全国紙社説(2007年1〜3月)


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集団自決―軍は無関係というのか

高校生が使う日本史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自決」が軒並み修正を求められた。

「日本軍に強いられた」という趣旨の記述に対し、文部科学省が「軍が命令したかどうかは、明らかとは言えない」と待ったをかけたのだ。

教科書の内容は次のように変わった。

日本軍に「集団自決」を強いられた→追いつめられて「集団自決」した

日本軍に集団自決を強制された人もいた→集団自決に追い込まれた人々もいた

肉親が殺し合う集団自決が主に起きたのは、米軍が最初に上陸した慶良間諸島だ。犠牲者は数百人にのぼる。

軍の関与が削られた結果、住民にも捕虜になることを許さず、自決を強いた軍国主義の異常さが消えてしまう。それは歴史をゆがめることにならないか。

この検定には大きな疑問がある。

ひとつは、なぜ、今になって日本軍の関与を削らせたのか、ということだ。前回の05年度検定までは、同じような表現があったのに問題にしてこなかった。

文科省は検定基準を変えた理由として「状況の変化」を挙げる。だが、具体的な変化で目立つのは、自決を命じたとされてきた元守備隊長らが05年、命令していないとして起こした訴訟ぐらいだ。

その程度の変化をよりどころに、教科書を書きかえさせたとすれば、あまりにも乱暴ではないか。

そもそも教科書の執筆者らは「集団自決はすべて軍に強いられた」と言っているわけではない。そうした事例もある、と書いているにすぎない。

「沖縄県史」や「渡嘉敷村史」をひもとけば、自決用の手投げ弾を渡されるなど、自決を強いられたとしか読めない数々の住民の体験が紹介されている。その生々しい体験を文科省は否定するのか。それが二つ目の疑問だ。

当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務めていた富山真順さん(故人)は88年、朝日新聞に対し、自決命令の実態を次のように語っている。

富山さんは軍の命令で、非戦闘員の少年と役場職員の20人余りを集めた。下士官が1人に2個ずつ手投げ弾を配り、「敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」と命じた。集団自決が起きたのは、その1週間後だった。

沖縄キリスト教短大の学長を務めた金城重明さん(78)は生き証人だ。手投げ弾が配られる現場に居合わせた。金城さんまで手投げ弾は回ってこず、母と妹、弟に手をかけて命を奪った。「軍隊が非戦闘員に武器を手渡すのは、自決命令を現実化したものだ」と語る。

旧日本軍の慰安婦について、安倍政権には、軍とのかかわりを極力少なく見せようという動きがある。今回の文科省の検定方針も軌を一にしていないか。

国民にとってつらい歴史でも、目をそむけない。将来を担う子どもたちにきちんと教えるのが教育である。

朝日新聞 2006年3月31日

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教科書検定 歴史上の論争点は公正に記せ

諸説ある史実は断定的には書かない、誤解を招くような表記は避ける。文部科学省が求めたのは、そんな当たり前の教科書記述だったと言える。

来年春から高校で使われる教科書の検定結果が公表された。

終戦の年の1945年、沖縄戦のさ中に起きた「集団自決」をめぐる記述が一つの焦点になった。

日本史教科書を申請した発行社6社のうち5社の記述に、それぞれ「沖縄戦の実態が誤解されるおそれがある」との検定意見がついた。「集団自決」について、「日本軍が追い込んだ」「日本軍に強制された」などと表記していた。

「日本軍が」の主語を削り、「集団自決に追い込まれた人々もいた」などと修正することで結局、検定はパスした。

今回、文科省が着目したのは「近年の状況の変化」だったという。

70年代以降、軍命令の存在を否定する著作物や証言が増えた。一昨年には、大江健三郎氏の著書に命令した本人として取り上げられた元将校らが、大江氏らを相手に名誉棄損訴訟を起こしている。

生徒が誤解するおそれのある表現は避ける、と規定した検定基準に則して、今回の検定から修正要請に踏み切った。妥当な対応だったと言えよう。

ただ、昨年度検定の高校教科書などには、こうした表記が残っている。文科省は速やかに修正を求めるべきだ。

「南京事件」は7社が日本史、世界史で取り上げた。うち4社の犠牲者数について、「諸説を十分に配慮していない」との意見が付いた。

「10数万人」「20万人以上」「中国側は30万人、という見解」――。一方に「1〜2万人」や「4万人」といった学説がある中で、各社の記述は数字の大きな犠牲者数に偏っていた。

「例年、検定意見が付くとわかりながら、大きな犠牲者数のみを書いてくる発行社がある。ゲーム感覚なのか」と文科省。とても教科書作りの場にふさわしい姿勢とは言えない。

「従軍慰安婦」をめぐる記述は6社が取り上げたが、検定意見は一つも付かなかった。昨年までは、日本軍が慰安婦を強制連行した、といった記述に「誤解を招く」などの意見が付いていた。

発行社側が意見の趣旨を理解したことの表れなのかどうか、注視したい。

一方で、最近の慰安婦問題をめぐる国内外の論争が、今後の検定に微妙な影響を及ぼすことを懸念する声がある。

政治や外交などに翻弄(ほんろう)されることなく、客観的で公正な記述の教科書を、学校現場に届けたいものだ。

讀賣新聞 2007年3月31日

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教科書検定 沖縄戦悲劇の本質を見誤るな

文部科学省の教科書検定・高校日本史で、沖縄戦の記述に相次いで検定意見が付き、表現が修正された。戦いのさなかに各地で起きた住民の集団自決について、日本軍によって強制されたり、追い込まれたりしたとするのを「軍の強制は明らかとはいえない」という理由で改めさせたのだ。

元軍人の裁判や強制に否定的な出版物などがきっかけになったというが、これについての文科省の見解の転換は初めてとみられ、波紋は大きい。

まず気になるのは、「強制」についての考え方だ。

個々の惨劇に系統だった「命令」のような記録は残らない。しかし、軍から食糧を奪われ、避難壕(ごう)からも追い出された住民たちは「鉄の暴風」といわれた砲爆撃の野にさまよい、そうした人々が集団自決にも追い込まれた。

1945年春、硫黄島陥落の後始まった沖縄戦で、日本軍守備隊は基本的に持久戦法を採用し、「敵を引きつけ、本土進攻を遅らせる」時間稼ぎに努めた。

例えば、沖縄本島の主な激戦地は南部で、当初、一般住民は九州本土や本島北部に疎開させる計画もあったが十分に進まず、ついに日本国内で初めて住民を無制限に巻き込んだ地上戦を3カ月にわたって展開することになった。

守備隊の作戦の最大の目的は「本土決戦準備」の時間を少しでも長くすることであり、「住民保護」の態勢や発想は薄い。要とした首里戦線が持ちこたえられず、軍がここを放棄して本島南端に向かって退却を始めたころから、住民の犠牲者は急増した。

また将兵はもとより、住民たちも「投降」は考えることも許されなかった。日本中がそう教育され、刷り込まれていた時代である。軍は雪崩を打つように南へ敗走し、最終段階では軍属の人々も放置して崩壊した。

こうした流れや無責任な全体状況は、死を選ぶしかないほど人々の心身を追い込んだとみることもでき、「強制は明らかでない」と言い切れるものだろうか。

また沖縄戦は、ここから歴史、社会、地理、文化などさまざまな学習テーマを見いだすことができる。次世代が学び継いでいくべき内容は尽きない。だが総じて教科書では切り詰めた書き方になる。学習指導要領に沿って編集される検定教科書はどうしても「項目にできるだけ漏れのない」均等割り的な記述になりやすい。

いっそのこと、高校では検定を廃止し、教材を学校・教師・生徒に任せることを検討してみてはどうだろうか。例えば、沖縄戦を一つの核にして、学習テーマを総合的に広げていくという長期授業の試みがあってもいい。

昨秋明らかになった大量履修不足問題は、大学入試に関係なければ歴史学習に関心や意欲がわかないという高校生が少なくないことを示した。指導要領にも問題がある。新しい大学入試のあり方とともに、検定というタガを外した高校の教科学習を本腰を入れて考える時にきているのではないか。

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沖縄戦 新検定方針を評価したい

来春から使われる高校教科書の検定結果が公表され、第二次大戦末期の沖縄戦で旧日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする誤った記述に初めて検定意見がつき、修正が行われた。新たな検定方針を評価したい。

集団自決の軍命令説は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』に記され、その後の刊行物に孫引きされる形で広がった。

しかし、渡嘉敷島の集団自決について作家の曽野綾子さんが、昭和40年代半ばに現地で詳しく取材し、著書『ある神話の背景』で疑問を示したのをはじめ、遺族年金を受け取るための偽証が基になったことが分かり、軍命令説は否定されている。

作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などには、座間味島や渡嘉敷島での集団自決が、それぞれの島の守備隊長が命じたことにより行われたとする記述があり、元守備隊長や遺族らが、誤った記述で名誉を傷つけられたとして訴訟も起こしている。

軍命令説は、信憑(しんぴょう)性を失っているにもかかわらず、独り歩きを続け、高校だけでなく中学校の教科書にも掲載されている。今回の検定で「沖縄戦の実態について誤解するおそれがある」と検定意見がつけられたのは、むしろ遅すぎたほどだ。

沖縄戦を含め、領土、靖国問題、自衛隊イラク派遣、ジェンダー(性差)などについても、一方的な記述には検定意見がついた。検定が本来の機能を果たしつつあると思われる。

前進ではあるが、教科書にはまだまだ不確かな証言に基づく記述や信憑性の薄い数字が多いのも事実だ。

例えば南京事件の犠牲者数は誇大な数字が書かれている。最近の実証的研究で「10万〜20万人虐殺」説はほとんど否定されており、検定では諸説に十分配慮するよう求めている。

その結果、「数万人」説を書き加えた教科書もあるが、相変わらず「30万人」という中国側が宣伝している数字を記述している教科書はある。

子供たちが使う教科書に、不確かな記述や数字を載せるのは有害でしかない。教科書執筆者、出版社には、歴史を楽しく学び、好きになれる教科書づくりはむろんだが、なによりも実証に基づく正確な記述を求めたい。

産経新聞 2007年3月31日

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分権の理念かすむ教委改革

「教育委員会の運営が法令に違反したり、著しく不適正な場合は国が教委に是正勧告や指示ができるようにする」。こんな提言を多数意見として明記した答申を、中央教育審議会が伊吹文明文科相に提出した。

答申の文言だけを見れば、教委によほどの逸脱があった場合にのみ発動される「伝家の宝刀」的な規定を想定している。その限りでは、国がこうした権限を持つことをやみくもに否定する必要はないだろう。

しかし問題は少なくない。さきに教育再生会議がこの方向を打ち出すと規制改革会議や全国知事会などが猛反発し、中教審でも意見がまとまらず異例の両論併記になった。

そこには、文科省が是正勧告・指示権を背景に上意下達の統制を強めるのではないかという危惧がある。運用が本当に「伝家の宝刀」にとどまるのかとの不信感も根強い。今回の答申には、こうした懸念をぬぐい去るだけの説得力は欠けている。

そもそも、教委に対し国の介入を認める規定は2000年施行の地方分権一括法で廃止されている。ところが、いじめ自殺や高校などでの未履修問題を機に国の権限強化論が勢いづき、文科省はこれに乗って再生会議や中教審での議論の流れをつくった。経緯を振り返れば、権限膨張を狙う文科省の思惑は明らかだ。

同省は、教育長の任命に国が関与する案や、私学を教委の指導下に置く案も中教審に示していた。これらを答申から退けたのは妥当な判断であり中教審の対応を評価したいが、あえてこうした案を持ち出したこと自体、分権の流れに対する文科省の根深い抵抗姿勢をうかがわせる。

政府・与党は、中教審答申を受けて今月中にも地方教育行政法などの改正内容を決める。改正案づくりにあたっては、文科省への是正勧告・指示権付与に様々な懸念がつきまとっていることを踏まえ、慎重な取り扱いに努めるべきである。

教委をめぐっては、自治体の設置義務を撤廃し、首長部局が権限と責任を持つことも可能にすべきだとの主張がある。検討に値する構想だがあまり顧みられず、分権の理念はかすんでいる。教委改革は今回で終わりではない。今後、こうした考え方も正面から議論する必要があろう。

日本経済新聞 2007年3月13日

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中教審答申 再生へ国と教委は協力を

教育再生3法改正案の骨子となる中央教育審議会の答申がまとまった。公教育の信頼回復のため、緊急に必要な制度改革であり、早急に実現してほしい。

3法改正案のうち、議論が分かれて問題となったのは、「地方教育行政法」改正案だ。教育委員会に対する文部科学相の是正指示など国の権限強化をめぐって、地方分権の流れに反すると、中教審委員のなかでも反対論が起きたのである。

しかし、いじめ問題で明らかになったように、教育委員会が機能していない現状に対する危機感は、多くの委員が共有しているはずだ。

答申では焦点となった文科相の是正指示権について、「児童生徒の生命、身体の保護」「教育を受ける権利の侵害」などに発動要件も限定している。教育委員会が、いじめや未履修、学級崩壊を放置するなど著しい法令違反があった場合、国の責任を明確にしたもので、安倍晋三首相が法案に盛り込むよう指示したのは当然だろう。

逆に、教育委員会が責任を持って教育改革を進め、公教育再生に取り組んでいる事例は多い。京都市では、学校の自由参観など家庭・地域との連携策のほか、市立堀川高校が進学実績を上げ「公立復権」が全国から注目されている。教育長らがリーダーシップを発揮し、学校の特色をうまく引き出したのである。

国と教育委員会が協力しなければ、教育改革は進まない。

他の「学校教育法」「教員免許法」2改正案も、校長を支える副校長の制度など学校運営を円滑にし、教員の資質向上を促すものだ。一部の教職員組合などから「管理強化」「教員の負担が増える」などの反対もあるが、これでは保護者から共感は得られまい。

答申は、政府の教育再生会議の提言を受けたもので、法案の今国会提出のため、時間が限られ、拙速だという意見もある。しかし、教育施策は、長く先を見通した議論が必要なのは当然とはいえ、中教審の議論は時間がかかりすぎるという批判も強かった。

公教育再生は喫緊の課題だ。学校や家庭、地域全体が連携して教育再生を実現していくため、中教審は再生会議とともに、さらに建設的な教育再生策を考えなければならない。

産経新聞 2007年3月13日

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中教審答申 教育改革論議を加速させよ

1か月足らずの、駆け足審議だった。国の権限強化を狙った文部科学省の強い姿勢もあって終盤に議論は迷走しかけた。だが、中央教育審議会は、どうにか教育改革関連3法案の骨格をまとめ上げた。

安倍首相は、今国会に速やかに法案を提出し、中身の濃い教育論議を繰り広げてもらいたい。

もめたのは、地方教育行政法改正案に関する審議だ。教育委員会に対する国の権限強化が最大の論点になった。

いじめや未履修問題での、一部教委の対応のまずさを念頭に、教育再生会議は教委に対する文科相の是正勧告・指示権限の付与を提案した。都道府県教委の教育長任命にも文科相が関与できるようにすべし、との考え方も示していた。

この文科相の二つの権限は、1999年の地方分権一括法制定を受けて廃止されている。国の関与の縮減など分権化が教育の面でも進められたわけだ。

政府の規制改革会議は、権限の復活はそうした分権の流れに逆行するものだと反論した。全国知事会、全国市長会など地方6団体も同調した。

文科省の姿勢は強硬だった。

再生会議の提案に沿い、二つの権限復活を明示した改革案を中教審に示した。教委が私立学校に指導・助言できるようにすることなども盛り込んだ。

「国の強い関与は疑問」と、中教審委員には異論が多かった。与党内からも「文科省は、やりすぎだ」との声が出た。

中教審は結局、教育長人事への国の関与と私学への「指導」は事実上、見送り、是正勧告・指示権の復活は認めた。

「これで十分、成果はあった」という受け止め方が文科省内にはある。うまく再生会議や中教審を主導できたというのだろうが、やや強引だったとの印象はぬぐえない。

答申では、教員に10年ごとの講習を義務づける免許更新制を盛った教員免許法改正案などの骨格も示されている。不適格教員に対する人事管理の厳格化も盛り込まれた。問題教師を教壇に立たせないため、各教委が適切な対応のできるよう、しっかりした法整備が必要だ。

改正教育基本法の理念に沿った学校教育法の改正案では、小中学校の目標規定に「我が国と郷土を愛する態度」を養うといった項目も加えられる。

学習指導要領の改定作業も本格化するだろう。「授業時数増」「小学校の英語」など検討すべきテーマは多い。

中教審は、今後の議論の中でも、教育改革の様々な課題について随時、意見を述べていってもらいたい。

讀賣新聞 2007年3月11日

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中教審答申 論議はまだ尽くされていない

歯切れが悪い。中央教育審議会の答申は、焦点の教育委員会への国の是正勧告・指示権限に関して賛否両論併記という異例の内容になった。最終判断は安倍晋三首相に預けた格好である。

諮問を受けてわずか1カ月余の集中審議。何をそんなにあわただしく、と言いたくなる。今国会に関連法改正案を提出したい首相の意を受けたのだが、待ってほしい。意見が分かれているなら、もっと論議を重ね、ていねいに時をかけて国民の理解や納得を得る努力を怠ってはならない。

教委改革が持ち上がったのは、昨秋から相次いだいじめ自殺や大量履修漏れ問題が大きなきっかけだった。教委の対応のずさんさ、問題隠ぺい、チェック機能の甘さなどが露呈し、委員が名誉職のようになって組織が形がい化している所も少なくないと指摘された。

だが制度が原因で問題が起きたのか。そうではなく、きちんと機能していなかったのだ。その意味で教委の責任自覚が必要だが、では国が介入すれば機能するのか。国は有能で規範性が高く、地方はその指示に従えばいいというほど問題は単純ではない。第一、履修漏れについては文部科学省も早くに実情の一端を察知していながら適切な対応ができず、本省から各地の教委に出向している官僚たちも見過ごしていたではないか。

また一連の教育改革論議が混乱気味であわただしく感じられるのは、さまざまな会議が林立し、方向性がまちまちなためでもある。中教審、再生会議のほか、政府の規制改革会議、自民党の教育再生特命委員会、自民・公明両党の与党教育再生検討会……。教育に関しては議論が多様で活発なのはいいことだが、テーマや課題で分担をしないと国民は戸惑う。そして手間をかけてもきちんと集約していく粘り強い意思が必要だ。

法を改め、制度をいじれば、それだけで教育問題が解決するわけではない。例えば、一般に授業を増やせば学力問題は改善するという論議があるが、首をかしげる現場の先生は少なくない。子供たちの生活全般にわたる意欲の低下を指摘し、これが根本的な問題とみる声も多い。「早くに総がかりで取り組むべき緊急の課題」とは実はこちらにあるとも思えるのだが、どうも首相は法や制度という形にこだわるように映る。

ちょうど60年前の1947年3月18日。義務教育6・3制発足を前にした国会で、当時の文部省学校教育局長は、戦災で教科書も与えられない子供たちの窮状を報告しながら声を上げて泣いた。豊かさの奥に底なしの荒廃を内包したような今日の教育状況を改善するにも、やはり子供をはぐくむことへの熱い思い入れや愛情が出発であることに昔と変わりない。

今回の中教審答申で文科省が法改正案を急ごしらえし、舞台を国会審議に移すとしても、常にそこに立ち返って考えてほしい。法改正自体が目的ではない。何のためにするか。何が今子供に必要か。そこがぼんやりしたまま形ばかり作っても、空疎だ。

毎日新聞 2007年3月11日

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君が代伴奏拒否 最高裁判決は当たり前だ

公立小学校の音楽教諭が、入学式で校長から君が代伴奏の指示を受けたことが、思想・良心の自由を侵害したことになるのかどうか。最高裁第3小法廷は「憲法違反ではない」との初判断を示し、教諭側の敗訴が確定した。

国旗掲揚、国歌斉唱をめぐっては、拒否した教職員が教育委員会から懲戒処分を受け、処分取り消しを求める訴えが全国で起きている。下級審で判断が分かれているだけに、最高裁の判断がこれら一連の訴訟に大きな影響を及ぼすことは必至だ。

今回の最高裁判決は、1・2審の判断をほぼ踏襲した極めて常識的なもので、当然の結果であろう。

女性教諭は平成11年4月、東京都日野市の小学校入学式で校長から、君が代斉唱のピアノ伴奏を指示された。しかし、「校長の職務命令は、思想・良心の自由を侵害する」と憲法違反を主張して伴奏を拒否、結局、君が代斉唱の伴奏は録音テープで行われた。

このため都教委は、地方公務員法違反(職務命令違反、信用失墜行為)で教諭を戒告処分にした。教諭はこれを不服として、懲戒処分取り消しを求める行政訴訟を東京地裁に起こしたのが発端である。

教諭は、裁判で君が代斉唱でピアノ伴奏しないのは、「歴史観、世界観だ」と主張したが、この点について最高裁は、「直ちに教諭の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではない」とし、「校長の伴奏命令は、思想・良心の自由を定めた憲法19条に反するとはいえない」と結論付けた。

この音楽教諭の主張は、どうみても理解しがたい。たしかに、思想・良心の自由は憲法で保障されている。教諭といえども、どのような思想を持つかは自由である。

しかし、女性教諭は市立小学校の音楽教諭というれっきとした地方公務員であることを、全く自覚していない。入学式という学校の決められた行事で君が代を斉唱するさい、ピアノ伴奏をすることは音楽教諭に委ねられた重要な職務行為ではないか。

校長がピアノ伴奏を命じたのは、職務上当たり前の行為である。これが「憲法違反だ」というのは、あまりにも突飛(とっぴ)で自分勝手な論理である。これでは到底国民の支持も得られまい。

産経新聞 2007年2月28日

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「君が代」判決 『思想・良心』の侵害はなかった

君が代のピアノ伴奏を拒んだ教師に対する校長の職務命令に権利侵害はなく、合憲――。最高裁は、そう判断した。

一連の国旗・国歌訴訟の中で最高裁判決は初めてだ。教育現場の国旗・国歌指導をめぐる混乱に一定の歯止めがかかることが期待される。

東京・日野市立小学校の音楽教師だった女性が8年前、入学式で君が代のピアノ伴奏を拒み、都教育委員会から懲戒処分(戒告)を受けた。

「日本のアジア侵略と結びついた君が代は、斉唱も伴奏もできない」。そんな思想・良心の自由が校長の憲法違反の職務命令で侵害された、だから処分を取り消せ、と女性は訴えていた。

1、2審とも請求は退けられた。

公務員たる教師には全力で職務遂行に専念する法律上の義務があり、思想・良心の自由も制約を受ける。女性への職務命令は合理的範囲内のもので懲戒処分も適法だ。そんな内容の判決だった。

最高裁は、まず女性の言う思想・良心の実態を検討し、「君が代についての女性自身の歴史観、世界観、社会生活上の信念だ」と位置づけた。

その上で伴奏を命じた職務命令について、「女性の歴史観や世界観を否定するものではない」「特定思想を強制したり禁じたり、思想の有無の告白を強制したりするものでもない」とした。

教師には、公務員として上司の職務命令に従う義務があること、学習指導要領などの法規で国旗・国歌の指導が定められていることなどを考え合わせ、職務命令を合憲とした。妥当な判決だろう。

国歌斉唱時に起立しない、歌わないなどして処分された教師らが起こした他の訴訟への影響は必至だ。東京で10件など全国で十数件の同種訴訟があり、延べ千人近くの教師らが原告になっている。

昨年9月、東京地裁で特異な判決が出た。都立高校の入学式などでの国歌斉唱を義務づけた都教育長の通達と校長の職務命令が、教師の思想・良心の自由を侵害し、違憲、違法だと判断した。

最高裁判決に照らせば、ここでも、教師らの歴史観、世界観を否定し、特定思想を強制するために職務命令が発せられたとは認定されないのではないか。

問題なのは、一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教育現場に持ち込んできたことだ。国旗・国歌法が制定され、教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれている現在、そうした法規を守るのは当然のことだ。

卒業・入学式シーズンが近い。児童や生徒たちを厳粛で平穏な式典に臨ませるのも学校、教師の重要な役割である。

讀賣新聞 2007年2月28日

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教育再生2法案 信頼回復へもう一工夫を

教育再生関連3法案のうち、学校教育法と教員免許法の2改正案の骨子が中央教育審議会で固まった。公教育再生に向けた仕組みが具体化されることは前進であり、評価したい。

学校現場で基礎基本をしっかり教え、ルールを守らせるなどあたり前の授業を行っていれば、公教育への不信はこれほど高まらなかったはずだ。

学力低下や学習指導要領を守らない未履修問題、子供たちの命が失われても隠すいじめ問題などが次々に社会問題化した。一部の教員が国旗、国歌の指導をないがしろにする問題も相変わらず起きている。学校や教員が規則を守らず法令違反まで繰り返す現状にあきれ、不信が募ってきたのだ。

学校教育法では義務教育の目標に「我(わ)が国と郷土を愛する態度」や規範意識、公共の精神が盛り込まれる。副校長や主幹など校長を支える態勢や学校評価の実施など魅力ある学校をつくる制度を整える。

教員免許法では10年の免許更新で30時間程度の講習を行い、教員の指導力をつける。免許失効などで問題教師、だめ教師は教壇に立たせない。

更新の際の講習内容など今後は運用面が課題になる。再生に教員の力をどう活用するか。

残る地方教育行政法は、教育委員会改革を中心に詰めの段階だ。「国の権限」で議論があるが、いじめ自殺問題への対応などで批判が多い教委の責任の明確化や態勢を強化する仕組みをつくる必要性などでは一致している。

法案で注目される文科相の是正勧告権は、著しい法令違反などがあった場合に限るとしている。国旗、国歌の指導をめぐり校長が自殺した広島県の問題や山梨県教職員組合の違法な政治活動の問題では教委の毅然(きぜん)とした指導が行われず、教委と教職員組合の関係が問題となった。最近もいじめ自殺などの調査に非協力の北海道教組の問題がある。国の最終的責任を明確にし、迅速に改善する制度が必要なのだ。

同時に特色ある学校教育を市町村教委が競い、指導力を発揮できるようにしなければならない。教育再生会議の提言を受け、保護者の信頼を失った公教育の再生に仕掛けはできつつある。3月の法案提出へ、もう一工夫と前進を望みたい。

産経新聞 2007年2月27日

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人権メタボ 文科相のひどい誤診だ

「毎日バターばかり食べていれば、皆さんはメタボリック症候群(内臓脂肪症候群)になる。人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になるんですね」

伊吹文部科学相は長崎県での自民党支部大会でこう語った。

内臓に脂肪がつきすぎると心筋梗(こう)塞(そく)など様々な病気を起こしやすくなる。そんな医学的な症状に例えて、人権をあまり重んじすぎると、社会がおかしくなる、と言ったのだ。

講演のテーマは「教育再生の現状と展望」だった。伊吹文科相は「権利と自由だけを振り回している社会はいずれ駄目になる。権利には義務が伴う」とも語っている。

人権を振りかざして義務を果たさずに権利ばかりを主張するのはおかしい。そう言いたかったのかもしれない。

しかし、「権利」と「人権」は重なり合うが、同じではない。

「人権メタボリック症候群」という言葉から伝わってくるのは、人権に対する文科相の感性の乏しさだろう。

本当に「人権過多」の状況がいまの日本社会にあるのだろうか。周りを見渡してみよう。

文科相の足元では、いじめに耐えられずに自殺する子どもが絶えない。子どもだけでなく、お年寄りへの虐待も頻発している。配偶者らからの暴力や脅迫の被害も数え切れない。障害者や外国人などへの差別もなくならない。

先週には、強圧的な取り調べで自白を迫り、事実をでっちあげる捜査がいまだに行われていることが、裁判所で断罪されたばかりだ。

社会が取り組まなければならない人権問題の多さに戸惑いこそすれ、行き過ぎではないかと心配するような状況ではまったくない。

北朝鮮による拉致問題も重大な人権侵害だ。そう日本政府も考えて、北朝鮮に対する人権非難決議を国連に提出し、採択されたのではなかったか。

この問題の解決のためにも、自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々との連携を強化する。安倍首相は1月の施政方針演説でそう述べていた。

その首相が伊吹発言を「問題ない」と言うのも、おかしな話だ。

「人権」はいまや世界のキーワードだ。大きく変動する国際社会、アジア情勢の中にあって、民主主義と人権を掲げ続けることが日本の役割だろう。一人ひとりが尊重される「人権立国」をめざす姿勢こそが国際的な評価を高める。

それだけに、日本の教育や文化を担う大臣が人権をないがしろにするような発言をしたのはとても残念だ。日本人は今の人権状況で十分だと思っている。そんな間違ったメッセージを世界に発してほしくはない。

メタボリック症候群になるどころか、人権はまだまだ栄養が足りない。

朝日新聞 2007年2月27日

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文科省の焼け太りを招く教委改革案

文部科学省による画一的な統制を強め、地方や学校現場を萎縮させる恐れはないだろうか。教育委員会制度について、教育再生会議の提言を受け中央教育審議会が大詰めの議論を続けている改革案は、そんな懸念がぬぐえない。

再生会議はさきに「文科省が教委に是正勧告や指示ができるようにすべきだ」などと提言したが、全国知事会などが強く反発した。政府の規制改革会議も「文科省の裁量行政的な上意下達システムの弊害を助長することがあっては断じてならない」と指摘し、26日には「国の関与は非常時対応に限定すべきだ」と改めて意見書を公表している。

規制改革会議はその前身時代から教育分権を提唱し、教委そのものの設置自由化まで打ち出してきた。再生会議の提言はこうした方向性とは相いれない。しかも、これを受けて地方教育行政法改正の骨格を決める中教審に文科省が示した案は国の権限強化をさらに明確にしている。

同省が都道府県教委に是正勧告や指示ができ、教育長任命にも一定の関与をするとしたほか、教委に私立学校に対する指導権も持たせるとした点などが骨子だ。

是正勧告・指示について同省案は「やむを得ない場合に限る」としている。たしかに、教委に深刻な逸脱があった際に最終責任を国が負うこと自体は担保する必要があろう。

しかし問題は、規定が拡大解釈される恐れがあるのに加え、ややもすれば教委が文科省の出先機関と化しがちななかで、地方や学校が一段と同省の顔色をうかがい、その創意工夫が阻まれるのではないかということだ。この規定のあり方はよくよく慎重に検討しなければならない。

教育長の任命に国が関与するのも問題だが、私学を教委の指導下に置く案にも疑問が多い。私学の監督はその独自性を踏まえて首長部局が担ってきた。これに教委が絡むとすれば私学が文科省―各教委の上意下達システムに組み込まれかねない。

教委制度の改革は近年、分権重視の考え方が主流となり、2000年施行の地方分権一括法では文科省の是正命令権や教育長任命承認権が廃止された。ところが、いじめ自殺や未履修問題をきっかけに国の権限強化論が噴き出した。

再生会議提言に始まる一連の動きは、こうした不祥事を逆手に取って文科省が焼け太りする構図を描き出している。中教審は今週中にも教委改革案をまとめるが、分権の流れを尊重し同省の権限膨張には明確な歯止めをかけるべきである。

日本経済新聞 2007年2月27日

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中教審 再生への見識示す議論を

教育再生関連3法案の内容を詰める審議が、中央教育審議会で本格的に始まった。実効性はその内容に左右されると言ってもいい。公教育への強い危機感を共有して議論せねばならない。

審議内容は、教育再生会議の第1次報告を受けたものだ。だめ教師を教壇に立たせないようにする教員免許制度見直しやいじめなど、子供たちの危機に対応できない教育委員会の改革をいかに実行に移すか注目されている。

教育委員会制度見直しのなかでは文部科学相の是正勧告権限などについて、国の指導権限強化につながると地方から反対意見がある。

政府の規制改革会議は、地方分権推進の立場から「文部科学省の上意下達システムの弊害を助長することはあってはならない」などとクギを刺す見解を示した。中教審の審議のなかでも「地方の現場を尊重すべきだ」との意見がでている。

一方で規制改革会議は、短期間に教育改革の道筋をつけた再生会議を評価し、「教委の責任体制のあいまいさ」や「危機管理体制の欠如」などは共通認識を持つと強調している。

文科相の是正勧告権限については異論が多いが、これは教育委員会の事務処理に法令違反や著しく適正さを欠く場合に限ったものだ。いわば「伝家の宝刀」という意味合いであろう。

地方の教育現場では、山梨県教職員組合(山教組)の違法な政治活動で文科省が県教委に処分を要請する指導をしたにもかかわらず、従わなかったケースがある。最近もいじめ調査や学力テスト実施に非協力を指示した北海道教職員組合(北教組)の問題が明らかになっている。

国の権限強化が必要だという背景には、狭い教育界のなかでなれ合うような体質、教育委員会自身が問題を隠すような体質に国民から強い不信感があるからだ。制度見直しは、各地で進む特色ある教育改革や学校づくりを邪魔するものではない。むしろ、支援体制を充実させようというものだ。

政府は3法改正案を今国会に提出する考えで時間は限られる。中教審には学校現場を熟知する専門家も多い。そうした意見も積極的に活用して旧態依然の審議から脱し、国民の期待に応える見識を見せてほしい。

産経新聞 2007年2月19日

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教育再生会議 国民的議論のたたき台ができた

報告書の表題に「社会総がかりで教育再生を」とある。公教育の再生のためには全国民的な参画が欠かせない、というメッセージが伝わってくる。

安倍首相直属の教育再生会議が第1次報告をまとめた。取り組むべき課題を掲げた「7つの提言」が柱だ。

「新味に欠ける」「議論不足」といった批判もあるが、3か月足らずで、教育の根本議論のたたき台をまとめ上げた委員たちの労は多としたい。どの提言をどう実現させていくのか、今後は首相の判断と国会の対応が問われよう。

提言の最大の特徴は、「ゆとり教育見直し」を明確に打ち出したことだ。「授業時数10%増」「基礎・基本の反復」「薄すぎる教科書の改善」などを提唱し、学習指導要領の改定を求めている。

子どもの学力低下の不安が広がった背景には、教える内容や授業時数を大幅に削ったゆとり教育がある。今回、政府の有識者会議として、初めて“脱ゆとり”を宣言した意味は大きい。

「学校週5日制見直し」も今後の検討課題に挙げられた。学力向上を図るために多面的な議論を深めてもらいたい。

報告書は、提言の内容に沿った速やかな法改正も求めている。

免許更新制の導入に伴う教員免許法改正もその一つだ。「指導力不足」などの不適格教員を教壇から排除し、「免許を取り上げる」仕組みを提案した。文科相の諮問機関・中央教育審議会が答申した更新制よりも厳しい内容だ。

文科省は再度、中教審に諮った上、改正法案を通常国会に提出するという。再生会議の提言の趣旨を損なわないよう、十分配慮すべきだ。

教育委員会の抜本改革のため、地方教育行政組織法改正も緊急課題だとしている。廃止論もあったが、「いじめ」や高校必修逃れ問題での不適切な対応などを機に、逆に機能再生論が高まった。

「責任の明確化」「教員人事権の市町村教委への委譲」「第三者機関による教委の外部評価」などが提案された。

一方で、文科省の、教委への指揮監督権限強化も検討課題とされた。国の関与を強めるのであれば、タウンミーティングの「やらせ質問」や、必修逃れの実態を把握しながら教委への指導を怠っていた問題などについて、文科省自体の反省と点検が欠かせないのではないか。

いじめを繰り返す子どもへの出席停止制度の活用、教師の体罰を禁じた規定の見直しなども盛られている。家庭の「しつけ」の大切さにも言及している。

報告書をもとに、まさに国民「総がかり」で教育を論じるべき時である。

讀賣新聞 2007年1月25日

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「教育再生提言」「せいては百年の大計を誤る」

政府の教育再生会議が第1次報告を決定し、安倍晋三首相は関連法改正案を通常国会に提出すると表明した。いじめ自殺、履修不足など相次ぐ教育問題や矛盾に素早く対処することに異存はないが、今回の報告の内容や方向は、もっと時間をかけて国民の間に合意や理解を形成すべきものだ。法という形ばかり急いでも実りある成果がないどころか、混乱をもたらすだけになりかねない。

現状を「公教育の機能不全」とみる報告は改革へ「社会総がかり」を唱え、学力強化、いじめや校内暴力の根絶、教員の質向上、教育委員会の変革などを挙げた。教育、特に学校教育はその時代の価値観や目標を背景に、緩やかながら多くの国民の「このようなものだ」という考えを映している。そういう意味で、今回の報告を読み進めると、これは広く意見を集め、論議を掘り下げるべきだと思われる問題に次々行き当たる。

例えば、「体罰の範囲の見直し」はあっさりと記述されているが、戦後学校教育の基本理念にもかかわる重大な提起だ。体罰は学校教育法が禁じ、通知によって禁止行為が示されている。直接的な暴力だけではなく、肉体的な苦痛を与えたり、教室から追い出すことなどもその範囲に入る。

校内暴力やいじめ、学級崩壊、授業妨害など深刻な問題に対処するためにはある程度やむをえないという考え方もあるだろう。それはそうとしても、心や人格を傷つけることがあり、教育上もしばしば逆効果になるとして一切禁止を定めにしてきた体罰を「国が今年度中に見直し、周知徹底のうえ新学期から各学校で取り組めるようにする」とは、あまりに短兵急ではないか。

また、学力強化のため「教育委員会・学校は補習などを行う『土曜スクール』を実施するよう努める」としているのは、遠回しの表現ながら実質的に学校6日制復活の意を含むとも読める。

確かに土曜補習をしている公立学校は既にあり、私立の多くが5日制を採用していない実態からみてこの提起には根拠がある。しかし、5日制導入に際しては論議と試行を重ねた。見直すにしても社会の週休2日制との兼ね合いも含め、再びコンセンサスを得るよう進めるべきだろう。

「魅力的で尊敬できる先生」の育成にしても、「問題解決能力が問われている」教育委員会の変革にしても、その必要性に疑いはない。だが、現場の実情や意見を十分に踏まえながら、改善の目標が具体的なイメージで国民に共有されるように論議を着実に重ねなければならない。

改正教育基本法の国会審議の際、私たちは、この法によって具体的にどのような新しい学校教育を実現しようとしているのか政府は示すべきだと求めた。それは果たされなかった。

今から国会に出されようとしている関連法改正案は日々の学校教育活動に直結する。まず改正ありき、ではない。国民にもっと語りかけ、知恵を集めよう。

毎日新聞 2007年1月25日

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学校の明日が見えぬ「教育再生」提言

授業時間数の1割増加や教育委員会の活性化など、教育再生会議の第1次報告には多彩な提言が並んでいる。公教育に対する危機感を共有し、信頼回復への道を探った苦心の作であるのは確かだろう。しかし全体として斬新さに欠け、個々の提言をみても生煮えの印象は否めない。

柱のひとつは、学力向上へ向け授業時間数の1割増加を求めたことだ。すでに文部科学省は国語や算数・数学、理科などの強化を軸に学習指導要領改訂作業を進めているが、同省の抵抗が強かった「ゆとり教育」見直しを明言した意味は大きい。本格的な路線転換の契機になろう。

もっとも、「ゆとり」脱却を徹底しようとするなら、学校5日制の見直しを含めた根本的な制度改革が必要になる。報告は5日制についても今後の検討課題として挙げたが、授業時間数増加と密接に絡む問題である以上、ここでもう少し踏み込むことはできなかったのだろうか。

方向性があいまいなのは、教育委員会改革や教員免許更新制も同様だ。教委改革は外部評価制度導入などが目を引くが、教育行政の担い手として本当に教委が必要なのかという本質的な視点は抜け落ちている。免許更新制は、基本的には中央教育審議会の答申を踏襲しており、不適格教員排除の実効性は不明確だ。

報告は関連法の改正案を速やかに国会に提出するよう求め、安倍晋三首相も成立を期すとしている。文科省は主要なテーマを中教審に諮問し直す意向だが、いたずらに時間を費やすことなく、提言を早急に肉付けして具体像を示すべきだ。

今回の報告取りまとめにあたって再生会議は迷走を続けた。昨年末の原案では「ゆとり見直し」などが盛り込まれず、年明けから官邸主導で目玉策を急ごしらえした。提言が生煮えで迫力を伴わないのは、そうした経緯と無関係ではないだろう。

再生会議は5月に2次報告、年末には最終報告をまとめる。安倍首相は自らリーダーシップを発揮し、改革の道筋を定める必要がある。とりわけ、学校5日制見直しや「教育バウチャー(利用券)」など国民的な論議を呼ぶようなテーマでは、首相の決断がより重要になる。

1次報告は、いじめ問題や教員の質への不安を背景に、教育への国の関与を強めようとする色彩が濃い。しかし規制緩和と分権を進め、多様な教え方、学び方ができるようにすることこそ重要だという声が強いのも忘れてはならない。再生会議が今後、未来を見据えた大きな構えで改革案を打ち出せるのか注目したい。

日本経済新聞 2007年1月25日

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教育再生 報告案は期待はずれだ

安倍首相の肝いりでつくられた教育再生会議の第1次報告案がまとまった。

昨年10月に初会合を開いたこの会議には、経済界や文化人、大学など各界から17人の委員が起用された。清新な顔ぶれに大胆な議論を期待した人は多いだろう。

報告案は、小中学校での教え方、大学入学、教育制度の見直しまで、多岐にわたる提言をしている。しかし、その内容は清新さとはほど遠い。

教育の中身では、「ゆとり教育」の見直しや、全国学力調査の実施などが提言された。教員免許を更新制にして不適格教員を排除することも求めている。

しかし、全国学力調査は今春に実施される。「ゆとり教育」のもとで薄すぎると批判された教科書も、すでに発展的な内容が盛り込まれるようになってきた。教員免許の更新制も、中央教育審議会が答申ずみだ。

問題を起こした子どもの出席停止、高校での奉仕活動の必修化、大学の9月入学などは、小渕内閣がつくった教育改革国民会議の提案とほぼ重なる。

これでは、すでに動き出している改革や、過去の提言の焼き直しと受けとめられても仕方があるまい。

過去の提言より踏み込んだのは、教育委員会の見直しである。教職員の人事権をできるだけ都道府県から市町村に移す。小規模市町村の教育委員会は統廃合を進める。教育委員会の活動を第三者機関に外部評価させる。そうした内容だ。

教育委員会は戦後教育の根幹となってきた制度である。その変革は、教育全体に大きな影響を及ぼす。

見直しの具体策は、昨年暮れにまとめられた第1次報告の原案にはなかった。原案に新味が乏しいことに危機感を募らせた首相官邸が働きかけ、急に盛り込まれたものである。

きちんと議論されたのは1月の分科会で1度だけだ。それなのに、報告案はまもなく始まる通常国会で関連の法律案を出すよう求めている。

論議より政治日程を優先させるようでは「教育再生」の名が泣く。

実際の論議では、大胆な提言や斬新な意見があったことが報じられている。例えば野依良治座長は、公教育を再生するために普通以上の成績の子どもの塾通いを禁止すべきだと再三、語ったという。だが、そうした意見があったことすら報告案には盛り込まれなかった。

報告をまとめるのは、文部科学省などの出向者が多い事務局である。過去の教育政策とのすりあわせや実現可能性を重視する事務局主導の運営では、斬新な意見は黙殺されてしまいがちだ。

そうさせないためにも、非公開としている審議を公開すべきではないか。ほとんどの審議会は公開されている。とりわけ教育問題は、教師や保護者らの声を聞きながら論議を深める必要がある。

密室の論議で結論だけを示すやり方では、国民にそっぽを向かれるだろう。

朝日新聞 2007年1月20日

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教育再生会議 目指す「学力」とは何かを示せ

「今日の学校は、確実に学力を身につける安心な場であってほしいという保護者の願いに応えておらず、『公教育の機能不全』ともいうべき由々しき状態です」。政府の教育再生会議がまとめた第1次報告案はこうした現状認識から始まっている。

機能不全とはまた思い切った指摘である。「不適格教員は教壇に立たせない」「教員免許状を取り上げる」という表現もいかめしい。再生会議の意気込みの「力み」が表れ出たような格好だ。

報告案は「ゆとり」教育の否定的見直し、学力と規範性の向上、教員・学校の評価と地域連携、いじめ解消策など、いわばひん死同然と診断した公教育への再生処方が列記された。だが基本的な何かが足りないと感じる。なぜか。

「学力」とは何か、あるいは改革によってどのような「学力」を子供たちにつけさせたいと考えているのか、十分に示しえていないのだ。確かに報告案は授業を1割増やし「読み書き計算」の力をきちんとつけさせることなどをうたっている。その力は大事だ。しかし、その能力の先にどういう力や資質を養いたいのだろうか。

今回やり玉に挙げられた「ゆとり」化は、1970年代以降、受験過熱、知識詰め込み教育の反省や国際競争時代に必要な個性的で柔軟な思考、対応力の養成などを念頭に進められてきた。その学力理念は96年の中央教育審議会答申が端的に示す。「どう社会が変化しても、自分で課題を見つけ、自ら学び、考え、判断、行動し、よりよく解決する力」である。これは「生きる力」と要約された。

そして「学校のスリム化」をうたい、すべてを学校で担うことはせず、家庭や地域で分担することを提起。基礎を重視した学習内容の絞り込みと、教科を超えた総合学習の導入などへつながる。

その現状については批判は多く、対策に今回の報告案にある授業増加も考え方の一つだろう。だが、現状否定の上に立つのならば、再生会議は新しい学力についての考え方をとことん論じ合い、かつて「ゆとり」論議で提起された「生きる力」に代わるような理念を示すべきではないか。

そして今後は論議をオープンにしてほしい。報告案はこういっている。「今日学校教育が批判されている『悪平等』『形式主義』『閉鎖性、隠ぺい主義』『説明責任のなさ』等を排し、真に国民の期待に応える教育を」。その姿勢であれば、私たちがこれまで求めてきたように再生会議はその多様な論議の過程を公開し、国民に考える材料を十分提供すべきだ。

また論議が永田町の外へ、とりわけ子供たちに向いて行われているのか。外の目には、再生会議の周りで国会、官邸、文部科学省、与党、文教族、利害関係省庁などの考え方や意見、思惑が交錯、乱反射しているように映る。いったい今回の報告案はどう具体化・実現化されていくのか。

それもきちんと整理して道筋を示しえなければ、責任ある改革提言とはいえない。

毎日新聞 2007年1月20日

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教育再生 ゆとり教育見直しを評価

政府の教育再生会議(野依良治座長)の第1次報告内容がまとまった。その中で、昨年12月に発表された骨子案では見送られた「ゆとり教育の見直し」が明記された。授業時間を現行の10%増とし、教科書の改善や学習指導要領の早期改定も行うとしている。

ゆとり教育を主導してきた文部科学省や自民党文教関係議員の抵抗を退けた結果であり、安倍晋三首相のリーダーシップが発揮されたといえる。

いじめを繰り返すなど、極端に問題がある児童への出席停止措置を認めることも明記された。いじめ対策に、より多くの選択肢を残すものだろう。指導力に欠ける不適格教員を排除するための教員免許更新制度導入と、今後5年間で2割以上を目標に教員への民間人登用を目指すことも、硬直化が指摘される教育現場に新風を送り込み、生徒・児童の学習意欲を喚起する有効な手段の一つであろう。

また骨子案で「情報公開を進める」という表現にとどまった教育委員会制度改革では、第三者機関による外部評価制度の新設が盛り込まれた。「さらに掘り下げた議論を」と注文をつけた首相の意向に沿ったものだ。

もちろん、授業時間を10%増やしただけでゆとり教育で生じた学力の低下が回復できるのかという疑問は残る。とくに、小中学生の学習量は昭和50年代に比べて半減しており、夏休みの短縮や土曜日、平日放課後の補習などで授業時間を増やしても急速な学力向上は難しいとの指摘もある。

とはいえ、大幅な授業時間増は、いたずらに教育現場の混乱をもたらす危険性がある。生徒・児童、学校の適応具合を見極めながら段階的に引き上げていくことが必要ではないか。

ゆとり教育により、学習塾などで金をかけ学力を補っている「できる子」と、その余裕がなくて「できない子」との二極分化が進んでいるとされる。経済格差が教育格差につながっているとの見方で、首相も、「公教育を再生していかなければ、格差は拡大していく」と述べている。

見直しが一日遅れれば、その分だけこうした格差が拡大する可能性は高い。政府には報告に基づいて早急に教育再生関連法案をとりまとめ、一日も早い成立をはかるよう求めたい。

産経新聞 2007年1月20日

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日本の選択 新『教育改革』の元年とせよ “ゆとり”との最終決別を

◆深刻な学力の低下
2007年は、教育改革を大きく前進させるべき年だ。

制定以来初めて改正された教育基本法は、新しい日本の教育理念を示した。「教育の目標」の中で、幅広い知識と教養、道徳心、公共の精神、国や郷土を愛する態度などの涵養(かんよう)をうたっている。

関係法令や学習指導要領が、これに沿って改められ、様々な教育施策の制度設計も具体化する。

問題は改革の方向性だ。まず文部科学省が示すべきは、「ゆとり教育」との最終的な決別の姿勢だろう。

1977年の学習指導要領改定で、戦後初めて、授業時数の削減と教育内容の精選が打ち出された。「詰め込み」「知識偏重」教育への批判が高まっていたころだ。

授業時数が1割、教育内容が2割減った。02年度からの指導要領では、さらに教える内容が3割も減らされている。

その結果は、経済協力開発機構(OECD)など二つの国際学力調査結果が示す通りだ。日本の小中学生の学力は、世界のトップ集団から脱落してしまった。

「学力低下」の批判を受け、文科省は軌道修正を繰り返している。教科書の内容を超える指導を可能にしたり、文科相が学校向けに、宿題や補習を奨励する談話を出したりしている。

だが、政策の誤りが明白となった「ゆとり教育」への反省、決別の言は、いまだ国民の耳に聞こえてこない。

そんな中、「美しい国」づくりを目指す安倍首相が、政権の目玉として創設したのが「教育再生会議」だった。

首相や官邸主導の教育改革は中曽根内閣の臨時教育審議会、小渕〜森内閣の教育改革国民会議以来である。文科省と中央教育審議会による“官製改革”とは、ひと味違う提言が期待された。

「すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生する」。首相はそう言ったが、現実の道のりは険しいようだ。

◆学校5日制でいいのか
月内に出される第1次報告は、昨年末に公表された骨子案を見る限り、具体性に乏しく、メッセージ性も薄いものだ。素案にあった「ゆとり教育見直し」という文言も削られている。

事務局に出向した文科省幹部や、与党文教族議員などの意向があるのだろう。だが、それで再生会議の議論が骨抜きにされてはなるまい。首相が、もっと積極的に会議を主導していくべきだろう。

取り上げるテーマが、文科省や中教審の路線を出ていない、という批判もある。存在感を一層高めるためにも、教育を取り巻く社会状況なども視野に入れた大局的、横断的提言が必要になろう。

報告に盛り込まれる「学校の授業時数の増加」などは、まさにそうだ。これを国民的議論が起きるような形で提言するにはどうすればいいのか。

「土曜授業の復活」も一策だ。現行の「学校週5日制」から「週6日制」への15年ぶりの回帰である。

5日制は80年代半ばの臨教審答申に登場し、導入論が盛り上がった。日教組も強く要請した。92年から月1回、95年からは月2回の試行が始まり、02年度から公立学校で完全実施されている。

「子どもが家庭や地域社会で過ごす時間を増やし、自ら学び考え、生きる力をはぐくむ」のが目的だ。土曜日に生活体験、社会体験、自然体験などをさせる。そのための「受け皿」作りと大人の意識改革が求められた。

それがどうだろう。環境は整わない。土曜の身の置き場がない。塾に行き場を求める親子、朝からテレビゲームにかじりつく子が増えた。

もともと私立の小中高校の半数は5日制にそっぽを向いている。私立との学力格差を危惧(きぐ)する公立高校でも、土曜日に補習をするところが急増した。

「土曜授業を復活させれば、授業数を増やしても子どもの負担は小さくて済む」「総合学習を土曜に集中してやる方法もある」。教育学者からも、そんな意見が聞かれ始めた。

文科省幹部も言う。「嫌なら教師は土曜日、学校へ来なくていい。教員志望の学生や教員OB、地域の人たちの力で学校を再生させるチャンスだ」

◆市場原理は不要だ
最近の教育政策をめぐる論議には“市場原理”が見え隠れしている。

政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育バウチャー」や、学校選択制の全国一律導入などについて議論してきた。後者は最終答申に盛り込まれた。

学校間や子ども同士、適度な競い合いで切磋琢磨(せっさたくま)することは必要だ。だが、過度の市場原理の導入は、教育というものの本質を混乱させかねない。

さらに教育委員会の要・不要論、教員免許更新制の性質にまで口をはさむが、経済的な規制緩和という観点から論じる問題だろうか。

「子どものため」の教育再生。それが大前提である。

讀賣新聞 2007年1月9日

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教育の明日 速効を求むべからず

「近ごろは規範を守らず、社会のしきたりを損なうものが大勢いる。これは教学の本意ではない。道徳を教え、誠実品行を尊重させるべきだ」

最近の言葉と思われるかもしれないが、そうではない。約130年前の明治12(1879)年、明治天皇が発した「教学聖旨」を現代風の表記に改めたものだ。

維新後の政府によって学校が制度化されてから、7年後のことである。

これに対し、内務卿の伊藤博文は「教育議」を奏上して異議を唱えた。

社会の乱れの大きな原因は、維新後の時代の変化にある。教育のせいだけではない。教育は水がしみ込むようにゆっくりと進めるものだ。「急(きゅう)施(し)紛(ふん)更(こう)以(もっ)て速効を求むべからず」。あわてて教育を変え、速やかな効果を求めてはならない、というのである。

国が徳目を決めて国民に教え込むことについても、伊藤は反対した。一つの国教をつくって広めるようなことは、賢人や哲人の出現を待つべきだ。政府がやるべきことではない、と。

伊藤は後に初代総理大臣となる実力者である。しかし、流れには抗しがたかったのだろう。この翌年の教育令改正で、「修身」が教科の筆頭に置かれた。

その伊藤も、教師への締めつけは強めようとした。教師を規則で束ね、心得を守らせ、生徒の模範たらしめよ。教育議にそう書いている。

教学聖旨の2年後には、文部省が「小学校教員心得」をつくり、尊王愛国と道徳を教えることを教師に徹底する。

この明治の時代と、教育基本法の改正が進められた近年はよく似ている。日本教育学会会長を務めた寺崎昌男・東大名誉教授はそう指摘し、次のように語る。

「社会に問題が起これば、教育のせいにされ、最後は教師が責任を押しつけられる。明治に起きたことがまた繰り返されるだろうと、私は教師たちに話してきました」

教育基本法の改正論議では、教師が厳しく批判された。安倍首相の肝いりの教育再生会議でも、「ダメ教師」がやり玉に挙げられている。

教育議から11年後、「教育勅語」が発布された。天皇の神格化が進み、軍部はそれを利用して戦争へ突き進んだ。

もちろん、歴史は単純に繰り返すわけではない。いまと戦前では、社会のありようがすっかり違う。しかし、「明日」を見通すためには、過去に学ぶべきものも見つけた方がいい。

その意味では、教育の速効を戒めた伊藤の主張は、現代にも通じそうだ。

学校の制度をめまぐるしく変えるよりも、じっくりと取り組む。悪いところばかりに目を向けるのではなく、うまくいっている教室に学び、広げていく。今年こそ、そうした発想ができないものか。

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教育改革 熱い大論議を絶やすな

改正教育基本法が成立したら「目的は果たした。もういい」というわけとは思いたくないが、安倍晋三政権の教育改革論がどこか勢いを欠き、議論も締まりがない。

今年は明治に近代学校教育制度(学制)を公布して135年、昭和の敗戦後に大改編して60年になる。くしくも現行制度は「還暦」の今「再生」を論議されるのだが、なぜ早くも失速気味と感じさせるのか。「底」が浅いからだ。

首相直属の教育再生会議、あるいは規制改革・民間開放推進会議、さらに国会、官邸、文部科学省、中央教育審議会と、どこで何を論議し、どう収れんさせていくのか、国民にはつかみどころのないまま「会議は踊る」なのである。首相が就任前から力こぶを入れていた教育バウチャー制度(クーポン券が交付され、自由に学校が選択できる制度)導入案は、教育界に異論、難色が出るや本格論議にも入らず腰砕けになり、「大学9月入学」案も棚上げ状態だ。

◇方向性を示せない
また、学力低下論と「ゆとり教育」批判を背に、今年は学力テストが復活する。これをかつてのような、いたずらに学校間競争をあおって亀裂を生じさせるものではなく、どうやって実のある教育指導に結びつけるか、現場が気をもむその方策と見通しも判然としない。

昨秋から暮れにかけて続発したいじめ自殺や履修不足、教育タウンミーティングのやらせ発言は、全国の教室で何が起きているか、学力とは何か、教育行政と民意がいかに隔絶しているかなど、根源的な問いかけをするものだった。

もし、首相や政府が教育改革について洞察深く、腰の据わったビジョンを持つなら、「これを機会にとことん議論し、改革に結びつけよう」となるべきだが、そうはなっていない。与野党含めて国会の審議も、非公開になった教育再生会議の論議もポイントがかみ合わず、方向性をなかなか示し得ない。

明治初め、列強による植民地化の恐れを抱きながら、つま先だって進められた近代化政策は教育においても急だった。教育制度は国家の強力な管理下に置かれ、「一斉」「均質」を旨とした授業法は富国強兵策を支える人材づくりにつながる。

戦勝や経済発展とともに大正デモクラシーと自由主義教育、進学率向上、受験競争過熱など教育界はさまざまな変化や局面を見せながら推移したが、昭和の長い戦争時代にすべては抑圧・統制され、破たんした。

1947年、戦災で校舎がそろわず、青空教室も当たり前という状態で始まった現行制度は、「憲法の精神を具体化するのは教育」という理念に立ち、「民主教育」を掲げた。一方で、急ピッチの経済復興や団塊の世代が成長するとともに学校教育は量的に膨張し、明治以来の一斉、均質の手法や受験偏重の詰め込み暗記教育に強い批判や反省が生じた。こうして70年代「明治と敗戦に続く第3の教育改革」がしきりに語られるようになる。「個性重視」「生涯学習」「変化への対応力」をうたった80年代の臨時教育審議会、90年代の規制緩和、脱偏差値提唱はこの延長だ。

大づかみにいえば、現在の「ゆとり教育」理念の根はここにある。だが、授業時間削減への不安と批判、学力低下論などとともに、学級崩壊や少年事件続発、教師非行まで「ゆとり」が一因であるような論法が通り、そもそも「ゆとり」が何を目指したのか、なぜ生かしきれなかったのか−−など基本的なビジョンに立ち返って議論されることがあまりに少ない。

うまくいかないから今の教育諸制度、評判の悪い教師にばっさり大ナタを振るえばいい、という勇ましい論調が通りがちだ。慎重でありたい。なぜうまくいかないのか。どうしたら改善されるか。まず教育現場の実際に立って考え、論じ、そこからスタートしたい。有識者会議は重要には違いないが、現場から離れた論議では重みを失う。どう改革の絵を描いても、具体化を担うのは現場だからだ。

◇説得力を持つには
例えば、いじめ問題の論議では、加害生徒の「出席停止」処分を求める声が強く出た。しかし、この制度は以前からあるが、効果ある適用が極めて難しいことを十分に知り、検討した結果の意見だったかどうか。いかなる形にせよ生徒を教室や学校から排除するということが、教師にどれだけ悩ましくつらいことか、その後のフォローがいかに難しいか。それをしっかり踏まえたうえでの提起であれば、説得力は十分持ち得るだろう。

教育基本法改正で「第3の教育改革を成し遂げた」と、よもや首相も考えてはいまい。確かに、明治初期に、昭和の敗戦後に、時代の要請や理念、価値観、反省や後悔などから踏み出した教育制度は、決して永久に絶対的なものではなく、時代変化に合わせ改革が自由闊達(かったつ)に論じられてよい。その時、数の力で押し切ったり、紋切り型の実のない論議で紛糾をかわしたりするのではなく、堂々と、高らかに新しい理念と価値を論じ、切り結んでほしい。

基本法改正に続き今年は教育関連法改正審議に入る。堂々と、高らかに、と切望する。

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戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに

キリマンジャロのような高山から、しだいに雪が消えつつある。

氷河はあちこちで「元氷河」になり、北極や南極の氷も崩れている。このまま進むと世界の陸地がどんどん海になり、陸上の水は減っていく。

ニューオーリンズを襲った恐怖のハリケーンなど、最近の異常気象も、海水の温度上昇と無縁ではない。大気中に増える二酸化炭素(CO2)を何とか抑えなければ、地球の温暖化はやまず、やがて取り返しのつかないことになる。

米国の元副大統領アル・ゴア氏が伝道師のように世界を歩き、地球の危機に警鐘を鳴らしている。1月に日本公開される記録映画「不都合な真実」は、それを伝えて衝撃的だ。

●地球と人間の危機
人間の暮らしを豊かにする技術の進歩が地球を壊していく皮肉。だが、深刻なのはそれだけではない。人が人を憎み、殺し合い、社会を壊す。進歩のない人間の浅ましさが、いまも世界を脅かす。

今年の正月はイスラム教の「犠牲祭」に重なった。神に感謝してヒツジを犠牲にし、みなで食べる大祭だが、イラクの人々はお祭り気分にほど遠くないか。戦争開始から4年近くたったのに、自由で民主的な国の訪れは遠く、まるで自爆テロの国となってしまった。

市民の死者はすでに5万数千人。停電や断水は絶えず、石油は高騰。避難民は50万人に達し、崩壊国家に近づいている。米英兵の死者も3千人を超えたが、兵を引けないジレンマが続く。ブッシュ政権は中東の混乱に拍車をかけ、世界をより不安にさせてしまった。

ゴア氏とブッシュ氏――。6年前、大統領選の行方を決めたフロリダ州での開票は、世界の行方も左右した。

CO2削減のために決められた京都議定書にブッシュ政権は背を向けた。米国は圧倒的なCO2排出国なのに、何と鈍感なことか。一方で、国際世論の反対を押し切ってイラク攻撃へと突き進んだ。軍事力への過信である。

●「新戦略」のヒント
この5月、日本国憲法は施行60周年を迎える。人間ならば今年は還暦。朝日新聞はそれを機にシリーズ「新戦略を求めて」を締めくくり、日本のとるべき針路を提言する。ゴア氏が訴える危機と、ブッシュ氏が招いた危機。そこにも大きなヒントがある。

悲願だった教育基本法の改正を終え、次は憲法だ。そう意気込む自民党の改憲案で最も目立つのは、9条を変えて「自衛軍」をもつことだ。安倍首相は任期中の実現を目指すといい、米国との集団的自衛権を認めようと意欲を見せる。

だが、よく考えてみよう。

自衛隊のイラク撤退にあたり、当時の小泉首相は「一発の弾も撃たず、一人の死傷者も出さなかった」と胸を張った。幸運があったにせよ、交戦状態に陥ることをひたすら避け、人道支援に徹したからだった。それは、憲法9条があったからにほかならない。

もし名実ともに軍隊をもち、その役割を拡大させていたら、イラクでも英国軍のように初めから戦争参加を迫られていただろう。そうなれば、一発の弾も撃たないではすまない。間違った戦争となれば、なお悔いを残したに違いない。

もちろん、国際社会が一致してあたる場合は知らん顔はできまい。テロ組織の基地を標的としたアフガニスタン攻撃はその例だった。

自衛隊はどこまで協力し、どこで踏みとどまるか。「憲法の制約」というより「日本の哲学」として道を描きたい。

●得意技を生かそう
昨年はじめ、うれしいニュースがあった。英国BBCなどによる世界33カ国調査で、日本が「世界によい影響を与えている国・地域」で2位になったのだ。

1位は欧州だが、国家としてはフランスや英国を抑えて堂々のトップ。小泉前首相は「日本の戦後60年の歩みを国際社会が正しく評価している」と喜んだ。その通りである。

「GNP」(国民総生産)ならぬ「GNC」とは、米国ジャーナリストのダグラス・マッグレイ氏がつくった言葉だ。Cはクールで「カッコいい」の意味だから、GNCは「国民総カッコよさ」か。日本は世界で群を抜くという。

アニメ、漫画、ゲーム、ポップス、ファッション、食文化……。どの分野でも日本が世界やアジアをリードしている、というのだ。そういえば、最近はパズルの「数独」が世界のSudokuだ。そうしたことがBBC調査の結果にもつながったのだろう。

映画「不都合な真実」では、排ガスのCO2削減が企業の評価を高めている例としてトヨタとホンダを挙げている。米国車とは対照的だ。省エネや環境対策といった日本の得意技は、これからも世界に最も役立てる分野である。

軍事に極めて抑制的なことを「普通でない」と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない。安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか。

むしろ戦後日本の得意技を生かして、「地球貢献国家」とでも宣言してはどうか。エネルギーや食料、資源の効率化にもっと知恵や努力を傾ける。途上国への援助は増やす。国際機関に日本人をどんどん送り込み、海外で活動するNGOも応援する。そうしたことは、日本人が元気を取り戻すことにも通じよう。

「軍事より経済」で成功した戦後日本である。いま「やっぱり日本も軍事だ」となれば、世界にその風潮を助長してしまうだけだ。北朝鮮のような国に対して「日本を見ろ」と言えることこそ、いま一番大事なことである。

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「タブーなき安全保障論議を 集団的自衛権『行使』を決断せよ」

◆「北」の核は容認できぬ
日本は、ならずもの国家の核と共存することになるのか。この安全保障環境の激変にどう対応すべきか。厳しい状況が続く中で新年を迎えた。

国際社会は長い間、北朝鮮に欺かれてきた。1994年のカーター訪朝による核放棄合意の後も、北朝鮮は、国際社会のエネルギー支援を受けながら、密(ひそ)かに核開発を続けていた。

この3年半の6か国協議も、結果的には、核実験への時間稼ぎをさせることにしかならなかった。昨年暮れの協議でも実質的な進展はまったくなかった。先行き、ほんとうに北朝鮮に核を廃棄させることが出来るのか――。依然、なんの見通しも立っていない。

6か国協議が空転を続けるのは、北朝鮮の核に対する日本と他の4か国との脅威感に違いがあるせいではないか。日本からは、そのようにも見える。

米国、中国、ロシアの3国は、北の核に対する圧倒的な核報復能力、つまり核抑止力を保持している。軍事的には、日本が置かれている状況ほどの深刻な脅威ではない。

韓国の盧武鉉政権は、「同じ民族の核」に対して、融和路線を優先しているかのような姿勢が目立つ。

このまま、ずるずると、北朝鮮の核保有が既成事実化する恐れもある。日本はどうすべきなのか。

日本が、国を挙げて核武装しようとすれば、さほど難しいことではない。

日本は世界第一級水準の科学技術力を有している。3〜5年で可能ともいわれる。数トンの人工衛星を打ち上げられるだけの宇宙ロケット技術の蓄積もある。

しかし、現在の国際環境の下で、日本が核保有するという選択肢は、現実的ではない。

日本の核開発宣言は、すでにインド、パキスタンの核保有などにより綻(ほころ)びているNPT(核拡散防止条約)体制の崩壊を決定的にする。

イランはじめ中東、さらには世界中に核保有国が出現するきわめて不安定な国際社会になりかねない。安定的な国際通商に依存する日本の経済基盤も脆弱(ぜいじゃく)化することになる。

核保有が選択肢にならないとすれば、現実的には、米国の核の傘に依存するしかない。

◆核の傘は機能するか

問題は、核の傘が確かに機能するかどうかである。機能させるには、絶えず、日米同盟関係の信頼性を揺るぎないものに維持する努力が要る。

同盟の実効性、危機対応能力を強化するため、日本も十分な責任を果たせるよう、集団的自衛権を「行使」できるようにすることが肝要だ。

政府がこれまでの憲法解釈を変更すればいいだけのことだ。安倍首相は、決断すべきである。

◆鍵を握る中国の影響力
それ以前に、当面の最優先事は、北朝鮮に核を廃棄させることだ。北朝鮮への決定的な影響力を有するのは、中国である。中国が北朝鮮への石油、食料供給を停止すれば、北朝鮮の現体制は、たちまち崩壊の危機に瀕(ひん)するだろう。

その中国にどう動いてもらうか。中国との綿密な対話が必要となる。安倍首相のいう「戦略的互恵関係」をさまざまな次元で推進しなくてはなるまい。

他方で、日本自身が、通常兵器の範囲にしろ、総合的な抑止力の強化に努めることが重要だ。

ミサイル防衛(MD)システムの導入前倒し・拡充は当然だろう。たとえ撃墜率100%ではなくとも、システムの保有自体が一定の抑止力となる。敵基地攻撃能力の保有問題も、一定の抑止力という観点から、本格的に議論すべきだ。

また、非核3原則のうち「持ち込ませず」については議論し直してもいいだろう。東西冷戦時代、寄港する米艦艇の核搭載は、いわば“暗黙の常識”で、非核2〜2・5原則と議論を呼んだ。

核保有が現実的でないとしても、核論議そのものまで封印してはならない。議論もするなというのは、思考停止せよと言うに等しい。

◆前提となる財政基盤
安全保障態勢の整備は、国家としての最も基本的な存立要件の一つだが、それを支えるには、経済・財政基盤もしっかりしていなくてはならない。

だが、それについては、なんの不安もないと言うわけにはいかない。

かねて指摘されているように、国、地方を合わせて770兆円以上の長期債務を抱えている。国内総生産(GDP)の1・5倍に相当する。このうち国の債務は600兆円近い。先進諸国でこれほど財政状況の悪い国はない。

安倍首相は「経済成長なくして財政再建なし」という。一面ではその通りである。しかし、いわゆる「上げ潮」戦略が、年4%の名目成長を18年間続ければGDPが1000兆円になる、といった想定をしているのは、非現実的である。

まず、景気循環的な山や谷の存在という当たり前の経験則を無視している。世界経済の動向、とりわけ米国の景気や、中国の投資過剰の行方などにも、大きく影響される。

名目成長が伸びれば長期金利も上昇するだろう。

仮に長期金利が1%上がれば、国債費は1・6兆円の利払い増、次年度には2・8兆円、3年度目には4兆円の利払い増になるとの試算がある。3%上昇だと4・7兆円、8・6兆円、12・5兆円と雪だるま式に膨らむことになる。

実際、80年代後半には、長期金利が4〜6%台で推移する中で、国債費のうち利払い費が95%以上を占めた時期があった。長期金利は、バブル末期の90年代初めには8%を超えていた。

高齢化社会の進行に伴い毎年1兆円にのぼる社会保障費自然増という財政上の重圧もある。

◆消費税増は不可避だ
「07年問題」と言われ続けて、とうとうその年になった。1947〜49年生まれ、いわゆる団塊の世代の大量退職が始まる。これが日本経済にどのような影響をもたらすかについては、悲観論、楽観論、いろいろあるが、ともあれ、社会の高齢化が一段と加速する。

反面で、50年後の合計特殊出生率推計値は1・26と、5年前の推計値1・39よりさらに低下した。このままでは、いずれ、年金をはじめとする現行の社会保障制度は持続困難となる。

財政全体として、高齢者を含め全世代が広く薄く負担を分かち合う消費税の税率引き上げは避けられない。欧州連合(EU)諸国の消費税(付加価値税)率は、15〜25%である。

与党は、消費税論議は秋から開始というが、事実上、参院選を意識しての先送りだ。EU諸国並みに、生鮮食品はじめ、教育・文化用品を含む生活必需品など軽減税率の適用対象を仕分けしたり、周知期間を置く必要があることを考慮すれば、それではとても09年度の導入には間に合わない。

より早い議論開始・導入の決断を急ぐべきである。

ただ、平均寿命が今後も延びるとしても、少子化傾向に歯止めをかけ、反転させることは、国家的な取り組み次第で可能である。

フランスの例がある。日本の4倍も手厚い児童手当・家族給付を支給し続けたのを始め、税制上の優遇措置、育児支援の拡充等々で、人口増減の分岐点である合計特殊出生率2・1を展望できるところまでこぎつけている。

日本も、児童手当を5000円から1万円にするといった程度のバラマキ感覚を超えて、スケールの大きい少子化対策体系の構築を決断すべき時である。

そのためには財政負担が増す。だが、それは、「国家百年の計」のための必要経費だ。

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「世界一」を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全

日本に「世界一」はいったいいくつあるだろう。
鹿児島県の桜島大根は世界一大きいダイコンだ。法隆寺は世界一古い木造建築である。野球の王ジャパンは米大リーグを抑え世界一になった。「男はつらいよ」は世界一長い映画シリーズである。

いくらでもある。東京競馬場の大型映像スクリーン(ターフビジョン)は三菱電機製で世界最大である。トヨタの「カローラ」は車名別生産台数世界一の自動車だ。そして、わが日本は世界一の長寿国である。

2007年の年頭に当たって私たちは、この世界一のリストをどんどん増やしていこう、と提案する。厳密に「世界一」である必要はない。世界的基準に照らして傑出したモノやサービス、世界に胸をはって誇れるような「日本発の価値」を増やそうという呼びかけだ。

日本人がいまの豊かな暮らしを維持するには、世界一を増やすほかないからである。

◇急速に進む少子高齢化
日本は少子高齢化とグローバリゼーションの荒波にもまれている。今年は07年問題の年。団塊の世代が定年で一線から退き始める。ベテランの技術が継承されず消えかねない。年末に発表された将来推計人口によれば、少子高齢化は想像以上のスピードだ。50年後、日本の人口は9000万人を割ってしまう。

人口減少のインパクトは大きい。自動車やカラーテレビは国内販売台数が縮小傾向にある。企業が国内市場で売り上げを伸ばすのは難しくなった。

今年、世界一をめざすトヨタの海外シフトは急だ。国内と海外の販売比率は90年の1対1から今年1対5になるという。日本は世界市場に目を向けるほかない。中国などが追い上げてくる。世界一の数が日本の未来を決める。

人口が減って日本経済が縮小しても、1人当たりで分配が大きくなればよい。そういう考え方がある。その通りだが、現実は厳しい。日本の1人当たり可処分国民所得は、長らく世界一だったが、近年、米国や北欧諸国に次々と抜かれつつある。  エレクトロニクスや金融にかつての勢いはない。デジタル革命、情報技術(IT)革命という大変化に、十分に対応できなかった。金融は破滅寸前に国民負担で救済された。

「失われた15年」である。遅れを取り戻すためには、目標と志を高く掲げる必要がある。

私たちは、たくさんの世界一を生み出してきた。実績が日本人の能力を証明している。浮足立つ必要はない。

日本の製造業の中には、ハイテク製品の製造になくてはならない部品や素材で、世界一のシェアを占める企業が何百とある。米アップル・コンピュータの大ヒット商品「iPod」も日本製の部品や素材がなければ製造できないのだ。

こうした日本製の「世界一」が、私たちの豊かな暮らしのモトだ。これを増やす戦略をたて果断に実行する必要がある。

「世界一」を生むのは技術革新(イノベーション)だ。安倍政権は「新成長戦略」で規制緩和や科学技術予算の「選択と集中」を行い、技術革新を促進しようとしている。強力に推進してもらいたいが、重要な視点が欠けているのではないか。

脳科学者の茂木健一郎氏が興味深い指摘をしている。子どもは母親が見守ってくれているという安心感があってはじめて、探究心を十分に発揮できる。新しいものに挑戦するには、母親のひざのような「安全基地」を確保する必要がある、と。

さらに、北欧諸国の高福祉高負担路線。なまけ者を作るシステムといわれたが、実際はめざましい技術革新で日本や米国より成長率が高い。

その秘密は丈夫な社会的「安全ネット」の存在だ。失敗しても落ちこぼれないから、冒険ができる。それが技術革新をうむ。日本とは国の形が異なるからモデルにしにくいが、深く考えさせるものがある。

安全基地と安全ネット。「安全」がキーワードである。

◇市場主義のひずみ噴出

いま、私たちの周囲では、格差問題や働いても生活保護以下の収入しか得られないワーキングプアの問題など、市場主義のひずみが噴出している。

安倍政権は「成長」が一番の処方せんだ、と主張する。パイを大きくし分配を増やすのが問題解決の早道だ、と。一面の真理だが、時代はもっと先に進んでいる。

安全ネットは弱者対策として必要なだけではない。冒険に踏み出す「安全基地」として不可欠なのだ。その観点から、現状は寒心に堪えない。年金制度の長期的安定性に疑問符がついているようでは話にならない。政府の成長戦略は暮らしの安全保障を先送りする口実になっていないか。

日本はさまざまな世界一を必要としている。なかでも必要なのは、世界一国民を大事にする政府である。そして、世界一の政府を求めるならば、私たち自身が世界一啓発された有権者でなくてはならない。

今年は春に統一地方選、夏に参院選が待っている。投票所に足を運ぶ。国民のための政治を実現するには、まず私たちが腰をあげる必要がある。それを世界一づくりの第一歩としよう。

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開放なくして成長なし(1) 懐深く志高いグローバル国家に

冷戦後の世界はグローバル経済の歴史的な興隆期にある。復活はしたものの日本経済に力強さが欠けるのは、このグローバル経済の息吹を十分に取り込んでいないからだろう。企業のグローバル展開がめざましい半面で「内なるグローバル化」は進んでいない。日本人の心を開き、懐深い開放経済をめざさないかぎり、日本経済に次の時代は築けない。「開放なくして成長なし」である。

「国際心」こそ安全保障
国際連盟の事務次長をつとめた新渡戸稲造は昭和初期の段階でグローバル時代の進展を予測していた。「各国の距離が縮小すれば、何事も、否応なしに共通にならざるを得ない」「世界的標準によりて価値を定めねば、国民も国家も世界に遅れて得るところ少なく失うところが多い」と述べている。大事なのは多少の異説を受け入れる広い襟度、「国際心」だとも強調している。

80年後の日本人はこの「国際心」を培ったのだろうか。新渡戸がみたら嘆くような調査がある。国連貿易開発会議の世界投資報告によると、対内直接投資や外資系企業の雇用、生産への寄与度などを平均した国際化指数では日本は先進国中、大きく引き離されての最下位だ。日本の投資開放度は極めて低く国際心は培われてこなかったことになる。

政府は小泉純一郎政権以来、対内直接投資の倍増計画を打ち出し投資誘致に旗を振っているが、2005年の日本の対内直接投資残高は国内総生産比でやっと2.2%。欧州連合(EU)の33.5%、米国の13.0%、そして中国の14.3%などに比べて、けた違いに低い。

冷戦後のグローバル経済は直接投資の誘致競争の時代といっていい。各国首脳や自治体の長は自ら誘致外交を展開する。グローバルな大再編の潮流が国境を越えたM&A(企業の合併・買収)に拍車をかける。

15年近く成長し続ける英国ではシティーだけでなく、空港、港湾、電気事業など公共セクターまで外資が主役だ。中国を大国に押し上げた高成長は外資抜きには考えられない。外資依存の行き過ぎに是正機運まで出てきたほどである。

直接投資は成長の切り札である。資本だけでなく新しい製品、サービスや技術、経営ノウハウをもたらし、雇用機会を創出する。競争を通じて経営効率を高め、産業を高度化する。それは消費者の利益にも合致する。直接投資を受け入れる「国際心」が成長持続を確かにし、ひいては安全保障の礎になる。

日本経済が失われた時代から抜け出す際にも、外資は役割を果たした。日本経済復活の決め手になった金融再生は公的資金注入とともに、外資ファンドの役割が見逃せない。日産自動車が再建できたのも仏ルノーの資本とカルロス・ゴーン氏の経営手腕によるところが大きい。

これだけ直接投資の効用がはっきりしているのに、なぜ直接投資で「日本だけが例外」(グリアOECD=経済協力開発機構=事務総長)なのか。大田弘子経済財政担当相は「対内直接投資がなぜ伸びないか検証が必要な段階だ」と指摘する。

原因はいくつかある。日本の高コスト体質や様々な規制、高い法人実効税率などがあげられる。国境を越えたM&A制度の不備も直接投資の壁を高くしている面がある。

「鎖国」から覚めるとき
背景にあるのは日本人の心の壁ではないか。和辻哲郎は戦後まもなくの著書「鎖国」のなかでこう書く。「悪い面は開国後の80年を以てしては容易に超克することは出来なかったし、よい面といえども長期の孤立に基く著しい特殊性の故に、新しい時代における創造的な活力を失い去ったかのように見える」

日本人がなお「鎖国」を引きずるなら、日本の将来は暗い。逆に、「鎖国」から目覚め、「国際心」を発揮するなら日本の可能性は開ける。

日本と日本人にその潜在力は十分にある。潜在力を生かすためには、第1に日本のソフトパワーに磨きをかける。技術力と文化力、そして外交力をかみ合わせたソフトパワーは大きい。日本は磁力を生む技術、文化センターになりうる。

第2に、成長戦略を立て直す。IT(情報技術)革命による生産性向上と合わせて、グローバル戦略を柱にすえる。東アジアでの経済連携を開放経済へのてこにする。

第3に、指導者が開放に政治責任を果たす。安倍晋三首相自ら対内投資誘致の先頭に立つ。自治体の長は公共事業ではなく投資誘致こそ競うべきだろう。

このグローバル時代に日本は「国を開いて心を鎖す」(新渡戸稲造)では済まない。懐深く志高いグローバル国家に変身するときである。

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凜とした日本人忘れまい 家族の絆の大切さ再認識を

平成19年の元旦、津々浦々で家族団欒(だんらん)や一族再会の幸せを久しぶりにかみしめた家庭も少なくないことだろう。

伝統や風習、歳事や儀式が年ごとにうすれ行く今日、正月は日本人にとってお盆と並び家族団欒の光景が辛うじて似合わしい機会なのかもしれない。なぜなら家庭こそ社会の基礎単位であり、国づくりの基盤であろうから。

だが、いまその根元は空洞化し、揺らぎ始めている。思えばいじめによる子供たちの自殺が相次ぎ、後を絶たない飲酒運転のために幼児は犠牲となり、親による児童虐待も頻発し、さらには親子間殺人さえ一度ならず起きた。

日本人と日本の社会を支えてきた倫理や道徳、伝統、克己心といったものは、どうなってしまったのだろう。

新年にあらためて思うのは、日本の家族や家庭は大丈夫なのか、こうした負の連鎖を断ち切るために明るい家族や家庭を復権させ、その価値をいまこそ見直すべきではないかということである。

≪日本は「子供の楽園」≫
かつて日本は「子供の楽園」と表現された。最初にそう表現したのは江戸末期に来日した英国の外交官オルコックだった。以来、訪日欧米人たちはこの表現を愛用してきたと『逝(ゆ)きし世の面影』(渡辺京二氏著)が紹介している。

《世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない》(大森貝塚の発見者モース)

《日本の子供はけっしておびえから嘘(うそ)を言ったり、誤ちを隠したりしません。青天白日のごとく、嬉(うれ)しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒やしてもらったりするのです》(英国公使夫人のフレイザー)

決して大昔のことではないこれら目撃談に、まさに「逝きし世」と現代人の多くは隔世の感を覚えるほかないだろう。愛らしく、その上礼節も備えた子供たちは一体どこへ消えたのだろうと問う渡辺氏は、続けてこう書いている。

《しかしそれはこの子たちを心から可愛(かわい)がり、この子たちをそのように育てた親たちがどこへ消えたのかと問うことと同じだ。…この国の家庭生活が、どこへ消えたのかと問うこととひとしい》

子供ではない。問題は親、大人たちなのである。子は親の鏡である。

8日、ニューヨークの国連本部で映画「めぐみ−引き裂かれた家族の30年」が特別上映される。小品ながら心に残る家族愛のドキュメンタリーである。

ブッシュ米大統領が横田早紀江さんとの面会を「もっとも感動的な出来事の一つ」と語り、日本人を感激させたことはまだ記憶に新しい。横田夫妻、そして家族会の足跡は、厚い壁に風穴を少しずつ開けていく道程そのものである。

おだやかだが、非道を絶対に許さぬ凛とした美しい日本人がそこにあった。

国家犯罪の拉致とは違うが、いじめや虐待、引きこもりも、迂遠(うえん)ではあっても家族という絆(きずな)の再生抜きには始まらないのではないかと映画は感じさせる。

一つ印象的なシーンがあった。横田早紀江さんらの街頭での呼びかけに当初、人々が冷淡なことだ。ビラを無視するどころか手で払いのける通行人さえいる。その場面に、拉致被害者5人が帰国した平成14年10月、皇后陛下がお誕生日に文書で回答されたお言葉が重なる。

《何故(なぜ)私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません》

≪「共同体意識」再生を≫
隣人を思いやり、苦悩を分かち合う共同体意識の再生も、いまほど求められている時代はない。家族は社会や国づくりの一番の基礎にある。家庭と共同体の再生こそ日本再生へのカギではないか。

その意味で改正教育基本法の成立は価値ある重要な一歩といえる。前文には新たに「公共の精神の尊重」や「伝統の継承・新しい文化の創造」が加筆され、新条項「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」が追加された。また第10条「家庭教育」には冒頭、現行法にはない父母らの第一義的責任が明記された。

復古主義とか反動との批判は的外れである。当然のことばかりで、なぜ半世紀以上も改められなかったのかむしろ不思議なくらいだ。教育基本法も憲法同様、人類の普遍的価値や個の尊重を強調するあまり、結果として無国籍化と個の肥大や暴走を招いたと言わざるをえない。

平成19年、日本を取り巻く内外の環境は一段と厳しさを増すだろう。

北朝鮮のミサイル・核の脅威はますます深刻化し、中国はいよいよ強大化するだろう。内にあっても少子高齢化は予想を超えて進行しているし、財政事情の早急な好転も望めない。

だが近現代史を振り返れば、日本は存亡の危機を一度ならず乗り越えてきたことが分かる。そしてその底流には、いつも家族の固い絆があった。

欧米列強による植民地化の魔手を回避し、近代化のモデルを提供した。日露戦争での勝利は、アジアはじめ非欧米諸国をどれほど勇気づけたことか。さらには壊滅的な被害を受けた先の大戦からの短時日での復活は、世界における戦後復興のモデルであり続けている。

史上前例のない少子高齢化も日本はモデルたることを目指すべきだ。なぜなら東アジアには韓国、香港など日本以上の少子高齢化の国や地域があるからだ。

その上で、この1年をもう一度《世界で一等可愛い子供》(『逝きし世の面影』から引用)たちの笑い声がはじけるような日本にしたい。

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