君が代伴奏 軽視された内心の自由
小学校の入学式で、校長が職務命令で教員に「君が代」のピアノ伴奏を命じたことは合憲だ、という判決を最高裁が言い渡した。
ピアノ伴奏を拒否することは、思想良心の自由の問題とは別だという。最高裁は、職務命令が合憲かを形式的に判断するにとどまった。
最大の争点となった「内心の自由」をめぐる問題については、判断しなかった。問題の重みを受け止めていない判決と言わざるを得ない。
「日の丸・君が代」をめぐっては、政府は国旗国歌法の制定に当たり、国会答弁などで「強制しない」と繰り返した。その約束は守られず、全国で同種の訴訟が相次いでいる。
最高裁判決は、こうした教育現場の緊張した実情から目をそらしている。
内心の自由の問題を素通りした最高裁は、憲法の番人としての役割を果たしたといえるだろうか。
訴えていたのは、東京都日野市の市立小学校の音楽教諭だ。
国旗国歌法施行前の一九九九年四月の入学式で、君が代斉唱の際のピアノ伴奏を求めた校長の職務命令を拒否し、都教委から戒告処分を受けた。
教諭はその後、「伴奏の強要は思想良心の自由を保障した憲法に反する」と都教委の処分取り消しを求めて提訴した。一、二審判決は訴えを棄却し、最高裁判決で敗訴が確定した。
一、二審で教諭は、ピアノの伴奏は、自らの信条に照らして極めて苦痛だと訴えた。伴奏を強制することは許されるのかとも主張した。
これに対して、最高裁は、校長の職務命令が、教諭の「歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではない」と述べ、あっさりと訴えを退けた。信念に反することを強要される良心の痛みを、理解していないのではないか。
一、二審では、教育公務員の思想良心の自由は「制約を受ける」という判決が言い渡された。教諭は、職務命令を「受忍すべきものだ」という判断も示された。
いずれも「思想良心の自由」に関する重要な問題である。それなのに、最高裁はいずれも判断を回避した。
判決に際し、「信念・信条に反する行為を強制することが憲法違反とならないか、検討する必要がある」という少数(反対)意見があった。
反対意見は、職務命令で達せられる公共の利益の具体的内容こそ問われなければならない、とした。この内容と「思想良心の自由」の重さを量るべきだという。当然の指摘だろう。
「職務命令は合憲」という今回の最高裁判決だけが、教育現場で一人歩きすることが心配だ。
処分を恐れ、校長の職務命令に黙々と従うだけの教員が増えるのではないか。そのような教育現場は正常な姿からはほど遠いだろう。
北海道新聞 2007年2月28日
国歌伴奏訴訟 「強要しない」原則どこに
音楽教諭に君が代の伴奏を求めた校長の職務命令は、憲法が保障する思想、良心の自由の侵害にあたらない、との判決が言い渡された。国旗国歌の強制をめぐる訴訟では、初めての最高裁判断である。
国旗国歌法を制定した時、政府が「強要はしない」と繰り返した原則はどこへ消えてしまったのか。教育基本法に「愛国心」条項が盛り込まれるなど、教育が内心に踏み込む懸念が強まっている。教育現場への締め付けを今回の判決が加速させないか、懸念が募る。
争われたのは、東京都教育委員会が1999年に出した処分だ。日野市の公立小学校で、校長が職務命令として音楽担当の女性教諭に入学式での君が代ピアノ伴奏を求めた。教諭は思想信条に反すると拒否。式ではテープを流したという。
都教委が地方公務員法違反で教諭を戒告処分としたため、教諭が処分の取り消しを求めていた。
最高裁は伴奏命令を合憲とした一、二審を支持した。「伴奏命令は原告の歴史観、世界観を否定するものではない」と述べている。思想・良心の自由を定めた憲法19条に違反しない、との判断だ。
同様の訴訟はほかにもある。原告敗訴の判決が多いが、福岡地裁は2005年、職務命令は合憲としながらも、減給処分の取り消しは認めた。昨年9月、東京地裁は国旗国歌の強制は違憲とし、音楽科教諭には伴奏の義務がないとも述べている。
そうした中で、最高裁が「合憲」の判断を示したことは重大だ。卒業式、入学式を間近にした時期の判決だけに、学校で「異論」を唱えることさえ委縮させる心配が否定しきれない。
国旗国歌にかかわる命令を拒み、処分された教職員は2000年度から6年間で延べ875人に上る。東京都は約350人と、突出している。
日本弁護士連合会はこのほど、学校で国旗国歌の強制をしないよう文部科学相などに意見書を出した。日の丸・君が代に対する多様な考えがあり、それぞれの信条や世界観は思想、良心の自由として尊重されるべきだと指摘する。
国旗国歌法は、国民の間に自然に日の丸、君が代を定着させていくことが制定の狙いだったはずだ。処分をちらつかせながら、教師に強要するようでは、法の趣旨に反する。
現実にはほぼすべての学校で君が代が歌われ、日の丸が掲げられている。その中でも「歌いたくない」という教師や子どもの気持ちは尊重されるべきだ。強制は教育の現場に似合わない。
信濃毎日新聞 2007年2月28日
強制の後ろ盾にはするな 君が代伴奏判決
小学校の音楽教諭が、入学式で君が代のピアノ伴奏をするように、と校長から職務命令を受けた。
「君が代は過去の日本のアジア侵略と結び付いており、公然と歌ったり、伴奏したりすることはできない」と拒むと、教育委員会から戒告処分を受けた。1999年8月に国旗国歌法が成立する2カ月前のことである。
これは、憲法が保障する「思想・良心の自由」を侵害したことになるのか。
そんな訴訟の上告審判決で、最高裁は「合憲」と判断し、処分の取り消しを求めた原告の上告を棄却した。
一連の国旗国歌訴訟をめぐる初の最高裁判決である。
最高裁は、教諭のピアノ伴奏拒否について「歴史観などに基づく1つの選択肢ではあろうが、校長の職務命令が直ちに教諭の歴史観または世界観それ自体を否定するものとは認められない」とした。
「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と明記した憲法19条には違反しない‐という判断だ。
判決も指摘している通り、学習指導要領は入学式での国歌斉唱を定めている。国旗掲揚と国歌斉唱について文部省(当時)は1989年に「望ましい」から「指導する」と学習指導要領を改めた。
その後、国旗国歌法の成立を受け、教育委員会を通じた国の指導は一段と強化された。
その結果、何が起きたか。卒業式や入学式で国旗を掲げ、国歌を斉唱する学校の割合は大きく伸びた。その一方で、職務命令に従わない教職員に対する処分も大幅に増え、訴訟も全国で相次いだ。
職務命令‐処分‐訴訟が負の循環のように教育現場で繰り返される事態は明らかに異常であり、収拾を急ぐべきだ。
教育現場で日の丸や君が代が定着してきたのは間違いない。しかし、原告の音楽教諭のように、強制的な押しつけには違和感を覚えたり、拒絶反応を示したりする人がいるのもまた、事実である。
今回の判決は裁判官5人のうち4人の多数意見だった。反対した1人の裁判官は「本件の真の問題は、伴奏が自らの信条に照らし極めて苦痛であり、それにもかかわらず強制が許されるかどうかという点にある」として、高裁へ差し戻すよう求めた。少数意見ではあるが、こうした見解にも耳を傾けたい。
一連の国旗国歌訴訟では、原告敗訴の判決が多いが、2005年の福岡地裁判決は職務命令を合憲とする一方、減給処分は取り消した。東京地裁は昨年9月の判決で国旗国歌の強制は違憲・違法と認めた。司法の判断が分かれるのは、すぐれて個人の内面に根差す問題であり、多様で微妙な国民意識を反映しているからではないだろうか。
最高裁の判決をいわば「後ろ盾」にして、国旗国歌を強制する動きが強まることには強い懸念を抱かざるを得ない。
西日本新聞 2007年2月28日
教育関連法案 なぜそんなに急ぐのか
文部科学相の諮問機関である中央教育審議会が、猛スピードで三つの改正法案を審議している。25日の日曜日に終日審議したのも、諮問から1カ月で答申を目指すのも、異例なことだ。
安倍政権の重要課題といっても、教育政策の見直しを急いでたたきあげようとすれば禍根を残す。特に教育委員会制度の見直しは地方分権の点からも問題が多い。いま急いで改正する必要はない。
中教審は約半数の委員が交代して6日に新体制になったばかりだ。今国会への提出を目指す3法案について、伊吹文明文科相が3月初めには答申を、と求めている。
担当の分科会による審議は14日に始まり、16日、21日、25日と立て続けに会合を開いた。約1カ月と期限をきったがための詰め込み審議だ。
内容が固まったのは教員免許に更新制度を導入する教員免許法、副校長の新設などを柱とする学校教育法の改正案である。これまでに中教審で論議した内容を踏まえたものだ。
教員免許は10年間有効とし、更新時には大学などで30時間程度の研修を受けるようにするのだという。指導力が足りない教員は、研修を受けても問題がある場合に免職などの措置をとる。
学校教育法の改正では、学校内に副校長、主幹、指導教諭を置けるようにする。管理業務の分担や教員の指導役を設ける狙いだ。
それで教員の質が保てるか、教師の世界が息苦しくならないか−など、心配な面を含んでいる。拙速で結論が出せる性質のものではない。
中でも問題が大きいのは教育委員会制度の見直しである。現行では文科省は教委に対して助言する仕組みだが、是正を勧告する権限を持つようにすることが改正案の目玉だ。都道府県教育長の任命に国が「一定の関与」をすることも盛り込んだ。
地方分権の流れに反する−。全国知事会や市長会などが反対声明を出している。政府の規制改革会議も、国の権限を強化する方向であってはならないと批判した。
中教審は、地域に合わせた教委組織の弾力化や市町村教委への人事権移譲といった方向は打ち出している。だが国の是正勧告権は、いじめによる自殺や高校の未履修問題をきっかけに焦点となった。教育の分権にかかわる問題だ。あいまいな表現のまま法制化すると、上意下達の圧力が一層広がることになる。
中教審は28日も会合を開き、週内にも答申をまとめる方針だ。急いで作った法案に、教育を立て直す力があるとは思えない。
信濃毎日新聞 2007年2月27日
分権に逆行する改革では 教育委員会制度
日曜日を返上して集中的に議論したが、結論は持ち越された。教育委員会制度を見直す地方教育行政法の改正をめぐる中央教育審議会の議論である。
文部科学省は、首相直属の教育再生会議の追加提言を受けて、教育委員会改革の骨子案を中教審に提示した。最大の争点は、地方の教育委員会に対する国の是正勧告・指示権を認めるかどうかだ。
「国の権限強化が必要なのか」「地方分権に逆行するのではないか」。石井正弘・岡山県知事らが地方の声を代弁し、反対の論陣を張った。
地方が不信感を強めるのも無理はない。2000年施行の地方分権一括法に伴う関係法令の改正で文部大臣(当時)の「是正要求権」は廃止された。
国は義務教育の機会均等や一定の水準確保に責任を負うが、地方の自治体や教育委員会、学校現場の裁量を可能な限り拡大して地域の実情に即したきめ細かな教育を実践していく。そんな分権時代の教育行政が語られ、国民的な合意も得ていたはずだ。
ところが、文科省の骨子案には是正勧告・指示権を事実上復活させるほか、都道府県教育長の任命についても「一定の関与を行う」ことまで盛り込まれた。
都道府県教育長の人事を国が承認する制度も分権改革の一環ですでに廃止されている。こちらも中央集権の亡霊がよみがえったような感慨を禁じ得ない。
確かに教育委員会制度の形骸(けいがい)化は問題だ。いじめを苦にした自殺への対応や高校必修科目の未履修問題で、教育委員会の隠ぺい体質や事なかれ主義の弊害があらためて取りざたされた。
だが、国の権限を強化することが教育委員会の本質的な改革になるのか。まさか、地方分権で国の権限が弱められたから、いじめや未履修問題を防げなかったというわけではあるまい。
中教審は2年前の答申「新しい時代の義務教育を創造する」で、「文科省、都道府県教委、市区町村教委の間で、上意下達の中央集権的な行政になっており、地方の創意工夫を阻害しているとの指摘がある」と戒めた上で、国と地方の関係についてこう言及している。
「指揮監督による権力的な作用よりは、指導・助言や援助による非権力的な作用によって、地方の主体的活動を促進することが基本となっており、今後もこの方針を重視していく必要がある」
この答申が色あせたとは、私たちは思わない。
教育再生会議がまとめた教育委員会制度の改革案については、同じ政府の規制改革会議が「地方分権に逆行する形で国の権限を強化し、文科省の裁量行政的な上意下達システムの弊害を助長することがあっては断じてならない」と異例の注文をつけた。
同じ政府部内から公然と反対論が巻き起こる事態も異常といわねばならない。
西日本新聞 2007年2月27日
どんな「学力」を目指すのか
ゆとり教育で学力が下がった。親の経済力で教育の格差が広がる−。さまざまな不安の中で、安倍内閣が教育再生を最重要課題に挙げている。いまの教育には国民からも厳しい目が向けられている。
21世紀の社会を支える子どもたちをどう育むか−。教育の在り方はこれからの社会を考える上でも重要なポイントだ。駆け足の改革論議が交わされる中、進むべき道を丁寧に考えたい。それが、問題を抱えた学校や子どもたちを生き生きさせる道になるはずだ。
<学校に期待するもの>
小学校入学が間近になり、学習机やランドセルを用意しながら、親も子も期待と心配を膨らませている。いまの気持ちを聞いてみた。
「単に点数を上げるなら学校以外の場所もある。学校は社会性を育て集団で生活する力を身に着ける場でもあります」。ある小学校の保護者説明会で聞いた校長の言葉に、ほっとした母親がいる。
勉強はもちろん大事だが、学校に求めるのはそれだけではない。友達とつきあいながら、自分で考えて行動する自立した大人に育ってほしい。この母親はそう考えている。
1人息子が入学するある家庭では、学校で地域の伝統や文化を学び、多くの人に触れてほしいと願っている。自分の足元を知ることが、自らを大切にし周囲を尊重することにつながると思うからだ。頭ごなしの「愛国心」ではなく、心を育てることを大事にしたいという。
どちらの家庭にも学力への不安はある。だが、子どもたちが楽しく過ごせる場であってと願う思いは強い。教育の立て直しを考える上で欠かすことのできない視点だ。
<繰り返される論争>
学校に何を求めるか。どんな「学力」を期待するのか。意見が分かれるだけに教育論議は難しい。
第一、学力の定義があいまいだ。数値で測れる知識や技能を指すのか。測定が難しい問題発見力や思考力、または学んだものを生かす企画力や知的関心の高さを求めるのか。それとも総合的な生きて働く力なのか。
こうした意味や内容の広さとあいまいさがあるから、学力をめぐる論議は尽きない−。東京大学大学院の汐見稔幸教授は編著書「『学力』を問う」の中でそう指摘している。
加えて、政治的な思惑や時代の雰囲気が影響しがちだ。
戦後の教育界で、学力論議は何回も繰り返されてきた。最初は新憲法と教育基本法が制定され、学校の再建が行われた時期だ。
現在の教育論議の出発点は、中曽根内閣が1984年に設置した臨時教育審議会にある。それまでの知識偏重や受験競争の激化、いじめや校内暴力などの問題、学校の硬直化への反省から、答申を求めている。
約3年を費やした最終答申では、個性重視や生涯教育への移行を柱に据えている。考える力を重んじる方向へとかじを切った。
安倍政権の教育改革は、授業時間削減の流れや目指す方向を転換させようとするものだ。教育再生会議は3カ月余りの論議で、授業時間の1割増、学習指導要領の見直し、土曜日の授業復活などを提言した。学校と教員の厳格な評価や学校選択制度の導入もうたう。
競争による学力向上の狙いは明らかだ。このままだと、数値で測れる学力だけが優先されかねない。いまの学校には問題があるからと、国の管理や強制を強めようという姿勢で、教育は本当に“再生”するのか、心配が募る。
長野県には独自の教育を目指した歴史がある。大正時代、「白樺派」の人道主義に影響を受けた教師の実践や、画家の山本鼎が提唱した自由画教育が広がった。総合学習の原点といえる「研究学級」が、長野師範附属小学校に設けられた。
<行き詰まりの打開には>
研究学級の設置は、国によるがんじがらめの規制が進められて「教育は行き詰まっている」という危機感からだったという。開設当初の抱負に、児童の教育は児童のうちから構成されるべきものである、と記している。(「信州総合学習の源流」信濃教育会出版部編)
子どもとともに授業を作り上げ、持っている力を引き出そうとした。こういった取り組みから、いま学ぶべきことは多い。
目先の成果を優先した戦後の教育改革に、学校や子どもたちは振り回されてきた。ゆとり教育が失敗だったのか、十分な検証が行われたとはいえない。教育が抱える問題は、学校や家庭が原因ともいいきれない。今の論議は学力低下や教育格差への不安を背景に進み、子どもたちが置き去りにされている。
先が見通せない不確実な時代に、どんな学力を目指すべきかをあらためて考える必要がある。小学校に行くのを楽しみにしている子どもたちの意欲に、まず目を向ける。これを原点にしたい。
信濃毎日新聞 2007年2月26日
懲戒と体罰/「力」に頼らない教育こそ
児童や生徒が問題を起こした場合、教師や学校側はどんな懲戒行為をとれるのか。またそれが体罰にあたらないか。
文部科学省が問題行動の指導について考え方や懲戒・体罰の範囲を示す「通知」を都道府県教育委員会などへ出した。
政府の教育再生会議が先月まとめた第一次報告は、いじめ加害者の出席停止制を活用することや、体罰禁止基準の見直しを求める提言を盛り込んだ。これに対して通知は、文科省が自ら基本姿勢を示した形だ。
一言でいえば、問題行動に毅然(きぜん)とした対応を求める内容である。中でも、体罰の範囲について、初めての見解を示した。その影響は大きいと言わねばならない。
まず目を引くのは、再生会議が打ち出した出席停止の活用を追認したことだ。学校の秩序維持や他の児童・生徒の教育権を保障するため検討すべきと踏み込んだ。
一方、体罰は学校教育法で禁止されており、「殴る、ける、長時間立たせる」などの肉体的苦痛を与える行為は体罰と再確認している。ただ「目に見える物理的な力を行使した懲戒は一切が体罰として許されないわけではない」と含みも持たせる。さらに、状況に応じた一定限度内の行使は許されるとした判例にも触れた。
このほか、許される懲戒として、放課後の居残り指導▽教室の秩序維持のために室外へ退去させる▽学習課題や掃除を課す-などを挙げる。
もとより、体罰かどうか、個々の事例を機械的に分けられるものではない。判例まで持ち出して具体的に示したように見えるものの、通知がいう「力の行使の限度」はくっきりとは見えてこない。これでは教育現場が混乱しないか、懸念を覚える。
なにより、問題ある行動を「力」で押さえ込むような方針で、いまの教育が抱えるさまざまな困難が解消されるのか。それが本当に教育の立て直しにつながるのか、疑問は消えない。
体罰は、一九四八年に旧法務庁が出した禁止の通達があるだけだった。騒いだ子を教室外に出すことも体罰として禁じている。戦時中の軍事教練などで体罰が常態化していた反省からといわれる。
文科省が通知に踏み切ったのは、再生会議の提言がもたらす教育現場の不安や混乱の回避がある。しかし、こうした上意下達がかえって現場の裁量を削(そ)いで、別の委縮を招く恐れも否めない。
教育現場に軸足を置き、「力」に頼らない教育の在り方を粘り強く求める取り組みが基本だ。それを忘れてはいけない。
神戸新聞 2007年2月26日
教育改革論議 気になる「国の関与」
政府の教育改革論議が急ピッチで進んでいる。文部科学省は教育関連三法の改正に向けた骨子案を中教審に提示した。片や教育再生会議も、五月の第二次報告に向け、議論を再開した。
日本の教育を大きく変えるだけに、政治的な思惑を超えたていねいな議論が不可欠だ。国の中央集権的な動きにも十分注意する必要がある。
昨秋の臨時国会で教育基本法改正を成しとげた安倍晋三首相は、教育再生を今国会の最重要課題と位置づけ、関連する法改正を急ぐよう指示している。
文科省はそれを受け、二十一日に学校教育法、地方教育行政法、教員免許法の「改正の方向について」と銘打った改正骨子案を中教審分科会に示した。
学校教育法の骨子案は、規範意識の尊重や「我が国と郷土を愛する態度」などを養う規定を、義務教育の目標の中に新設することを提言する。
教員免許法では、教員免許の十年更新を明記し▽免許状更新に必要な講習は、免許管理者の裁量で免除できる教員を選べる▽指導力不足教員の認定は第三者委員会の意見を聞いて任命権者が行う▽研修終了にあたり、適格性を欠くと認定した者には、免職その他必要な措置を講ずる−など詳しく規定している。
地方教育行政法については、教職員の人事権を大幅に市町村教委に移譲する項目を盛り込んだ。半面、都道府県の教育長任命や教委の仕事に文科相が関与や指示ができると明記するなど、中央集権拡大を思わす項目も盛り込んでいる。
これらの骨子案は今後、中教審の集中審議などを経て答申に盛り込まれるが、国の関与の範囲が気になる。地域や学校の裁量権を広げて教育再生をめざす考え方とは逆を向いているのではないか。
一方、教育再生会議は、昨日の合同分科会で、第二次報告に向けた検討課題を決定した。学校の創意工夫を促すための学習指導要領の大綱化や、教育困難校への支援、子どもと家庭のための支援や国際的視点に立った教育再生などだ。
先の第一次報告が多方面で言いっぱなしの印象が強かっただけに、検討課題が絞られてきたことは評価したい。
文科省の姿勢には、国の権限拡大の狙いがにおうだけに、再生会議との違いは今後、国民の議論を呼ぼう。路線の違いが際立てば、安倍政権のめざす教育改革と矛盾する場合もあろうが、大局的な見地から取り組むことだ。
提言に具体性も必要だろう。たとえば学校週五日制は、学力の低い子どもたちの学力レベルをさらに低下させたことをうかがわせるデータが既に出ている。週六日制に戻すかわりに教師を夏休みに休ませるなどの施策も、もっと真剣に論じられていい。学ぶ意欲の復活や、いじめの根絶なども、実践例をよく調べ、現場が納得できる内容に高めてほしい。
分科会を積極的に公開し、国民がともに学べる機会とすることも大切だ。
京都新聞 2007年2月23日
中教審 慎重審議で存在感を示せ
安倍内閣が最重要課題と位置付ける教育再生の具体策づくりに向け、中央教育審議会(中教審)が本格的に動きだした。先に政府の教育再生会議が大胆な意見を取りまとめている。長年教育行政の方向性を示す役割を担ってきた中教審にとっては、存在感が問われることになろう。
中教審は、二〇〇一年から会長を務めていた鳥居泰彦慶応義塾学事顧問の後任に、劇作家の山崎正和氏を選び、新体制で議論を始めた。初の総会では、伊吹文明文部科学相が、今国会での改正案成立を目指す地方教育行政法、学校教育法、教員免許法の教育改革関連三法について迅速な審議を求めた。
従来の審議との大きな違いは、安倍晋三首相が、伊吹文科相に三月中旬までの三法案提出を指示していることだ。法案作成の時間を考慮すると、中教審の審議にゆとりはない。文科相は「できれば二月中か三月早々に答申をいただきたい」と注文した。
なんとも荒っぽい話である。これまでの中教審の審議は答申までに数カ月以上かけるのが通例だった。教育現場の実情に配慮し、多角的な議論を積み重ねて結論を出すには、それなりの時間は必要であろう。
あまりにも時間が掛かりすぎると、中教審に対して批判が高まっている。変化の激しい時代の要請にこたえられていないともいわれる。山谷えり子首相補佐官(教育再生担当)が講演で、中教審の見直しを教育再生会議で検討していくべきだとの考えを表明した。安倍首相は、中教審改革は論外だと否定したが、山谷発言は中教審へのいら立ちを浮き上がらせたといえよう。
短い審議時間の問題とともに、再生会議の意見を追認すれば迅速に答申が出せるはずだとの思いが安倍首相にあるのなら深刻だ。再生会議の意見には受け入れがたい政策が多く含まれている。例えば、三法案の柱である教育委員会制度改革だ。
再生会議は、第一次報告とそれに続く追加提言で教育委員会の見直しを盛り込んだ。見過ごせないのは、教育委員会の活動が「著しく適正を欠き、教育本来の目的を阻害している」場合に、文科相に是正を勧告、指示する権限を与えるとしたことだ。全国知事会などは「国の教委への統制を強化し、地方分権一括法による改正前の教育行政に後戻りさせかねない」と強く反発する。当然である。
国の管理強化がにじむ再生会議の提言で、教育が活性化されるとは思えない。中教審は説得力ある答申を出さなければならない。
山陽新聞 2007年2月18日
再生会議の教委改革 分権に逆行する提言だ
政府の規制改革会議は、同じく政府内に設置されている教育再生会議が示した教育委員会改革案に懸念を表明した。
教育再生会議案では、文部科学相に教委に対して是正のための勧告や指示の権限を与えているが、規制改革会議は「教育に関する国の権限を強化しない制度設計にすべきだ」としている。この是正の勧告・指示権はまさに国の管理強化につながる内容であり、地方分権にも逆行するものだ。規制改革会議の懸念表明を支持したい。
教育再生会議は先月24日、第1次報告を安倍晋三首相に提出して教委の権限の見直しなどに言及したものの、具体案は示さなかった。今月5日になって1次報告の追加的内容として「教委活動が著しく適正を欠き、教育本来の目的を阻害している」という場合に、文部科学相に是正の勧告や指示する権限を与えることを盛り込んだ。
規制改革会議の前身は規制改革・民間開放推進会議であり、教育分野の作業部会も設置していただけに、教育再生会議の提言に物申す「資格」は十分あるとのことから、異例の懸念表明となった。政府内の足並みの乱れが表面化したことにもなり、政府が今国会に提出する教育再生三法案の一つ、地方教育行政法改正案の行方にも微妙な影響を与えそうだ。
教委改革は確かに必要だろう。最近では全国で問題になった高校の必修科目の履修漏れについても、教委の的確さを欠く対応が批判を浴びた。また、いじめによる自殺は一昨年まで全国で7年連続「ゼロ」とのことだったが、北海道滝川市教委は一昨年9月、自殺した小学女児がいじめを訴える遺書を残しているにもかかわらず、いじめを記述した部分を隠ぺいして文科省に報告していた。
このほか、市町村教委では、校長経験者の教育長起用が目立ち、学校現場との慣れ合いも指摘されている。教委は本来、児童・生徒らの利益を最優先しなければならないが、機能不全に陥っているとの指摘もあながち否定はできない。
だからといって、国の権限を強化することにはならないだろう。教育行政は国を頂点とした上意下達の象徴として県教育長は文科省、市町村教育長は県教委の承認を必要としていた。それが地方分権一括法の成立に伴い、12年に地方教育行政法が改正され、教育長の承認権は廃止されている。
こうした分権の流れはますます加速させるべきだが、是正の勧告や指示権の是認は、国の権限強化の復活すら暗示させる。既に権限強化の動きに本県を含む31府県の教育長は連名で反対を表明するなど、地方の動きも活発化している。規制改革会議の見解にも「大臣指示・勧告といった形は極力避け、むしろ国は教委自身が自らの力で進化していける環境作りをサポートすることに注力すべきだ」とし、分権型教育行政の推進を強調している。
「国が最終的に責任を負うのが教育」という安倍政権の姿勢からは、教育を中央で統制する思惑が見え隠れしてくる。分権型社会は、教育といえども例外ではないはずだ。
秋田魁新報 2007年2月17日
教育再生会議 地方の疑問に答えよ
教育再生会議の第一次報告や提言に対し、地方から異論がでている。文部科学省の権限強化につながりかねず、地方分権に逆行するとの懸念が強い。安倍晋三首相や再生会議は疑問に答えるべきだ。
全国都道府県の教育委員長と教育長でつくる各協議会が教育再生会議に異例の意見書を出した。
再生会議の議論を「一部の事象をもって全体の傾向とするなど、一面的なとらえ方が見受けられる」と批判した。正確な現状分析とデータに基づく議論や地方分権に立った議論を求めている。
特に、再生会議が「法令違反や教育本来の目的達成を阻害していると認めるとき文部科学相は是正勧告・指示ができる」とした教育委改革提言を危惧(きぐ)している。いじめ自殺や高校必修漏れでの教育委の不適切な対応だけを取り上げているからだ。
二〇〇〇年施行の地方分権一括法で文科相の教育委員会への是正命令権などは撤廃された経緯がある。各地の実情に応じて創意工夫し、独自性を発揮した分権型の教育を目指したはずだ。教育委改革提言は、地方の自立という理念に反する。
教育委員長協議会の幹部が「地方分権に逆行する」と批判したのは無理もない。全国知事会も「国の統制を強化し、教育行政を後戻りさせかねない」との談話を発表している。
政府の規制改革会議も「上意下達システムの弊害を助長することがあってはならない」と文科省の権限強化に反対する意見書を出し、異論は広がっている。
安倍首相は再生会議の報告・提言を基に関連法改正案を今国会に提案するよう指示し、文科相の諮問機関、中央教育審議会(中教審)で審議に入っている。教育委改革を含む地方教育行政法改正は重要な柱だ。
地方分権を推進するという政府の方針と矛盾しないか、安倍首相はきちんと説明する必要がある。
今回の意見書は再生会議の公開を求めている。再生会議側は「公開すると真実が伝わりにくい」などと説明しているが、委員の中には「非公開だと意見が反映されない」と反発し公開を求める声もある。インターネットで公開される議事録はきれいに整理されており、議論の微妙な過程がみえにくい。会議から半月たっても議事録が公表されないケースもあり、不透明だとの指摘もある。
教育の将来を左右する重要な会議だ。透明性を高める努力が必要である。中教審は公開方針を採っていても支障はないといい、これに倣ったらどうか。国民的議論を呼び起こすためにも原則公開が望ましい。
中日新聞・東京新聞 2007年2月17日
教育委員会/改革論議には現場の声も
教育委員会の在り方をめぐる論議が高まってきた。さらに、政府が主宰する二つの有識者会議の間で意見が対立し、目が離せなくなっている。
まず、政府の規制改革会議が昨年、地方自治法による教委設置の義務づけを撤廃し、自治体首長の存廃選択権を認める中間答申を出した。その後、高校必修科目の未履修や、いじめ自殺問題が噴き出し、教委の対応に不信が募った。そのことが改革論議に火を付けたといってよい。
政府の教育再生会議は、先月まとめた一次報告に教委改革を求める提言を盛り込んだ。第三者機関による活動の評価や小自治体教委の統廃合、教員人事権を都道府県から市町村へ移譲する-などだ。活動が不適切な教委に対し、是正勧告や指示権限を文部科学相に与える考えも示した。
この提言に、規制改革会議は「文科相の権限強化は地方分権に逆行する」と反対を表明した。再生会議が念頭に置く、都道府県教委による市町村教委の評価は「第三者評価と言い難い」と注文もつけた。
制度の見直しで意見の食い違いが浮上するなか、文科省や中央教育審議会は、改革への明確な姿勢を示していない。幅広い論議は必要だが、こんな状態で前へ進むのか懸念がぬぐえない。
しかも、改革の声を上げた二つの有識者会議は、教育現場から離れた印象が否めない。これで十分な議論ができるのか。学校現場からも教委の問題点をあぶり出してほしいし、教委側の見解も聞きたい。
教育委員会は、自治体が委員を五人程度選任し、委員長と教育行政の事務部門トップの教育長を任命して運営される。発足時は委員は公選だったが、廃止された。形として首長の政治的影響を受けることなく教育行政を行えるのが利点とされてきた。
だが、教委は独立性を十分に生かしているだろうか。文部科学省→都道府県教委→市町村教委→学校という上意下達の流れに組み込まれているといっていい。教育委員は非常勤で名誉職化しているという声も少なくはない。
ただ、第三者からの指摘をただ待つのではなく、現状のままで、もっと改革できることもあるように思う。教育委員の活動をさらに高め、教育行政をしっかり監督するのも一つだ。教育委員の定数を弾力的にし、一定数を公選制にする方法もある。
教育という大きなテーマの中で、教委改革は一部に過ぎない。だが、教育への影響が大きい分、その在り方は重要だ。現場の声も含めた建設的な論議を深めたい。
神戸新聞 2007年2月17日
教育改革めぐる三会議 司令塔がしっかりせねば
教育改革をめぐり政府の教育再生会議、中央教育審議会、規制改革会議の三つの審議機関が互いにけん制し合い、対立が表面化している。安倍晋三首相の肝いりで発足した教育再生会議が第一次報告をまとめ、これを受けて教育改革関連法の改正案づくりも進められているが、安倍首相が司令塔役をしっかり果たさないと、改革論議が迷走する心配がある。
対立点の一つは、教育委員会に対する文部科学省の権限の在り方である。現在、文科省が教委に対して行えるのは指導、助言、援助などである。これに対して教育再生会議は先にまとめた教委見直し案で、事務処理が法令に違反したり教育本来の目的達成を阻害している時などに、文科相が教委に是正勧告や是正指示を行えるよう求めた。
これと同様の権限は以前、地方教育行政法に是正要求権として規定されていた。しかし、九九年の地方分権一括法の成立に際して削除された。国は地方自治法に基づき、教委を含む自治体に是正を求める権限を持っているが、分権の流れに即して適用基準は厳しくなり、実質的に権限の縮小が図られたのである。
こうした経緯からすると、地方教育行政法の中であらためて文科相の是正勧告権を求める教育再生会議の改革案は、地方分権の流れに逆行する形といえ、規制改革会議が文科相の権限拡大に懸念を示したのも無理はない。教育再生と地方分権の徹底推進を強調する安倍首相の国づくりの根本的考え方があらためて問われる格好である。
これまでの教育改革論議で、安倍首相が司令塔としての存在感を十分に示してきたとは言い難い。教育再生会議が提言した「市町村教委への教員人事権移譲」や「五万人以下の市町村教委の統廃合」のための法改正が今国会で見送りの方向とされるが、首相がどこまで指導力を発揮しているのか疑わしくもなる。
教育改革をめぐっては、「本家」を自任する中教審と再生会議の主導権争いもうかがえる。山谷えり子首相補佐官が、再生会議で中教審の在り方を見直す意向を示し、安倍首相があわてて否定する一幕もあった。閣内、閣外における首相のリーダーシップを強く望みたい。
北國新聞 2007年2月16日
教育再生迷走 教委改革案の拙速さを露呈した
安倍晋三首相の看板である「教育再生」が迷走している。
首相の肝いりで発足した教育再生会議が先ごろ、教育委員会制度の見直しとして国の権限強化などを打ち出した。これに首相の諮問機関・規制改革会議が真っ向から異を唱えた。
再生会議の議論を受け、中央教育審議会(中教審)は教委制度の抜本見直しを柱とする地方教育行政法など、教育再生関連三法の改正案作成を進めている。そんな段階で政府の別の有識者会議から異論を突きつけられるのは異常というしかない。
少子化対策、成長戦略などと会議を乱立させ、意気込み先行で空回り気味な政権を象徴するものにも映ってしまう。
再生会議が第一次報告の追加提言としてとりまとめたのが教委改革だ。教委に対する是正の勧告、指示の権限を文部科学相に与えるなどとしている。
一方、規制改革会議は、地方分権に逆行して文科省の裁量行政的な上意下達の弊害を助長してはならないと懸念を示した。地方の反対とも合致する。
再生会議の教委改革はすんなり決まったわけではない。昨年末にいったん実質先送りとなりながら、首相側の意を受けて復活した経緯がある。
規制改革会議の懸念に塩崎恭久官房長官は「(再生会議の教委改革は)正式決定ではない」と語った。再生会議の拙速さをあらためて印象づけるが、国民にはさっぱりわからない。現場の教員も混乱するばかりだろう。こんなことで教育を良い方向へ導けるとは思えない。
教育改革は確かに急務で、教委にも委員の名誉職化や審議の形骸(けいがい)化の批判がある。文科省を頂点とした上意下達は規制改革会議の指摘通りだ。いじめに正面から向き合うのを避けがちな姿勢や必修科目の未履修は、不信に輪をかけた。
だが、いじめや未履修では文科省の体質も問われた。そうした責任を棚上げして国の権限強化に走るのは筋違いだ。
教委に対する文科相の「是正要求権」は一九九九年成立の地方分権一括法で削除された。分権を掲げる安倍政権が国の関与を強化させる矛盾も生じる。
改正教育基本法のもとでは国の介入が懸念される。教育の政治的中立や住民自治を担保する仕組みとして教委制度の役割はより重要になる。まず取り組むべきは形骸化を排し、本来の機能を取り戻すことではないか。
中教審は委員の選任法改善や人口規模に応じた委員数弾力化を答申している。まずそこを本格論議するのが筋のはずだ。
教育再生関連三法には、副校長や主幹といった管理職を新設する学校教育法と、再生会議が不適格教員の排除手段と位置づける教員免許制導入のための教員免許法の改正案もある。ともに慎重な検討が欠かせない。三月中旬の国会提出をめざす政府は拙速にすぎよう。
参院選をにらんで政権浮揚につなげたいなら論外で、冷静な現状分析を踏まえて議論を整理し、時間を費やしてでも望ましい教育のあり方を探るべきだ。
愛媛新聞 2007年2月16日
【教委改革論議】分権逆行は支持できぬ
政府の規制改革会議が教育委員会制度の見直しをめぐって、教育再生会議の提言に異を唱えた。再生会議が先にまとめた教委制度見直しの提言に国の権限強化が盛り込まれているからだ。
現在、文部科学省が教委に対して行えるのは指導、助言、援助だけである。これに対し、再生会議が示した見直し案は、教委の活動が「著しく適正を欠き、教育本来の目的を阻害している」場合、文科相に是正を勧告、指示する是正勧告権を与えることを盛り込んでいる。
こうした見直し案を提言した再生会議に、地方分権を推進する立場の規制改革会議が「地方分権に逆行する」として批判的な見解を示したのもうなずける。
一方で、是正勧告権の必要性は昨年、未履修問題に関する国会審議で伊吹文科相が強く訴え、再生会議がその意をくみ取ったと考えられる。安倍首相の肝いりで立ち上がり、“官邸主導”で進むはずの再生会議がいつの間にか文科省ペースで議論が進んでいることを象徴する話だ。
規制改革会議にはこうした流れへの不信感があり、軌道修正を図りたい思惑があるのだ。
本質論に戻れば、規制改革会議が批判するように地方分権に逆行し国の権限強化につながる方向は支持できない。地方分権は国の関与や権限を縮小することが基本であり、地方教育行政も例外ではない。
分権において、国と地方の役割関係がまだ明確になってない中で、なぜ教育分野が特化され、国家的管理強化が強まる懸念を残す方向に進むのか。全国知事会や市長会、全国都道府県教育長協議会などが反発するのも当然だ。
確かに義務教育などにおいては、機会の均等や教育水準の維持などの面で一定の国の関与が仕方ない部分もあろう。
だが、「教委が自らの努力で進化していける環境作りをサポートすることに国は力を注ぐべきだ」と規制改革会議が指摘するような関与が分権時代に望ましいのは明らかだ。国が教育を統制しては、地域性豊かな多彩な人材は期待できない。
会議乱立の弊害
とはいえ、政令に基づき内閣府に設置された審議会である規制改革会議と、片や政府の諮問会議という位置付けの再生会議が全く違う見解を示した事実は重い。
首相はこの事態をどう乗り切るのか。成果を急ぐあまり、会議を乱立させた弊害が早くも噴出したということだろう。
再生会議は、文科相の諮問機関である中央教育審議会との役割分担が設置当初からあいまいだった。その中教審でも安倍政権が今国会で成立を目指す教育改革関連三法の本格審議が始まっている。
中教審の2005年答申では教委制度について「上意下達の中央集権的な行政になっており、地方の創意工夫を阻害しているとの指摘がある」と記し、地方の主体的活動を重視していく必要性を説いている。
審議の行方が注目されるが、もともと首相の政治理念自体、国の管理強化を進める色彩が色濃く、分権とは逆行している。その上、教育に関しては拙速な手法が目立ち、教育改革を参院選対策の道具として扱っているようにも見える。
国家100年の大計である教育は時間をかけて試行し、検証していく作業が何より大事だ。教委改革論議で首相がどんな調整能力を見せるか注目されるが、「急(せ)いては事をし損ずる」ことを首相にあらためて忠告しておきたい。
高知新聞 2007年2月16日
教育委の改革*現場の声は聞こえるか
政府の教育再生会議が教育委員会改革の見直し案をまとめた。文部科学相に教育委員会を是正勧告できる権限を与えるなど「国の関与」を強める内容だ。
いじめの放置や高校の必修科目の履修漏れ問題が続き、教育委員会が十分に活動していないと指摘されている。再生会議の改革案は、「眠れる教育委員会」の機能強化が目的だ。
だが、改革の中身が学校現場や地域の現状を踏まえているのか、大いに疑問だ。現場の実態を無視するような改革には首をかしげる。
再生会議の見直し案には、「人口五万人以下」の市町村教育委員会を統廃合する方針が盛り込まれている。
過疎地を多く抱える北海道では、統廃合の対象となる自治体が百八十市町村の約九割を占める。
子どもを対象にした地域の催しなどで、教育委員会が学校や父母と連携して活動している自治体もある。
子どものいじめ対策では、教育委員会と学校との協力関係の強化が、従来以上に求められている。
その矢先に、機械的に教育委員会の統廃合を進めるというのでは、子どもへのきめ細かな目配りができなくなってしまうのではないか。
道外自治体の中には、財政上の利点があるとして、教育委員会の統廃合を歓迎する自治体もある。
全国一律に教育委員会の組織を統廃合するところに無理がある。地方の実情を踏まえることが不可欠だ。
再生会議の見直し案には、都道府県教委から市町村教委への教員人事権の委譲も盛り込まれている。
道内では、小中学校のほぼ半分が「へき地校」に指定されている。市町村に教員人事を委ねれば、へき地での勤務を敬遠する教員が出て、教員確保が困難になる自治体も出かねない。
同一校での勤務の長期化や、へき地から都市部への学校への転勤が滞る懸念もある。全道的な教員配置の観点から、人事を調整している現在の制度を混乱させるだけではないか。
地方の教育行政を担う教育委員会は知事や市町村長の政治的意向に左右されない独立した行政機関だ。
その教育委員会に対し、文科相の勧告や指示権限を強化することは、教育委員会の独立性を脅かす懸念がある。文科相がどのような場合に権限を発動するのかという基準も不明確だ。
再生会議に対し、現場の教育関係者からは「地方や学校の意見を聞いてほしい」という要望が持ち上がっている。そもそも非公開の審議方法にも不満がある。再生会議の議論が現場から乖離(かいり)しない工夫が必要だ。
再生会議は、学校や教育委員会関係者を交えた意見交換会を地方ごとに開いてはどうだろう。机上の議論がひとり歩きすることが心配だ。
北海道新聞 2007年2月12日
山崎中教審 ここは冷静な教育論で
文部科学相の諮問機関、中央教育審議会の会長に、劇作家で評論家の山崎正和氏が決まり、新体制がスタートした。
教育基本法改定、教育再生会議の提言など、矢継ぎばやの改革が求められている。教育は「百年の計」である。目先の政治の動きにとらわれず、冷静なかじ取りを山崎会長に求める。
教育再生会議が1月にまとめた第1次報告は、ゆとり教育の見直し、教員の質の向上などさまざまな提言を盛り込んだ。中でも3つの法律改正が、今国会の焦点になる。
学校の管理体制強化のために副校長、主幹を置く学校教育法の改正、教育委員会制度を見直す地方教育行政法改正、免許更新制を導入するための教員免許法改正だ。
中教審はすでに10年ごとに研修を行い免許更新する方針を答申している。教委制度は小規模市町村の教委の合併などを1年半かけて審議した。再生会議の報告には答申を上回る内容が加わっている。
伊吹文明文科相は6日、今国会に間に合わせるため、3月初めには答申を、と要請した。山崎氏は「あわてずにやれることをやっていく」とコメントしている。
中教審は教育の内容や制度改定を審議し、文科相に意見を述べる法律に基づいた機関だ。安倍首相の私的諮問機関である教育再生会議より、長期的な視点で検討するところに意義がある。審議を急ぎ、生煮えの内容を出すのであれば、本来の役割を果たしたといえない。
山崎中教審の大きな課題は学習指導要領の見直しだ。すでに国語力や理数教育強化の方向は出ている。今後は教育基本法の改定で「愛国心」をどう扱うかも焦点になる。
山崎氏は4年前、本紙に掲載した評論で、国家という社会単位を人びとが愛し、積極的に守らねばならないのは当然だ、と述べている。
しかし、その一方で、現代の国家は法と制度の体系にすぎず、歴史とは無関係に作り上げてきたいまの社会のありようを誇りにすべきだ、とも指摘した。この点は、国家にこだわり、復古的な日本のかたちを頭に置いた安倍首相の教育観とは、距離を置くものだといえる。
愛すべき国とは何か。求められる学力とは何か。指導要領の見直しには、教育の根幹にかかわる問題が多く含まれている。
中教審は論議に時間がかかり、結局は文科省主導の結論になりがちだ、という批判を浴びてきた。子どもや親の立場で教育改革を方向付けられるかどうか。教育に政治の風が吹き付けているいまこそ、中教審の真価が問われる。
信濃毎日新聞 2007年2月10日
教育委員会改革/分権に逆行する見直し案
政府の教育再生会議が教育委員会制度の見直し案をまとめた。1月に安倍晋三首相に提出した第一次報告の追加提言としており、近く首相に報告する。政府は中央教育審議会に諮った上で、地方教育行政法改正案を今国会に提出する予定だ。
見直し案は、国の管理強化の方向を打ち出している。
教委の事務処理が「著しく適正を欠き教育本来の目的達成を阻害していると認めるとき」には、文部科学相は是正勧告、指示を行うことができるとする。
現行は文科相の権限として「必要な指導、助言または援助」を行うことができると規定している。見直し案は文科相の権限を強化し、国の関与を深めるものだ。
「地方分権の考え方が基本であることは言うまでもない」と断ってはいるものの、地方分権の大きな流れに逆行すると言わざるを得ない。
教育行政における地方分権に向けては、第一次報告や見直し案でも、国や都道府県教委が市町村教委や学校に権限を移譲することが盛り込まれている。
だが、国の権限を一方で強化することは、権限の移譲を形だけのものにしかねない。
教委制度改革は、中教審が2005年10月に提出した答申にも示されている。
答申は現状について「上意下達の中央集権的な行政になっており、地方の創意工夫を阻害しているとの指摘がある」と記した上で「指揮監督による権力的な作用よりは、指導・助言や援助による非権力的な作用によって、地方の主体的活動を促進することが基本となっており、今後も、この方針を重視していく必要がある」と述べている。
見直し案は先の中教審答申が批判する「上意下達の中央集権的な行政」を維持強化するものにほかならない。
教育、とりわけ義務教育に関して、機会均等や一定の水準の確保などの根幹部分の責任が国にあることは確かだ。それでも、市町村や学校現場における裁量を極力拡大し、地域の実情に応じてきめ細かく進めていくことが求められる。
教委制度改革は、国の関与や権限を縮小する方向で進めることが基本のはずだ。
教委の在り方をめぐっては、いじめを苦にした自殺への対応などから批判が一気に高まったが、形骸(けいがい)化、責任の所在の不明確さをはじめ、さまざまな問題が以前から指摘されている。
何よりも必要なのは、国と地方の関係、首長と教委、教育長の関係などを明確にすることだ。見直し案はただ「明確化する」と記すだけで、どのような制度を目指すのか見えない。
教委の自己点検評価の公表、教育委員一人一人の活動状況の公表、外部評価委員会の設置なども盛り込まれたが、役割や責任が明確にならなければ、評価のしようもない。
首相は教育再生を政権の最重要課題とし、今国会に地方教育行政法改正案など教育関連三法案の提出を予定している。いずれも極めて重要な法案となる。拙速であってはなるまい。
河北新報 2007年2月9日
教育改革三法 国の権限強化には疑問
これまで進めてきた地方分権に逆行しかねない問題をはらんでいるのに、政府のこの急がせようは少しむちゃではないか。
官邸主導であわただしくまとめられた教育再生会議の報告をもとに、伊吹文明文部科学相は中央教育審議会に教育改革関連三法について、来月初めまでには答申をまとめるよう要請した。今国会で成立させたいとの安倍晋三首相の強い意向によるものだ。
政府は、再生会議の報告を受け(1)教員免許更新制を導入する教育職員免許法改正案(2)教育委員会制度見直しのための地方教育行政法改正案(3)副校長・主幹など中間管理職を新設するための学校教育法改正案、の三法案の今国会での成立を目指している。
ただ、文科省は、教育についての重要な政策を進めるときには、内容や方向性を中教審に諮問するという手順を必ず踏んできた。その中教審の審議は少なくとも数カ月を要してきた。
今回は、首相官邸に設置した再生会議が、非公開の審議で報告してきた中身を受けての、「老舗」の中教審のメンツを傷つけかねないような異例の展開である。再生会議の報告も、どれだけ深い議論を経て生まれたのか、自民党内にも疑問が出ている。それを中教審で一カ月で結論を出せという。安倍政権は成果を焦りすぎ、強引で拙速な手法に陥ってはいないか。教育が選挙対策の道具に乱暴に使われているようにも思える。
中教審も劇作家の山崎正和氏が新会長になり、委員も半数が入れ替わったばかり。短期間で百年の大計が検討できるとは思えない。
しかも、再生会議が先日、追加報告した教育委員会制度の見直し案は、教委への是正の勧告や指導の権限を文科相に与えている。一九九九年の地方分権一括法に伴う地方教育行政法改正で文相(当時)の是正措置権限を削除したばかりである。国の再生には画一化された人材より、地域性豊かな多様な能力が必要である。国の権限強化はその流れに逆行する。
先進国でも日本は、国内総生産(GDP)に対する教育費の公的支出の割合は最低レベルにあると指摘されている。教育の再生を声高に言う前に、教育予算を思い切って増額する姿勢を見せるべきだろう。精神論を振りかざし、中央統制を強めることは、教育の根っこをかえって委縮させる。中教審の根っこを外さない慎重な議論を期待したい。
中国新聞 2007年2月9日
急いては事を仕損ずる 教育再生法案
安倍晋三首相が教育再生会議の第1次報告に基づいて教育関連三法の改正案を今国会へ提出すると表明したのを受け、文部科学相の諮問機関、中央教育審議会(中教審)で議論がスタートした。
地域の教育に責任を負う教育委員会の目的と任務を明確にするため、教育委員会制度を抜本的に見直す。不適格教員に厳しく対応するため、教員免許の更新制を導入する。学校の管理・運営体制を確立するため、副校長や主幹などの管理職を新設する。
そうした「公教育の再生」に向けて、地方教育行政法、教員免許法、学校教育法の三法改正を目指すという。
いずれも教育制度の根幹にかかわり、教育現場に直結する重要な問題である。十分に議論を重ね、現場の声もくみ上げながら、国民的な合意を形成していく必要があるはずだ。
ところが、伊吹文明文科相は中教審に「2月中か3月早々には答申をまとめてほしい」と要請した。今国会を「教育再生国会」と位置付け、改正案の成立に執念を燃やす首相が、予算関連以外の法案提出期限とされる3月中旬までに法案を提出するよう文科相へ指示したからだ。
今月から委員の半数が入れ替わり、新会長に劇作家の山崎正和氏が就任したばかりの中教審で審議する期間はわずか1カ月程度ということになる。こんな短期間で結論を出せ‐とは乱暴ではないか。
確かに、教育委員会制度の見直しや教員免許の更新制については中教審が過去、時間をかけて審議し答申した下地がある。だからといって、異例のスピード審議を求める大義名分とはならない。
教育再生会議の報告には当然、中教審答申にはなかった考え方も盛り込まれている。例えば、教育委員会制度の見直しでは、法令違反や「著しく適正を欠き教育本来の目的達成を阻害している」と認められる場合、教育委員会に対して是正の勧告や指示ができる権限を文科相に与える‐と新たに提言した。
だが、この報告は地方分権一括法で廃止された国の教委に対する指導権限を事実上復活させることになる。中教審総会で地方代表の委員が「地方分権に逆行する」と早々と反対意見を表明し、全国知事会など地方団体が即座に声明を出して「国の教委への統制を強化し、分権一括法による改正前の教育行政に後戻りさせかねない」と反発したのも無理はない。
スピードの大切さも否定はしないが、こうした異論や反論にも耳を傾け、よりよい改革案を練り上げていく努力が求められている。そうした姿勢こそが「社会総がかりで教育再生を」と訴える教育再生会議のメッセージと共鳴するし、また、中教審に寄せる国民の期待と信頼に応えることにもつながるのではないか。
時の政権の都合や国会の政治日程を優先するようでは、明らかに本末転倒と指摘せざるを得ない。
西日本新聞 2007年2月9日
体罰基準通知 力に頼る指導でいいのか
なぜいまごろ六十年近くも前の体罰基準を持ち出してくるのか、さっぱり理解できない。文部科学省が五日通知した「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について」のことである。
初等中等教育局長名で出された通知は、校内暴力やいじめ、学校秩序の破壊などに対して「毅然(きぜん)とした指導」を求める内容だ。体罰の範囲を明確にして、現場の教師らに「萎縮(いしゅく)するな」とげきを飛ばすのが狙いである。
通知の下敷きになっているのは、一九四八年に出された「児童懲戒権の限界について」と題する旧法務庁の見解だ。そこでは殴る、けるなどの暴力行為や肉体的苦痛を与えるような懲戒を禁じた上で、「機械的に体罰かどうかを判定することは困難」としている。
体罰の範囲については教育再生会議が年度内に見直し案を示す予定だ。今回の通知は旧法務庁見解をほぼ踏襲した形で、再生会議の方向とは明らかに異なる。これでは現場が混乱する。
最大の問題点は「ここまでは体罰ではないから厳しくやれ」と示唆していることである。荒れる教室を鎮めるためには強制力が必要だという発想は教育的とはいい難い。
いじめや教室の荒れが起きる根本原因をえぐり出すことなしに、教育の再生は語れまい。教師が権威を振りかざせば、子どもたちの間に蔓延(まんえん)する「力の論理」を助長するだけだ。
学校教育は教師と子どもの信頼関係の上に成り立つ。その基本がぐらついているから、いじめが見抜けず、荒れが起きるのではないか。罰当番を命じたり、立たせたりすることで解決できるほど問題は単純ではない。
文科省が「毅然とした指導」を求めたのは、教育行政の貧困ぶりと学校の教育力低下を白状するようなものである。「体罰の範囲」をあらためてマニュアル化しなければならないほど現場の判断力が鈍っているのだ。
二〇〇五年度に体罰を理由として懲戒や訓告を受けた教師は全国で四百四十七人に上る。交通事故以外の個別処分理由では最も多い。児童生徒への締め付けを強化するより、体罰を一掃することが先決である。
昨年改正された教育基本法は六条二項に「学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」と明記した。今回の通知はそれを具体化したものといえる。
教育再生の第一歩が、体罰基準の徹底とは時代錯誤も甚だしい。踏み出す方向が間違っているといわざるを得ない。いじめや暴力がさらに教師から見えにくくなる恐れもある。
文科省は「体罰かどうかは諸条件を客観的に考慮して判断されるべきだ」と肝心な点は現場任せにした。有害無益な通知というべきである。
新潟日報 2007年2月8日
いじめ問題 避けたい教育現場の負担増
文部科学省はこのほど、学校でのいじめの加害者に対して、必要であれば出席停止の措置を取り、学校や教育委員会が地域社会の理解が得られるよう支援することを求める通知を出す方針を固めた。
これに加え、「授業中に起立させたり放課後に教室に残すのも体罰ではなく、教室の秩序維持のために教室外に退去させることも差し支えない」などとする通知も出す。学校や教師の指導権を強化することで、子どもの問題行動を予防する効果を求めたものとみられる。
ただし、教育現場が抱え込まされている問題には複雑な背景があり、文科省の意図通りに成果が挙がるのかどうか、疑問点が多い。いじめの加害者を一時的にせよ出席停止にすることに有効な場合はあろうが、いじめの加害と被害の関係が変化しやすいことも現場の常識で、教師は対応に悩むだろう。
二日には、千葉県で、中学二年の男子生徒が飛び降り自殺した。この生徒は、他の生徒と共に同級生をいじめて骨折させたため、学校から指導を受けていた。これまでは、いじめられる側の生徒で、いじめに加わったのは初めてだったという。自分のいじめ被害について苦しんだ記録が自殺現場に残されていた。いじめられる孤立感に耐えかねていじめる側に加わったのだろうが、相手の気持ちが分かるだけに自責感を深めたようだ。
いじめは、子どもが自我の確立を行う過程で起こりやすい問題である。熊本県教委が六日に発表した「いじめ緊急アンケート」でも、県内の小・中・高校生の15%、約三万人が「今の学年(二〇〇六年度)になっていじめを受けた」と回答した。いじめの定義にもよるが、日常的な現象であることが分かる。「誰にも相談していない児童生徒」が30%以上もいたことにも注目すべきだ。
いじめは学級や学年の垣根を越えて起こる場合も多く、教師集団の協力体制がなければ対応が難しい。出席停止にすれば、生活の指導や補習が今まで以上に必要となろう。また、家庭内の事情が絡むこともあり、臨床心理士、ソーシャルワーカーなど専門家の介入が必要な場合が少なくない。
今、学校や地域社会に、それを行うだけのマンパワー(人材)や精神的な余裕があるのだろうか。
安倍晋三首相は、「教育再生」を内閣の最重要課題に掲げるなど、教育の危機を盛んに訴えている。これには、内閣への国民の求心力を高めようという狙いもあるようだが、その認識も対応策も皮相的で、説得力に乏しい。安倍首相や教育問題担当の山谷えり子首相補佐官に対しては、学校や教育委員会からも「教育への理解が偏っており、現場の負担増と疲労感を理解していない」という反発の声が強まっている。
いじめは教育現場が長く苦しんでいる問題で、何よりも教師と児童生徒の信頼関係を深めることが対応の基本となる。教師への評価制度も拡充する方針というが、教師の競争的環境を強化することが教師集団の協力の充実を促すのだろうか。むしろ、教師を孤立させ、子どものいじめも隠すような傾向を招きはしないかと危ぐする。現場の余裕を取り戻すような本格的な対策を求めたい。
熊本日日新聞 2007年2月8日
「美しい国」づくり まず安倍政権が襟正せ
人は「美しい」という言葉に弱い。まして「美しい国」といわれたら、思わず引き込まれてしまいそうになる。
しかし、何が美しいかは人さまざまである。それこそ千差万別、星の数ほどあるといっても差し支えないだろう。
美しい国となればなおさらだ。景観の美しさというのなら分かりやすい。しかし、政治や経済の営み、暮らし向きまで考慮に入れると、どんな国なのか曖昧模糊(あいまいもこ)としてくる。
実際、安倍晋三首相が掲げている美しい国づくりは、いまだ明確とはいい難い。美しいというイメージが先行、肝心の中身が具体性を欠き、いまひとつ分かりにくいのである。
それでも安倍首相が目指しているであろう美しい国づくりの一端がほの見えなくはない。
北朝鮮に対する強硬姿勢がおそらく、安倍首相の体質を最もよく表している。「勇敢さ」が首相の美意識に深く刻印され、国もそうあらねばならないと信じているに違いない。
勇敢さや力強さは経済のかじの取り方にも表れている。経済のパイを大きくする成長路線によって「強い日本」をつくろうというのである。
何といっても真骨頂は、安倍首相自身が最重要と位置づける教育改革であろう。
美しさの感じ方が十人十色とはいえ、いまの教育を美しいという人はいないはずだ。改革が急を要するのは明らかだ。
問題は改革の手法と中身にある。教育基本法の改正にしろ、諮問機関の教育再生会議に対してにしろ、首相のやり方には「強引さ」が目立つ。
再生会議の第一次報告には不適格教員の排除やいじめをする子供の出席停止が盛られた。「排斥の論理」が色濃いと見ざるを得ないのである。
安倍首相の理想、つまりは美しさを求めるあまり、果敢な改革意欲が教育には到底なじまない「強引な排斥」につながっているとも受け取れよう。
政策的にはこれだけ勇猛果敢、ときには強硬・強引でありながら、安倍政権や自民党の在り方と見比べると、大きな矛盾があることに気がつく。
政権や党内の身内や仲間には甘いのである。安倍政権の成立根拠を失いかねないにもかかわらず、安倍首相は郵政造反組議員の復党を容認した。
最近は女性を「産む機械」に例え、さらに「子供は2人以上持つのが健全」と発言、批判をあびる柳沢伯夫厚労相をかばい、嵐がすぎるのを待つ気配だ。
「産む機械」発言は美醜を通り越している。国民一人一人への慈しみを忘れ、女性を国のために尽くさせようという国家中心の思考が見え隠れする。
政治が「奇麗事」では済まず、「清濁併せのむ」ことが必要な場合もあるに違いない。
しかし、美しい国づくりをいいだしたのは安倍首相なのだ。まず安倍政権が醜さや濁りを取り払い、政治を美しくしていかなければ、美しさは国全体へとは広がり得ない。
不適格な教員や子供を排除するというのなら、なぜ不適格な閣僚を排除しないのか。国民に厳しく身内に甘くでは政権の行く末は知れている。
秋田魁新報 2007年2月7日
体罰の範囲明示・教師の指導力を信じたい
居残り指導は許される。教室の秩序維持のためなら教室外で別の指導を受けさせることは体罰に当たらない。
学校教育法で禁じられている体罰の範囲を、文部科学省がこんなふうに具体例を挙げて明示した。全国の教育委員会に通知するという。
体罰をめぐっては、親や教師の間にも多様な意見がある。肯定派と否定派に二分できるほど単純ではない。そこに体罰をめぐる問題の難しさも潜んでいる。
ケースによっては、肯定派、否定派同士の間でさえ見解が分かれることは十分にあり得る。教師や親の教育観、人生観などにも深くかかわってくるからだ。
文科省は、指針をまとめた理由を「見直しではなく過去の基準に沿った内容。教員が指導の際、過度に委縮しないために範囲を明示した」と説明している。
政府の教育再生会議が先月、体罰禁止基準の見直しを提言したことを受けたものと思われるが、それにしても、なぜこの時期で体罰の指針なのか。文科省は先に「いじめの定義」の見直し案もまとめている。
見解では、体罰であり許されないケースとして「なぐる、ける、長時間立たせるなど、肉体的苦痛を与える行為」を例示した。
一方では、他の児童生徒の教育権を保障することが目的であれば、居残り指導は懲戒として容認されるとした。
なぐる、けるなどの暴力行為は当否を論じるまでもない。気になるのは、精神的苦痛には触れられていないことだ。肉体的苦痛と精神的に感じる苦痛は、別物ではないだろう。通知によって、教師がかえって判断に戸惑うことにならないか心配だ。
教師は「教え」「諭す」プロだ。学校の中の約束やルールに反した行為には、子どもを叱(しか)ることや事後のケアなど、教師は指導の「さじ加減」を身に付けているに違いない。
教師の指導力も、ゆとりがなければ磨かれまい。文科省には通知を出す前に、教育現場の環境整備などにもっと注力してほしい。
琉球新報 2007年2月4日