地方紙社説(2007年3月)


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道徳の時間 教科格上げは必要ない

小中学校での「道徳の時間」を、国語や算数と同じ正式教科に格上げして「徳育」とする。こんな方針を政府の教育再生会議が決め五月にまとめる第二次報告に盛り込むという

「国や郷土を愛する態度」を定めた学校教育法改正や、教員免許更新制の導入などを柱とする教育改革法案も閣議決定された。教育現場での管理強化が一段と進む勢いになっている。

新たに徳育を教科に加え、子どもの内面にまで踏み込んだ教育を徹底しようという国の思惑が透けて見える。

徳育は、戦前の「修身」の復活を思わせる。教科への格上げがなぜ必要かという根本議論が、再生会議の中で十分に深められたとも思えない。

子どもに必要な「規範意識」の内容を国が定め、評価までするというのは健全な公教育の姿とはいえまい。

特定の価値観の押し付けは、憲法が保障する思想良心の自由を脅かす危うさがある。徳育の教科化は不要だ。

小中学校では、週一時間程度の「道徳の時間」がある。教科書もなく、教員が工夫した授業を行うことが求められている。数値による評価もない。

これが、教科書を使って善悪や徳目を教え、試験も行った戦前の「修身」との大きな違いだ。

いじめや校内暴力の多発に対処するためには、現在の道徳教育を強化し、「規範意識の向上」が必要だ−こんな考え方から、徳育の教科への格上げが打ち出された。高校でも導入される。

安倍政権の教育改革の目玉となる政策だが、見過ごせない問題がある。

正式教科となれば、国が検定した教科書が必要になる。授業では、郷土や国の偉人について学ぶことも検討されている。

国が、「徳育」で教えるべき内容を教科書で定め、特定の人物を「偉人」として教えることが価値観の押し付けにつながることは明らかだ。

成績をどう判定するかという問題もある。例えば、子どもが愛国心を持っているかを、数値で評価すべきではないだろう。徳育が教科になれば、そんな評価がまかり通る危険がある。

現在の教員養成制度では、道徳の教員免許はない。地域で特別の活動をしている人に徳育の免許を与える案もある。規範意識や道徳心、規律を教える専門教員の養成が始まるのだろうか。

昨年の高校履修漏れ問題で明らかになったように、授業時間不足で必要な教科が教えられていない現実も忘れてはならない。徳育の新設で、必修科目にしわよせが起こらないか。

教育制度の根幹にかかわる問題点を素通りして、再生会議が徳育の新設を打ち出すのはあまりにも短絡的だ。

安倍政権は教育改革を参院選でアピールしたいのだろうが、そんな発想なら願い下げだ。

北海道新聞 2007年3月31日

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沖縄戦記述を修正 歴史ゆがめると言えぬ

太平洋戦争末期の沖縄戦で、多くの島民が集団自決したと語り継がれている。それも、「日本軍の強制によって…」と私たちの多くは理解しているのはなぜだろうか。それを問いただすことが文科省の教科書検定でも起きた。〇八年度から使用される高校教科書の日本史A、Bにおける沖縄戦記述に修正を求める検定意見が初めてついたのである。この意見は、歴史をゆがめるものとは言えない。

私たちの理解は、それ以前の、平たく言えば昔習った教科書などから得たものだった。ところが、今回の検定に申請された日本史の教科書でたとえば「日本軍は(中略)くばった手りゅう弾で集団自害と殺しあいをさせ」と記述した教科書には「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」と修正を求める検定意見がついたのである。

「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」というのが文科省の説明である。

その民事訴訟とは、一昨年八月、沖縄・座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(88)と、同・渡嘉敷島守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟・秀一さん(72)が、名誉を傷つけられたとして岩波書店と作家の大江健三郎さんを相手取り、出版差し止めと損害賠償を求めて大阪地裁に起こしたものである。岩波書店は守備隊の命令で島民の集団自決が起きたとする大江さんの「沖縄ノート」や、歴史学者の故家永三郎さんの「太平洋戦争」など三冊の出版元である。

渡嘉敷島の集団自決について、作家の曽野綾子さんが綿密な現地調査に基づいた「ある神話の背景」で疑問というより否定を突きつけているし、座間味島のそれについては梅沢さん自身が慰霊祭に出席した折、生き残った人から「遺族援護法の適用を受けるため、村の長老の指示により、心ならずも偽証した」と告白されたのである。

歴史を語ることの難しさをあらためて思う。こどもの心を左右する教科書は少しでも疑問があったら、断定的表現は避けるのが正しく、歴史には良心で向き合うべきである。

北國新聞 2007年3月31日

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【教育関連法案】徹底審議が欠かせない

政府は、安倍首相が最重要法案と位置付ける教育改革関連3法案を国会に提出した。

教育現場に大きな影響を及ぼす内容の法案にもかかわらず、政治日程優先のあおりで中教審の審議時間がわずか1カ月に制約されるなど拙速感は否めない。国会での徹底した論議を強く求めたい。

地方教育行政法改正案に盛り込まれた、都道府県教育委員会に対する文部科学相の是正指示権は、中教審で付与に強い反対意見があったが、安倍首相の指示で明記された。

地方分権一括法で廃止された「是正要求権」をより強化して復活させたといってよい。首相が常々強調する「分権推進」とは裏腹に、分権の流れに逆行し、国の統制強化につながりかねない。

是正指示権の発動対象は、いじめで子どもが危険にさらされる場合などに限定されている。だが、国の権限強化でいじめ問題が解決するとは到底思えない。逆に、政治的な「道具」として使われ、現場に混乱を持ち込む恐れさえある。

教員免許法改正の柱である免許更新制の導入も大きな問題をはらむ。

終身免許を改め、10年ごとに研修を修了した教員の免許を更新する仕組みだ。中教審は目的として「教員のリニューアル」「優秀な教員の確保と資質向上」を挙げる。

だが、恣意(しい)的な運用によって、選別排除の手段に使われる懸念は否定できない。教育をめぐる問題を「教員の質」と安易に結び付ける雰囲気が強まる中、教員がさらに委縮する恐れは小さくない。

ただでさえ忙しい教員が、研修導入によって一層時間的な余裕を失うことも懸念される。学校現場にとってはマイナスに働きかねない。

それらの結果として、教員を目指す学生が減る恐れはないのか。ことしの国立大入試では教員養成系学部の志願倍率が下がったが、その傾向が続けば、「優秀な教員の確保」とは逆の方向に進むことになる。

改正教育基本法を踏まえて、学校教育法改正案には義務教育の目標として「国と郷土を愛する態度」などが盛り込まれた。評価の在り方を含め、心の問題に踏み込むことへの懸念は全く解消されていない。

教育基本法改正に始まる安倍首相の「教育再生」路線には、国の統制を強化しようという色がにじみ出ている。国会審議では「子どもたち」を論議の中心に据えないと、百年の大計を誤りかねない。

高知新聞 2007年3月31日

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再生に結び付くか疑問だ 教育改革法案

政府は、安倍晋三首相が最重要課題と位置付ける教育再生に向け、教育改革関連三法案を国会へ提出した。

地方の教育委員会に対する文部科学相の権限を強める地方教育行政法、教員免許に更新制を導入する教員免許法および教育公務員特例法、義務教育の目標に「国と郷土を愛する態度」などを盛り込んだ学校教育法‐の各改正案である。

いずれも、現行の教育制度や教育現場に大きな影響を及ぼす重要な法案だ。

では、国民の期待や関心にこたえて練りに練った法案か‐といえば、「否」と指摘せざるを得ない。

この三法案を審議した中央教育審議会(中教審)は、諮問から答申までわずか1カ月という異例のスピード審議を余儀なくされた。「今国会でぜひ成立させたい」という首相の意向を受け、伊吹文明文科相の要請に中教審も応じた結果だ。

統一地方選や参院選など大型選挙が立て込んで窮屈な国会日程を勘案した政府側の都合であろうが、国民の目に「いかにも拙速」と映ってしまったのは残念でならない。

地方教育行政法の改正案には、教委に対する文科相の是正指示権が明記された。「教育委員会の法令違反や怠りによって、緊急に生徒らの生命を保護する必要が生じた場合」に発動される。

具体的には、いじめを苦にした自殺が起きても教育委員会が何も対応しないケースなどを想定しているという。

だが、こうした権限が文科相に本当に必要なのか。この法案の条文については、自民党の総務会でも「生徒の生命に危険が及ぶ事態とは、まさに警察の話ではないか。教育の話ではない」という異論が出たという。私たちも首をかしげざるを得ない。

また、「生徒らの教育を受ける権利が侵害されていることが明らかな場合」は、文科相が教委に対し地方自治法に基づく是正要求ができる規定も盛り込まれた。これは、高校必修科目の未履修問題のような事態を念頭に置いているという。

教育委員会に対する国の権限強化の是非は中教審でも最大の焦点となり、権限強化を認める多数意見とともに「地方分権に逆行する」という反対意見も答申に併記されていた。

最終的に是正要求・指示の権限を盛り込むと決めたのは首相である。「国が最終的に責任を負わなければならないこともある」と、首相はその理由を語った。

だが、道州制導入の検討など分権改革の旗を振る一方、教育改革の分野では国の権限を強化することに矛盾はないのか。やはり疑問を抱かざるを得ない。

法案提出を受け、与党は衆院に特別委員会を設置して集中的に審議する方針というが、中教審に続いて国会も「突貫審議」では国民は納得しない。徹底的な教育論議を通じて、国民の疑念や不信を晴らしてもらいたい。

西日本新聞 2007年3月31日

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教科書検定 沖縄戦の実相歪めないか/政府の思惑先取りの傾向に

文部科学省は、2008年度から使用される高校教科書の検定結果を発表した。

日本史教科書で沖縄戦の集団自決(集団死)について、日本軍の命令や強要があったとの記述には、近年の状況を踏まえると必ずしも明らかと言い切れず、「実態を誤解する恐れがある」との検定意見を付けた。意見を受けた5社は、「自決した住民もいた」「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」など、日本軍の関与に直接言及しない記述に修正した。

集団自決をめぐる「軍の関与」については、昨年までは何の意見も付いていなかった。今回、初めて検定意見が付けられた。

◆多数の県民が自決
政府の意向に沿った検定意見と受け止めていいだろう。日本軍の直接の命令があったかどうかは、確かに意見が分かれるところだ。ただ、検定意見には大きな疑問が残る。

沖縄戦では多数の住民が自ら命を絶ったり、肉親を手にかけた事例があったのは事実だ。そこに日本軍の命令があったかどうかの以前に、沖縄で戦争があり、日本軍が駐屯していたことが多くの命を絶った根幹の理由だ。

今回の検定で焦点になっている軍命については、当時の指揮官が証拠がないとして裁判で訴えている。

一方で、日本兵から自決を指導されたと証言している住民は多い。日本軍から手りゅう弾を渡されたという住民の証言もある。

直接、軍が命令を下さなくても、当時は日本軍に強制された状況下に置かれていたと考えるのが妥当だと指摘する研究者もいる。

文科省もこうした考えを「通説」としてきたのだが、今回、軍の関与を否定する意見を付けた。

検定意見では、「誤解の恐れ」の根拠に、軍命令の存在に疑問を呈している書籍や現在係争中の裁判での陳述を挙げた。ただ、係争中の裁判での陳述を根拠の一つにするのはどうだろうか。陳述はまだ争われている最中なのだから。

肉親の集団自決を体験した金城重明さんは検定意見について「打ち消せない事実を隠ぺいするものだ。歴史を改ざんしている」と批判している。

沖縄戦の実相を歪(ゆが)める検定になっていないか懸念する。検定に何らかの意図があってはならないだろう。歴史の受け止め方は人それぞれだろうが、国が歴史についての考え方を押し付けていいのだろうか。

また気になるのは、従軍慰安婦について「日本軍の関与」に触れた教科書が申請段階からなかったことだ。

安倍晋三首相は、慰安所の設置・管理や慰安婦の移送には日本軍が直接あるいは間接に関与したことを認めて謝罪した河野談話を踏襲しながらも、日本軍の「狭義の強制性」を否定している。教科書会社が議論になるのを恐れたのなら、逃げ腰と批判されよう。

◆教科書は学ぶ入り口
過去の検定では、「県民が一丸となって抗戦した」とか「女学生が尊い命をささげた」と記述した教科書が合格した。

美化したり、実相と懸け離れた記述からは、歴史の教訓が学べない。実相に近づき、伝える努力を怠ってはならない。

私たちは歴史から多くのことを学ぶ。学ぶ入り口の一つが教科書だ。その教科書が政府の意向を受け過ぎていたら問題だろう。

安倍首相は内閣の最重要課題に掲げる教育三法改正案を国会に提出した。今国会での成立を目指している。

三法の一つ「学校教育法改正案」には、「我が国と郷土の現状と歴史について正しい理解に導き、伝統と文化を尊重」との目標が設けられている。

でも、「正しい理解」を誰が決めるのだろうか。学校では、多様な見方があるのを学ぶことを教えるのが大事だ。

歴史の見方を国が押し付けてはならないのは指摘するまでもない。

中立性を保つことが教育の基本だ。押し付けていたら、政府の意向に沿った画一的な教育しかできないことになる。

特に歴史教科書では、押し付けはやめるべきだ。

多数の住民を巻き込んだ沖縄戦については、きちんと検証し、教科書に記述して、伝えていくことが重要だ。過ちを繰り返してはならないからだ。

琉球新報 2007年3月31日

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教育改革法案/これで「再生」ができるのか

これで「教育再生」が本当にできるのだろうか。

政府が30日に国会提出を予定している教育改革関連3法案は、政治日程を最優先し、議論が生煮えのまま強引にまとめた粗さが目立つ。

現在の教育をめぐるさまざまな問題を考えれば、改革の必要性には異論がない。

いじめを苦にした子どもの自殺、必修科目の未履修、指導力不足の教員、学力低下の懸念―。教育委員会や学校現場の対応力のなさが、問題をさらに深刻化、複雑化させている。

こうした現状を早急に改善し、生き生きとした教育現場にしなければならない。

しかし、法案は現状に対する対症療法としての効果も期待できそうになく、教育現場を活性化させることにも結びつきそうにない。

教員免許法および教育公務員特例法改正案では、終身制の教員免許を有効期間10年の更新制に改める。指導が不適切と認定した公立学校教員には研修を行い、それでも改善が見られなければ免職などの措置を取る。

学校教育法改正案は副校長・主幹・指導教諭の新設などを盛り込んだ。

地方教育行政法改正案は、いじめなどを念頭に、児童生徒の生命や身体保護のため緊急の必要がある場合、文部科学相が教委に是正指示できるとした。私立学校に関する事務について、都道府県知事が教委に助言・援助を求めることができる規定も設けた。

教育再生会議の報告や中教審答申と比べれば、国の権限強化を薄めた形だが、やはり教育への国の関与や管理を強め、学校における人事管理を強化する方向を打ち出したものだ。

地方分権に逆行する内容と言わざるを得ない。

義務教育に対する国の責任はもちろんある。だがそれは、国が教育行政を指揮監督することではないはずだ。上意下達の中央集権的な教育行政ではなく、地方の裁量を拡大し、地域の創意工夫を大切にすることこそが求められる。

国の関与を強め、人事管理を強化することによって、教育を取り巻くさまざまな問題解決ができるとは思えない。

法案は、安倍晋三首相の強い意向を受けて異例のスピードでまとめられた。与党内部の検討も十分とは言えない。

とりわけ、中教審の審議には問題がある。わずか1カ月の短期間で三法改正に関する答申を出した。焦点となった文科相の関与強化に関しては、容認と反対の両論併記だった。

本来、対立意見を調整し、打開策を見いだしていくのが中教審の役割のはずだ。徹底した審議の末の両論併記ならまだしも、審議を尽くすことなく政治日程を優先して答申したのでは、存在意義が問われよう。

安倍政権は3法案を今国会の最重要法案と位置付け、早期成立を目指しているが、国会審議においても政治日程を優先したのでは、禍根を残すことになりかねない。国会では徹底して審議するよう求めたい。

河北新報 2007年3月30日

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問題意識が希薄すぎる 文部科学白書

2006年度版の文部科学白書は、「教育再生」を特集テーマの1つに取り上げた。昨年12月に教育基本法が約60年ぶりに改正され、安倍晋三首相直属の教育再生会議が次々に改革案を提言している状況を考えると、タイムリーな白書の題材といえるだろう。

ところが、残念なことに、白書は全体として経過報告の域を出ておらず、この国の教育をどう立て直すか‐という肝心なメッセージが伝わってこない。

「現在の日本の最重要課題は教育の再生です」と白書は高らかに宣言する。安倍内閣だけでなく、国民の多くもそう感じているだろう。

しかし、白書が論じているのは、教育基本法の改正に至る経緯が中心で、「明日の教育」はどう変わるのか。また、そのためにはどんな方策が考えられるか‐という国民が本当に知りたい論点は、あいまいな記述でぼかされている印象が否めない。

白書は「道徳心や自律心、公共の精神、国際社会の平和と発展への寄与などを一層重視する教育」が求められているとした上で、「教育基本法が改正され、教育再生の第一歩」を踏み出したという。

しかし、同時に「新しい教育基本法の成立により、教育を取り巻くさまざまな問題がすぐに解決できるわけではありません」と白書はくぎを刺す。教育基本法改正をめぐる国会審議で何度も聞かされた政府側答弁の繰り返しである。

これでは、白書に目を通したとしても、国民は消化不良感を抱くだけだ。

文科省は、いじめ、不登校、校内暴力、さらには学力低下など教育現場が抱える深刻な問題をどう認識し、どんな改革に取り組もうとしているのか。そうした現場感覚や問題意識の希薄さが、物足りない白書の背景にありはしないか。

象徴的なのは、昨年10月に発覚した高校の必修科目未履修問題の取り扱いだ。あれだけ世間を騒がせたにもかかわらず、白書の原案ではひと言も触れられていなかった。

公表前の事前説明で報道機関から「なぜか」と指摘され、急きょ部分修正の形で記述を追加したという。お粗末な対応というほかない。

この問題では、学習指導要領を無視した学校現場やそれを見過ごした教育委員会の失態だけでなく、文科省の責任も厳しく問われたはずだ。

しかも未履修問題は、教育委員会に対する国の権限を強める教育関連法改正論議の契機ともなり、改正案づくりは大詰めを迎えている。教育再生をテーマとした白書で、この問題を素通りしようとした文科省は「感度が鈍すぎる」と批判されても仕方があるまい。

国民が教育問題を最重要課題と考える要因の1つに、文科省を頂点とする教育行政に対する根深い不信があることを、あらためて肝に銘じてもらいたい。

西日本新聞 2007年3月26日

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機を逸しなかった文科省

中教審答申、その因は学校にある

先日、中央教育審議会(文科大臣諮問機関、以下、中教審)は教育改革関連3法案の改正について伊吹文科大臣に答申した。これを受けて安倍首相にも報告され、改正に向けていよいよ国会論議が本格化する。本国会は首相自ら「教育再生国会」と称するだけに白熱した論戦が待たれる。3法案とは地方教育行政法(以下、地教行法)、教員免許法、学校教育法のことをいう。地教行法にかかわる答申について考えたい。

■地教行法の性格
地教行法は正式には「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」という。それからしてこの法律は主に教育委員会や地方公共団体における教育行政に関する内容となっている。つまり本来は地方分権の色彩が濃い法律である。そこに、文科大臣から上意下達的な性格を帯びた「是正指示権」が入ると地教行法本来の働きが消失されかねない―という危惧の念があって今回の改正内容に賛否が生じたのである。

この是正指示権の発動は、たしかに闇雲にということではない。「児童生徒の生命、身体の保護」とか「教育を受ける権利の侵害」等の場合に是正を求めるという限定がある。

どういう形で是正指示を求めるのだろうか。文書での通知、通達だろうか。口頭での通告だろうか。萎縮する県教育長の姿が浮かぶ。萎縮の中からはいい教育は生まれないし、創造的開発的な教育などは望むべくもない。

この是正指示を所と立場を変えて現場の校長が受ける。重苦しい空気が学校を支配しないか気掛かりである。

■機に乗じた文科省
文科大臣の県教委への是正指示権答申は拙速とのそしりを受けてもしかたがない。スピード審議の上に賛否両論併記の答申だからだ。中央教育審議会の答申で両論併記は極めて異例なことである。

「教育の番人」といわれる同審議会が審議をまとめきれないで答申するということはその立場を弱め、低くしたと言えるのではないか。信頼を損ねたとも言えるだろう。

今国会で成立を図る―の首相の強い意向に配慮した形となった。教育が政治に振り回された格好である。

それにしても、文科省は機に乗じた。教育への権限強化を図りたい文科省は、小中学校の「いじめ自殺」、高校の「世界史不履修」問題をうまく取り込み地方教育行政への関与を深めた。生命身体の保護や教育を受ける権利―に関してと言えば国民の支持を得られやすいからだ。

いじめ自殺や世界史不履修で学校がもう少し適切な対応をしておれば今回のような是正指示権などの介入はなかったのである。学校は大いに反省をせねばなるまい。

教育免許法改正にしてもそうである。指導力不足や常軌を逸した素行の教員等への人事管理厳格化。その対策として10年ごとの教員免許更新制が生まれるのも考えられないことではない。その制度に毎年、現職だけでも10万人の教員が30時間の講習を受ける。その費用は膨大のものだろう。現場の教員がもう少ししっかりしておればそんな法改正など必要がないのである。

■指導と助言、どう違うのか
中教審の審議の中で、「指導」では強いので「助言」にとどめたい―という意見があった。語彙的感覚では理解できるが、実態としてどう違うだろうか。学校現場では迷う場面があるのではないか。上席のものから、例えば、文科省から言われれば、これは指導、これは助言と区別できるものだろうか。同等に見るのが現実である。

ただでさえわが国は「お上」に弱いという精神的土壌がある。情けないほど官僚に平身低頭だ。学校だって類に漏れないのではないか。いや、むしろ学校こその印象が強い。教育から自立の気概が欠落すると停滞するだけだ。

八重山毎日新聞 2007年3月24日

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教育基本法余波  関連法見直しも問題多い

教育改革を最重要施策と位置付けている安倍晋三政権は教育基本法を改正したが、その余波は大きい。教育に絡む関連法のほとんどが改正されるからである。

先ごろ、文部科学相の諮問機関、中央教育審議会は副校長などの新設を盛り込んだ学校教育法の改正、免許更新制の導入を中心とした教員免許法改正の骨子案を了承した。政府は今国会での提出に向け、法案の準備を進めている。

私たちは教育に対する過度の政治権力の介入に反対し、基本法の改正は必要ないと主張してきた。いじめと自殺、児童・生徒の学力低下、指導力不足の教員の増加…。安倍内閣は改革に当たって「小道具」を動員した。教育の危機を叫び、これらの道具で国民を“幻惑”したのではないだろうか。

少年非行はピーク時よりも三分の一以下になっていた。子どもの自殺こそ根絶したいが、学校関連が半数を占めている。都道府県教育委員会から指導力不足を指摘された教員は総数の0・1%。

安倍首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」をスローガンにしている。六十二年前、日本は太平洋戦争で惨めな敗北をした。そのことから敗戦のショックからの立ち直りだと解釈する人もいる。しかし、戦争を知らず、まして、敗戦の意味を理解できない子どもたちに戦後レジームの脱却を求めて何になるのか。

戦後間もなく制定された教育基本法は今年三月で施行六十年になるはずだったが、その直前に改正された。そこには「愛国心」「郷土愛」などが強調されている。

愛国心や郷土愛は法律で国民に強要するものではない。愛国心が突出して叫ばれることは危険な兆候である。戦前の軍国主義教育、戦時体制下での皇民化教育。それらは敗戦で瓦解した。

確かに、改正前の教育基本法は愛国心をもてなどとは書いていない。戦前の教育勅語に代わるものとして制定されたのが、この基本法だった。それには教育の理念が示され、六三制、教育の機会均等、平和主義、男女共学、義務教育の無償などがうたわれている。

基本法改正に伴い、提出されようとしている関連法の見直しには問題点が多い。教員免許の更新制やいじめ生徒へ対応がある。指導能力が劣ると判定された教員を学校現場から退場させる。また、いじめや非行に走る生徒を教室から追い払う。

そうしたペナルティーから、いったい何が生まれるというのか。教育現場に無用の混乱を起こし、先生や子どもたちに相互の不信感や不和、疑心を生み出すだけではないだろうか。

教育に対して大多数の教員は熱情をもって取り組んでいる。政府、文部科学省は現場で苦闘する先生たちの実情を知らないと教育改革は進むまい。

神奈川新聞 2007年3月20日

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中教審答申 拙速で分権に逆行する

中央教育審議会が教育改革関連3法(学校教育法、教員免許法、地方教育行政法)の改正案を答申した。文部科学相に諮問を受けてから1カ月のスピード審議だ。教育は百年の大計といいながら、法案提出期限をにらみ急ごしらえした感は否めない。

焦点の教育委員会に対する国の是正指示権の創設については、必要とする意見が「多数」とした。官邸の教育再生会議が提起した「国の関与強化」に道を開くものだ。ただ、「地方分権に逆行する」などの強い反対意見も併記した。

全会一致を原則とする中教審が賛否両論を併記するのは極めて異例で、権限強化を狙う文科省への反発が強かったことを物語っている。最終判断は安倍晋三首相に委ねられるが、教育再生を最重要課題に掲げる首相が、改正案に是正指示権を盛り込むのは間違いない。

首相にすれば、参院選を控え、法案成立で実績と独自色を打ち出す必要があった。だが、意見が分かれるのなら、それだけ論議を尽くす努力が欠かせない。中教審は通常、審議に1年以上かけて合意形成してきたが、首相の強い意向に沿う形での突貫審議は禍根を残した。

「教育の番人」と呼ばれる中教審は、政権との距離を置くことで権威を保ってきたはずだ。だが、これでは政権の下請け化との印象を国民に与える。玉虫色の両論併記は、かえって首相の出番を設けるための気配りと思われかねない。

そもそも改正論議は、いじめ自殺や大量履修漏れ問題などで浮かび上がった教委批判が下敷きになっている。だが、国が関与したからといって教委の機能不全が解消するものではなく、学力低下やいじめの解決に直結するとも思えない。

当事者意識の欠如や隠ぺい体質は、文科省を頂点にする上意下達の集権的構造の中で染み付いたのではないか。文科省の指示通りに従わせるという権力的なやり方を強めれば強めるほど、こうした依存体質の改善は難しくなるだろう。

答申では指示は「生命身体の保護に緊急の必要があるなど極めて限定された場合」に発動する考えを示した。だが、国の関与強化の流れの中で、実際にどれだけ歯止めをかけられるかは疑問である。

必要なのは、一人ひとりが今、子供に何が重要かを考えることで、安易に国に頼ることは避けるべきだ。教委への住民参加などを進め、自治体や教委が自ら決定し、自浄作用を果たす仕組みを作らなければ、地方分権は画餅(がべい)に終わる。

南日本新聞 2007年3月14日

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「教委への指示」歯止め必要 中教審答申

中央教育審議会が地方教育行政法、教員免許法、学校教育法の教育改革関連三法改正の骨子案を、伊吹文明文部科学相に答申した。

焦点となっていた都道府県教育委員会に対する文科相の是正指示権については、多数意見として盛り込んだ。発動については、一定の歯止めをかけるものとなった。

法案化は最終的に安倍晋三首相の判断にゆだねられたが、首相は十二日、いじめなど緊急を要する問題について是正指示権を改正案に盛り込むよう文科相に指示した。

教育再生会議の報告を受けて文科省が当初、中教審に示していた地方教育行政法の改正の骨子案には、次の三点を盛り込んでいた。

教委が著しく不適正な場合、文科相が是正勧告・指示ができるようにする。教育長人事に国が関与する。私立学校に教委が指導・助言できるようにする−という内容だ。

今回の答申は、教育長について国が任命に関与する「任命承認制度」には、賛成意見がほとんどなかったとして見送った。私学への指導・助言は、私学の自主性を尊重し首長の求めに応じ「助言・援助」できるとし、「指導」を外した。適切な判断だと言える。

「法令違反などがある場合」に文科相が発動する教委への是正指示などには、地方六団体代表の委員たちが、地方分権に逆行する−と反対、慎重意見が強かった。

そのため答申では、現在でもできる地方自治法による是正要求を当然とした上で、国が指示できるような制度の新設には、「強い反対意見が出た」ことを併記。発動についての“条件”を挙げていた。

「児童生徒の生命や身体の保護のため緊急の必要があるなど極めて限定された場合、何らかの措置(指示など)ができるようにする」というものだ。

「措置の際、専門家で構成される調査委員会などの報告を参考にすべきだとの意見も出た」と付け加えていた。

教委への国の関与は、いじめによる自殺、高校の未履修問題などで教委が適切に対応できなかったことが背景にある。教委は、もっと当事者意識と能力を高める必要があろう。

いじめなど「緊急の必要がある場合」について、地方教育行政法の改正案に、具体的に書き込んでもらいたい。国の過剰な関与はないということを担保しなければならない。

答申はほかに、教員免許法に教員免許の更新制、指導力不足教員の人事管理強化などを、学校教育法には副校長・主幹の新設などを盛り込んだ。

一月に教育再生会議が出した第一次報告を受けて、安倍首相が伊吹文科相に三法案提出を指示。中教審は、文科相の諮問から約一カ月という異例のスピード審議で答申した。

政府は、今月中に三法の改正案を閣議決定し、今国会に提出する方針だ。

野党も早く対案を出してもらいたい。教育は、国づくりの根幹となるものだ。広く論議を巻き起こし、国民の関心を高めていくべきだ。

東奥日報 2007年3月13日

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中教審答申 どたばた審議の極みだ

どたばた審議の末、急ごしらえでまとめ上げた結論と受け止めざるを得ない。

文部科学相の諮問機関・中央教育審議会(中教審)が、わずか1カ月足らずの審議で教育関連3法の改正案を答申した。通常、1年以上かかることからすれば、異常な早さである。

しかも今回は、今後の教育に重大な影響を及ぼしかねない審議課題がめじろ押しだった。いつにも増して慎重かつ深い議論が求められていたのだ。

教育は100年の大計。もとより熟考が欠かせない。拙速答申がどんな結果を招くのか。不安を覚えないわけにはいかない。

急いだ理由は明らかだ。教育改革を政策の目玉とする安倍政権の意向に沿い、法案提出期限に間に合わせたとみていい。

つまり、4月の統一地方選や7月の参院選をにらみながら、政権浮揚を狙う安倍晋三首相が教育改革という成果を急いだ結果であり、当初から「日程ありき」だったのである。

中教審は文科省の追認機関と批判される場合が少なくない。しかし、今回の答申によって、文科省はおろか、政権そのものの下請け機関化が一層進んだといわれても仕方がない。

この意味は決して小さくない。その時々の政権の意向や思惑によって、教育が度々変えられる危険性が高まったのだ。

審議が政治的思惑で進められた分、答申の中身にも大いに疑問が残る。安倍政権の考えを追認する格好で、国の権限強化が色濃い内容となったのだ。

焦点の教育委員会(教委)改革では、反対意見を併記したものの、文科相の是正指示権が多数意見として盛り込まれた。

確かにいじめ自殺の隠ぺいをはじめ、教委に問題がないわけではない。しかし、教委の機能不全はむしろ、文科省を頂点とする上意下達の集権的構造に主因があるのではないか。

文科省が是正指示権によって関与を深めれば深めるほど、教委は依存体質を強め、ますます主体性を失うことになる。

教員免許の更新制や指導力不足教員の人事管理厳格化も、運用の仕方によっては、児童・生徒にとって不適格な教員の質向上というより、学校や教委にとって不都合な教員を排除する口実となる危うさを秘める。

国の権限強化とは詰まるところ、国による教育の管理強化であり、安倍首相の特色である強硬路線の表れでもあるのだ。

管理が強まれば、教委や学校、さらには教員が自由闊達(かったつ)さをなくし、委縮へと向かいかねない。そんな状況下で学校や教員らは、主体性のある心豊かな児童・生徒をどうはぐくめばいいのか、思い悩むに違いない。

国の関与強化によって山積する教育課題の何がどのように改善されるのか、検証されなかったのはもっと問題だ。

適切な処方せんとの確認がないまま、やみくもに法改正だけが進められるとすれば、教育再生など到底おぼつかない。

教育は政治的に中立でなければならない。しかも、教育が成果を挙げるには長い年月が必要であり、度々の改変は教育現場に混乱をもたらすだけである。この基本的な事柄も再認識すべきであろう。

秋田魁新報 2007年3月13日

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中教審答申 存在意義を自ら損なう

教育関連三法案をめぐる中央教育審議会の審議は、異例ずくめだった。

教員免許の更新制や教育委員会と国との関係など、教育の根幹にかかわる問題なのに、わずか1カ月余で答申した。意見がまとまらず、反対を併記した項目もある。政治日程に合わせた急ごしらえの答申を出しているようでは、中教審の存在意義が問われる。

これで審議を尽くしたとはいえない。結論を急ぐあまりに、生煮えの法案を今の国会に提出することは慎むべきだ。

2月に新体制が発足したばかりの中教審に諮問されたのは、三つの改正法案だ。教育委員会制度を見直す地方教育行政法。教員免許を10年で更新制にする教員免許法。「愛国心」などを教育目標に盛り込む学校教育法。いずれも教育現場に直結する重要な法案である。

伊吹文明文部科学相は1カ月ほどでの答申を求めた。参院選をひかえ、教育関連法案を今国会で成立させたい安倍政権の狙いを強く反映した諮問だった。

最大の争点は、教育委員会改革である。当初案には都道府県教委の教育長人事に国が「一定の関与」をすることや、私学への指導・助言・援助、都道府県教委への国の是正指示権などが含まれていた。

これに対し、地方や私学の反発が強く、人事への関与と私学への「指導」の部分は削られた。教員の人事権を市町村教委に移譲する方針もあったが、意見の隔たりが大きく結論を出していない。

是正指示権については「児童生徒の生命や身体の保護のため緊急の必要があるなど極めて限定された場合」と条件付きで認めた。一方で、地方分権に逆行するといった反対意見を加えている。

地方の反対の声を答申に反映させるなど、中教審は一定の役割を果たしたといえる。しかし、専門的な立場から丁寧な論議をする責任があるのに、あわてた論議で結論を出し、将来に禍根を残した。

その結果、出てきたのは文科省の権限強化である。

もともと、教委改革はいじめの問題や、高校の未履修問題への対応のまずさから浮かび上がってきたものだ。文科省がいじめ自殺の実態を隠してきたり、未履修問題に手を打ってこなかった責任はあいまいにしたまま、国から地方への指導強化ばかりが目につく。

教委の活性化ならば、委員の選び方など、検討すべき点は多数ある。上意下達の仕組みを強めても、いまの学校がよくなるとは思えない。結局得をしたのは文科省、では何のための改革なのか分からなくなる。

信濃毎日新聞 2007年3月13日

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中教審答申  こんな拙速審議では困る

審議開始から一カ月、あっという間に答申にこぎ着けた。精力的に討議したといえば聞こえはいいが、拙速以外の何ものでもない。国会審議に間に合わせることを最優先にするようでは中教審の名が泣くのではないか。

第四期の中教審委員が任命されたのは二月一日である。審議が始まったのは六日からだ。過去に例のないスピード答申である。

第三期審議会が一月三十日に答申した「次代を担う自立した青少年の育成について」は、二代前の中山成彬文部科学相が二〇〇五年六月に諮問した案件だ。同時に諮問した「生涯学習について」はまだ中間報告の段階だ。これが中教審の通常ペースである。

まして、今回の審議は学校教育法など教育関連三法案の改正を伴う重要なテーマが中心である。単に時間を確保するだけでなく、国民各層の意見を聞きながら議論を深めるべきだった。

焦点となっていた都道府県教育委員会に対する文科相の是正指示権について、両論を併記せざるを得なかったのも議論不足のためである。多様な意見を戦わせ、結論を一つにまとめ上げていく過程こそが重要なのだ。

文科省はいじめ問題や未履修問題で集中砲火を浴びた。それなのに今回の答申は、教員免許の更新制を導入したり、教委への指導監督権限を強化したりするなどの内容となった。文科省の「焼け太り」は明白だ。

三十人いる委員のうち、十四人は新任の委員である。各界で活躍している人たちだといっても、たった一カ月ほどで教育行政に精通するのは無理だろう。スピード答申を可能にした背景に、文科省の「強い指導と助言」があったと見て間違いあるまい。

安倍晋三首相は教育改革を政権の最重要課題に掲げている。昨年の教育基本法改正はその第一弾だ。教育関連三法が改正されれば、学校現場は新しい法体系の下で動きだすことになる。

いじめや学力不足、保護者と学校の断絶など、教育を取り巻く環境は極めて厳しい。国が関与を強めれば解決できるという問題でもない。中教審は「教育改革には何が必要か」の検証から始めるべきではなかったか。

「疾風迅雷のでき」と自賛する山崎正和会長だが、内心じくじたるものがあるのではないか。官邸や文科省が書いたシナリオを追認するだけなら中教審などいらない。山崎会長のリーダーシップが問われている。

地方代表委員をはじめ、答申に不満を漏らす委員は少なくない。法案づくりや国会審議まで拙速であってはならない。国と地方の関係にも大きな影響を与える法案だ。国民に開かれた議論を強く求めたい。

新潟日報 2007年3月13日

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中教審答申 国の関与は時代に逆行

文部科学相の諮問を受けた中央教育審議会が教育三法案について答申した。焦点の国の教育委員会への関与強化は異例の両論併記で容認したが、国の関与強化は教育本来の姿や地方分権に逆行する。

中教審はわずか一カ月で“突貫審議”を終えた。重要な答申は通常一年近くかけて意見をとりまとめるが、異例だ。教育の将来を左右する法律改正に専門的な議論が尽くせたか、委員からも疑問が相次いだ。

急いだのは、「教育再生」を内閣の最重要課題とする安倍晋三首相が、教育再生会議の第一次報告を受けて今国会への法案提出を伊吹文明文科相に指示したからだ。性急な改革には統一地方選や参院選の目玉にする意図が透けて見える。国造り、人づくりの基礎である教育には時間をかけてでも深い議論が求められる。

文科省は首相や文科相の意向も受けて、文科相による教育委員会への是正勧告・指示や教育長任命承認を地方教育行政法に盛り込むよう中教審で提案したが、異論が強かった。

このため、答申では是正勧告・指示とはせず、「児童生徒の生命・身体保護」などに限定して国による措置が必要であるとの慎重な表現にとどまった。同時に「地方分権の流れに逆行する」などの強い反対意見を併記せざるを得なかった。

教育長の任命承認については賛成がなく、答申では見送られた。

答申報告を受けた安倍首相は、答申にあるような場合に限り国の是正指示・要求を法案に盛り込む方針を示した。国による教育管理の強化は首相の持論とされるが、異論に配慮せざるを得なかったともみられる。

一九九九年の地方分権一括法で文科相の是正要求権や教育長任命承認権が削除された経緯がある。現行の地教行法でも文科相は指導・助言・援助はできる。再び文科相の関与強化を認めるのは、自主・自立や創意工夫による教育の地方分権を進めるという流れに相反している。

文科省が国の関与を強めようとしたのは、いじめ自殺や必修漏れで教委が適切な対応をしなかったことを理由にし、教委が「教育の地方自治」を推進するという本来の機能を果たしてこなかったことに問題がある。それは文科省を頂点とする上意下達システムに唯々諾々と従い、教委の当事者意識が薄かったからこそではないか。

国の関与強化で、さらに文科省の顔色をうかがうようになってはいけないし、教委の自主・自立が育たない。教委側は形骸(けいがい)化した会議を活性化し、地方地域にふさわしい教育をつくり出していく必要がある。

中日新聞 2007年3月13日

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中教審答申 教育現場を委縮させるな

中央教育審議会が、安倍政権が目玉としている教育関連3法の改正案の答申をまとめた。焦点となっていた文科相の教育委員会への是正指示権を盛り込む意見が「多数」だとした。

教育再生会議が提起した「国の関与強化」を追認する内容で地方に配慮し反対論も併記したが、首相の「政治的判断」でそのまま法案化される見通しだ。

法案提出期限に合わせ約1カ月で答申をまとめたのが実際のところだ。審議時間が不十分であることには目をつむり、首相の指導力演出にまで気を配る。政府との距離を置くことで権威を保ってきた中教審は政権の下請け化したとの印象は免れない。

再生会議報告を受け文科省が当初、中教審に示した地方教育行政法の改正案骨子には@教委が著しく不適正な場合、文科相が是正勧告・指示できるようにするA教育長人事に国が関与するB首長部局の管轄となっている私学に教委が指導・助言できるようにする―という内容が盛り込まれた。

いじめ自殺問題などで浮かび上がった教委批判を背景に、国の教委への関与を大幅に強めるというものである。とりわけ是正指示は、文科相の指示通りの措置を取らせるという極めて権力的なやり方だ。

教委の機能不全は、国が関与できないから起こっているわけではない。当事者意識の欠如や隠ぺい体質などは、文科省を頂点とする上意下達の集権的構造の中で染み付いたものだ。

国が関与すればするほど依存体質は強まり、当事者意識などは育たない。「地方分権に逆行」「私学の独自性が失われる」。地方団体や私学の委員からこんな反論が相次いだのも当然だろう。

答申は、国の教育長人事への関与や教委の私立学校への指導権限などは見送ったが、文科省による教委の是正指示権に道を開いた。

中教審は2年前、「教育行政における国と地方の関係は、指揮監督による権力的な作用より、指導・助言や援助による非権力的な作用によって、地方の主体的活動を促進することが基本」としていたのに、今回なぜ是正指示なのか。

今回、中教審はその発動要件を「生命身体の保護に緊急の必要がある場合や教育を受けさせる義務が果たされない場合など」と限定する考えも示しているが、国の関与強化という流れの中で、実際にどこまで歯止めがかけられるのか。

必要なのは、問題があれば、国が出ていく、という安易なやり方を断ち切ることだ。教委への住民参加などを進め、自治体自ら決定し、自ら責任を取る仕組みをつくらなければ、地方分権など絵に描いたもちだ。一歩前進した分権の時計の針を逆行させてはならない。

教員免許法改正案の免許更新制も疑問が多い。毎年、現職だけでもざっと10万人が30時間の講習を受け、修了認定されないと免許を失う。質向上が目的というが、教職に新たなハードルを課すことには変わりない。

再生会議の「ダメ教師排除論」など教育現場への厳しいイメージが広がる中、国立大入試の教員志願倍率も低下している。現場を委縮させたり、優秀な学生が先生の道を敬遠するようなことになっては元も子もない。

岐阜新聞 2007年3月13日

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中教審答申  権限強化を図る文科省

教育改革関連法の改正を審議していた中央教育審議会の答申が出た。

そこでは文部科学省の権限強化ばかりが目につき、肝心の「教育再生」にどうつながるのか、はっきりしない。

答申には、異例がつきまとう。中教審の審議は一カ月余だった。普通、一、二年かけて審議するのがならわしだ。しかも最大の焦点だった教育委員会に対する文科相の是正指示権創設は全会一致の原則を踏襲せず、反対意見も併記するかたちで決着したからだ。

なぜ、そんな中途半端な議論のまま答申を急がなければならなかったのか。十分な説明がない。

安倍政権にとって「教育再生」は最大の看板である。内閣支持率の低下に歯止めがかからない中で、夏の参院選への実績づくりには、今国会での法改正が欠かせない。そんな事情が一日も早い答申を促したのであろう。

中教審は教育行政ににらみを利かすご意見番である。広く国民の意見を聞き、落ち着いて議論を進めなければなるまい。政治主導に引きずられていては、将来に禍根を残さないとも限らない。

だが、答申は政府の教育再生会議が打ち出した教育委員会への国の関与強化を容認する内容になっている。

地方教育行政法の改正では、賛否を両論併記することになったとはいえ、文科相の是正指示権の制度化を盛り込んだ。

都道府県教育長の任命承認権を復活させる意図は押し返したが、私立学校への関与では、自主性を重んじる私立側からの猛反対で「指導」は削除したものの「助言・援助」は残った。

学校教育法では副校長や主幹、指導教諭の新設、教員免許法での免許更新制の導入や指導力不足教員の人事管理の厳格化なども打ち出した。

地方や学校現場への国の「口出し」がにじみ出ている。是正指示権で「児童生徒の生命や身体の保護のため緊急の必要がある」場合のくだりや、免許更新講習の受講免除規定などは、教委や教員への「介入」「選別」とも受け取れる。

確かに、教委がいじめ自殺や高校必修科目の未履修問題などに、どこまで的確に対応できたか、疑問も多い。厳しく指摘されたのもやむを得ない。

だが今回の答申は、こうした教委への批判の高まりや官邸の思惑を追い風に、文科省が「ここぞとばかりに権限獲得に動いた」のは間違いない。地方分権の流れに逆行するのは明らかである。

教育再生会議もそうだが、教育現場の現状がどうなっているか。過去の政策の検証や今回の制度改革の効果を十分に議論せずに、国の介入を強める制度いじりであって、果たしていいのか。

安倍首相は法改正に向け、国が(教委に)是正要求できるよう、伊吹文明文科相に指示した。その前に、首相は目指す教育の姿を国民に語るのが筋であろう。

京都新聞 2007年3月13日

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中教審答申 「日程ありき」でいいのか

文科相の諮問機関、中央教育審議会が教育関連三法の改正について答申した。

政府が改正を目指す三法は、地方教育行政法、教員免許法、学校教育法だ。なかでも、焦点の教育委員会改革を盛り込んだ地方教育行政法は意見対立があったものの、先に政府の教育再生会議が打ち出した、教委への国の関与を容認する内容となった。
諮問からわずか一カ月、通常なら一年かかりそうな検討を集中審議でこなし、答申を出した。会長ら多くの委員が交代して間がない中、今国会での改正法成立を望む政府にスピード決着を迫られた形だ。

文科相が都道府県教委に是正を指示できる権限を与えるかどうかは、大きく意見が分かれてきた。是認する教育再生会議に対して、規制改革会議や、全国知事会など地方六団体は、地方分権の流れに逆行すると反対してきた。

結局、答申は教委への国の関与について反対意見も併記する形になったが、論議をどこまで煮詰めた上での結論なのか。「日程ありき」の審議というべきで、拙速のそしりは免れないだろう。

是正指示をめぐる文科相の権限は、八年前に法律から削除されたばかりだ。なのに、国が復活へかじを切ろうとするのは、教育委員会側にも原因がある。

昨年、いじめ自殺や高校必修科目の未履修が大きな問題となった。教委が取ってきた措置や対応を振り返っても、改革なしでは済まないことをうかがわせる。かといって、国の関与が復活するだけで、教委制度が大きく改善されるとも思えない。

教委への風当たりは強まっており、規制改革会議は自治体の教委設置義務の撤廃すら求めた。教委のあり方はもっと時間をかけて、徹底的に論議すべきではないか。

他の二法の改正答申は、再生会議の報告とほぼ重なる。教員免許法は免許更新制や指導力不足教員の管理強化を目指し、学校教育法は義務教育目標に「国と郷土を愛する態度の育成」などを盛り込んだ。

免許更新制は極めて大きな改正となる。導入には多大な労力と費用がかかるが、それに見合う新制度なのかは見えてこない。問題教員の「排除」は現行制度でも可能だし、教員の質向上なら研修の充実で対応できるのではないか。今一度、教育現場を巻き込んだ議論を尽くすべきだろう。

いずれにしても、国の教育行政を左右する重要な諮問機関が、独自に判断したという手応えがない。法制化は安倍首相の最終判断に委ねられるという。これでは、あまりに政官主導の答申というほかない。

神戸新聞 2007年3月13日

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教育3法改正案 国家統制が露骨ににじむ

中央教育審議会(山崎正和会長)が、都道府県教育委員会に対する文部科学相の是正指示権創設などを多数意見として盛り込んだ地方教育行政法など教育改革関連三法の改正について伊吹文明文科相に答申した。改正法案は今月中に国会に提出される予定だ。

わずか一カ月余の審議、論議も煮詰まらず答申は反対意見を併記するという異例ずくめだが最終的に「教育に国が責任を負える体制を構築していくことが必要」と国の関与強化を容認する内容となった。教育行政の国家統制を強める狙いが露骨ににじんでいる、といえよう。

教育再生を最重要課題に掲げる安倍晋三首相は教育再生会議の第一次報告とそれに続く提言を受け、伊吹文科相に三法改正を指示していた。

再生会議は、教委の活動が著しく適正を欠き、教育本来の目的を阻害している場合に「文科相に是正を勧告、指示する権限を与える」とした。中教審でもこの取り扱いが焦点となった。是正指示権は一九九九年成立の地方分権一括法に伴い、地方教育行政法から類似の是正要求権が削除された経緯がある。全国知事会などから「地方分権に逆行する」と反対意見が出された。当然だ。委員の一人、石井正弘岡山県知事は最後まで反対し「文科省が権限を拡大する『焼け太り答申』だ」と語ったが、その通りだろう。

結局、答申では反対論を併記せざるを得なかった。また、是正指示権の発動も「児童生徒の生命や身体の保護のため緊急の必要があるなど極めて限定された場合」と一定の歯止めを掛けた。しかし「地方公共団体に何らかの措置(指示など)ができるようにする」が多数意見であるとし国の関与強化を容認した。

そもそも、いじめ自殺や履修単位不足問題が論議の発端だったが、法改正で問題解決できるのか。実質的な討議時間もなく、何ら検証されていない。教委への関与だけではない。私立学校への助言・援助、教員免許法では教員免許の更新制導入、学校教育法では国と郷土を愛する態度の育成なども盛り込まれる。地方、学校現場、個々の教員を上意下達で従わせるようなシステム構築の意図が透けて見えよう。これで教育現場が活性化されるとは思えない。

中教審は数カ月から一年をかけ全会一致を原則としてきたが、それが覆された。三法改正は参院選で安倍カラーを打ち出すため不可欠かもしれないが、中教審が首相の私的諮問機関である教育再生会議の追認機関として扱われた形だ。中教審の存在が厳しく問われてしかるべきだ。

山陽新聞 2007年3月13日

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中教審の答申 国は口を出し過ぎるな

教育三法の見直しを審議していた中教審の答申がまとまった。教育への国の関与を強める内容で、現場の息苦しさが増すのではないか。安倍晋三首相は、法案を今国会に提出する方針だ。徹底的に論議を尽くさなければ悔いを千載に残す。

焦点となっていたのは、都道府県教委に対する国の口出しだ。

「児童生徒の生命や身体の保護のため緊急の場合」など極めて限定的ではあるが、国は教委に対して是正指示ができるようにする―との多数意見を盛っている。

まるで二〇〇〇年の地方分権一括法で廃止された権限を復活させたかにみえる。子どもの命が脅かされる事態になっても地方には当事者能力がない、と言われているのと同じことだ。見くびられたものである。

確かにいじめなどでの各地の教委の対応はひどかった。しかしその根を探ると、文科省の縛りの中で生まれた委縮や事なかれ主義が浮かび上がってくる。教委が最終責任を持っていたら、もっと違う展開があったかもしれない。

教委に対しては上から枠をはめるのではなく、むしろ自主性を尊重し、機能不全に陥ったときには答申で例示しているような「第三者チェック」が地域できっちり働くような仕組みをつくるのが、分権時代の在り方と考える。

答申はほかにも「教員免許更新制を導入する」「副校長や主幹などのポストを新設する」などを挙げている。原案にあった「私立学校への指導」などはさすがに排除されたものの、総じて管理的な色彩が濃い。

数カ月から一年かけてじっくり話し合いを重ねたこれまでの審議と違って、今回は首相の指示を受けてわずか一カ月余で終結した。結論も首相の意向に引きずられた印象がある。

教育の論議は本来、現場をよく知っている人が、子どもや親が何を望んでいるか、どんなサポートが必要かという現実を提示し、そこから話をスタートさせるべきだろう。そのプロセスを省いて出された答申が、効果的な処方になりうるだろうか。

反対意見も付された「是正指示」について首相はきのう、法案に入れ込むことを伊吹文明文部科学相に指示した。急いで準備される条文だけに国会で十分な審議が望まれる。与野党とも「これで本当に現場は元気になるのか」と目線を低くしてよく考えてほしい。

中国新聞 2007年3月13日

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突貫審議は納得できない 中教審答申

諮問から答申までわずか1カ月の「突貫審議」で、教育制度の根幹を改める政府の方針にお墨付きを与えていいのか。強い疑問と懸念を抱かざるを得ない。

地方教育行政法など教育関連3法改正案を審議してきた中央教育審議会(中教審)が、都道府県の教育委員会に対する文部科学相の是正指示権など国の権限強化を認める答申をまとめた。

「国の統制を強めることが、本当の教育改革に結び付くのか」「地方分権に逆行するのではないか」。地方6団体や政府の規制改革会議などから反対論が相次ぎ、国民の疑問は解消されるどころか、逆に膨らんできたとさえ思われる。

中教審の山崎正和会長は「拙速ではなく、疾風迅雷で出来上がった」と答申を自賛したが、率直に言って説得力に乏しい。むしろ、答申に反対した石井正弘・岡山県知事の「文科省の権限を拡大する焼け太り答申だ」という論評が、問題の本質を突いているのではないだろうか。

地方分権改革で、国が教育委員会に是正要求する権限は廃止された。それを今になってなぜ、事実上復活させようとするのか。

伊吹文明文科相は、いじめ問題への対応や高校必修科目の未履修問題で教育委員会の不手際が浮き彫りになったことを引き合いに出し、「やはり伝家の宝刀は必要だ」という。

だが、一連の教育問題で機能不全と指摘されたのは、地方の教育委員会だけではない。その教育委員会を指導・助言する立場にある文科省の隠ぺい体質も国民から厳しく批判されたではないか。

文科省の権限を今以上に強め、教育委員会に「にらみ」が利くようになれば、教育が抱えるさまざまな問題は解決へ向かうとは、到底思えない。

ましてや安倍晋三首相直属の教育再生会議が提言したことを幸いに、かつて手放した権限を再び手中に収めたい‐という魂胆が文科省にあるとすれば、まさに「焼け太り」との批判は免れまい。

国の権限強化を盛り込んだ中教審答申は「多数意見」とされ、反対意見も書き込む異例の両論併記となった。首相や文科相が区切った法案提出の「締め切り」に追われ、議論が生煮えだったことの証左にほかならない。

文科相による都道府県教育長の任命承認を復活させる制度は、さすがに見送られた。当然の判断といえるだろう。

中教審答申を受け、政府は与党との協議も踏まえて、今月中に3法改正案を閣議決定し、今国会へ提出するという。

中教審で議論が始まったとき、私たちは社説で「急(せ)いては事を仕損ずる」と拙速を戒めた。工期短縮を最優先する突貫工事は危険な手抜き工事を誘発することを、私たちは経験的に知っている。

政府と与党、そして国会は、突貫審議の教訓と反省も踏まえ、腰を据えて教育改革の論議を尽くしてもらいたい。

西日本新聞 2007年3月13日

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中教審答申 「ムチ」だけが突出している

政府の教育再生会議の第一次報告を受け、中央教育審議会(中教審、山崎正和会長)は、今国会に提出する教育改革関連三法改正の骨子案を答申した。二月上旬から一カ月余りのスピード審議の結果、答申は、再生会議が打ち出した教育現場への国の関与強化をほぼ容認する内容になっている。

焦点となっていた都道府県教育委員会に対する文部科学相の是正指示権は多数意見として了承。一部委員の反対意見も盛り込む異例の両論併記にはなったものの、最終的には安倍晋三首相の判断で地方教育行政法改正案に盛り込まれる見通しだ。

また、教員免許法には教員免許の更新制や指導力不足教員への厳格な人事管理を、学校教育法には副校長・主幹などの新設や義務教育の目標に「国と郷土を愛する態度」を盛り込むことなどを提言している。

しかしこれは、一体何を目指した法改正なのだろう。学級崩壊やいじめによる自殺、高校必修科目の未履修に至るまで、教育現場が抱え込んだ深刻な現実に対する効果的な処方せんになっているのだろうか。

約百万人の現役教師に直接かかわる教員免許の更新制にしても、現職だけで毎年約十万人が三十時間の講習を受け、修了認定されなければ免許を失う。いまでさえ時間に追われ、疲弊する現場教師にとっては新たな足かせだ。

日本の国内総生産に占める公教育費の割合が先進国中最低レベルであるという現実や、地域社会や家庭の変化には触れないままに、都道府県教委や教師に対する「ムチ」だけが突出する答申の方向性には強い違和感を覚える。

安倍内閣が最重要課題とする教育再生で、国の関与強化が浮上してきた背景に昨年の教育基本法改正があることは明らかである。さらに、いじめによる自殺や未履修問題などで高まった教委批判も追い風になっているようだ。

しかし、教委の機能低下が事実だとしても、原因は国の関与がなかったことにあるのだろうか。例えば未履修問題が他県に先駆けて問題化していた熊本県教委では近年、事前チェックを徹底することで未履修科目の発生を防いできた。二十八日の中教審・合同分科会に出席した柿塚純男県教育長はこうした取り組みを説明。教委の機能低下という課題設定そのものに疑問を投げかけている。

二〇〇五年十月の中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」は、子どもたちの「人間力」を豊かに育てるため、市区町村と学校の権限を拡大し、教育分野でも分権改革を進めるとしていた。ところが今回の答申に盛り込まれた文部科学相の是正指示権は、時計の針を逆戻りさせた観がある。

「国家百年の大計」と言われる教育は慎重に審議すべきだが、安倍首相はあらかじめ関係法改正案の「今国会中の提出」を表明し、答申はこれを受け”突貫工事”でまとめられた。

教育再生を「戦後レジーム(体制)からの脱却」の目玉としたい首相の意欲は分かるとしても、現場の実態や意見を十分にそしゃくしないままの法改正は、やはり拙速のそしりを免れないだろう。

熊本日日新聞 2007年3月13日

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中教審答申 分権の時計の針逆行させるな

中央教育審議会が安倍政権の目玉である教育関連3法の改正案について答申をまとめた。

答申では焦点だった文科相の教育委員会への是正指示権を盛り込む意見が「多数」だとした。官邸の教育再生会議が提起した「国の関与強化」を実質的に追認する内容。地方に配慮して反対論も併記したが、最終的には「首相の判断」でそのまま法制化の見通しだ。通常、答申まで約1年かかるのだが、今回は一カ月足らずの“突貫審議”。法案提出期限に合わせて慌てて答申をまとめたのが実際のところだ。政府との距離を置くことで権威を保ってきた中教審はもはや、政権の下請け化したとの印象は免れない。

■権力的な是正指示■
文部科学省が教育再生会議の報告を受けて、中教審に当初示した地方教育行政法の改正案骨子には(1)教育委員会が著しく不適正な場合、文科相が是正勧告・指示できるようにする(2)教育長人事に国が関与する(3)首長部局管轄となっている私学に教委が指導・助言できるようにする―という内容が盛り込まれた。

いじめや自殺問題などで浮かび上がった教委批判を背景に、国の教委への関与を大幅に強めるというものである。その中でも、是正指示は文科相の指示通りの措置を取らせるという極めて権力的なやり方だ。

大事なのは、教委の機能不全は国が関与できないから起こっているわけではないことだ。当事者意識の欠如や隠ぺい体質などはむしろ、文科省を頂点とする上意下達の集権的構造の中で染み付いたものである。

国が関与すればするほど依存体質は強まり、当事者意識は育たない。「地方分権に逆行」「私学の独自性が失われる」―。こんな反論が地方団体や私学委員から相次いだのも当然だろう。

■自治体自らの責任で■
答申には国の教育長人事への関与や教委の私立学校への指導権限などは見送ったが、文科省による教委の是正指示権に道を開いた。

中教審は2年前、「教育行政における国と地方の関係については指揮監督による権力的な作用より、指導・助言や援助による非権力的な作用によって、地方の主体的活動を促進することが基本」としていた。これが今回、なぜ是正指示なのか。

中教審はその発動要件を「生命身体の保護に緊急の必要がある場合や教育を受けさせる義務が果たされない場合など」と限定する考えも示している。だが、国の関与という流れの中で実際にどこまで歯止めがかけられるのか。

問題があれば、国が出ていくという安易なやり方を断ち切ることだ。教委への住民参加などを進め、自治体自らが決定し、自ら責任を取る仕組みをつくらなければ、地方分権は絵に描いたもちである。一歩前進した時計の針を逆行させてはならない。

教員免許法改正案の免許更新制も疑問が多い。毎年、現職だけでも約10万人が30時間の講習を受け、修了認定されないと免許を失う。質向上が目的というが、教職に新たなハードルを課すことに変わりない。

教育再生会議の「ダメ教師排除論」など教育現場への厳しいイメージが広がる中、国立大入試の教員志願倍率も低下している。現場を委縮させたり、優秀な学生が先生への道を敬遠したりするようなことになってはならない。

宮ア日日新聞 2007年3月13日

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中教審答申 スピード追認でいいのか

安倍晋三首相が目玉としている地方教育行政法(地教法)と、教育免許法、学校教育法の教育改革関連3法の改正について中央教育審議会(山崎正和会長)は10日、伊吹文明文科相に答申した。12日には安倍首相にも報告され、改正に向けての論議が本格化する。

教育は100年の大計といわれるが、今回の中教審は、わずか1カ月の審議でまとめられたスピード答申。スピードが求められる時代とはいえ、審議は十分尽くされたのだろうか、政治日程を優先するあまり論議がおろそかになったのではないか、との懸念が残る。

答申は、今国会を「教育再生国会」と位置付ける安倍首相の意をくみ、突貫審議で政策を追認したとの印象はぬぐえない。

焦点となった文科相の教育委員会への是正指示権を多数意見として盛り込んだ。地方側に配慮して反対論も併記したが、最終的には首相の判断として、そのまま法案化されそうという。

一方で、当初盛り込む予定だった文科相による都道府県教委の教育長の「任命承認制度」は賛成意見がなく、見送られた。私立学校への教委の指導・助言・援助の項目も私立学校側からの反発で、「指導」を外した。

教育免許改正案の免許更新制にも課題は多い。毎年、現職だけでも10万人が30時間の講習を受け、終了が認定されないと免許を失う。質向上が目的というが、この新たなハードルが質向上につながるのだろうか。

文科省の狙いは、いじめ自殺問題や高校の未履修問題などで浮かび上がった教委批判を背景に、国の教委への関与を強めることだ。是正指示の発動要件については「緊急の必要がある場合」などに限定する考えも示しているが、そこには文科相の指示通りの措置を取らせるという極めて高圧的な姿勢がうかがえる。

教委の問題は国が関与できないから起こっているわけではない。国が関与すればするほど、依存体質は強まり当事者意識など育たないのではないか。

「地方分権に逆行」「私学の独自性が失われる」―などの反論が委員の中から相次いだことは当然だ。

教委への口出し、私学への助言・援助、教育免許の更新制導入といった改正内容には「国が責任を持つ」形で教育行政の国家統制を強めようとする狙いが見える。

政府はこれらの教育3法改正案を今月中に閣議決定し、今国会に提出する方針といわれる。

中教審での審議がわずか1カ月でのスピード答申となっただけに、国会では国民が納得、理解できるような丁寧な論議を期待したい。

琉球新報 2007年3月13日

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中教審答申 政治的思惑が目立つ

中央教育審議会が伊吹文明文科相に答申した地方教育行政法(地教行法)、教員免許法、学校教育法の教育改革関連三法を見ると、なぜここまで国の権限を強化しなければならないのか不思議でならない。

もし教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)が提起した「国の関与」を強めることをあえて意図したのであれば稚拙であり、このこと自体、教育現場に不信と不安をもたらす要因になるのを認識する必要がある。

地教行法改正案は、国による是正指示を「法令違反などがある場合」に限定し一定の歯止めをかけた。

だが、国の関与を強めたいとする文科省に対して、実際に各自治体がどこまで押しとどめることができるのか疑問も残る。

国会での審理を見定めなければならないが、「問題が起これば国が出る」という仕組みを安易につくってはならず、この動きを厳しく監視していく必要があろう。

そもそも私たちが求めたのは、学校現場で起きているいじめや児童生徒の自殺問題、さらに言えば学力低下をきちんと論議する姿勢ではなかったか。

何が原因でいじめが起こり、最悪の事態として自殺に至るのか。それを防ぐために親や地域、学校現場で何が必要なのか。

言葉を換えれば「何が欠けている」からこのような問題が発生するのか―という疑問の徹底検証である。

その一つ一つを中教審はきちんと論議したと言えるのだろうか。

実質審議がわずか一カ月しかなかったことを考えれば、今国会への法案提出期限から逆算して一気にまとめあげたとしか思えない。

つまり教育の根幹にある課題をきちっと検証せず、ただ、いじめ自殺の隠ぺいや高校世界史などの未履修問題はじめ一部の極端な事例に対する対処療法として、法案化を目指しているようにも映る。

これでは「木を見て森を見ず」ではないか。この現状を中教審委員、文科省は国民にどう説明するのだろう。

政府は三法改正案を今月中に閣議決定し国会に提出する方針だという。

だが、一部の委員が指摘したように、短期間でまとめられた答申をそのまま政府与党が数の力で押し切ろうとすれば将来に禍根を残しかねない。

教育が国家百年の大計であればなおさらだ。拙速で事を運んではなるまい。この問題は教育現場でも意見を交わすべきであり、政治的な思惑を先行させては健全な教育改革はできないことを認識すべきだ。

沖縄タイムス 2007年3月13日

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中教審答申 あまりに拙速な集約

「教育の番人」というには、あまりに乱暴な意見集約ではないか。

中央教育審議会が、都道府県教育委員会に対する文部科学相の是正指示権などを多数意見として盛り込んだ教育改革関連3法の改正骨子案を答申した。

中教審の審議はわずか1カ月ほどだった。是正指示権に「強い反対意見も出た」と答申に併記する結果となったことなどが、「消化不良」を物語っている。

「拙速審議」となったのは、今国会の改正法案提出という政治日程に影響されたためだ。専門家集団として教育行政ににらみを利かせてきた中教審が、政権の「追認機関」と化した印象をぬぐえない。

安倍政権の意向を色濃く反映した答申は、いじめ自殺や単位未履修をめぐる教委の不手際など、一部の極端な事例への対症療法として浮上してきた。確かに教委の側に隠ぺい体質や事なかれ主義など、反省と改善を迫られる面があろう。

ただし、未履修問題では文部科学省も事態の一端を把握しながら、有効な手だてを打てなかった。教委の対応だけをやり玉に挙げ、国の権限不足を強調するのは通らない。

是正指示権は、地方分権一括法に伴って廃止された権限の復活で、分権の流れにも逆行する。ここぞとばかり権限拡大を図るのは文科省の「焼け太り」というほかない。

教育の諸問題は国の統制強化で解決できるほど単純ではない。これまでも文科省の指導という「集権体質」が、教委を締め付けてきた側面がある。このうえ上意下達のシステムを強化しては、教育現場がさらに振り回されかねない。

地方の教育行政に必要なのは、住民参加などを通じて教委が閉鎖的体質を改め、問題を自主的に解決する仕組みを整えることだろう。国に求められるのは、地方の主体的活動への助言や支援による後押しだ。

指揮監督といった権力的作用は、教育が中立性を保てず、「政治の道具」となる危うさをはらむ。

中教審答申の「下敷き」となる提言をまとめた政府の教育再生会議にしても、議論不足は否めなかった。「激しいアピール」の提起自体が「目的化」しているように見える。

これほど教育行政の根幹にかかわる問題を扱うには、多角的に掘り下げた検証や論議が不可欠のはずだ。改正法案提出の最終判断は安倍首相に委ねられるが、首相は慎重の上にも慎重を期さねばならない。

高知新聞 2007年3月12日

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中教審答申 危うい「国の関与」強化

文部科学相の諮問機関・中央教育審議会が、わずか一カ月間の「突貫審議」で最終答申をまとめた。

答申は、地方の教育委員会の仕事に文部科学相が是正を指示する権限を認め、政府の教育再生会議が打ち出した「国の関与」強化を追認する内容となった。

地域の実情に応じたきめ細かな教育の実践を重視することが、教育政策の基本だった。二○○○年の地方分権一括法の施行でこれを確認し、文科相の勧告権限も同法で廃止された。

これを復活し、管理強化の方向性を色濃くにじませた答申の内容は、地方分権の流れにも逆行するものだ。教育の再生に直結するとも思えない。

答申を受け、文科省は教育関連法案を策定し、今国会への提出を目指す。国会を通じて、国民の幅広い声を踏まえた徹底した議論が不可欠だ。

答申は、義務教育の目標に「我(わ)が国と郷土を愛する態度」を掲げ、国家主義的教育の方向性を鮮明にした。教員免許更新制を新設し、「指導が不適切な教員」を排除する道を開いた。

いずれも再生会議が二月にまとめた報告と同じ内容だ。再生会議の意向をなぞった答申は、中教審の形骸(けいがい)化を端的に示すものだ。

文科相の地方教育委員会に対する権限を、どのようなケースに発動するかもあいまいだ。

例えば子どものいじめ問題で昨年、道教委の不手際や隠ぺい体質が明らかになった。そのような場合にも、文科相は権限を行使するのだろうか。

勤務条件などをめぐり、教委と教職員や組合が鋭く対立する場合、文科相が権限を行使すれば教育現場への政治的介入を招くことになりかねない。

権限が乱用されれば、教育委員会は国の上意下達で管理され、双方の関係がゆがんでしまう恐れもある。

中教審の審議期間が一カ月と短かったことも異例だ。

今国会への教育法案の提出を急ぐ安倍晋三首相が、答申を早期に出すよう伊吹文明文科相に指示したためだ。

審議の過程では、地方代表委員が地方分権の大切さを強く主張した。

国の関与を最小限にとどめ、学校現場の創意工夫の可能性を広げることが「教育の再生」のために必要だという考え方だ。

私立学校側は「教育委員会の私学への助言は、建学の精神や私学の独立性を脅かしかねない」と批判した。

答申に併記されたこうした反対意見の中にこそ、教育再生の手がかりがあるといえるのではないか。

政治日程を優先して結論を急いだ中教審が、国民のさまざまな意見に十分に耳を傾けたとはいえまい。

独立性が求められる中教審が、文科省や再生会議に追随する現状は、健全な教育行政のあり方とは程遠い。

北海道新聞 2007年3月11日

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君が代判決 教育現場の今後が不安だ

入学式で君が代の伴奏を拒んだ音楽教諭が戒告処分を受けた問題で、最高裁は校長の職務命令を合憲とする判決を下した。憲法一九条の「思想・良心の自由」の侵害として、処分の取り消しを求めていた音楽教諭の敗訴が確定した。しかし、最高裁判決が示した「思想・良心の自由」の解釈などは、大きな疑問が残るものだ。

入学式や卒業式での君が代斉唱をめぐっては、不起立の教職員が処分される事例が続いている。学校現場で今後、日の丸・君が代に関する「強制」がさらに広がり、さまざまな人権侵害が頻発しないか、判決の影響を憂慮する。

判決は「伴奏を求める校長の職務命令は、教諭に対して特定の思想を強制したり、あるいは禁止するものではなく、特定の思想の有無について告白を強要するものでもない」「公務員は全体の奉仕者であって、公共の利益のために職務命令に従わなければならない」などとし、職務命令は憲法一九条に反しないとした。この音楽教諭の勤務先の学校では、君が代伴奏が従前から行われていたことなども理由に挙げている。

しかし、これらの理由は、「強制」を受ける側の人権について鈍感ではないだろうか。判決の多数意見(裁判官五人中四人)は、これまでの日の丸・君が代をめぐる深刻で歴史的な対立や、教諭の精神的苦痛などに対して十分な検証を行った形跡がみえない。

注目されるのは藤田宙靖裁判官の反対意見だ。藤田裁判官は「君が代の評価は国民の中で大きく分かれている。斉唱強制は信念への直接的抑圧」と述べたうえで、思想・良心の自由と、その制約要因となる「公共の福祉」や「公共の利益」を、事案の内容に即して詳細かつ具体的に検討すべきだとして高裁差し戻しを主張した。

実際、当日の君が代伴奏は、あらかじめ用意されたテープで代用された。式への影響はほとんどなかったのではないか。教諭の思想信条を事前にくみ、代替措置を取れば済むことだった。「踏み絵を踏ませ、懲戒処分のわなにかけた」と評されるような状況は、異常といわざるを得ない。

日の丸・君が代は国旗・国歌として国民の多くに受け入れられている。とはいえ歴史観や思想、信念から強く反対している人々がいるのも事実だ。国旗・国歌へのマナー、行事の規律は重要なことだが、それは「思想・良心の自由」にも優越するとは思えない。

人々が多様な価値観を持っていることが自由な民主主義国家の証しであり、豊かさ、強さである。価値観の違う人々が互いを尊重しながら協力し合う社会を築く。そうした工夫、実践を学ぶ場こそが学校ではないか。少数者を抑圧して沈黙させたり、排除したりするような場は、本来の教育とは最もかけ離れていると知るべきだ。

神奈川新聞 2007年3月1日

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君が代伴奏拒否判決 内心の自由に踏み込むな

これが判例になると、憲法の保障する「思想、良心の自由」が軽視されはしないか。君が代伴奏拒否訴訟で最高裁が言い渡した合憲判決には疑念を抱かざるを得ない。

東京都日野市立小学校の入学式で君が代斉唱のピアノ伴奏を拒み、戒告処分を受けた音楽教諭が都教育委員会に処分の取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁は「伴奏命令と処分は思想・良心の自由を定めた憲法19条などに違反しない」とする判断を示した。判決理由は「入学式で音楽教諭の伴奏は通常想定され、特定の思想の告白を強制するなどしたものではない」と述べている。

個人の内心の自由は最も尊重されなければならない基本的権利だ。校長らが安易にそこへ踏み込み、職務命令に従わない場合、処分するようなことは極力避けなければならない。

今回の判決は君が代をめぐる職務命令について最高裁が示した初判断だ。式典での日の丸掲揚、君が代斉唱について、処分を受けた教諭らが全国各地で訴訟を起こしており、この判決が与える影響は極めて大きい。

今回のケースでは、音楽教諭が校長から伴奏を命じられたのにピアノの前に座ったまま演奏をせず、代わりに学校側が準備した録音テープが流され、斉唱が行われた。都教委は「職務命令に従わなかったのは地方公務員法違反に当たる」として教諭を懲戒処分にした。

判決は5人の裁判官のうち4人の多数意見によっている。判決理由は校長の伴奏命令を「君が代は過去の日本のアジア侵略と結び付いているとする原告の歴史観、世界観を否定するものではない」と述べたが、教諭ら地方公務員は「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務するとされており、校長の命令は目的と内容が不合理とはいえない」としている。

多数意見の柱となっているのは、伴奏をするかどうかが思想・良心の自由を理由として個人的裁量に委ねられるのでは「学校教育の均質性、学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こす」とする考え方だ。入学式という公的秩序を優先させる立場だと言っていい。教諭は校長の職務命令を受忍すべきだという結論がそこから導かれるのは当然でもある。

しかし果たして、それが妥当な結論なのだろうか。反対した藤田宙靖判事は「真の問題は、伴奏を命じることが一定の歴史観、世界観の告白の強要になるかどうかにあるのではない」と異論を唱え、「教諭にとってピアノ伴奏が信条に照らして極めて苦痛なことであり、それにもかかわらず、強制することが許されるかどうか」という点こそが問題なのだと核心を突く意見を述べている。そして、その点の「さらに慎重な検討」を求めた。

もっともな指摘ではないか。実際に入学式では録音テープによって斉唱は滞りなく済んでいる。それならば、嫌がる教諭に無理強いする必要性はなかったのではないか。

ここでのポイントは、代替手段があるにもかかわらず、職務命令で強制したことの是非だ。最高裁はもう少し、きめ細かな判断を示すべきではなかったか。規律優先、管理優先の発想ばかりでは教諭らの反発を招くのは必至であり、現場の混乱は収めようがないだろう。

岐阜新聞 2007年3月1日

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「君が代」判決/締め付けの根拠にせずに

入学式で「君が代」の伴奏を拒んで懲戒処分を受けた音楽教諭が、処分の取り消しを求めた訴訟で、最高裁は「校長の伴奏命令は合憲」とする初の判断を示した。

ピアノ伴奏を命じた職務命令は、特定の思想を強制、禁止するものでない。その目的なども不合理とはいえず、憲法一九条が保障する思想・良心の自由の侵害には当たらない-判決はこう述べ、原告の上告を棄却している。

国歌斉唱などの職務命令に従わず、処分された教諭らによる訴訟は他にもあり、地裁では違憲、合憲と判断が割れている。今回は伴奏拒否のケースとはいえ、判例として影響を与えることは間違いない。

気になるのは、今後、この判決が教育の現場にどう反映されるかである。

教育基本法の改正で「愛国心」に触れた記述が初めて盛り込まれ、教育改革論議のなかでも国の関与や権限を強めようとする流れがあるだけに、なおさらだ。

原告は東京都の公立小教諭で、裁判を通じて「君が代は過去の日本のアジア侵略と結び付いており、公然と歌ったり伴奏したりできない」と主張してきた。

判決は、憲法などが規定する「全体の奉仕者」としての公務員の責務も重視して校長命令を合憲としたが、「思想・良心の自由」と、その制約要因としての「公共の利益」の間で詳細に検討すべきだ、とした少数意見が添えられている。

一部からとはいえ、なお残る課題が指摘されたことを、軽視してはならない。

一九九九年に国旗国歌法が成立したときも、政府は「義務づけは考えていない」と明言した。強制ではなく、自然な形で定着させるという趣旨を述べたものだろう。

それだけに、この判決を根拠にして行政側が学校現場への締め付けを強めるようなことは、避けなければならない。

二〇〇〇年以降、職務命令に違反したとして処分された教員らは全国で八百人を超え、とりわけ東京都の数が目立っている。卒業式や入学式のたびに、規律を維持しようとして鋭い対立を招く。そんな混乱を繰り返していては、そばで見守る児童や生徒は戸惑うばかりだろう。

文科省のまとめでは、近年、入学式で国旗を掲揚し、国歌を斉唱する公立の小中高校は、ほぼ全校に及んでいる。

それでも、意見や立場の違いがあることを認め、対立をエスカレートさせずに現実的な対応を図っていく。そうしてこそ、自主的で創造的な教育の場にふさわしいといえるのではないか。

神戸新聞 2007年3月1日

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国歌伴奏敗訴 強制が進めば混乱を招く

東京都日野市立小学校の入学式で校長の職務命令に反し、君が代の伴奏を拒んで戒告処分を受けた音楽教諭が、都教育委員会の処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁が請求を退けた高裁判決を支持し原告の上告を棄却、原告敗訴が確定した。

原告は「君が代は過去のアジア侵略と結び付いており公然と歌ったり伴奏できない」とし、処分は「思想・良心の自由侵害」と主張した。

これに対し判決は、「職務命令が直ちに教諭の歴史観、世界観を否定するものとは認められない」と判断した。ピアノを伴奏する行為と、憲法一九条に定められた思想・良心の自由を区別した判断といえるだろう。

さらに判決は、憲法などが公務員は「全体の奉仕者」と定めているとした上で、上司の命令に忠実に従う公務員の義務を指摘、職務命令による思想・良心の自由侵害を否定した。判決は、伴奏の行為自体は「音楽の教諭にとって通常想定され期待されるもの」とも述べている。

卒業シーズン直前の判決を受けて、都教委幹部が「学校現場で粛々と式をしてくれれば」と話している。職務命令合憲の判断が拡大解釈されることが心配になる。

今回、裁判官の一人は反対意見を述べた。伴奏が自らの信条に照らし極めて苦痛であり、それにもかかわらず強制が許されるかどうかが問題であるとし、思想・良心の自由とその制約要因となる「公共の利益」についてなお比較、検討を求めた。

君が代に対する国民の考えが分かれている現状がある。判決を根拠に国や各教委による国旗、国歌押しつけが強まるようなことがあれば、現場の混乱を招くだけだろう。

山陽新聞 2007年3月1日

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君が代伴奏判決 異見つぶす風潮は怖い

小学校入学式での君が代のピアノ伴奏を拒否した音楽教諭に対する、校長の職務命令は、思想・良心の自由を侵害せず合憲、との最高裁判決が出た。東京都教育委員会の戒告処分取り消しを求めた上告を棄却、原告敗訴が確定した。

教育現場における一連の国旗・国歌をめぐる問題には、ともすれば均質化・画一化に走りがちな日本人の精神構造がうかがえ、それが過度のナショナリズムと結びつく危うさを感じさせる。

君が代での最高裁初の判決は、五人の裁判官の一人から反対意見が出されたり、その反対にこたえた内容とは思えないなど、問題も残しているのではなかろうか。

音楽教諭が伴奏を拒否したのは一九九九年八月の国旗国歌法制定の前。「君が代は過去のアジア侵略と結びついており、子どもに歴史的事実を教えずに歌わせることはできない」と主張した。一、二審の東京地裁、東京高裁は「公共の福祉から思想・良心の自由も制約される」などとして、請求を棄却、原告が上告していた。

最高裁判決では「伴奏の職務命令は原告の歴史観、世界観を否定しない」し、「思想・良心の自由を侵害しない」と、職務命令そのものが思想の自由を侵害するとは認められない、としている。それに対して、藤田宙靖裁判官の反対意見は「君が代の評価は国民の中で大きく分かれている」とし、思想・良心の自由と、制約要因となる「公共の利益」との比較、検討を求めたが、判決では「公共の利益」の内容は検証されていない。

現実に、音楽教諭は前もって伴奏できないことを伝え、伴奏テープも用意されていた。それらの事情も踏まえて、伴奏を強制する「公共の利益」とは何か、処分の妥当性は―といった検証がもっとあるべきではなかったか。

米国で子育てを経験したある大学の先生は「米国でも日本でも、褒める教育の大切さがいわれる」という。しかし、その中身は大違いで、日本では教師を含めたみんなと同じ意見を発表すると褒められるが、米国ではみんなと違う意見を言うと褒められる、という。日本人は体質的に均質化に向かう傾向があるようだ。それが背景にあったから、無謀な戦争に突入したのではなかろうか。

教育改革の方向が「愛国」の合唱や、国の権限拡大に向かいそうなときこそ、異見に耳を傾ける必要があろう。教育行政にはそうした意味の慎重さを求めたい。

中国新聞 2007年3月1日

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君が代伴奏命令 最高裁の合憲判断に疑念が募る

君が代のピアノ伴奏を拒み東京都教育委員会から戒告処分を受けた音楽教諭の女性が、処分取り消しを求めた訴訟の上告審で、最高裁は「校長の職務命令は合憲」との判断を示し、原告敗訴が確定した。

教諭は小学校の入学式で校長が職務命令で伴奏を強制したのは「思想・良心の自由侵害」に当たるとして訴えたが、一審の東京地裁、二審の東京高裁とも請求を棄却していた。

同様訴訟で最高裁の判決は初めてで、君が代斉唱の拒否などをめぐる一連の訴訟にも影響を与えそうだ。今回のような判決が続けば、教育現場はさらに重苦しい空気に沈むだろう。

判決は職務命令について「特定の思想を強制したり、禁止するものではない」とした上で、学習指導要領で国旗掲揚や国歌斉唱の指導が定められていることなどから、命令は不合理ではないと判断した。

しかし、君が代は必ずしもピアノ伴奏で歌われるわけではなく、今回のケースでも学校側は用意していた伴奏テープで代用した。ほかの教諭に伴奏してもらう方法もあったろう。それで不都合はなかったはずだ。

嫌がる教諭に無理に伴奏させようという学校側の姿勢は、まるで「踏み絵」を踏ませるようなものだ。それを追認したような判決には疑念が募る。

国旗国歌法の成立時を思い出したい。同法は広島県立世羅高校長が卒業式での扱いに悩んで自殺したのを機に、一九九九年八月に成立、施行された。

国会答弁に立った野中広務官房長官は「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と強調していた。その政府方針にもかかわらず、教育現場では国旗国歌の強制がひどくなっていく。これはどうしたことだろうか。

国旗掲揚や君が代斉唱をめぐり、指導に従わなかったとして全国の教育委員会から懲戒処分や訓告を受けた教職員は、二〇〇五年度までの六年間で延べ八百七十五人に上る。異常な状況である。

先生が嫌なことを強制されたり処分されたりする。心身の調子を崩す人も少なくない。それを目にする子どもがどんな気持ちになるか、教育委員会や学校は考えてみるべきだ。これほど反教育的なこともなかろう。

昨年九月には、国旗国歌の強制は違憲とする東京地裁判決が出たばかりだ。今回の最高裁判決でも、一人の裁判官は「慎重な検討が必要」として二審判決を破棄し、東京高裁に差し戻すよう反対意見を述べた。

こうした判断こそ、市民が納得できる、まっとうな考え方というべきだろう。

安倍晋三政権になって「我が国と郷土を愛する態度」を教育目標に盛り込んだ改正教育基本法が成立、施行された。国家主義的な傾向が今回の判決でさらに強まることを恐れる。

いじめの多発など深刻な問題を抱える学校現場で急ぐべきは自由で伸び伸びとした環境をつくり出すことだ。決して教員の管理強化などではない。

愛媛新聞 2007年3月1日

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【君が代判決】本来の教育を見失うな

君が代斉唱などの職務命令に従わなかった教諭らが相次いで起こした訴訟に対する最高裁の初判断は、処分取り消しを求める教諭には厳しい内容となった。

最高裁第三小法廷は裁判官5人のうち4人の多数意見として、東京都日野市立小学校の音楽教諭に対して校長の行ったピアノ伴奏の職務命令は「思想・良心の自由を侵害していない」として合憲とした。

案件、状況は異なるものの、昨年9月、東京地裁は教職員の意に反する国旗国歌の強制は違憲との判断を示している。

最高裁の判決が一連の訴訟に影響を与える可能性があるが、強権的な手法は国旗国歌法の趣旨にもそぐわない。自然な形での定着は、教育本来の力にかかっている。

1999年4月、この小学校の校長が入学式で君が代斉唱のピアノ伴奏をするよう職務命令したところ、音楽教諭はこれを拒否し、斉唱はテープ伴奏で実施された。

都教委が地方公務員法違反で教諭を戒告処分にしたため、教諭は「伴奏の強制は思想、良心の自由を保障した憲法に反する」と提訴した。一審、二審とも請求を棄却し、審理は最高裁に移っていた。

注目の初判断は、校長の職務命令は「直ちに教諭の歴史観または世界観それ自体を否定するものとは認められない」として合憲とした。「上司の職務上の命令に従う」とする地方公務員法の規定や学習指導要領なども、合法の根拠に挙げている。

法理論からこうした解釈が導き出されても不思議ではない。しかし、この解釈をそのまま教育現場に適用することが妥当かどうかは、慎重な判断が要求される。

判決で反対意見の裁判官はこう述べた。「信念、信条に反する行為を強制することが憲法違反にならないかどうかは、あらためて検討する必要がある」。思想、良心の自由を奥深いところからとらえた意見は、教育行政を考える上でも重要だ。

学習指導要領や国旗国歌法ばかりでなく、東京都では校長権限を強化する学校管理運営規則の改定、校長の職務命令に従わない教職員の責任を問う都教育長通達などが出されている。君が代・日の丸に関する教職員の処分件数で東京都が突出しているのは、管理的手法に対する現場の抵抗をうかがわせる。

こんな空気の中で本来の学校教育は可能なのか。原点に立った論議が欠かせない。

高知新聞 2007年3月1日

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強制の後ろ盾にはするな 君が代伴奏判決

小学校の音楽教諭が、入学式で君が代のピアノ伴奏をするように、と校長から職務命令を受けた。

「君が代は過去の日本のアジア侵略と結び付いており、公然と歌ったり、伴奏したりすることはできない」と拒むと、教育委員会から戒告処分を受けた。1999年8月に国旗国歌法が成立する2カ月前のことである。

これは、憲法が保障する「思想・良心の自由」を侵害したことになるのか。

そんな訴訟の上告審判決で、最高裁は「合憲」と判断し、処分の取り消しを求めた原告の上告を棄却した。

一連の国旗国歌訴訟をめぐる初の最高裁判決である。

最高裁は、教諭のピアノ伴奏拒否について「歴史観などに基づく1つの選択肢ではあろうが、校長の職務命令が直ちに教諭の歴史観または世界観それ自体を否定するものとは認められない」とした。

「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と明記した憲法19条には違反しない‐という判断だ。

判決も指摘している通り、学習指導要領は入学式での国歌斉唱を定めている。国旗掲揚と国歌斉唱について文部省(当時)は1989年に「望ましい」から「指導する」と学習指導要領を改めた。

その後、国旗国歌法の成立を受け、教育委員会を通じた国の指導は一段と強化された。

その結果、何が起きたか。卒業式や入学式で国旗を掲げ、国歌を斉唱する学校の割合は大きく伸びた。その一方で、職務命令に従わない教職員に対する処分も大幅に増え、訴訟も全国で相次いだ。

職務命令‐処分‐訴訟が負の循環のように教育現場で繰り返される事態は明らかに異常であり、収拾を急ぐべきだ。

教育現場で日の丸や君が代が定着してきたのは間違いない。しかし、原告の音楽教諭のように、強制的な押しつけには違和感を覚えたり、拒絶反応を示したりする人がいるのもまた、事実である。

今回の判決は裁判官5人のうち4人の多数意見だった。反対した1人の裁判官は「本件の真の問題は、伴奏が自らの信条に照らし極めて苦痛であり、それにもかかわらず強制が許されるかどうかという点にある」として、高裁へ差し戻すよう求めた。少数意見ではあるが、こうした見解にも耳を傾けたい。

一連の国旗国歌訴訟では、原告敗訴の判決が多いが、2005年の福岡地裁判決は職務命令を合憲とする一方、減給処分は取り消した。東京地裁は昨年9月の判決で国旗国歌の強制は違憲・違法と認めた。司法の判断が分かれるのは、すぐれて個人の内面に根差す問題であり、多様で微妙な国民意識を反映しているからではないだろうか。

最高裁の判決をいわば「後ろ盾」にして、国旗国歌を強制する動きが強まることには強い懸念を抱かざるを得ない。

西日本新聞 2007年3月1日

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君が代伴奏拒否判決 内心の自由に踏み込む判断だ

君が代伴奏拒否訴訟で最高裁が職務命令を合憲とする判決を言い渡した。「伴奏命令と処分は思想・良心の自由を定めた憲法19条などに違反しない」という判断である。

今回の合憲判決が判例になると、憲法の保障する「思想、良心の自由」が軽視されはしないか。この判決には疑念を抱かざるを得ない。

個人の内心の自由は最も尊重されなければならない基本的な権利だ。そこへ校長らが安易に踏み込み、職務命令に従わない場合には処分まで行うようなことは極力避けるべきだ。

■各地訴訟に影響必至■

訴訟は、東京都日野市の小学校での入学式で君が代斉唱のピアノ伴奏をしなかったことを理由に戒告処分を受けたのを不服として、音楽教諭が東京都教育委員会に処分の取り消しを求めていたものだ。

音楽教諭は校長から伴奏を命じられたのにピアノの前に座ったまま演奏せず、代わりに学校側が準備した録音テープが流され、斉唱が行われた。都教委から「職務命令に従わなかったのは地方公務員法違反に当たる」として懲戒処分を受けている。

最高裁は判決理由で「入学式では音楽教諭の伴奏は通常想定され、特定の思想の告白を強制するなどしたものではない」と述べている。校長の伴奏命令を「君が代は過去の日本のアジア侵略と結び付いているとする原告の歴史観、世界観を否定するものではない」と述べ、教諭ら地方公務員については「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務するとされており、校長の命令は目的と内容が不合理とはいえない」としている。

式典での日の丸掲揚、君が代斉唱については、処分を受けた教諭らが全国各地で訴訟を起こしている。今回の最高裁の判決は君が代をめぐる職務命令について最高裁が示した初判断だ。この判決が各地の訴訟に与える影響は極めて大きいだろう。

■優先させた公的秩序■

今回の最高裁判決は裁判官5人のうち、4人の多数意見によるものだ。その柱は伴奏をするかどうかが思想・良心の自由を理由として個人的裁量に委ねられるのであれば、「学校教育の均質性、学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こす」とする考え方だ。

入学式という公的秩序を優先させる立場だといっていい。ここから教諭は校長の職務命令を受忍すべきだという結論が導かれるのは必然でもある。

しかし、これが果たして妥当な結論なのだろうか。反対した裁判官は「真の問題は伴奏を命じることが一定の歴史観、世界観の告白の強要になるかどうかにあるのではない」と異論を唱え、「教諭にとってピアノ伴奏が信条に照らして極めて苦痛なことであり、それにもかかわらず、強制することが許されるかどうか」という点こそが問題なのだとの核心意見を述べている。

この指摘はもっともではないか。実際、入学式では録音テープによって斉唱は滞りなく済んでいる。それならば嫌がる教諭に無理強いする必要性はなかったのではないか。

ここでのポイントは録音テープという代替手段があるにもかかわらず、職務命令で強制したことの是非である。最高裁にはもう少し、きめ細かな判断を示してほしかった。

規律優先、管理優先の発想だけでは教諭らの反発を招くのは必至であり、現場の混乱は収めようがないだろう。

宮ア日日新聞 2007年3月1日

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君が代命令合憲・管理優先発想でいいのか

入学式で「君が代」のピアノ伴奏を拒否したために戒告処分を受けた東京都の小学校音楽教諭に対し、最高裁は「伴奏を命じた校長の職務命令は合憲」との初判断を示した。

教諭は職務命令は「思想・良心の自由侵害」として処分取り消しを求めていたが、判決は「職務命令は一般的には原告の歴史観、世界観を否定しない。その目的なども不合理ではなく、思想・良心の自由を侵害しない」とした。

思想・良心の自由の侵害と感じるかどうかは、すぐれて個々人の内心の問題である。それを「一般的には」としたことに違和感を覚える。意に沿わない伴奏を強制された際の精神的苦痛という内心の問題が判決で考慮されなかったのは疑問である。

反対意見を述べた藤田宙靖裁判官が指摘したように、思想・良心の自由と、その制約要因となる「公共の利益」の具体的内容を比較して慎重に検討すべきだ。その検討結果の提示なしの合憲判断は果たして妥当といえるだろうか。

判決は、伴奏に対する一般的、客観的見方や「全体の奉仕者」とされる公務員の義務を根拠に判断した。公務員は職務命令に従わなければならないということ以前に、別の方法を取ることが今回のケースでは十分可能だった。

伴奏テープが用意され、音楽教諭が伴奏を拒否したからといって式に影響があったとは思えない。実際に学校側が用意したテープが流され、斉唱が滞りなく行われた。

職務命令で強制してまでピアノ伴奏を実現させる必然性があったのか疑問がある。

藤田裁判官は「真の問題は、伴奏を命じることが一定の歴史観、世界観の告白の強要になるかどうかにあるのではない」と異論を唱え「教諭にとってピアノ伴奏が信条に照らして極めて苦痛なことであり、それにもかかわらず、強制することが許されるかどうか」ということこそが問題だと述べている。

日の丸・君が代をめぐる裁判は、ほかにも相次いで提訴されている。最初の最高裁判決だけに影響は大きいが、管理優先で職務命令を追認した判決でいいのだろうか。

琉球新報 2007年3月1日

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[君が代伴奏判決]職務命令に限界ないのか

東京都日野市立小学校の入学式で校長の職務命令に反して「君が代」のピアノ伴奏を拒み、戒告処分を受けた音楽教師の女性が「思想・良心の自由」を侵害するとして都教育委員会の処分取り消しを求めた訴訟で、最高裁第三小法廷は原告の上告を棄却した。

那須弘平裁判長は「本件職務命令は上告人の思想および良心の自由を侵すものとして憲法一九条に反するとはいえない」との判断を示した。判決は裁判官五人のうち四人の多数意見。

戦前の治安維持法による思想弾圧などの歴史を踏まえ、思想・良心の自由とりわけ内心の自由は絶対的に保障されるとされてきた。今回の場合、伴奏テープで国歌斉唱が行われた。代替措置が可能なのに、職務命令で教師の思想・良心の自由との間に厳しい緊張関係をもたらし、結論として伴奏を強制できるとした判断には疑問が残る。

判決によると、音楽教師は入学式前から「自分の思想、信条上、また音楽教師としてもピアノ伴奏を行うことはできない」と話していた。校長の職務命令に従わず、入学式の国歌斉唱時にピアノを弾こうとしなかった。

このため、約五秒ないし十秒待った後で、伴奏テープによる国歌斉唱が行われた。その後、職務命令に従わなかったことが地方公務員法に違反するとして同教師は戒告処分を受けた。

音楽教師は「君が代が過去の日本のアジア侵略と結びついており、公然と歌ったり、伴奏することはできない」「正確な歴史的事実を教えず、君が代を歌わせる人権侵害に加担することはできない」と主張してきた。

判決理由で那須裁判長は「本件職務命令は原告の歴史観、世界観を否定しない」「音楽教師の伴奏は通常想定され、特定の思想を強制するなどしたものではない」「公務員は『全体の奉仕者』とされ、職務命令に従わなければならない」などと指摘している。

一方、反対意見を述べた藤田宙靖裁判官は、原判決を破棄し、原審に差し戻す必要があるとの考えを示した。

「思想・良心の自由と職務命令によって達成しようとする『公共の利益』の具体的内容を比較して慎重に検討すべきだ」と述べている。詳細な検討の必要性を強調し慎重な考量を求める反対意見に説得力があるのではないか。

今回の最高裁判決はピアノ伴奏拒否に対する初の判断である。東京地裁は昨年、国歌斉唱行為の強制は憲法一九条に違反し、許されないとする判決を下した。学校教育という側面から教師の「思想・良心の自由」に一定の制約があるとしても、校長の職務命令にもおのずから限界があるのではないか。

沖縄タイムス 2007年3月1日

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