地方紙社説(2006年11月(1))


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教育基本法改正審議/政治対立の象徴にするな

衆院の教育基本法改正案審議が緊迫している。週内の衆院通過を目指して単独採決も辞さない構えの与党側に、継続審議を求める野党側は一段と抵抗姿勢を強めている。ことは憲法に準ずる教育の根本法だ。「国民的議論」の成熟もない。数を頼りの強行突破で基本法を政治対立の象徴に落とし込むようなことであってはならない。

基本法見直しを提起、今回の改正案へ道を開いた二〇〇〇年の教育改革国民会議報告は「新しい時代にふさわしい教育基本法については、広範な国民的議論と合意形成が必要」としている。基本法の重さを考えれば当然の感覚だ。

だが、日本PTA協議会の調査によると、保護者の88%が「内容をよく知らない」と回答。国民的議論とするには、時間をかけ丁寧な手続きを踏まなければならぬということである。

しかし、現実は丁寧な手続きどころではない。青森県八戸市などでの政府主催のタウンミーティングで、県教育委員会が内閣府の指示を受け、政府案に賛成する立場から質問するよう依頼していた。「やらせ」質問で教育を政治的に引き回す。とんでもないことだ。

小坂憲次前文部科学相は「教育改革フォーラム、タウンミーティング、一日中教審など各般の意見を踏まえた上で法案提出に至った」と答弁している。教育の根本法の改正には国民合意が不可欠との判断があるからだろう。

議論の成熟を待つどころか、国民的論議をでっち上げていたのではお話にならない。法案審議の前提条件を欠いている。

国会での議論を聞いても、なぜ見直しなのか、いまだに説得力ある説明はない。政府案が教育目標に掲げた「公共の精神」「国を愛する態度」「伝統と文化の象徴」―。それぞれの理念が一体何を意味しているのか、突っ込んだ議論もない。

国を愛する態度というのは例えば、国を憂い反政府運動をすることまで含むのか。尊重すべき伝統や文化とは何なのか、それを誰が決めるのか。「顔」が見えない日本人、と言われるように自分の考えを明確にしない日本人の優柔不断さも尊重すべき文化なのか。

政府案では、学校教育は「教育目標が達成されるよう、体系的な教育が組織的に行われなければならない」とされ、学校はその達成度を問われることになる。

理念の解釈を官僚が一手に握り、教師は子どもを決められた枠にはめ、その達成度を評価される。そんなことになれば学校現場の創意工夫の余地などないに等しい。

現行基本法は「教育は、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」との規定を置き、一般行政からの独立をうたっている。だが政府案ではこの規定がなくなり、代わりに「教育は法律の定めるところにより行われるべきもの」との規定が入った。政治、行政は基本計画などを通して教育内容に堂々と踏み込めるようになるということである。

政治が、教育内容に簡単に口を出せるようになれば、教育は政争の真っただ中に投げ込まれる。教育は国民統合の装置でもあるはずだ。なのに、それが政治的対立の象徴になる。そんなばかげた事態は願い下げにしたい。

山陰中央新報 2006年11月15日

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教育基本法改正 なぜこんなに急ぐのか

政府・与党はなぜこんなに採決を急ごうとするのだろう。衆院で審議している教育基本法の改正案のことである。

確かに教育には難問が山積している。崩壊の危機にひんしているといっても過言ではない。誰もが何とかしなければと悩み、焦燥感にも似た思いに駆られている。しかし、だからといって、何でも改正すればいいというわけではない。

教育基本法も改正に踏み込むからには、同法のどこに不都合や不備があり、どのように現在の危機的な教育状況に結びついているのかが、十分に解き明かされなければならない。

その点、安倍晋三首相をはじめ、政府・与党の説明はまだまだ抽象的で不十分だ。

政府・与党側の説明の趣旨は、せんじ詰めれば、家庭や地域、国を愛する心を教えてこなかったから、規律の乱れが生じているということになる。

昨今のモラル低下に照らし合わせれば、一定の説得力を持つととらえる向きも出てこよう。しかし、愛国心がいま、改正を急ぐのに誰もが納得できる根拠になり得るだろうか。

政府・与党は、教育基本法と教育混迷の因果関係の検証に加え、改正がどのように危機打開に資するかについても、具体的で説得力のある説明を尽くしているとはいい難い。

教育基本法に全く手を触れてはならないというのではない。改正の理由がどう考えても、いまだに明確ではないのである。このまま採決に持ち込むのは、やはり無理があろう。

教育基本法の改正論議があまりに政治的に進められていることも大きな懸念材料だ。

政府・与党、特に自民党は、改正の必要性を冷静に論証し訴えるというより、結党以来の悲願達成という感情論の方に傾いているように見える。

教育は常に「百年の大計」で考えなければならない。このことの大切さは何度でも強調されていい。しかも教育基本法は、「教育の憲法」であり、専門家の間でも改正には賛否両論が渦巻いているのである。

「ゆとり教育」が陥ったような混乱はどうしても避けたい。改正のつもりが、結果的に改悪だったなどということは、金輪際あってはならない。

そもそも現在の教育混迷はどこに起因するのだろう。さまざまな分析が可能であり、実際、議論も百出している。

しかし、少なくとも確かなのは、法を変えれば解決できるほど、現在の教育問題は生易しくはないということだ。

何より忘れてならないのは、子供は「社会や大人の世界を映し出す鏡」だということだ。凶悪犯罪の頻発やモラルの低下は子供に限った話ではない。学力低下についても大人側が子供に自慢できるほど教養を身につけているといえるだろうか。

安倍政権は審議をいったん棚上げした上で、教育問題をもっと広く大きくとらえ直し、教育基本法改正の妥当性や効果を含めて、首相の諮問機関「教育再生会議」に諮ってはどうか。

現在の教育混迷の原因を正確にえぐり出さない限り、適切かつ有効な処方せんは導き出し得ないからである。

秋田魁新報 2006年11月15日

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仕切り直しが筋だろう

日本の教育の現状が、今のままでいいと思っている国民は、恐らくほとんどいないだろう。

いじめ自殺の続発、必修科目の履修逃れ、さらに政府主催の教育改革タウンミーティングで発覚した「やらせ質問」などに加え、またも秋田で発生した子殺しを究極とする児童虐待の深刻化は、家庭教育にも重大な欠陥が存在することを示す。

教育にかかわる問題に、即効的な対応が強く求められている状況で、なぜ教育基本法はバタバタと全面改正されなければならないのだろうか。

今国会の会期末は12月15日。安倍首相初の予算編成作業に支障をきたさぬよう、成立を急ぎたい与党側と、与野党激突の構図で19日投開票の沖縄知事選への影響をにらみ、反発を強める野党側の思惑が絡む。

こうも騒然とした社会情勢、政治情勢の中、通常国会からの継続とはいえ、先月25日に衆院特別委で審議が再開されてから、法案の中身の議論が尽くされたとは言い難い。

まさか、改正そのものが目的とは言うまい。教育は政治の具ではない。仕切り直しを望む。

何をそんなに焦るか
教育基本法は「教育の憲法」だ。その理念の下に、学校教育法や社会教育法といった個別法が整備される。

逆に言えば、教育基本法が実際の教育施策に直接的に影響しているわけではない。先の通常国会から議論が続く「愛国心」の扱いにしても、それに類した教育は、学習指導要領により既に学校現場で実践されている。

乱暴な言い方をすれば、教育基本法を変えなくても「教育」を変えることはできる。指導要領に基づく「愛国心」教育をはじめ、習熟度別指導や学校選択制など、小泉前政権の方針を踏襲する「改革」は、大都市圏を中心に粛々と進んでいる。

個人の思想信条にかかわる問題を「教育」することの是非、経済格差と直結する教育格差の顕在化など、「改革」は既に種々の課題を提示してもいる。

これらの課題を置き去りにして、先行する「改革」を追認すべく理念法たる基本法の改正を急ぐことに、果たしてどれほどの国民が納得できるだろうか。

ましてや、八戸市などで明らかになったタウンミーティングでの「やらせ質問」は、国民的議論のでっち上げ。何をそんなに焦るのか。その理由が、どうにも理解できない。

「よく知らない」88%
教育基本法改正案は、個人の価値を尊重する現行法に比べて「公共心」を強く打ち出しているのが特色だ。「愛国心」も、その延長線上にある。

そこに議論が集中するのは、グローバルの時代に内向きに輪を掛けるようなものだが、もとより論点はそれだけではない。

例えば現行法の第一〇条(教育行政)に対応する改正案第一六条(同)。現行法は「教育は…国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と一般行政からの独立を規定する。

この部分が、改正案では削られ、新たに「教育は…この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきもの」との文言が加えられた。

新設の第一七条では、政府に教育振興基本計画の策定を義務付けており、政治が表立って教育内容に介入する根拠になるだろう。折々の政治に教育が振り回されるようではたまらない。

日本PTA協議会の調査によると、保護者の88%が改正案の内容を「よく知らない」と答えているという。「やらせ」とも相まって、国民的議論となり得ていない改正案では、審議の前提から崩れることになる。

大与党は、郵政選挙の「置き土産」だ。その威を借りてごり押しするのでは筋が通るまい。

遠藤泉(2006.11.15)

岩手日報 2006年11年15月

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拙速避け慎重に審議を

教育基本法改正案の今国会での成立を目指す政府・与党と野党との対立が、最大のヤマ場を迎えている。

与党側は、十五日にも衆院教育基本法特別委員会で採決して早期の衆院通過を狙っており、場合によっては「強行採決」も辞さない構えだ。

これに対して、野党側は審議続行を求めている。民主党は、強行採決の際には全面的な審議拒否に入ることもあるとして与党側をけん制する。

現在は「いじめ自殺」や高校必修科目の未履修問題、教育改革タウンミーティングでの「やらせ質問」など、教育関係の諸問題が噴出している。

それだけに、強引に改正案を成立させたのでは、国民の納得は到底得られないだろう。法案の中身を考えれば、拙速に走るのではなく慎重に議論することが肝要である。

改正案は通常国会に提出され、五月から審議を続けてきた。「我が国と郷土を愛する」と明記した「愛国心」の規定が最大の焦点である。新たに盛り込まれた「公共の精神」の意味や「教育振興基本計画」の狙いについても疑問がある。なぜ、今、改正しなければならないかについても説明が不十分である。

政府・与党側は、通常国会での議論を加えると審議は尽くしたとして近く特別委で採決をする構えをとる。

これに対し、民主党は独自の対案を国会に提出して政府・与党と対立。共産、社民両党は政府・与党案の廃案を求めてきた。野党側は政府の強硬方針に反発して徹底抗戦の方針を決めている。

これまでの国会審議で改正案は国民に十分理解されたのか。現在は法案をめぐる疑問や懸念がすっかり解消したとはいえないだろう。国会の党首討論でも安倍晋三首相と民主党の小沢一郎代表との議論がかみあわなかった。

最近発表された東大の調査では、全国公立小中学校の校長の66%が改正案に反対している。先ごろは日本教育学会の歴代四会長らが政府・与党案の廃案を求める声明を発表した。

基本法改正に反対する市民レベルの動きも目立ってきた。

一方で、政府がすぐに対応すべき教育問題が続発している。連日のように若い中高校生らの自殺が続いているのは憂慮すべきことだ。未履修問題を苦にした校長の自殺も起きており、この異常事態に歯止めをかける必要がある。

文部科学省は子どもらの自殺をとめる方策を早急にとるべきだ。今は教育基本法改正をめぐる議論よりも、緊急性のある諸問題の解決が先決である。あらためて文科省の責任が問われよう。

その上で、教育委員会の役割を根本的に見直し、学習指導要領の内容を点検する必要がある。大学入試の改善も課題として残っている。

今は何を最優先すべき時か、政府・与党によく考えてもらいたい。

京都新聞 2006年11月14日

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教基法改正 緊急課題はほかにある

安倍晋三首相が今国会の最重要課題と位置付ける教育基本法改正案の審議がヤマ場を迎えている。政府、与党は週内に衆院特別委と本会議の採決を終え、参院での審議に入りたいと躍起だ。

この日程でないと来月十五日までの会期内に改正案を成立させることが危うくなるためである。だが、それは安倍政権の理屈にすぎない。いま急いで基本法を改正する必要性はどこにもない。

いじめ自殺や未履修問題をはじめ教育をめぐる課題が山積している。政治がいま緊急に取り組まなければならないのは、これらの解決策を示すことである。基本法改正案の審議は、国民の声を聴きながら時間をかけて行うべきだ。

世論調査などを見る限り、基本法改正を容認する国民が徐々に増えているのは確かだ。問題はこうした世論がどのようしてつくられたかである。

政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、基本法改正に賛成の立場で質問するよう内容まで含めて質問者に要請していた事実が明るみに出た。文部科学省、内閣府と地元教育委員会が結託して政府方針への誘導を行っていたのだ。

「やらせ質問」の裏側に透けて見えるのは国民蔑視(べっし)と政策への自信のなさだ。姑息(こそく)な手段を用いてでも改正案に賛成の声を上げさせたいという魂胆はさもしい限りである。

これでは教育が混乱するのも無理はない。文科省の体質や教育行政のゆがみを正すがのが先である。いじめ自殺や未履修の隠ぺいも重大な背信行為だ。

子どもや家庭のモラル低下を嘆く前に、霞が関や永田町、地方教委の無責任さを改めなくてはならない。

基本法改正の論議はその土俵が整ってからのことだ。論点は多岐にわたる。審議時間の多寡よりも内容がどこまで深まったかが問われなければなるまい。

「愛国心」表記の問題や教育は誰に対して責任を負うのかといった核心部分の議論がさっぱり伝わってこない。政治的駆け引きに終始しているためだろう。

子どもを取り巻く現状を直視し、政治が何を行うべきかを真剣に議論してほしい。その結果、基本法改正が必要だというなら具体的に提起すべきである。

衆院特別委で採決する前提となる中央公聴会が十五日に設定された。政府、与党が、これで強行採決の環境が整うなどと考えているとしたら大間違いだ。

基本法は戦後日本の教育の背骨である。改正に時間と労力を惜しんではならない。国民が納得できる論理と誠意を示すことが求められる。

新潟日報 2006年11月12日

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教育現場からの議論を 週のはじめに考える

いじめ自殺、高校必修教科履修漏れなど教育界が大揺れです。教育基本法の改正を中心に諸制度の改革が叫ばれていますが、忘れてならないのは現場の声です。

音量を少し上げて見たテレビ番組があります。「プレミアム10−この世界に 僕たちが生きてること」というドキュメンタリーで先月、NHKで放映されました。

二年間にわたって愛知県豊田市の河合正嗣さん(28)に密着取材し、筋肉が徐々に衰える筋ジストロフィー症と闘いながら指先のわずかな力を使って鉛筆画「ほほ笑みの絵」を描き続ける姿を追った作品です。

ほほ笑みの絵の輝き
正嗣さんの双子の弟、範章さんは二十三歳の若さで呼吸器不全のため他界しました。同じように病気が進行していた正嗣さんは、一日でも長く絵を描き続けたいからと気管切開手術を受け人工呼吸器を付けます。

引き換えに声を失いました。でも呼吸器から漏れる空気をくちびるで震わせて、かすかな声を絞り出すことはできます。テレビの音を大きくしたのはそのせいです。

「ほほ笑みの絵」は一一〇人(ひと・と・ひと)を目標に、病院の医師や看護師、患者仲間とその家族を描いています。どの絵も命の輝きをとらえています。

「笑顔を持っている人たちは幸せな人生を歩んでいる人ばかりじゃない。逆に、苦しい時を乗り越えた人にこそ本当の笑顔がある」「一人だけじゃほほ笑みは生まれない。今ここで僕たちが生きていられるのも人と人のつながりがあるから」

常に死に直面している自分の弱さを見つめ、逃げずに受容した人の、声は小さくても重い言葉です。

番組から多くを学びました。命の尊さ、家族や地域の支え合いの大切さ、人の可能性の大きさ、体験から生まれた言葉の力強さ。放送後、NHKには「生きる勇気をもらった」などと反響が続いたそうです。

その意味ですぐれた教育番組といえるでしょう。助け合いや思いやりある生き方を、子どもたちに伝えていく。知識、学力だけではなく、こうした「生きる知恵、社会に参加する力」を育成する場が学校や家庭、地域であるはずです。事実、笑顔に満ちた実践例はたくさんあります。

ところが、現場は今、批判の矢面に立たされています。不登校や学力低下、公共の精神の衰退といった従来の指摘に加え、一連のいじめ自殺に対する対応のお粗末さや高校履修漏れが不信に拍車を掛けました。安倍首相肝いりの「教育再生会議」の発足を待っていたかのように諸問題が噴き出したのです。

矢継ぎ早の制度改革案
ゆとり教育の弊害だ、家庭がしつけを忘れている、教師が使命を果たしていない、といった指摘にうなずく人が多いかもしれません。国際社会で生き抜くためには教育水準の向上が欠かせない。そんな観点からの危機意識もうかがえます。

でも、矢継ぎ早の制度改革が再生への特効薬となるでしょうか。「学校の外部評価」「教員免許の更新制度」など、いずれも政治の側面からの改革案で教室や家庭からの発想ではありません。教育に企業社会のような競争原理を導入する点も気になります。履修漏れは受験競争を最優先した反則です。首相提唱の「教育バウチャー制」(クーポン券による学校選択)も地域と小中学校の切り離しや学校間格差拡大が心配です。

ジャーナリストの長谷川如是閑が大正時代に発表した「上から下へ」という文章があります。「日本人は上から下へ抑へつける。西洋人は下から上へ刎(は)ねあげる」と書き出し、「日本人は人を呼ぶのに、掌を下に向けて、指先を下げる運動を繰り返へし、西洋人は、同じ場合に、掌を上に向けて、指先を刎ね上る運動を繰り返へす」「悲しい時に、日本人は俯向(うつむ)く。西洋人は仰(あ)ほ向く」など多くの事例を挙げてこう結びます。

「日本の文明は上から下への賜物(たまもの)であり、西洋の文明は、下から上への反抗である。『上から下へ』それが日本人の宿命なのか」

一世紀近く前の嘆息が今も聞こえるようです。現に、教育行政では国−都道府県−市町村−学校という上から下への上意下達で進められてきました。学校も校長−教員−生徒という構造が一般的です。現場の切実な声を吸い上げ、改革につなげていく仕組みは整っていません。

「上から下へ」の構造
実際に、これまでも総合学習、生徒の絶対評価、学力テストなどと相次ぐ国からの指導指示に教師は追いまくられ、子どもたちと向き合う時間も心の余裕もないとの悲鳴や苦悩の声をよく耳にしました。

“愛国心”の盛り込みを含め教育基本法改正案には、こうした国からの指示、関与を強化する意図が読み取れます。東京大の調査で全国の公立小中学校長の三分の二が改正案に反対したのも、国の管理、監視の色彩が濃い改正案に対する懸念からでしょう。今は改正を急ぐことなく、多様な現場の声をすくい上げ、再生への道を探る時ではありませんか。

中日新聞 2006年11月12日

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論議は深まっていない

安倍政権が今国会の最重要法案と位置付ける教育基本法改正案について、与党は近く衆院の特別委と本会議で採決する構えだ。

前通常国会から継続して審議されている同改正案は、審議時間からいえばかなりの時間をかけてはいる。与党が目標としてきた「70―80時間」には達するだろう。

しかし、量と質は別問題だ。論議が深まったとは到底いえない。このまま採決に踏み切るのは乱暴にすぎる。

再開された特別委の論議は、高校必修科目の未履修やいじめによる自殺問題に集中している。いずれも教育を取り巻く危機的状況を象徴する問題であり、徹底的な論議が必要なことはいうまでもない。

だが、肝心の改正案そのものの論議は極めて不十分だ。なぜ改正が必要なのか、改正すれば教育の現状がどう変わっていくのか、について、政府が答弁で明確にしてきたとは言い難い。

改正論議は、現行法とさまざまな教育課題の関係についての十分な検証と説明が前提となるはずだ。ところが、政府はそれらを抜きにして、単に「だから改正が必要だ」と改正ムードをあおることに終始しているようにみえる。

それは、内閣府の「教育改革タウンミーティング」での教育基本法改正をめぐる「やらせ質問」にも相通ずる。改正の必要性に関する明確な論拠がないために、政策誘導へと走ったのだろう。

政府案には多くの「教育の目標」が盛り込まれている。「国と郷土を愛する態度」「公共の精神」「伝統の尊重」などだ。

どれもが心の問題といってよい。その内容をどう考えるかは人それぞれであり、違っているのが当然だ。一つの物差しで評価できるようなものではない。

ところが、学校教育の場では目標と評価は不可分の関係にある。福岡市の小学校で「愛国心」の評価が通知票に加えられたことがあったが、改正によって一般化してしまう恐れは小さくない。

自民党文教族は教育基本法改正を「憲法改正の一里塚」と位置付けているという。確かに、国家を個人の上に置こうとする流れは、同党の新憲法草案と教基法改正案に共通している。

教育の主人公は子どもたちだ。その視点でみれば、論議の不十分さがよく分かるはずだ。

高知新聞 2006年11月12日

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やらせ質問

あきれ果てる情報操作
一度失った信頼を回復させることは容易ではない。政府主催の教育改革タウンミーティングでの「やらせ質問」は国民に強い不信感を抱かせている。政府が都合のよい答弁をできるよう、あらかじめ質問者と質問内容を決めておく。姑息(こそく)な手法と言うしかない。

やらせの質問は、八戸市内で9月2日に開かれたタウンミーティングの会場で行われた。当時の小坂憲次文科相や梶田叡一中央教育審議会委員らと市民約400人が意見を交換。主催者側が教育基本法改正案の概略を説明し、会場からは「改正案は伝統と文化の尊重を明記している。日本を誇りに思う心がなければいけないのではないか」などの質問が寄せられた。

じっと耳を傾けていた小坂文科相は「基本法は、やはり改正しなければならない」と答えて閉幕した。

一見、ごく当たり前な進行だが、主催者が参加者に事前に質問を要請していたことが発覚して事態は一変。しかも、やらせが発覚しないように、質問者に対し「自分の考えで話しているように努めてください」などと念を押していたというから「確信犯」としか言いようがない。

対話の理念はどこへ
事態を受けて内閣府が調査したところ、過去8回の教育改革タウンミーティングのうち「やらせ質問」を行っていたのは八戸市を含め岐阜市、和歌山市、松山市、別府市の合わせて5カ所もあることが分かった。

これでは、政府がはっきりと目的を定めた「情報操作」としか受け止めようがない。事前の打ち合わせ通りの質問に文科相が「得たり」とばかりに答えるシナリオで、参加者の思考を政府側に誘導しようという意図を見ることができる。八戸会場では軽米町の男性が教育基本法改正反対を訴えた。これは主催者の想定外のことだったろう。

タウンミーティングは小泉純一郎前首相が「国民との対話」を掲げて2001年6月に始めた。全国各地を回り、担当閣僚らが出席して一般公募の参加者と質疑応答を行ってきた。テーマは構造改革、財政改革、情報技術(IT)革命など幅広い。これまで174回を数え、参加者は約6万8000人に上る。

このうち、どれだけの会場でやらせが行われたのだろうか。政府と国民の間に信頼関係を築こうと始めたタウンミーティングが、逆に不信感を助長することになるとは、あまりにも皮肉的だ。

険しい信頼回復の道
今回の「やらせ質問」は、人々に疑心暗鬼を抱かせた点でも許せない。

遠野市では04年2月、地域再生などをテーマにタウンミーティングが開かれた。農水相や地域再生担当相らが出席。参加者は公募の384人。どぶろく製造、地産地消の農家レストランなどの話題から医師不足や公共事業削減の悩みまで熱心に意見を交わした。このときの真剣な空気まで疑惑の渦中に入れられてはたまらない。

内閣府は教育改革を除く残り166回のタウンミーティングについても「やらせ質問」がなかったかどうかの調査を進めるという。全容の解明と公表が急務だ。

安倍晋三首相はタウンミーティングを「双方向での大切な対話の場として生かしていきたい」と再開させる考えだ。しかし、情報操作の手段として使われたことが判明した以上、国民の警戒感は簡単には解けない。

政府、与党はタウンミーティングで国民の声を聴いたとして来週中に教育基本法改正案の衆院通過を実現させたい意向だが、とても国民の意見を吸い上げたとは言えない。もっと真剣に議論を深めないと、信頼は取り戻せない。

達下雅一(2006.11.11)

岩手日報 2006年11月11日

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教育基本法改正/学校現場の問題解決が先だ

安倍政権が今国会での最重要法案と位置づける教育基本法改正案を審議している衆院教育基本法特別委員会は、採決の日取りをめぐり、大詰めを迎えている。12月15日の会期末までのスケジュールで、与党側が、参院は審議に1カ月を要するとみて、来週中の衆院通過の意向を示しているためだ。

だが、特別委員会で専ら審議されたのは、高校の必修科目未履修やいじめの問題。さらに、青森県八戸市など全国で過去8回開催された政府主催の「教育改革タウンミーティング」で教育基本法改正への「やらせ質問」が5回あったことが発覚した。改正案が提出された先の国会と、状況は大きく変わった。

教育の憲法である教育基本法は、現実に起きている事柄に立脚してこそ、課題解決の道標となる。法案の拙速な可決、成立に走らず、徹底した議論を重ねることが求められている。

履修漏れといじめは、現代社会に巣くう“病理”が如実に反映したのであろう。履修漏れは受験戦争、競争社会を、いじめは寒々とした心の荒廃が、教育委員会や教師にまでに及んでいる実態を浮き彫りにした。

540校、生徒約8万4000人に及んだ高校の履修漏れで、政府は、卒業が危ぶまれていた3年生に対し、50―70時間の補習を受けさせる救済策を決めたものの、問題が起きた背景や今後の対策について、何一つ答えを出していない。

そもそも、高校教育で身につけさせる知識や学力とは何か。一流大学への進学率を競う高校教育の現実と学習指導要領との乖(かい)離(り)や、入試科目をより少なくし、受験する生徒の確保を目指して生き残りを図る大学側の姿勢もある。

どこをどう直していくのか。履修させる義務を果たしていなかった高校側を責めるのは当然だとしても、それだけで事足りるとは思えない。

北海道滝川市や福岡県筑前町で相次いで起きたいじめによる子どもの自殺。担任の発言がいじめのきっかけとなったり、教育委員会がいじめを訴える遺書を伏せていたり。教育現場がここまでゆがんでしまったのかと暗たんたる気持ちになるが、真正面から真っ先に取り組むべき課題であることは間違いない。

二つの問題をきっかけに、文科省、教育委員会、学校の役割や権限の見直しの必要性も指摘されている。

「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことなどを盛り込んだ教育基本法改正案の論議は、こんな厳しい現実を前に、陰に隠れてかすんでしまった。先の国会と合わせ審議は、約80時間に達し、十分審議を尽くしたとする与党側の主張は、果たして通じるだろうか。

国民の関心は、学校現場の問題をどう解決していくかであり、今、与野党対決のもとで、教育基本法改正案を成立させる時機ではなかろう。8日に仙台市で開かれた地方公聴会でも慎重審議を求める声が多かった。法改正ありきではなく、全国各地で多くの人から教育現場の実態を聞いてほしい。

河北新報 2006年11月11日

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やらせ質問 国民をぺてんにかけた

なんと、姑息(こそく)でさもしいやり方だろう。「国民との対話」をうたう政府主催のタウンミーティングに、「やらせ質問」という、とんでもないぺてんが仕掛けられていた。

青森県八戸市で、ことし九月二日に開かれた教育改革タウンミーティングで、内閣府と文部科学省の担当者が依頼して、出席者に教育基本法改正に賛成する質問をさせていたことが分かった。

衆院教育基本法特別委員会で野党から事実を指摘され、政府が調べてみると、各地で計八回開かれた教育改革タウンミーティングのうち、八戸市を含め計五回でやらせ質問が見つかった。

八戸市に内閣府から届いた依頼文にはこう書かれていたという。「せりふの棒読みは避け、自分の意見を言っているという感じで…」

九月二日といえば、小泉内閣最終盤の時期だ。構造改革を掲げ派手なパフォーマンスを繰り広げた「小泉劇場」の舞台裏は、これだったのか。失望と落胆を感じた国民は少なくなかろう。

内閣府と文科省の官僚たちがやったのは「広く国民各層の意見を聴く」ふりをして、教育基本法改正の必要性をPRする自作自演劇だ。

反対意見の質問依頼は一切してないのだから、政府方針に従わせるための世論操作・誘導の意図は明らかだろう。「行き過ぎ」(塩崎恭久官房長官)で、済まされる話ではない。

国民をだまし、地方を軽視して、国の施策に対する信頼を失わせた官僚たちの責任は重大だ。政府は、教育改革以外のタウンミーティング計百六十六回についても調査に入った。真相究明を急ぎ、ぺてんを仕掛けた担当者は厳重に処分してもらいたい。

やらせ質問を依頼した内閣府参事官の一人は「深く考えずやってしまった」と述べている。官僚の間で同じ手法が日常化していた疑いがある。タウンミーティングに限らず、他の公聴会などについてもチェックが必要だ。

タウンミーティングは、小泉内閣時代の二〇〇一年六月から始まり、少子化、郵政民営化など計十五のテーマで、これまでに百七十四回開催されている。

一回当たりの費用は約一千万円、開催の最高責任者は官房長官だ。八戸市を含め昨年十月以降の開催分については、当時、官房長官だった安倍晋三首相の責任が問われよう。

首相は今後もタウンミーティングを引き継いでいく意向を示している。費用に見合う公正な開催にするには、これまでの方式は一度、解体すべきだ。

テーマごとに担当省庁の官僚が事務を扱う今のやり方は改め、独立した別の政府部門に一元的に任せる方がよいのではないか。多様な国民の意見が自由に述べられ、政策決定に役立てる機会にすることが何より求められる。

京都新聞 2006年11月11日

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姑息に世論を誘導するな やらせ質問

「国民との対話」を看板とした集会には、政府が周到に準備した官製のシナリオが隠されていた。言語道断である。

政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、内閣府や文部科学省が教育基本法の改正など教育問題で政府の方針に賛成する趣旨の発言を出席者に依頼していた。

今年9月に青森県八戸市で開かれた集会で発覚し、内閣府が過去7回分を調べたら、大分県別府市など4会場でも同様の「やらせ質問」が新たに判明した。

姑息(こそく)な手段で世論を誘導しようとした政府の姿勢は断じて容認できない。

タウンミーティングは、小泉純一郎前首相が首相に就任した直後の2001年6月に始まった。各回のテーマに応じて関係閣僚が全国各地の開催地へ出向いて、一般公募の参加者と質疑応答する。

「国民の生の声を率直に聞く」「各界各層の意見を政策決定に反映させる」というのであれば、その意義は否定しない。だが、時の政府の都合がいいように集会の運営が意図的に操作されていたとは、由々しき問題だ。「自作自演」とのそしりは免れまい。

2004年11月に別府市で開かれた集会では、内閣府の依頼を受けて発言した4人が、いずれも大分県教委の職員だったことが新たに分かった。

問題発覚の端緒となった八戸市の集会では、内閣府の担当職員から同市教委の担当者に対し「棒読みは避けてください」「あくまで自分の意見を言っている、という感じで」という“振り付け”までメールで伝達されていた。

「ばれたらまずい」という意識があった、ということだ。だとすれば、これは悪質な偽装工作ではないか。

内閣府は、小泉前政権で実施された174回のタウンミーティングのうち、教育改革を除く166回のすべてについて「やらせ」の有無を調査することにした。実態が解明されるまで開催は中止するという。当然のことだ。

国民の関心が高い教育改革をめぐる対話集会で発覚した不祥事であることも重く受け止めたい。折しも教育基本法改正案の衆院審議が大詰めを迎え、与党は来週中の衆院通過を目指している。

文科省をはじめ政府は、同法改正をめぐる国民の声に耳を傾けてきた‐と主張し、教育改革タウンミーティングを代表例に挙げていた。「やらせ質問」の発覚で「改正の機は熟した」という根拠の一角は崩れたともいえるのではないか。

安倍晋三首相の責任も見逃せない。政府内でタウンミーティングの最高責任者は官房長官である。八戸集会は首相の官房長官時代に開催された。

「私は知らなかった」と首相は言うが、それだけでは済まされない。首相の権限と責任において調査の徹底を指揮すべきだ。それが、損なわれた信頼を回復する第一歩であると心得てもらいたい。

西日本新聞 2006年11月11日

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やらせ質問発覚

「桜」と言えば日本を代表する花。美しさの象徴でもある。ところが桜にもいろいろあって、全く正反対の汚いイメージの「さくら」もあり、胡散臭(うさんくさ)さの代名詞として使われる。

日本国語大辞典によると、「ある人に頼まれ、その人の都合のいいような役回りを引き受けること。またその人」「露店などの業者の仲間で、客を装って品物を買ったり、ほめたりして他の客の購買心をそそる者」。つまりなれ合い、まわし者を言う俗語という。

今度のあきれたことにこれを当てはめると、こうなる。事前に政府に頼まれ、政府や文部科学省の都合のいいように用意されたシナリオに沿って発言、政府案のよさを強調する―。こうしてことは政府がもくろんだ通りに展開していく。

政府主催の教育改革タウンミーティングで「さくら」を使った「やらせ」質問が発覚した。今年9月に開かれた青森県八戸市を含め、8会場のうち5会場。どこも手口は同じ。内閣府が地元教育委員会を通じて発言者を選び、文科省作成の文案を下敷きに質問させる。

これだけでもあきれるのに、「さくら」がばれないよう、あらかじめ文書で「棒読みにならないように」などと念入りに指導していたというから恐れ入る。「なりふり構わない世論操作」。そう手厳しく指摘されても返す言葉はないだろう。

「国民の生の声に耳を澄ます」。タウンミーティングは国民との対話を進める小泉政治の柱の一つだった。だが実態は自らのいいように国民を誘導していた。どう後始末をつける。いっそ教育基本法改正論議も仕切り直しにしたらどうか。

宮ア日日新聞 2006年11月11日

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[やらせ会合]国民の信頼を裏切る許し難い行為だ

「国民の声をよく聞く」をうたい文句に、当時の小泉純一郎首相の肝いりで始まった、政府主催のタウンミーティングに「やらせ質問」があったことが発覚した。国民を欺く許し難い行為である。

タウンミーティングは、小泉首相の就任直後の2001年6月に始まった。構造改革や財政改革、情報技術(IT)改革などをテーマに、これまで全国各地で174回開催されている。

皮切りとなった第1回タウンミーティングが「構造改革」をテーマに鹿児島市で開かれたのは記憶に新しい。

今回、やらせが発覚したのは、今年9月に青森県八戸市であった「教育改革」に関する会合である。質問に立った10人のうち6人が会合を運営する内閣府を通して文部科学省から事前に依頼があり、発言内容を指示されていたという。

示された質問内容は、教育基本法改正に賛成するものや、義務教育費国庫負担の地方移譲を懸念する意見など、いずれも文科省の意向に沿ったものだ。世論を誘導する行為と言わざるを得ない。

しかも、質問者には「棒読みは避けてください」「あくまでも自分の意見を言っているという感じで」などと、アドバイスしていた。手の込んだ情報操作であり、悪質きわまりない。

内閣府が調べた結果、教育改革関連で開かれたタウンミーティング8回のうち5回でやらせがあったことが分かった。政府は、関係者を処分するとともに教育テーマ以外のタウンミーティングすべてを調査するという。他にもやらせがあったとみるのが妥当であり、厳しい態度で臨むのは当然だ。

小泉首相はタウンミーティングを「政府と国民との直接対話の場」と位置付けて得意とする劇場型の政治手法に利用した。その舞台裏で、こうした操作が巧妙に行われていたのかと思うと残念というほかない。期待を裏切られた国民の信頼は容易には取り戻せそうにない。

一連のタウンミーティングに限らず、公聴会や審議会のたぐいの催しが行政側に都合のいいお墨付きを与える機能として利用されている、との批判が根強い。的を射た指摘だけに、早急に会合の在り方を見直す必要がある。

幸いにも、安倍晋三首相に交代して、タウンミーティングはまだ1度も開かれていない。政府は、調査結果が判明するまで開催しない方針を決めた。信用を失った以上、結果次第では全面廃止することも視野に入れておくべきだ。

南日本新聞 2006年11月11日

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これで教育改革なんて

タウンミーティングは国民の率直な意見を聞く場なのに、内閣府が教育基本法の改正に賛成する質問をするよう出席者に依頼していたという。

「やらせ」が明らかになったのは、今年九月の青森県八戸市を含む八回のうち五回。最初に実施された二〇〇三年十二月の岐阜県岐阜市、〇四年五月の愛媛県松山市、同十月の和歌山県和歌山市、同十一月の大分県別府市でのミーティングである。

世論を誘導する意図があったかどうか明白ではない。が、少なくとも改正に全力を挙げている政府・与党の姿勢を考えれば、誘導を試みたと受け取られても仕方がない。

内閣府の担当官は、府内で準備した質問案を発言者が自分の意見として述べるよう依頼し、丁寧にも棒読みを避けるよう念押ししたという。

当日は、無作為に質問者を選んだかのように装って発言を求めている。実に狡猾で、恥ずべき行為と言っていいのではないか。

教育基本法は教育の根幹をなす法律ではないか。教育が子どもの自律心や正直さをはぐくむ役割を担っているのを知らなかったわけではあるまい。

その改正にかかわる会合で「やらせ」を行うのだから、担当官の教育的感覚にはあきれてしまう。

依頼された側には教育関係者も多かったという。

質問者には気の毒だが、準備された質問を手にした時点で、それが「やらせ」になることに気づかなかったのは感覚がマヒしていると言うしかない。

政府は小泉前内閣下で行われた残り百六十六回すべてを調査し、結果が判明するまでミーティングの開催を中止するという。当然の判断といえよう。

国会ではいま教育基本法改正案審議の真っ最中だ。

与党は今国会での改正を目指し十六日までに衆院を通過させる構えを崩していない。だが審議が十分でないことに加えて、「やらせ」が明らかになったことで国民が懐疑の目で見ていることを忘れてはなるまい。

この問題で安倍首相は「(国民との)信頼関係を危うくしてしまうようなところ」があったとし、「(私は)もちろん知らなかった」と答えている。

だが官房長官時代のことではないか。首相は国民の疑いにきちんと対応することが、宰相としての責務だということを認識する必要がある。

なぜいま改正なのか―改正論議に不可欠なテーマで納得のいく説明がない中での「やらせ」を容認するわけにはいかない。文科省は経緯を徹底的に解明し、国民に説明するべきだ。

沖縄タイムス 2006年11月11日

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やらせ質問*これで「教育改革」とは

狡猾(こうかつ)である。しかも相当に悪質だ。

政府主催のタウンミーティングで、文部科学省が出席者に教育改革基本法改正案に賛成する発言をさせていた。

「国民の意見を聞く」はずの場が、やらせによる世論誘導に使われていたことになる。

教育の根幹にかかわる重要法案だ。「愛国心」などをめぐって、改正には賛否両論がある。それだけになおさら、国民を欺くやり方で世論の支持を取り付けたように装い、法案を通そうとする態度に強い憤りを覚える。

教育改革がテーマのタウンミーティングは、二○○三年から全国八カ所で開かれた。内閣府の調査によると、このうち五カ所でやらせ質問があった。

今年九月の青森県八戸市のケースでは、文科省が「教育基本法は見直すべきだ」など、法改正の趣旨に沿う三つの質問案を用意。事前に依頼した人に、自分の意見として発言してもらっていた。

依頼を受けた人には「棒読みは避けて」などという演技指導まで行う念の入れようだった。

会場では発言を求めて手を挙げる人がたくさんいたのに、文科省の意向を受けた発言者を優先した結果、そのほかの意見表明や質問の機会は大きく制約されてしまった。

「国民との対話」が聞いてあきれる。内閣府は「活発な意見を促すきっかけをつくるため、発言の参考になるような資料を作成する場合もある」というが、やらせ質問は明らかにそれを逸脱している。

あらためて教育行政の上意下達体質もあらわになった。折しも教育委員会のあり方が問われている時である。関係者には厳しく反省を求めたい。

塩崎恭久官房長官は世論誘導との見方を否定したが、その釈明には無理がある。もちろん、こんな状況で教育基本法の改正を急ぐべきではない。

与党は来週中の衆院通過を目指している。しかし、今まずしなければならないのは国民の信頼回復や、やらせ質問の責任の明確化だ。

タウンミーティングは小泉政権時代に、教育改革の八回を含め百七十四回開かれている。ほかの場でも同じような世論づくりの操作が行われていたのではないか。そう疑わざるを得ない。

政府はすべてのタウンミーティングについて、やらせ質問がなかったかどうか調査し、結果が判明するまでは開催しないことにした。当然だろう。

出席者の発言の時間は短く、政府側の説明ばかり長々と続いて、政府のPRの場になっているという実態も見過ごせない。そんな運営方法も見直す必要がある。

でなければ、毎回一千万円以上もかけて開く意味はない。

北海道新聞 2006年11月10日

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審議を十分に尽くすべき

衆議院の特別委員会で行われている教育基本法改正案の審議が、採決をめぐる重要な局面にさしかかってきた。

与党は、前の国会で約五十時間審議されたこと、野党の要求を入れて地方公聴会の開催を増やすなどしたことから来週中に委員会で採決して本会議へ上程し、参議院に送る方針だ。

対案を出している民主党を含む野党は改正案に反対しているが、安倍首相が「今国会の最重要法案」と位置づける改正案を会期内に何としても成立させたい。与党はそう考えている。

ただ、一九四七年に公布された現行法は戦後教育の柱になってきた。教育の憲法と言われる重要な法律だ。改正すべきかどうかについての国民的な議論や関心の高まりが欠かせない。

だが、今国会での議論は、いじめ自殺、高校の必修科目の未履修、教育改革タウンミーティングやらせ発言など目の前の問題が中心になっている。改正案そのものの審議は影が薄い。十分とは言えない。なお議論すべきではないか。

改正案には教育のあり方を大きく変え、賛否が分かれる論点もある。教育と政治の距離をどう考えるかも、丁寧に議論してもらいたい大事な点だ。

現行法は、教育は教員が国民に直接的に責任を負って行われるべきとし、政治や行政は、自主的に行われるべき学校・家庭教育に口を出さないよう求めている。

改正案にも現行法と同じ「不当な支配に服することなく」という言葉があるが、教育はこの法律(改正案)などの定めで行われるべきとする。国が関与できる道を開こうとしている。

保護者によって考え方が違う家庭での子育て、教育のあり方を国が定めるという現行法にはない新しい条文も設けている。踏み込みすぎではないかという批判がある。

もう一つ大きな論点になっているのは、教育の目標として徳目を掲げることの是非だ。

現行法は、子どもたち一人一人が自発的な精神を養いながら人格を形成していくのを教員が支えていくこと、つまり自主性を大切にしている。背景には、国が上から国家観や生き方を国民に強制した戦争中の教育に対する深い反省がある。

改正案では「公共の精神を尊ぶ」とか「伝統と文化を尊重し…我が国と郷土を愛する態度を養う」などの道徳規範も教育の目標に掲げている。

これにも、国にとって望ましい国民を育成するかのような内容だという異論、公共の精神や国を愛する態度とはどんな内容でどう評価できるのか、心のあり方まで法律で定めていいのかという疑問がある。

東京大学の基礎学力研究開発センターが全国の公立小・中学校の校長を対象にアンケートをしたところ、66%が改正案に反対という結果が出た。教育現場の抵抗感は強いようだ。

地方公聴会でも、改正案に賛成している出席者から愛国心は法律で押し付けない方がいい、改正を急ぐべきではないといった意見が出されている。

そうしたさまざまな声に応えるためにも、じっくりとした改正案の審議が必要ではないか。

東奥日報 2006年11月10日

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やらせ質問 直接対話裏切る愚挙だ

政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、全八会場のうち五会場で政府が事前に一部の発言予定者に教育基本法改正に賛成する発言をするよう依頼していたことが、内閣府の調査で分かった。

発言依頼をしたのは問題が表面化した九月の青森県八戸市をはじめ、初回となった二〇〇三年十二月の岐阜市や〇四年五月の松山市などでのタウンミーティングだ。

いずれも文部科学省か内閣府が地元県教委に発言候補者の推薦を依頼したうえで、文科省が教育基本法改正に賛成するような質問項目を作成し発言を頼んでいた。五会場ではそれぞれ一―四人が質問項目に沿った意見を表明したという。

タウンミーティングは閣僚が各地に出かけて住民らと直接対話を通して意見を聞いたり、政府の方針を説明する「開かれた政治」の場である。発言者本人の考えに基づく生の声が大前提だ。政府は「議論を活発化するためだった」とするが、本来の趣旨を大きく逸脱した。

教育改革は分野が多岐にわたる。とりわけ教育基本法改正は根幹にかかわる重要な問題である。発言者に賛成意見をするよう促すことは、参加者や報道などを通して伝えられた人々に間違った印象を与えることになる。

これでは広く開かれた政治の場というより、政府に都合のよいよう誘導する場ともいえよう。政府が調査を検討するとした小泉内閣時代に行われた百七十四回すべてのタウンミーティングにも同様の操作があったのではとの疑問もわく。

せっかくの直接対話の信頼を取り戻すためにも、早急な事実関係の公表と改善策を求めたい。

山陽新聞 2006年11月10日

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やらせ質問 教育行政への信頼は地に落ちた

内閣と国民の「対話」が、実は周到な「やらせ」だった。

教育改革タウンミーティング(TM)で、一般参加者を装って教育基本法改正への賛成発言をするよう政府が仕込み、演技指導までつける。民意を愚弄(ぐろう)するそんな行為が常態化していた疑いが強まった。

発端は九月の青森県八戸市でのTMで、内閣府が地元教育委員会を通じて発言者を決め、文部科学省作成の文案に沿う質問をさせるなどしていた。

内閣府の調査では、八会場で開いた教育改革TMのうち、やらせは五会場であり、発言者五十五人中十五人にのぼる。二〇〇四年五月にあった松山でも発言者八人中一人が該当した。

高校の必修科目未履修問題や相次ぐいじめ自殺は、教育関係者の隠蔽(いんぺい)や不正をいとわない体質をあぶり出した。文科省の不作為も明らかになっている。

今回もやはりという思いで、信頼はいよいよ地に落ちた。

大臣らが地域へ出向き、民意を政策に反映させるはずのTMで、政府の意向に沿うよう誘導してアリバイづくりに利用する行為は国民への背信だ。しかも内閣府の教育改革の歴代担当者は文科省からの出向という。

「棒読みにならないように」と指導し、座席を確かめて多数の挙手のなかから指名していたことも考えると「議論活性化のため」(塩崎恭久官房長官)という釈明に説得力は乏しい。

中央教育審議会は〇三年三月に教育基本法改正を答申した。やらせはその年十二月から翌年十一月までが中心だ。なりふり構わず世論操作してでも改正に導きたい。そんな確信的意図が文科省になかったろうか。

松山では七人分の質問案が作られていた。指導力不足教員対策や家庭教育の充実など国会審議中の改正案の目玉が目立つ。

うち実際に発言したのは中学校長で、当時は県総合教育センター幹部だった。インターネットで公開されている議事要旨を見ると質問案との酷似ぶりに驚く。それでも当初は依頼を否定する説明をしていた。

発言時、中学教員と名乗ったのも解せない。県総合教育センターは県教委の機関で、指導力不足教員の研修なども行う。その幹部と一教員とでは発言の受け止められ方も当然ちがう。

七月にあった県主催のプルサーマル公開討論会を思い出す。質疑の際、賛成派の指名を求めるメモを県が司会者に渡し、加戸守行知事は閉会後「反対派が作戦を立てて支配的に反対意見ばかり続いたので、気にしたのだろう」と語った。これも民意の軽視ではないか。

政府はすべてのTMを調べ、文科省も関係者の処分を検討するという。当然だが、手際良い対応には国会審議への影響を避ける狙いもあるのだろう。

個人の尊厳、自主的精神、不当な支配の排除―教育基本法が掲げる理念を踏みにじった政府は、まず現行法の理念を体現するべきだ。その努力を怠り、教育問題が基本法に起因するかのような理屈で改正を推し進めることは、やはり認められない。

愛媛新聞 2006年11月10日

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【公聴会やらせ】誰の指示か調査公表を

一般市民を装った発言が実は政府による、やらせだった。

青森県八戸市で9月に開かれた政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、教育基本法改正に賛成する発言をするよう参加者に依頼していた事実を内閣府が正式に認め、衆院特別委理事会で陳謝した。

断じてあってはならないことだ。

内閣府はこれ以前に7回行われた教育改革タウンミーティングについても、調査結果を報告するとしている。詳細な説明がなされるまでは法案の審議も到底進められない。

内閣府から地元教育委員会を通じて質問者に質問案を文書で送付、発言を依頼した。そのうえで依頼されたことを言わないよう「口止め」の注意事項も伝えたという。

内閣府の担当者はこれまで、「会場からの活発な意見を促すきっかけをつくるのが目的だった」と釈明してきた。しかし、それならば、やましいことを隠すかのような「口止め」は必要ないはずだ。

送付された文書は「質問項目案」と題し、「改正案で公共の精神などの視点が強く重視されていることに強く共感する」といった質問のひな形が例示されていた。

加えて、「せりふの棒読みは避け、あくまでも自分の意見を言っているという感じで」と具体的な発言の仕方まで指示されていた。

公聴会を開いて国民の声を聴く「ふり」をしながら、裏では脚本、演出とも政府の側で進めていたことになる。

公聴会は時に、政策立案の前に広く意見を聞いたという「アリバイづくり」だと批判もされるが、それどころではない問題を含んでいる。

政府は、必修科目未履修やいじめ問題の拡大により、各地の教育委員会の学校現場に対する指揮監督機能の強化の検討に入った。安倍首相の設けた教育再生会議を中心にこれが進められようとしている。

だが、質問事項の子細な例示や教育委員会を通じたやらせを併せ考えると、学校現場に対しての指揮監督機能の強化は結局、厳しい統制に向かう恐れを強くさせる。

学校現場の規範意識を論議する以前に、やらせをするような政府や、それに加担する地方の教育委員会の規範意識を高めることが先決と言える事態だ。

やらせの指示をしたのは誰か。どこまでの上司が知っていたのか。政府は舞台裏のすべてを明らかにしなければならない。

高知新聞 2006年11月8日

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賛成発言依頼・許されぬ政府の世論誘導

今年9月2日に青森県八戸市で開催された政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、教育基本法改正への賛成意見を述べるよう内閣府が参加者に依頼、文部科学省が作成した文書を基に2人の参加者が発言していたことが内閣府の調査で分かった。

タウンミーティングは、小泉純一郎前首相が「国民との対話」を目的に政権発足直後の2001年6月にスタートさせた集会だ。関係閣僚が、国民の多様な意見を直接聞いて政策に反映させるのが本来の趣旨だったはずである。

その中で「やらせ」が行われていた。政府による世論操作そのものであり、断じて許すことはできない。

文科省が作った質問項目案は「時代に対応すべく、教育の根本となる教育基本法は見直すべきだ」「改正案で『公共の精神』などの視点が重視されていることに強く共感する。法改正を一つのきっかけとして、もう一度教育の在り方を見直すべきだ」などと例示している。

ご丁寧なことには、「内閣府からの注意」として「せりふの棒読みは避け、あくまでも自分の意見を言っている感じで」と質問する際の態度まで指示している。

教育基本法改正をめぐって国民の間に賛否両論がある中で、改正の方向に世論を誘導しようという意図があるのは明白だ。

タウンミーティングが、国民の意見を聞く場ではなく政府に都合のいい意見を語らせる場だったとすれば、国民を欺いたことになる。

内閣府は7日の衆院教育基本法特別委員会の理事会で、「信頼を損ねる行為だった」と陳謝したが、わびて済む問題ではない。

誰が、どのような目的をもって質問内容を作成し参加者に発言を依頼したのか。政府には、責任の所在を含め詳細を明らかにする義務がある。

内閣府は、03年12月から05年6月までに青森県以外の7カ所で開催された教育改革のタウンミーティングに関し同様の事例がなかったか調査し9日に公表するという。

だが、それだけでは不十分だ。過去に開催されたすべてのタウンミーティングを精査し、「やらせ」の有無をチェックする必要がある。

今回の問題は、たまたま青森県教職員組合への告発で発覚している。氷山の一角にすぎない可能性もある。

内閣府が調べたのではチェックが甘くなり「お手盛り」になりかねない。第三者機関に調査を委ねることも検討すべきだ。

国家機関による世論誘導は看過できない。内閣府、文科省の責任は重大だ。

琉球新報 2006年11月8日

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採決急ぐ状況ではない

教育基本法改正案を審議している衆院特別委員会が、採決の前提となる地方公聴会を八日に開くことを決めた。野党は法案に慎重審議や反対の構えだが、与党は早期採決を目指している。

改正案は、先の通常国会で約五十時間をかけた審議の末に、継続となった。審議時間は七十時間に達し、自民党内からは「採決の環境は整ってきた」との声が聞こえ始めた。

臨時国会で法改正を実現するためには、日程的にも早期の衆院通過が必要だということだ。

しかし、これまでの審議を通じて、改正案をめぐるさまざまな疑問や懸念が解消されたとはいえない。

教育現場では、いじめや自殺の根絶、学力低下などが喫緊の課題になっている。問題解決のために、本当に法改正が必要なのかという根本議論も深まってはいない。

国民の賛否が大きく分かれている中で、議論が不十分なまま改正案の早期採決を目指す与党の動きは、あまりにも拙速すぎる。

十月末に審議を再開した特別委員会で、安倍晋三首相は分かりにくい答弁を繰り返した。

例えば、法改正が必要な理由について、首相は「志ある国民を育て、品格ある国家をつくる」と述べた。

しかし、「国民の志」や「品格ある国家」とは、どのようなものか。具体的な説明はなく、首相の持論である「美しい国」とともにあいまいだ。

焦点である「愛国心」をめぐる議論も低調だ。政府案は「国と郷土を愛する態度」、民主党案は「日本を愛する心を涵養(かんよう)」と「心」のあり方に踏み込んだ。

表現の違いはあるが、「愛国心」を持つように教室で教えるという点では大きな差はない。論戦が深まらない理由だろう。

愛国心だけでなく、政府の改正案には、現行法にない「公共の精神を尊び」や「伝統を継承し」という文言が盛り込まれ、「個人の尊厳」の理念を薄めようという意図が見え隠れする。

心のあり方まで法律で定めていいのか。教育の独立性が薄められる懸念はないのか。こうした大切な問題も十分に論議されてはいない。

東大の基礎学力研究開発センターが十月にまとめた全国アンケートでは、約四千八百校の公立小中学校長のうち、三人に二人が法改正に反対した。ほぼ同数が「教育問題を政治化しすぎる」と回答した。

「現場が混乱する」という理由だ。管理職として学校運営を預かる校長が二の足を踏む姿が浮かぶ。

こうした現場の懸念を無視して、法改正を急ぐ理由はないだろう。教育の理念を定めた教育基本法を「政争の具」にしてはならない。

北海道新聞 2006年11月5日

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質問誘導を許してならぬ/タウンミーティング

初めは新鮮でも長く続けるとよどみが生じる。五年前、就任したばかりの小泉純一郎首相が鳴り物入りで始めた「国民対話・タウンミーティング」だ。

二〇〇一年六月十六日の青森市、鹿児島市を皮切りに〇六年九月二日の八戸市、横浜市まで全国で百六十数回行った。

本県では〇二年七月二十日に弘前市、〇四年六月五日に青森市と四回開催された。

小泉内閣の最後を飾り九月二日に八戸市で行われたのが「教育改革タウンミーティング」である。ところが、あろうことか主催者側の内閣府が、質問者に教育基本法改正案に賛成する発言を促す「参考資料」を用意していた。

タウンミーティングは“出前内閣”の性格を持ち大臣、副大臣が全国の都市を訪ねる。テーマを設定、地域住民の声を直接聞き国の政策に反映、また政府側のPRの場でもある。

二時間という時間的制約はあるが本来、自由闊達(かったつ)な意見交換の場だ。質問誘導や「想定問題集」まがいでは「国民対話」が泣く。

この問題は衆院の教育基本法特別委で共産党の高橋千鶴子、石井郁子両議員が追及した。これに対し内閣府の土肥原洋総括審議官が「活発な意見を促すきっかけをつくる目的で、参加者の発言の参考となるような資料を作成する場合もある」と釈明。

内閣府が県教委に示した質問項目案は三パターンあり、いずれも教育基本法改正案に賛成する内容だ。

質問予定者は相当絞り込まれた感がある。内閣府の要請を受け県教委教育政策課、三八教育事務所、三戸郡内の中学校長がかかわる。校長が同中PTA会長を質問予定者に推薦した。

県教委は三パターンのうち「一番穏当」な二つ目のパターンの意見を述べるよう要請。内閣府からは「自分の言葉で質問を」「お願いされて、とは言わないで」の注意があったという。

ところが、PTA会長は急用などでタウンミーティングに参加しなかった。想定質問、質問誘導は結局、幻に終わった。

「教育改革タウンミーティング・イン八戸」には当時の小坂憲次文科相、中央教育審議会委員の梶田叡一兵庫教育大学長、ジャーナリストで東京・品川区教育委員の細川珠生さんが出席。参加者約四百人と対話した。

小坂文科相が教育改革の必要性と教育基本法改正案の詳細を説明。その後、質疑応答となり会場から主婦、学生、教員ら約十人が質問した。

このうち四人が教育基本法改正賛成の意見を述べた。想定文案に酷似した質問もあった。

一方で二人の参加者が教育基本法改正に明確に反対した。賛成者が多かったが、反対者の意見にも耳を傾けている。大臣は堂々と政府の主張を展開すればいいのだ。

それなのに「やらせ」まがいの質問誘導とはなんと姑息(こそく)なやり方か。

高校必修科目の履修漏れ、児童生徒のいじめ自殺…。教育行政は地に落ち、教育委員会は存亡を問われている。

自作自演、やらせ体質で真の教育再生ができるのか。役所、役人の体質再生が先だ。

東奥日報 2006年11月5日

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採決急がず本質論議を

大学入試科目の授業を優先して、必修科目を学ばせていなかった高校。小中学校では、子どもたちがいじめを苦に命を絶つ。教育とは、何なのだろうか。

戦後教育の理念を定めた教育基本法の改正案審議が、国会で進められている。

「美しい国」づくりを目指す安倍晋三首相は、その実現には教育が大切だとして、基本法改正を最優先課題に位置づけている。「志ある国民を育て、品格ある国家をつくっていくのが改正の目的だ」という。

現行法は一九四七年、軍国主義に突き進んだ戦前の教育の反省に立って制定された。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する」「個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」。前文にはそんな言葉が並ぶ。

政府の改正案は現行法をベースにしているが、前文から「個性」の文字が消え、新たに「公共の精神を尊び」「伝統を継承」などの文言が入っている。第二条の教育の目標には「我が国と郷土を愛する態度を養う」との表現が盛り込まれた。公共の精神や伝統文化の尊重を強く打ち出しているのが特色だ。

戦後教育は、個を尊重するばかりで、公共心や国を愛する心を教えてこなかった。それが規律の乱れを生み、教育荒廃の原因になっている。改正を目指す与党には、そうした思いが強い。

「教育を変えなければ」と感じている国民は多いはずだ。私たちもそう思う。だが、教育基本法の改正によって、いじめや不登校、学級崩壊などの問題が解決に向かうかどうか、疑問だ。

もちろん、倫理観や公共心は、家庭や学校でしっかり教えたい。しかし、国家が画一的に押し付けるようなことにでもなれば、息苦しくなるばかりで、効果が上がるとはとても思えない。そんな懸念もある。

全国公立小中学校の校長を対象にした東大基礎学力研究開発センターの調査によると、教育基本法の改正案には66%が反対していた。

いま求められているのは、改正を急ぐことではなく、「子どもたちを幸せにする教育とは何か」という、原点に立ち返った議論ではないか。

「学校」シリーズなどの映画を通して、幸せとは何か、教育とは何かを問いかける山田洋次監督は「人を押しのけていく急行列車よりも、鈍行列車の人生がいい」と言う。

教育現場で、子どもたちは急行や特急に乗るよう、せき立てられているように見える。

急行や特急には、いいところがたくさんあるだろう。しかし、各駅停車の鈍行も劣らず素晴らしい。のろくて効率は悪いかもしれないが、景色がゆっくり楽しめ、人間的な触れ合いもある。そうした生き方の価値がもっと認められるべきだ、と山田監督は言いたいのだと思う。

他人を思いやれる。相手の立場に立ってものを考えることができる。「国を愛する心」よりも、まず、そうした能力が評価される教育であってほしい。

政府の改正案は先の国会に提出され、約五十時間審議されたうえで継続審議になっていた。このため、与党は「論点は出尽くしている」として、今国会での成立を目指している。

もっと教育の本質的な論議を深めたい。強引に採決すべきではない。

徳島新聞 2006年11月4日

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「やらせ」質問 甘く見られている国民

政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が出席予定者に会場からの「やらせ」の質問案をあらかじめ渡していたことが分かった。今国会で継続審議中の教育基本法改正案に賛成の立場からの「やらせ」で、細かい演技指導まで付いていた。政府が率先して民主主義の形骸(けいがい)化を進めているようで、やりきれない。

一日の衆院教育基本法特別委員会で、共産党の石井郁子議員が裏付けの文書を見せながら質問、内閣府が質問案の作成を認めた。

問題のタウンミーティングは、九月二日、青森県八戸市で当時の小坂憲次文部科学相も出席して開かれた。石井議員の質問などによると、八月三十日に出席予定者に、地元教育事務所を通して内閣府の質問案がファクスで送られてきた。そこには教育基本法改正案に賛成の立場からの質問のひな型として(1)時代に対応して見直すべき(2)改正案の「公共の精神」に共感(3)教育の原点は家庭教育―の三つが書かれていた。

九月一日には青森県教育庁から「内閣府からの注意事項」として「あくまで自分の意見を言っているという感じで」とか「棒読みは避けて」といった細かい演技指導まで送られてきた。当の出席予定者は当日、会場の駐車場がいっぱいのため欠席したという。

しかし、内閣府がネットに載せたタウンミーティング議事要旨によると、ひな型に似た表現の質問がみられる。内閣府当局者も「タウンミーティングの議論の活発化のために資料を提供することもある」と答弁しており、複数の出席者に依頼した可能性はある。さらに他のタウンミーティングへの疑念も残る。

このタウンミーティングは小泉純一郎前首相時代のことだが、安倍晋三首相は当時、内閣府を統括する官房長官であり、当事者だった。内閣府のこうした「やらせ」は、地方の場を甘くみている表れではないか。それを唯々諾々と受ける地方の教育機関や、周辺の市民にも反省すべき点があろう。さらに、一般国民にも、こうした場での一種の「やらせ」を容認する空気はないか。そうした「なあなあ」が民主主義を堕落させるのである。

安倍首相は「国民と双方向で意見交換できる大切な場であり、誤解があってはならない」と内閣府を注意した。塩崎恭久官房長官も事実関係の調査を命じた。真の民主主義へ、きっちり見直したい。

中国新聞 2006年11月4日

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議論は深まっていない

教育基本法の改正をめぐる国会審議が再開された。改正に向けた政府案を今国会の最重要法案と位置づける政府は、前国会での50時間近い審議で論点は出尽くしたとして早期成立を目指している。しかし、基本的な部分であいまいな点が多いのをはじめ、教育現場の問題が次々に露呈し、課題山積の状態だ。うわべを繕う拙速審議で済ますわけにはいかない。

教育改革に関しては目下、国会審議のほか、安倍晋三首相が先ごろ官邸に設置した教育再生会議の2本立てで論議されている。これに文部科学相の諮問機関である中央教育審議会(中教審)を加えると実に3本立ての状態だ。再生会議は政府案での教育基本法改正に意欲を燃やす安倍首相の意向を受けた組織だが、文科省、中教審との関係や役割分担については、いまひとつ分かりにくい。

事実、文科省は再生会議発足に当たり「文科省外し」ではないかと危機感を強めたほか、官邸主導で進められる改革を警戒する姿勢も見せているほどだ。

教育基本法改正に向けた政府案では、教育の目的として「人格の完成」と、国家・社会の形成者として「必要な資質を備えた国民の育成」を掲げている。教育の目標には「公共の精神」に基づき「伝統と文化を尊重し」「わが国と郷土を愛する」態度を養うことなどを据えている。ところが、こうした言葉から想起される概念について、人格の完成と社会の形成に必要な資質のどちらに重点を置くのかなど、与党内部にも受け止め方に違いが見られる。

公共の精神、伝統と文化、国と郷土を愛することなどについても、具体的に意味するところはあいまいで、人によって異なる理解の仕方が出てくる可能性もある。こうした趣旨の政府案が成立した場合、教育現場で実際にどう教えていくかを定めるのは学習指導要領であり、その改定を担うのは中教審と文科省である。政府案の成立を再生会議が側面から援護し、成立後も教育全般への影響力を発揮するようになれば、国家主導の教育改革になりかねない。

政府案の中で教育行政にかかわる個所では、国と地方の「適切な役割分担」と「相互の協力」をうたう。ところが政府の役割としては教育振興のための基本計画策定などを通じ、教育内容に踏み込めるようにしている。地方は政府の意向を「参酌」して地方ごとに基本計画をつくるという構図だ。その場合、どこで政府の関与に歯止めをかけるのか、明らかではない。

教育の目的、目標のほか国と地方の関係を考えただけでも議論を深め国民の合意を得なければならない点は多く、論点は出尽くしたなどとはいえない。

教育現場では、いじめによる子どもたちの自殺が相次ぐ一方で、学校や教育委員会がその実態を把握しておらず、あるいは把握しても責任転嫁のためか、実態を隠そうとするきらいすらある。高校では大学受験に備えるあまり、必修科目の未履修問題が深刻化している。教員の資質が問われ、教育委員会の役割と責任の見直しも大きな課題として浮上した。そうした問題も包括した議論を求めたい。

秋田魁新報 2006年11月1日

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この現実を見て議論を

いじめ自殺や高校必修漏れなど現実に起きている問題の深刻さは教育の根幹にかかわる。衆院特別委員会で教育基本法改正の審議が再開したが、法改正を急ぐ前に現実を直視した議論こそ必要だ。

「首相の答弁はいいんです」−必修漏れ問題で民主党の野田佳彦氏がもっぱら伊吹文明文部科学相を追及したのが象徴的だ。与野党を問わずいじめ自殺と必修漏れ問題に質問が集中した。

民主党の鳩山由紀夫幹事長は、教育基本法改正と関連づけて「政府案では、いじめや未履修に対応できない」と批判した。

それほど、教育の現場で発生する問題が悲惨で切実なため、対策が急がれている。同時にこうした問題に対処できる基本法が求められているということだ。

だが、安倍晋三首相は「この六十年間に教育を取り巻く大きな変化があり、二十一世紀にふさわしい教育基本法を成立させることが国民の声ではないか」と答弁した。政府答弁は改正案の成立を急ぐとしている。現実への危機感が十分とは、とてもいえない。

一九四七年に施行された教育基本法は教育の基本理念や基本原則を定めたものだ。戦争に突き進んだ戦前の教育への反省が込められ、一人ひとりの人格の完成と教育の独立性を掲げている。

この現行の基本法に対し、「態度を養う」として愛国心など多くの徳目を求めているのが政府案の肝要な点だ。それ自体に論議は必要だが、愛国心を論じる前に現実問題への対応を優先させるべきで、父母や国民の多くが求めていることだろう。

岐阜県や福岡県の中学校などで陰湿ないじめがあり、遺書を残して自殺に追い込まれるほど事態は深刻だ。命と人格を尊ぶという戦後教育の基本はどこへいったのか。

必修漏れが全国の高校でまかり通り、高校が大学受験のための予備校化していることが白日の下にさらけ出された。人間として必要な知識や自立心を養う高等教育や最高学府、大学入試のあり方そのものが鋭く問われている。

国と教育委員会、学校長の教育上の責任や適正な役割はどうあるべきかという制度上の問いも突きつけられている。便乗して国の指導監督権限強化を言うのは悪のりであり、こうした根本的な問いに応えられる基本法の論議が先である。

基本法を変える採決を急ぐときではないだろう。目の前の問題に真正面から向き合い、国民とともに本質をとことん議論して“根本治療”につながる処方せんを示すべきだ。

東京新聞 2006年11月1日

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学校現場の混乱にまず対処すべきだ

継続審議になっている教育基本法改正案の国会審議が再開した。安倍晋三首相が主張する「教育再生」に弾みをつけたい与党側に対し、野党は結束して阻止する構えで、会期末ぎりぎりまでの攻防が予想される。

折しも、学校現場では深刻な混乱が生じている。いじめによる児童・生徒の自殺が相次ぎ、高校の必修科目の未履修問題も発覚した。教育基本法の原則論はさておき、教育の在り方を根本から揺さぶる緊急課題を集中的に論議する衆院特別委員会の姿勢は評価できる。

いじめ自殺の問題はとりわけ重大だ。北海道の小学6年生女児の自殺は、表面化するまで教育委員会が少女の遺書を1年も放置していたことが分かり、教委の責任が指弾されている。福岡の中学2年男子生徒の自殺も、教師が率先していじめた事実がありながら校長も教委もいじめが原因との断定を避けている。

これらのケースに限らず、学校や教委は自殺がいじめによると認めたがらない傾向が強い。この7年間にいじめによる自殺が1件も発生していないという統計は、いかに文部科学省が実情を把握しきれていないかの表れといえる。

信じ難い数字がまかり通り、いじめや自殺の実態が見えにくくなっている。特別委で安倍首相が「数字は実態を反映していない」と答弁し、調査方法の改善を求めたのも当然だ。

必修科目の未履修も、ルールや規範を守る大切さを教えるべき教育現場が、不正に目をつぶってきた点で問題が多い。受験対策優先だからと暗黙の了解で実施していたとしたら究明が必要だ。難しい入試を課してきた大学の責任も問われなければならない。

未履修の生徒には受験を控えて重い負担がのしかかる。一方で、適正に履修してきた生徒にも不公平感が残る。足りない単位を補習で乗り切るにしても、受験指導のゆがみを応急措置で切り抜けるだけではなく、学習指導要領の見直しも含めた抜本策を検討する必要がある。

気がかりなのは、こうした教育現場の混乱が教育の荒廃によるものだという風潮を助長し、基本法改正論議に拍車がかかることだ。改正案の争点である「愛国心」について、国民的論議を深めることなく、政府案を力ずくで通すようでは禍根を残すことになる。

今なぜ改正なのかという基本的な論点を詰める前に、目の前で起きている現実に学校現場、教委、文科省が一体となって対処する方法を真剣に論議すべきだ。

南日本新聞 2006年11月1日

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