教育再生会議報告 哲学のない対症療法だ
教育ほど国民的な論議を呼ぶテーマもないだろう。政府の教育再生会議の1次報告には各方面から多様な意見、批判が出ている。報告書を読むと、なるほどと思える部分もあれば、危うく、気掛かりな部分もある。そもそも議論開始からわずか3カ月でまとめられた提言だ。教育の本質論というよりは、対症療法的な内容が目につく。今後、文科相の諮問機関である中央教育審議会に諮られ、国会審議に移るが、いま一度、長期展望に立った骨太の論議が必要だ。
報告書を読んで驚いたのは、現在の日本の公教育を「機能不全」とばっさり否定している点だ。本県などは小中学校のほとんどが公教育で成り立っている。確かに問題点も少なくはないが、機能不全に陥った状態ではないだろう。公立学校にそっぽを向ける児童・生徒が多い東京など大都市圏の現状をみて、あたかも全国の公教育を機能不全ととらえること自体、偏った見方だ。
また、報告は現状の公教育が深刻な状況にあるとし、その主なものとして学力低下、校内暴力、いじめや不登校などを挙げている。その解決策として「ゆとり教育」を見直し、学力向上のため授業時数を10%増加することや、いじめ、暴力行為を繰り返す子供の出席停止などを提言に盛り込んだ。
学力低下が授業時間不足に起因するという明確な調査結果はない。単に授業時間を増やせば学力が上向くというのは短絡的な発想ではないか。完全実施からわずか5年の学校週5日制の見直しにもつながる問題だけに、じっくり議論する必要がある。
いじめや暴力行為を繰り返す子供の出席停止にもあいまいさが残る。出席停止の基準をどこに置くのか、それ以前の問題として教員や家庭の指導をどうとらえるのか。「手に負えないから学校に来るな」では教育を受ける権利を否定するものだろう。
授業時間を増やしたり、出席停止にするというのは、いわば対症療法だ。それで学力が向上したり、「荒れる学校」がなくなるというほど現場は生易しくはない。むしろ、目先の利益を優先する大人社会、格差が拡大する日本社会全体のひずみの是正こそ、教育問題の解決につながるのではないか。子供は社会を映す鏡なのだから。
一方で、教員免許更新制の導入や都道府県教委から市町村教委への教員人事権の移譲、さらに学校の責任体制確立のための「副校長」新設などの制度改革案にはうなずける点もある。
保護者の中には教員の資質を問題とする人が少なくない。免許更新制は、極端に指導力のない教員を教壇に立たせないためにも必要な関門とすべきだ。また公立小中学校の設置や管理権が市町村にあるのに、教員人事権は県というのもあいまいだ。人事権の市町村への移譲は「権限も責任もより小さな単位の地域へ」という地方分権の意義にもかなう。
これも変えよう、あれも直したいという意気込みは分かるが、ふたを開けてみれば、玉石混交の内容だ。報告書全体に通底する哲学が見えてこない。
秋田魁新報 2007年1月26日
教育再生会議報告/拙速な制度改正は禍根残す
なぜ、こんなに急ぐ必要があったのか。わずか3カ月の議論で、あれもこれも。教育は100年の計であり、拙速に制度改正に結びつけては、禍根を残す。
政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は、ゆとり教育見直しやいじめ対策、教育委員会の抜本改革などを盛り込んだ第一次報告を決定、安倍晋三首相に提出した。
報告は(1)ゆとり教育の見直しのための学習指導要領の改定(2)いじめに対応する学校の体制見直し(3)不適格教員排除を視野にした教員免許更新制導入(4)教育委員会の抜本改革―などに力点を置き、関連法案を早期に国会に提出するよう求めた。
これを受け、安倍首相は、学校教育、教員免許、地方教育行政三法の改正案を通常国会に提出する方針を表明した。
だが、昨年10月中旬に発足した再生会議が議論を十分積み上げたかどうかは、はなはだ疑問だ。このタイミングでの報告は、通常国会の政治日程に標準を合わせ、教育改革を政権浮揚の目玉にしたい首相に手を貸したと見られても仕方がない。
ゆとり教育は、受験戦争や詰め込み教育の反省と、国際競争時代に必要な個性、自主性の養成を目的に、学校週5日制や授業時間の削減などを実施。学習一辺倒でなく、課題を見つけ、解決していく「生きる力」を第一としてきた。
弊害として、子どもたちの学力や学習意欲の低下を招いたともされ、一部の学校では既に、授業時間を増やすケースも出ており、再生会議は授業時間10%増を打ち出した。
しかし、「生きる力」に代わるものは何か、子どもたちが身につける学力とは何かという根源的な命題を示していない。必要な授業時間の確保は当然としても、子どもたちは今以上に競争を強いられ、テスト偏重主義に陥る恐れもある。
いじめ対策としては、いじめを繰り返す子どもの出席停止などを提言した。いじめの問題は深刻で、早急に解決しなければならないが、それだけに根が深く、いじめる側がいじめられる側に回ったり、手口もメールを使ったりするなどさまざまだ。
出席停止や学校教育法で禁じる「体罰」の基準の見直しが特効薬となるほど単純な問題ではない。教師、保護者、地域一体の取り組みが必要だろう。
さらに、気になるのは、教員免許更新制で「ダメ教師にはやめてもらう」「免許状を取り上げる」といった、荒っぽい表現が平然と使われ出したことだ。教員の質向上には学校現場への支援が必要で、排除の論理はかえって混乱を招く。
提言や検討課題の中には、中央の統制が強まりはしないかどうか懸念される事項も多い。学校、教委の第三者機関による外部評価制導入や、教員養成段階から国の一元化管理につながりかねない教員免許の国家試験化などだ。
再生会議の議論が公開されなかったのも大きな問題だ。国民の関心を喚起し、広範な議論を巻き起こすには、透明性の確保が前提であろう。
河北新報 2007年1月26日
教育再生報告 急がずに論議を尽くせ
安倍晋三首相の肝いりで発足した政府の教育再生会議が、第一次報告を首相に提出した。 戦後教育を大きく転換する施策が数多く盛り込まれている。論議を尽くして国民の広い合意を得ることが求められる。
報告の柱は「四つの緊急対応」と「七つの提言」だ。学力向上のための「ゆとり教育見直し」、不適格教員排除を目的にした「教員免許の国家試験化」、厳しい指導を可能にする「体罰範囲の見直し」、小規模教育委員会を統廃合した上で教員人事を権限移譲する「教育委員会改革」などが打ち出された。
学力低下やいじめの多発など、現在の教育が抱える問題に焦点を当てている。しかし、問題への対応をめぐっては、徳島県内の教育関係者らから、批判や戸惑いの声が上がっている。
「(体罰範囲の見直しは)いじめ対策として有効なのかどうか」(県幼小中高PTA連合会の富田修二会長)「(ゆとり教育見直しについては)学校週五日制が導入されて間もないのに、政治の都合で簡単に制度を変えられると、教師はうろたえるばかりだ」(県中学校長会の三牧壽夫会長)などである。
報告は教育再生会議発足から三カ月ほどでまとめられた。中央教育審議会答申を追認する中身が目立つ一方、「神話」「徳目」といった復古調の言葉も頻出。「保守政治家」を自任する首相のカラーを色濃く反映した内容となった。
安倍首相は、第一次報告について「百点の案だ」と高く評価し、教員免許法改正など関連三法案を通常国会に提出するよう指示した。 野党は「国家管理の強化で教育は再生しない」などと反発しており、与党内からも批判が出ている。政府与党は法案成立を急ぐことなく論議を尽くしてほしい。国民の声にも、真摯に耳を傾けるべきである。
徳島新聞 2007年1月26日
教育再生報告 子どもが振り回される
ゆとり教育を見直し、授業時間を一割増やす。教育委員会や学校を外部から評価し、教員免許を更新制にする。
こうした「改革」で教育が抱えている問題を本当に解決できるのか。教育再生会議が安倍晋三首相に提出した第一次報告に、そんな疑問がわいてくる。
あれもこれもと多くの提言を盛り込んで、場当たり的な印象だ。ゆとり教育の十分な検証がないままの急な改革では、学校や子どもはいっそう混乱する。
ゆとり教育の見直しや、教育委員会の抜本改革は年末にまとめた骨子にはなかったが、首相官邸サイドの要望で復活した経緯がある。さまざまな新提案は、参院選を意識した政権の目玉づくりにも見える。
報告は七つの提言と四つの緊急対応からなる。ゆとり教育については授業時間を増やし学習指導要領の改訂を提言。学校週5日制の見直しや、補習のための土曜スクールの開設も盛り込んだ。
いじめ問題への対応は、出席停止制度の活用や「体罰」の範囲の見直しをうたっている。教員の質の向上には免許更新制に加えて、教員免許の国家試験化を今後の検討課題として打ち出した。
時間をかけた検討が必要な課題ばかりだ。時間数の増加は、1970年代半ばから続いてきた授業時間削減の流れを転換することになる。完全学校週5日制も2002年度に始まったところだ。
ゆとり教育で大丈夫か、という疑問が広がっているのは事実だ。家庭の経済力が学力を左右する、といった教育格差も問われている。
再生会議の提言は、こうした「親の不安」を背景に、学校や教員を競わせ、国の管理を強めようとしているように見える。その方向で改革を進めると、いまでさえ余裕のない学校に新たな緊張を生むだろう。拙速な制度改革は慎むべきだ。
提言は「規範」を教えることも強調した。道徳の時間の充実や奉仕活動の必修化も含まれている。改正教育基本法に盛り込まれた「公共心」や、安倍首相の「志ある国民を育て、品格ある国家をつくること」という教育目的に通じる。国のために役立つ大人を育てる方向では、教育の質の向上につながらない。
論議に欠けている重要な観点がある。国内総生産(GDP)に対する教育費の公的支出の割合が先進国で最低レベルという実態をどうするかだ。日本は私費負担の割合が高い。
人やお金の問題を脇に置いて、現場に負担を押しつけても、教育の立て直しはできない。
信濃毎日新聞 2007年1月25日
再生会議報告 骨太の教育観が見えない
政府の教育再生会議が第一次報告を安倍晋三首相に提出した。各界の有識者を集めた会議が真剣に議論した結果がこれではあまりにも寂しい。
未来へ向けての提言というより、復古色が濃い内容だからだ。規律の厳格化や教員管理の強化など対症療法が目立つのも気に掛かる。問われているのは骨太の教育観の提示だったはずだ。及第点には程遠い報告といわざるを得ない。
安倍首相は教育再生を政権の最重要課題と位置付けている。報告を基に学校教育法など関連法改正案を通常国会に提出し、参院選の目玉にしたい考えだ。教育に拙速は禁物である。報告をたたき台に国民的論議を巻き起こすことこそ優先させるべきであろう。
報告を貫く基調は、安倍首相が提唱する「美しい国」である。定義不能の言葉を論議の出発点としたこと自体が間違っている。「社会総掛かり」というなら、目指すべき教育について社会全体で話し合う土壌をどうつくるかが提起されなくてはならない。
報告は当面の取り組みとして学力向上と規律ある教室の再生を前面に掲げた。その具体化が(1)授業時間の10%増(2)いじめへの出席停止制度活用(3)「体罰の範囲」の見直し―などである。
多岐にわたる提言の中には、教員の人事権移譲や学校への外部評価制度導入など見るべきものもある。だが、全体としてはボロボロのガス管にテープを巻き付けたような印象が否めない。穴を塞(ふさ)ぐのではなく、管を取り換えることが求められているのだ。
再生会議の論議は活発なものだったという。一部公開された議事要旨からも白熱ぶりはうかがえる。それが報告には十分反映されなかった。「安倍カラー」を形にしたい官邸の意向が強く働いたからにほかならない。
十九日公表の報告案にはなかった教員免許の国家試験化や二次報告以降とされていた学校五日制の見直しが検討課題として盛り込まれたのも「新味」を出したい官邸の振り付けだ。
これでは再生会議の意味がない。政治の関与を排して論議をやり直すべきである。一部の委員から要望が出た会議の公開もぜひ実現してもらいたい。
このところの教育改革は振幅が大きい上に周期が短い。これでは教育現場や家庭が混乱するだけだ。再生会議は国民との対話を繰り返しながら、骨太で息の長い論議が望まれる。
出席停止や体罰の範囲見直しだけをとっても教育の本質にかかわる大問題である。通常国会での法案化など拙速に過ぎる。報告の前文がうたう「わが国独自の教育システム」の中身を国民に問うのが再生会議の役割である。官邸の言いなりでは情けない。
新潟日報 2007年1月25日
再生会議報告/理念なき「教育改革」だ
政府の教育再生会議が第一次報告を決定し安倍晋三首相に提出した。「ゆとり教育見直しのため授業時間増」「教員免許更新制」「教育委員会改革」と処方せんは多い。しかし、今の教育のどこがどう問題なのか、肝心の分析が欠落している。人目を引きそうなテーマを並べて政治的アピールを狙ったのだろうが、これでは理念なき教育いじりと言わざるを得ない。
国内総生産(GDP)に対する公教育費の割合は先進国でも最低レベルだ。再生会議で「五十年先、百年先を見据えた議論もしてまいりたい」(首相)というなら、中央教育審議会では荷の重い、こうした問題にこそ切り込むべきだがそれもない。現在の教育政策の後追いとカネのかからぬ精神論ばかりだ。
まずゆとり教育見直しとして掲げた授業時間の10パーセント増だ。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたのだろうが、子どもたちの学力にどんな問題があり、授業時間増という処方せんにたどり着いたのか、判然としない。そもそも授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一と言われるフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ない。
ゆとり教育は詰め込みではない、はげ落ちない学力を目指したものだ。国際化時代にも柔軟な思考力や対応力で乗り切っていける「生きる力」を養う狙いがある。しかし「趣旨は間違っていないが手だてに問題があった」として、文部科学省や中教審が学習指導要領の見直し作業を行っている。再生会議の報告には、こうした理念について十分検討した形跡が見られない。
報告は、基礎・基本の反復・徹底など指導方法まで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄だ。官邸が口を出す問題ではない。出席停止の活用も、子どもの状況に応じて現場で判断すればいいことだ。上から一律に「活用しろ」と言うのは、無用な混乱を招くだけだ。
広く国民の関心事である公教育なのに、再生会議の中核メンバーによる運営委員会は議事録さえ公開されていない。結論だけを下ろしてくるようなやり方はやはり問題がある。教育は政治の道具ではなく、まず子どもたちのためにあることを忘れてはならない。
北日本新聞 2007年1月25日
教育再生会議「報告」 財政裏付けない”精神論”
鳴り物入りでスタートした教育再生会議の「第一次報告」が安倍晋三首相に提出された。積み上げた論議の跡もみられないまま、取り急ぎメニューをそろえたとの印象がぬぐえない。まるで中央教育審議会の後追いとも受け取れる。肝心の教育財政には触れず、その裏付けのない精神論ばかりの教育重視では看板が泣くというものだ。
報告には教員免許更新制、地方教育委員会制度の改革、ゆとり教育見直しのための授業時間増とたくさんのメニューが並ぶ。今の教育とどこがどう違うのか、現状分析がないままでは説得力に欠ける。目先を変えたテーマを並べ、政治的アピールを狙ったのか。
日本の公教育費の割合(国内総生産比)は先進国の中でも最低レベルにある。安倍首相は「五十年先、百年先を見据えた議論もしたい」と再生会議で言った。それならば、中教審では荷が重い教育財政にこそ再生会議は切り込むべきだ。
ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間の一割増しは判然としない。「すべての子供に高い学力を」という首相の意向が反映されたのだろうが、学力向上と単純に結びつけられるのか。文部科学省が認めているように、授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一のフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ないのだ。
どんな学力を目指すかの議論を十分にしないまま、政治が強引に文科省や中教審の学習指導要領見直し作業に横やりを入れるのは乱暴すぎる。報告では基礎・基本の反復、徹底など指導方法にまで言及しているが、学校現場が子供の状況に応じて判断していくことだ。官邸が口出す問題ではない。いじめによる出席停止もしかり。上から一律に活用を指示するのは、無用の混乱を招く。
教育再生で政権浮揚のきっかけをつかもうとする思惑が見え隠れしないか。ゆとり教育見直し、教育委員会改革といったテーマが次々と報告の中に復活したのは「先送りでは首相のリーダーシップが見えないことにつながる」という官邸の意向らしい。当然、再生会議中核メンバーによる運営委員会の議事録は非公開だ。
公教育は国民の大きな関心事である。密室で詰めた論議を見せぬまま、結論だけを下ろしてきても国民の信頼などは到底、得られない。しかも、報告を閣議決定しないなどというのは、論議不十分の表れといえ、再生会議のもろさが透けて見える。教育を政治の道具などにしてはならない。子供のためにあるということを忘れたなら、教育問題の改善に逆行するばかりになりかねない。
福井新聞 2007年1月25日
首相の手のひらの上か
安倍晋三首相の私的諮問機関、教育再生会議が第一次報告を出した。「ゆとり教育見直し」など、首相の意向が強く反映されている。通常国会での法制化を急ぐとしているが、教育に拙速は禁物だ。
教育再生報告
教育再生会議は発足から四カ月弱で報告にこぎつけた。池田守男座長代理は「安倍首相の強い思いがあった」と強調した。首相自身も「百点満点の報告だ」と、自画自賛とも受け取れる評価だ。
報告の基本的な考え方は、首相の従来の主張通り「『美しい国、日本』を目指して」などとされ、学力と規範意識が強調されている。
報告ではゆとり教育の見直しと授業時間10%増などを提言し、教員免許更新の厳格化や教育委員会制度改革のための地方教育行政法改正などの緊急対応を求めている。
報告に盛られた教育委員会改革や大学九月入学制などは、有識者委員から熟慮を要するなどの意見があり、昨年十二月下旬に公表された原案では見送られた経緯がある。
「アピール性が乏しい」と受け止めた官邸側が、原案を作り直させたという。今月に入り、首相自らが合同分科会に飛び入り参加してげきを飛ばし、数日前には法改正案を通常国会に提出できるよう伊吹文明文部科学相に指示している。
支持率低下の中で教育再生を政権浮揚の目玉にするため、報告提出を通常国会に合わせたとの見方や七月の参院選向けとの観測もある。政治優先なら教育からほど遠いのではないか。各界の有識者十七人は「教育のあり方を根本から見直してほしい」と要請されたはずだ。大胆な意見提言が期待されたが、首相の意向に沿うだけというなら役割を果たしたとはいえない。
第一次報告について伊吹文科相は「中央教育審議会(中教審)抜きの超法規的措置はできない」と述べ、「通常国会で関連法案すべてを通すのは無理だ」と慎重な姿勢だ。
教育の専門家が教育のあり方を審議する法的諮問機関として中教審がある。戦後教育の中立性を支えてきた教育委員会制度や三十年近く続いてきた「自ら学び考える」本来のゆとり教育に手を付けるというのは、重大な方針転換だ。拙速は避けねばならない。
学校現場は教師が生徒と十分向き合う余裕もないほどといわれる。学校の外部評価制の導入など、これ以上の管理強化は負担を増すだけだ。
報告のタイトル通り「社会総がかりで教育にあたる」ためには、国民的な論議が欠かせない。非公開のままでは肝心の議論の中身が見えない。やはり公開すべきではないか。
中日新聞 2007年1月25日
教育再生会議報告 現状分析欠いた処方せん
政府の教育再生会議が安倍晋三首相に提出した第1次報告は「ゆとり教育見直しのため授業時間増」「教員免許更新制」「教育委員会改革」とさまざまな処方せんが並ぶが、これまでの教育のどこがどう問題なのか。肝心の現状分析が欠落し、説得力に欠ける。
人目を引きそうなテーマを並べて政治的アピールを狙ったのだろうが、中央教育審議会の守備範囲を横取りしたようなテーマが目立つ。屋上屋を架すとの印象は避けようがない。
国内総生産(GDP)に対する公教育費の割合は先進国で最低レベルだ。再生会議で「50年先、100年先を見据えた議論もしてまいりたい」(首相)というなら、中教審では荷の重い、こうした問題にこそ切り込むべきだがそれもない。省庁を超えたテーマも抽象論でお茶を濁している。動いている教育政策の後追いとカネのかからぬ精神論ばかりの「教育重視」では看板が泣く。
まずゆとり教育見直しとして掲げた授業時間の10%増だ。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたのだろうが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間という処方せんにたどり着いたのか、判然としないままだ。
そもそもゆとり教育といっても定義がはっきりしない。「ゆとり」という言葉も、変化する社会に対応するため「ゆとりをもった学習活動を」という学習の質に着目した理念である。詰め込みでない、はげ落ちない学力を目指したものである。
こうした理念について文部科学省や中教審は「趣旨は間違っていないが手だてに問題があった」として学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないままに、政治の力で強引に横やりを入れるようなやり方は乱暴にすぎる。
文科省が認めているように、そもそも授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一といわれるフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ない。
報告は、基礎・基本の反復・徹底など指導方法まで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄だ。官邸が口を出す問題ではない。かつての画一教育に戻そうというつもりなのか。
出席停止活用も、子どもの状況に応じて現場で判断すればいいことだ。上から一律に「活用しろ」と言うのは、無用な混乱を招くだけだ。
教育再生で政権浮揚のきっかけをつかもうという思惑が先行しすぎているのではないか。
「ゆとり教育見直し」「教育委員会制度改革」などいったん消えかかったテーマが報告に次々と復活したのは、「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だという。当然ながらその舞台となった中核メンバーによる運営委員会は議事録さえ非公開だ。
広く国民の関心事である公教育である。密室で詰めた論議もないまま、結論だけを下ろしてくるようなやり方はやはり問題がある。
その一方で、報告を閣議決定しないというのは積み上げた論議がないからだろう。教育は政治の道具ではなく、まず子どものためにあることを忘れてはならない。
岐阜新聞 2007年1月25日
教育再生報告/改革像が十分に見えない
安倍首相の掲げる教育改革に向け、教育再生会議が第一次報告を首相に提出した。
その内容は、「ゆとり教育」を見直すため学習指導要領を改定する▽不適格教員の排除とともに教員免許更新制を導入する▽いじめの加害児童・生徒に学校への出席停止を可能にする▽外部評価を行うなど教育委員会の抜本改革を進める-などが柱だ。
昨年末の素案に比べ、ゆとり教育の見直しや、加害側の出席停止を盛り込むなど、一歩踏み込んだ。多くの委員の反発を招いた素案のままでは「改革の印象が薄い」とみた官邸の意向が反映したようだ。
そのせいか全体として、学習量増や規律と厳罰化が前面に出た印象がある。
さらに、偉人伝の読書や武道を通じた礼儀作法の習得、高校での奉仕活動の必修化などをめざすほか、報告前文には首相が唱える「美しい国」の項目も設けられた。
ただ、そうした盛りだくさんの内容にもかかわらず、今の教育現場が抱える学力低下やいじめなどの問題解決にどう役立つのか。目標とする新しい教育像はどういうものなのか、十分に見えてはこない。
例えば「ゆとり教育の見直し」だ。授業時間の一割増や学校五日制の再検討など具体的な目標まで示した。学力低下の原因が授業時間を大幅減少させた、ゆとり教育にあるとみるためだが、学力向上への道筋は判然としない。ゆとり教育は詰め込み教育の反省から生まれた。「生きる力」をはぐくもうとした精神はどう引き継ぐのか。
報告内容の多くは、文部科学省や中央教育審議会が進めようとする改革方針とも重なる。その中で、再生会議独自といえるのは、教育委員会改革の提言である。
第三者機関による活動の評価や、原則人口五万人以下の市町村教委の統廃合、さらに都道府県が握る教員の人事権を市町村に移譲することなどを幅広く提言した。
昨年秋から大問題となった、いじめ自殺への対応のお粗末さや高校必修科目の未履修問題などをみても、教育委員会が制度疲労を起こしていることは否定しがたい。しかし、提言が決め手となるのかどうか。
首相は報告を受け、関連法案を通常国会に提出する意向を表明した。あまりに性急ともみえるが、それだけに、再生会議が今年中にめざす最終報告が大切になる。焦点をしっかり合わせて、あるべき教育像への道筋を示していってもらいたい。
ここまで再生会議の論議が非公開だったのも残念なことだ。もっとオープンにして国民的関心を呼び起こす必要がある。次の段階からでも公開を検討すべきだ。
神戸新聞 2007年1月25日
教育再生会議 現場巻き込んだ議論を
「教育の再生」という壮大なテーマに取り組むのにスピード感を強調しすぎると、拙速は避けられない。会議の派手なイメージと、現在進行形で教育現場が抱える問題の間の落差は大きい。提案が実際にどこまで有効か、国民的な議論と合意が必要である。
教育再生会議がきのう、第一次報告を安倍晋三首相に提出した。「ゆとり教育」の見直しや教員免許の更新制、将来の国家試験化などを打ちだしている。
安倍首相はきょうからの通常国会を「教育国会」と位置付ける。教員免許法改正案など三法案を成立に結びつけることで、下がり続ける支持率回復を図る。
しかし報告には、さらに掘り下げるべき要素が多い。
例えば「ゆとり教育」見直しでは、公立学校の授業時間10%増を挙げる。ただ、授業時間と学力の関係ははっきりしない。国はこれまで三十年にわたって授業時間数を減らしてきた。詰め込み教育の反省からだ。逆戻りさせない歯止めはどうかけるのか。
そもそも公教育が目指す学力はどんな姿なのか。相次いで発覚した高校の必修科目履修漏れは、現場の物差しが大学受験しかない現実を映していた。それなのに大学や企業は、若者の基礎学力不足を嘆く。「これだけは身に付けておいて」という社会合意をあいまいにしたままで、学力向上を論議するのは理屈に合わない。
いじめた児童・生徒の出席停止では、再教育と復帰はどうするのか。体罰の範囲を三月末までに事実上緩和するというが、具体的な線引きはこれからだ。
安倍首相は法案化作業の加速を指示した。直接担当する伊吹文明・文部科学相は中央教育審議会に諮る考えを示した。首相直属の再生会議と文科省、中教審の役割分担は明確でない。当初から懸念があったように、「船頭多くして…」の迷走も予想される。
再生会議は各界から十七人を集め、鳴り物入りで始まった。にもかかわらず、論議は非公開である。これが、報告が説得力を欠く大きな理由であろう。考えをぶつけ合い、まとめる過程が伝われば、国民的議論も深まる。報告は「社会総がかり」をうたうのだから、公開はなおさらだ。
安倍首相が教育を最重要課題に掲げるのは時宜にかなう。しかし手柄を急ぐようなやり方は現場の混乱を生み出すだけだ。何より当の子どもが一番迷惑である。
中国新聞 2007年1月25日
教育再生会議報告/説得力欠ける処方せん
「ゆとり教育見直しのため授業時間増」「教員免許更新制」「教育委員会改革」と、さまざまな処方せんが並ぶ。政府の教育再生会議が安倍晋三首相に提出した第一次報告の内容だ。
だが、これまでの教育のどこがどう問題なのか。肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても説得力に欠ける。人目を引きそうなテーマを並べて政治的アピールを狙ったのか、中央教育審議会の守備範囲を横取りしたようなテーマが目立つ。屋上屋を架すとの印象は避けようがない。
国内総生産(GDP)に対する公教育費の割合は、先進国でも最低レベルだ。再生会議で「五十年先、百年先を見据えた議論もしてまいりたい」(安倍首相)というなら中教審では荷の重い、こうした問題にこそ切り込むべきだ。
省庁を超えたテーマも抽象論でお茶を濁している。動いている教育政策の後追いと、カネのかからない精神論ばかりでは再生会議の看板が泣く。
例えば、ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間の10%増。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたのだろうが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間という処方せんにたどり着いたのか、判然としないままだ。
そもそも、ゆとり教育といっても定義がはっきりしない。「ゆとり」という言葉も、変化する社会に対応するため「ゆとりをもった学習活動を」という学習の質に着目した理念である。詰め込みでない、はげ落ちない学力を目指したものである。
こうした理念について文部科学省や中教審は「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として、学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で強引に横やりを入れるようなやり方は少し乱暴ではないか。
文科省が認めているように、そもそも授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一といわれるフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ない。
報告は、基礎・基本の反復・徹底など指導方法まで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄だ。大所高所に立って教育のあり方を議論する教育再生会議の仕事とは思えない。出席停止の活用も子どもの状況に応じて現場で判断すればいいことだ。上から一律に「活用しろ」と言うのは、無用な混乱を招くだけだろう。
「ゆとり教育見直し」「教育委員会制度改革」など、いったん消えかかったテーマが報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だという。その上、議論の舞台となった中核メンバーによる運営委員会は議事録さえ非公開だ。
広く国民の関心事である公教育のことだ。密室で詰めた論議もないまま、結論だけを下ろしてくるようなやり方は問題である。議論は公開の場で堂々と進めるべきだ。その際、教育は将来の国を担う、子どものためにあることを忘れてはならない。
山陰中央新報 2007年1月25日
教育再生会議報告 中教審後追いの印象ぬぐえず
政府の教育再生会議が第1次報告を決定し、安倍晋三首相に提出した。「ゆとり教育見直しのため授業時間増」「教員免許更新制」「教育委員会改革」とさまざまな処方せんが並ぶ。
だが、これまでの教育のどこがどう問題なのか。肝心の現状分析が欠落したままで処方せんを示しても、説得力に欠けるといいたい。
人目を引きそうなテーマを並べて政治的アピールを狙ったとしか思えず、中央教育審議会の守備範囲を横取りしたようなテーマが目立つ。屋上屋を架すとの印象は避けようがない。
■先進国で教育費最低■
国内総生産(GDP)に対する日本の公教育費の割合は先進国でも最低レベルである。再生会議で「50年先、100年先を見据えた議論もしてまいりたい」(首相)というのならば、中教審では荷の重いこうした問題にこそ、切り込むべきだ。これもない。
省庁を超えたテーマも抽象論でお茶を濁している。動いている教育政策の後追いとカネのかからない精神論ばかりの「教育重視」では再生会議の看板が泣こうというものだ。
ゆとり教育見直しとしては授業時間10%増を掲げた。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたのだろうが、子どもたちの学力のどこに問題があって、授業時間という処方せんにたどり着いたのか。判然としないままだ。
そもそも、ゆとり教育といっても定義がはっきりしない。「ゆとり」という言葉も、変化する社会に対応するため「ゆとりをもった学習活動を」という学習の質に着目した理念である。詰め込みでない、はげ落ちない学力を目指したものである。
■報告は閣議決定なし■
いま、文部科学省や中教審はこうした理念について、「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないままに政治の力で強引に横やりを入れるような再生会議のやり方は乱暴すぎるだろう。
文科省が認めているように、そもそも授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一といわれるフィンランドの授業時間は日本よりもはるかに少ない。
報告は基礎・基本の反復・徹底など指導方法まで言及している。だが、こんなことは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄だ。官邸が口出す問題ではない。かつての画一教育に戻そうというつもりなのか。
出席停止活用も、子どもの状況に応じて現場で判断すればいいことだ。上から一律に「活用しろ」と言うのは無用な混乱を招くだけだ。教育再生で政権浮揚のきっかけをつかもうという思惑が先行しすぎているのではないか。
「ゆとり教育見直し」「教育委員会制度改革」など、いったん消えかかったテーマが報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だという。当然ながらその舞台となった中核メンバーによる運営委員会は議事録さえ非公開だ。
公教育は国民の関心事である。密室の中で詰めた論議もしないまま、結論だけを下ろすようなやり方はやはり問題がある。報告を閣議決定しないというのも積み上げた議論がないからだ。
宮ア日日新聞 2007年1月25日
ゆとり教育見直し 「週5日制」にこだわらずに
政府の教育再生会議がまとめた第一次報告の最終案で、「授業時間数の10%増加」が盛り込まれた意義は大きい。ゆとり教育の本質は「授業時間の削減」にあり、ここを変えなければ、根本的な見直しにはならないと思うからである。
授業時間を増やす案として、現行の週五日制を維持したまま、夏休みの短縮や七時間授業などが検討されている。だが、週五日制にこだわり過ぎていては、授業時間を増やそうにも限界がある。本気で見直そうとするなら、週五日制を「聖域」扱いにしておく必要はない。授業を無理やり平日に積み増しするより、土曜日を積極的に活用することを考えてほしい。
学力低下の原因については、専門家の間にもさまざまな意見がある。このなかで最も説得力があるのは、「ゆとり」の名のもとに八〇年代以降の学習指導要領の改訂で、算数や数学、国語などの基礎教科の授業時間が削減され続けてきたという事実である。
たとえば、中学校の授業時間は二十年前に比べて理科で40%、国語で30%、数学で25%も削減された。小学校六年間の算数の総授業時間数は六百五十四時間にまで減り続け、米国の千八十時間、フランス九百五十二時間、英国八百七十時間と比べてもはるかに少ない。国際学力比較調査で世界のトップレベルにあった日本の学力が中位レベルに転落したのは、当然の帰結だろう。
週五日制は、子供が家庭や地域で過ごす時間を増やし、考える力や生きる力をはぐくむのが目的だった。だが、現実はどうか。中学二年生が宿題をする時間は、国際機関の調査で日本が四十五カ国中最下位、テレビやビデオを見る時間はトップというデータもある。
授業時間を増やせば学力が向上すると考えるのは短絡的だという声もあるが、基礎学力を身に付けさせるには時間が必要だ。「読み書きソロバン」の言葉通り、計算能力や読解力は子どものころに反復練習してこそ高められる。学力不足対策は、まず授業時間を国際水準並みに戻すことから始めなくてはならない。基礎学力を高める時間を十分に与えることが、本当の意味の「ゆとり教育」ではないのか。
北國新聞 2007年1月22日
先生は元気になれますか/教育再生へ報告案
安倍晋三首相の肝いりで発足した政府の教育再生会議が、「ゆとり教育」見直しなどを盛り込んだ第一次報告案を大筋了承した。二十四日の総会で正式決定、首相に提出する。
報告案は多岐にわたる内容になっている。有識者委員たちの教育に対する現状認識を網羅的に並べた感じもあり、どれだけ現実政策に反映するか不明だ。末端の教育現場にいる教師たちが元気になれるだろうか。
報告案は「七つの提言」と「四つの緊急対応」から成っている。
提言の一番目に、「ゆとり教育」を見直し、学力を向上する−と掲げた。そのため、授業時間を10%増やすのだという。
低下していると言われる子供たちの学力を引き上げる手段として、薄すぎる教科書の改善をし、補習などのため「土曜スクール」を実施するという。
国民等しく学び、学力を身につけるのは当然だ。しかし、教師たちの多くは、学習指導だけをしているわけではない。クラブ活動に携わり、非行防止など生徒指導にも奔走する。
しかも、学校によっては、これらを掛け持ちしているケースが多い。県内の教育関係者の中にも「教師は忙殺されている」という声がある。
そんな先生にとって、授業時間数増加は、精神的にも肉体的にも負担になるだけではないだろうか。
いじめ問題、学級崩壊など学校が抱えている課題は少なくない。そこで報告案は提言の二つ目に、「学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする」とうたった。
いじめをした児童・生徒に対して現行の出席停止制度を活用することを明記した。
さらに、緊急対応として「体罰の範囲」に関する政府通知を三月末までに見直すとしている。授業中に騒いだ児童・生徒を教室外に出すことも「体罰」としている基準の変更を想定しているようだ。
いじめたことが明らかな場合や、授業妨害行為が過度な場合に出席停止を命じたり、教室から出てもらうことも必要なのかもしれない。
しかし、いじめの掌握は困難だ。陰湿で見えにくく、表面的ないさかいの裏に何があるか見抜くのは容易でない。
ことは単純ではない。運用するにはアフターケアをきちんとする必要がある。保護者の理解を求める努力も欠かせない。教師だけの力では、限界がある。
教育委員会や行政が今以上に学校、教師を支えないと、これも現場の負担感を増幅する。
報告案はほかに、高校での奉仕活動の必修化、教員免許更新制の導入、第三者機関による教委や学校の評価、小規模市町村教委の統廃合など多様な提言をした。
「改革の方向性を示した」と再生会議の委員たちが自賛する一方で、再生会議の報告に縛られずに協議していこうとの声が根強い。
「教育改革は時代の流れ」というが、ポイントを絞り段階的に議論を重ねるのがよいのではないか。何よりも、第一線で頑張っている教師たちを後押しするものでなければならない。
東奥日報 2007年1月21日
教育再生会議提言 無視できない教師の多忙さ
政府の教育再生会議は合同分科会の1次報告案を了承した。24日の総会で決定し安倍晋三首相に提出する。
しかし、提言にある「ゆとり教育」の見直しや、いじめ対策などには問題がある。教育現場を混乱させないよう、さらなる論議が必要だ。
会議は教育基本法改正に合わせて、首相の私的諮問機関として発足した。だが審議中、いじめによる自殺が多発し必修科目の未履修問題も起きたため論議の行方が全国的に注目された。
ところで、教育再生を論議する上で教師に疲労感が広がっているという実情を踏まえておく必要がある。それが度外視されているのは問題だ。
県教委が昨年と1昨年行った調査で県内公立小中学校、県立高校などの教諭の8割が、日常勤務を多忙と感じていることが分かった。「とても忙しい」は全体の3割もあり、生徒や同僚との対話不足を嘆く声は少なくない。
これは全国的傾向だ。文部科学省の調査では2005年度、うつ病などの精神疾患で休職した公立小中高の教職員数は、過去最多の4178人に上り10年間で約3倍になっていた。
その理由として同省は、勤務多忙に加え保護者や同僚との人間関係のストレスなどを挙げ、職場環境が年々厳しくなっているとみている。
さて、報告案の「7つの提言」ではゆとり教育の見直しを掲げて授業時間10%増を明記した。また、いじめ対策としての出席停止措置の積極活用や、高校における奉仕活動の必修化なども盛り込んだ。
これに続く「4つの緊急対応」ではいじめ対応のための「体罰の範囲」の見直しや、不適格教員排除につながる教員免許更新制の導入、教育委員会制度の抜本改革を求めている。
この中で教委制度に関しては、情報公開や市町村教委への人事権移譲、民間も含めた教育長や委員の人選など、硬直化した制度への思い切った改革が必要だろう。だが、このほかの提言や対応案には問題が多い。
ゆとり教育の見直しは、これまでの授業時間削減の流れを約30年ぶりに転換することにつながる。具体的には1日7時間授業、小学校での教科担任制拡充などが検討された。
低下の目立つ基礎学力の強化には賛成だ。しかし教師にゆとりのないまま時間延長すれば授業の質的低下を招きかねない。増員や職務軽減なども含め総合的に検討しなければならない。
また同案は、不適格教員排除のため給与に能力給を導入し、教員の評価に保護者や児童・生徒らが加わることも提言している。これは、評価ばかりを気にする教師を育て、教師と生徒間の関係をゆがめかねない。マイナス面も含め慎重に考えるべき課題だ。
いじめ対応では学校教育法が禁じている体罰の範囲を「教師が毅然(きぜん)とした指導ができるよう」見直すことを求めている。これは体罰容認ととらえられかねない微妙な問題だけに現場からの意見聴取が不可欠だ。
安倍首相は、提言を受けてからどう動くだろうか。教育改革に熱心なのはいいが「暴走」はごめんである。
陸奥新報社 2007年1月21日
現場無視では混乱招く
政府の教育再生会議が第一次報告案をまとめた。近く安倍晋三首相に提出する。
短期間にあれもこれも盛り込んだ、言いっぱなしの提言が並ぶ。議論をもっと詰め、制度や対策の整合性を高めないと、現場が困るだけだ。
野依良治・理化学研究所理事長を座長とする同会議では文部科学省出身者中心の事務局が先月、今回報告の骨子案を示した。だが会議の議論が反映されていないとの反発が強く了承されなかった。
今回は満足感を示す委員が多い。言いたいことが盛り込まれたようだ。だが逆に言えば、多岐にわたる議論が生煮えのまま提示された印象が強い。
報告案は四つの緊急対応と七つの提言からなる。緊急対応は▽体罰の範囲見直し▽教員免許更新制導入▽地方教育委員会制度の抜本改革▽学習指導要領改定−で速やかな法改正などを訴える。
緊急対応の基となる七つの提言は、最初の「『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」提言だけでも、授業時間の10%増や学校選択性の導入など、六項目を含む…といった具合だ。「体罰」見直しや授業時間増でも明らかなように、慎重な検討が欠かせないことばかりだ。
今回報告の背景には、教育法案を通常国会の目玉にし、参院選対策にも使いたい安倍政権の意向が透ける。実際、年明け以来、官邸が積極的に会議に加わり、議論をリードしたという。
一方で教育改革の実務は、文科省が中教審などの諮問を受けながら推進している。今回の緊急提言なども実際の法案化作業は文科省担当となる。だが中教審の議論と再生会議の議論は、重ならない点も多そうだ。
自らも再生会議に加わる伊吹文明文科相の歯切れが悪いのも当然だろう。小規模市町村教委の統廃合を求める再生会議報告案に「中教審にもう一度お尋ねするのが筋」と慎重なのもうなずける。
日本の教育や学校が、さまざまな問題を抱えていることは確かだ。いじめ問題などは、早急に取り組まねばならない。一方、ゆとり教育の見直しや授業時間の10%増などは、学校の役割や、家庭や社会の現状に対するしっかりした調査と分析の上でなされるべき問題だ。
授業時間を一割増やせ、と言うのは簡単かもしれないが、学力向上と単純に結びつけるのは乱暴だし、週五日制や総合的学習の時間の問題も関連する。
ゆとり教育の採用は、生きる力をはぐくむ狙いがあった。見直すのなら、その点の対応策も当然必要だ。土曜休みがもたらした効果と欠点の分析も要る。公教育の公平さが教育バウチャー制度などで守られるかも大いに疑問だ。
こうした点が、再生会議できちんと論議され意見集約されたとは思えない。それなのに安倍政権は、通常国会に関連法案の提出を急いでいる。
拙速な改変は揺れ動く教育行政に振り回されている現場の混乱を増すだけだ。
京都新聞 2007年1月21日
教育再生報告案 目先の変化では展望は開けない
安倍晋三政権の最重要課題を委ねられた教育再生会議が、第一次報告案をまとめた。
ゆとり教育見直し、いじめ対策、教員免許更新制導入、教育委員会や学校の外部評価制度導入といった「四つの緊急対応」と、「七つの提言」が柱だ。国が教育を施す権利を重視し、国家管理色の強い改正教育基本法を投影した内容といえる。
三カ月での作業は首相の意欲の表れにはちがいない。教育への根強い不安や不信にこたえようと努めたことは理解できる。
とはいえ、文部科学省との主導権争いによる迷走は、拙速ぶりを強く印象づけた。
ゆとり見直しや免許更新制は事務局の骨子案で見送られていた。復活したのは首相側の意向だ。賛否の分かれる外部評価も、とりまとめ直前の分科会を機に一転して盛り込まれた。
文科省出身者が中心の事務局に対し、支持率急落に直面する首相は参院選を控え、譲歩した印象を避けたかったのだろう。
だが、伊吹文明文科相は「出てきたことをその通りやるわけではない」と語った。こんなことでは今後の制度設計や法案作成も心もとない。
再生会議と文科省や中央教育審議会のどちらが上位か。報告案にはどこまで拘束力があるのか。だれが実現に責任を持つのか。国民にはわかりづらい。
しかも、報告案の中身の多くは中教審などがすでに打ち出しているうえ、いずれも微妙な項目で慎重な吟味が欠かせない。首相は通常国会で必要な法改正に着手するというが、時間をかけて論議を深めるのが筋だ。
たとえば、ゆとり教育見直しの前提とされる学力低下についても多様な評価がある。
東京大が全国の公立小中学校長を対象に昨年行った調査では、二十年前と比べ学力が「変わらない」「上がった」とする答えが「下がった」を上回る。二〇〇四年の学力テストでは、ゆとり路線を掲げるいまの学習指導要領の導入前に比べ正答率が全体的に上昇、学習意欲にも向上のきざしが見えた。
まずは検証が必要で、短絡的な詰め込みへの回帰ならかえってついていけない子を増やす。それでなくとも首相の掲げる競争原理導入は機会の不平等を加速させるおそれをはらむ。影響の見きわめが不可欠だ。
いじめた生徒に対する出席停止制度の活用にしても、近年は加害者と被害者が簡単に入れ替わるなど複雑化しており、運用は難しい。いじめをより見えにくくする可能性もある。そもそも加害者のフォローが伴わなければ根本的解決にならない。
教員免許更新制では、中教審もあえて否定する「不適格教員の排除」を目的として明示した。恣意(しい)的運用の危険性などで議論を尽くしたのか、非公開の再生会議からはうかがえない。
首相は重い責任を背負ったことになり、指導力が厳しく問われる。だが目先の変化に固執しては教育を漂流させ、現場で再生を担うべき教員も混乱させる。もとより即効薬はない。現場の声を謙虚に聴きたい。
愛媛新聞 2007年1月21日
教育再生報告*合格点はつけられない
政府の教育再生会議が、「ゆとり教育」の見直しやいじめる側の子どもの出席停止措置などを盛り込んだ一次報告案をまとめた。
子どもの学力低下やいじめ対策が、喫緊の課題であることに異論はない。
しかし、報告案からは、学力向上やいじめ根絶につながる具体的な道筋が見えてこない。合格点をつけるには無理がある。
政府は、報告の内容を閣議決定しない方針だ。政策として実現する手順もあいまいだ。
再生会議は、教育現場や父母、地域住民の意見を踏まえ、もっと現実的な教育改革案を練り上げる必要があるのではないか。
報告案は、学力向上のために従来のゆとり教育の路線転換を提言した。授業時間を10%増やすという。
再生会議の委員の間には、ゆとり教育が学力低下を招いたという共通認識があるようだ。
二○○四年の国際学力調査では、日本の子どもは基礎基本の知識は習得しているが、肝心の考える力が身についていないと指摘されている。「できる子」と「そうでない子」の学力の二極化も深まっている。
考える力を養うには、教え方の工夫や、学習指導要領で定められた教科内容の見直しが必要だ。ゆとり教育の問題点の検証も欠かせない。
ところが、報告案はそこまでは踏み込んでいない。再生会議の委員が授業時間を増やせば学力向上を実現できると考えているならば短絡的すぎる。
学校では、いじめる側といじめられる側がひんぱんに入れ替わるなど、複雑な形でいじめが起こっている。いじめの手口も、メールを使ったりするなど多様化している。
報告案のように、特定の子どもを出席停止にして厳しく対処するというだけでは、いじめ根絶は困難だろう。
小中学校が連携しながら、地域全体でいじめをなくす仕組みを考え、粘り強く指導を重ねることが欠かせないのではないか。
再生会議はこのほか、指導力不足教員を排除するための教員免許更新制や、高校生の規範意識を養う奉仕活動を必修とすることを提言している。
学校の外部評価の実施や、学校選択を可能とする「教育バウチャー(利用券)制度」も検討課題という。
学校間競争をあおり、教育現場の管理を強化する安倍政権の改革をなぞった内容で、賛否が分かれるものだ。
「社会総がかりで子どもの教育にあたる」と言うのなら、国民の理解を得ながら進める工夫があっていい。公聴会の開催や、審議過程を全面公開するなど、議論を深める必要もある。
上から政策を押し付けるだけでは、教育現場は混乱する。
北海道新聞 2007年1月20日
教育委員会 あわてた改革はだめだ
「名誉職」になりがちで、責任の所在がわかりにくい。事なかれ主義に陥る−。とかく批判の多い教育委員会制度について、政府の教育再生会議が改革案を出している。目玉は教育委員会の「あるべき姿」を示して、外部から評価するシステムを作ることだ。
教委制度は形がい化しているとの声も多く、見直す必要はある。しかし拙速な改正は避けるべきだ。地方分権の中で、国や都道府県、市町村の教委がどんな役割を担うのか、丁寧な論議がないままでは、教育の再生につながらない。
教委制度は、教育の政治からの中立や安定性を確保するために1948年に生まれた。原則5人の教育委員による合議制だ。教育長を除き非常勤。月1、2回ほどの会議は、事務局の提案を「了承する」形になりがちだ。
昨年明らかになった北海道のいじめ自殺では、道教委がいじめを記した遺書を知りながら放置していた。学校や教委の対応に批判が集中したため、再生会議でも教委制度見直しを重要テーマにした
改革案には、第三者機関による教委の外部評価制度、小規模市町村教委の統廃合などが盛り込まれている。いまは都道府県教委にある公立小中学校教員の人事権を、市町村教委に移譲する案もある。
評価制度案は国が教委の活動の基準や指針を示し、都道府県や市町村の評価委員会と国の機関が二重に評価するものだ。これまで以上に国の指導を強める仕組みになる。
これでは現場が委縮しかねない。人事権の移譲も、自治体の財政力や人口の違いにより、教員確保に差がつく心配がある。
再生会議の論議は始まってからたった3カ月だ。同会議は提案を実現するために、次の通常国会への地方教育行政法改正案提出を求めている。改革にはスピードも必要とはいえ、戦後教育の根幹をなす教委制度を見直すには時間が足りない。急ぎすぎてはいい結果を期待できない。
教委制度をめぐっては、中央教育審議会が2005年に制度の弾力化や市町村や学校の裁量を拡大する改革方針を打ち出している。教委の廃止や縮小を求める意見もある。教育分野に力を入れる首長も増えつつあり、政治との距離の取り方も難しくなってきた。
教育行政の活性化をめざすならば、教育委員の選任方法や定例会の在り方の見直しなど、地域の実情を踏まえて深く、広く、時間をかけて論議すべきだ。あわてた改革で国が一律に号令をかけても、教育はよくならない。
信濃毎日新聞 2007年1月20日
教育再生会議報告 十分な論議が欠かせない
安倍晋三首相の肝いりで昨秋発足した政府の教育再生会議が、二十四日に首相に提出する第一次報告の最終案をまとめた。
第一次報告は「四つの緊急対応」と「七つの提言」を柱とし、「ゆとり教育」の見直しや教育委員会の抜本改革、教員免許更新制導入など多岐にわたる施策が盛り込まれた。現行の教育制度を大きく変える内容だ。
これを受けて政府は、二十五日に開会する通常国会への関連法案提出などの準備に取り掛かる。いじめ対策など急ぐべき課題もある。
しかし、首相の意向を反映した第一次報告は全体に管理強化の色合いが濃く、教育現場からの反発も予想される。拙速は避け、広く国民の理解を得ながら進めてほしい。
ゆとり教育の見直しでは、授業時間の10%増や補習のための「土曜スクール」実施などを明記した。実現すれば、一九七〇年代半ばから続いてきた授業時間削減の流れを約三十年ぶりに転換することになる。
ゆとり教育は過酷な受験戦争や詰め込み教育への批判から導入された。見直しの理由には学力の低下が挙げられている。なぜ「ゆとり」を効果的に生かせなかったのか、十分な検証がされないまま方向転換することへの疑問が残る。
伊吹文明文部科学相は授業時間増に関連し、学校週五日制の見直しについて「すぐに結論が出せる問題ではない」と慎重な姿勢を示した。当然だろう。何より国民的合意を得ることが欠かせない。
教育委員会の抜本改革は避けて通れない。事務局の追認機関となり形がい化しているとの指摘や、名誉職化しているとの声がある。
このため、原則として人口五万人以下の市町村教委を統廃合し、都道府県教委から市町村教委へ教員人事権を移譲するとした。実施されれば、人口の少ない徳島県などへの影響は大きいだろう。
人事権移譲に対しては、本県など多くの都道府県教委が人材の遍在化や教育水準の地域間格差を招くとして、反対を表明している。十分な論議をしながら改革を進めるべきだ。
いじめや学級崩壊に対応するため、体罰の範囲を厳格に規定している終戦直後の政府通知を本年度内に見直し、「教師が毅然(きぜん)とした指導ができるよう」改める。
現行では、授業中に騒いだ生徒を教室外に出すことも体罰として禁止しているが、それを一部容認することなどを念頭に置いているようだ。
生徒への影響を考慮しつつ、実態に合わせて教師が適切に対処できるようにする必要があるだろう。
いじめをした生徒の出席停止措置の活用も盛り込まれたが、出席停止の判断基準が難しいうえ、出席を停止した生徒への適切なフォローが十分できるのかという問題がある。慎重に検討しなければならない。
第一次報告の取りまとめは難航したが、おおむね安倍首相が初会合で検討を求めた事項に沿った中身になった。五月には第二次報告、年末には最終報告をまとめる。
再生会議は、できるだけ教員の生の声を反映させる工夫が必要だ。実践する教員の協力が得られなければ、絵に描いたもちに終わる。
現在、非公開にしている議論も公開すべきだ。そうすれば、より多くの国民の知恵を結集できる。
教育基本法の改正で今年から教育制度が大きく変わろうとしている。国会も目先の政治的駆け引きにとらわれず、正面から本質的な教育論議を戦わせてもらいたい。
徳島新聞 2007年1月20日
【教育再生会議】百年の大計には遠い
「国家百年の大計」という言葉は安倍政権の教育行政では重んじられないのだろうか。政府の教育再生会議が了承した第1次報告案には、そんな印象がつきまとう。
「4つの緊急対応」は、「ゆとり教育」見直しのための学習指導要領改定、いじめ問題への対応強化などを打ち出している。国民に関心の高いテーマを取り上げようとする姿勢はうかがえるものの、報告案は拙速の感が否めない。
例えば「ゆとり教育」見直しでは公立学校の授業時間10%増を提言しているが、授業時間数と学力の因果関係ははっきりしない。それを検証するのが今春実施の第1回全国学力テストではなかったか。
教育再生会議は、文科相の諮問機関、中央教育審議会との役割分担も不明確だ。答申や報告が乱発されるようでは、教育行政は「船頭多くして…」の状況になりかねない。
憲法改正とともに教育改革を政権の最重要課題と位置付ける安倍首相は、就任直後の昨年10月、教育再生会議を発足させた。在任中、臨時教育審議会を設置した中曽根元首相の手法とよく似ている。
「スピード感を持って、結論を出していく」(塩崎官房長官)ことを期待された教育再生会議が、審議開始から3カ月でまとめたのが第1次報告案で、「4つの緊急対応」と方策を具体化した「7つの提言」を柱にしている。
目を引くのは「ゆとり教育」の見直しだ。授業時間の増加のほか、薄すぎる教科書の改善、補習のための「土曜スクール」の実施、習熟度別指導の拡充などを提言する。
学力に対する不安や不満は保護者や経済界を中心にくすぶっている。こうした声は無視できないが、対応策を考える上では欠かせない視点がいくつかある。
一つは客観的なデータだ。日本の子どもの学力には国際比較調査などを基に多様な意見があるが、授業時間数の削減と学力低下の因果関係を立証した資料はない。この問題は全国学力テストなどを通じて地道に検証するしかない。
現場の不満
1970年代半ばからの授業時間削減は、それまでの詰め込み教育への反省から生まれている。「落ちこぼれ」などの問題のほかに、創造的な研究や仕事をする人材が生まれにくいとの批判があった。
もし授業時間数を増やすと、こうした問題はどうなるのか。30年ぶりに転換するのであれば、影響を多角的に分析する作業が欠かせない。
学習指導要領については、中教審が学習内容や授業時間数を増やす方向で検討しており、この結果を踏まえ文科省は2007年度に改定する予定だ。再生会議の一次報告は「屋上屋」のそしりを免れない。
報告には、いじめ問題対応における「体罰の範囲」の見直し、不適格教員排除につながる教員免許更新制導入なども盛り込まれている。しかし、その多くは他の審議会などで既に方向が打ち出されており、新味を欠いている。
昨年12月施行の改正教育基本法は、教育振興基本計画の策定を求める。文科省は計画目標を中教審に諮問することになっているが、この作業と再生会議報告との関係はどうなるのか。まだ明確な説明はない。
全国の公立小中学校を対象にした東大の調査では、校長の85%が「教育改革が速すぎて現場がついていけない」と答えている。方向が定まらない教育行政への不満でもあろう。
今、政治に課せられているのは、どっしりとした教育行政の構築だ。
高知新聞 2007年1月20日
問題の解決に有効なのか 教育再生会議
安倍晋三首相の肝いりで発足した政府の教育再生会議が、第1次報告案を大筋で了承した。24日の総会で正式決定し、首相に提出するという。
報告案は、「ゆとり教育」の見直しなどを求める「4つの緊急対応」と「7つの提言」が柱となっている。
教育問題に対する国民の関心は極めて高い。多くの国民が教育の現状を憂い、改革の必要性を痛感している。
教育改革を内閣の重要課題に掲げ、有識者の英知を結集して問題に立ち向かおうとする政権の意欲と姿勢はまず、率直に評価したい。
だが、報告案に盛り込まれた数々の提言が、教育現場の抱える深刻な問題の解決にどこまで有効かどうかは十分な吟味が必要だろう。教育の最前線で格闘している現場の声を聞くとともに、国民的な合意形成の努力を怠ってはならない。
報告案は昨年末に示された骨子案に比べると、具体的な提言が確かに増えた。素案の段階で盛り込まれながら骨子案で削られた「ゆとり教育の見直し」が復活したのは、その象徴だ。
学力低下の一因とされる「ゆとり教育」に対する風当たりは強い。詰め込み教育への批判を受け、小中学校の授業時間は1970年代から減り続けてきた。「学校週5日制の完全実施」「総合的な学習の時間の創設」「学習内容の3割削減」に踏み切った現行の学習指導要領は「ゆとり教育」の総仕上げともいわれる。
その「ゆとり教育」を見直すため、公立学校の授業時間を10%増やすという。これでどんな教育効果が期待できるのか。「ゆとり教育」の検証とともに、かつて批判された詰め込み教育に回帰しない歯止めも真剣に考えねばなるまい。
「教育委員会の抜本改革」も大きなテーマだ。教員の人事権を都道府県教委から市町村教委へ移譲するとともに小規模市町村教委は統廃合するという。第三者機関「教育水準保障機関」(仮称)による学校や教育委員会の外部評価も盛り込まれた。
ところが、伊吹文明文部科学相は教育委員会制度の見直しに関して「中央教育審議会(中教審)にもう1度尋ねるのが筋だ」としている。
この発言が象徴するように、首相直属の諮問会議である教育再生会議と、実際の教育行政を担う文科省や中教審との関係や役割分担は必ずしも明確ではない。
教育再生会議が迷走してきた要因の1つも、ここにあるのではないか。
報告案の中に「道徳の時間」の確保と充実や、高校での奉仕活動の必修化などが盛り込まれているのも気掛かりだ。「規範意識」をすべての子どもたちに教えるためだというが、首相が唱える「美しい国づくり」の教育論に迎合したような印象も否めない。教育現場が戸惑ったり、混乱したりする恐れはないのか。そうした慎重な配慮も求めておきたい。
西日本新聞 2007年1月20日
学校が消えると…
ある小学校が廃校になる時「地域の文化が消えるのと同じ」との論旨の記事を掲載したことがある。児童の母親から「複式学級では都会の子より遅れる」との抗議を受けた。
「よそ者が感傷的な気分だけで取材している」とも話していた。確かに電車で私立小学校へ通い進学塾に行く都内の児童より知識量は見劣りするかもしれない。しかし、当事者から自己否定するような意見を聞かされ鉛のような無力感だけが今も胸に沈んでいる。
どれほど鈍感な記者でも小さな集落の小学校の運動会、入学式、卒業式の取材に行くと涙腺をゆるめてしまう。学校の行事は地域の最優先行事。子どもは地域の宝である―と皆が思っていることが、身を切るように伝わってくるからだ。
北川町教育委員会が町内の3小学校を廃校にする方針を固めた。教育委員が10数回の審議を重ね、地元住民に説明した末の結論という。県教委は財政難を理由にした廃校を認めず、町教委は「適正規模の学校運営持続は無理」との理由で今回の結論を導いている。
よそ者が指摘するまでもなく、10数回に及んだ審議の回数だけで苦悩のほどがうかがえる。父母に先立たれ実家がなくなるのは世の常かもしれない。それより、無垢(むく)な時を過ごした小学校が消え去る方が、よほど身にこたえそうである。
教育再生会議は文教族に押され、独自色を打ち出せずにいる。国庫負担論議の際に噴出したが「地方に教育は任せられない」と考える文科省官僚は多い。機会平等は保障されず集落は存続の危機を迎える。これでは義務教育とは言えない。
宮ア日日新聞 2007年1月19日
教育委員会改革・子どもが主人公を念頭に
政府の教育再生会議が教育委員会制度改革に関連し、小規模自治体の教委を広域行政単位に統廃合する方向で調整に入った。都道府県教委が持つ公立小中学校の教員人事権を市区町村教委に移譲することや、教委や学校の教育成果を評価・監査する全国規模の第三者機関設置も打ち出す考えだ。
いじめを苦にした児童・生徒の自殺が相次ぎ、少年犯罪も後を絶たない。高校必修科目の未履修拡大は社会問題化した。自治体の教育行政をリードする教育委員会の見直しは急務だろう。再生会議からの具体的な改革案の提示は、事態を放置せず、積極的に改善していこうとの熱意の表れと受け止めたい。
要は改革の中身である。広域行政単位への統廃合は、組織のスリム化で多様な教育問題への対応力を高める狙いがあるが、統廃合の検討対象とされている人口5万人以下の小規模市町村に対し、目配りができなくなるようでは困る。地域の隅々まで状況を把握するフットワークのある態勢を整えることが前提だ。
教員人事権の移譲は、2005年の中央教育審議会(中教審)答申にも盛り込まれており、財源と裁量を地方に委ねる地方分権時代の流れと言える。移譲する側の都道府県教委には「人事権が市区町村に移れば、へき地での教員採用が難しいなどの問題が生じ、教育水準の格差が広がる」と警告する声もあるが、教育行政への権限強化を求める全国市長会は「いじめ対策などで迅速に対応できる上、人事権を持てば優秀な教員を確保し、教育面で独自色を打ち出せる」と主張する。
教育現場に近いのは市区町村の教委だ。都道府県教委が人事権を既得権として堅持したいと考えるなら、時代にマッチしない。東京都教委のように「市区町村間で人材調整の仕組みが整えば、財源も含めて人事権を移してもよい」と前向きにとらえたい。
自治体の教育行政は、政治的中立の維持、行政の安定、住民の意思反映などを基本としている。教育委員会が知事や市区町村長から独立した行政委員会として設置されるゆえんだ。
そんな中で「わが国と郷土を愛する態度を養う」ことをうたう改正教育基本法が成立した。愛国心を強調するあまり、国にとって都合のいい方向へと子どもたちを引き寄せないか懸念される。
教育は「子どもが主人公」という基本を忘れないようにしたい。
その意味では再生会議の改革案にある第三者機関の設置、情報公開の促進、教職経験者に偏らない教育長人事などは検討に値しよう。メンツなどではなく、実態を踏まえた改革が求められている。
琉球新報 2007年1月15日
教育再生会議 急いては事を仕損じる
混迷する教育に何とか打開策を見いだしたい。そんな大きな役割を担って発足した「教育再生会議」が迷走気味だ。議論がかみ合わず、意見をなかなか集約できずにいるのである。
安倍政権が最重要政策の一つに掲げ、首相直属の諮問機関として鳴り物入りでスタートした割に、存在感が薄いとの感じがしないでもない。
しかし、物は考えようだ。最初から結論が見えているような諮問機関では意味がない。しかも話し合っているのは難題中の難題の教育なのである。
教育の重要性は何度でも指摘されていい。質の高い教育を施せるかどうかは個人のレベルを超え、この国の行く末も左右しかねないからである。
その意味で教育再生会議は結論を急ぐべきではないだろう。成果を挙げようと急(せ)くあまり、間違った処方せんを導き出すようでは元も子もなくなる。将来をにらみ、じっくり議論を深めていく必要がある。
再生会議のこれまでの議論でいくつかの方向性は見えてきた。その代表例が「ゆとり教育の見直し」で、近くまとめる第一次報告に明記する見込みだ。
思い切った提言に見える。学力低下は数多い教育問題の中でも緊急を要する課題であり、見直しが実施されれば、教育の一大転換となるからである。
しかし、見直すのであれば、ゆとり教育の功罪の徹底検証が不可欠だ。もし不適切な教育政策だったというのなら、文部科学省をはじめ推進者の責任も問われなければならない。
既にゆとり教育の下で学校を終えた人たちはやり直しがきかないのであり、教育政策のブレで混乱し被害を受けるのは子どもや教師たちだからだ。
見直しの際、もう一つ欠かせない視点は大学教育、特に入学試験との関係である。
高校必修科目の未履修問題は大学入試の厳しさは変わらないのに、高校まではゆとり教育を施そうとしたことに一因があると見て構わないだろう。
つまり学校教育は小学校、中学校、高校、大学という一連の流れの中で考えなければ、不都合が生じかねないのだ。
児童・生徒ばかりか、大学生の学力低下も著しい。今回見直すのなら、小中高校と入試を含めた大学教育との整合性もきっちり検討すべきではないか。
再生会議が第一次報告に明記する見通しの「いじめをした児童・生徒の出席停止措置」も気になるところだ。
いじめ自殺が後を絶たない以上、厳格対応はやむを得ないのかもしれない。しかし、出席を停止され、半ば排除された格好となる児童・生徒がどうなるのかという懸念が残る。
第一どんな基準で出席停止と判断するのか。いじめはあったことさえ把握しにくいケースが多い上、学校が互いを監視し合う「犯人さがし」の場となる危険性も否定できなくなる。
出席停止措置は導入するにしても、極めて慎重な運用が求められるし、ほかに方法がない場合の最終手段とすべきだ。
まずは学校を挙げていじめをしない、させない取り組みに全力を傾ける。それが教育の本来の姿であろう。
秋田魁新報 2007年1月13日
何を変え 何を守るか*3*地域の「教育力」を鍛える
いじめを苦に、自ら命を絶つほど追いつめられた子どもがいる。
指導に疲れ、心まで病んでしまう教師もいる。
教育の未来はどうなるのか。不安感が教育現場を覆っている。
学校の再生は喫緊の課題だ。
教育基本法改正を実現した安倍晋三首相は「ダメ教員にはやめていただく」と現場の尻をたたく。
だが、それだけで教育再生が実現できるものではないだろう。
社会全体で子どもを「育てる力」を取り戻すことが先決だ。教員の努力も大切だが、今こそ父母や住民たちの出番なのではないか。
子どもたちが生きる地域を、もう一度見つめたい。父母や住民、地元の企業が、自ら何ができるのかを真剣に考え、行動に移すときだ。
*大切な父母や企業の協力
恵庭市島松小には、児童たちが「田中さんちの畑」と呼ぶ菜園がある。昨秋は菜種を植えた。
外食産業のアレフ(札幌)が、種を無償で提供した。春になれば、菜種を有料で買い取って食用油をつくり、児童に無料で配る計画だ。
菜園の面積は約二アール。PTA元会長の田中和紀さん(52)が、無償で土地を提供している。
菜種の栽培は、田中さんとアレフが企画した。同校は菜種油のリサイクルや廃油の利用法などを理科の授業に取り入れた。児童は環境の大切さに興味を持ち、春の菜種摘みを楽しみにしている。
田中さんら父母は、学校の近くを流れる川にちなんだ「柏木川プロジェクト」という名前のグループも結成している。
一九九九年に活動開始し、現在は七十人が参加。川遊びやサケの稚魚放流の授業を手伝っている。
昨年は河川敷に二十本の桜の苗木を植えた。土地を管理する札幌土木現業所千歳出張所の職員も、子どもの植樹作業に協力した。
*再生のカギ握る住民の力
企業や土現を巻き込み、地域ぐるみの教育活動に盛り上げている点がユニークだ。
父母や企業がうまく協力し合えば、独自の学校づくりができることを島松小の事例は示している。
いかにして地域の「教育力」を結集するか。ここに教育再生の一つのカギがありそうだ。
江別市いずみ野小では、注目すべき父母の活動が続いている。
同校は、従来のPTAを廃止し、新たにC(シチズン=市民)を加えたPTCAという住民と父母の組織をつくった。十年前のことだ。
三百四十三世帯が参加し、「ぞうきんをつくる会」「本を補修する会」など十五サークルが活動中だ。
学校行事の運営もPTCAが中心だ。運動会では保護者席が混乱なくとれるように話し合いで決める。
地域防犯パトロールも自主的に行い「学校運営に欠かせないパワー」(伝住修一教頭)になっている。
住民の大半は、札幌などからの「引っ越し組」で、「わがまち意識」の希薄な土地柄だ。
「だからこそ、逆に住民が自発的に結集しなければ」と、PTCA会長の桜田智之さん(44)は語る。
江別市教委は二○○五年度から、父母が小中学校を自由に選べる学校選択制を、岩見沢市とともに道内自治体に先駆けて導入した。
住民の動向が注目されたが、いずみ野小では、校区外の学校を選んだ住民はほとんどいなかった。
「学校づくりを通じ、住民の一体感が生まれた結果だ」という桜田会長の言葉は傾聴に値する。
地域づくりの基本は学校にある。この考え方が活動を支えている。
学校選択制は、文部科学省が学校間の競争を促進しようと全国的に推進している。競争が地域の教育力向上につながるわけではないことを、文科省は再認識すべきだろう。
*上からの押し付けでなく
学校と住民の協力体制をつくることは、口で言うほど簡単ではない。失敗例もある。
文科省は○二年度、全国で九校の「地域運営学校」を試験的に導入した。保護者や住民が学校運営に参加する新しいタイプの学校だ。
しかし、現実には父母と学校側の意思疎通がうまくいかなかった。
原因は、文科省が「上」から学校と地域の協力体制を押し付けたからだと、教育学者は指摘している。
教育の再生には、もちろん学校側の努力も欠かせない。
例えば、石狩管内新篠津村の新篠津小は、五年生の授業に「田植え」や「稲刈り」を取り入れている。
児童の六割が農家の子どもたちだ。後継者不足も深刻化している。
保護者アンケートでは「授業で農家の仕事を教えてほしい」という要望も多い。同校は、そば打ちやみそ造りも教えている。
子どもに知識を教えることはもちろん重要なことだ。
同時に、大人が働く姿を見せ、地域の住民が多様な生き方や価値観を伝えていくことも、子どもの社会性を培ううえで欠かせないだろう。
地域の住民が体験を通して教えてくれたことは、教科書では学べない知識だ。
それは、間違いなく子どもが成長し、複雑な社会で困難を乗り越える「糧」となる。
北海道新聞 2007年1月4日
何を変え 何を守るか*2*格差と貧困への対策急務
嫌な言葉だが「勝ち組・負け組」、「下流社会」が流行語となり、すっかり定着してしまった。
格差は小泉純一郎前首相が進めた構造改革の「負の遺産」としてさまざまな分野で拡大した。安倍晋三政権になってもその傾向は変わらず、むしろ深刻になっている。
かつて「マル金(金持ち)」「マルビ(貧乏)」という言葉がはやったことがある。一九八○年代半ば、日本経済はバブルの絶頂期に向かって突き進んでいた。
そのころから国民の意識は変化していたのだろう。だが、当時と大きく違うのは社会のひずみが若者に集中してあらわれていることだ。
広がる格差とどう向き合い、どう是正すればいいのか。日本社会のあり方が問われている。
*現実を直視することから
東京都内のネットカフェは、フリーターが寝泊まりする場となっているところも少なくない。
パソコンとリクライニングシートがあるだけの狭い部屋だが、深夜に入店すれば朝まで千円ちょっとで過ごせる。
住む家のない若者らが昼間は派遣やパートで働き、夜になると戻ってくる。常連も多い。
ある民間研究機関の推計によると、フリーターの平均年収は百六万円にすぎない。
いくら働いても生活保護水準に満たない収入しか得られない。残酷な言葉だが「ワーキングプア」(働く貧困層)だ。これでは独立して生活するのは難しいだろう。
格差問題はいまや高所得者と低所得者の階層分化ではすまず、貧困問題としてとらえなければならないところまできている。
この現実をしっかりと直視することが、格差是正に向けた議論の出発点になるのではないか。
フリーターの多くは、九○年代後半の就職氷河期に定職に就けなかった人たちだ。
能力が十分あるのに正規雇用されなかった人もいて、企業にとっては都合のいいときだけ使える雇用の緩衝材となっている。
戦後最長といわれる景気拡大で、一部の大学では「バブル期並み」の売り手市場となっている。だが、企業は新卒の採用には意欲的でも、フリーターなどの正社員化には極めて消極的だ。
四百万人ともいわれるフリーターがこのまま四十代、五十代を迎えたら、日本はいったいどんな社会になるのだろう。
大企業はここ数年、空前の好決算に沸いている。企業の社会的責任として、雇用システムの見直しを真剣に検討すべきときだ。
*問われるべき政府の姿勢
「格差が出ることは悪いことではない」。小泉前首相は国会で、格差を容認する発言を繰り返した。経済効率を高めるために所得格差の拡大はやむを得ない、という信念からだったのだろう。
ライブドア前社長の堀江貴文被告も同じようなことをいっている。「それで将来格差がひらいたっていいじゃありませんか。みんなエリートに食べさせてもらえば」。その著書「儲(もう)け方入門」での発言だ。
ニートやフリーターが社会問題となる一方で、東京・六本木の高層ビルにオフィスを構えた堀江被告らはヒルズ族と呼ばれ、派手な生活が一部でもてはやされた。
小泉政権ではこうした人たちが持ち上げられ、格差を助長するような政策がとられてきた。
確かに経済の活性化には一定の競争は必要だが、だからといって格差拡大を放置していいということにはならない。社会から貧困をなくすことは政府の役割のはずだ。
安倍首相になって所信表明演説で「格差を感じる人に光を当てるのが政治の役割だ」と述べるなど、方向転換したかにみえた。
だが、新年度予算案に盛り込まれた再チャレンジ支援策は、相談窓口の増設など既存の政策の焼き直しばかりだ。そこには格差問題を真正面から受け止めようという姿勢はまったくみられない。
*「機会の平等」をどう確保
昨年末の政府税制調査会総会でのことだ。
一部の委員から格差問題への対応が提起されたが、結局は成長重視の声にかき消され、答申にはほとんど反映されなかった。
税を通じた高所得者から低所得者への所得再配分が、格差是正への有効な手段であることは間違いない。
ところが日本ではこの二十年間で所得税の最高税率が大幅に引き下げられ、高所得者が優遇される一方で低所得者には不利な税制に移行している。再配分機能は低下しており、見直しは必要だ。
政府の役割でもう一つ重要なのは「機会の平等」の確保だ。
高所得者の子供しかいい教育を受けられないのでは、格差は固定化してしまう。努力や能力次第で進学できるよう、公立学校や奨学金制度の充実が急がれる。
格差を完全になくすことは難しいだろう。だが、低所得でも安心して働き暮らせるような社会をつくることは、緊急の課題だ。
政府は自らに課せられた責任の重さを自覚してほしい。
北海道新聞 2007年1月3日
防衛省もいいけれど、「美しい国」には文化省がいる
日本の戦後の来し方を振り返り、国のあり方とそれを担う省庁の姿について提案したいことがある。文化の国づくりという戦後日本の建国の理念に沿って、新たに「文化省」を設けることである。
中国や欧米の文化を受け入れて発展してきた歴史から、日本人はとかく、優れた文化は外から入って来ると思いがちである。しかし、浮世絵が西洋絵画に多大の影響を与えた例などを持ち出すまでもなく、日本独自の伝統文化は世界に誇ってよい。
近年は、豊かな伝統文化の土壌から生まれたアニメーションや映画、ゲームソフト、音楽、小説など日本の現代文化が高く評価され、世界の若者らを魅了している。安倍晋三首相がめざす、品格のある「美しい国」づくりとは、一つには、こうした自国の文化に自信を持ち、一層磨きをかけることにほかならない。
・建国の理念実現を
一国の「国力」は通常、軍事力と経済力によって測られるが、文化力もまた国力の大きな要素である。最近はソフトパワーという言い方で、外交における文化の力が一段と重視されるようになっている。ソフトパワーとは、例えば世界の人々に「日本に来てみたい」とか「日本のまねをしてみたい」と思わせる魅力のことである。「文化国家」の建設という戦後の日本の目標は、「武」や「金」よりも、「文」の魅力によって世界に存在感のある国をめざそうということである。
そのために必要な文化政策を強力に展開するべき国の機関(文化庁)が、文部科学省の「外局」にとどまっている現状は心もとないと言わざるを得ない。現在の文化庁を「省」に格上げすることは、日本の国づくりにとって、ある意味では防衛省昇格以上に重要である。
歴史ある欧州の国々をみると、フランス、英国、イタリアなど多くは文化省を置いて文化政策に力を入れている。フランスは昔から「文化大国」であったわけでなく、第二次大戦後に文化省を設置し、作家のアンドレ・マルローを文化大臣に抜てきするなどして文化政策を戦略的に展開した結果である。そこには、「文化は国力になる」という明確な認識があった。
大戦に敗れた日本が文化国家を標ぼうしながら、経済成長の追求を優先したのはもっともなことであった。豊かな文化は生活の安定があってこそであり、たゆまぬ努力で「経済大国」を実現したことは、大いにたたえられてよい。
しかし、経済的な豊かさを得た後も、「文化立国」という国づくりの理念がわきに置かれたままの状態であり、文化力を国力に高めていこうという政府の覚悟も戦略も不十分に見えるのは残念である。安倍首相には、省庁再編によって「美しい文化国家」の実現をめざしてもらいたいと思う。
・「治安省」の創設も
戦後日本のもう一つの旗印である「平和国家」への歩みは、自信を持って語ってよいことであり、国内の平和―治安の良さは世界有数のものとほめられてきた。それでも、危機管理の甘さは否めず、凶悪犯罪の多発など安全性において不安を覚えずにはいられない状況になってきた。そこでもう一点、「治安省」の創設を提言したい。
社会の安全を確保するための国家機構をみると、ばらばらで非効率なのに驚かされる。警察庁は内閣府の外局である国家公安委員会が管理する特別な機関であり、海の安全を守る海上保安庁は国土交通省の外局である。さらに、法務省の外局として公安調査庁が置かれ、厚生労働省の地方組織のもとに麻薬取締官が配置されるという状況である。
関連する組織がこのように分散化されたのは、警察から土木、厚生、自治までを統括した戦前の内務省が解体されたことに伴う結果であるが、これらの組織を統合し、より精強で効率的な「治安省」にした方が、国民生活の安全の維持、向上のためはもとより、行財政改革のためにもよいのではないか。
また、文化省を創設するなら、文部科学省を総務省と一体化させるのが望ましい。教育行政が国と自治体の共同責任であることを考えれば、何ら不都合はないはずだ。旧郵政省と合体した総務省に文科省を統合するなると、またぞろ旧内務省の復活といった批判が聞こえてきそうである。確かに戦前の内務省は利権と警察権力がつながって弊害もあったが、警察組織を外してしまえば、そうした心配は無用であろう。
北國新聞 2007年1月3日
「戦後体制」のよさは守り抜こう 次代に何を伝えるか
この国は今、大きな変化の渦中にある。
自由経済が世界を席巻して地球が単一市場と化し、私たちはいや応なく、国境を超えた激しい経済的競争に巻き込まれていく。
情報技術(IT)を中心とする急速な技術革新は、産業構造だけでなく、人々の生活様式まで変えつつある。
ある意味では、ダイナミズムに満ちあふれた時代だ。人々は懸命に知恵を絞り、競争に挑み、この変化の時代を生き抜こうとしている。
その一方で多くの人が、心の中に漠然とした不安を抱えている。
変化の先に、一体どんな世界が待ち受けているのか、この国がどこに行こうとしているのか、だれも明確な展望を示せない。
古い技術があっという間に無用の長物と化し、大切に守り続けるべきだと思っていた理想までもが「時代遅れ」と否定される。
変化の渦中で、戦後培われてきた価値体系まで揺らいでいることが、人々の不安を増幅しているのではないだろうか。
昨年9月、変化の時代の申し子とも言うべき小泉純一郎前首相の後を受けて政権を担った安倍晋三首相は、「美しい国 日本」をつくるために「戦後レジーム(体制)からの脱却」を目指すという。
着々と打たれる布石
戦後体制とは、一体何だろう。
私たちがまず思い浮かべるのは、日本国憲法に示された平和主義や国民主権、基本的人権の尊重といった概念であり、この国に初めて根付いた民主主義という政治システムであり、自立した個人としての「私」を重んじる思想潮流だ。
それは今や、普遍的価値としてこの国に定着していると言っていい。
だが、安倍首相は昨年12月、戦後民主教育の理念的支柱となってきた教育基本法の改正を果たし、首相在任中の憲法改正にも意欲を示している。まさに、着々と「戦後体制からの脱却」への布石が打たれているのだ。
首相に近い識者らは、戦後体制のひずみを指摘し、警鐘を鳴らす。
いわく「個人主義が行き過ぎて利己主義と化し、規範意識が希薄化している」
いわく「権利ばかりを声高に主張する風潮が目立ち、『公』に対する『義務感』や、他者への奉仕の精神が忘れられている」
うなずける面も多々ある。安倍首相が言う「戦後体制からの脱却」は、変化の時代の先にある国の姿や、新しい秩序を探ろうとする試みなのだろう。
だが、私たちは、それによって戦後の「よさ」までもが否定される懸念を捨てきれない。
安倍首相は以前から、「占領時代の残滓(ざんし)を払拭(ふっしょく)するべきだ」と主張していた。憲法改正に関しては「戦後生まれの私たちの手で新しい憲法をつくることが大切」という。
そこには、「戦後体制」を米国の占領政策によって押しつけられた体制とみなす思想がうかがえる。
首相が伝統文化や家族の大切さを訴え続けているのも、占領体制のくびきを脱し、占領政策で破壊された古きよき日本の伝統を回復しない限り、真の国家の自立はないと考えているからだろう。
推測するに、首相が言う「美しい国」とは、「公」への義務を重んじる規律正しい国民が暮らし、普通の軍隊をもつ普通の国なのだろう。
根を下ろした価値観
だが、民主主義を含む戦後体制が上から与えられた体制であるにせよ、その「いい面」まで否定する必要はあるまい。
現代の日本人の精神風土が、一部識者が警鐘を鳴らすほどに荒廃しているとも思いたくはない。
1995年1月、阪神地方を襲った阪神淡路大震災を思い起こしてほしい。6000人を超す人命が失われる大惨事の中でも略奪や暴動が起こることはなく、被災者たちが悲しみに耐えながら互いに助け合う姿は、海外のメディアに称賛された。
2004年10月の新潟県中越地震では、「何か役に立ちたい」というボランティアが全国から、まさに自発的に被災地に集まった。
惨事や危機に際して現代日本人が示した高い規律や他者への思いやりの実例として、私たちに鮮烈な記憶を残している。
「戦後のひずみ」は確かにあるが、日本人の心から、自分が帰属する集団への愛や規範意識が失われたわけではないのだ。改めるべきひずみをあげつらうあまりに、私たちが謳歌(おうか)してきた「個」の自由や「平和」の大切さまでかすんでしまうようでは困る。
そうした戦後的価値体系は、既にこの国にすっかり根を下ろし、安倍首相が言う「伝統」とは違った意味で、伝統となっているのではないだろうか。
それを守り、次世代に確実にひきついでいくことが、この変化の時代に生きる私たちの責務だ。
西日本新聞 2007年1月3日
[「憲法」で考えたい]九条の理念守ってこそ 「なし崩し」感覚が怖い
「歴史的な大作業だが、私の在任中に憲法改正を成し遂げたい」
就任後初の臨時国会が閉会した後、安倍晋三首相は会見でこう述べ、自らの政治理念実現に意欲を示した。
伏線になったのは、教育基本法改正案が衆参の賛成多数で承認され、防衛庁を「省」に格上げする法案も通過したことがあるのは間違いない。
言うまでもないが、憲法と教育基本法は不離一体といっていい。昨年十一月、朝日新聞の「夕陽妄語」で評論家加藤周一氏は「憲法を根本的に改めれば教基法を改めるのが当然で、教基法を改めるには『憲法の精神』を改めることが含意される」と記した。
「改憲について何らかの正当な合意がない今日、教基法改訂案を強行採決するのは暴挙である」とも書いている。
この言葉が持つ意味を私たちはしっかりと検証し、国会議員の一挙手一投足に注意を払う責務がある。
教基法は教育の「憲法」と言われる。それはまた国家百年の大計を築く礎であり、その根本法は日本の将来像を鮮明に映し出す。
にもかかわらず衆院教基法特別委員会で目にしたのは、野党欠席の中で行われた与党による強行採決である。
しかも、二〇〇三年十二月の岐阜県岐阜市に始まる五回のタウンミーティングで内閣府の「やらせ質問」が明らかになった時期に重なる。
論議すべき課題をなおざりにして、多数によるなし崩し的な採決に不信感を抱いた国民は多いはずだ。が、問題は国民一人一人がどれだけ疑問の声を上げたかである。
子どもの未来、日本の将来に深くかかわる法律のタウンミーティングが、法案賛成に偏ったシナリオで進められたのだから政府の責任は極めて重い。
一方で、内閣府の依頼に応じた多くが教育関係者だったという事実にも不安を抱かざるを得ない。
安倍首相が唱える美しい国が、「個」よりも「国」に重きを置いたとき、平和国家の理念はどう変換されるのか。“いつか来た道”をたどらぬためにも、今なお有効な憲法の理念で現実を捉え直し、平和と民主主義にきちんと向き合うことが私たちの責務だろう。
喜ぶのは国民より米軍
防衛省法も同じことが言える。同法案が衆院安保委で審議された時間はわずか十四時間余でしかない。
批判に対し、議員は「国民の負託を受けた私たちの採決」と述べた。だが、国民は平和主義の理念を変える動きを容認したわけではない。
九日に発足する防衛省のために、政府・与党は、関連法である自衛隊法の改正により自衛隊の「付随的任務」とされている(1)国際緊急援助活動(2)国連平和維持活動(PKO)(3)周辺事態法に基づく後方地域支援―を「本来任務」にすることも構想している。
意図するのは、米軍の軍事活動を後方支援しやすくし、米軍と一体化した軍事行動を可能にする動きと言っていいはずだ。
換言すれば「戦争ができる国」への転換であり、「最も喜んでいるのは米国」と言われるゆえんである。
集団的自衛権を認めてはならず、「平和主義」理念と「専守防衛」の範疇からの逸脱も許してはなるまい。
国民が気づかぬうちに海外派兵に道を開いては禍根を残す。
第九条の理念は私たちが世界に誇るべき“不戦の哲学”であり、世界が殺伐としつつある今だからこそ勇気を持って発信していく意義がある。
“翼賛”的空気を懸念
安倍首相は、二十五日に開会する通常国会で憲法改正手続きを定める国民投票法案の審議に入るつもりだ。
与党は投票権者を「原則十八歳以上」(当面は二十歳)とすることなどを了承し、民主党との実務者レベルで合意していた九項目について共同修正案の作成を目指している。
野党第一党の民主党も政治理念の基本的部分が自民党と似通う点が多い。
地方議会を含め総与党体制と映るところに“翼賛”的な空気が漂ってきているのは間違いなく、その意味では、政治に向き合う一人一人の姿勢が問われていると言わざるを得ない。
「戦後レジーム(体制)からの脱却」(安倍晋三首相)と改憲ムードの中で右側に大きく舵が切られるのであれば、私たちは全力でその動きを正さなければなるまい。
第二項を含む第九条はその試金石であり、国民の憲法意識が試されていることを肝に銘じたい。
沖縄タイムス 2007年1月3日
何を変え 何を守るか*1*「国とは」を問い直すとき
世の中が急速に右に傾いている。
かつて保守的だと批判された評論家が、今は「左寄りだ」と糾弾される。書店には中国や韓国を敵視して排外的な機運をあおったり、国家を礼賛したりする書物が並ぶ。
しばらく前には常識と思われた自由、平和、人権という価値は疑わしいもののように扱われている。若い世代にもこの傾向は広がる。
そんな時代に「美しい国」「戦後体制からの脱却」を唱える安倍晋三首相が登場し、保守派の念願だった教育基本法改正、防衛庁の省昇格を実現した。政界には次は憲法改正という空気がみなぎる。
冷戦が終結し世界は激変した。経済のグローバル化は国境をあいまいにした。テロへの恐怖も広がる。人びとは経験したことがない競争にさらされ、不安を募らせている。
誰もが安心して暮らしたいと願う。しかし、それは首相の唱えるように国家意識を築き直せばもたらされるのだろうか。
社会が右に傾く今、「国とは何か」を冷静に考える必要がある。
*若者はなぜ右に傾くのか
昨年八月十五日、小泉純一郎前首相が靖国神社を参拝した。その直後にNHKが番組で実施したアンケートが、若者の意識を映し出した。
五十歳代と六十歳以上では賛否が拮抗(きっこう)し、二十−三十歳代では賛成が72%に上った。事前の各種調査では反対が賛成よりやや多かったが、首相の参拝映像が流れて支持が逆転し、中でも若い層が突出した。
格差を生んだ小泉改革の被害者の若者が前首相を熱狂的に支持した。
保守思想に詳しい北大公共政策大学院の中島岳志助教授は、黒人の抵抗から生まれ、いま若者たちに人気の音楽ヒップホップを例に、右に傾く若者の精神構造を説明する。
日本のヒップホップの特徴は一部でナショナリズム肯定がうたわれていることだ。ここにはかつてのヒッピーに通じる意識があるという。
ヒッピーは近代文明を拒み精神的価値を求めた。今も若者は体制に反発し、精神的なものを求めている。
が、それを受け止める文化がヒッピーを生んだ左の側になく、民族や伝統など精神の尊重を唱えるナショナリズムに接近しているという。
「右」の考えに違和感がない若者に、前首相の靖国参拝は常識に挑んだ象徴と映ったのではないか。
*それぞれで異なる郷土愛
政権運営がまずいために安倍内閣の支持率は低下している。しかし、首相の保守的な国家観は、不安を強める社会に受け入れられやすい。
首相は、著書「美しい国へ」で、生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつべきだと説き、国に対する帰属意識は郷土愛の延長線上に育つと強調している。伝統、文化、歴史の尊重が重要だとも言う。
郷土を愛する気持ちは多くの人が自然にもっている。しかし、その感情は「国を愛すること」に一足飛びに結びつくものなのだろうか。
「国」という言葉は幅広い。「お国なまり」は郷土を指す。近代的な国家という考え方なら明治以降に形作られた。国についてはさまざまなとらえ方があり、考え方がある。
言えるのは、歴史と文化を同じくすることが国の条件だとは決め付けられないということだ。
日本には沖縄の人びとやアイヌ民族、在日韓国、朝鮮人がそれぞれの歴史や文化をもって住んでいる。一つ一つの地域ですらそれは違う。郷土愛もそれぞれであり、多様な存在を含めて国があると言える。
改正教育基本法は「伝統と文化の尊重」と、それをはぐくんだ「我が国と郷土を愛する」ことを教育目標に掲げる。伝統・文化を国が認定し国を愛せと教えることは、異なる考え方の排除につながりかねない。
これは杞憂(きゆう)だとは言えない。靖国参拝に反対した自民党の加藤紘一氏の実家が放火され、昭和天皇発言を伝えた新聞社に火炎瓶が投げつけられた。が、当時の小泉首相、安倍官房長官には言論を脅かすテロを積極的に非難する姿勢はなかった。
*憲法をめぐる重要な岐路
国とは何かを考えることは憲法を考えることだ。安倍首相は在任中の憲法改正を明言している。次の国会で改正のための国民投票法成立をめざす。改憲の動きは加速する。
自民党が一昨年まとめた憲法草案は、戦争放棄を定めた九条改正と並んで国をめぐる記述が焦点だ。
草案前文は「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る」ことが国民の責務と記す。
権利と義務の項では「自由と権利には責任及び義務が伴う」とし、「公益及び公の秩序に反しないよう自由を享受し、権利を行使する」ことも国民の責務だとしている。
近代立憲主義で憲法は、歴史的にみて独断専行に陥りやすい国家に、守らなければならない人権の尊重や、してはならないことを規定し命じるものだと理解されている。
自民党草案は現行憲法が基づくこの理念を退け、国が国民に責務を課して秩序を回復しようとしている。
これでは、国の方針以外は認めない窮屈な日本にならないか。めざすべきは多様な考えの人びとが共に生きる国だろう。今が重要な岐路である。世代を超えて「国とは何か」を考えたい。(5回掲載します)
北海道新聞 2007年1月1日
新しい人間中心主義 年のはじめに考える
「戦後最長の景気拡大」と「企業空前の高収益」がよそごとのような年明けです。この国は未来を取り戻さなければなりません。新しい人間中心主義によってです。
ことし満六十歳。順次、定年を迎える団塊世代六百八十万人の第一陣に属する身として、昨年暮れに発表された「東大生の学生生活実態調査」の囲み記事を興味深く、また、多少の同情をこめて読みました。
東大生といえば同世代の中の「勝ち組」で、社会に出るにも最も恵まれた立場にある若者たちでしょう。
その東大生でさえ七割が就職に不安を感じ、三割近くが「自分がニートやフリーターになるかもしれない」と回答していたからです。
若者には未来がある
人はだれも未来に一抹の不安を抱くものでしょうが、東大生たちの回答には怯(ひる)みが感じられます。徹底した市場原理主義と競争社会が緊張を強いるのでしょう。
それに比べ、団塊の世代が社会に出るころは幸せな時代でした。高度経済成長のただなかで、明日は今日より豊かだという確かな未来がありました。
企業組織にあって、「努力」や「勤勉」「律義」や「誠実」は、なお大切な徳目で、何より労働は喜びであったり、自己表現であったり、生を充実させるものでもありました。
若者をめぐる境遇は、いま、一変しています。
バブル崩壊後の長く絶望的な不況からの脱出のためにはそれしか方法がなかったのかどうか。
企業の大幅な人件費の削減と組織の中核を形成する社員以外は非正社員化することを打ち出した「新時代の日本的経営」(一九九五年・旧日経連報告書)。それに直撃されたのが、団塊ジュニアともいえるべき世代でした。
企業にとって、パートやアルバイト、派遣労働などの非正規雇用は、安価で、必要な時に必要な量だけ調達できるこのうえなく効率的なものでした。打ち切りも容易で、非正規雇用は一気に広がっていきますが、ことに不遇だったのは、永く厚い就職氷河期下にあった若者でした。
二〇〇五年現在で、十五−三十四歳の男女でパート、アルバイト労働に従事すると定義されるフリーターは二百一万人を数えます。平均年収は百四十万円です。
国の基盤が壊れてしまう
七割が正社員を希望しながら脱出できず年長フリーターとなっていきます。結婚し、子供をもち、家庭を築きたい、というごく当たり前の願いが叶(かな)いません。そんな国に未来はあるのでしょうか。
小泉前政権で加速された市場原理主義と新自由主義による構造改革で貧富と格差はさらに拡大しました。
働く者の三人に一人、千六百万人までになった非正規雇用。生活保護受給はかつての六十万世帯から百五万世帯に、その生活保護世帯よりさらに所得の低いワーキングプア層まで生まれてきました。
景気は「いざなぎ」を超えて五十九カ月連続の拡大、東証一部上場企業はこの三月期には四年連続で過去最高益を達成する見込みですが、企業に、収益を雇用や賃金に振り向けようとする動きはみられません。
企業間競争のグローバル化、高コスト体質に逆戻りすることを恐れるからなのだそうですが、すでに出生率は一・二六まで低下しています。産みたくても産めない社会では、一企業の消長どころではなく、国の基盤そのものが壊れてしまいます。早急に立て直しが必要です。
国の財政配分は再建のカギのひとつですが、「雇用政策費」も「教育費」も医療・年金などの「社会保障給付費」のいずれも対GDP(国内総生産)比支出は先進国中の最下位グループです。いかに道路、河川、ダムなどの公共事業中心だったか。
財政事情は厳しく有限です。公正な配分や負担がどうあるべきか、徹底した議論が必要でしょう。
が、若い世代が希望をもてない国に未来があるとは思えません。
行き過ぎの市場原理主義に否定されてしまった人間性が復活し、資本やカネでなく新しいヒューマニズムが息づく社会−そんな選択であるべきです。
受け継がれる格差
格差はいまや世代を超えて引き継がれ、固定化しつつある、というのが社会学者たちの報告です。
確かに政界では、安倍晋三首相も小泉純一郎前首相も、自民党の有力議員の多くが二世、三世議員です。生まれながらにして統治権力の側に就くことが約束されているかのような新階級の出現にさえみえます。
勝ち組世襲議員に敗者の現実がみえ、心情が理解できるかどうか。
悲願の改定教育基本法を成立させた安倍政権の次なる目標が改憲ですが、そこに盛り込まれている権力拘束規範から国民の行動拘束規範への転換こそ、勝ち組世襲集団の発想に思えるのです。
国民の内にある庶民感覚と感情のずれ。改憲に簡単にうなずけない理由のひとつです。
中日新聞 2007年1月1日
新しい年を迎えて 思いやりある社会に戻そう
暖冬異変といわれる中で、新しい年を迎えた。猛威をふるったノロウイルスもようやく下火になったが、注意を怠らず元気にこの年をスタートしたい。
ことしは、いよいよ団塊世代のトップバッターである一九四七(昭和二十二)年生まれが六十歳の還暦を迎える。
善くもあしくも変化が好きで、”猪突(ちょとつ)猛進“、戦後の日本社会を動かしてきた団塊世代だ。厚生労働省の世論調査では五十代の七割が「六十歳以降も働く」と意欲的だが、新たな状況にどんな生き方を見せるか、楽しみである。
世代交代の進展にあわせ、仕事の継承だけでなく、社会のさまざまな分野で支え手側に回るのも、元気な六十代に期待されている役割ではなかろうか。
社会全体では明るい材料が見え隠れしている。国内経済が全体的には堅調となり、景気拡大は五十九カ月を超えて戦後最長を更新中だ。大学生や高校生の新卒採用率が高まったのは喜ばしい。
一方、景気低迷期に正規採用から締め出され、パートや派遣で暮らす人たちは割を食ったままだ。いったんレールからはずれた人の再挑戦や再復帰が極端に難しいわが国の状況は変わっていない。都市と地方の格差も大きい。格差の固定化を狙う動きすら目に付く。
経済や財政回復のしわ寄せで生じた社会のゆがみを正し、公正な社会を取り戻すことに、今年はまず専念したい。
「国家の品格」売れて
数学者の藤原正彦さんが書いた「国家の品格」が、売れ続けている。発行部数は二百二十万部を超え、昨年の国内第一位(新書部門)となった。
論理を徹底すれば問題が解決するという考え方は誤りだ、論理の出発点こそが問われる−などの真理を、現実世界にあてはめて”論理的“に説明してくれた点が人気を呼んだのかもしれない。
それだけでなく、金銭至上主義を退け武士道精神からくる慈愛や誠実、名誉、卑怯(ひきょう)を憎む心を尊ぶこの本が受けたのは「今の日本はどこか変だ」と感じる人が増えた結果ではあるまいか。
戦後日本の経済成長は、年功序列や終身雇用と不可分だった。成長の分配は総中流意識をもたらし、雇用の安定は生活の安心をもたらした。貧富の差の小ささは犯罪の少なさとも無縁でない。
その長所がこの三十年ほど、経済や雇用環境の変化とともに徐々に失われ、格差が広がる。生きづらさを覚える人が増えてきた。バブル崩壊後の金融政策や労働規制緩和がそれに拍車をかけた。
「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」「働くことは、はたを楽にさせることだ」などの言葉は、死語になったのだろうか。いや、いま一度考えようとの機運が見えるのではなかろうか。
グローバル経済が世界を乱暴に変えつつある現実も見据えながら、働く意味や共生社会の可能性を問い直したい。
トインビーの願いは
二十世紀を代表する歴史家の一人、トインビーは一九六五年、国家主権や民族主義、イデオロギーと宗教の対立などに警告しつつ、それらを包みこむ世界政府への期待を込めた著書「現代が受けている挑戦」を世に出している。
「政治目標は社会生活を無政府状態の結果生まれる暴力から…法と秩序の支配する平和と安全に置き換えることによって解放することである」とも述べ、技術の進歩により「世界中の誰もが金と余裕をもつようになることを期待できる」との楽観的観測も述べた。
四十余年後の今日、国際社会の混乱や極端な格差を見たらどう言うだろう。戦略論の権威、ハンチントン氏の言う「一極・多極世界」の中で緊張や対立が増した現実は、知性を信頼したトインビーの願いとかけ離れるばかりだ。
環境破壊や食料危機など、近未来の危機に目をつぶり、近視眼的な対応に終始する国ばかり目立つ。米国もロシアも、国の指導者たちが公益と私益の区別をあいまいにし、平和構築への世界観を欠いているように見える。「テロとの戦い」でさえ我田引水が感じられる。
「法と秩序」が「平和と安全」に役立つ国づくり、世界づくりを目指したい。日本にとってその指針となるのは憲法であり、国連憲章ではなかろうか。
戦後の歩みに自信を
団塊世代よりはるかに若い五十二歳の安倍晋三首相は、政権の目標に憲法改正を掲げる。改憲の主目的が九条改正にあるのは自民党の草案でも明白だ。
だが九条改正には不安を禁じえない。9・11後の世界で、日米軍事同盟は緊密化している。在日米軍再編の最終報告書(昨年五月)では「日米同盟は、新たな段階に入る」とまで明記された。国民への詳しい説明もないままで。
自衛隊の存在を憲法に位置づけようという考えは理解できるし、九条を取り巻く状況に矛盾があることは確かだが、いま九条を変えれば日米軍事融合に歯止めがかからなくなる。それが怖い。
諸外国の国民が日本を見つめる目は温かい。米国のメリーランド大などが二〇〇五年に世界三十三カ国で行った四万人調査でも、「世界に良い影響を与えている国は」との問いに最も多くの回答(三十一カ国)が集まったのは日本だ。
なぜだろう。日本製品の優秀さや日本文化、料理などへの評価もあろうが、憲法の理念に基づいた非軍事的な手段による海外貢献の成果ではなかろうか。
私たちは、戦後の歩みに自信を持つべきだ。平和主義にしっかり立って、拝金主義を覆す思いやりある社会を取り戻していくことこそが大切だと考える。
京都新聞 2007年1月1日
【年頭に当たって(1)戦後体制】民権揺らす国権の流れ
新しい年が明けた。団塊の世代の大量退職が始まり、少子化進行で大学が全入時代を迎える現象は、「2007年問題」とも言われる。
いびつな人口構成を背景に、日本社会がそのありようを問われる一年になりそうだが、横たわっているのは2007年問題だけではない。
防衛庁の省への昇格は、安全保障の転機を物語る。保障と言えば、高齢者を中心に医療・年金など社会保障への不安が消えない。これらも争点となる統一地方選、参院選、さらに本県では高知市長選、知事選も控えている。
何が変わろうとしているのか。どう変えればいいのか、あるいは変えてはならないのか。教育基本法改正が提起した問題を皮切りに、4つのテーマを年頭に考えてみたい。
教育基本法改正案の国会審議が大詰めを迎えた昨年12月7日、高知市で反対集会が開かれた。目を引いたのは県内小中高の元校長らが、かつて属した組合の違いなどを超えて大勢集まったことだ。
戦前への反省を込めて、「教え子を戦場に送るな」は、戦後教育の合言葉だった。基本法改正を平和憲法改正の布石とみて、危機感を募らせた参加者がいた。愛国心を一律に教え込むことに懸念を抱く人もいた。
その一方で、世論調査を見ると、愛国心を教えることを支持する層も存在する。最近の子どもたちの状況から、国家や公共の精神について教えた方がいいとの考えもあろう。
どちらにも十分な理由があるが、基本法改正に関しては見過ごせない点が潜んでいる。国家と個人の関係をどう考えるか、明治の自由民権運動に倣うと国権と民権のいずれを上位に置くか、という問題だ。
通読した中江兆民が「苦笑するのみ」だったように、1889(明治22)年2月公布の明治憲法は、民権より国権が優先していた。その直後にできあがった教育勅語は、憲法と呼応する内容を持っていた。
これは偶然だろうか。実は憲法と教育の関係は、太平洋戦争の後でも繰り返されている。
深い所で連動
戦争への反省から生まれた日本国憲法は1946(昭和21)年11月に公布され、翌47年5月に施行された。教育基本法は施行2カ月前の3月に制定されている。
新しい憲法と憲法に準じる教育基本法は、人権を重視し、人間の内面にかかわる部分への国家の関与は抑制する思想で貫かれている。
明治憲法体制とは異なる思想を柱に据えたのが戦後日本の出発点だった。教育基本法制定の翌年、国会は教育勅語の廃止を決議している。
「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する」との条文があるとはいえ、教育基本法改正案に反対の声が上がったのは、国と郷土を愛する態度を養うことが明記されたためだ。愛国心の受け止め方は多様でも、それを学校教育の場に持ち込むことは、憲法の原理との間にあつれきを生じる。思想の自由に対する危機意識が、多くの元校長を高知市の集会に向かわせた面がある。
教育基本法の原理に手を加えることは、深い所で憲法改正問題とも連動する。改正するなら憲法が先という意見もあるが、順序はともかく政党レベルの改憲論が高まってきたのは決して偶然ではない。
ことしで施行60年になる憲法は、これまでは一字一句変えられなかったが、教育基本法改正によって空気が変わる可能性がある。事態は深く、静かに進行している。主権者としての自覚を再認識して、動きを注視したい。
高知新聞 2007年1月1日
[新年を迎えて] 活力ある地域の創造を
2007年が幕を開けた。「戦後還暦」と言われた05年から2年を経過、戦後62年目の年となる。
「戦争の世紀」とされる20世紀から、「癒やしの世紀」と期待された21世紀に入って7年目。そろそろ、落ち着いて平和をかみしめたいころだ。
だが、癒やしどころか、世界は戦争へのきな臭さを増しているかにみえる。
米欧対イスラムの対立の構図は激しさを増している。年末には、イラクのフセイン元大統領が処刑されたというニュースが飛び込んできた。内戦状態に陥ったとされるイラク情勢がさらに混迷化、世界にテロを振りまかないか心配だ。
北東アジアも緊迫の度を増した。北朝鮮は昨年、7発のミサイルを発射、地下核実験を強行した。米国との金融制裁協議の行方次第では北朝鮮が再実験に踏み切り、アジア情勢が緊迫する“悪夢のシナリオ”も現実となりかねない。
喜ばしいのは、小泉純一郎前首相の靖国神社参拝で冷え込んだ中国、韓国との関係が、安倍晋三首相の訪中、訪韓で修復の兆しが見えてきたことだ。
近隣諸国がいがみ合っては世界平和にいい影響を与えない。歴史認識を共有しながら、世界平和を呼びかける戦略の構築が望まれる。
■戦後体制に揺さぶり
昨年の臨時国会は、日本の戦後体制が根本から揺さぶられた国会として記憶にとどめられるかもしれない。
1947年に制定されて以来、59年間、戦後教育の指針だった教育基本法が改正され、54年に発足した防衛庁の「省」昇格法が成立したからだ。
教育基本法は「教育の憲法」と呼ばれる教育の根本法である。改正には国民的な議論が必要なはずだった。
しかし、「今、なぜ基本法改正?」「教育危機に対応できるか」との疑問や懸念は、与党の数の力に押し切られた。
現行基本法は戦前、過度の中央集権下で統制に陥り、地方の実情と個性に応じた教育が行われなかったことの反省の上にある。反省を無視して再び画一的、中央集権的教育を行うのが目的とすれば、時代逆行と断ぜざるを得ない。
もう一つの、防衛庁の省格上げも、多くの問題をはらんでいる。昇格に対して「文民統制が弱まる」との指摘や「再び軍事大国になるのか」との近隣諸国の警戒感を招く懸念が強いからだ。
浮き彫りになるのは、戦後体制からの脱却を目指す安倍政権の思惑だ。教育基本法の改正には「教育の再生」という理由付け以上に、政権が狙う憲法改正への布石の側面が見え隠れする。
今年は、日本国憲法が施行されて60年の記念の年に当たる。敗戦の惨禍から立ち上がった国民の支持を得、戦後政治の風雪にも耐えて還暦を迎える憲法は、世界に誇れるものだ。
もとより、憲法は「不磨の大典」ではない。だが、戦後日本の平和主義の象徴だった憲法9条を狙い撃つかのような改正論議には強い違和感を覚える。
施行60年の記念の年を契機にもう1回、「今、なぜ憲法改正なのか」「それは9条の狙い撃ちではないのか」などを真剣に見詰め直したい。
■「昭和回帰」の背景は
明治以降、増え続けてきた日本の人口が減少したのは一昨年のことだ。予測より1年早い人口減少時代到来だった。
しかし、人口減少は予測をはるかに超えて進んでいるかにみえる。
国立社会保障・人口問題研究所が昨年末、公表した将来推計人口は衝撃的だった。50年後、日本の総人口が05年より約4000万人減って8993万人になり
65歳以上の高齢者は40.5%で現状の2倍になるとの予測だ。
年金や介護などの社会保障政策への不安が高まっている。だが、今、私たちに求められているのは、不安や嘆きに同調することではあるまい。
人口減少時代と超高齢化社会という厳しい時代の到来を見据え、現実に立ち向かう心構えと、崩れつつある社会連帯の再構築こそ重要ではないか。
人口減少の厳しい現実は、離島や山間を抱える鹿児島県にも襲いかかる。
鹿児島地域経済研究所の人口推計によると、県人口は25年に153万人になり、05年の175万人を大きく下回る。高齢化率は24.8%から32.3%となり、3人に1人が高齢者となる。
今年から定年を迎える「団塊の世代」は、1947年から49年のベビーブーム時代に生まれた世代である。
その世代が幼少年期を過ごしたころは、全国に人があふれ、活気に満ちていた。今、地方の疲弊は目を覆うばかりだ。昭和を描いた映画のヒットに象徴される昭和回帰現象は、貧しくとも活気に満ちていた時代への憧憬(しょうけい)が背景にある。
私たちがなすべきことは、活気に満ちていた地方を復権させる試みだ。地方には大都市にはない豊かな自然と風物がある。無いことを嘆かず、あるものを生かした地域再生を各地で繰り広げたい。
南日本新聞 2007年1月1日