教基法・教育再生会議・いじめ自殺の関わりの中で
■教基法を貶める行為
この国の政治家と呼ばれる者の感覚は国民にはどうも分かりづらい。国会は互いに論を戦わせ法律をつくるところだが、駆け引きに終始し、その作業を怠っている。ことを自陣に有利に展開させたい-の強い思いが国民への説明責任をはく離させている。そう言われても仕方のないことではないか。そのひとつに教育基本法改正がある。
『時代に合わないので改正したい』と、『今、何故変える必要があるのか』の対立構図が国会を支配しその機能を麻痺させてしまった。
民主党案は処によっては政府案よりも濃厚な改正案だが戦わずにいる。政府はそれ幸いなりと単独採決で衆議院を通過させた。理由は前国会からの継続審議案であり100時間も費やしたからとのことである。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、-」と「われら」の文言で始まる前文を持つこの「教育」の「基本法」を単独採決で改正していいものだろうか。単独採決は、第2の憲法と言われるこの法律を軽んじ貶(おとし)めていると言わないわけにはいかない。
参議院では十分に審議し、国民が納得する形で決着を付けてほしい。その納得にはさまざまな角度から論議をすることが必要であり肝要である。舌足らずであっては国民には理解し難い。
■この案は進めたい
この教育基本法論議のさ中、内閣府に教育再生会議が設立された。安倍首相が開催する会議だ。かつて中曽根首相は臨時教育審議会を、小渕首相は教育改革国民会議を設置し教育改革を進めてきた。安倍首相の決意の程がうかがえる。
その会議のあいさつで安倍首相は、大学入学を4月から9月に移行し、その間は奉仕活動を進めたいとした。入社時期もそれに合わせることだろう。これは名案だと考える。
奉仕活動を提唱してもうまくいっていないのが現実である。それは時期や機会が各人の意向とマッチしていないからだと考える。それに奉仕またはボランティアの名に拘泥されて個人の自由意思や良心に恃(たの)んでいるからではないか。
それらに期待することはいい。だが、少年後期・青年前期にある若者に果たしてそれだけの使命感や公共心が十分備わっているだろうか。
確かに強固な押しつけはいけない。ここは社会体験による学習の機会を提供するの考えで義務づけることは、心身の成長期にある若者に自らを高め、社会を知らせるいい機会だと思う。就学・就職前にそういった奉仕活動に従事した経験を有した者は、これからの学びや働く場所で生かすことができると考える。義務化された奉仕活動を大人から若者への生き方のメッセージとしたい。
■自殺・必修履修せず
連鎖反応のように生徒の自殺が相次いでいる。しかも自殺予告まで出す。命の尊さを教えてきたはずの校長がいとも簡単に自ら命を絶つ。この世相を私たちはどう見たらいいのか。誤解を恐れないで言えば、怒りが先に出る。世には藁(わら)にもすがりたい思いで生きている人がたくさんいるからだ。
まさに「1つしかない生命。その誕生を喜び、胸に抱き取った命」(文部科学大臣アピール)である。まずはわが子にこんこんと説き最悪の事態を免れたい。確かに今の子供たちは、ひところと違って逞(たくま)しく育っているとは言いづらい。むしろ、しかられ弱い。親も教師も隣人もそこを心して説諭しなければなるまい。
高校の必修履修せず問題は何とも情けない話ではないか。単に校長の教育課程管理不行きとどきというだけではない。理念の無さを憂える。幸い本県の県立高校には問題はなかったが、県教育目標は「創造性・国際性に富む人材の育成」をうたっている。そのためには世界史は欠かせない科目である。
八重山毎日新聞 2006年11月25日
審議尽くす姿勢を貫け 国会正常化
教育基本法改正案の衆院での与党単独採決に反発して審議を全面的に拒否していた野党が22日、審議に復帰し、国会は1週間ぶりに正常化した。
与党だけで国会審議を続ける異常事態が解消されたことを歓迎したい。
与党側には、同法案をはじめとする重要法案の処理をにらんで、小幅の会期延長を模索する動きもある。
だがその前にまず、会期内で審議を尽くす基本に立ち返るべきだ。数を頼んで強引に採決に走るような手法は、今後厳に謹んでもらいたい。
今国会で審議中の重要法案のうち、与党は社会保険庁改革関連法案を廃案にし、より抜本的な改革へ向けた新規法案を次期通常国会に出し直す方針だ。
憲法改正の手続きに関する国民投票法案や、「共謀罪」の創設を含む組織的犯罪処罰法改正案については今国会中の処理にはこだわっておらず、継続審議が確実な情勢だ。
今国会終盤の焦点は、教育基本法改正案と防衛庁の「省昇格」法案の成否に絞られた感がある。
教育や国防といった国の基本にかかわる点で、いずれも重い意味をもつ法案だ。ただ、直ちに改正しないと国民生活に支障を来すわけでもあるまい。
私たちは、教育基本法の改正も防衛庁の省昇格にも慎重であるべきだと主張してきた。
戦後民主教育の理念的支柱となってきた教育基本法を今なぜ改正するのか、政府・与党側の説明は必ずしも十分ではない。国民の間には、法に「愛国心」を明記することへの違和感も残っている。
「防衛省」法案に関しても、その権限と役割の拡大に伴って、戦後日本の平和主義が微妙に変質していく懸念がくすぶっている。
両法案とも、今後の「国のかたち」にかかわる問題として徹底審議すべき性質のものだ。そうした意味で、先の与党の教育基本法改正案の単独採決は明らかに行きすぎだ。
民主党も褒められたものではない。
同党が審議拒否に出たのは野党共闘を重視したためだが、先の沖縄県知事選での野党統一候補の敗北を受け、党内には安全保障など基本政策に隔たりがある共産、社民両党との共闘を疑問視する声が高まった。
結局、執行部も審議拒否戦術を撤回せざるを得なくなり、党内の足並みの乱れをさらすとともに、有権者に「腰砕け」の印象を与えることにもなった。
今回の国会正常化を契機に、与野党双方が、残された会期内で審議を尽くす姿勢を再確認すべきだろう。
審議時間が足りない場合は、小幅の会期延長が必要かもしれない。それでも円満に採決する環境が整わないようなら、与党は次期通常国会で仕切り直すくらいの覚悟で臨むべきだ。
西日本新聞 2006年11月23日
国会正常化/教育論議をもっと深めよ
空転が続いていた国会が一週間ぶりに正常化、二十二日から参院で教育基本法改正案の審議が始まった。改正案の与党単独採決に抗議していた民主党など野党側が、審議拒否の戦術を転換したためだ。
統一候補で必勝を期した沖縄県知事選に敗北し、参院民主党では、論戦への復帰を優先したいという意向が強まった。これに配慮せざるを得なかった小沢執行部には、苦渋の決断だったのではないか。
足並みをそろえてきた社民党などから反発もでている。野党共闘の行方にも影を落としかねない方針変更だが、選挙の結果を受けて、他に選択肢はなかっただろう。
衆院では、必修科目の未履修やいじめなど緊急課題の論議に追われた。それ自体、やむを得ないことだが、改正案の中身に踏み込んだ審議は十分とはいえず、参院ではより本質的な議論を求めたい。
たとえば「愛国心」である。最大の焦点といわれながら、ごく自然な心の動きを、なぜ法律に記す必要があるのか、という疑問は消えていない。盛り込まれた「公共の精神」なども「時代に合った理念、原則を定めた」という安倍首相の答弁で、十分な国民の理解が得られるだろうか。
そもそも、教育理念を掲げた基本法の見直しが、いまの教育が抱える問題の解消とどうつながるのか。そんな根本的な点も論議は深まらないままである。
沖縄で勝ち、野党陣営の譲歩を引き出した与党側にすれば、大いに自信をもっただろう。しかし、それが過信になって強引な国会運営に陥ってはならない。
いま学校現場で起きていることに多くの国民が危機感を抱き、対策を求めている。こうした期待にしっかり応えることだ。基本法改正案の審議でも、目の前の課題解決と結び付ける視点が欠かせない。
軽視できないのは、タウンミーティング(TM)での「やらせ質問」の扱いだ。文科省や内閣府の働きかけは、教育基本法の改正を語る以前の根本姿勢を疑わせる。この問題で与党は衆院での集中審議に応じたが、こうした場でTMの実態を徹底的に洗い直してもらいたい。
教育基本法の改正を最優先する首相だが、ていねいな国会審議を怠ったまま、法案成立に走るようなことがあってはならない。そのことを肝に銘じるべきだ。
民主党の対応も厳しく問われる。独自の対案を出しながら審議拒否は分かりにくいし、与党案と似た内容もある。論争を実りあるものにするには、まず、こうした点で説明を尽くす必要があるだろう。
神戸新聞 2006年11月23日
教育基本法 改正の必要性があるのか
通常国会で継続審議となり、今の臨時国会で衆院を通過した教育基本法改正案は参院で審議されている。安倍政権は教育の改革を重点施策に掲げているが、なぜ、戦後教育の理念を定めた「教育の憲法」をいじりたがるのだろうか。
何度、読み返しても改正の必要性はあるまい。むろん、愛国心や父母への孝行などは書いていない。そんなことは、おのおのの国民が判断することである。一編の法律に書かれているからといって順守されるべき筋合いもない。戦後も六十年余がたった。この辺は国民を信じてほしいものだ。だてに戦後の民主主義教育を受けて育ったわけではないのである。
教育基本法の改正論議は今に始まったことではない。毎年のごとく、文部相(当時)が「愛国心、伝統文化への言及がない。家族への恩愛がない」などと言い、改正への論議を繰り広げてきた。臨時教育審議会でも改正を求める意見が出ていた。
二〇〇〇年、当時の森喜朗首相が私的諮問機関の教育改革国民会議に見直しを諮問し、〇一年十一月に文部科学相が中央教育審議会に見直しを諮問したのがきっかけである。その主要点は「愛国心」「宗教教育」「教育行政」であろう。愛国心の表現については与党の自民、公明の間に「確執」があり、国土、郷土を愛する心を育てるとの改正案で妥協した。
現在の教育が完ぺきなものとは誰も考えてはいまい。学力低下がいわれる。学力とは何かが問われるべきなのに、この言葉は独り歩きを始めた。また、いじめも目立ってきた。教師の犯罪など無法も目にあまる。
わたしたちが教育基本法の改正案を疑問視するのは、それが奥深いところで憲法の改正につながる恐れがあること、基本的な法律であるがゆえに、その周辺の法規も改正されることである。もう、その兆候はある。日の丸、君が代では犠牲者が出ている。
教育は近代国家の基本ではないか。戦時中、軍国教育を支えた教育勅語に代わり、一九四七年に制定されたのが現行の教育基本法である。「教育は人格の完成を目指す」「勤労と責任を重んじ、文化の創造と発展に寄与する」などとうたわれている。時代が進んだ今となっては、足りないところがあるであろう。しかし、その分は国民自らが補えばいいのである。無理にいじることはない。
現在、社会問題化している高校の必修科目の未履修問題。これなども各高校と教育委員会との「談合」の結果ではないのだろうか。今の教育基本法は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と記述している。愛国心、郷土愛などは自然に生まれてくるものだ。強制されるゆえんはないのである。
神奈川新聞 2006年11月21日
教育基本法改正 「百年の大計」が泣く拙速審議
教育基本法改正案が、野党欠席のまま衆院特別委員会と本会議で可決された。参院でも野党席がからっぽの本会議場で趣旨説明と質疑が行われた。
昨年の衆院選を郵政民営化で一点突破した与党が、教育論議の本質部分は置き去りに、数に任せて強引に審議を進めることは大きな汚点となる。
野党も、対案を出した民主党と改正反対の共産、社民党とでは潜在的に立場がちがう。もし与党が修正に応じたら民主党はどうするのか。参院選をにらんだ共闘なら与党と大差ない。
中立性は教育の大原則だ。しかも基本法とあれば、政治的事情で左右することは最も許されない。憲法と対をなす重要な法律をまさに政争の具におとしめた状況で改正へ突き進むことには、深刻な憂慮をおぼえる。改正案の正当性にも後々まで疑念がつきまとうだろう。
与党側が衆院で採決を強行した理由といえば、審議時間が百時間を超えたことくらいだ。
しかし教育は「国家百年の大計」といわれる。改正に固執する安倍晋三首相自身、「五十年先、百年先の国づくりにかかわる法案」と言っている。
そうした時間の重みと比べ、百時間での線引きは永田町でしか通用しない論理だろう。
いま、なぜ改正なのか。出発点からしてなお答えが示されていないことこそ問題だ。
審議も多くはいじめ自殺や必修科目未履修、タウンミーティング(TM)でのやらせ質問に費やされた。改正案の本質部分への懸念は解消されていない。
「国と郷土を愛する態度」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」という文言には、国家が価値観を規定することで内心に立ち入るおそれがつきまとう。
「教育の目的」の条項から個人の尊重や自主的精神が削られるなど、国民のための教育から国家の求める人材を育成するための教育への転換をうかがわせる。文部科学省の介入や、君が代斉唱などの通達に法的根拠が与えられる点も見過ごせない。
一方でこのところの問題も教育基本法と無縁ではない。いじめや未履修の根底には、学力が絶対的尺度として幅をきかせている現実がある。多様性の認められにくい子どもはストレスを抱えるだろうし、未履修は受験が無上の目標となっているあからさまな実態を見せつけた。
改正案でも個々の問題は解決されないばかりか、競争原理の導入をめざす首相の教育観のもとでは格差を広げ、ゆがみを大きくする可能性がある。
先の通常国会で教育基本法改正案を提出した際、当時の小坂憲次文科相はTMでの意見も踏まえたと説明したが、前提は崩れた。改正に賛成するやらせ質問は二〇〇四年に愛媛会場であったTMでも確認されている。これでは国民的論議が成熟したとはとてもいえない。
政府はもつれた糸を解きほぐし、本質的な教育論議を深める努力をするべきだ。成立を急ぐ必然性はどこにもない。いくらでも時間をかけて審議を尽くすよう重ねて注文しておく。
愛媛新聞 2006年11月19日
今度こそ深く議論すべき/教基法改正案審議
憲法が公布されたのは六十年前の一九四六年十一月。教育基本法は、その四カ月後の四七年三月に公布された。
憲法は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を軸にする。教育基本法はその三大原則を具体化し、国の考えを上から押し付けた戦時中の教育ではなく、自分で判断できる子どもたちを育てる方向に大転換した。
戦後日本を法的に支えてきたと言えるこの二本柱について、安倍政権は、米軍の占領下で制定されたもので古くもなった、自分たちの手で今こそ書き換えるべきだと公約している。
二本柱を堅持すべきか改定すべきか。どちらを選ぶにしろ、日本の針路を左右する。国会や国民の間で慎重に考えなければならない大問題だ。
そんな重い意味を持ち、成立すれば憲法改正に道を開く可能性もある教育基本法改正案が、国会で今行われている審議では軽く扱われている印象がある。深く丁寧に議論すべきだ。
与党は、前の国会との合計の審議時間が百時間を超え、野党の要求通り公聴会や集中審議をこなしたことを理由に衆院の特別委員会で採決に踏み切った。
野党は、審議が尽くされていないと反発し、委員会のほか衆院本会議での採決を欠席した。改正案は与党単独で可決され、十七日から参院に舞台を移して審議が始まった。
与党にすれば、首相が今国会の最重要法案とする改正案を十二月十五日の今国会会期末までに成立させたいところ。成立しないと政権にとって大きな痛手になる。首相の外遊前に衆院を通過させたい思惑もあった。
野党にすれば、十九日に投票が行われる沖縄県知事選に有利な情勢をつくりたい。単独採決に誘って与党の強引さを強調づけ、四党が結束して改正案に反対している姿勢を示す狙いがあったといわれる。
改正案が軽く扱われている、審議が物足りないと映るのは、こうした与野党の意図が影響しているほか、改正案自体の本質に迫る議論があまり展開されてこなかったからだろう。
いじめ自殺、未履修、タウンミーティングでのやらせ発言といった緊急に対応すべき問題に質疑が費やされた。それは分かる。だが、衆院を解散し、国民に賛成か反対かを問うてもおかしくないほど重要な改正案の審議がこんな状態では困る。
与党は、参院では衆院の七割程度の審議時間をかければ採決に持ち込めると考えているようだが、数の力を背景にした時間の論理で押し通していいのか。
野党は、徹底審議を求めているのに欠席戦術を続けるようだが、それで改正案のどこに問題があって反対しているかを国民に伝える責任を果たせるのか。どちらにも疑問がある。
改正案は国と郷土を愛する態度を養う、公共の精神を尊ぶといった目標を掲げ、国家が教育に関与する道を開こうとしている。国が口を出さないよう定めている現行法の全面改定案だ。
その改定が今なぜ必要か、改定が教育現場で起こっている多くの問題とどう関連するのか。与野党は、国民が知りたいそうした論点の答えも引き出す中身の濃い議論を行ってほしい。
東奥日報 2006年11月18日
教育基本法改正 国家のための教育は危険
日本の学校教育の在り方を定める教育基本法の改正案が衆院を通過し、参院に送付された。与党が単独で衆院特別委員会で採決・可決したことに抗議し、野党が本会議を欠席するという不正常な状態で衆院を通過したことは残念だ。
安倍晋三首相は「野党が出席しなかったのは大変残念だが、百時間を超える議論をし、衆院段階では十分に議論が深まった」と述べた。だが教育現場で噴き出しているいじめによる自殺、受験競争激化による必修科目の未履修問題などが教育基本法改正で改善されるのかどうかは審議不十分なままだ。
政府は改正についてはタウンミーティングなどを通じて国民の理解を深めたと答弁していた。しかし改正案に賛成の立場から「やらせ質問」をさせていたことが発覚、国民の多くが賛成しているかどうか疑わしい。そんな折に与党が単独採決に踏み切ったのは、教育現場や親の要求を無視し、政治的意図を最優先したもので、将来に禍根を残すと言わざるを得ない。
戦後間もない一九四七年、「お国のために死ぬ」ことを強要し、国民を戦争に駆り立てるもとになった教育勅語を根底から否定した教育基本法が、一人一人の人間の尊厳、人格の完成を教育目的に掲げて制定された。その二年後に発行された高校一年生用の教科書「民主主義」(文部省検定済み)に、日本が戦前に犯した学校教育の過ちについて、こう書いてある。
「その時々の政策が教育を支配することは大きな間違いのもとである。政府は教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない」「ことに政府が教育機関を通じて国民の道徳思想までを一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである」
それから六十年近くたった現在、その教育基本法が政府主導で改正されようとしている。安倍首相は所信表明演説で「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです」と述べている。文字通り受け止めるなら、一人一人の人格育成よりも品格ある国家、社会をつくることが教育だと説いているのである。
この発想は現行の教育基本法一〇条(教育行政)にある「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」という部分を削除したことでも示されている。教育行政が国家の下請け機関になって個人の内面に踏み込んだり、誤った道徳観や国家観を強制させない歯止めとしての枠組みを取り払うことで、国家のための教育が可能になっていく。これは極めて危険である。
現行法にはなかった「教育の目標」が第二条に新設され、「我が国と郷土を愛する態度」「豊かな情操と道徳心」「公共の精神」が盛り込まれた。学校教育では目標には必ず評価が伴う。首相は「国が危機にひんしたときに、命をささげる人がいなければ、この国は成り立たない」と述べている。過ちは二度と繰り返してはならぬ。
デイリー東北 2006年11月18日
必要のない人間はいない/いじめ自殺なくせ
新聞を開くと気が重くなる。連日「いじめ自殺」の見出しが躍っているからだ。児童生徒のいじめ自殺、自殺を予告する手紙や張り紙、小学校長の自殺。胸が締め付けられる。
いじめ自殺はことし多発、十四日の新潟県神林村の中二男子を含めると七件。自殺の連鎖だ。だが、この鎖を断ち切らなければならない。
子どもの周りにいる大人たちはもっと心のアンテナを鋭敏にし、子どもの内なる叫びに耳を澄まそう。いじめや自殺のサインを見逃すまい。
県には複数の相談機関がある。県教委は義務教育課内に「いじめ問題対策チーム」を設置した。いじめの早期発見と防止に力を入れる。十四日から「いじめ相談電話」(017-734-9188)を始めた。抑止効果を期待したい。
いじめは昔からあった。だが昨今、陰湿化、凶悪化している。インターネットに悪口を書き込む「ネットいじめ」も多い。
いじめはその人を不信感、絶望感、深い孤独に追い込む。いじめる側の子どもたちのほか、はやし立て傍観を決め込む同級生、問題を取り繕う教員、学校、教委、子どもの異変に全く気付かぬ親も同罪だろう。
「自分は誰からも愛されていない」「自分はこの世に要らない」。こんな絶望感が死のふちに駆り立てるのではないか。
「消去」「削除」できるのはインターネット、ゲーム、携帯電話の世界だ。生身の人間は違う。この世に要らない人間など一人もいない。
いじめ自殺、履修漏れ、やらせ事件…。教育現場でウミが噴き出している。なのに政府は教育基本法改正に強引だ。
改正案は野党欠席の中、賛成多数で衆院を通過。なんとしても今国会で成立させるようだ。なぜ急ぐのか。改正案は日本の教育の「百年の大計」である。危急の問題の解決が先だ。改正案はもっと論議を成熟させ国民の理解を得るべきでないか。
改正案ではますます教育現場への介入、管理が強まる。「愛国心」を養うという教育方針が子どもに排他的な考えを押し付け、いじめの助長につながらないか心配だ。
文科省の「いじめ自殺」の定義はおかしい。「自分より弱い者に対して一方的に身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」とする。
一九九九年度から七年間、学校現場から文科省へ「いじめ自殺」の件数がゼロ。こんなことはあり得ない。
学校ではいじめで自殺しても教委に提出する調査票には十五の項目のうち「その他」と記載するケースがほとんどだ。
子どもがいじめと感じて苦痛を訴えれば、それがいじめだろう。「いじめ」の定義を改めるべきだ。
両親、とりわけ母親の役割が大きい。親が子どもを虐待死させるなどとんでもない。いじめに回る子どもたちは親、きょうだい、家族、家庭の愛に飢えている。
「絶対あきらめない」。人間生きていてこそ花なのだ。真っ暗なトンネルの向こうに必ず光が差すことを信じてほしい。
東奥日報 2006年11月17日
ぞんざいに過ぎないか
賛成のための賛成と、反対のための反対−。教育基本法改正案の衆院通過に国民が抱いた感想は、大方そういうところではないだろうか。「教育の憲法」は、ついに政争の具になった。
「審議は尽くした」という与党と「不十分」という野党。野党が欠席したままの採決は、多数派の横暴か少数派の横暴か。いずれ国民が、蚊帳の外に置かれたことだけは間違いない。
そもそも政府の改正案と民主党が示す対案は、懸案とされる「愛国心」にしても、公共心や家庭教育を重んじる姿勢にしても、本質的には似通っている。
同じ野党でも共産、社民両党は、民主党案にも反対の立場。しかし、ここで対応が分かれては、与野党激突の構図で19日投開票の沖縄県知事選の共闘態勢に大きく響く。
野党側の欠席は、取りあえず一致できるところで一致した結果だろう。与党側も、当然その辺の事情を読む。改正案は「混乱」なく衆院を通過した。日本の政治の小ずるさだ。
教育基本法は、わが国の教育施策を貫く理念としてある。国家総動員の波に教育ものみ込まれ、悲惨を極めた戦前・戦中の反省から、個人の価値の尊重を基調とするのが大きな特徴だ。
改正案は「公共心」に重きを置く。その面がクローズアップされ、国会審議は「愛国心」教育の扱いに集中するが、それに類した教育の必要性は現在でも学習指導要領に盛り込まれ、通知表で子どもの「愛国心」を評価する事例が表面化するなど、既に課題すら浮上している。
学校選択制や習熟度別指導など、前政権から引き継ぐ「教育改革」も大都市圏などで進み、選別教育の是非や学力格差の拡大が問題視されてもいる。
いじめ自殺の続発や高校必修科目の未履修など、今まさに教育現場が危機にある局面で、理念法の、それも審議ではなく成立を優先する理由はあるまい。
タウンミーティングでの「やらせ質問」には、政府から謝礼金が支払われていた。教基法改正理由の首相答弁は「品格ある国家」づくりに終始するが、これでは「品格」も形無しだ。
もとより論点は「愛国心」だけではない。六三制義務教育の流動化が及ぼす効果、家庭教育に法が踏み込むことの是非、政府が教育振興基本法を定め、関与を強めることの意味…。
不明が不明のまま、政治力学のみで教育理念が変わっては、安心して子を産み、育てられない。時代を経て、見直しの必要は否定しないが、戦後60年、日本を下支えしてきた「教育憲法」を全面改正するにしては、扱いがぞんざいに過ぎないか。
岩手日報 2006年11月17日
教基法改正 党利優先に映る審議拒否
教育基本法は「教育の憲法」であるから、その改正には与野党の歩み寄りが望ましいとする自民党の主張が野党側から拒絶され、衆院では教育基本法特別委に続き十六日の本会議も野党欠席のまま自民、公明の与党などの賛成多数で改正案が可決、参院に送付されたのはまことに遺憾だ。
そもそも政府案と野党第一党の民主党案には本質的な相違はなく、むしろ愛国心については民主党案の方が具体的でよかったほどである。伊吹文明文科相などは特別委での発言の中で「政府案がすべてとは思っていない。双方の案の中でいいものを作っていただければありがたい」と協力を求めたくらいだ。
それがなぜ歩調を合わせた審議拒否になったのか。対案を出した民主党には改正に前向きな議員も多いといわれる。もともと共産、社民両党とはスタンスに開きがあるといわれていた。十九日投開票の沖縄県知事選などをはじめ来年の参院選まで視野に入れて、野党側が反自民という姿勢を押し通すために共同歩調の審議拒否となったと見る向きがある。
ここへきて対案そのものが政府案に反対するためにまとめたものだったともいわれている。となると、党利党略優先に映るのである。
これまでの審議を振り返ると、必修科目未履修問題、幼い命を自ら断つ悲しい事件まで伴ういじめ問題、「やらせ質問」問題が暴露されたタウンミーティング等々によって、こういっては何だが、文科省や教委、学校現場の責任を問う方向へと審議が揺れて、本筋とは違う方向へそれてしまったのである。
そこへさらに麻生太郎外相らの「核論議」が加わった。一枚岩とはいえない野党側は麻生発言をとらえ、外相罷免を求めているが、その裏には安倍政権が最重要課題とする教育基本法改正案や防衛庁の省への格上げ案などを先送りする作戦があるという、うがった見方さえ出てきたのである。
与党側には参院の審議で野党が求めれば修正に応じる動きがあるそうだが、党利党略が優先されれば、それすら不確実だ。教育基本法改正を、教育再生につなげるために、与野党とも大きな視野に立って公益を優先させてほしいものだ。
北國新聞 2006年11月17日
教育基本法が通過 国民置き去り、なぜ急ぐ
野党欠席のまま、教育基本法改正案が衆院を通過し参院へ送付された。教育の根本法がいとも簡単に―との感は否めない。数を頼りに国民議論が成熟しないうちの強行採決ととられても仕方ない。国会は国民を置き去りにし、基本法を政治対立の象徴に落とし込んでしまっていないか。
「新しい時代にふさわしい教育基本法については、広範な国民的議論と合意形成が必要だ」。今回の改正案への道を開いた二○○○年の教育改革国民会議はこう指摘した。基本法の重さを考えれば当たり前の感覚だ。
日本PTA協議会の調査で、保護者の88%が「内容をよく知らない」と答えている。手間暇と丁寧な手続きを踏まないと国民的議論にはならないということである。だから、政府のタウンミーティングでのやらせ質問などは教育を政治的に引き回すとんでもない愚行だ。
改正案が教育目標に掲げる「国を愛する態度」「公共の精神」「伝統と文化の象徴」といった理念が何を意味するのか、国会での審議を聞いてもわからない。今なぜ見直しか、説得力ある説明はなかったし、突っ込んだ議論も聞かれずじまいだ。
国の将来を憂い反政府運動をすることは「国を愛する態度」にはならないのだろうか。顔が見えない、本音を言わないとされる日本人の伝統的優柔不断さも尊重すべき文化に入るのか。
改正案では学校教育は「教育目標が達成されるよう、体系的な教育が組織的に行われなければならない」とあり、学校は今後その達成度を問われることになる。
○三年に基本法改正を打ち出した中央教育審議会の答申は「数値化」を達成度評価の尺度とした。いじめや校内暴力も「五年で半減」としたことで以降、文部科学省はいじめ克服を数値目標化していった。だが数値目標は末端の教育委員会と学校に重圧となった。結果、実態に反した「いじめなし」虚偽報告という形で表れ、教育政策の構造的な問題をあぶり出した。
官僚が理念の解釈を一手に握り、教師は子供たちを国が決めた枠にはめ込む。学校現場の創意工夫などあったものではない。現行基本法は「教育は国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」と規定し一般行政からの独立をうたった。改正案ではこの規定が消えた。
代わりに「教育は法律の定めるところにより行われるべき」と変更された。政治が堂々と教育内容に踏み込めるということだ。子供に直接の責任を持っている教師や学校が、法律のクッションを通してしか向き合うことができなくなる恐れもある。
六十年近く過ぎた基本法だから改正するのではなく、現行の基本法をおろそかにしてきた文科省と教育政策を洗い直し、何が必要なのか今からでも徹底検証するべきだ。大切な”教育憲法”の改正を国民の多くはそんなに急いでいないと思う。
福井新聞 2006年11月17日
教育基本法改正 政争の具にしていいのか
安倍内閣が今国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案が衆院本会議で採決され、自民、公明の与党など賛成多数で可決した。採決に反対する野党が衆院教育基本法特別委員会に続いて欠席する中で強行した。
法案は参院に送付されたが、野党は審議拒否の構えも見せている。だが参院の与党幹部は「与党だけでも審議を進め、十二月十五日の会期末までに成立を図る」とする。
教育は国家の根幹である。教育基本法は「教育の憲法」とさえ言われる。改正問題では腰を据えた活発な議論が欠かせない。こんなやり方で広範囲な国民的理解が得られるだろうか。
政府の改正案が提出されたのは通常国会だった。愛国心をめぐる表現などについて疑問が相次いだため継続審議となり、今臨時国会に引き継がれた。
採決に踏み切った与党は、特別委の審議時間は前国会と合わせ百時間を超え、十分に議論されたとする。果たしてそうだろうか。今国会では高校の必修科目未履修、いじめによる自殺、政府主催の教育タウンミーティングでの「やらせ質問」が次々に問題化し、基本法自体の議論は棚上げされた形になった。
さらに衆院特別委での採決前に、自民党議員が野党議員に採決への協力の見返りに自民党入党を持ちかけたとする問題が発覚した。買収工作のような疑いも出る中、成立を急ぐ与党の姿勢は国民の反発を招くだけだろう。
国会スケジュールを視野に入れた強行路線といわれる。今国会成立にこだわる背景には、改正に意欲的な安倍晋三首相の意向が大きいようだ。強引な手法でたとえ成立させても、後世まで成立過程の正当性を問われかねない。そんな法律にしていいのか。安倍首相の責任は重い。
民主党も独自の改正案を提出していたが、改正そのものに反対する共産、社民両党と歩調をそろえ採決を欠席した。十九日投開票の沖縄県知事選の野党共闘を優先したと批判されても仕方あるまい。
与党は野党が出席を拒んだ採決なら強引さが薄れ、知事選への影響は少ないと判断したようだ。基本法を政争の具にすべきではない。将来に禍根を残すだけだろう。
教育現場に問題が山積しているのは確かだが、そもそも現行の基本法がどう関係し、どこに不具合があるのか。これまでの国会議論で基本的な部分が明確になったとは言い難い。政府、与党は今国会での成立に固執せず、議論を深めて幅広い合意形成を図るよう努力すべきである。
山陽新聞 2006年11月17日
改正の機は熟していない 教育基本法
政府も与党も「改正の機は熟した」「審議は尽くした」と力説するが、本当にそうなのか。
安倍政権が今国会の最重要法案と位置付ける教育基本法の改正案が衆院本会議で可決された。「徹底審議」を求める野党が欠席したまま、与党が単独で採決に踏み切った。
明らかに異常な事態である。戦後教育を支えてきた「教育の憲法」の改正は、国民的な合意が大前提ではないのか。その国民を代表する国会議員の野党側が本会議場に姿を見せず、反対の討論もないまま、衆院を通過してしまった。
国家100年の大計といわれる教育だ。しかも、その根本理念を定めた教育基本法を見直すかどうかという瀬戸際である。
この重大な局面で、言論の府がいわば機能不全に陥ったのは深刻な問題だ。
改正案には「我(わ)が国と郷土を愛する態度を養う」といった表現で、現行法にはない「愛国心」が教育の目標に盛り込まれた。前文には「個人の尊厳」を残す一方で、「公共の精神」が明記された。
「戦後レジーム(体制)からの脱却」を政治理念に掲げる安倍晋三首相は「必要な新しい価値や目標をバランスよく加えた」と改正案を自賛するが、国民の賛否はなお分かれている。
「愛国心」や「公共の精神」が法律で明記されると、規範意識として強要される懸念はないのか。こうした条文を根拠に政府や文部科学省の権限が強まり、地方の教育行政や教育の現場へ過度に介入してくることはないのか。
私たちは、「愛国心」を教育基本法に条文として書き込むことには疑問を呈するとともに、「なぜ今、基本法を改正するのか」「改正を急ぐ理由が分からない」と繰り返し主張してきた。
残念ながら、そうした一連の疑義が解消されたとは到底言い難い。
政府・与党は、先の通常国会からの通算で審議時間が100時間を超えたことを主な根拠に「野党の要望も聞き入れ、審議は十分に尽くした」という。
しかし、今国会では法案の審議中に、いじめによる痛ましい自殺が相次ぎ、必修科目の未履修問題も噴出した。教育改革タウンミーティングで「やらせ質問」が横行していた問題も発覚し、こうした緊急課題に質疑が集中してきた。
結果的に、審議に時間をかけた割には教育基本法のあり方をめぐる本質的な議論は深まらなかった‐というのが実態ではないか。
そもそも、憲法に並ぶ教育基本法という重みを考えれば、国会の先例に照らした審議時間の多寡は、一つの目安ではあるにしても、決定的な意味を持つとは思えない。
論戦の舞台は参院へ移る。国会日程や審議時間に縛られることなく、徹底した論議で国民の期待と関心に真正面からこたえてもらいたい。
西日本新聞 2006年11月17日
教育基本法改正 国民的合意とは程遠い
教育基本法改正案が衆院を通過した。今国会での成立を目指す与党は「慎重審議を尽くした」として野党の抵抗を押し切ったが、国民に浸透するほど論議は深まったのか。「やらせ質問」などで混乱する中、政治的対立の象徴となったのは否めない。
与党は審議が100時間を超えたことなどを理由に「機は熟した」とし、野党欠席のまま単独採決に踏み切った。今国会で成立させるため、是が非でも今週中に可決したかったのだろうが、政治的な攻防の前に、本質的な論議が国民に伝わったとは言えない。
衆院可決で制定から約60年ぶりに全面改定される見通しとなったが、重大な決断がこんな状況で下されていいのか。反対意見は残ったとしても、国民の多くが内容を理解した上で採決すべき重要法案だったはずである。
基本法の見直しは、2000年12月の教育改革国民会議最終報告で提起された。その中で「広範な国民的論議と合意形成が必要。改正論議が国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」と指摘している。
教育は国の根幹であり、基本法は憲法に準じる重みを持つ。その改正には報告で指摘されたように国民の合意が不可欠だが、ここに至るまでに共通理解ができただろうか。審議時間だけで判断する問題ではない。
日本PTA協議会の調査によると、保護者の88%が「内容をよく知らない」と答えている。東大の基礎学力研究開発センターが公立小中学校の校長を対象に実施した調査では66%が改正案に反対し、67%が「教育問題を政治化しすぎ」と回答した。
改正案を審議してきた衆院特別委員会の中央公聴会でも「子どもに特定の価値観を強制することになる」「改正案ではいじめも非行もなくならない」など、5人のうち3人が改正反対や慎重審議を求める意見を述べた。
特別委ではこうした疑問や異論について論議を深めるべきだったが、高校必修科目の未履修問題やいじめによる自殺、タウンミーティングのやらせ質問に論議が集中した。いずれも重要な問題ではあるが、肝心の改正案の中身について審議が尽くされたとはいえない。
教育はさまざまな課題を抱えている。何らかの対応が必要という認識はおおむね一致しているだろうが、現行法ではなぜ対応できないのか。十分な検証もなく、いまだに改正の必要性が判然としない。
改正案の「教育の目標」には「公共の精神」「伝統と文化の尊重」「国と郷土を愛する態度」などが盛り込まれている。それらは否定されるものではないが、国家・社会ありきの教育につながる危うさを秘めている。
だからこそ改正案が示す理念が何を意味しているのか、政府の見解を明確にする必要があった。国民が知りたいのは改正された理念が学校現場にどんな変化を与え、問題解決にどう結びつくかなど、もっと具体的な姿である。
その論議が不十分なままでは、国民的な合意形成はできない。安倍晋三首相は党首討論などで「今日、起こっている問題に対応していくために必要な理念、原則はすべて書き込んである」と述べているが、抽象的すぎる。国民に分かりやすく語り、理解を得る努力をすべきだ。
与野党とも目前の沖縄県知事選への影響が気になるようだが、目を向けるべきは学校現場や子どもたちである。それを忘れ、政治的な攻防に懸命になっては教育再生は遠のくばかりだ。(大隈知彦)
佐賀新聞 2006年11月17日
教育基本法案*禍根を残した単独採決
国民の多様な意見には、もはや耳を傾けないということなのだろう。
教育基本法改正案を審議していた衆院特別委員会は、与党側が単独で改正案の採決を強行し可決した。
一九四七年に制定された教育基本法は、憲法の理念の実現を教育に託すことを定め、憲法とともに戦後日本の民主主義の骨格を形作ってきた。
これだけ重みのある法を根本から変えようという改正案が、十分な国民の合意がないまま、あまりにもあっけなく委員会での採決に持ち込まれた。
与野党は、教育の根本法を政争の具にした。不毛ともいえる国会論争の果ての単独採決は、国民の思いに応えていないだけでなく、教育の未来に禍根を残すといわざるをえない。
法案の審議時間は、前国会を含めて百時間を超えた。政府・与党側は「採決できない理由は見いだせない」(塩崎恭久官房長官)とごり押しした。
今国会の会期末までに法改正を実現するためには、与党側は委員会での早期採決を図る必要があった。政治日程だけを優先した結果だ。
野党側は衆院での全審議を拒否して反発している。
しかし、委員会での攻防では、民主党が地方公聴会の開催場所を増やすことを要求するなど、対決姿勢を演出するので精いっぱいだった。
政治的な駆け引きに終始した審議では、法案に対する国民の疑問や懸念が十分に解消したとは到底いえない。
焦点の「愛国心」や、教育への国家介入の問題をめぐっては、国民の間で賛否が鋭く対立したままだ。慎重審議を求める声も依然として根強い。
教育現場では、いじめや自殺の根絶、高校の必修漏れ、教育委員会改革などの課題が山積している。
子どもや現場の教師の悩みをすくいあげ、課題の対処法や問題解決の方向性を探り出すような議論が聞かれなかったことも極めて残念だ。
教育基本法をめぐるタウンミーティングでは、文部科学省の「やらせ質問」で国民の「合意」形成が操作されていたことも明らかになった。
改正案を採決できる状況になかったことは明白だ。
それでも自民党が法改正を急ぐのは、「現行法は占領軍に押し付けられたもので、全面的に改めたい」という結党以来の悲願があったからだろう。
法案が衆院本会議を通過すれば、論戦は参院に移る。
参院では、会期に縛られず、教育現場の問題への具体的な対処法を含め、法案そのものの本質論議を深める必要がある。
与野党の不毛な政治的かけ引きが繰り返されるのでは、安倍晋三首相が言う「教育の再生」への道はますます遠のくだけだろう。
北海道新聞 2006年11月16日
教育基本法単独採決/国民感覚とずれていないか
自民、公明両党は15日の衆院教育基本法特別委員会で、今国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案を、野党欠席のまま、単独で採決、可決した。16日には衆院本会議で可決、参院に送付する見通しだ。
審議が100時間を超え、議論を尽くした、というのが与党の主張。今国会は12月15日までであり、参院の審議日程を考慮すると法案成立を図るには、このタイミングが限界との計算も働いたのだろう。
いじめによる自殺の防止や、高校必修科目の未履修問題に象徴される教育の実態と学習指導要領の乖離(かいり)などに、国民は目を向けており、こうした学校現場で現実に起きている問題の解決が先ではないかと、わたしたちは訴えてきた。
加えて、「教育改革タウンミーティング」で、文科省が教育基本法改正賛成への「やらせ質問」を作成し、地元県教委を通して、発言依頼した事実も明らかになった。文科省への不信感は高まっている。
なぜ法改正を急ぐのか。政府や与党は、「公共の精神」などを新しく盛り込んだ教育基本法は教育の大枠を決める理念法であり、議論が出尽くした改正案を採決するのは、国会の生産性を上げるという意味でも当然だったとする。「約60年ぶりの改正で極めて大事だ」(塩川恭久官房長官)と1947年の制定以来の全面改定の意義を強調する向きもある。
個々の問題は、教育基本法とは別に、教育再生会議などで議論し対処する方針だという。
だが、先に大枠、理念だけを決めてしまうのは、順序が逆ではないかと思う。一つ一つの事実の直視と対応の積み重ねがあってこそ、理念は構築されるものであり、そうした蓄積がなければ、基本法は、むなしい抽象論になりかねない。
改正案が提出された今年4月と状況は大きく変わっており、教育を正常に機能させるため、例えば文科省、教育委員会、学校の役割や権限の見直しの必要性が訴えられていた。いったん決めた法改正の内容を固守するだけでは、機動性に欠ける。
まして、いじめにあってひそかに悩んでいたり、漠とした将来への不安を抱えて、もがいている子どもたちが数多くいる中、具体的な救済策も示さないで、ただ法改正するとか、道徳教育の枠組みを急いでつくることを、どれほどの国民が求めているか疑問だ。国会があまりに現場から遊離した世界になっていないだろうか。
国会に求められているのは、徹底した議論であり、学校をめぐる状況の把握だ。教育に対する国民の関心が盛り上がっている今、国会がリードして国民全体で教育について考える絶好のチャンスだったはずだ。
野党が「タウンミーティング」問題の審議を求めて委員会を欠席したのは、やむを得ない面があったかもしれない。ただ、国会が審議の場であることに間違いない。参院を含めて、与党との対決、折衝の中で、国民が納得いく行動、議論を展開できるかどうか力量が問われる。
河北新報 2006年11月16日
教育基本法採決 国民の理解が必要だ
教育基本法改正案が衆議院特別委員会で与党単独で可決された。教育をめぐる深刻な問題に直面しながら論議を尽くしたとはいえず、改正を急ぐことに国民の理解が得られるのか極めて疑問だ。
安倍晋三首相は十五日の特別委員会総括質疑で「深い議論を行った」と振り返った。首相は内閣の最重要課題を教育改革とし、今国会での教育基本法改正を最優先している。
これを受けて与党は今国会で成立させるため、参議院の審議を約一カ月と見込んで採決を急いだという。教育の基本理念と原則にかかわる基本法なのに、まず日程ありきで進んだ形だ。
教育基本法は日本の未来を担う子どもたちをいかに育てるかの理念が込められ、その重要性は憲法に準じる。改正案は、学校教育だけでなく家庭や地域社会にも責任を求める内容だ。
一九四七年の現行法施行以来、六十年ぶりの改正となる。まさに国家百年の大計だからこそ、大多数の国民の理解を得ることが何より欠かせない。
政府が改正案に国民の理解が得られた根拠としていた教育改革タウンミーティングでのやらせ質問が発覚し、その根拠が崩れたことは伊吹文明文部科学相も認めている。
安倍首相の言うような重要法案であるから、政治日程を優先したような野党欠席での採決は、国民に受け入れられるとは思えない。
法改正を前に、いじめ自殺や高校必修漏れ問題など、教育の本質にかかわる問題が次々と噴き出してきた。国民が教育に求めているのは、こうした現実問題への対応だった。このため、基本法についての論議は十分ではなかったきらいがある。
しかも、いじめ問題などで浮かび上がったのは、文科省の無責任さや、教育委員会の責任逃れと隠ぺい体質である。
文科省幹部の上意下達による“世論偽造”に等しいやらせ質問や、四年前に知りながら放置していた必修漏れなどが次々と露呈し、国民の信頼を失ってしまっている。自らの姿勢を正さずして、教育基本法改正を語る資格があるのか疑問だ。
改正案そのものの問題点も残ったままだ。「郷土と我が国の伝統と文化を愛する態度を養う」など、愛国心や徳目は大切だが、法律で強制するものではない。国家による教育への管理・統制が強まることも心配される。
子どもたちの悲鳴に耳を傾けて、国民の理解を得るために、国会ではなお論議を尽くすべきだ。
東京新聞 2006年11月16日
教基法改正案 この採決は容認できぬ
教育は百年の大計だ。その根本を定めた法律を改正する大事を、政府や与党はどこまで真剣に考えているのか。
教育基本法改正案が十五日、衆院特別委員会で野党欠席のまま与党だけで採決し、可決された。野党は審議の継続を求めていたが、今国会で成立させたい与党が強行突破に及んだものだ。
教育基本法は「教育に関する憲法」と位置付けられてきた。その重さを考えれば、法律の改正には広く国民的な議論と合意づくりが欠かせないはずだ。
与野党がにらみ合い、与党が単独採決に突っ走る。こうした状況は本来の国会審議には程遠く、不幸というべきだ。政治対立の渦中に置かれては、百年の計が汚辱にまみれるだけだろう。
与党は「通常国会から通算して審議時間は百時間を超えており、採決の機は熟した」と強調する。しかし、国会での議論からは、なぜいま基本法を改正しなければならないのかについて、いまだに納得のいく説明が聞かれない。
今国会の衆院特別委の審議は、高校の未履修、子どものいじめ自殺の問題にも時間が割かれた。基本法改正に絡み、政府主催の教育改革タウンミーティングで政府案に賛成の立場の「やらせ質問」が行われていた事実も発覚した。
審議が百時間を超えたといっても、特別委では基本法改正案が脇に追いやられてしまった感がある。野党が審議継続を求めている「やらせ質問」問題も見過ごせない。国民の議論や合意をでっち上げていた政府の責任は極めて重い。
急ぐべきは、民意を操作して恥じない政府や文部科学省のゆがんだ体質を正すことではないか。基本法の改正が必要ならば、その後に議論し直せばよい。
政府の改正案は教育目標に国を愛する態度、公共の精神、伝統や文化の尊重などの徳目を掲げる。だが特別委審議では、それらの理念が具体的に示されることがなかった。採決は拙速であり、国会の使命放棄といわれても仕方ない。
改正案には「教育は法律の定めるところにより行われるべきだ」という新たな規定が盛り込まれている。政治や行政の意思を教育内容により反映させる。そんな余地を広げかねない規定だ。
その是非もまだきちんと議論されていない。肝心な点をあいまいにしたまま成立を急いだのでは、政府がいうところの百年の計を誤る。議論はこれからだ。
新潟日報 2006年11月16日
教育基本法 論議はまだ十分でない
教育基本法改正案が衆院特別委員会で可決された。野党が反発して委員会を欠席する中、今国会中の成立を目指しての無理押しである。
教育の基本理念を示す重要な法律だ。憲法と並んで、戦後日本の歩みを方向付ける役目を果たしてきた。改正には慎重さが欠かせない。与野党が対立する中で採決を強行するような法律では、本来ないはずだ。
教育現場の反対も根強い中で、なぜ改正を急ぐのか、基本法を変える必要がどこにあるのか、いまだ納得のいく説明はない。拙速な対応は避けねばならない。
改正案の審議は、先の国会と合わせて100時間を超えた。公聴会の開催など野党の要求を受け入れ、十分な審議を尽くしたとの判断で、与党は採決に踏み切った。
しかし、今国会では高校の未履修問題、いじめ自殺への対応が論議の中心になり、後にタウンミーティングでのやらせ質問が浮上した。民主党が提出した対案は、政府案と共通する部分が多いこともあり、「愛国心」条項をめぐる問題など、本質的な論議は深まっていない。
15日午前に開いた中央公聴会では、改正による教育現場への影響を心配する声が上がった。
日本大学の広田照幸教授は、改正案が多くの道徳的な教育目標を掲げていることで「個性に合わせた教育ができない窮屈な学校になる心配がある。規範意識を教えれば、教育がよくなるわけではない」と主張。理念を変えるよりも、教育予算を増やし、現場にゆとりを持たせることが必要だと訴えた。
このほか「改正案では中央で教育の目標を決めて地方に下ろす、硬直的な運営になりかねない」「これまでのタウンミーティングは、親や教師の生の声を吸い上げたとはいえない」といった意見も出ている。
いずれもうなずける指摘である。こうした意見に対する論議をしないまま、与党は採決に踏み切った。乱暴な手法と批判されても仕方ない。
「やらせ」質問についての本格調査はこれからだ。子どもに規範意識を教え込もうとする文部科学省が、世論を操作しようとしていた。そうまでして改正しても、国民の理解は決して得られない。
子どもたちを取り巻く環境をよくしたいという願いは多くの人が抱いている。しかし法律を変えて、規範意識を教えれば、いじめや不登校といった問題が解決できるほど、簡単な話ではない。
衆院本会議、そして参院には、問題の重要性を踏まえた慎重な審議を求めたい。
信濃毎日新聞 2006年11月16日
国民の理解が必要だ
教育基本法改正案が衆議院特別委員会で与党単独で可決された。教育をめぐる深刻な問題に直面しながら論議を尽くしたとはいえず、改正を急ぐことに国民の理解が得られるのか極めて疑問だ。
教育基本法採決
安倍晋三首相は十五日の特別委員会総括質疑で「深い議論を行った」と振り返った。首相は内閣の最重要課題を教育改革とし、今国会での教育基本法改正を最優先している。
これを受けて与党は今国会で成立させるため、参議院の審議を約一カ月と見込んで採決を急いだという。教育の基本理念と原則にかかわる基本法なのに、まず日程ありきで進んだ形だ。
教育基本法は日本の未来を担う子どもたちをいかに育てるかの理念が込められ、その重要性は憲法に準じる。改正案は、学校教育だけでなく家庭や地域社会にも責任を求める内容だ。
一九四七年の現行法施行以来、六十年ぶりの改正となる。まさに国家百年の大計だからこそ、大多数の国民の理解を得ることが何より欠かせない。
政府が改正案に国民の理解が得られた根拠としていた教育改革タウンミーティングでのやらせ質問が発覚し、その根拠が崩れたことは伊吹文明文部科学相も認めている。
安倍首相の言うような重要法案であるから、政治日程を優先したような野党欠席での採決は、国民に受け入れられるとは思えない。
法改正を前に、いじめ自殺や高校必修漏れ問題など、教育の本質にかかわる問題が次々と噴き出してきた。国民が教育に求めているのは、こうした現実問題への対応だった。このため、基本法についての論議は十分ではなかったきらいがある。
しかも、いじめ問題などで浮かび上がったのは、文科省の無責任さや、教育委員会の責任逃れと隠ぺい体質である。
文科省幹部の上意下達による“世論偽造”に等しいやらせ質問や、四年前に知りながら放置していた必修漏れなどが次々と露呈し、国民の信頼を失ってしまっている。自らの姿勢を正さずして、教育基本法改正を語る資格があるのか疑問だ。
改正案そのものの問題点も残ったままだ。「郷土と我が国の伝統と文化を愛する態度を養う」など、愛国心や徳目は大切だが、法律で強制するものではない。国家による教育への管理・統制が強まることも心配される。
子どもたちの悲鳴に耳を傾けて、国民の理解を得るために、国会ではなお論議を尽くすべきだ。
中日新聞 2006年11月16日
単独採決 なぜ変える教育の理念
自民、公明の与党が、きのうの衆院教育基本法特別委員会で、野党欠席のまま採決を強行し、政府案を原案通り可決した。
教育の「憲法」といわれる法律の改正論議である。数を頼んだ拙速審議が、なじむはずもあるまい。幾世代にもわたり、子どもや国民の将来を規定する基本法規が、論議の一致を見ないで改正される事態は容認できない。
平和憲法と並び、戦後社会に溶け込んできた法律の改正を、なぜそれほどまでに急ぐ必要があるのか。現行憲法を「戦勝国の押しつけ」として、新憲法制定を最大の政治課題と位置づける安倍晋三首相の思いが強く反映されていることは間違いあるまい。自民党の文教族も「教育基本法の改正は憲法改正への一里塚」とみている。
「国家の誤った意思で、二度と悲惨な戦争に迷い込むことがないように」。現行の基本法の前文には、戦争放棄を誓った憲法と同じ精神が、色濃く流れている。普遍の真理ともいえる基本法の理念は、約六十年の時を経た今でも輝きを失ってはいないはずだ。
確かに、連日のように続くいじめに伴う児童、生徒たちの自殺や高校の必修科目の履修漏れ問題は、課題が山積する教育現場の苦境を端的に示しているといえる。抜本的な対策を講じることは急務である。
だが、そうした教育を取り巻く難問解決への糸口が、基本法を変えれば本当に見えてくるのか。
安倍首相は改正の目的について「志ある国民を育て、品格ある国家をつくっていくため」と力説している。政権構想の「美しい国」と同様、理念だけが先行し、真の目的が見えてこない。
これまでの審議を見る限り、国の指示や関与が一段と強まることは予測できるが、首相の言う「教育再生」への手掛かりが得られるのかどうか。国民の納得がいく説明は果たされないままだ。
今国会に対案として出されている民主党案も、「愛国心」の醸成などを強調している点で、与党案とそれほどの違いはない。
与党側は、きょうにも衆院本会議での与党単独採決を経て、法案を参院に送付する。来月半ばの今国会会期末までの成立を図る方針とされる。
参院での審議を含め、与野党とも疑問点を解消する努力を怠るべきではない。国民の暮らしが一変しかねない法案である。厳しい監視の目を注ぎ続けたい。
中国新聞 2006年11月16日
教育基本法可決/審議はまだ十分ではない
安倍内閣が臨時国会の最優先課題と位置付ける教育基本法改正案が十五日夕、衆院特別委員会で、与党の単独採決により可決された。衆院通過も確実で、与党は今国会内の成立をめざす方針だ。
教育基本法は、国民教育の根本理念をうたい、憲法に次ぐ重要な法律といわれる。政府・与党による改正法案は、一九四七年の制定以来初めて、全面改定に踏み切る内容だ。それだけに賛否も分かれ、先の通常国会では継続審議となっていた。
今国会の法案審議中には、高校必修科目の未履修や、いじめによる小中学生の自殺といった深刻な問題が相次いだ。さらに政府主催の教育改革タウンミーティングでの「やらせ質問」問題まで発覚した。あろうことか、改正法への賛成発言を参加者に文案まで示し、求めていたのである。
こうした状況下、野党議員不在のまま採決を急ぐ必要があったのか。政府与党は、審議は百時間を超え、十分に尽くしたという。しかし、未履修など目の前の教育問題を扱った時間が長く、法案本体の審議はまだ不十分ではないか。与党が数の力で「強行可決」したといわざるを得ない。
教育基本法改正をめぐる、これまでの論点は、「愛国心」という表現をどうするのか、に尽きるといってよい。
与党案づくりでは、自民党が「国を愛する心」の明記を主張したのに対し、公明党が「戦前の国家主義を想起させる」と反発した経緯がある。結局、政府案では「伝統を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」との表現となった。
民主党案は「日本を愛する心を涵(かん)養(よう)する」という表現を打ち出した。「この方が自民党案に近い」との指摘もあったが、いまひとつ、違いが分かりにくい。一方、社民党や共産党は改正自体に反対という構図だ。
国の教育理念を説く基本法の練り直しは、慎重の上にも慎重でなければならない。それが愛国心論議だけ前面に出る形になったのは、一面不幸なことでもあった。「なぜ変える必要があるのか」という本質論議を薄めてしまったのは否めない。
いま、いじめ自殺や教育委員会のあり方など、緊急の教育問題が噴出している。理念論議を拙速に終わらせるのでなく、具体的課題の解決にどう結びつけるかを優先して考えるべきだ。その過程にこそ教育改革へのヒントが見えるはずだが、そうした審議が尽くされたとはいいがたい。
舞台は参院に移る。「法案成立ありき」ではなく、十分に時間をかけ、修正を含めて、しっかりと審議すべきだ。
神戸新聞 2006年11月16日
教育基本法改正 強引な採決は遺憾だ
教育基本法改正案が衆院教育基本法特別委員会で可決された。野党が採決に反対して欠席する中、自民、公明の与党単独で採決に踏み切った。
私たちは、教育基本法改正をめぐる議論はまだ不十分だとして、審議を尽くすよう与党に求めてきた。野党の反対を押し切り、採決を強行したことは極めて遺憾である。
いま、教育は多くの問題を抱えている。教育の在り方を見直す必要があると考えている国民は少なくない。しかし、与党のこうした強引な採決は、広く国民の理解が得られるとは思えない。
教育基本法は一九四七年に制定され、約六十年にわたって「教育の憲法」として戦後教育の支柱となってきた。その改正には、国民的な議論と合意形成が欠かせない。
改正案は先の通常国会に提出され、継続審議されてきた。安倍晋三首相は総裁選の公約の柱に位置づけ、今国会の最重要法案として掲げた。
一方、民主党は独自の対案を提出しており、共産、社民両党は政府案の廃案を求めている。
「我が国と郷土を愛する態度を養う」と規定した「愛国心」をめぐる議論が大きな焦点となり、「公共の精神」や「伝統の継承」など新たに前文に盛り込まれた表現も議論された。
野党からは、国家による「愛国心」の押し付けになるといった指摘や、子どもに価値観を強制するものだという反対意見が出た。管理強化につながることへの懸念も強い。
いじめや不登校など深刻な問題の解決につながらない、という声も国民の中に多かったが、政府から納得のいく説明はなかった。
与党は来月の国会会期末をにらみながら、強行採決も辞さない構えで審議に臨んできた。十九日投開票の沖縄県知事選への影響も考慮した上で、採決に踏み切ったとみられる。
政府・与党の幹部は「審議は百時間を超えた。採決の機は熟した」などと説明しているが、そうだろうか。
高校の必修科目未履修が社会問題化したのに続いて、教育改革タウンミーティングで、内閣府が教育基本法改正案に賛成する立場から質問するよう出席者に依頼した「やらせ質問」が明らかになり、発言者に謝礼金が支払われた疑いも浮上している。
教育現場の混乱は収まらず、政府の不手際が次々に表面化している。これらの問題が審議の中心となり、改正案の本質的な議論が深まったとは到底言い難い。
国の根幹をなす教育基本法の改正を、選挙などの政治日程と関連づけるのも疑問である。与党はなぜ、そこまでして採決を急ぐのか。じっくりと、本腰を据えて取り組まなければならない。
いじめによる自殺を予告する子どもからの手紙が、文部科学省に次々と届き、現実に子どもたちの自殺が後を絶たない。異常事態である。法改正よりも、こうした問題への対応が先だろう。
野党は今後、すべての衆院の委員会と本会議への出席を拒否するとし、徹底抗戦の構えだ。教育基本法を「政争の具」にしてはならない。
与党はきょう衆院本会議を通過させ、今国会で成立させる方針だが、強引な採決はすべきではない。
徳島新聞 2006年11月16日
【強行採決】教育はどこへ行くのか
自民、公明両党が、野党欠席のまま衆院特別委で教育基本法改正案を強行採決した。
「せまい日本 そんなに急いで どこへ行く」という交通標語を思い出させるような急ぎっぷりだ。数を頼んだ強引な手法は「教育の憲法」に最もふさわしくない。
改正案をめぐる論議の問題点などについて、これまでも述べてきた。繰り返しになるが、あらためて指摘したい。
改正が必要という以上、現行法のどこにどんな問題があったのかがまず明らかにされなければならない。ところが、国会審議が百時間を超えたといういまも、なぜ改正が必要かは一向にはっきりしていない。
相次ぐ自殺を引き起こしているいじめをはじめ、教育が危機的な状況にあるのは確かだ。だが、それらの問題を基本法のせいにするのは筋違いも甚だしい。
基本法第一条は教育の目的として「人格の完成」をうたう。それに勝る目的があるとは思えない。教育をめぐるさまざまな問題は、その理念の実現に向けた努力が不十分だったから起きているのではないか。
政府の教育改革タウンミーティングで、基本法改正に賛成する「やらせ質問」が明らかになった。「真理と正義」(第一条)に反し、国民を欺くこうした行為も、基本法の責任にするつもりなのだろうか。
現実をきちんと検証することを抜きにした政府や与党の姿勢は、「はじめに改正ありき」と言わざるを得ない。強引な改正で教育をどこへ持って行こうとしているのか。鍵は政府の改正案にある。
新たに盛り込まれた「国と郷土を愛する態度」「公共の精神」「伝統の尊重」などは、いずれも心の働きにかかわる。教育の目標に心の問題を掲げることは、憲法が保障する内心の自由に踏み込む恐れをいや応なく増大させる。
教育行政の役割を強化した点も見逃せない。一見、当然のようにみえる改正だが、学校教育法などで定めさえすれば行政は教育を思う方向に進めることができるようになる。政府が策定する教育振興基本計画で、教育内容への国の介入も容易になるとみられている。
教育の荒廃に対する国民の危機意識は強い。政府や与党がそこを突いて、国家を個人より優先させる体制づくりを狙う構図が浮かび上がってくる。論理のすり替えを容認するかどうかは国民にかかっている。
高知新聞 2006年11月16日
[教育基本法] 国民的合意なしの単独採決は残念だ
今国会最大の焦点である教育基本法改正案が、衆院教育基本法特別委員会で自民、公明の与党単独で採決され、可決した。与党は、16日の衆院通過を目指している。
教育基本法は「教育の憲法」といわれ、憲法に準ずる教育の根本法である。国民の賛否も分かれ、改正論議が十分に尽くされたとは言い難い。数を頼りの強行突破はきわめて遺憾である。
与党が単独採決に踏み切ったのは、通常国会からの審議時間が目標としていた約80時間を上回り、野党側の慎重審議要求に応えたと判断したからだ。会期末を来月15日に控え、今週中の衆院通過は譲れないとの判断もあったろう。
2000年の教育改革国民会議報告は「新しい時代にふさわしい教育基本法については、国民的議論と合意形成が必要」と指摘した。だが、日本PTA協議会の調査では、保護者の9割近くが「内容をよく知らない」と答えている。国民的合意が形成されたとは言えまい。
青森県内などのタウンミーティングで、内閣府の指示を受けた県教委が政府案に賛成の質問を依頼していた「やらせ」も明らかになった。政治的策謀で基本法改正を図るとすれば言語道断だ。
国会での質疑でも、なぜ基本法見直しなのか説得力のある説明はない。政府案が教育目標に掲げた「公共の精神」「国を愛する態度」などの理念が、一体何を示すのか突っ込んだ議論もない。
政府案で、学校教育は「教育目標が達成されるよう、体系的教育が組織的に行われなければならない」とされた。学校は達成度を問われることになる。
だが、教師が子どもを決められた枠にはめ、達成度を問われることになれば、学校現場の創意工夫の余地はないに等しい状況に陥るのではないか。
現行基本法が「教育は国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」と、一般行政からの独立をうたったのに、政府案でこの規定がなくなったのも問題だ。国民統合の象徴である教育が政治的対立の象徴になるような事態は困る。
教育現場では今、いじめや、高校の必修科目未履修など問題が山積している。毎日のように生徒や校長らの自殺が報道される状況は異常である。
そんな状況下で国会がなすべきことは、基本法改正案を力ずくで通す姿勢ではあるまい。教育の危機をどう打開し、国民の信頼を取り戻すかの模索である。危機的状況の教育を置き去りにした改正案の“強行採決”は残念である。
南日本新聞 2006年11月16日
教育基本法可決・数頼り単独採決でいいのか
安倍晋三首相が最重要法案と位置付ける教育基本法改正案が15日、衆院教育基本法特別委員会で野党が欠席する中、自民、公明の与党単独で採決され、可決された。与党は今国会での成立に全力を挙げる方針を示している。
与党側は、審議は十分尽くしたとするが、果たしてそうだろうか。なぜ改正が必要かなど、国民の理解を得られたといえるだろうか。説明は不十分だったと言わざるを得ない。
野党側の審議継続要求を押し切り、数を頼りの単独採決でいいのだろうか。
教育改革タウンミーティングで改正に賛成する発言をするよう参加者に依頼したことに象徴されるように、改正を急ぎ過ぎた感は否めない。
与党側はこの間、改正理由として「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」や「個人の重視で低下した公の意識の修正」などを挙げてきた。
いじめによる相次ぐ子どもたちの自殺など、悲痛な出来事が続発している。少年犯罪も相変わらずである。
その原因が現行の教育基本法にあると言い切るには無理がある。
社会のありようを改善することでしか、事態は解決しないことは明らかである。
教育基本法改正案は「個人」より「国家」に重きを置いていることが大きな特徴である。
改正案は前文に「公共の精神」などを盛り込み「公」を重視している。「個人」よりも「国家・社会」が優先することを打ち出している。
教育現場は今、多くの問題を抱え、難しい局面に立っている。それが「個人」の重視に起因するものとは言い切れないだろう。かえって「個人」を十分に尊重できていないことが、子どもたちを苦しめているのではないか。
子どもたち一人一人を大切にすることを基本にし、それぞれの個性に合った教育こそが今、求められているのである。その状況を改めることに力を尽くすべきだ。
教育基本法を「個人」より「国家・社会」を重視するという改正案は、子どもたちにとってマイナスに作用する懸念がある。
改正案は焦点だった「愛国心」の表現が「国と郷土を愛する態度」に改められている。
しかし、言葉を換えても、心の問題を法律で規定することに変わりはない。
特定の価値観を押し付け、内心の自由を侵害しかねない危険性は何ら解決されてはいない。
自民党文教族は教育基本法改正を「憲法改正の一里塚」と位置付けている。改憲への動きが加速することを危惧(きぐ)する。
琉球新報 2006年11月16日
[教基法改正案採決]与党単独は数の暴力だ
教育の憲法ともいえる教育基本法の改正案が、衆院教育基本法特別委員会で野党が欠席する中、自民、公明両党の賛成多数で採決された。
与党は十六日の衆院本会議でも可決し参院へ送付する構えだ。が、教育の根幹をなす法律が与党単独で採決されていいものだろうか。
改正案は、「愛国心」をめぐる表現について「我が国と郷土を愛する態度を養う」とし、「公共の精神」などの新しい理念を盛り込んでいる。
だが、教育改革の本来の理念はこれらの点にあるのではあるまい。
教育は子どもたちの自立と人格の完成を目指すものであるはずだ。何よりも多くの国民には、改正が本当に必要かどうかもはっきりしない。
改正すべきであれば、まず改正する理由とどこを変えるかを明らかにすべきだろう。教育現場の声を聞き反映させることも当然必要だ。
しかし実態はそうなっていない。与党がこだわったのは今国会での成立だ。そのためには特別委での採決が不可欠であり、参院採決から逆算して審議を進めてきたといっていい。
これでは慎重さを欠き、国会として将来に禍根を残すのではないか。
これまでも触れてきたが、教育は国家百年の大計である。その根本法はこの国の将来像も映し出す。軸足を国家、社会に置く改正案には戦前回帰との批判があることを忘れてはなるまい。
全国の公立小中学校長に対する調査では66%が反対し、改正に疑問を呈している。この事実を無視した国会審議に加えて、与党単独の強行採決に私たちは不安を覚える。
少しでも法案に疑問があり、なおかつ審議が足りないとの声があるのであれば、徹底的に論議すべきであり、採決にこだわるべきではない。
二階俊博自民党国対委員長は「審議は百時間を超えた。(採決の)機は熟したと思う」と述べているが、当を得た発言とは思えない。
この問題では、二〇〇三年十二月の岐阜県岐阜市に始まったタウンミーティングなど今年九月の青森県八戸会場を含む五回のミーティングで内閣府による「やらせ質問」が明らかになったばかりではないか。
内閣府が改正に賛成する質問を地域の教育委員会などに依頼し、しかも質問案まで与えている。発言者への謝礼問題も発覚した。
このままでは教育改革の名が泣く。本会議では数を頼んで与党単独で強行採決してはならない。子どもたちの未来のためにも、審議を差し戻して時間をかけて論議することが肝要だ。
沖縄タイムス 2006年11月16日