地方紙社説(2006年6〜10月)


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拙速審議では禍根残す

衆院の特別委員会できのう、先の通常国会で継続審議となっていた教育基本法改正案をめぐる審議が本格的に始まった。

「教育再生」を政権の最重要課題と位置付ける安倍晋三首相。歴代自民党政権の懸案でもあっただけに、与野党の激しい攻防も予測される。

今国会には、政府の法案に対抗して民主党の独自案も提出されている。与野党とも、じっくり腰を据え、情理を尽くし誠実な審議に徹する姿勢を求めたい。

相次ぐいじめによる児童や生徒の自殺をはじめ、全国の高校に広がっている必修科目の履修漏れ…。教育現場で起きている最近の混乱の中には、単なる不祥事として済ますことができない深刻な事態も多い。

安倍首相や関係閣僚が出席して開かれた初日の特別委でも、いじめへの対応策や履修漏れへの質疑が相次いだ。

野党側からは、安倍首相が目指している学校評価制など数値目標を設定して学校間の競争を促す制度改革への疑問も出された。いじめがあったにもかかわらず、文部科学省への報告が「ゼロ」だったことなどを挙げながら、「成果優先の教育改革では学校間の格差を助長し、こどもの心も荒廃させる」と迫ったが、議論はうまくかみ合わなかった。

こうした教育効果の是非に加え、いま一度、原点に返って本質を見極める論議も要る。

現行の教育基本法は、国への忠誠などを説いた戦前の教育勅語の弊害などを踏まえ、「個人の価値」や「自主的な精神」を重んじている。「平和国家」を指向するために欠くことのできない基本理念とされてきた。

これに対し、民主党の法案も含め、改正案には「愛国心」や「道徳教育」の尊重などがうたわれている。「個」から「公」への回帰ともいえる。

民主党案では、教育行政の責任の所在が各市町村の教育委員会なのか文科省なのか明確ではないとして、より強く「国の責任」を打ち出しているが、現行の基本法の使命が終わったとの認識では一致している。価値は失われていないとする共産、社民両党は廃案を目指す。論議はまだこれからだ。

憲法に準じる重みを持つとされる法律の改正論議は、慎重の上にも慎重であるべきだ。数に頼んだ拙速審議で将来に禍根を残すことがあってはならない。

中国新聞 2006年10月31日

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改正急ぐ必然性あるのか

教育の根本法である教育基本法改正案の審議が衆院教育基本法特別委員会で始まった。政府と自民、公明両党は今国会での成立を図るため十一月上旬の衆院通過を目指すという。

教育は、言うまでもなく国家百年の大計と言っていい。その根本法は国の将来像を映し出す。

先の通常国会で約五十時間審議したことで、文部科学省は「論点は出尽くした」と捉えているが、果たして個々の論点が詰められてきたかどうか。

何よりも改正が本当に必要なのかどうかもはっきりしない。もし必要であればその理由を明らかにし、時間を割き、教育関係者、研究者の意見も踏まえて国民の理解を得た上で審理していくべきではないか。

まず成立ありきの審議は拙速であり、国会の責任を放棄したと言われても仕方がない。タイムスケジュールにとらわれることなく、根本法にふさわしい論議を行うのが国会の責務だろう。

これまでも触れたが、東大基礎学力研究開発センターが実施した全国の公立小中学校長への調査で、66%が教育基本法改正案に反対している。

根幹に、教育改革のスピードに現場がついていけないという現実的問題があるのも理由の一つになっている。

なぜいま改正しなければならないかという根源的な疑問に加えて、教育現場はもちろん国民の間でも法改正に向けた基本的認識があいまいであるのをどう受け止めればいいのか。

政府案は教育の目的に「人格の完成」と「必要な資質を備えた国民の育成」を掲げ、改正には「時代が変化し、教育課題が変わったのだから理念も変える必要がある」としている。

だが基本理念については、軸足を国家、社会に置くのか、これまで通り人格の完成に置くのか、与党内部でもすれ違いがあることを忘れてはなるまい。

教育現場はいま、いじめやいじめに端を発した子どもたちの自殺、不登校の問題、学力の低下、校内暴力など複雑な問題で溢れている。ここにきて高校の必修科目未履修問題も出てきた。

こういった問題は、法改正すれば解決できるというものではないはずだ。取り組むべきは法改正ではなく、別のところにあると思うがどうか。

三十日の委員会でも論議されたが、現行法の問題点、改正案について突っ込んだ質疑があったとは言い難い。

教育基本法は日本の針路に深くかかわる。国の将来を担う子どもたちのためにも「結党以来の悲願」(自民党)と狭く考えず、“非改正”も視野に入れながら議論すべきだろう。

沖縄タイムス 2006年10月31日

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拙速避け、慎重審議を

継続審議になっていた教育基本法改正案をめぐる国会の本格審議が始まった。政府案を今国会での「最重要法案」(安倍晋三首相)として成立させ教育再生に弾みをつけたい与党側に対し、野党側は結束して阻止の構え。与党側は強行採決も辞さない姿勢だが、時間が限られているため、会期末ぎりぎりまでの攻防が予想される。

五十時間近い前国会の審議で「既に論点は出尽くした」(文部科学省幹部)が政府側の見方。だが、なぜ今改正なのか、という肝心のところがはっきりせず、個々の論点も詰まっていないところが多い。

基本法は文字通り教育の根本法であり、国民的合意に支えられてこそ生きてくる。「結党以来の悲願」(自民党)は結構だが、力ずくで政府案を通すようなことになれば、存在感は軽くなるばかりだ。国民的関心も低調な中、まず成立ありきの拙速審議はなじまない。根本法にふさわしい地に足の着いた議論を望みたい。

政府案は教育の目的に「人格の完成」と「必要な資質を備えた国民の育成」を掲げているが、与党内部にさえ受け止めに微妙な落差がある。

安倍首相は所信表明で「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること」と述べたが、公明党の運動方針は「教育の目的は子どもの幸せ」を強調している。軸足を国家、社会に置くのか、これまで通り人格の完成に置くのか、基本のところで擦れ違いがある。

教育目標も同様だ。政府案は「公共の精神」「伝統と文化を尊重し、国と郷土を愛する態度」などの理念を掲げているが、それぞれの意味するところがあいまいだ。何を「伝統」と考えるか、人さまざまだ。あしき伝統もある。「尊重」というからには何を、どう尊重するのか、明らかにすべきだ。公共の精神も、国を愛する態度も、人により受け止め方は違う。

首相は官房長官当時、自民党内に強く要求のあった「宗教的情操」について「多義的なので法に規定しない」と答弁しているが、公共の精神も、国を愛する態度も、多義的である点では同じだ。

こうした理念を誰がどう特定し、評価するのか。権力が上から一つの形に決め付けるようなことになれば、内心の自由の侵害に限りなく近づく。理念の解釈を政府に白紙委任するのでは、民主主義社会とはいえない。

政府案では、政府の基本計画の策定などを通じて国が教育内容に踏み込めるようになるが、どこで歯止めをかけるのか、きちんとした議論もない。

首相の著書「美しい国へ」では「学力ばかりでなく学校の管理運営、生徒指導の状況などを国の監査官が評価する学校評価制度の導入」を提起しているが、国家主導の教育改革の先取りといえる。

それならば、中央集権的体質の克服を掲げた臨時教育審議会以来の教育改革の流れをどう総括しているのか。教育における国と地方の関係をどう構築するのか、基本法改正の先にある姿を合わせ示すべきだ。そうでなければ、なぜ基本法改正なのかとの問いに答えたことにならない。既に論点が出尽くしたなどとはとてもいえない。

山陰中央新報 2006年10月31日

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やはり改正すべきでない

教育基本法の改正法案の国会審議が30日から本格化する。戦後教育の根幹をなす重要な法律である。なぜ今変えるのかという基本的な疑問に、いまだ納得できる説明はない。教育をめぐる問題は、基本法の改正で解決するものではない。改正は慎むべきだ。

憲法は知っていても、教育基本法を読んだことがある人は多くないだろう。1947年公布の、前文と11の条文による短い法律だ。

「変える必要があるのか、まず読んでみてほしい」と、昨年春に「11の約束 えほん 教育基本法」(ほるぷ出版)が生まれた。東京都在住の2人の女性が、多数の文献を参考にして、条文を分かりやすい言葉に読み解いている。

教育の目的を示す第一条はこうなった。

教育は、めざします。一人ひとりのうちにめばえたものが大きく育ち、それぞれに花ひらくことを。

教育は、めざします。真理と正義を愛し、一人ひとりのかけがえのなさをたいせつにする人が育つことを。(中略)

教育は、めざします。そうした人びとが、平和な国と社会のつくり手となることを。

原文は、教育の目的を「人格の完成」とし、個人の価値の尊重や自主的精神にみちた国民の育成をうたっている。個を大切にする教育を目指す、基本法の背骨となる精神だ。

<問題は山積としても>

著者の一人、伊藤美好さんは条文を読み解きながら、新しい憲法の理念を実現するために教育基本法が作られたことを痛感した。子どもを国のために命を捧げる存在に育てようとした、戦前の軍国主義教育への反省が根底にある。それをないがしろにするような改正の動きは、個人の尊厳や内心の自由に踏み込むものだ、と危機感を抱いている。

なぜ、教育基本法を変える必要があるのか−。政府は、国際化、少子高齢化といった環境の変化や、さまざまな教育の課題への対応が必要だと説明する。

いじめ、学力やモラルの低下、指導力のない教師など、問題がたくさんあるのは事実だ。だからといって、基本法を変える必要があるというのは、乱暴な理屈ではないか。逆に、現場の混乱が心配される。

改正案では、現行法の個人の価値の尊重や自主的精神といった表現が消え、「道徳心」や「公共の精神」を加えている。個人を重んじる考えは大きく後退する。

中でも問題が大きいのは教育の目標に「愛国心」を盛り込んでいることだ。国を愛する気持ちは自然とわくものなのに、法律で定めることで、教育が子どもたちの心に踏み込むことになる。大人に対して「あるべき姿」を強要する結果にもなる。

<息苦しくならないか>

先の国会の論議では、愛国心の評価は求めない、「態度」を強要するものではない、といった答弁はあった。しかし、いったん法律に示されると、現場にあつれきや混乱が生じやすい。国旗・国歌法の成立で、学校での日の丸掲揚や君が代斉唱の指導が強まったことからも明らかだ。

国の管理が強まる心配も大きい。現行法第十条は、戦前の政治や官僚に支配された教育行政への反省から、「教育は不当な支配に服することなく」と、教育の独立性をうたった。行政には、教育を行うための環境整備を求めている。

改正案の第十六条は「不当な支配」の表現は残したが、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と加えている。さまざまな規定を法制化すれば、国による管理が容易になる。現行法の性格を変え、教育の独立性を揺るがす心配がある。

民主党案もほめられない。「日本を愛する心」や「宗教的感性」の涵養(かんよう)をうたい、政府案よりも保守的な色合いが濃い。

先の国会では約50時間の審議を行っている。30日から集中審議を行い、政府は臨時国会での改正案成立を目指すが、さまざまな懸念への論議が十分だとはいえない。

<首相の姿勢に危うさが>

教育改革は安倍政権の最重要課題である。官邸主導の改革を進めるために「教育再生会議」を発足させた。いじめによる自殺問題では、文部科学省の担当者、首相補佐官らが現地調査をした。高校の履修漏れ問題も、再生会議の議題になる。

スピーディーな対応は世間から支持を得やすい。一方、地域の自主性を軽視して、政府や中央官僚が教育現場に踏み込む姿勢が気になる。

著書「美しい国へ」の中で、安倍首相は「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」と述べている。憲法の理念を踏まえた現行の基本法とは、およそ相いれない教育観だ。

安倍首相の教育改革構想は、伝統的な家族を尊重するなど復古調な思想を背景に、評価制度や全国学力テストで学校を競わせ、その成果を国がチェックするというものだ。こうした考えで基本法を改正すると、学校の裁量や、教育の自由をより損なう恐れがある。子どもたちや教師の息苦しさは増すばかりだ。

このまま成立すれば、将来に禍根を残す。基本法を生かす道を、今は考えるべきだ。

信濃毎日新聞 2006年10月29日

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教育基本法改正 成立ありきの審議でなく

衆院教育基本法特別委員会が、先の通常国会で継続審議となっていた政府提出の同法改正案と、民主党提出の日本国教育基本法案の審議を再開した。教育は百年の大計であり、教育基本法は憲法に準じる重みを持つ。あらためて腰を据えた論議が望まれる。

初日の提案理由説明で、伊吹文明文部科学相は「現行法は制定以来半世紀以上が経過し、教育をめぐる状況は大きく変化した。教育の根本にさかのぼった改革が求められている」と述べた。民主党の高井美穂氏はいじめや不登校、学力低下など、教育現場の問題を挙げ「具体的に改善するための基本的な考え方を盛り込んだ」と説明した。

与党、民主党ともに基本法の改正をてこに教育の立て直しを図る考えで、教育混迷の根底に公共意識の薄さがあるとの認識を改正案に反映させた。愛国心に関する部分である。政府案は「我が国と郷土を愛する態度を養う」とし、民主党案では「日本を愛する心を涵養(かんよう)」するとした。

しかし、言葉は違っても、教育基本法の中に愛国心を盛り込むことは、戦前の国家至上主義の再来を懸念させる。時の権力者が再びこの文言を利用し、国民を導こうとする不安がぬぐえない。伝統、文化についても政府案、民主党案とも尊重を明記した。

一九四七年に施行された現行の教育基本法は「国家のため」を主眼とした戦前の教育理念との決別宣言といえる。個人の尊厳を重んじることを強調し、真理と平和を希求する人間の育成を期すとした。教育と国家のかかわりについては、今国会でさらに突っ込んだ議論がいる。

教育行政について、政府案は国と地方自治体との適切な役割分担と相互協力の下で行われるとした。これに対し、民主党案は自治体が行う教育行政はその施策に民意を反映させ、その長が行わなければならないと記している。改正案の文言だけでは教育行政の将来像が見えてこない。分権の視点からも国と自治体の役割に関する議論は深めておく必要がある。

三十日に安倍晋三首相が出席し、特別委での実質的な審議がスタートする。与党は基本法改正を最重要課題と位置付け、十一月上旬に衆院を通過させ、今国会中に成立のスケジュールを描く。だが、東京大基礎学力研究開発センターの調査によれば全国公立小中学校校長の66%が政府の教育基本法改正案に反対している。現場の反発が強いままでの基本法改正が有益とは思えない。将来に禍根を残さぬため、時間にとらわれず審議を尽くさなければならない。

山陰新聞 2006年10月27日

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教育改革 新総裁の真意を聞きたい

自民党総裁になった安倍晋三氏は「教育の再生」を政策の柱に掲げる。26日からの臨時国会では、教育基本法改正を優先課題とする方針だ。

教育バウチャー制度、学校評価制度の推進、教員免許の更新制、ボランティア活動の義務化−。総裁選で安倍氏はいくつもの改革策を語った。そこからは、学校の競争を進め、社会規範や貢献の意識を子どもたちに教え込もうという意図がうかがえる。

学校間の競争を高める施策の一つが、教育バウチャー制度である。バウチャーは、商品やサービスの利用券を指す。自治体から配布された利用券を使って、子どものいる家庭が学校を選ぶ。利用券の数に応じて学校は補助金を受ける。子どもを集めるために学校が競い合い、教育の質が高まるという理屈だ。

文部科学省は昨年秋から研究会を開き、米国、英国、ニュージーランドなどの制度を研究した。それぞれ内容や狙いは一律でなく、教育効果は定まっていない。学校の階層化が進んだとの報告もある。

学校評価や免許更新制は既に文科省が取り組んでいる。安倍氏の主張は、国による監督強化の方向を後押しするものだ。

ボランティアの義務化は、若者の社会貢献を促すのが目的である。国公立大学の入学時期を9月に変え、入学までの間、若者に奉仕活動をさせるというものだ。

安倍氏がタカ派と見なされる理由の一つは、保守的な家族観を持っていることにある。総裁選で掲げた政権構想「美しい国、日本。」では、政権の基本的な方向として、家族の価値や地域のあたたかさの再生、伝統的な文化の尊重をうたっている。

そうした復古調の価値観は、「愛国心」や「公共心」を盛り込んだ与党の教育基本法改正案につながる。総裁選の論戦を通じて、安倍氏には戦後教育を洗い直し、日本の伝統や文化を重視した枠組みを作ろうとする姿が読み取れる。

基本法は、憲法と並んで戦後体制を支える重要な法律である。先の戦争への反省に立って、個人の価値観の尊重をうたっている。改正案は、一人ひとりの心のありように踏み込む危うさがある。

学校の荒れや、学力、モラルの低下、いじめなど、学校が抱えている問題はたくさんある。教育がこのままでいいと思っている人は少ないはずだ。

安倍氏は、初の戦後生まれの首相になる。教育基本法改正を語るなら、自ら受けた教育のどこが問題で、改正が教育再生にどうつながるのか、説明する責任がある。

信濃毎日新聞 2006年9月25日

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国旗国歌判決 都教委の強制戒めた司法

 入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう義務づけた東京都教委の通達に対し、東京地裁は違憲・違法とした。訴えていたのは都立高校などの教職員四百一人で、判決は処分の禁止などを命じた。

 通達は、二〇〇三年十月に都立の高校や盲・ろう・養護学校の校長あてに出された。教職員が校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問うなどとしている。以後、起立や斉唱、ピアノ伴奏を拒否した教職員に対する懲戒処分が急増した。

 判決は「日の丸、君が代は第二次大戦終了まで皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた」とし、入学式などでの国旗掲揚や国歌斉唱への反対は少なからずあると指摘している。その上で「懲戒処分してまで起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する」と断じた。教育基本法が禁じた教育への不当な支配に該当するとも認定した。

 とはいえ、判決が入学式などでの国旗や国歌を否定しているものではない。「生徒に国旗国歌に対する正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てるのは重要なことだ」とする。教職員が式を混乱をさせたり、生徒をあおったりした場合は公共の福祉に反するともしている。

 今回の判決は、都教委の行き過ぎたやり方を戒めたということだろう。「国旗や国歌は強制でなく、自然に定着させるのが国旗国歌法の制度趣旨である」との指摘を重く受け止めなければならない。

 東京都は控訴する方針だ。裁判の行方は定かではないが、強制によって国旗や国歌を尊重する態度が育てられるとは思えない。通達を見直す必要があろう。

山陽新聞 2006年9月24日

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国旗・国歌訴訟  教育に強制は似合わず

 卒業式や入学式での国旗掲揚や国歌斉唱をめぐる東京都教育委員会の通達訴訟で、東京地裁が違憲判決を下した。

 判決は、教職員に国歌斉唱などを義務付けた通達は「不当な強制に当たり、憲法が認める思想良心の自由を侵害し違憲」と明確に断じた。

 日の丸や君が代に対する敬意は自然にはぐくまれてこそ根付くものだ。力ずくで形だけを整えるやり方は教育現場には似合わない。妥当な判決であろう。

 争われたのは都教委が三年前、都立高校などに出した独自の通達である。国旗の揚げ方から卒業証書授与の仕方まで事細かに指示している。校長には職務命令を出すよう求め、命令に従わない教職員は懲戒処分するという内容だ。

 判決ではまず「懲戒処分をしてまで起立や斉唱させる通達は、行き過ぎた強制行為で、思想良心の自由を侵害する」とした。教育に対する「不当な支配」の排除をうたった教育基本法にも違反すると厳しく批判し、起立や斉唱の義務はないとまで言い切った。

 通達以降、懲戒処分を受けた教職員は三百四十五人にも上る。多くの教職員は式典を妨害したわけではない。起立しなかっただけで減給などの懲戒処分というのは度が過ぎよう。判決はそうした実態への司法からの警鐘だろう。

 さらに判決は、日の丸、君が代は第二次世界大戦が終わるまで軍国主義思想の精神的支柱だったと述べ、「現在も国民の間で価値中立的なものと認められるまでにはなっていない」と指摘した。

 七年前に国旗国歌法ができたとはいえ日の丸、君が代に抱く思いは人によってさまざまだろう。当時の小渕恵三首相が「国旗国歌法は国民に新たな義務を課すものではない」と述べたように、個々人に強制するものであってはならないということだ。サッカーなど国際試合で、国歌斉唱が盛り上がるのは、強制とは無縁であるからだろう。 

 とはいえ教育現場においては、教職員は学習指導要領などに定められたルールは守らなければならない。国旗掲揚と国歌斉唱の指導を求める指導要領をめぐっては、裁判所の判断も分かれている。文部科学省も学校現場への指導徹底を求めている。

 しかし、処分を盾に教職員を従わせる「上意下達」のようなやり方は、教育に一番ふさわしくない。さまざまな考えを認めつつ、子どもたちの考える力などを養うことが国旗、国歌についても、ふさわしいのではないか。

 都立高校では教職員の間で「何を言っても無駄」といった無力感が漂っているともいわれる。極めて深刻な事態だ。

 自民党新総裁に選ばれた安倍晋三官房長官は、継続審議となった教育基本法改正に強い意欲を示している。「愛国心」の扱いが焦点になろう。国旗国歌と同じように、教育現場への新たな強制につながらないか目を凝らしたい。

京都新聞 2006年9月23日

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国旗国歌判決 「強制なし」が大原則だ

 「入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の際、起立して歌うかどうかは教師本人の意思に委ねるべきだ」。東京地裁が二十一日示した判断は実に明快である。

 裁判の当事者である東京都教育委員会をはじめ、本県教委などが起立しない教師を「職務命令違反」で処分しているのは憲法一九条に定める「思想良心の自由」を侵害する行為だと断じたのだ。

 いわゆる国旗国歌訴訟で、強制を違憲とした判決はこれが初めてである。教育基本法改正が当面の最重要課題だとする自民党の安倍晋三新総裁には厳しい警告となった。重く受け止めてほしい。

 日の丸を国旗とし、君が代を国歌とすることは大方の国民に受け入れられている。だが、先の大戦で日の丸や君が代が果たした役割を考えると、違和感を覚えるという人がいるのも事実である。

 この裁判で問われたのは、本人の意思を押し切って起立させ、斉唱させることが妥当か否かということだった。

 難波孝一裁判長は「国旗国歌を尊重する態度を育てるのは重要なこと」と指摘した上で「処分までして起立させ、歌わせるのは行き過ぎだ」と述べている。

 常識的な判断といえよう。国旗国歌を敬愛する人が多数だからといって、嫌がる人に押し付けてはいけないということだ。一九九九年の国旗国歌法制定当時から国の統一見解は「強制はしない」となっていたはずである。

 二年前の秋の園遊会で「学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが仕事です」と自己紹介した都教育委員で棋士の米長邦雄氏に対して天皇陛下が「強制でないことが望ましいですね」と、やんわりたしなめたのは記憶に新しい。

 国民として国旗国歌に敬意を払うべきかどうかということと、公権力が教師に「式典では敬意を態度で示せ」と強制することの当否を混同してはならない。

 五輪で日本選手が金メダルを取って日の丸が揚がるシーンは感動的だ。この思いは人々の内からわいて出るものであり、他から強要されてのことではない。

 教委や校長の権威をかさに起立や斉唱を義務付けるのでは、国旗や国歌こそいい迷惑だろう。素直に心の底からというのが望ましい形である。

 判決が教えているのは、人の考えや信条は多様であってしかるべきだということだろう。少数意見を力で封じ込むような社会は窮屈で息苦しい。安倍新総裁が目指す「美しい国」の姿でもあるまい。

 思想や良心の自由が蹂躙(じゅうりん)された戦前を忘れてはならない。歴史認識は私たち一人一人も問われているのだ。

新潟日報 2006年9月23日

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社説=国旗・国歌 「強要しない」原点踏まえ

 日の丸、君が代は強制してはならない、とする判決が東京地裁で言い渡された。東京都内の教師らが教育委員会などを相手に、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを求めていた。原告勝訴の判決である。

 国旗国歌を尊重する姿勢は大事だが、強制は思想・良心の自由を侵害する、との判断だ。国旗国歌法の制定時の趣旨にも沿っている。各教育委員会には、処分を伴う措置を止めるよう求めたい。

 問題になったのは都教育長が2003年に出した通達である。「国旗への起立や国歌斉唱の実施に当たり、各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」という内容だ。通達を受け、各校長は教職員に起立や斉唱を徹底させた。

 これに対して、都立高校などの教職員らが「強制は違憲」として、順次提訴に踏み切った。原告は401人に上る。

 難波孝一裁判長は、「国旗国歌は強制するのではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の趣旨であり、学習指導要領の理念」との解釈を示した。

 その上で、通達や職務命令は「教育基本法が禁じた教育への不当な支配に該当する」とし、「式での国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったりしない限り、教職員には国歌斉唱などを拒む自由がある」と、結論付けている。

 1999年に成立した国旗国歌法は「国旗は、日章旗とする」「国歌は、君が代とする」という2条だけの法律だ。成立時の国会答弁で当時の野中広務官房長官が「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と述べている。

 この種の裁判では異例の原告勝訴だ。反論も予想されるが、判決は国旗国歌法の制定時の説明も踏まえており、偏った主張とはいえない。

 「国旗国歌に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てるのは重要」と、述べている点にも注意を払いたい。要は国旗国歌を尊重しつつも、無理強いはいけない、というものだ。多様な価値観、民族が共生する社会を大切にする上でも重要な指摘である。

 文部科学省によると、日の丸・君が代をめぐり、全国の教育委員会から懲戒処分や訓告を受けた教職員は2000年から04年度までに延べ808人に上る。都道府県の教育委員会が、法の趣旨を曲げている現実が浮かび上がる。

 控訴審の判断いかんにかかわらず、教育委員会は強要を自粛するのが筋である。

信濃毎日新聞 2006年9月23日

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【国旗国歌判決】教育に強制は要らない

 入学式や卒業式で国旗国歌を強いられてきた全国の教職員には目の前が開ける思いではなかったか。

 教育現場における国旗・国歌の在り方を東京都立高校などの教職員が問うた訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は違憲として原告勝訴の判断を示し、斉唱しないことなどを理由とした処分を禁じた。

 「公共の福祉に反しない限り」との条件は付くものの、思想良心の自由を積極的に認め、行政による強制を排除したのが特徴だ。

 極めて妥当な判決だが、国旗国歌への正しい認識を持たせる教育は肯定している。要は教え方であり、教育本来の力への信頼が行間ににじんでいる。一審段階とはいえ、判決の趣旨を踏まえた対応が、行政や学校現場に求められる。

 教職員らが都と都教育委員会を相手に、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、大きな論点となったのは憲法との関係だ。

 判決は君が代、日の丸が戦前や戦中、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた、とし現在でも国民の間でその価値が中立的なものと認められるには至っていない、との見解を提示する。

 見解が想定するのは君が代、日の丸に対する異論の存在だ。それをどう見るかが問題になるが、判決は生徒に同調を求めないことなどを条件に、教職員の思想良心の自由は認められる、とする。少数意見を容認しつつ社会の多様性を保持する民主主義の理念に基づいている。

 こうした憲法観を前提に、判決は国旗・国歌と現行の教育行政との関係に言及する。対象となるのは教育基本法、学習指導要領、都教育長通達、校長の職務命令などだが、重視したのは教育基本法がうたう「不当な支配」の禁止だ。

 国旗国歌を強制する根拠の一つだった学習指導要領については、「大綱的な基準」と位置付けし、これを盾に教職員に国歌の斉唱、ピアノ伴奏を強いることはできないとする。

 指導要領の法的拘束力は学力テスト訴訟の最高裁判決で認められてはいるが、生徒に対する理論や理念の強制は認めていない。東京地裁の判断は、この判例とも矛盾しない。

 国の責任も

 地裁判決は、国旗国歌で各学校の裁量をほとんど認めていないとして都教育長通達は違法とし、通達に基づく校長の職務命令についても同様の判断をした。

 1999年に国旗国歌法が成立した際、当時の官房長官は「強制するものではない」と強調している。これが法制化の大前提だったはずなのに、文部科学省は学校現場での指導徹底を求め、教育委員会への働き掛けを強めた。徹底を求める職務命令は、広島、福岡などの各県でも出されている。

 石原都政下での強制ぶりは突出しているが、濃淡はあっても文部行政の影響は広範囲に及んでいる。判決は都の教育行政ばかりでなく、国の姿勢も裁いたといえる。

 もっとも判決は国旗・国歌を教えることを否定してはいない。それどころか「正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てることは重要なことだ」と指摘する。

 国旗国歌の強制はしないが、教えることの大切さは認める。そんな姿勢から導き出されるのは「自然のうちに定着させる」ことへの強い期待感である。

 われわれもこうした教育の在り方をこの欄で主張してきた。理想論との見方もあろうが、奥の深い教育に強制がなじまないのは確かだ。

高知新聞 2006年9月23日

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国旗掲揚・国歌斉唱 権力による強制は行き過ぎだ

 国旗掲揚や国歌斉唱をめぐる訴訟で東京地裁が従わない教職員への東京都教育委員会の処分、強制を違法だとする判決を言い渡した。

 生徒に同調を求めないなどの条件付きだが、判決は「教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想・良心の自由を侵害する」と述べている。注目される判決だ。

 多様な世界観や相反する主張を互いに理解し、尊重することを求める憲法の要請は、国旗国歌への対応でも同じだと判断したからだ。行政が権力を背景に処分や強制をするのは行き過ぎというべきであろう。

都教委が服務を通達

 この訴訟は、都教育長が2003年10月に「入学式、卒業式などで国旗に向かって起立し、国旗掲揚、国歌斉唱を実施するに当たり、教職員が各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」との通達を出し、各校長が職務命令で教職員にピアノ伴奏などを強制したことから、教職員らが東京都と都教委を訴えていたものだ。

 東京地裁は、既に退職した教職員の訴えは認めなかったが、現職については国歌斉唱などの義務がないことを認めた。またピアノ演奏や斉唱をしないことなどを理由に戒告、減給、停職などの処分をすることも禁じた。

 国旗、国歌を尊重することが国民として期待される態度であることは言うまでもない。判決も「生徒に日本人としての自覚や愛国心を養い、将来国際社会で信頼される日本人として成長させるために、国旗国歌への正しい認識を持たせ、尊重させる態度を育てることは重要」との見解を示しており、国旗、国歌の存在を認めている。

 しかし、この訴訟での問題は国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかということではない。地方自治体という公権力が自ら決めた指針というやり方だけによって敬意を外部に表すように強制することの是非だ。

公立校ほぼ100%

 国旗国歌法は1999年に成立、施行され、第1条で国旗は日章旗とする、第2条で国歌は君が代とする―の2条だけの法律だ。成立の際、政府はわざわざ「義務づけを行うようなことは考えていない」との見解を示した。

 現在、入学式・卒業式での日の丸掲揚や国歌斉唱は公立校ではほぼ100%の実施率だ。だが、文部科学省と教育委員会はなお一層の徹底を教育現場に求めており、このことで「思想・良心の自由に反する」とする教職員との対立が続いている。2003年以降、東京都教委などは職務命令に従わない教職員を次々と処分してきた。このことは教育への不当な支配だといえる。

 日の丸にも、君が代にも、明治以来の歴史の思い出が染み込んでいる。戦前の教育や戦争の惨禍を思い起こす人がいるのも事実だ。宗教的な理由から反発を覚える人もいるだろう。受け止め方は個人の世界観、主義で異なる。

 大事なのは誰もが自分の心の内を他人に尊重してほしいと願っていることだろう。過去の苦い歴史の教訓があるからこそ、憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と為政者を縛っているのだ。

 自民党の新総裁に就任した安倍晋三氏は保守的な立場からの教育改革を主張し、憲法と一体となっている教育基本法の改正を主張している。教育問題は新政権の中心課題になりつつある。この判決を無視すべきではない。

宮崎日日新聞 2006年09月23日

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[日の丸・君が代]思想良心の自由は侵せぬ

 都立学校の入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱に、東京地裁は「国旗に向かって起立したり、国歌を斉唱したりする法的な義務はない」との判決を言い渡した。

 判決は「懲戒処分してまで起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」と断じ、「斉唱などを強制する都教育長通達や各校長による教職員への職務命令も違法」と判断した。

 個人の自由を尊重する民主的な社会では、宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体が行政上の権力を背景に安易に踏み込むべきではない―という考えであり、今後の国旗、国歌の在り方を明確に示した判決といえる。

 文部科学省によると、入学・卒業式での日の丸掲揚や君が代斉唱をめぐり、指導に従わなかったとして全国の教育委員会から懲戒処分や訓告を受けた教職員は二〇〇〇―〇四年度の五年間で延べ八百八人に上る。東京都では起立斉唱を求めた〇三年十月の通達以降、三百四十五人が懲戒処分となるなど突出した。

 東京地裁は、既に退職した教職員の訴えは認めなかったが、現職については国歌斉唱などの義務がないことを認めた。また、ピアノ演奏や斉唱をしないことなどを理由に戒告、減給、停職などの処分をすることも禁じた。

 この判決に対しては、国旗国歌法がある以上、国旗と国歌に敬意を払うのは当然で、それを拒否した場合に処分を受けるのも当然ではないかという反論があるだろう。都教委側は控訴する意向を示しており、上級審で争われる見通しだ。

 しかし、ここでの問題は、国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかということではない。地方自治体という公権力が、自ら決めた一定のやり方だけによって敬意を外部に表現するよう強制することの是非だ。

 判決は「国旗と国歌は強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨で学習指導要領の理念でもある」と述べている。

 その上で「式での国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗、国歌の拒否をあおったりしない限り、教職員には国歌斉唱などを拒む自由がある」と結論付けた。

 自民党の新総裁に就任した安倍晋三氏は、保守的な立場からの教育改革を主張し「愛国心」を盛り込んだ教育基本法改正に強い意欲を示している。今回の判決は、その改正論議にも一石を投じたといえよう。

 安倍新政権は、判決が投げ掛けた問題意識を忘れてはならない。

沖縄タイムス 2006年9月23日

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国旗国歌判決・異なる意見も認めるべき

 東京地裁は、東京都立高校の教職員らが都と都教育委員会を相手に、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことなどの確認を求めた訴訟で、国旗国歌の強制は違憲とし、斉唱しないことを理由とした処分を禁じる判決を言い渡した。

 「起立したくない教職員や斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは、憲法が定める思想良心の自由を侵害する」と判決では述べている。

 民主的な社会では、個人の自由が尊重されるべきで、宗教や思想、信条など、個々人の心の中に国や自治体が安易に踏み込むべきではない。

 判決は、行政上の権力を背景に、職務命令によって「強制」と「処分」を繰り返してきた東京都教委の行き過ぎを戒める画期的な判決だと言える。

 裁判は、2003年10月に都教育長から出された「入学式、卒業式などでの国旗への起立、国歌斉唱の実施に当たり、各校長の指示に従わない場合は服務上の責任を問われる」との通達を出し、各校長が職務命令などで教職員にピアノ伴奏などを強制。都立高校と盲・ろう・養護学校の現・元教職員の原告は04年1月以降、順次提訴した。

 1996年ごろから公立学校の教育現場では、日の丸掲揚、君が代斉唱が当時の文部省の指導で事実上、義務付けられるようになり、99年には「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が施行された。

 判決で東京地裁は、元教職員の訴えは認めなかったが、現職については国歌斉唱などの義務がないことを認め、ピアノ伴奏や斉唱をしないことを理由にした処分も禁じた。

 判決については、国旗国歌法がある以上、それに敬意を払うのは当然で、拒否した場合、処分を受けるのも当然だと言う意見もあるだろう。

 しかし、問題は地方自治体が自ら決めた一つのやり方だけで、敬意を法的に強制しようとすることへの是非だ。

 憲法は19条で「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」とし、多様な世界観や相反する主張を互いに理解し、尊重することを求めている。このことから、例え少数であったとしても内面の自由は尊重されなければならない。

 スポーツの国際試合での国歌斉唱は、強制とは無縁である。愛着とは、長年にわたって自然とはぐくまれてくるものだ。敬意は「強制」することで生まれるものではないはずだ。多様な意見を尊重することが民主的な社会だ。

琉球新報 2006年9月23日

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射程  「教育再生論」にも影響する判決

 東京都立高校などの教職員が都と都教委を相手に、入学式や卒業式などで国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は強制は違憲として請求を認めた。

 国歌斉唱は教師の職務か「内心の自由」にまかせる問題かという論争の対立は根深い。ただし、熊本県など多くの地域では、教委も教師も暗黙の内に対立を避けているのが実態だ。都教委のように処分まで行うと、対立が表に出る。

 都教委が強硬姿勢を取る背景には、石原慎太郎知事のリーダーシップの影響もあろう。また、東京都内の公教育が新自由主義的なスタイルを導入したこととの関係も否定できまい。東京では、都立高校の通学区は全廃され、小中学校でも学校選択制を導入するところが増えている。

 教育を受ける側の自由を認め、同時に行う側の自由も認めるならば、教育は管理できない。行う側については厳しく統制し評価するのが新自由主義の特徴だ。学校式典での国歌斉唱に対する態度は、教師を評価するための「踏み絵」として使いやすいものだろう。

 安倍晋三新自民党総裁が唱える「教育再生論」や教育基本法改正論にも、新自由主義的な色彩が濃い。今回の東京地裁の判決が「冷や水」を浴びせた、という見方もある。小泉純一郎首相は「法律以前の問題じゃないですかね」と述べたが、例によって問題をはぐらかす言い方である。教師の管理を強化すれば教育が良くなる、という発想の底の浅さは何度でも指摘しておきたい。(木)

 熊本日日新聞 射程 2006年9月23日

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やはり強制は行き過ぎだ 国旗国歌判決

 入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務はあるのか。

 東京都立高校などの教職員が都と都教委を相手取って、そうした義務はないことの確認を求めた訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は許されないとして原告全面勝訴の判決を言い渡した。斉唱しないことなどを理由とする教職員の処分を禁じ、損害賠償も命じた。

 国旗国歌法の制定後、教育現場で広がる強制を「違憲、違法」と断じた初の司法判断である。憲法や教育基本法の理念に照らして、教育行政による強制を戒める判決であり、都教委だけでなく、全国の行政、教育関係者は行き過ぎた指導や処分がなかったかどうかを再点検すべきだろう。

 都教育長は2003年、「国旗への起立や国歌斉唱に当たり、校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」という通達を出し、翌春にはその職務命令に反したとして約250人を戒告や減給処分にした。

 職務命令に従わない教職員の処分はその後も続き、今回の訴訟で原告数は400人を超えた。強制に反発する違反と処分が繰り返される異常な状況だった。

 判決は「懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは少数者の思想良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置である」と認定し、「国旗、国歌は国民に強制するのでなく、自然のうちに定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨であり、学習指導要領の理念」と判断した。

 国旗国歌をめぐっては国民の間にさまざまな意見がある。個人の価値観や歴史観とも絡み合う問題だ。

 国歌国旗法が成立した1999年の国会審議でも、賛否両論があったことを思い出したい。

 当時の小渕恵三首相は「今回の法制化の趣旨は国民の間に広く定着している国旗と国歌を成文法で明確に規定するもの」であり、「国旗の掲揚等に関し義務づけは考えておらず、国民の生活に何ら影響や変化が生ずることとはならない」と政府の見解を説明していた。

 国民に広く定着したとしても、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人も少なからずいる。「こうした人の思想良心の自由も公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」とした今回の判決は、少なくとも当時の政府見解の延長線上にあるという見方もできるだろう。

 判決はまた、「国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てるのは重要」と指摘する一方で、都教委の通達や指導は教育基本法が規定する「不当な支配」に該当し違法−と認めた。

 都教委は控訴する意向という。この訴訟は上級審でなお争われる見通しだが、国旗掲揚や国歌斉唱は決して強引に押しつけるべきものではないという判決は、私たちも重く受け止めたい。

西日本新聞 2006年9月23日

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国旗国歌訴訟判決/「強制」はやはり行き過ぎだ

 卒業式や入学式で国旗への起立や国歌斉唱をしなかったなどとして、大量処分された東京都の教職員が起こした訴訟で、東京地裁は原告側ほぼ全面勝訴の判決を出した。

 国旗、国歌は強制すべきものではない。起立、斉唱しない教職員を処分まですることは行き過ぎだ―とする内容だ。

 憲法が保障する思想・良心の自由、教育基本法で定める「不当支配の排除」を明確に示した判断として評価したい。国や東京都教育委員会は判決を重く受け止めるべきだ。

 都教委による大量処分の発端となったのは、2003年10月に都教育長が出した通達だ。「国旗への起立や国歌斉唱で校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とした上で、国旗掲揚の具体的方法などを詳細に指示した。

 これを受けて、起立や斉唱をしなかったという理由で処分が相次いだ。卒業・入学式における国旗国歌問題で、03年度、04年度の2カ年に懲戒処分を受けた教職員は全国で319人いるが、このうち東京都は293人で9割以上を占める。停職、減給の重い処分も含まれている。

 問題は、公立学校の教職員に国旗、国歌への起立、斉唱を拒否する思想・良心の自由が認められるかどうか、だった。

 児童生徒に対する指導と自らの行動とが乖離(かいり)するのではないか、あるいは、児童生徒に対しても拒否することを教えるのではないか、といった批判は当然ある。

 判決でも、起立、斉唱しないことを奨励しているわけでは決してない。式典を妨害するような行為は認めていない。

 教職員に対し起立や斉唱の拒否の自由を一律に認めたというより、各校の裁量を一切認めずに力ずくで統制しようとする都教委の強権的な姿勢が問われたと見るべきではないか。

 国旗国歌法は、卒業式での君が代斉唱をめぐる対立の渦中で広島県の高校校長が自殺したことを大きなきっかけに、1999年に成立した。

 国会答弁で当時の小渕恵三首相は「法制化に伴い、国民に対し国旗の掲揚、国歌の斉唱等に関し義務付けることは考えていない」と述べ、強制するものではないことを強調した。

 だが教職員による国旗国歌の指導義務については、政府も当初から「職務上の命令に従って教育する責を負う」としており、文部科学省は指導を強化。卒業・入学式での国旗掲揚や国歌斉唱は現在、公立校ではほぼ100%実施されている。

 臨時国会で本格審議入りする教育基本法改正案も、国旗国歌問題の行方に深くかかわる。

 小泉政権の下、政府の方針に対する異論を許さない、一定の枠からはみ出すことを許さないといった風潮が強くなっている。教育基本法改正案は、教育の場における管理、指導の強化をさらに進めそうだ。

 今回の東京地裁の判決は、こうした社会全体の動きにも向けられたものと受け止めるべきではないか。

河北新報 2006年9月23日

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国旗国歌の強制 違憲判決の重みをかみしめよ

 東京地裁は、入学式や卒業式での国旗国歌の強制は思想良心の自由を定めた憲法に違反するとの判決を出した。

 裁判は東京都立高校などの教職員らが都と都教育委員会を相手に訴えていた。判決は、君が代斉唱などを強制する都教委の通達や各校長の教職員への職務命令は違法と判断した。

 国際的なスポーツ大会では国旗掲揚や国歌斉唱がつきものだ。日本の選手やチームが勝利した後に日の丸が掲揚されたり、君が代が演奏されたら、誰もが感激を覚えるはずだ。

 しかし、それは自然にこみ上げる感情だから尊いのであり、強制されたのでは興ざめだ。ましてや心豊かな子どもたちを育てる教育現場にあって、教師に強制するのはなじまない。

 判決はそんな国民の常識的な感覚に合致するはずだ。その意味で当然といえる判決であり、評価したい。

 一九九九年八月に国旗国歌法が成立、施行されたのを受け、都教委は二〇〇三年十月に通達を出した。卒業式や入学式などで日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務づけ、通達に基づく校長の職務命令に教職員が従わない場合は責任を問われるとした。

 その結果、都教委職員が各学校の式典に出向き、教員の誰が起立しなかったか、歌を歌わなかったかを調査するという異常事態になった。従わなかった教員は処分した。

 こんな軍隊のような上位下達が教育現場にふさわしいわけはない。通達以降、校長は都教委の方針を伝えるだけのロボットみたいな存在になったという。教員は式典のたびに踏み絵を踏まされる心境だろう。

 子どもの教育にも良い影響があるはずがない。学校は多様な個性と自主性をはぐくむ場のはずだ。判決を機に、学校内の風通しを良くし、伸び伸びとした雰囲気を取り戻したい。

 県内の学校では以前から日の丸掲揚や君が代斉唱が定着しているため、職務命令などによる指導は行われていない。一方、共同通信の調べでは東京以外にも滋賀、広島、鳥取、福岡の各県が君が代斉唱などの職務命令を出して徹底を図っている。

 広島県や福岡県では過去に、君が代を歌うときの声の大きさまでチェックしていた市があった。あきれるほかはない。

 今回の判決は「国旗国歌は強制するのではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが法の趣旨であり、学習指導要領の理念」と明快に断じた。さらに、国旗国歌を強制する通達や職務命令は「教育基本法が禁じた教育への不当な支配に該当する」と認定した。

 教育現場に無用の混乱を起こさないために、国、都など各自治体は判決の意味を十分かみしめなければならない。

 判決は、教育基本法改正など教育改革を重点政策に掲げて発足しようとしている安倍晋三政権にも大きな影響を与えずにはおかないだろう。新政権も判決を謙虚に受け止め、改革の中身を再吟味すべきである。

愛媛新聞 2006年9月23日

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国旗国歌判決 強制に「待った」掛けた

 東京都立高校などの教職員ら四百一人が都と都教育委員会を相手に、入学式などで国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は国旗国歌の強制は許されないとの判決を下した。

 教育基本法では、教育への不当な支配を禁じている。妥当な判断といえるのではないか。

 判決で難波孝一裁判長は「日の丸、君が代は終戦まで皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱で、現在も宗教的、政治的にその価値が中立的なものと認められるまでには至っていない。世界観、主義、主張から国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人は少なからずいる」と指摘。

 「強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の趣旨であり、学習指導要領の理念だ」との解釈を示し、都の通達や職務命令を教育への不当な支配であると認定した。

 国旗国歌法は一九九九年に成立した。当時の小渕恵三首相は国会で、「国旗国歌の義務づけは考えていない」と答弁するなど、強制しないことが再三にわたって確認されている。

 国旗、国歌に敬意を表するのは当然のことだが、異なる意見を排除しないのは民主主義社会の前提だ。強制は国旗国歌の定着を阻害する懸念さえある。

 学校での強制は、東京都のほか滋賀など四県が行っており、広島県では昨年度以降の入学式などで計二十四人を処分している。

 この問題については、複数の裁判所で異なる判断が下されている。

 しかし、教職員の思想と良心の自由の尊重にかかわるものであり、行政と教育関係者は、今回の判決を重く受け止めるべきであろう。

徳島新聞 2006年9月23日

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国旗国歌訴訟/「行き過ぎ」が指弾された

 卒業式や入学式で「日の丸」に向かって立ち、「君が代」を歌うよう教育委員会が求め、従わない教職員は処分する。

 東京都で繰り返される事態に違和感を抱いていた人は少なくないのではないか。

 都立高校などの教員らが起立、斉唱の義務がないことの確認などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は、国旗国歌の強制は「違憲・違法」との判断を示した。

 起立、斉唱を強制する都教委の通達などは教育基本法が規定する「不当な支配」に当たり、思想良心の自由(憲法一九条)を侵害する-判決は明快に述べている。

 懲戒処分までして迫る都教委を「行き過ぎ」と厳しくいさめたものであり、この問題をめぐる他の訴訟にも、大きな影響を与えずにはおかないだろう。

 これまでの都教委の対応をみれば、たしかに突出した印象はぬぐえない。

 「起立、斉唱で校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」との通達を出したのは二〇〇三年十月。以来、応じなかった教員らの処分が続き、今年までに計三百四十五人にのぼった。

 二〇〇〇-〇四年度の五年間に全国で処分された数が八百八人というから、東京都の締め付けぶりが際立つ。

 学習指導要領は一九八九年、国旗掲揚と国歌斉唱を「望ましい」から「指導する」に改定された。拒む自由を認めて指導できるのかという指摘があるが、判決は国旗国歌を軽く考えているわけではない。

 日本人としての自覚や愛国心を養い、国際社会で信頼を得るよう成長させるには「国旗国歌への正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てることは重要」とする。

 ただ、過去の歴史的な経緯から日の丸、君が代になお抵抗感をもつ人がいるのも現実だ。強制によって教育現場にとげとげしい対立が生まれている状況を見れば、式典の妨害などにならない限り、少数者の思想良心の自由は尊重されるべきとした判断には説得力がある。

 オリンピックやサッカーW杯で私たちは日の丸を振り、君が代を唱和する。だれかに強制されて、あの光景は生まれない。「自然のうちに定着させるのが国旗国歌法の趣旨であり、学習指導要領の理念」という指摘は、多くの国民の思いと重なる。

 同法が成立した時、政府が「義務づけは考えていない」と強調したのも、そうした認識があったからではないか。

 東京都は控訴する考えを表明したが、まず今回の判決を受け止め、これまでの対応を真(しん)摯(し)に洗い直してみるべきだろう。

神戸新聞 2006年9月23日

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国旗国歌*違憲判決が鳴らす警鐘

 都立高校の入学式や卒業式で、日の丸に向かって教職員を起立させ、君が代の斉唱を強制することは、憲法に反する。東京都の教職員が起こした訴訟で、東京地裁がこんな違憲判決を出した。

 国旗掲揚、国歌斉唱の強制は、憲法が保障する思想・良心の自由に反し、教育基本法が禁じる教育の「不当な支配」に当たるという判断である。

 職務命令に従わないとして教職員を処分してきた都教委は、裁判所が示した憲法と教育基本法の理念を、冷静にかみしめるべきだろう。

 石原慎太郎都知事は控訴する意向を示した。しかし行政が、処分をちらつかせながら職務命令を振りかざす状況は、教育現場のあるべき姿とかけ離れている。都教委に求められるのは、通達を撤回し、教職員の処分を取り消すことではないか。

 教職員四百一人が起こした裁判の争点となったのは、都教委が二○○三年十月に出した通達の合法性だ。

 通達は《1》国旗は舞台の正面に掲揚する《2》式次第に「国歌斉唱」と記載し、教職員は起立する《3》ピアノ伴奏で斉唱するなどと、式典での国旗国歌の取り扱いを細かく規定している。

 通達に基づいて、都教委は、起立などを強いる職務命令を出すよう校長に指示し、従わない教職員を処分した。○三年度以降延べ三百四十五人が停職や減給などとなった。処分者数は、都だけで全国の九割を占める。

 判決は、都教委の通達や指導が「現場に裁量を許さず強制する」と批判した。教職員は、違憲・違法な通達や職務命令に従う義務はなく、「いかなる処分もしてはならない」と断じた。

 このような判決は、憲法や教育基本法の理念を踏まえ、ごく当たり前の判断を示したにすぎない。

 裁判で、都教委側は、現在の学習指導要領で、国旗国歌の指導を行うことを定めていることから、通達や指導は当然のことだと主張した。

 判決は、どのように指導を行うかについては、「各学校の判断に委ねられる」と、学校の裁量を認めた。行政の過度な介入に警鐘を鳴らしている。

 「日の丸、君が代」には、国民の間で多様な意見があるのも事実だ。五輪などで、日の丸を振り、君が代を口ずさむのは、だれに強制されたものでもない。判決が、自然な形で「国民への定着」を図るべきであると指摘しているのもうなずける。

 「国旗国歌法」が制定された一九九九年、政府は「強制しない」という国会答弁を繰り返した。それなのに、東京都では逆の動きが加速した。

 道内では美唄市で今春、卒業式で教職員を起立させるためにいすを置かない小学校も出た。道教委や市町村教委は、学校現場への高圧的な押し付けを慎むべきであろう。

北海道新聞 2006年9月23日

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国旗国歌訴訟判決 首をかしげざるを得ない


 東京都教育委員会が入学式や卒業式で国旗・国歌を教職員に強制するのは憲法違反と判断した東京地裁判決は、教職員の立場と職務をまったく考慮に入れず、一方的な判断を示したもので、不可解と言わざるを得ない。

 同判決は、教職員が国歌斉唱を拒否しても格別式典の進行を妨げることはなく、「国旗、国歌に対する正しい認識を持たせ、これを尊重する態度を育てるとの教育目標を阻害する恐れもない」と述べているが、この認識も間違っている。

 そもそも、他国のものも含めて国旗・国歌を尊重するのは、国民として当たり前のことである。それにもかかわらず、指導すべき教職員が学校行事で国旗にきちっと向き合わず、国歌も斉唱しないとなれば、児童生徒に誤った認識を持たせ、教育の妨げになることは明らかである。こうした状況を黙認すれば、学校教育の中で、法律やルールを守る大切さを教えることもできなくなるのではないか。

 あらためていうまでもなく、「日の丸」と「君が代」を国旗・国歌と定める法律が制定され、学習指導要領では、入学式や卒業式などにおいて国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導すると規定されている。国旗・国歌を尊重する態度を育てることの重要性は、東京地裁判決も指摘する通りであり、その責任を第一に担っているのが教職員である。

 私的なスポーツ観戦の場合などはともかく、入学式や卒業式という公教育の重要な行事の場と、それを行う教育公務員の立場を考えれば、国旗に対して起立し、国歌を斉唱するのは当然である。しかも地方公務員法は、職務遂行に当たって法令や規則、および上司の職務上の命令に従う義務を定めている。無論、教職員の思想・良心の自由は尊重されなければならないが、今回の判決は、思想・良心の自由と教職員の責務とのバランスに欠け、個の自由に偏り過ぎて結果として教職員の「職務放棄」を認めるに等しい。

 法律の趣旨と学習指導要領にのっとった都教委の指導を、教育基本法が禁じる「不当な支配」に当たるとした判断も腑(ふ)に落ちない。これでは教育行政の多くが不当支配として拒否されることになりかねない。

北國新聞 2006年9月23日

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「押しつけ」への戒めだ

入学式などで日の丸に起立せず、君が代を歌わない自由も認められる。東京地裁は教員らが起こした訴訟で明確に述べた。これまで「強制」と「処分」を繰り返してきた都教育委員会への戒めだ。

国旗国歌判決
そこまでしなくても…と、都教委のやり方に対して感じていた人々も多かったのではないか。

「都教委の一連の指導は、教育基本法一〇条(行政権力の不当介入の排除)に反し、憲法一九条の思想・良心の自由に対し、制約の範囲を超えている」

そう述べた東京地裁の判断は、「都教委の行き過ぎ」を指摘する画期的な内容だったといえる。

なにしろ、入学式や卒業式で、日の丸に起立せず、君が代を歌わなかった教員らへの処分は強引だった。

二〇〇三年十月に都教委は、「校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」という趣旨の通達を出した。それに基づき、〇四年春には、都立高校や都立盲・ろう・養護学校などの教員ら約二百五十人を戒告や減給処分にした。

さらに同年五月にも六十七人を厳重注意している。処分は毎年続き、〇五年春は六十三人、今年春にも三十八人の処分を数えている。

今回の訴訟で原告数が約四百人に上っていることにも、その“異様さ”がうかがえる。

君が代処分をめぐっては、昨年四月に福岡地裁が「減給処分は違法」という判断を出した。一方で、君が代のピアノ伴奏を拒否した東京都日野市立小学校の音楽教師の場合は、一、二審とも音楽教師側が敗訴した。判断の分かれる問題だっただけに、今回の裁判は注目されてきた。

その判決は「日の丸・君が代が軍国主義思想の精神的な支柱だったことは歴史的事実」と踏み込んだ。その点については、多様な意見はあろうが、「国歌斉唱などに反対する世界観や主張を持つ人の思想・良心の自由は、憲法上、保護に値する権利」としたのは理解できる。

サッカーやオリンピックで日の丸の旗を振り、君が代を口ずさむのは、誰に強制されたわけでもない。国旗とか国歌とは、もっとおおらかに考えていいのではないか。

問題とされたのは一律の「押しつけ」だ。一九九九年の国旗国歌法の成立時に、小渕恵三首相もわざわざ「新たに義務を課すものではない」という談話を発表していた。

それにもかかわらず、都教委が「強制」を繰り返すことへ、司法がストップをかけたのである。都教委は判決を厳粛に受け止め、これまでの高圧的な姿勢を改めるべきだ。

中日新聞 2006年9月22日

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国旗国歌判決 やはり「強制」はいけない

東京都立高校などの教職員が、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は、国旗国歌の「強制」は許されないとの判決を下した。斉唱しないことなどを理由とした処分も禁じ、都に損害賠償も命じた。懲戒処分まで行って国歌斉唱などを「強制」してきた都教育委員会を「行き過ぎ」だとして厳しく断罪した。教職員と生徒の思想良心の自由を最大限尊重した判決である。この問題については、複数の裁判所で異なる判断が下されているが、行政と教育関係者は、今回の判決を重く受け止めるべきである。

国旗国歌法が成立したのは一九九九年。国会では当時の小渕恵三首相が「国旗の掲揚および国歌の斉唱に関し義務づけを行うことは考えておりません」などと答弁していた。国旗国歌を「強制」しないことは何度も確認されていた。

五輪やサッカーのワールドカップなどを見れば分かるように、国旗国歌への愛着は、国民の自発的で自然な感情によるべきものではないだろうか。「強制」はむしろ、国旗国歌への愛着を妨げる恐れがある。

ところが実態はどうか。都教委は今春、卒業式で起立しなかったなどとして教職員を大量に処分。停職三カ月という重い処分もあった。処分を受けた教職員は「国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったり」したわけではない。「懲戒処分までして起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」とした今回の判決は説得力がある。

判決も指摘したように、国旗国歌については、国民の間にさまざまな意見がある。それは一人一人の歴史観や価値観と深く結びついた問題だ。単にマナーや規律の問題とは片付けられない。まして、少数意見を否定し「排除」するようなことはあってはならないはずだ。多数派とは異なる意見を持つ人々を尊重し、その自由と人権を守ってこそ、自由な民主主義社会だからである。

県内では、東京のように職務命令、それに基づく処分という状況には至っていない。しかし、県教委は各学校長に起立しなかった教職員の氏名報告を求め、強く指導する方針を示していた。今回の判決は、県教委の対応にも影響を与えよう。思想良心の自由という観点から、これまでの対応の再考が求められる。

また、県立学校の教職員百五十二人(「神奈川こころの自由裁判をすすめる会」)が、国歌斉唱などの義務のないことの確認を求める訴訟を横浜地裁に起こしており、その結果も注目される。

今回の判決を契機に、思想良心の自由の尊さについて、活発な論議を期待したい。

神奈川新聞 2006年9月22日

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国旗掲揚・国歌斉唱 処分や強制は行き過ぎ

東京地裁が「都立学校の教職員には入学式や卒業式で国旗に向かって起立したり、国歌を斉唱したりする法的な義務はない」とする、注目すべき判決を言い渡した。

判決は「起立したくない教職員や斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想良心の自由を侵害する」と述べている。個人の自由を尊重する民主的な社会では、宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体のような行政機関が安易に踏み込むべきではない。行政上の権力を背景に処分や強制をするのは行き過ぎというべきだ。

この事案は、都教育長が2003年10月「入学式、卒業式などで国旗に向かって起立し、国旗掲揚、国歌斉唱を実施するに当たり、教職員が各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」とする通達を出し、各校長が職務命令で教職員にピアノ伴奏などを強制したケースだ。

東京都と都教育委員会を相手に訴えていたのは都立高校などの教職員、元教職員らだった。東京地裁は、既に退職した教職員の訴えは認めなかったが、現職については国歌斉唱などの義務がないことを認めた。またピアノ演奏や斉唱をしないことなどを理由に戒告、減給、停職などの処分をすることも禁じた。

この判決に対しては、国旗国歌法がある以上、国旗と国歌に敬意を払うのは当然で、それを拒否した場合に、処分を受けるのも当然ではないかという反論があるだろう。国旗、国歌を尊重することが、国民として期待される態度であることは言うまでもない。判決も「式典で国旗を掲げ、国歌を斉唱することは有意義」と明言している。

しかし、ここでの問題は、国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかということではない。地方自治体という公権力が、自ら決めた一定のやり方だけによって敬意を外部に表現するよう、法的に強制することの是非だ。

国旗、国歌への愛着は、国民の間で長年かけてはぐくまれていく。判決は「国旗と国歌は強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨で学習指導要領の理念でもある」と述べている。

しかし日の丸にも、君が代にも、明治以来の歴史の思い出が染み込んでいる。それを見、それを聞くと、戦前の教育や戦争の惨禍を思い起こす人がいるのも事実だ。宗教的な理由から反発を覚える人もいるだろう。個人の世界観、主義などによって、受け止め方は異なってくる。しかし大事なのは、誰もが自分の心の内を他人に尊重してほしいと願っていることだろう。

例え少数者であっても心の自由は尊重されなければならない。それを多数者が踏みにじってきた歴史の教訓があるからこそ、憲法19条は「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と為政者を縛っている。

自民党の新総裁に就任した安倍晋三氏は保守的な立場からの教育改革を主張し、教育問題は新政権の中心課題に浮上しつつある。しかし改革論議をしていくとき、この判決が投げ掛けた問題意識を忘れてはならない。

君が代は日本の古歌だから笛で伴奏するのもいいだろうし、クラリネットの伴奏でもよいではないか。音楽教諭にピアノでの伴奏を義務付けるなど、“勇み足”というしかない。

岐阜新聞 2006年9月22日

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国旗国歌判決 「強制は違憲」明確に断

国旗の掲揚や国歌の斉唱は義務ではない、と明確に断定した。画期的な判決である。

東京都立高校などの教職員四百一人が、都と都教委を相手取り、入学式や卒業式で国旗に向かって起立したり、国歌を斉唱する義務がないことの確認を求めた訴訟。東京地裁はきのう、義務はないと認め、強制は「違法、違憲」と断じて、賠償を命じた。

旧文部省の斉唱の徹底通知などをめぐり、職務命令に従わず処分を受けた教職員が全国で起こしている同様の訴訟にも、大きな影響を与える判決といえる。

訴訟は二〇〇三年十月、都教育長が「国旗への起立や国歌斉唱で各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」と通達を出したのが発端。校長は職務命令で国歌斉唱などを強制した。

判決で難波孝一裁判長は実に明確な判断を示している。

日の丸や君が代について、「明治から終戦まで、軍国主義思想などの精神的な支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在も国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」とした。そのうえで「処分までして起立、斉唱させることは思想良心を侵害し行き過ぎた措置」と言い切った。

つまり、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する「思想、良心の自由」は「憲法上、保護に値する権利」というわけだ。それに反する強制は一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強いるに等しく、教育基本法の「不当支配」に当たる、と違法性を認めている。国旗国歌法の本質を解析した判決である。

全国では、一九八五年に旧文部省が公立学校に君が代斉唱の徹底を通知。学習指導要領に基づいた職務命令に従わない教職員を処分したことから、訴訟が相次いだ。

特に広島県内では九八年の「是正指導」を受けて国旗掲揚や国歌斉唱の徹底が叫ばれ、〇一年から斉唱の声量報告も求められた経緯がある。指導の二年後から国歌斉唱の実施率は100%になった。

しかし、こうした姿勢が「学校管理や統制を強める手段になる」との指摘があったのも事実だ。本来、子どもの能力や心を育てるはずの学校運営が教員らへの過度の「監視」になってはいけまい。

国旗国歌法が施行されて七年になる。国旗、国歌の意味や指導の在り方を議論することが置き去りにされ、管理だけ進むようでは本来の教育現場ではない。判決はそうした指摘も含んでいる。

中国新聞 2006年9月22日

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自民党総裁選*教育の未来が見えない

子どもをめぐる悲惨な事件が相次いでいる。いじめや校内暴力も後を絶たない。子どもの学力低下も指摘されている。今の学校教育がこれでいいと思っている人は少ないだろう。

自民党総裁選の各候補も、「学校教育の再生は待ったなし」と強調している。問題は、改革の手法と方向だ。

最有力の安倍晋三官房長官の公約には、教育内容を国家が管理する傾向を強めるような政策が並んでいる。

各候補の論議もかみあわず、多くの国民が納得できる形で教育改革の中身が煮詰められたとは到底いえない。

公教育の未来をどのように描くのか。その理念があいまいなまま、教育基本法の改正など一連の教育改革が進んでいくことへの懸念がぬぐえない。

安倍氏が重視するのは、「学力」と「規範意識」の向上だ。例えば、全国学力調査を実施し、成績の悪い学校の教員を交代させるという。国の監査官が、学校の管理方法をチェックする学校評価制度も公約に盛り込んだ。

教員の資質向上のため、十年ごとに更新を義務付ける教員免許制度の導入も提言している。著書「美しい国へ」のなかでは、「ダメ教師には辞めていただく」と踏み込んだ。

一連の改革案は、文部科学省も検討していたが、反発の声もあり、小泉政権下で足踏みしていた政策だ。教育への国家の関与を強めたいという政治的意志が透けて見える。

安倍氏は「トップダウンで決断し、実行する」と、教育改革に強い意気込みを示している。首相直属の「教育改革推進会議」の創設も打ち出した。

首相の指導力は大切だが、個別の教育政策では賛否が分かれる。例えば教員免許制の導入は、教員の活動を委縮させると指摘されている。

学校評価を徹底すれば、他人の評価ばかり気にする教師が増え、学校が創意工夫を凝らす余地を少なくしてしまうことも懸念される。

画一的な教育内容を押し付け、偏差値中心の評価を進めれば、子どもと教師の信頼関係も揺らぎかねない。

論戦では、麻生太郎外相が義務教育の前倒しと情操教育の充実、谷垣禎一財務相が「地域の教育力の再生」を掲げている。各候補が持論を一方的に主張するだけで、論議が空回りしていることも残念だ。

最も議論が足りないのは、総裁選後の国会で焦点となる教育基本法の改正問題だ。麻生氏が、「(憲法改正より)教育基本法改正の優先順位が高いかな」と述べた程度だ。

法改正には「国を愛する心」の取り扱いをめぐって批判も多いが、本格的な論議は国会でということだろう。

法改正が結党以来の悲願だというなら、各候補が何も訴えようとしない姿勢にも首をかしげざるをえない。

北海道新聞 2006年9月18日

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教員免許更新制 問題点をさらに議論せよ

学校の先生の免許が更新制になりそうである。文部科学相の諮問機関、中央教育審議会のワーキンググループ(作業部会)が現職教員にも適用する案をまとめた。中教審は教員養成部会の審議を経て今月中に答申を出す。文科省は二〇〇七年度の通常国会で法改正を目指したいという。

制度が導入されると、小中高の教員は十年ごとに免許の更新というハードルを越えなければならない。更新できるかどうか、教員としての適格性や使命感、責任感などが問われるわけである。

授業がきちんとできなかったり、児童・生徒とうまく接することが苦手な先生が増えている。文科省によると、指導力不足と認定された教員は全国で五百六十六人(〇四年度)。教職を去った先生も百十二人に上った。生徒へのいたずらなど不祥事も増えている。

それ故、更新制の導入は、最善とは言えないまでも教育と教師への信頼を取り戻す方策の一つではあるだろう。「現在の免許が終身有効なのは既得権益であるが、絶対の不可侵のものではない」と文科省はいう。

現行の制度では免許は生涯有効である。これについて中教審は昨年十二月の中間答申で更新制の導入を提言していた。当初はこれから教員になる人が対象だったが、文科省は「それでは対象が限定される。教職現場での中核である現職を外せば教育の信頼性が確立できない」とした。

だが、問題点もある。中教審自体、〇二年には更新制度導入は時期尚早としていた。今の制度の下で免許を取った現職教員は百九万人。事後の適用は法的に問題が残る。現職は免許失効の可能性があることを取得の前提にしていないからである。身分の喪失につながる恐れがある。

免許を持ちながら教職に就いていない人はざっと四百万人に上る。これらの人の免許が失効した場合の取り扱いも課題である。また、制度導入は教育問題の解決と更新との結び付きが薄いことなども指摘できる。

中教審は免許の有効期間を原則十年としている。更新は大学などで行う講習の修了(二十〜三十時間)を条件にしている。文科省は「客観性の確保ができる」「免許が失効しても必要な講習を修了すればあらためて免許が取得できる」などを更新制の合理性確保の理由として挙げた。「教員としての資質は時代の進展に応じて更新されるべきものだ。子供を教える知識、技能は免許取得後も変化している」との態度を取っている。

しかし、大学の講習だから合理性があるというのは少し説得力に欠けてはいないか。教員としての適格性、専門性、指導力、社会性などを判定して免許を更新するというが、これも容易なことではない。もっと議論が必要だろう。

神奈川新聞 2006年7月3日

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北海道新聞社説 2006年7月3日
教員免許更新 資質向上につながるか

いったん免許を取れば一生の間通用する教員免許を、十年ごとに更新する制度の導入を柱とする中央教育審議会教員養成部会の答申案がまとまった。文部科学省が、数年後からの実施に向けて検討を開始するという。

「教員の資質を高める」というのが導入の理由だ。しかし、更新の適否が都道府県教育委員会の恣意(しい)的な判断に委ねられる懸念がぬぐいきれないうえ、教員の日常の活動を鋳型にはめてしまう心配もある。

教育現場での管理強化を招きかねないような拙速な制度導入には賛成できない。中教審は、もっと時間をかけて審議を重ねるべきである。

更新制は、教員としての適格性や専門性を評価する。三十時間の更新時講習を修了できなければ教員免許を失効する。ただ、「回復講習」を受ければ再授与の申請は可能になるという。

対象者は、全国で約百十万人の現職教員で、大学で単位を取れば取得できる従来の教員免許のあり方を、根本から見直す大きな変化となる。

問題は、制度導入の目的があいまいなことだ。社会の変化に応じて、教員に高い資質や能力が求められていることは確かである。

しかし、教員の能力を高めるというなら、中教審自身が一九九○年代から主張してきたように、大学の教職課程での教員養成制度の充実や、現職教員の研修制度を強化するのが本筋であろう。今、どうしても更新制が必要というわけではないはずだ。

制度の運用に当たって、更新の適否を、だれがどのような基準に基づいて判断するかという難問もある。

結局は、都道府県教委が、気にいらない教員を振り落とす手段として利用するのではないか。そんな反発が、北教組などからも持ち上がっている。

中教審が更新制導入を答申する背景には、教員に対する社会の視線が厳しくなっているという事情がある。

知識や指導力が足りず、教え方も高圧的など、教師として「不適格」と判定された教員は、全国で五百六十六人(二○○四年度)を数え、五年前に比べほぼ十倍増となっている。

ただ、不適格と判定された教員については、降任や免職などの制度で対応するという地方公務員法に基づいた規定がある。更新制の導入と関連法律との整合性をどのようにしてとるかという問題も残っている。

教育現場には、「教員に緊張感を与え、職能を高める」(全国連合小学校長会)という賛成意見もあり、賛否両論が起こっている。

中教審は最終答申をまとめる前に、十分に審議を尽くすべきである。文科省も、拙速な導入は教育現場を混乱させるだけだということを再認識すべきだろう。

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熊本日日新聞社説
通常国会閉幕 重要法案煮詰まらないまま

小泉政権では最後となる通常国会が十八日に閉会する。五年間に及ぶ「構造改革」の総仕上げとなる舞台で、小泉純一郎首相がどんな手腕をふるうのか注目されたが、教育基本法改正案や国民投票法案などの重要法案は軒並み先送りされ、肩透かしの結末となった。

政府・与党が今国会で最重要法案と位置付けていたのは行政改革推進法案。国家公務員の5%以上純減や政府系金融機関の統合・民営化などを盛り込んだ同法案の成立で、小泉政権が目指す「小さな政府」へ一歩踏み出した。

しかし、教育基本法改正案をめぐっては「愛国心」をどう盛り込むかで自民、公明の与党内で意見が対立。国会には民主党も対案を提出したが、論議は煮詰まらないまま平行線に終わった。

憲法改正の手続きを定める国民投票法案も、与党と民主党がそれぞれ法案を提出。憲法施行から五十九年目にして、初めて改憲に向けた手続き法案が国会の場に持ち込まれたものの、実質的な審議には入れなかった。

いずれの法案も戦後日本が歩んできた国のありようを変えるものだ。与党が数の力に頼って、今国会で性急に成立させる性格のものではない。昨年の衆院選で圧勝したとはいえ、争点として明確に掲げたのは「郵政民営化」だった。教育基本法改正一つとっても、国民の審判を問うべきものと言えよう。

国会運営を見ていて気になったのは、小泉首相が重要法案の成立にどれほど熱意を持っていたかという点だ。郵政民営化で燃え尽きたのか、国会答弁も淡泊でリーダーシップを発揮した印象は薄い。「司令塔不在」もあり、巨大与党の足元はおぼつかなかった。

その最たるものが、「共謀罪」の新設を柱とした組織犯罪処罰法改正案をめぐるドタバタ劇だろう。共謀罪については「思想の処罰につなりがりかねない」との批判も強い。成立を焦った与党は、あろうことか「民主党案丸のみ」の奇策に出たが、結局は持ち越しとなった。

防衛庁を「省」に昇格させる法案にいたっては閉幕直前に提出。憲法にも絡む問題を駆け込みで提案するなど、政権末期症状ともいうべき迷走ぶりだ。

国会審議の空洞化は民主党にも責任がある。ライブドア事件や耐震強度偽装問題、米国産牛肉輸入問題、防衛施設庁の官製談合事件の四点セットで、小泉改革の功罪を追及する好機だったにもかかわらず、偽メール問題の稚拙な対応で自滅。党代表交代に追い込まれた。

行き詰まったアジア外交、巨額な財政負担を伴う在日米軍基地再編、待ったなしの少子化対策など、数え上げればきりがないほど課題は山積している。景気が回復したといっても大都市や大企業に偏り、シャッターが下りた地域の商店街に象徴されるように、地方経済に明るさは乏しい。定率減税廃止、医療費負担増など「改革の痛み」にあえぐ国民の声は、国会には届いていないのだろうか。

会期延長を見送った首相の脳裏には、六月末の訪米や七月の主要国首脳会議で有終の美を飾り、「ポスト小泉」の後継レースに道筋をつけようという思惑もあったようだ。しかし、国民の期待に背を向け、国会を消化試合にした責任は重い。

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北海道新聞社説 2006年6月16日
国会閉会へ 首相が招いた消化不良

小泉純一郎首相にとっては最後の国会が、会期末の十八日を待たずに事実上きょう閉会する運びだ。

小泉政権の五年間を、しっかりと検証すべき国会だったのに十分な論議も聞かれず、何とも締まりのないものとなった。

首相が「会期延長なし」にこだわり続けた結果、重要法案とされる教育基本法改正案や国民投票法案などが軒並み、秋の臨時国会に先送りされる流れが、早々と固まった。

こうなっては論議に力が入らないし緊張感がうせるのも当然だ。とりわけ終盤国会を、消化不良にした責任はやはり小泉首相にありそうだ。

会期を延長しないことが悪いのではない。会期は決まっており、よほどの事情でもない限り、会期末がくればそこで閉じるのが原則だ。

だが、その終わり方が釈然としないのだ。駆け込みのように法案を出しながら、小泉首相は「総合判断」だとか「外交など、閉会してもやるべきことが山積している」と言って、会期延長を拒み続けた。

首相は九月末までの残る任期中、何をやりたいのか、どう総合判断したのかが、一向に分からない。

だから、九月の自民党総裁選に向けて、首相の意中の後継者と目される安倍晋三官房長官に準備時間を与えるためだとか、昨年の郵政民営化法に続き今国会で行政改革推進法の成立を果たしたことで、すっかり燃え尽きたからだとの見方さえ出ている。

もしそんな理由で論議もそこそこに国会を打ち切りたい、ということだったのなら無責任のそしりは免れない。

今月から来月にかけて日米首脳会談や主要国首脳会議(サンクトペテルブルク・サミット)が控えるものの、残る時間を無為に過ごすようなら、何も任期いっぱい務めることもない。

積み残される教育基本法改正案や国民投票法案、防衛庁の「省」昇格法案などは、いずれも国の基本にかかわるもので慎重な判断や議論が必要だ。

首相が交代する以上は継続審議ではなくいったん廃案にし、新しい政権の判断の下で仕切り直すのが筋だろう。

国会を低調にした責めは民主党も負うべきではないか。偽メール問題で、小泉改革の「光と影」をめぐる論議を中途半端なものにしてしまった。

後半国会では在日米軍再編をめぐる日米合意など新たに論議すべきテーマが出てきたのに、これを十分に俎上(そじょう)に載せたとは言い難い。

小沢一郎氏の代表就任で、支持率は回復し、衆院補選で勝利したのに、その後、見せ場は作れなかった。

重要法案が先送りとなったことで肩透かしを食った面もあろう。しかし、対決路線を掲げる以上は、国会の場でもっともっと政権を追い詰める姿を見せなければならなかった。

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信濃毎日新聞社説 2006年6月2日
教育基本法 改正案は廃案にせよ


政府・与党が国会の会期延長をしない方針を固め、今国会での教育基本法改正案成立を断念した。政府案、民主党案ともに納得しがたい内容だ。政府は改正案を廃案とした上で、教育をめぐる問題や基本法改正の是非について、じっくり国民の声に耳を傾けてもらいたい。

焦点の「愛国心」をめぐっては、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という政府案に対し、民主党は「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」との案を示した。

内心に踏み込んだ教育目標を法で規定することに、もともと無理がある。加えて、国会審議で「評価」をめぐる危うさが浮き彫りになった。

衆院教育基本法特別委員会で、小泉純一郎首相は「(通知表に)愛国心があるかどうかの項目は必要ない」と、愛国心そのものの評価は否定している。

小坂憲次文部科学相は、子どもの内心に立ち入った評価はしない、としたものの「ふるさとの歴史などについて意欲的に調べ、関心を持とうとする態度を総合的に評価する」と、前向きな姿勢を見せた。さらに、改正案で教育の目標として明記した「伝統と文化の尊重」「国際社会の平和と発展に寄与」などと一体として評価する考えを示している。

「愛国心」の評価はすでに一部で始まっている。

現行の学習指導要領は、小学6年社会科の目標の1つに「国を愛する心情を育てるようにする」とうたう。これを受けて、福岡市で2002年度に「愛国心」を含む評価項目を6年生の通知表に入れたが、市民団体の反発で削除された。埼玉県内の公立小学校などではいまも、「愛国心」の評価が行われている。

同県行田市の小学校で使われている評価項目は「わが国の歴史と政治及び国際社会での日本の役割に関心を持って意欲的に調べ、自国を愛し、世界の平和を願う自覚を持とうとする」とある。3段階で評価するようになっている。

前半の「…意欲的に調べ」までの評価なら理解できる。後半の「自国を愛する」自覚はどう判断するのだろうか。評価される側はたまったものではない。

法に「愛国心」を盛り込むことで評価が広がれば、教師や子どもたちの内面や行動を縛る危険性が増す。それは、国旗国歌法の審議で「掲揚、斉唱を強制しない」との答弁が繰り返されながら、現場の締め付けが続いていることでも明らかだ。

教育が多くの問題を抱えていることは事実でも、基本法を変えることでいい方向に向かうとは考えにくい。改正の必要性は認められない。

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