍強制の記述を削除したことに抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が、29日午後宜野湾市で開かれたが、主催者側の予想をはるかに超える復帰後最大の11万人(主催者発表)が参加、県民の同問題に対する激しい怒りと強い思いを国をはじめ全国に示した。

八重山と宮古も同日同時刻にそれぞれ郡民大会を開いたが、宮古2500人、八重山は県民大会と同じく復帰後最大規模の3500人の人々が参集、「歴史のわい曲は許さない。事実を正しく伝えるべきだ」と怒りのこぶしを突き上げた。

県民大会実行委員会は今月15、16日に代表団が上京し、文部科学省に検定意見の撤回を求めるが、宮古、八重山を含む県民大会に11万人余が参加した沖縄の強い思いは国にも伝わっただろうし、歴史の事実は事実として、速やかに集団自決への「軍強制」の記述を復活すべきだ。

■国の反応に変化も
宜野湾市の県民大会は人の波が途切れず、約1万人は会場に入りきれなかったという。仲里利信県議会議長を実行委員長に全県議、全市町村長らが参加した大会で仲井真知事や集団自決体験者、高校生らが次々登壇、「軍による強制集団死を自ら進んで死んでいったかのように美化してほしくない」と検定意見の撤回と記述復活を求め、高校生らは「うそを教えないでほしい」と訴えたという。

一方八重山でも、会場の総合体育館はほぼ満杯に近い状態に埋まった。大浜石垣市長らの主催者側あいさつなどのほかに、5人の戦争体験者や高校生が意見発表を行い、そして内閣総理大臣や衆参両院議長、文部科学大臣あての決議を採択したが、特に八重山は戦争マラリアの問題で、軍の強制疎開による責任が認められなかった事例があるだけに、「今回の教科書問題も同じ。これが国のやり方」と強い抗議の声が上がった。

同問題では県議会はじめ県内の全市町村議会が意見書を採択。副知事や県議会議長はじめ県市長会からは大浜石垣市長も加わり、町村長会や議長会など6団体代表が要請を行ったが、文部科学省はこれだけの顔ぶれに対し審議官が対応。しかも要請を一蹴したことから代表団は反発。県議会は異例の2度の意見書採択、そして今回の県民大会開催となった。

15、16日の国に対する要請は大浜市長らも加わって200人規模を予定しているようだが、渡海紀三朗文科相は県民大会を受けたあとの1日、「何ができるか検討したい」と見直しを示唆。仲里実行委員長や仲井真知事も今回は国の対応にずいぶん期待しているようだ。

■座り込みをしてでも
確かに前任の伊吹文明文科相など安倍内閣の場合は、「自分たちは検定に口出しできない」と冷たいものだったが、福田内閣に代わり町村信孝官房長官も1日、「沖縄の気持ちを受け止め、(記述が修正できるか)検討を文科大臣に指示した」とさらに踏み込んだ考えを示し、国の反応はかなり大きく変化した。

しかし実際のところ検定意見が撤回され、軍強制の記述が回復するかどうかはまだ不透明だ。戦後処理事業の八重山の戦争マラリア問題がそうだったように、国はいったん決めたことはなかなか修正しない傾向があるからだ。

同問題では本土メディアもかなり地元沖縄と温度差があり、関心は低かったが、11万人余が結集した県民大会に関しては、各メディアとも無視できず大きく報道している。これも今後国の対応にどう影響を与えるかだろう。

教科書会社は来年4月からの使用に向けて、12月には印刷に入るようであり、記述回復はそれまでに解決しなければならないというタイムリミットもある。県紙報道だと仲里実行委員長は、「自民党や政府が撤回に応じなければ年金問題に匹敵するような大打撃を受けるだろう」と強い決意を示しているが、確かに文科省の前で座り込みをしてでも、の強い決意で臨むべきだろう。宮古、八重山を含め11万6000人が結集した沖縄の声、思いを国はしっかり受け止めるべきだ。

八重山毎日新聞 2007年10月3日

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集団自決抗議  生き証人の話を聞こう

沖縄戦で起きた住民の集団自決をめぐり、文部科学省の教科書検定意見を撤回するよう求める沖縄県民大会が宜野湾市で開かれ、超党派の十一万人が集まった。

本土復帰後、沖縄県内の集会としては最大規模だ。歴史認識で、政府と沖縄県民との隔たりが、どれほど大きいかを、あらためて印象づけたといえよう。

検定問題はことし三月、高校歴史教科書から、集団自決への日本軍関与の記述を削除する検定意見が公表されたのがきっかけだ。

文科省の教科書調査官は「裁判で、日本軍関与を否定する元軍人の証言があった」などと指摘。「軍に自決を強要された」を「自決に追い込まれた」と、教科書会社に訂正させた。

沖縄県議会はじめ、県民の再三の撤回要請に対して文科省は今春以降、「教科用図書検定調査審議会の決定であり、できない」と、突っぱねてきた。

教科書の内容に、外部からの介入を許さない大原則は、厳守されるべきだ。とはいえ、県民の約十人に一人に相当する数の人々が、一つの思いに結集した事実はあまりに重い。

「旧軍の犯した過ちを、隠そうとするのか」。県民の不信に、政府は明確に応えるべきだ。あらためて事実関係を究明して、この問題での公式見解を打ち出してもらいたい。

集団自決で命を奪われた県民の側には多くの生き証人がいる。証言はいずれも「軍から手投げ弾を渡された」「毒薬を配られた」と具体的だ。手投げ弾は、軍所有の兵器であり、民間人に渡すこと自体、軍の関与が疑われる。

政府、文科省は沖縄戦の研究や学説を持ち出すだけではなく、まだ多く生存する県民や日本軍関係者に直接、当たってほしい。

前年まで検定を通過しながら、ことしになって教科書に意見がついたことに、沖縄では安倍晋三前首相が掲げた「戦後レジームからの脱却」との関連性を指摘する声もある。

教科書検定は、検定調査審議会で調査官の提出する意見書を土台に意見が決められるが、審議会の前には、専門委員のチェックが入る。

専門委員、審議委員はともに文科省が指名する仕組みで、人選によって時の政権の意向を反映する力が働く余地が生じないとはいえない。現行検定の仕組みは見直す必要があろう。

集団自決への軍関与を訴えて、十一万人もの県民が集まった事実は、沖縄にとって戦争はまだ過去の出来事ではないことを如実に物語っている。

沖縄戦を歴史の中に封じ込めず、事実に謙虚に向き合う必要がある。政府だけでなく一人一人が、沖縄の声にもっと耳を傾けたい。

京都新聞 2007年10月2日

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「事実」から目をそらす愚 「集団自決」検定

戦争の悲惨さを体験した人々の証言は歴史の事実としての重みをもつ。戦争体験を風化させないためにも、私たちはその声に謙虚に耳を傾ける必要がある。

戦争の実態と教訓を学ぶ歴史教科書づくりにおいては、なおさらだ。事実に目を背けてしまったのでは、結果的に歴史をゆがめることになる。

来年度から使用される高校歴史教科書の検定で、沖縄戦の集団自決に日本軍の強制があったとする記述が修正・削除された問題で、沖縄県民が記述復活を求めて立ち上がった理由もそこにある。

沖縄県で29日開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」には、約11万人(大会実行委員会発表)の県民が党派、世代を超えて参加した。

1995年10月に開かれた米兵の少女暴行事件に抗議する県民大会に集まった8万5000人を上回り、沖縄では本土復帰後最大規模の抗議集会となった。

「日本軍の強制」の削除を求めた文部科学省の教科書検定に対する沖縄県民の「怒り」の大きさを表すものだが、今回はそれ以上に「戦争の過ちを繰り返してはならない」という沖縄の危機感がこのうねりとなったとみるべきだろう。

「子どもたちに沖縄戦の実相を教訓とする重要性や、平和を希求する必要性などを教えていくことは、われわれに課せられた重大な責務である」。県民大会で採択されたこの決議の文言が、沖縄の思いを物語っている。

沖縄戦での住民の「集団自決」に関する教科書検定をめぐっては、既に沖縄県議会と同県内41市町村のすべての議会が検定意見撤回と記述復活を求める意見書を可決している。「日本軍による強制」を修正・削除させた検定意見の撤回は、いわば「沖縄の総意」でもある。

これに対して文科省は、軍命令の存在に疑問を呈する学説などを根拠に「集団自決が軍の命令や強制であったと断定するのは、教科書の記述として難しい」として、これまでのところ検定意見の撤回に応じる意向は示していない。

しかし、沖縄には集団自決を目撃した多くの体験者が存命している。その人々の証言を通じて伝わってくるのは「集団自決は軍の強制や誘導によって起きた」ことを裏付ける事実だ。

沖縄の人々にとっては、集団自決が「軍の関与なしには起こり得なかった」というのは「紛れもない歴史的事実」なのである。

体験に基づくこの事実認識は重い。文科省も無視するわけにはいくまい。「軍関与の程度」にこだわり続ければ、歴史の事実に目を背けることになる。

県民大会で示された「沖縄の決意」に向き合い、集団自決に対する検定基準を再検証し、その結果によっては検定意見を撤回して従来の記述に戻すよう検討すべきだ。そうでなければ、結果的に政府が歴史をゆがめることになる。

西日本新聞 2007年9月30日

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11万人の訴え 政府の見解を問いたい

史実の改ざんを許すな

宜野湾海浜公園を埋め尽くした老若男女。三〇度を超える日差しの中で特にお年寄りの姿が目立ち、親子連れ、本土からの参加者も多い。

「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に参加した人々は十一万人を超え、大会決議が採択されてからも人の流れは途切れることがなかった。

一九九五年の米兵による暴行事件に抗議した「10・21県民総決起大会」の八万五千人を大きく上回ったのは、沖縄戦における「集団自決(強制集団死)」から旧日本軍の関与を削除しようとする教科書検定の動きに対し県民の怒りがわき上がったからだ。

沖縄戦の記憶は県民の心の奥深くに脈打っている。自分の親や子どもに手をかけ、親類などが「集団自決」した関係者にはさらに重くのしかかる。

文部科学省の検定は、「集団自決」の問題だけでなく、軍と住民が「共生共死」の関係におかれた上に、旧軍が住民を守らなかったという沖縄戦の実相をゆがめようとする動きに映る。

「十一万」という数字はそのことに対する異議である。文科省は抗議の声が参加できなかった多くの県民にも幅広くあり、島ぐるみの大会だということを見過ごしてはなるまい。

「戦(いくさ)が終わったときも暑かったよ。世の中、段々おかしくなっていくようだし、きょうは何が何でも来ようと思っていたさぁ」

午後一時すぎ、離島から船とバスを乗り継いで来たという年配者のグループはこう話した。

参加者は決して政治的な意図を持った人たちではない。農業に従事する人、漁業者、公務員、会社員、婦人会の仲間、世代を超えて中学生、高校生だけのグループもいる。

「教科書の問題は私たちの問題。戦争のことは知らないけど、『集団自決』という怖いことも真実は真実として教えてもらいたいし、次の人たちにも伝えていくべきだ」と話したのは宜野湾市内の女子高生だ。

参加者の願いはそこにこそあり、沖縄戦の実相を史実として歴史教科書に記述し、そのことから平和の尊さを学ぼうということである。

歴史の修正試みる動き

では、現在の高校歴史教科書に記述されている「集団自決」における旧軍の関与が、なぜ今回、書き換えられたのだろうか。

二〇〇六年十二月の検定意見受け渡しで、文科省の教科書調査官は次のような意見をつけている。

「『集団自決』をせざるを得ない環境にあったことは事実であろうが、軍隊から何らかの公式な命令がでてそうなったのではないということで見方が定着しつつある」

本当にそうだろうか。体験者の証言はむしろ旧軍の関与を如実に示すとともに、手榴弾を配布して“玉砕”を強いたことも明らかにしている。

伊吹文明前文科相は「文部科学省の役人も、私も、安倍総理(当時)も、一言も容喙(口出し)できない仕組みで日本の教科書の検定というのは行われている」と述べた。

だが、これまでの文科省の対応を考えれば詭弁と言わざるを得ない。

調査官の意見と前文科相の発言は、旧軍の関与を消し去ろうとする試み以外の何ものでもなく、そこには政治的な思惑さえ感じさせる。

歴史を修正する試みであり、歴史を歪曲しようとする動きが県民の理解を得られるはずがない。

信頼を取り戻す努力を

「どういう意見が出るのかを見極めて、対応させていただきたい」。渡海紀三朗文科相の発言だ。

岸田文雄沖縄担当相も「この問題に対する県民の思いの深さをあらためて感じている。私も福田内閣もしっかり受け止めていかねばならない」と話す。

長い間うちに秘め、親やきょうだいに手をかけるという凄惨な体験を口にしなければならない状況に追い込んだのは、言うまでもなく国である。

高校生を代表した読谷高校の津嘉山拡大君、照屋奈津美さんは、おじいさんやおばあさんに聞いた戦争中のことを「それを嘘だというのですか」と問うた。旧軍関与の削除には「嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学びたい。そして次の子どもたちにも伝えていきたい」と訴えている。この声を政府はどう受け止めるのか。

教科書の信頼を取り戻すには事実をゆがめず、史実を真摯に記すことだ。県民の訴えを政府がどう聞くのか。国会の動きとともに注視していきたい。

沖縄タイムス 2007年9月30日

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検定撤回県民大会 国は総意を見詰めよ/歪曲を許さない意志固く

「歴史の改ざんや歪曲(わいきょく)は決して許してはならない。禍根を残すことになる」

会場を埋め尽くした参加者の胸の内は、老若男女を問わず恐らく、この一点に集約されるのではないか。

苛烈な62年前の沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」(強制集団死)を強制したとの教科書記述が削除・修正された問題で、文部科学省の検定意見に抗議する県民大会は、最大規模に膨れ上がった。宜野湾海浜公園を目指して四方八方から押し寄せる人々の波は、開始後も切れ目なく続いた。11万人。参加者は大会が終わるまでひきも切らなかった。

記憶の底に刻む
名前もない小さな川が、同じ流れを求めて緩やかにうねる。大会はそんなドラマを連想させる趣があった。

空前の規模ばかりではない。テレビの前で中継を見守った多くの人々を含め、信条や立場、世代を超え、県民があらためて歴史認識の共有を確認しあった。その意義は、計り知れない。沖縄の歴史と県民の記憶の底に、将来にわたってしっかりと刻み込まれるだろう。

実行委員会に加わった22団体の代表をはじめ、高校生、戦争体験者らが次々に登壇、撤回要求に応じない文科省の姿勢を厳しく批判したのは当然だ。

「軍の命令や強制、誘導によって集団自決があったのは隠しようのない事実だ」「史実として正しく伝え、悲惨な戦争を再び起こさないことが私たちの責務」

国・文科省は、大会で発せられた声に対し、どう向き合うのだろうか。検定によって沖縄戦の実相をゆがめることへの怒りや痛苦に満ちた訴えを、真正面から受け止めるべきだ。島ぐるみの抗議を軽視することは許されない。

いかなる改ざん、隠ぺい工作が行われたにしても、真実の姿を必死に伝えようとする県民の意志をくじくことはできない。規制や圧力が強まるほど、語り継ぎたい思いは増幅するに違いない。

文科省は、このことを強く肝に銘じるべきだ。

記述の削除・修正から大会に至るまでの経緯を、いま一度振り返ってみたい。

発端は今年3月末、2008年度から使用される高校日本史教科書で文科省が修正を要求する検定意見を付したことだ。集団自決に日本軍の命令や強要があったと記述した5社、7冊の教科書に対し「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」との検定意見である。

この結果、すべての教科書から集団自決をめぐる軍の強制の記述が消えた。

肉親同士が殺し合い、自ら命を絶つほかに選択肢がなかったのが集団自決の本質だ。教科書から「日本軍」という主語が消されれば、その実相はつかむことができなくなる。

国の論理は転倒
だが教科書会社は主語を削ったり、あいまいな表現に書き換えたりした。文科省から合格判定を得るために大幅に修正した。

県民の怒りを買ったのは、検定撤回を迫る要請団らの再三の要求に対し、文科省が門前払い同様に扱ったことだ。教科用図書検定調査審議会が決めることを理由ににべもない姿勢に終始してきた。

町村信孝官房長官は大会前日の28日、記者会見で「検定制度の客観性、信頼性を失わせないよう政治の立場からあまり物を言うべきではない」と述べた。

この発言は理があるように見えなくもない。しかし、実態はあべこべこではないのか。国の論理が転倒していると言わざるを得ない。文科省こそが教科書への信頼を損ねている。多くの県民はそう考えている。審議会とは実は名ばかりで、実質的論議がなかったことは委員らも認めているからだ。

記述の削除・修正は、文科省の事実上の書き換え指示なしには起こり得なかった、とわたしたちは強く主張したい。

本土各地でも議会決議が相次いでいる。訂正申請に向けた執筆者の動きも見られる。執筆者には県民総意を踏まえ、手を取り合って記述復活に傾注してほしい。研究者の良心を、ぜひとも示してもらいたい。

文科省には繰り返し注文しておきたい。県民の決意の重さを見誤ってはならない。検定制度の見直しも不可欠だ。

琉球新報 2007年9月30日

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学習指導要領改定 総合学習の重要性認識を

福田内閣が発足し、首相補佐官に本県にゆかりの深い山谷えり子氏が教育再生会議担当の首相補佐官に再任された。安倍内閣の改革を引き継ぐ方針を示したものと受け取れる。文部科学相の諮問機関、中央教育審議会が先月末に出した学習指導要領の改定素案に示された「ゆとり教育」転換は変わらないだろう。主要教科の授業増加に対し総合学習の削減を打ち出している。学力向上に異存はないが、人間的な成長を促す総合学習の重要性をもっと認識すべきではないか。

教育改革は前内閣の主要テーマの一つだった。学力低下がいわれる中、山谷補佐官が担当する教育再生会議は一月に第一次報告で授業時間の10%の増加を提言した。これを受ける形で中教審の小学部会は国語、算数などの主要教科と体力低下に対応し、体育の時間を10%増やすことを打ち出した。

授業時間は1965年ごろから70年代にかけてがピークといわれる。「詰め込み教育」の弊害がいわれる中で「ゆとり教育」への転換が図られた。96年の中教審答申で暗記型教育ではない、自分で考え解決していくという「生きる力」を重視した総合学習が導入された。

今回の素案では総合学習を各学年で週一時間減らし、主要教科を増やそうとしている。教科学習の重要性は言うまでもない。義務教育で覚えるべきことは学ばなければならない。授業時間の削減は学校5日制と並行して導入されていった。当時は社会全体で労働時間の短縮が進み、教育現場が土曜を休日にすることへの抵抗は少なかった。

授業数が減った時間を子どもたちに何をさせてきたかをあらためて検証すべきではないか。授業としての総合学習は減らすにしても土曜日をどう有効活用するか検討を加えてほしい。

学力低下とともに注目しなければならないのは、少子化の中で子どもたちが大人になって十分「生きる力」、すなわち自立心を持てたかである。

少子化の時代、兄弟や近所の子どもが少なく子供同士で遊ぶ機会が減っているという。ゲームなど一人遊びにふける時間が増加、コミュニケーション力が身につかず対人関係をうまくつくれない子どもが増えている。

総合学習はこうした点を補うと期待された。自然体験や福祉体験、郷土歴史の学習などを通じ興味の持てるもの、好きになれそうなことを探す学習でもあった。導入されて日が浅く、授業方法などは発展途上だった。県内の教師たちも国際理解を深める授業から梅干し作りまでさまざまな工夫を行ってきた。

授業時間を減らすのなら、休日に子どもたちがさまざまな体験ができる受け皿となる組織ができないか考えてほしい。「生きる力」をつけるためのキャンプ学習や文化サークルなど、地域と各地の教育委員会が連携して新たな総合学習ができる場が必要なのではないか。

福井新聞 2007年9月29日

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県民大会の日に 民意のうねり届けよう

体験を記憶のふちに沈め

座間味島出身の宮城恒彦さん(73)は毎年一冊ずつ、慰霊の日にあわせて沖縄戦体験をつづった小冊子を発行している。一九八九年に第一号を出版して以来、一度も欠かしたことがない。

八八年に母ウタさんが九十一歳で亡くなったことがきっかけだった。

「母は娘のことを生涯悔やんで嘆いてましたから。なんか書き残さなくてはと思ったんです」

座間味島の内川の壕で起きた「集団自決(強制集団死)」は一発の手りゅう弾から始まっている。二十人前後の住民が身を潜めていたらしい。

宮城さん一家はウタさんと恒彦さんら子ども五人の計六人が行動をともにしていた。当時十九歳の姉は腹部をざっくりえぐり取られた。

手りゅう弾で死ねなかった人たちが何人もいた。学校の校長はカミソリで妻を手にかけ、この後自分の首の動脈を一振りした。妻はかろうじて生き残ったが、夫はその場で息絶えた。

瀕死の重症を負い、もだえ苦しむ娘を壕の中に置き去りにして死なせたことが戦後、ウタさんを苦しめる。

「集団自決」は、渡嘉敷・座間味・慶留間などの慶良間諸島だけでなく、伊江村、読谷村、糸満市など県内各地で発生している。

生き残った者はせい惨な体験を記憶のふちに沈め、戦後、悲しみに耐えて生きてきた。だが、内面の傷は癒えることがない。座間味島生まれの女性史研究家宮城晴美さんが祖父母の体験をつづっている。

ある日、学校からの帰り祖父母の家に寄った。家の裏庭にあるヤギ小屋で不気味な鳴き声がするので物陰からのぞいたら、祖父がヤギを宙づりにしてほふっていた。

祖母は晴美さんに向かって、祖父に聞こえるような声で「この人は首切り専門だから」と、いてつくような言葉を投げたという。

米軍上陸後、祖父は妻と子どもたちの首をカミソリで切って「自決」を試みた。息子が即死し、祖母ものどに深い傷を負った。

祖父は祖母に何を言われても反論せず、時々、夜のとばりが下りるころ、サンシンを持ち出して護岸で静かに民謡を歌っていたという(『母の遺したもの』)。

住民保護の視点を欠く

「集団自決」はなぜ起きたのか。

私たちはこの問いが、今を生きるウチナーンチュに突きつけられた逃れられない問いだと思っている。

過去に向き合い、歴史体験から学ぶ姿勢がなければ、現在の風向きを知ることはできない。

沖縄戦で多発した「集団自決」は基本的に旧日本軍の強制と誘導によって起こったもので、県議会の意見書が指摘するように「日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」である。

米軍が上陸したとき、住民をどう保護すべきか。残念ながら旧軍は住民保護の視点を欠いた軍隊だった。

本土決戦の時間稼ぎと位置づけられていた沖縄戦で重視されたのは、人と食糧を現地調達し軍官民共生共死の態勢を築くことだった。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という軍人勅諭。投降や降伏を否定する軍の論理は住民に対しても求められ、指導層に浸透していった。

米軍上陸後の住民対策は、司令官訓示や軍会報、「上陸防御教令(案)」、「島嶼守備隊戦闘教令(案)」、「国土決戦令」などに示されている。

防諜に厳に注意すべし。沖縄語をもって談話しあるものは間諜として処分す。不逞の分子に対しては断固たる処置を講ぜよ。

渡嘉敷島や座間味島は、特攻艇を秘匿した秘密基地だった。秘密保持が優先され一部住民には玉砕を想定してあらかじめ手りゅう弾が手渡されていた。そのような状況の中で米軍に包囲され、猛攻撃を受けたのである。

揺らぐ教科書への信頼

日本軍の関与を示す記述を削除した文部科学省の教科書検定は、歴史的事実の核心部分を故意に無視したものと言わざるを得ない。

文部科学省の教科書調査官が示した検定意見の原案に対し、審議会は、実質的な審議も具体的な議論もしないまま通してしまったという。

調査官は、係争中の訴訟の一方の当事者の意見だけを取り入れて教科書に反映させようとしたことも明らかになっている。教科書への信頼さえ揺らぎかねないずさんな検定である。

「見たくないものは見えない」という言葉がある。見たくないものを見ようとする意思がなければ、沖縄の民意を理解することはできない。

沖縄タイムス 2007年9月29日

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検定県民大会 歴史わい曲は許さない/結集し撤回への総意示そう

声を上げる。このことがいかに重要か。教科書検定意見撤回を求める県民大会の大きなうねりは、県子ども会育成連絡協議会会長の怒りの電話に端を発する。県婦人連合会、PTA連合会がまず結束。連携の輪は県内はもちろん、県外まで異例の広がりを見せている。

そしてきょう、県民大会が開催される。実行委員会は当初5万人規模の参加を目標に掲げたが、歴史のわい曲を許さないという県民の決意は固く、目標を軽く超えるに違いない。

国・文部科学省は、大会をしっかり見てほしい。県民の怒りがどれほどのものか。歴史をゆがめることがいかに愚かなことか。

責任は文科省に

わたしたち県民がなぜ、こぞって反発しているのか。高校歴史教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」記述から日本軍の強制・関与が削除・修正されたからだ。しかも、教科用図書検定調査審議会ではほとんど議論もなく、文科省の調査官が出した意見書に沿った内容で提言がなされた。さらに、審議会には沖縄戦を詳しく研究した専門家もいない。

沖縄戦当時、住民は米軍の捕虜になれば、女性は辱めを受け、男性は惨殺されるという情報を信じさせられ、恐怖を植え付けられていた。生き残る選択肢はなかったに等しい。

糸満市のカミントウ壕での「集団自決」から生き残った74歳の女性は証言する。壕内に砲弾が撃ち込まれたことで、入り口付近の日本兵2人が自決。直後、住民の「集団自決」が始まった。多くの家族が次々と手りゅう弾の信管を抜き、命を絶った。手りゅう弾を持っていたのは、家族の中に防衛隊として日本軍から渡されていた男たちがいたからだという。後は地獄のようなさまだ。「片目をえぐられた幼なじみ、内臓が出た人、足がもげて大声を上げて苦しんでいる少年」

別の生き残り女性の体の中にはまだ弾の破片が4個残っている。「集団自決」で破裂した手りゅう弾のかけらだ。60年も前にあったらしいというあやふやな事ではない。女性の体にある破片は、恐ろしい事実をわたしたちに突き付けている。

もし、当時の住民が「米軍に見つかったら決して抵抗せず、捕虜になりなさい。生き残れるかもしれない」と教えられていたら、どれほどの人が死なずにすんだか。恐怖に駆られた肉親同士が「早く死ななければ」と殺し合うことなど決してなかった。

文科省側は、意見書を付すに当たり、沖縄の地を踏んで調査していない。あまりにもずさんだ。このような認識で、「集団自決」の実相をゆがめられてはたまらない。検定意見をまとめた文科省の責任はとてつもなく重い。

最終目的は記述復活

就任したばかりの渡海紀三朗文科相は県民大会について「どういう大会になるのか、どういう意見が出るのかを見極めて対応したい」と、これまでの文科相対応とは違う含みを持たせた発言をした。

しかし見極める必要はない。沖縄側の主張ははっきりしているからだ。県と41市町村議会すべてが抗議決議し、大会には41首長すべてが出席する。実行委員会には老若男女、農林漁業、企業など多方面にわたる22団体が加わり、一致して検定意見の撤回を求めているのだ。

それでも見極めたいというなら、ぜひ大会に参加して、じかに県民の訴えを聞き、意志の結集を肌で感じてほしい。「集団自決」から生き残ったお年寄りの苦痛に満ちた証言を聞いてほしい。

大会では「子供たちに、沖縄戦における『集団自決』が日本軍の関与なしに起こり得なかったことが紛れもない事実であったことを正しく伝えること(中略)は我々に課せられた重大な責務である」と訴え「県民の総意として国に対して今回の教科書検定意見が撤回され、『集団自決』記述の回復が直ちに行われるよう」求める決議を採択する。

思想信条を超え結集する大会は、歴史に刻まれるものとなろう。県民はそれほどの決意を持っている。

確認しておきたいのは、わたしたち県民にとって、大会成功が目標の達成ではない。あくまで、日本軍強制の記述の復活、つまり検定意見の撤回が最終目標だ。大会は、文科省を動かす第一歩であり、撤回実現まで要求し続けたい。

琉球新報 2007年9月29日

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大学9月入学  社会的合意が欠かせぬ

大学の九月入学を促進するため、文部科学省は入学時期の自由化を一層進める方針を決めた。欧米諸国などの入学時期に合わせることで、優秀な留学生や海外からの帰国生徒を受け入れやすくするのが狙いだ。

政府の教育再生会議第二次報告や「骨太の方針」で、九月入学推進が提言されたのを受けた措置でもある。

だが、高校の三月卒業や、多くの企業の四月新卒採用など、現実社会の実態とは大きなずれがある。

大学の国際競争力を高め、人材確保に努める必要はあるにせよ、小手先の制度いじりでは混乱を招くだけだ。小中学、高校を含めた学校制度の見直しや、企業の採用時期などの慣行を改める国民的な合意と協力がなければ、とても普及は難しかろう。

現行の学校教育法施行規則では四月入学が原則だが、学年の途中での入学や卒業は可能。文科省によると、私立を中心に百五十余りの大学が九月入学などの制度を設けている。

だが、入学実績がない大学が多く、四月以外の入学者は全体の1%にも満たない。海外からの帰国生徒や留学生、社会人の再入学などが大部分を占め、一般学生への広がりはあまり見られない。出願者の減少が続いて募集を停止した大学もあるくらいだ。

通年採用する企業も年々増えているとはいえ、大半は四月採用を標準にしており、就職の難しさが最大のネックになっているという。

九月入学の本格的な導入によって入学機会の選択肢が増え、多様化が進むことじたいは好ましい。大学が国際競争力を身につけ、優秀な留学生や研究者を受け入れやすい環境を整備することも急務ではあろう。

ただ、大学側にカリキュラムの整備や就職対策などが伴わなければ、しわ寄せを受けるのは学生だ。九月入学後に休学届を出し、翌春の新入生に合わせて復学する学生もいるといった現状からすれば、制度の先走りにはよほど気をつけねばならない。

留学生向けの教育内容や生活支援などの受け入れ態勢も十分だろうか。入学制度の変更だけで大学の国際化につながるとは、とても思えない。

九月入学の推進は、二〇〇〇年にも森喜朗首相(当時)の私的諮問機関「教育改革国民会議」が提言した。その後も再三、検討されてきたが、社会に一向に浸透していない現実を直視するべきだ。

九月入学が主流とならないのは、学校や企業、官公庁などが四月を新年度の開始とする社会的慣行が根づき、国民の間にも抵抗感があるためだ。

もちろん国際標準に合わせた入学制度の検討は避けて通れない。拙速を避け、地に足のついた根本論議を通じて、国民の理解を得ることが前提だ。

京都新聞 2007年9月22日

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指導要領改定 政治に振り回されずに

学校で指導すべき内容を示す「学習指導要領」の改定に向けた論議が中央教育審議会で進んでいる。政府の教育再生会議の提言などを受け、授業時間や教える内容を増やし「ゆとり教育」を転換する方針だ。焦点の一つだった道徳教育は、教科化を見送ることになる。

安倍晋三政権の約1年間、教育行政は政治に振り回されてきた。強行採決された教育基本法の改定を背景に、関連3法は急ごしらえだった。「学力向上と規範意識の育成」といった首相の持論は、指導要領見直しにも影響を及ぼした。

安倍首相の退陣表明で、教育再生会議は宙に浮いている。ここまで政権の意向に左右された教育行政は異例である。その反省を踏まえ、中教審は現場が抱えている問題に目を向け、じっくり論議を深めるべきだ。とりわけ「愛国心」などの価値観を押しつける教育への転換は、慎まねばならない。

中教審は、道徳を教科化する代わりに、指導内容を充実させる考えだ。教科としての「徳育」の新設は教育再生会議が提案していた。現在の道徳の指導ではばらつきが大きく、規範意識が育っていないとの批判を受けたものだ。

だが、正式な教科とするには、数値での評価、検定教科書の策定などが必要になる。中教審では価値観の押しつけになるとの批判が強く、独自の判断を見せた。

中学校1、2年生の保健体育では、柔道や剣道などの「武道」を必修とする案もある。教育基本法に盛り込まれた「伝統と文化の尊重」を受けた措置だ。武道を学ばせることが伝統、文化を大切にすることにつながるか、慎重な判断が要る。

見直しの素案では、いまの指導要領で減った内容を復活させる方針も相次ぐ。小学校の歴史は、現行の弥生時代からさかのぼり、縄文時代以前から教える。台形の面積の求め方なども小学校で教えるようにする。

大事なのは、こういった見直しで必要な学力が本当に育つのか、事実に基づいた検討を加えることだ。国際的な学力テストで、日本の子どもたちは読解力や判断力などに課題があるとの結果が出ている。学力格差も心配である。

いまの指導要領が掲げる、自ら学び、考える「生きる力」の育成という理念は、今後も尊重するという。それならば、指導内容を増やすのが唯一の選択肢ではないだろう。

時の政権の意向が、中教審の論議にストレートに反映されるといった事態は繰り返したくない。教育の立て直しには冷静な目が必要だ。

信濃毎日新聞 2007年9月21日

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「徳育」見送り 再生会議が揺らいでいる

学習指導要領の改定作業の焦点となっている、道徳教育の「徳育」としての教科化が見送られることになった。中央教育審議会が「正式教科の要件が道徳教育になじまない」と判断した。

現行の学習指導要領は、教科外活動として「道徳の時間」を小中学校で週一時間程度設定している。

教科化は政府の教育再生会議などが提言していたが、正式な教科とするには、数値評価▽検定教科書の使用▽中学以上では専門の教員免許を設ける―などの要件がある。

中教審内では「(国が検定した)教科書を使い、試験をして採点することは無理がある」などの慎重意見が強かったという。

正式な教科に準ずる「新たな教科」と位置付けることも見送り、指導内容の見直しで道徳教育を充実させる方針に落ち着いた。慎重論が根強い現段階での教科化は学校現場に混乱を招く。妥当な判断といえる。

道徳教育の充実に向けた議論は、「学力向上と規範意識の育成」を掲げる安倍首相肝いりの教育再生会議の設置によって加速した。

だが、画一的な教科書による価値観の押し付けや、人の心を評価の対象にすることには内部でも異論が相次いだ。

「徳育教科」の免許授与についても「道徳教育は専任教師だけでなく、すべての教師が子どもに教えないといけない」などの不要論が大勢となっていた。

その結果、第二次報告を目前に正式教科化を断念、徳育の充実が必要との立場は堅持し、「新たな教科」への格上げを提言していた。

再生会議では、同様に、子育てや家庭教育についての提言の発表が直前になって取りやめになったという経緯がある。論議の底の浅さとともに迷走ぶりを強く印象付けた。

安倍首相という「あるじ」を失い、中教審から提言も見送られた今、再生会議の存在価値も揺らいでいる。

そもそも、規範意識の育成に、徳育を正式教科とすることがそれほど有効なのか。かつての子どもたちが対人体験の中で自然に身に付けた道徳性の原型は、今の子どもたちには共通のものではなくなっている。

規範を受け入れるための社会性という「土台づくり」にもっと目を向けるべきではないか。

古き日本への郷愁や政治色と一線を画した、子どもたちのための議論を尽くすべきだ。

高知新聞 2007年9月20日

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学習指導要領素案 授業増で学力がつくのか

中央教育審議会が学習指導要領の改定作業を進めている。

小中学校については「ゆとり教育」を掲げて導入された「総合的な学習の時間」を減らし、主要教科の授業時間数を一割程度増やすことを柱とした素案をまとめた。

授業時間の増加は三十年ぶりで、これまでの「ゆとり教育」の方針を大きく転換するものだ。

「ゆとり教育」は詰め込み教育に対する反省から二〇〇二年の指導要領に導入されたが、当初から教育内容や授業時間数の削減は学力の低下を招くとの批判が絶えなかった。〇三年度の経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査でも成績順位が下がったため、路線修正を迫られたのだろう。

基礎学力の向上を図るという狙いは分かる。だが、問題は、方針を大きく見直すのにもかかわらず、「ゆとり教育」の検証が十分にできていないことだ。

学力は授業時間を増やすことで向上するものだろうか。

勉強に興味が持てない子を、長く教室に座らせても効果が上がるわけではないだろう。

素案には、授業時間縮減の流れを転換する根拠が十分に示されているとは言い難い。

国際学習到達度調査でも、授業時間と学力の相関関係は明らかになっていない。例えば、世界一位のフィンランドの授業時間数は日本より少なかった。逆にドイツなどは日本より多かったが、成績は低かった。

全国の児童生徒の学力を把握するため、四月に実施された全国一律テストの結果公表もまだこれからだ。

どのような学力が低下し、不足しているのか。その実態をきちんと検証しない段階での方針転換は、学校現場を混乱させる心配がある。

さらに、削減される総合学習は、「ゆとり教育」の目玉として導入されてから、まだ五年しかたっていないことだ。

各教科で学んだ知識をもとに自分で考え、応用する力を身につけさせるのが総合学習の狙いだった。それが短期間で成果が出ていないとして削減するのは問題がある。

文部科学省が〇五年に実施した意識調査では、保護者の約七割が総合学習を肯定的に評価する一方、教員の半数近くはなくした方がいいと考えていることが分かった。

教員の評価が低かったのは、教材研究の時間が取れない多忙な中で創意工夫を求められたためだ。

素案は、総合学習の時間は削減するが、現行指導要領が掲げた「自ら学び、考える生きる力の育成」という理念については「ますます重要」と評価し、総合学習の必要性を強調している。ちぐはぐな説明であり、納得しにくい。

今回の素案には、削減した総合学習の時間に代わって、国際的なコミュニケーション能力を高めるための英語活動を週一時間程度導入することも盛り込まれた。

現在公立小学校の96%で総合学習の時間を使って英語を教えており、これを追認したものだ。成績をつける一般教科とは別扱いするようだが、大半の教員が大学で英語指導を学んでいない状況での導入が果たして適切なのかどうか。

指導要領の改定は早ければ一一年度から実施される。学校現場では子どもの学力低下に加え、学力格差の広がりが問題となっている。問われているのは教育の質であり、素案も指摘するように「個々の子どもたちの理解や習熟に応じたきめ細かい指導」ができる条件整備だろう。

徳島新聞 2007年9月18日

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「集団自決」軍命削除 文科省の意図が見える

やはりと言うべきか。文部科学省の教科書検定で、高校歴史教科書の沖縄戦の項目から「集団自決(強制集団死)」に対する旧日本軍の関与を示す記述が削除された問題について、同省の教科書調査官が示した検定意見がそのまま通っていたことが分かった。

沖縄戦の研究者ではなく、日本近現代史の専門家でもない。文科省職員にすぎない調査官が、「検定」という公的手続きの中でこれだけ重みを持つのは一体どういうことなのか。

伊吹文明文科相は「文部科学省の役人も安倍(晋三)首相もこのことについては一言も容喙(口出し)できない仕組みで教科書の検定は行われている」と答弁していたのではなかったか。

この問題は党派に関係がない。県選出・関係国会議員は国会で取り上げ、沖縄戦の歴史認識と検定について文科相らの考えをただしてもらいたい。

本紙の調べで、教科用図書検定調査審議会の日本史小委員会では沖縄戦に関する意見が出ず、審議が行われなかったことが明らかになっている。

だが、布村幸彦文科省審議官は「教科用図書検定調査審議会が決めたこと」と事実とは違う説明をしている。十四日には審議がなかったことを認めつつ「調査意見書の作成段階で審議委員の意見が反映されている」と述べた。

審議委員の一人は「日本史小委員会では『集団自決』に関する検定意見について教科書調査官の説明を聞いただけ。話し合いもせずに通してしまった」と本紙の取材に答えている。

日本史小委員会で「集団自決」についての具体的な議論はなく、審議会でも学問的な論争はしなかったと認める同省関係者もいた。

なのになぜ、審議官は「手続きは正当に行われた」と言い張るのだろうか。もしそれが文科省の意図であれば、それこそ歴史に汚点を残す。

審議官はまた、「すべての集団自決に軍の強制があったと読み取る高校生が出てくる可能性があるから」と軍命削除の理由を述べている。

取ってつけたような理由で教科書の記述を換えれば、かえって沖縄戦の全体像がぼけてしまい、曲解される恐れも出てくるのではないか。

懸念されるのは沖縄での激しい戦闘と、その渦中で県民がどう加担させられ、お年寄りや女性、子供がどう巻き込まれていったかという実相が歴史の闇に葬られることだ。

このような検定を承服するわけにはいかない。歴史から学ぶには事実に対し真正面から向き合う必要がある。そのためにも真実に光を当てる努力を怠ってはならない。

沖縄タイムス 2007年9月16日

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基礎学力の育成が大切だ/学習指導要領見直し

中央教育審議会は、小、中学校の主要教科の授業時間数を約一割増やす学習指導要領の見直し素案をまとめた。

素案は、子どもの学力低下への危機感、「ゆとり教育」への批判に配慮したということだろう。「総合的な学習の時間」や選択教科の時間数を減らして、浮いた分を主要教科に回すことが柱になっている。

授業時間数の増加が学力向上に直接つながるという保証はない。学力低下の原因の一つとみられる学習意欲の低さを、どのようにして改善していくかが大きな課題ではないか。

小学校のときに習得しておくべき「能力」は、よく言われるように「読み・書き・そろばん(計算)」だ。

この基礎学力が身に付いていないと、学年が上がるにつれて勉強についていくのが困難になる。学習意欲を喪失する。

中教審の素案では、小学校の主要教科の改善について、漢字や計算など基本的な知識・技能を反復訓練で強化することも例示されている。基礎学力をきちんと育成していくことに力を注ぐべきだ。

中教審の小学校部会がまとめた素案によると、小学校の国語、算数、理科、社会、体育の主要五教科の授業時間数を全体で一割程度増やす。

三年生以上で週三時間程度実施している「総合的な学習の時間」は、週一時間程度減らす。

高学年で週一時間程度「英語活動」の授業を実施することも盛り込んでいる。「英語活動」に関して中教審の教育課程部会は、一般教科とは別扱いとし、成績をつけないとの素案をまとめている。

中学校部会も同様に、選択教科や総合学習の時間を減らし、週一時間の授業増により必修六教科の授業時間を一割程度増やす案をまとめた。増やした時間を一・二年生で数学、二・三年生で理科、三年生で国語、社会に充てるのだという。保健体育を全学年で増やし、外国語の増加も検討するという。

現在の小学校学習指導要領では、主要五教科の授業は、六年間で三千四百八十一時間が標準になっている。素案通り改定されると、約三百五十時間増えることになる。

素案は、現行の指導要領が掲げている「自ら学び自ら考える生きる力の育成」という理念について、ますます重要と評価している。

その“原点”はやはり、基礎学力の習得と学習意欲の向上にあるのではないか。

例えば、小学校のときに習得しておく必要がある漢字の読み書きや「九九」などの計算は、とても大事なことだ。

こうした基礎的なことが十分に身に付いていないと、その後の学業不振や学業不適応に結びつく。

中学生になってから勉強しようとしても、読み書きや計算の力が不十分だと、勉強そのものについていくのが難しい。

読み書きや計算の反復学習は、詰め込み教育や暗記主義と受け取られるかもしれない。しかし「繰り返し」を徹底することで技能が身に付くように、基礎学力の習得には必要なことだ。軽視すべきではない。

東奥日報 2007年9月15日

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学習指導要領 「知識偏重」に戻すのか

学習指導要領の改定作業を進めていた中央教育審議会は、小、中学校とも国語など主要教科の授業時間数を約1割増やす改定素案をまとめた。「総合学習の時間」や選択の時間を減らして対応する。

ゆとり教育の目玉だった「総合学習の時間」を削ることは、大きな路線修正である。だが素案は一方で、現行の学習指導要領の「自ら学び考える力を育成する」というゆとり教育の理念を「ますます重要」とも位置付けた。

低下しているといわれる学力の回復が目的なのだろうが、これではどちらの路線を重視しようとするのか分からない。中途半端な改定素案は、批判解消のための小手先の変更との批判を免れまい。

ゆとり教育を重視した2002年の学習指導要領は知識偏重教育の反省に立ち、知識や理解だけではなく、その応用力を高め、子どもたちの多様な能力を引き出す教育を目指すものだった。

だが、実施前から授業時間の削減による学力低下を懸念する声が強かった。文部科学省は懸念に応え、実施直前に「学びのすすめ」という大臣アピールを発表。放課後の補習や朝の読書など、基礎学力の徹底に重点を移した経緯がある。

このアピールによって土曜学習や2学期制を導入する学校は一気に広がった。改定素案は、こうした現状を追認するとともに、知識偏重重視への回帰を目的としているようにもみえる。

小中学生の学力が低下しているという指摘は、03年の国際数学・理科教育動向調査で日本の小学校理科と中学校数学の平均得点が前回を下回ったことがそのの根拠の一つとされている。

だが、この調査は知識の量を問う旧来型の学力の比較であり、授業時間数と学力低下の相関関係が必ずしも明らかになっているわけではない。

学力が本当に低下しているとすれば、「ゆとり教育」で教育の質の転換をうたいながら、対応した受験体制をつくらず、先進国では考えられない40人学級を放置している国の教育政策にも問題があるのではないか。

5年間のゆとり教育をきちんと検証せず、環境整備の問題を放置したまま現状に沿った素案をまとめたのだとすれば、朝令暮改といわれても仕方あるまい。

学力を決めるのは、教師の質や指導法などさまざまな要素があるはずだ。中教審の素案はこうした点について総合的に論議を尽くしたのか、疑問が残る。

南日本新聞 2007年9月9日

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授業時間数増 学力向上に効果があるか疑問

学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会の小、中学校部会は、「総合的な学習の時間」を減らし、主要教科の授業時間数を増やす方向で素案を提出した。

現行指導要領が教育内容や授業時間数を削減したことを問題視した学力低下批判に応え、知識・技能習得に重きを置いた形となった。

これは1977年以来続いた授業時間数削減の流れを約30年ぶりに転換させるもので、「ゆとり教育」を部分修正することになる。

しかし、学力低下と授業時間数の相関関係ははっきりしていない今、まずは現指導要領を多面的に総括する作業が必要ではないか。

■減る「総合的な学習」■

両部会の素案によると、小学校では国語、算数、理科、社会の各教科を学年に応じて増加。子どもの体力低下に対応するため、低・中学年で体育の授業時間も増やす。高学年では週1時間程度、体験型の「英語活動」の授業実施もほぼ合意した。

中学校では国語や数学など必修六教科の授業時間を1割程度増やす一方、「総合的な学習の時間」を小学校と同様に減らす。また、「ゆとり」の教育で学校裁量の余地を広げた「選択教科」の時間も縮小される。

中教審の答申は来年1月になる見通しで、新しい教科書に基づく学習指導要領の完全実施は2011年春からになりそうだ。

今回、授業時間を増やすというが、現行指導要領の下で、以前より学力が低いという具体的なデータはない。

学力低下を言うのであれば、問題となるのは最近の児童、生徒の学習意欲の低下や自分の考えをまとめて表現する力が弱いこと。このことが低学力層の拡大を招いているのではないか。単に授業時間を増やしても、子ども全体の学力底上げにはつながらない。

■「ゆとり」の理念後退■

小、中学校両部会の素案で共に削減される「総合的な学習の時間」は、ゆとり教育に伴う授業時間、教科の削減に合わせ、地域の特色や子どもの興味を生かしながら学ぶ、教科横断型のテーマ学習として取り入れた。

中教審は「自ら学び考える」という理念そのものは、先進国の学力観を先取りしたもので、引き続き堅持するという。が、今回の素案をみる限り、その理念は明らかに後退。知識・技能の習得に力点を移したとしかみえない。

ここ数年、学力低下の批判にさらされてきた文科省は、放課後の補習や朝読書など一転して基礎学力に重点を移した経緯がある。

それに呼応して各学校では競って授業時間確保に動き、土曜学習や本県でもみられるように二学期制導入などが広がった。

今回の授業時間数増という措置は、こうした実態を追認し、さらに加速させる方向だ。

単に学力向上といっても授業時間を増やせばその効果が表れるものではないはずだ。学力には現場の教師の数や資質、指導方法、学級規模、親の経済力などさまざまな要素が絡む。

指導要領見直しにはまず、過去の成果と反省点をしっかり総括し、教育現場の環境整備を行うことが不可欠だ。

単に学力低下批判をやり過ごすための授業時間の数合わせでは問題の解決にはならず、学校現場や親が対応にますます混乱するばかりだ。

宮ア日日新聞 2007年9月7日

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脱「ゆとり教育」 徹底した検証まず必要

日本精神の涵養(かんよう)と米国文化の尊重を両立させようというのだろうか。中学校で増える保健体育の授業時間に、柔道や剣道など武道とダンスを男女とも従来の選択から必修に改める。中教審の専門部会が一昨日示した学習指導要領改訂の素案である。

これを含め、授業時間削減を柱にした一九七七年以来の「ゆとり教育」から脱却する方向が見えてきた。小中学校とも総合的な学習の時間を週一時間程度減らし、主要教科の時間を増やす。小学校高学年に体験型の「英語活動」を導入するという。

背景には、国際比較などで明らかになった日本の子どもの学力低下や教育の現状に対する保護者の根強い不満がある。学習指導要領の見直し自体は避けられまい。

かじの切り替えを急ぎ過ぎていないか。国際的な調査でも、学力と授業時間との相関関係が裏付けられたわけではない。すでにかなり実施されている小学校の英語教育も、専門家の間では「逆効果」との指摘がある。母国語と外国語のかかわりを十分踏まえる必要があろう。

学力重視の立場から批判を浴びてきた総合的な学習は、教師の指導力不足など問題点が少なくない。しかし、伝統行事への参加や特産物の普及などを通じて、地域と学校との交流が深まった事例もある。工夫と努力次第で、教育現場に対する地元住民の関心が高まるとともに、教師や児童生徒の愛郷心をはぐくむ契機にもなろう。ただ削減するのは惜しい。

主要教科の時間増などをやみくもに具体化しようとする前に、これまで取り組んできた「ゆとり教育」の内実を徹底して検証すべきである。

中教審の各部会の動きは、安倍晋三首相の肝いりで発足した教育再生会議の意向を受け入れた形にもなっている。同会議が六月に発表した第二次報告には「学力向上を目指し授業時数10%増を図る」との提案を盛り込んだ。今回の改定案に連動する。施策の一体化は当然かもしれないが、一部の委員には根強い異論もあると聞く。慎重に議論を進めたい。

武道の必修もまた、昨年十二月施行された改正教育基本法がうたう「伝統と文化の尊重」の実践と映る。選択と必修の違いは大きい。国家百年の計といわれる教育に、時の政府の考え方を押し付けるばかりでは、それこそ逆効果ではないだろうか。

中国新聞 2007年9月6日

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ゆとり教育修正  理念と検証を欠いては

文部科学省と中教審は、三十年ぶりに小中学校の授業時間を増やす方向に、かじを切り始めた。

いわゆる「ゆとり教育」からの脱却をうかがわせるが、理由があいまいだ。総合的学習の時間(総合学習)の評価を含め、現行制度の検証と総括を欠くままでは現場の混乱が増すだけだ。

このほど開かれた中教審の小、中学校部会は、文科省が提示した案に沿って学習指導要領改定の素案をまとめた。

注目点は、授業時間を小学校で週一−二時間、中学で週一時間増やすことと、総合学習の削減だ。この結果、主要五教科の授業時間増や、小学校高学年の英語活動、中学の保健体育授業時間増などが可能になる、としている。

問題はなぜ指導要領改定が必要か、がわかりにくいことだ。中教審は今後、高校部会の素案もまとめた上で、十月中にも中間報告を行い、年度内に答申をめざす。新たな方向を出すのなら、明確な理念と根拠を示すべきだ。

国は一九七七年度以降、段階的に学習内容と授業時間数を減らしてきた。二〇〇二年度からは完全学校週五日制となり総合学習も始まった。一連の動きは、一般にゆとり教育と呼ばれている。

これに対し近年、「ゆとり教育が学力低下を招いた」との強い反発が一部教育関係者から起きたことが、さまざまな波紋を広げ、政治的思惑も含めた百家争鳴状態のまま、今日に至っている。

国際学力比較調査で日本の子どもたちの一部順位が低下したことも“ゆとり教育悪者論”を後押しした。特に総合学習の新設は他の教科の三割削減とセットで登場したため風当たりが強かった。

今回の素案で、総合学習の時間が小中学校とも週一時間程度削られたのは、こうした反発のきつさに文科省が配慮した結果でもあろう。

だが、授業時間数の増加が学力を向上させる保証はないし、生きる力や学ぶ意欲を高める目的で導入された総合学習の功罪も検証されていない。

〇五年に全国の高校三年生を対象に行った学力調査では、ゆとり世代の学力が以前とほぼ変わらず、ゆとり教育が奏功した側面も一部で見られた。

一方、深刻なのは子どもたちの学力格差の拡大で、低学力層の底が抜けたようになっていることだ。それが国際学力比較の結果などに反映している。

これらの点も考慮すれば、教科時間数を増やしさえすれば事態が好転する、と考えるのは短絡にすぎる。低学力対策には、週五日制を六日制に戻した方がいいとの意見もある。フィンランドのように総合学習的な教育を推進した結果、高い学力水準を保っている例もある。

こうした疑問や総合学習の実情を整理し、説得力ある提言にまとめるのが中教審の役割だろう。朝令暮改で手直しを繰り返すだけでは、百年の計を見誤る。

京都新聞 2007年9月4日

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ゆとり見直し 現場の困惑を心配する

小中学校で主要教科の授業時間が一割増える方向になった。「ゆとり教育」の方針は理念だけ残して転換される。目的は学力向上というが、対策が時間増だけでは教育現場が戸惑わないか。

小学校では国語、社会、算数、理科、体育の授業時間を約一割増やし、五、六年生に英語を導入する。一方、三年生以上で週三時間程度行われている「総合学習」を一時間削る。中学校も主要教科の授業時間を約一割増やし、総合学習を減らす。

この結果、小学校低学年で週九十分、高学年は四十五分、中学校では五十分増えることになる。授業時間増は約三十年ぶりだ。

現行の学習指導要領は「ゆとり教育」を掲げて五年前に始まった。学習内容の一部が削られ「生きる力」を身につける総合学習に移した。

見直しにあたって文部科学省は「『生きる力』の育成を引き続き目指す」とし、伊吹文明文科相は「ゆとり教育はまちがっていないが、運用面で効果が出ていないところをほかに振り替える」と述べている。

だが、同省が中央教育審議会(中教審)に示した素案では「理念を実現するための具体的な手だてが十分でなかった」と自己批判している。不十分なら補強が必要だが、ゆとりの象徴である総合学習が削減されるのだから実質的な方針転換だ。

なぜ、転換なのか。学力低下が理由という。経済協力開発機構による学習到達度調査で日本の順位が下がったことが具体例に挙げられる。

「学力は低下している」との懸念は常につきまとう。しかし、個々人はともかく、全体把握が難しい。そのために本年度、全国学力テストを復活させたのではなかったのか。

テストの結果を検証したうえで指導要領を見直すという考え方もあったはずだ。学習時間を増やすことは手段の一つでも、実態を見極めて対応しなければ効果は薄いだろう。

小学校の総合学習では「国際理解」という名目で英語を教える学校が増えた。高学年に英語を導入する見直しは現状追認となっている。

必修になれば一定の習得が求められる。主要教科の強化に加えて英語も、では「詰め込み」にならないか心配だ。英語力のある教師確保の問題もある。

公教育は学力格差や学習意欲低下にも目配りしなければならない。少人数教育や習熟度別授業が効果的だが、人員の問題が立ちはだかる。

理念と授業増だけを求められても現場は困惑するだけだ。人や予算面でも対策を講じなければ学力向上を含めた教育改革はおぼつかない。

中日新聞 2007年9月4日

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