教育と防衛 「戦後」がまた変わった
改正教育基本法と、防衛庁を「省」に昇格させる改正防衛庁設置法が、同じ日に成立した。
長く続いてきた戦後の体制が変わる。日本はこの先、どこへ行くのだろうか。
安倍首相は著書「美しい国へ」で、戦後の日本が先の戦争の原因をひたすら国家主義に求めた結果、国家すなわち悪との見方が広まった、と指摘する。
そして、国家的な見地からの発想を嫌うことを「戦後教育の蹉(さ)跌(てつ)のひとつである」と書いている。
そのつまずきを正し、国家という見地から教育を見直したい。安倍首相には、そんな思いがあったのだろう。
教育基本法の改正で焦点となったのは「愛国心」である。改正法には「(伝統と文化を)はぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文言が盛り込まれた。公明党は当初、「国を大切にする」を提案したが、官房長官だった安倍氏は「国は鉛筆や消しゴム並みではない」と述べて、「愛する」にこだわった。
教育の独立を規定した条項も改正の対象になった。
いまの教育基本法は、戦前の教育が「忠君愛国」でゆがめられ、子どもたちを戦場へと駆り立てたことを反省し、国民の決意を表す法律としてつくられた。「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」と定めている。国の政治的な介入に対しても歯止めをかけた。
その文言の後段が「法律の定めるところにより行われる」と改められた。現行法とはちがって、国の教育行政に従え、ということになりかねない。
安倍首相は、防衛のあり方についても「美しい国へ」で異を唱えている。
安全保障を他国にまかせ、経済を優先させて豊かになった。「だが精神的には失ったものも大きかったのではないか」と述べている。
日本は戦後、再び持った武力組織を軍隊にはせず、自衛隊とした。組織も内閣府の外局に置いた。自衛隊や防衛庁の抑制的なありようは、軍事に重きを置かない国をつくろうという国民の思いの反映であり、共感を得てきた。
省に昇格したからといって、すぐに自衛隊が軍になり、専守防衛の原則が変わるわけではない。それでも、日本が次第に軍事を優先する国に変わっていくのではないか。そこに愛国心教育が加わると、その流れを加速するのではないか。そんな心配がぬぐえない。
二つの法律改正をめぐっては、国民の賛否も大きく分かれていた。その重さにふさわしい審議もないまま、法の成立を急いだことが残念でならない。
戦後60年近く、一字も変えられることのなかった教育基本法の改正に踏み切った安倍首相の視線の先には、憲法の改正がある。
この臨時国会が、戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが。
朝日新聞 2006年12月16日
教育基本法改正 さらなる国民論議の契機に
教育基本法が一新された。1947年(昭和22年)の制定から60年、初めての改正だ。
「教育の憲法」の生まれ変わりは新しい日本の教育の幕開けを意味する。この歴史的転換点を、国民全体で教育のあり方を考えるきっかけとしたい。
見直しの必要性を説く声は制定の直後からあった。そのたびに左派勢力の「教育勅語、軍国主義の復活だ」といった中傷にさらされ、議論すらタブー視される不幸な時代が長く続いた。
流れを変えた要因の一つは、近年の教育の荒廃だった。いじめや校内暴力で学校が荒れ、子どもたちが学ぶ意欲を失いかけている。地域や家庭の教育力も低下している。
現行基本法が個人・個性重視に偏りすぎているため、「公共の精神」や「規律」「道徳心」が軽視されて自己中心的な考え方が広まったのではないか。新たに家庭教育や幼児期教育、生涯教育などについて時代に合った理念を条文に盛り込む必要があるのではないか。そうした指摘が説得力を持つようになってきた。
改正論議に道筋をつけたのは2000年末、首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が出した報告書だった。基本法見直しが初めて、正式に提言された。
これを受け、中央教育審議会が「新しい時代にふさわしい」基本法の在り方などを答申。与党内でも改正に向けた検討が本格化し、ようやく今年4月、政府の全面的な改正案が国会に提出された。
◆6年にわたる改正論議
この6年、基本法改正については様々な角度から検討され、十分な論議が続けられてきたと言っていいだろう。
その中には「愛国心」をめぐる、不毛な論争もあった。
条文に愛国心を盛り込むことに、左派勢力は「愛国心の強制につながり、戦争をする国を支える日本人をつくる」などと反対してきた。
平和国家を築き上げた今の日本で、自分たちが住む国を愛し、大切に思う気持ちが、どうして他国と戦争するというゆがんだ発想になるのだろう。
基本法の改正を「改悪」と罵(ののし)り、阻止するための道具に使ったにすぎない。
この問題は、民主党が独自の日本国教育基本法案の前文に「日本を愛する心を涵養(かんよう)し」と明記したことで決着した感がある。政府法案は「教育の目標」の条文中に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…態度を養う」と入れた。むしろ民主党案の方が直接的で素直な表現だった。
ともあれ、改正基本法の成立を歓迎したい。その精神にのっとって、日本の歴史や伝統、文化を尊重し、国を愛する心を育てるような教育が行われることが期待される。さらに家庭、地域での教育も充実されて、次代を担う子どもや若者たちが、日本人として誇りを持って育っていってほしい。
◆関連する課題は多い
そのために文部科学省など政府が取り組むべき課題は山積している。
まずは学習指導要領や学校教育法など関係法規の見直しである。
指導要領は、改正基本法に愛国心や伝統・文化の尊重、公共の精神などが盛られたことで、社会科や道徳の指導内容が変わってくる可能性がある。愛国心などの諸価値は、どれも国民として大切なものだ。子どもたちの白紙の心に、正しくしっかりと教えてもらいたい。
「学力低下」の懸念から、授業時間数や教える内容を増やす必要性も叫ばれている。高校の「必修逃れ」問題では、指導要領の必修科目の設定が今のままで良いのか、といった議論も起きている。
小学校の英語「必修化」論議など暫時“保留”になっていた指導要領絡みの施策の検討が一斉に動き出すだろう。
学校制度の基準を定めた学校教育法の改正、教育委員会について定めた地方教育行政組織運営法、教員の免許法などの見直しも必要だ。安倍首相直属の「教育再生会議」でも検討している。
もう一つの課題は、国と地方が役割分担を明確にし、計画的に教育施策を進めていくための「教育振興基本計画」の策定である。
◆国と地方の役割示せ
「全国学力テストを実施し、指導要領改善を図る」「いじめ、校内暴力の『5年間で半減』を目指す」「司法教育を充実させ、子どもを自由で公正な社会の責任ある形成者に育てる」――計画に盛り込む政策目標案を、中教審もすでに、いくつか具体的に例示している。
国が大枠の方針を示すことは公教育の底上げの意味でも必要だ。同時に、学校や地域の創意工夫の芽が摘まれることのないよう、現場の裁量の範囲を広げる施策も充実させてほしい。
焦る必要はないだろう。教育は「国家百年の計」である。国民の教育への関心もかつてないほどに高い。教育再生会議などの提言も聞きながら、じっくりと新しい日本の教育の将来像を練り上げてもらいたい。
讀賣新聞 2006年12月16日
新教育基本法 これで「幕」にしてはいけない
教育基本法改正案が成立した。なぜ今改正が必要なのか。私たちは問いかけてきたが、ついに明確にされないまま国会は幕切れとなった。「占領期の押しつけ法を変える」ことが最大の動機とみるべきなのか。そうだとすれば「教育」が政治利用されたことになる。
だが法として成立する以上、全国の教育現場はこれと向き合う。まず公共心や国の権能を重視する改正法の特徴の一つは「教育の目標」だ。5項に整理して徳目を列記し「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度」を盛り込む。子の教育は保護者に第一義的責任があると明記し、生涯学習や幼児期の教育の必要性も説く。そして全体的な教育振興基本計画を国が定め、地方公共団体はこれを見ながら施策計画を定めるという。
個別の徳目や親の責任などは自然な理想や考え方といえるだろう。ただ、列記しなくても、これらは現行法下の教育現場でも否定されてはいない。授業や生活を通じて学び取っていることではないか。網羅しなくても、生涯学習や幼児教育などの分野は社会に定着しており、是正が必要なら基本法をまたず個別にできるはずだ。
列記されることで、これらの考え方が押しつけられたり、画一的な形や結果を求める空気が広がりはしないか。振興基本計画に忠実である度合いを各地方が競い合うことになりはしないか−−。
こうした疑問や懸念を学校など教育現場は持つが、国会審議ではこれに答えていない。はっきりさせておかなければならないのは、改正法は決して国にフリーハンドを与える全権付与法ではなく、これで教育内容への介入が無制限に許されるものではないことだ。改正法第16条の「法律の定めるところにより行われる」の記述によって「国が法に沿って行えば、禁じられた『不当な支配』にはならない」と政府見解はいう。
だが教育権などについて争った旭川学力テスト事件最高裁判決(1976年)は、国の介入を認めつつも「必要かつ相当な範囲」とし、また「不当な支配」とは「国民の信託に応えない、ゆがめる行為」との考え方を示した。恣意(しい)的介入を戒めたもので、国は抑制的な姿勢を常に忘れてはならない。
国会審議に並行して、いじめ、大量履修不足、タウンミーティングのやらせ発言工作など、事件と呼ぶべき問題や不祥事が相次いだ。新時代にふさわしい基本法をといいながら、内閣、文部科学省、教育委員会など行政当局は的確な対処ができず、後手に回って不信を広げた。法改正を説きながら、その実は現行の教育行政組織や諸制度がきちんと運用しきれていないという有り様を露呈したのだ。
次の国会で基本法に連動する学校教育法など関連法規の改正審議が始まる。日常の教育現場に直接かかわってくるのはこれだ。注意をそらしてはいけない。基本法改正審議の中であいまいだった諸問題や疑念をただす機会だ。
「一件落着」では決してない。
毎日新聞 2006年12月16日
改正教育基本法をどう受け止めるか
占領下の1947年に制定されて以来、一度も手が加えられてこなかった教育基本法の全面改正案が参院で可決され、成立した。6年前に教育改革国民会議が同法の見直しを提言して以来、「愛国心」の表現などをめぐり延々と議論が繰り返されてきた末の「新法」誕生である。
改正で何がどう変わるのか。教基法はあくまで理念をうたった法律であり、いじめ問題などに揺れる学校の姿がすぐに変わるわけではない。しかし教育行政に対する国の関与を重視した項目が散見されることには改めて注意を払いたい。解釈や運用、関連法の改正次第では現場にじわじわと影響を及ぼす問題である。
たとえば、「国は(中略)教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」という条文がある。また「教育は、不当な支配に服することなく」という現行法の条文に続けて「この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」との一文も加えている。
子どもたちの学力と規範意識を保障するための大きな方向性を国が示すことは必要だろう。しかし文部科学省がいたずらに条文を拡大解釈し権限強化を図るとすれば、かねて弊害が指摘されてきた中央集権的な教育行政が強化され、地域や学校の創意工夫と競い合いを促そうという分権の流れに逆行することになる。
この懸念は「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けたことにも共通する。同省は事細かな目標を設けて現場を拘束しないよう意識すべきである。計画には、むしろ制度の弾力化や規制緩和を図る方策を盛り込むこともできるのではないか。
改正法は地方自治体がその実情に応じた教育行政を展開するよう明記し、国と地方の「適切な役割分担」にも触れている。そうした条文があることも忘れてはならない。
バランスのとれた対応が必要なのは、「我が国と郷土を愛する態度を養う」などの解釈も同様である。学校現場に機械的に当てはめるのではなく、子どもたちの実情に即した柔軟な運用に努めてもらいたい。
長期間の国会審議を通じて残念だったのは、与野党の歩み寄りが全くみられなかったことである。民主党は分権にも配慮した対案を持ちながら与党との対決に終始してしまった。本来なら、共同修正を図る局面もあったのではないだろうか。
教育に対する国民の要請はきわめて多様で、時代とともに変化し続けている。およそ60年ぶりという歴史的改正ではあるが、そんな実情を踏まえた対応を望みたい。
日本経済新聞 2006年12月16日
教育基本法改正 「脱戦後」へ大きな一歩だ
教育基本法改正案が参院本会議で可決、成立した。現行の教育基本法が占領下の昭和22年3月に制定されて以来、約60年ぶりの改正である。安倍内閣が掲げる「戦後体制からの脱却」への大きな一歩と受け止めたい。
改正法には、現行法にない新しい理念が盛り込まれている。特に、「我が国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」「公共の精神」「豊かな情操と道徳心」などは、戦後教育で軽視されがちだった教育理念である。
一部のマスコミや野党は愛国心が押しつけられはしないかと心配するが、愛国心というものは、押しつけられて身につくものではない。日本の歴史を学び、伝統文化に接することにより、自然に養われるのである。
学習指導要領にも「歴史に対する愛情」や「国を愛する心情」がうたわれている。子供たちが日本に生まれたことを誇りに思い、外国の歴史と文化にも理解を示すような豊かな心を培う教育が、ますます必要になる。形骸(けいがい)化が指摘されている道徳の時間も、本来の規範意識をはぐくむ徳育の授業として充実させるべきだろう。
家庭教育と幼児教育の規定が新設されたことの意義も大きい。近年、親による児童虐待や子が親を殺すという痛ましい事件が相次いでいる。いじめや学級崩壊なども、家庭のしつけが不十分なことに起因するケースが多い。親は、子供にとって人生で最初の教師であることを忘れるべきではない。
教育行政について「不当な支配に服することなく」との文言は残ったが、教職員らに法を守ることを求める規定が追加された。国旗国歌法や指導要領などを無視した一部の過激な教師らによる違法行為が許されないことは、改めて言うまでもない。
同法改正では、民主党も対案を出していた。政府案と共通点が多かったが、与党との修正協議に応じず、改正そのものに反対する共産、社民党と歩調を合わせたのは、残念である。
安倍晋三首相は、日本人が自信と誇りをもてる「美しい国」を目指している。国づくりの基本は教育である。政府の教育再生会議で、新しい教育基本法の理念を踏まえ、戦後教育の歪(ゆが)みを正し、健全な国家意識をはぐくむための思い切った改革を期待する。
産経新聞 2006年12月16日
教育基本法 改正案には疑問が残る
教育基本法の改正案は、参院での審議が大詰めを迎えた。政府・与党は週内の成立をめざしている。
教育基本法は、未来を担う子どもたちを育てる理念や原則を定める重要な法律だ。全文を書き換える今回の改正では、条文を十分吟味し、審議を尽くさなければならない。ところが、たくさんの疑問が残っている。
47年制定の現行法も改正案も、「教育の目的」には「人格の完成」や「国家及び社会の形成者」などの言葉が並んでいる。改正案が違うのは、「教育の目標」が設けられ、「愛国心」や「伝統と文化の尊重」など20余りの徳目が盛り込まれたことだ。
国を愛するのは自然な気持ちである。改正案には「他国を尊重する」という文言も入っている。とはいえ、法律で定めれば、「このように国を愛せ」と画一的に教えることにならないか。私たちは、そう指摘してきた。
とりわけ心配なのは、愛国心を成績で評価することになるのではないか、ということだ。小泉前首相は先の国会で愛国心の評価については「必要ない」と述べた。しかし、安倍首相は、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価対象とする考えを示した。これでは教室で愛国心を競わせることになりかねない。
何を教えるか、という問題もある。伊吹文部科学相は、元寇などに先人がどう対処したかを例に挙げた。愛国心教育の名の下で、史実を都合よく使うことにならないか。
第2の論点は「教育は、不当な支配に服することなく」という条文の解釈だ。現行法は、この後に「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」と続く。教育学者や教職員組合は、この規定を教育への行政の介入を防ぐ「盾」と位置づけてきた。
改正案では、「不当な支配に服することなく」は残ったが、その後の文言は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と変わった。
このように変えたのは、政治結社などの介入を排除するためだ。法律や学習指導要領は、国民の意思として決められたものだから不当な支配ではない。伊吹文科相は、そう説明している。
法律や指導要領で決めれば何でもできる。文科相の説明には、そんな意識が潜んでいないか。かえって不安が募る。
新設の「教育振興基本計画」にも疑問がある。必要な教育予算を確保することにつながるのなら、意味があるかもしれない。しかし条文には、地方は国の計画を参考に自らの計画を定める、とも書かれている。運用によっては、地方の教育を縛る道具になりかねない。
何よりも根本的な疑問に答えていない。学力低下や不登校、いじめといった深刻な問題が起こるのは、現行の教育基本法のせいなのか。改正すれば問題が解決するのか。参院の審議でも、その答えは一向に示されないままだ。
朝日新聞 2006年12月13日
教育基本法改正 “消化試合”では立つ瀬がない
政局がらみの駆け引きを経て、参議院に舞台を移した教育基本法改正案審議が盛り上がらない。日程に目盛りを合わせ、砂時計のごとくただ時を消費しているかのようだ。
今国会審議に並行して表面化した「いじめ」「履修不足」「タウンミーティングのやらせ」「教育委員会の形がい化」は基本法論議の背骨の強度を問う試金石といっていい。これを具体的テーマに解決・改善策を積極的に論じ合う中で、基本法改正の当否や新たな理念にも論議は発展し得るはずだ。
例えば、表面化した問題はこうしたことを問うている。いま学校や先生たちは子供の世界にどう向き合い、信頼関係を結んでいるか。真の学力は何で、どう身に着け、どう測るか。文部科学省は世論をどう受け止めてきたのか。そもそも政策に反映させてきたのか。文科省から全国の教育委員会に出向している官僚たちは、その形がい化の実態は百も承知だったはずではないか……。
一方、1990年代以降、急変転する「教育改革」の方向と内容に学校現場は戸惑ってきた。東京大学の基礎学力研究開発センターが今夏、全国の公立小中学校の3分の1の校長を対象に調査したところ、66%が基本法改正に否定的で、85%は「教育改革が速すぎて現場がついていけない」という。
文科省から「生きる力育成」「ゆとり」が称揚されたかと思えば、いま「学力向上」「競争」「学校評価」が強調される。さらに「再生」の掛け声のもと、制度改編が進もうとしている。落ち着いてじっくり取り組ませてほしいと願う先生は少なくない。
それだけではない。前記調査によると、子供の間の学力格差、地域間格差、公立私立間の格差の拡大を8割前後が懸念している。だが、国会の基本法改正論議は「全員に学力向上と規範意識を」などと抽象論が繰り返されるばかりで、現場の危機意識にしっかり呼応するものがない。
考えてみれば、審議に集まった議員、官僚のほぼ全員が現行基本法下で教育を受けたはずだ。よく「子供のころは」と昭和30年代あたりの懐旧めいた話も出る。そしてその時代も現行法下である。
それを「矛盾している」と突くのではない。ただ、60年近いこの基本法が時代にそぐわず、社会の要請に応えきれないから書き換えるというのであれば、自身の教育体験も含めもっと内実を論じ、説得力のある問題提起をすべきだろう。今のままでは「占領時代という史上例外的な異様な時期に押しつけられた法だから変える」という論法ばかりが印象づけられる。
そして、あと○時間やればいい、というような感覚で日程消化−成立の運びとなったのでは、理念の結晶とされる基本法も立つ瀬がないではないか。論じ合い、考えをもみ合い、広く納得し合う時間を惜しんでは、将来もっと惜しむ事態を招来しかねない。
今国会で成立の公算大といえども、時の限り「言論の府」らしい中身ある論議の高揚を望みたい。
毎日新聞 2006年11月25日
教育基本法改正は参院でも審議尽くせ
参院の特別委員会で教育基本法改正案の実質審議が始まる。衆院での与党単独採決に反発して欠席していた民主党などが戦術を転換、審議が正常化することになった。教育への社会的関心がかつてないほど高まっているだけに、与野党は改正案の核心に迫る論戦を展開してほしい。
衆院の特別委では審議時間が100時間を超えたが、改正案の論点がはっきり浮かび上がったとはいえない。多くの時間はいじめ自殺や履修漏れ問題にあてられ、肝心の法案に関する審議は生煮えの印象が残った。いじめ問題などへの注目度の高さを考えればやむを得ない面もあったが、参院では法案そのものをいま一度吟味するよう努力すべきである。
その際の重要なポイントの一つは、教育行政への国の関与のあり方をどう考えるかである。改正案は「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」との条文を設けた。「教育は、この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」ともうたっている。
「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けているのも特徴だ。文部科学省はこれを「教基法の理念を実現するための総合的なプラン」と位置付けている。同省によると計画期間は5年間を想定、「いじめや校内暴力を半減させる」といった具体的な政策目標を掲げるという。国の方針に沿って地方自治体も個別の基本計画を定めることになる。
問題は、こうした条文が文科省による画一的な教育内容の押し付けを強め、地域や学校の創意工夫を阻むことにつながらないかどうかである。公教育の水準を底上げすることは大切だが、同時に地方分権や規制緩和を進め、現場での裁量の範囲を大きくしてこそ学校は活性化するという声は少なくない。国が責任を持つ部分と地方や学校に委ねる部分の切り分けをよく考える必要がある。
参院では、こうした点も踏まえたやり取りを期待したい。民主党は、教育行政は自治体首長が責任を持ち、公立学校運営に地域住民や保護者が関与することなどを明記した対案を提出している。国の関与のあり方について論議を戦わせる材料は十分に整っているはずである。
政府の改正案は、このほかにも生涯学習や家庭教育、幼児教育などの条文を新設し、義務教育期間を9年と定めた規定も削除している。「愛国心」の記述ばかりが注目を集めてきたが、見直し部分は多岐にわたっていることを忘れてはならない。
日本経済新聞 2006年11月21日
教育基本法 この採決は禍根を残す
教育基本法の改正案が衆院特別委員会で、与党の単独採決により可決された。野党は採決に反対して欠席した。
教育基本法は、未来を担う子どもたちを育てる理念や原則を定めたものだ。政権が代わるたびに、内容を変えていいものではない。
国会は多数決が原則とはいえ、与党だけで決めるのは、こうした大切な法律の改正にはふさわしくない。単独採決はまことに残念だ。
私たちは社説で、政府の改正案には疑問があることを何度も主張してきた。
いまの学校や教育に問題が多いことは間違いない。しかし、その問題は基本法のせいで起きたのか、改正すれば、どう良くなるのか。教育の問題を法律の問題にすり替えているのではないか。教育基本法を変えなければできない改革や施策があるなら、示して欲しい。
「愛国心」を法案に盛り込むことについては、自民、公明両党の論議で、「他国を尊重する」という文言が加えられた。愛国心の暴走を防ぐうえで、この文言は重要な意味がある。しかし、それでもなお、法律で定めれば、このように国を愛せと画一的に教室で教えることにならないか。そうした疑問だ。
改正案の審議は、先の通常国会に提出されてから、延べ100時間を超えた。臨時国会では、必修科目の履修漏れや、いじめ自殺、さらにはタウンミーティングのやらせ質問が焦点になった。
必修漏れやいじめは、教育の深刻な問題がにじみ出たものだ。しかし、そんな問題が基本法の改正とどうからむのか。論議を深める良い機会だったが、実のある論議は聞けなかった。
「愛国心」の教え方についても、安倍首相の答弁を聞いて、心配が増した。
愛国心が身についたかどうかを成績として評価するのか。先の国会で小泉首相は「そんな評価は必要ない」と答弁した。ところが、安倍首相は日本の伝統・文化を学ぶ姿勢や態度を評価対象とする考えを述べた。これでは愛国心を子どもたちに競わせることにならないか。
教育基本法が制定されて、来年で60年になる。人間なら還暦にあたる歳月だ。社会の変化を反映させる必要を感じている人は少なくない。愛国心を教えるよう法律で定めることに疑問を抱く人の中にも、公共の精神や伝統を盛り込むべきだと考える人がいるだろう。
そうした議論が深まらなかった責任は民主党にもある。民主党は対案を出したが、愛国心については政府案と大きな差はない。教育委員会ではなく首長が教育行政に責任を持つことが目を引くくらいで、政府案との違いは分かりにくい。
現行の教育基本法では、前文は「われらは」で始まる。戦前の天皇の教育勅語に代わって、国民が教育のあり方について意思を示す宣言でもあるからだ。
成立を急ぐあまり、肝心の国民が置き去りにされるようでは、将来に禍根を残すことになる。
朝日新聞 2006年11月16日
基本法単独可決 教育の「百年の大計」が泣く
自民、公明両党が15日夕、教育基本法改正案の委員会可決に踏み切った。これまで私たちは再三、「何のために改正するのか、原点が見えない」と指摘してきた。そんな疑問は解消されたと与党は言うのだろうか。急ぐ理由がまったく見当たらないのに、衆院特別委員会を野党が欠席する中、単独採決したことは将来に禍根を残すことになるだろう。
改正案採決は一時、与党内でも週内に強行採決すれば、19日の沖縄県知事選に悪影響が出ると見て、来週に先送りする意見が出ていた。それが一転、単独採決に至ったのはなぜか。まだ明らかでない点も多いが、安倍晋三首相自身が腹をくくったことだけは間違いないだろう。
改正案が提出されたのは先の通常国会だ。元々、小泉純一郎前首相はさしたる関心がなく、安倍首相(当時は官房長官)が熱意を示す法案だと言われてきた。教育目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」とうたった改正案は、当初から「占領軍に押しつけられた現行法を全面的に改正したい」との動機ばかりが優先しているのではないかとも指摘されてきた。
実際、前国会以来、審議時間こそ費やされてきたが、改正すれば教育はどうよくなるのか、安倍首相らの説明を何回聞いても、結局、明確にはならなかった。
加えて、今国会では、いじめ自殺や履修不足、タウンミーティングのやらせ質問と新たな問題が次々と発覚した。いじめや履修不足は今の教育のあり方の根幹にかかわる緊急課題だ。ところが、首相らは「基本法を改正すれば改善されるのか」という問いに答えることができず、「基本法とは別問題」とかわすだけだった。かえって基本法改正には緊急性がないことを認めたようなものである。
採決を来週に先送りした場合、国会会期を延長しないと改正案の成立が難しくなるのは確かだ。首相就任直後の日中、日韓首脳会談再開を除けば、目に見える成果をあげていない安倍首相は、実績作りを急いだのかもしれない。しかし、それは首相の都合というものである。
「与党の横暴」をアピールする民主党も決してほめられたものではない。民主党も独自の対案を提出していながら、それを成立させようという姿勢は感じられず、「時間をかけて審議を」と主張するのみだった。対案を出すということは「今の基本法は改正の必要がある」と党として判断したはずだ。ところが、改正の是非に関しては実は党内の意見は依然、まちまちだ。亀裂を回避するためには、与党が強引に採決してくれた方がありがたい。そんな計算があるのは既に国民も承知に違いない。
政府・与党からすれば教育基本法改正は「百年の大計」だったはずだ。それが、国民の理解が深まらぬまま、こんな状況で衆院を通過しようとしている。今の基本法が「占領軍の押し付け」と過程を問題にするのなら、これもまた将来、「成立の仕方に疑義があった」とならないのか。
毎日新聞 2006年11月16日
「教育」衆院採決 野党の反対理由はこじつけだ
「やらせ質問」も「いじめ自殺」も、それを採決反対の理由に挙げるのは、こじつけが過ぎるのではないか。
教育基本法改正案は、衆院特別委員会で採決が行われ、賛成多数で可決した。きょう衆院を通過し、参院に送付される運びだ。
野党は採決に反対し、委員会を欠席した。ボイコットの理由について、教育改革タウンミーティングでのやらせ質問の実態解明が先決だと主張している。
政府は「タウンミーティングなどで、各般の意見を踏まえた上で法案を提出した」と繰り返してきた。これを根拠に、改正案はやらせ質問を前提に作られた欠陥法案だ、という論法である。
やらせ質問は議論の活性化が目的だったと政府は釈明するが、これはやはり行き過ぎがあったと言わざるを得ない。
だが、だから改正案にも問題があると言うのは論理の飛躍だ。政府も「各般の意見」として教育改革国民会議や中央教育審議会などの議論も挙げている。タウンミーティングだけに依拠して法案を作ったと決めつけるのは無理がある。
民主党は、頻発するいじめ自殺や高校の未履修問題も「教育基本法改正案の中身にかかわる問題だ」として、その徹底審議が採決より先決だとも主張する。
民主党が国会に提出している対案は、愛国心や公共心の育成を掲げ、家庭教育の条文を設けている。政府案と本質的な差はない。むしろ愛国心の表現は「民主党案が優れている」と評価する声が自民党内にさえあったほどだ。
法案の中身が似通うのは、子どもの規範意識を高め、家庭の役割を重視することが、いじめなど学校現場が抱える課題の改善にも資する、との思いを共有するからだろう。民主党が、いじめ自殺などを「改正案の中身にかかわる」と本気で思うなら、与党に法案修正の協議を持ちかけるのが筋だ。
それなのに、民主党は、改正絶対反対の共産、社民両党と一緒に「採決阻止」を叫んでいる。これでは、多くの国民が心を痛めるいじめ自殺まで、採決先延ばしの材料にしていると言われないか。
衆院特別委の審議はすでに100時間を超える。それでも審議が不十分と思うなら、速やかに参院で審議のテーブルにつけばよい。だが、野党は参院特別委の設置に反対し、委員の推薦を拒む形で審議入りを阻止する構えだ。
審議は尽くされていないと言いながら審議の邪魔をする。こんな相矛盾した態度こそ、「今まで言ってきたことは採決阻止の方便でした」と自ら認めているようなものである。
讀賣新聞 2006年11月16日
教育基本法改正 やむをえぬ与党単独可決
自民、公明両党は今国会の焦点である教育基本法改正案を野党欠席のまま、衆院教育基本法特別委員会で可決した。16日に衆院を通過させ、参院に送付する予定だ。
民主党など野党は「採決が前提にある限り、委員会の質疑には応じられない」と欠席した。与党の採決を受け、野党はすべての審議を拒否することにした。
この改正案は戦後教育の歪(ゆが)みを正し、教育の主導権を国民の手に取り戻す意味合いがある。与党単独の採決になったが、やむを得ない。
民主党は政府の改正案に対抗して独自の「日本国教育基本法案」を提出していた。愛国心について政府案は「我が国と郷土を愛する態度を養う」とし、民主党案は「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」としていた。民主党案はまた、政府案にない「宗教的感性の涵養」を盛り込んでいた。
与党と民主党が協議し、より良き案にすべきだったが、民主党の小沢一郎代表は来夏の参院選に向け、社民党などとの共闘を優先した。教育基本法改正そのものに反対してきた社民党などと違い、対案を示していただけに民主党の対応はきわめて残念である。
現行の教育基本法は昭和22年3月、GHQ(連合国軍総司令部)の圧力や干渉を受けながら成立した。とくに現行法の「教育は、不当な支配に服することなく」の規定は、文部科学省や教育委員会の教育内容への関与を排除する根拠とされ、問題となっていた。
これに対し、政府案は「不当な支配に服することなく」との文言を残しているが、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とするくだりが加わった。このため、国旗国歌法や学習指導要領などを無視した一部の過激な教師らによる“不当な支配”は許されなくなる。
また、政府案は家庭教育について「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と規定している。いじめや学級崩壊、不登校などの問題で、家庭の責任を問う内容になっている。
伊吹文明文科相は「ある程度の変更」に言及している。参院での与野党共同修正を模索する動きも出ている。民主党は抵抗政党ではなく、責任野党としての存在感を示すべきだ。
産経新聞 2006年11月16日