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科学研究の賞―日本からも世界の頭脳へ
ノーベルの命日である12月10日、スウェーデンのストックホルムで行われる今年のノーベル賞授賞式は、かつてないものになりそうだ。
ノルウェーで授賞される平和賞を除き、壇上に並ぶ五つのノーベル賞受賞者10人のうち3人が日本人である。物理学賞の小林誠さん、益川敏英さん、そして、化学賞の下村脩さんだ。米国籍となっている物理学賞の南部陽一郎さんは残念ながら欠席だ。
科学分野では、00年から3年連続で4人の日本人が受賞している。その前は1949年の湯川秀樹さんから87年の利根川進さんまで5人だったことを思えば、ノーベル賞はぐんと身近になった。
受賞者の功績をたたえつつ、賞というものについて考えてみたい。
科学分野のノーベル賞は1世紀余りの歴史を通じ、ほぼ誤りのない選考によって揺るぎない権威を築いてきた。
しかし、対象は、ダイナマイト王ノーベルが遺言で記した医学生理学、物理学、化学の3分野に限られる。数学や地学のほか、近年の発展が著しい情報科学などは含まれない。
受賞者の数も、各賞ごとに3人以内と遺言が定める。共同研究でどんなに重要な役割を果たしても、その枠からはずれることは少なくない。
重要な発明や発見をした科学者のすべてがノーベル賞を受けるわけではないのだ。幸運にも恵まれた一握りの人たちが栄誉に浴するにすぎない。
もっと多様な基準で、功績をたたえる賞があっていい。その方が科学の健全な発展にもつながるはずだ。
日本では85年、閣議了解を受けた国際科学技術財団の日本国際賞、そして稲盛財団の京都賞が、ノーベル賞とは違う分野の研究をも対象にする国際的な賞としてスタートした。ほかに環境分野ではブループラネット賞もある。
今年の国際賞は、インターネットの生みの親であるビントン・サーフさんらに贈られた。京都賞の近年の受賞者には、世界的な統計手法を開発した赤池弘次さんや巨大地震のメカニズムを解き明かした金森博雄さんがいる。
しかし、残念ながら、賞としての知名度や権威はまだノーベル賞に遠く及ばない。選考の質をいっそう高めてすぐれた研究者を発掘し、日本ならではの賞として、大きく育ってほしい。
スウェーデンの科学は、ノーベル賞を持つことで鍛えられた面がある。賞の質を保つには、世界中の研究の動向をとらえ、研究の価値を見極める力が欠かせないからだ。目利きの存在は科学を育てるうえできわめて重要だ。
世界から集まった受賞者に高校生たちと交流してもらうなど、理科教育にもノーベル賞を役立てている。
賞は受けるだけでなく、出すことにも実は、大きな価値がある。
朝日新聞 2008年11月30日
打ち上げ花火にならないか心配だ
石垣市教育委員会はこのほど「いしがき教育の日」制定を宣言し設定した。繁忙を極める学校、多忙の中でゆとりのない生活を送る子どもたち、各種行事にかり出される市民・PTAに、なぜ今、このようなイベント的な施策が必要なのか。
■課題に力を集積せよ
石教委をはじめ学校、PTAは課題を抱えている。山積と言ってもよい。これらの課題が解決されることなく、常態化されて年月を重ねているのが現状である。各機関・団体は、これらの課題を洗浄し、優先順序を付し、力を集約して解決にあたるべきである。新たなイベントはその集約作業を削ぐことになりかねない。
石教委の抱える課題に学校統廃合がある。先の議会では議員の賛同を得られないと見て、条例案の上程を見送った経緯がある。この課題は、教育的要素と財政的要素が内包している。ことに後者の場合は市長も議会も責任を負わなければならないはずである。
日ごろから、学校の内情を視察、調査するなど積極的な行政、議員活動をし、十分な判断資料を得るべきであろう。
学校の適正規模化を施政方針に打ち出しているならなおさらである。積極的に支援する責務がある。石教委はその支援を集約せねばなるまい。
地方交付税で入ってくる図書費や備品費にも同じことが言える。意見を集約しダイナミックな行動なくして現状を変えることは難しい。そんなところに教育委員や石教委は力を注ぐべきで、新たに行事を抱え込むことは力を分散させ行動を集約できない。つまり、課題解決のエネルギーが生れにくい。
■学校は辟易している
現在、校種を問わずどの学校も日程が窮屈で、週時程は過密している。月行事黒板は空白がないほど埋まっている。
加えて、校外行事への参加要請、各種コンクールへの出品依頼、加熱する部活動、父母の言われなき注文、モンスターペアレントの出現、そして、保護者に代わっての生徒指導等々が子どもも教員も学校生活を窮屈にしている。
学力向上や研究校としての実践や研さんにも励まなければいけない。そんな中での「教育の日」の設定である。もろ手を挙げて称賛する学校が果たしてあるだろうか。しかも、外部依頼の条例化である。
何も目新しい「教育宣言」ではなく、これまでも各種大会等で発表された類のものではないか。実践されてこなかっただけの話である。もっと足下を見つめ、固めて本市の教育を進める必要がありはしないか。
■「家庭の日」はどうなった
「教育宣言」が言うように、教育の実践は「市全体の責務で進められるものであり、継続的な力強い教育運動として全市民が力を合わせて着実に推進することが大切」である。付け加えて、教育の基本は家庭にある。教育を「しつけ」と読み替えるならば分かりやすい。家庭教育なくして、まず子どもは育たないだろう。そのことを私たちは経験則から知っている。
本県は毎月第三日曜日を「家庭の日」として設定、子どもと共にあろうーとしたが、どこに行ってしまったのだろうか。シンデレラタイムとて同じである。
このように実践されていないものや途絶えたものを再構築することが教育委員会の勤めと思うが、どうだろうか。
条例化された今、言うことは打ち上げ花火にならぬよう強い覚悟が求められるということだ。
八重山毎日新聞 2008年11月29日
宇宙基本計画 戦略的な外交に活用せよ
宇宙開発の成果を、国益にしっかりと、つなげていかねばならない。
政府の宇宙開発戦略本部に設けられた宇宙開発戦略専門調査会が、我が国の宇宙戦略に関する「基本的な方向性」をまとめた。
今年5月に成立した宇宙基本法に基づいて、来年5月をめどに策定する「宇宙基本計画」を論議するための基礎となる。
基本方針として、五つの分野で宇宙開発利用を推進、充実させるとしている。国民の生活、安全保障、外交、産業の育成、夢や次世代への投資だ。
特に安全保障、外交が重要項目に掲げられた意義は大きい。
人工衛星を使えば、宇宙から広範囲で情報を収集したり、伝達したりできる。情報面で優位に立つことは、安全保障の要諦(ようてい)だ。
日本周辺には、核兵器やミサイルを保有する北朝鮮のような危険国家がある。現在の情報収集衛星より優れた監視能力を持つ偵察衛星の導入、衛星画像の分析能力の強化が急がれる。
自衛隊の海外活動が拡大する中で、秘話機能を持つ通信ネットワークの構築も喫緊の課題だ。自衛隊の宇宙利用を幅広く検討し、来年の「防衛計画の大綱」の見直しに反映させる必要がある。
「外交ツール」として宇宙開発利用を積極的に活用することも明確に位置づけねばならない。
気候変動への対応や通信・放送サービスの拡大などを背景に、途上国でも宇宙利用への期待は大きい。中国はこうした国々の衛星打ち上げなどを支援し、見返りに資源を獲得している。
日本はこれまで、アジア・太平洋地域の三十数か国に対し、気象観測情報や大規模災害時の衛星画像などを提供してきた。実績をもとに、衛星共同開発や災害監視のネットワーク作りを日本が主導することも可能だろう。
政府開発援助を戦略的に活用して、“宇宙外交”の出遅れを挽回(ばんかい)すべきだ。
国民生活の向上や産業育成も重要な論点だ。衛星画像の分析で農作物の生育状況を把握したり、産業界の技術力を育てたり、と具体的に肉付けすべき点は多い。
有人宇宙活動をどうするか、という点も忘れてはならない。これまで、高コスト化への懸念からほとんど論議されておらず、「基本的な方向性」でも触れられていない。だが、国民の関心は高い。
最初から、タブー視して除外するのではなく、中長期的な観点から検討してもらいたい。
2008年11月28日 讀賣新聞
子どもの問題行動調査 人と接する機会増やそう
全国の国公私立の小中高校生が学校内外で起こす暴力行為が急増している。いじめも減ったとはいえまだまだ高い水準にある。規範教育を強めるばかりではなく、まず子ども自身に感情と向き合う力をはぐくまなければ効果は挙がらない。筋道を立てた教育とともに親子で、地域で大人と、教室で先生と過ごす時間をもっと増やす工夫がいるのではないか。
文部科学省の2007年度調査で暴力行為は過去最多の5万2800件になった。前年度に比べ8000件増。県内は計65件で11件増えた。一方、いじめは全国で2万4000件減、なお10万件を超えている。県内も前年に比べ約1500件減り2170件。児童生徒1000人当たりの件数(21.9)は全国4番目(前年度2番目)という。
対人関係能力は社会で生きていくための基礎である。怒りや悲しみ、不安、憎しみは誰もが少なからず抱える感情だが、こうした感情をコントロールしながら周囲と向き合う力が必要になる。暴力行為の増加は、言葉や話し合いで感情を抑制できず先に手が出てしまう傾向が一段と強まったことを示している。
対人関係能力は人とかかわる体験を通さないと育たない。感情を他者にぶつけ、それを親や近しい人に受け止めてもらう経験を積むうちに次第に怒りなどの感情と向き合えるようになるものだ。少子化や地域力衰退の中で子どもの対人体験の機会や場をどう増やしていくか。学力問題も大切だが、それ以上に取り組む必要がある。
いじめも根っこは同じかもしれない。いじめは友達、対人関係で傷ついた自我を手っ取り早く回復させる方法の一つだ。人と接する力が低下すればするほどまん延しがち。いじめは被害者と加害者が頻繁に入れ替わるのが特徴でもあり実態把握は大変困難だ。特定の子どもを対象にした指導には限界がある。県内でも潜在化が指摘される「学校裏サイト」というインターネットを悪用したいじめのように、加害者の特定が難しいケースも多い。
どの子どもにも起こり得るいじめが減ったといっても、学校が認知できなかっただけとの解釈もできる。件数だけの一喜一憂は確かに早計かもしれない。実際、本県のようにアンケートや家庭訪問、個人面談などで積極的に取り組んだ地域ほど認知件数が多いとの結果が出ている。認知率の全国ワースト4位に県教委が「教員の熱心さの裏返し」との思いを強くするのも分かる。他県との比較はさておこう。本県は独自の取り組みをこれまで以上に進めてほしい。
国は道徳教育の教科化を探っている。子どもに規範を説いても土台となる感情をコントロールする基盤が育っていなければピンとくるはずはない。規範教育を強めるあまり感情やストレスを封じ込めることになれば、かえって暴力もいじめも増えるだけに終わらないだろうか。
福井新聞 2008年11月28日
暴力といじめ 「負の感情」と向き合う力を
過去最多の5万2800件。この数字は昨年度、全国の国公私立の小中高校生が学校の内外で起こした暴力行為の件数である。文部科学省の調査で分かった。
小学校が前年度比37%増の5200件、中学校も同20%増の3万6800件だった。
生徒間暴力が同22%増の2万8300件に上っている。
自分の感情をコントロールできず、言葉より先に手が出る、そんな傾向が強まっているという。
対人関係能力は他者と社会で共生するための土台である。その感情が身についていない子どもの増加は社会の危機に直結する。
■心に「ピン」とこない■
負の感情、つまり怒りや悲しみ、不安や憎しみなどは誰もが抱えている。
暴力行為の増加はそうした感情を言葉で処理できず、そのまま他者にぶつける傾向が強まったことを示す。
感情を抑制する力は他者とかかわる体験を通してはぐくまれる。
幼児期に怒りなどの感情を他者にぶつけ、それを親などに受け止めてもらうことで次第に感情を抑えられるようになるという。
道徳教育を強化しても、その土台となる共通の基盤が育っていなければ規範を説いても心に「ピン」とくるはずがない。
少子化や地域の崩壊で、失われた子どもの対人体験の機会や場をどうつくるか。学力問題以上に取り組むべき課題である。
いじめの問題も根っこを同じくする。
今回の調査では、いじめ件数は前年度から2万3700件減り、10万1100件となった。しかし、依然として相当な数である。
■件数に一喜一憂せず■
いじめは、対人関係で傷つき、抱えたストレスを手っ取り早く解消する手立ての一つだという。つまり、対人関係能力が低下するほどにいじめははびこる。
子どもが集団で過ごす学校で、ストレスと無縁でいることは難しいだろう。ストレスを抱えたとしても、それを他の子どもに向けないで済ますことができる力をつけさせることが大切だ。
また、学校が認知したいじめ件数の増減に一喜一憂するのはやめたい。前年に比べて減ったとしても認知できなかっただけかもしれない。今回の文科省の調査でも、アンケート、家庭訪問、個人面談など実態把握に積極的に取り組んだ学校ほど認知件数が多くなるという結果が出ている。
「加害者を厳しく罰せよ」という声もあるが、いじめは被害者と加害者が頻繁に入れ替わることもあって特定の子どもを対象にした指導には限界がある。
インターネットを利用したいじめのように加害者の割り出しが困難なケースも多い。
処罰や規範教育を強化するだけでは感情やストレスを封じ込めるだけで、かえって暴力もいじめも増える結果に終わりかねない。
宮崎日日新聞 2008年11月27日
暴力といじめ 気になる暴発の低年齢化
子どもたちの「心」がすさんできて、暴発しているのだろうか。そう思わせる心配なデータが明らかになった。
文部科学省の調査で、全国の小中高校が2007年度に確認した暴力行為が過去最多の約5万3000件に上ったという。06年度より約8000件も増えたことになる。いじめも、06年度より2割近く減ったものの10万件を超えている。
ただ、暴力行為が増え、いじめが減ったのには特殊要因もある。暴力行為では文科省は今回調査から、診断書や警察への被害届の有無にかかわらず積極的な報告を都道府県教委に求めた。いじめは福岡県筑前町で起きたいじめ自殺などを契機に、前回調査から認定基準を緩めたため、06年度は一気に05年度の6倍、約12万5000件に膨らんでいた。
また、例えばいじめで、児童生徒1000人当たりの件数は、最多の県と最少の県では30倍近い開きがある。
調査方法の変更は理由があり、やむを得ないとしても、数字の極端なばらつきは調査自体がどこまで実態をとらえているのか、信ぴょう性を疑わせる。要は数字に過度にとらわれず、事態を真正面から見詰めることが重要だろう。
今回の調査で、とくに気掛かりなのは問題行動の低年齢化である。
「荒れる小学生」と騒がれたのは、04年度調査だった。小学校の暴力行為が03年度より18%増え、初めて2000件を超えた。当時、中学校と高校は微減し、小学校だけ増えたのだ。
ところが、より詳しい調査を求めた07年度は、小中高校すべてで06年度より増えたばかりか、増加率が小学校37%、中学校20%、高校5%と学校が下がるほど高い。小学校は件数こそ依然、約5000件と少ないが、暴力行為の低年齢化は一層進んでいるとみるべきだろう。
最近の暴力行為は、ささいなことで感情を抑えきれず暴走するケースが多いと教育関係者は言う。すぐにキレるということだろう。いじめも、相手を思いやることなく心を傷付ける一種の暴力だ。そのいじめも、近年は中学生が主流といわれてきたが、06年度から逆転し、小学生が全体の半数近くを占めている。
モラルや規範意識の低下だと文科省は指摘するが、それは大人社会がそうではないか。大人の姿が子どもたちの心に投影しているとすれば、事態は深刻である。家庭の教育力の低下も叫ばれるが、それも、いまに始まったことではない。
問題行動に走る子どもたちの背景には、家庭や友人関係など、それぞれの悩みがある。暴力行為やいじめの背後に何があるのか。最近目立つ「ネットいじめ」を含めて、問題児として対応するだけで事態を改善することはできまい。
問題の解決には、学校現場と家庭の連携が欠かせない。子どもたちの心のすさみに、どこまで大人社会が真剣に向き合うかが、いま問われているのだろう。
西日本新聞 2008年11月26日
子どもの問題行動調査 生活面を含む総合的検証を
文部科学省がこのほど全国の児童生徒を対象に行った問題行動調査によると、二〇〇七年度に国公私立の小中高校が認知したいじめ件数は、前年度から約二万四千件減ったものの、十万一千百二十七件と依然多いことが分かった。
また、学校内外で起こした暴力行為は、約八千件増の計五万二千七百五十六件と過去最多だった。
いじめの内容(複数回答)で最も多いのは、からかいや悪口の64%、仲間外れが23%。パソコンや携帯電話のメールなどを使った「ネットいじめ」は、約一千件増え五千八百九十九件で、全体の6%を占めた。学校別のいじめでは、小学校が約四万八千件、中学校が約四万三千件、高校が約八千件だった。
いじめや暴力は表面化しないことも多く、認知の基準によって数が増減しやすい、総数に一喜一憂するだけでは仕方がない。前年度から減ったかどうかの議論よりも、問題の本質を見極めた上での対応策を考えることが大事だろう。
その観点からすれば、まず「ネットいじめ」の増加に特段の注意が必要だ。ネット空間に設けられた「学校裏サイト」は、教師や親の想像を超える激しい言葉で子どもが傷つけ合う状況になっている。しかも、学校が認知できるのは「氷山の一角」とも言われる。取り締まるのも難しいとされる深刻な問題である。
学校別のいじめでは、中学校が特に多い傾向も続いている。思春期にさしかかる年齢で、精神的にも不安定になることの影響もあるようだ。
自分の感情をコントロールしながら他者と向き合う力をどう養成するか。専門家の知見も入れて、対人関係能力の育成を図る教育方法がさらに研究され、学校現場でも取り入れられるべきだ。教師に責任を求め、従来型の道徳教育を強化しても解決策にはなるまい。
いじめや暴力の背景には、家庭や地域で不安定な生活を送っている子どもが増えたという事実がある、という現場の声もよく聞く。家庭や地域で、自分自身や生活を肯定的にとらえて感情をコントロールしたり、対人関係能力を育てる環境に恵まれていない結果とも言える。
その原因の一つとして、家庭や地域の貧困や経済格差が広がっていることもあるようだ。低学力の問題でも共通する背景だ。
大阪府では、全国学力調査の結果が悪かったことからデータを公開するかどうかで論議が続いているが、ある中学校の場合、生徒の八割の家庭が生活保護または就学援助を受けている。大阪市の公立小中学校に在席する児童生徒がいる世帯の生活保護・準要保護の認定率は約34%にもなる、という。(星徹氏・「世界」12月号)。
課題を持つ子どもの悩みを聞く存在として、スクール・カウンセラーの配置が行われてきたが、それに加えてスクール・ソーシャル・ワーカーの配置が全国で進んでいる。熊本県教委は本年度からすべての教育事務所に配置した。
子どもの生活面からも課題を見直し、関係機関の協力で回復を総合的に支援することの大事さをあらためて確認したい。
熊本日日新聞 2008年11月26日
教育再生懇「即廃止はない」=河村官房長官
河村建夫官房長官は25日午前の記者会見で、政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)が廃止されるとの一部報道について、「子どもの携帯電話利用のあり方などを検討しており、結論の得られたものから報告をまとめる。即廃止という状況にはない」と述べた。
同時に、河村長官は「広い視点で、教育再生懇のあり方をもう一度考える必要がある」と語った。同懇談会は麻生政権発足後、一度も全体会議が開かれていない。政府は同懇談会が年内にも第二次報告を策定した後、廃止も含め会議の在り方について検討する見通しだ。(了)
時事通信 2008年11月25日
大学の地域貢献 ネットワーク構築が課題だ
大学のキャンパスで、地域のお年寄りや子供連れなどの姿を、よく見かけるようになった。
図書館や博物館の一般開放、市民講座の開設など地域貢献を積極的に進める大学が増えている。
全国の市区町村と大学の間で締結された連携協定は、500件を超えている。
少子化が進む中で、大学が学生を確保していくためには、地域での存在感を示すことが大切だ。
独立行政法人に移行した国立大学が、寄付金集めを進めていく上でも、地域や社会への貢献が問われるようになった。
2006年に施行された改正教育基本法は、大学に対して「知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供すること」を新たに求めている。
厳しい財政事情を抱える地方自治体にとっても、大学の施設や人材を活用する意義は大きい。
「地域に開かれた大学」は、時代の要請とも言える。
大学の地域貢献の方法は、多様化しつつある。
最近、東京・渋谷駅の連絡通路に設置された岡本太郎の巨大壁画の招致運動の一つの核となったのは、街づくりへの協力を掲げる研究センターを設けた地元の青山学院大学だった。
群馬大学では、授業の一環のインターンシップとして、学生が地域の日系ブラジル人児童の日本語学級を訪ね、学習をサポートする事業を展開してきた。
銀行などの協力も得て基金を設け、学生ボランティア活動を支援する宇都宮大学の事例もある。
こうした活動をさらに後押しするためには、地域に貢献する大学への政府の支援を、より一層進めていくことも必要だろう。
大学と自治体の担当者間のパイプはできたが、担当者以外には、連携の意義が理解されず、組織全体の動きは鈍い場合が多いとの指摘もある。両者の間で、より一層の意思の疎通が大事だ。
多様化する地域の要望に対して一つの大学だけで対応することは難しくなってきている。
政府は今年度から、戦略的大学連携支援事業を始めた。複数の大学が共同事業体を作り、連携して地域の要望などに応える。
大分大学など8校による「高度人材養成拠点の構築」をはじめ54の取り組みが選定された。
全国の765の大学が知的インフラとしてネットワークを構築することが出来れば、地域の活性化へ大きな力となるに違いない。
讀賣新聞 2008年11月25日
子どもの暴力―いら立ちの芽を摘むには
「会社では課長はヒラをいじめ、ヒラは家に帰り女房をいじめ、女房は子どもをいじめ、子どもは学校で自分より弱い子どもをいじめるんです」
毒舌漫談で中高年の女性らに絶大な人気がある綾小路きみまろさんは、こんなセリフで爆笑を誘う。
しかし、現実は笑っていられない。
全国の小中高校が07年度に確認した子どもの暴力行為が、5万2千件を超え過去最多になったという。文部科学省の調査結果だ。いじめも、前年度に比べて減ったものの10万件にのぼる。
数字の上がり下がりに一喜一憂する必要はないだろう。
文科省は今回から、診断書や警察への届け出がない暴力行為についても、報告を徹底するように求めた。従来なら上がってこなかったケースが上乗せされたことが想定される。
神奈川や大阪が6、7千件にのぼる一方で数十件にとどまるところもある。実態をどれほど反映しているのか、少々疑問だ。
いじめに関しては、定義を広げたことで06年度に6倍にはねあがった。今回、いじめを報告した学校は、報告していない学校に比べて様々な実態調査をしていたという結果もでた。学校の取り組み次第で数字が変わることをうかがわせる。
数字の多寡よりも、その向こうに見える、暴発しやすい子どもたちの姿に目を凝らさねばならない。
ちょっとからかわれたり、口論になっただけで、いきなり暴力にエスカレートする。そんな子どもたちについて文科省は、自分の感情を抑える力が弱いことや友達とつきあうことが苦手なことを理由としてあげている。
テレビゲーム、パソコン、携帯電話。子どもたちの周りには、かつてなかった仮想社会が広がっている。生身の人と接することで自然に鍛えられた心の耐久力が弱まっていることは確かにあるだろう。学校裏サイトなどネット上の陰湿ないじめが広がっていることも、それと無縁ではないはずだ。
ではどうすればいいのだろう。何より家庭の役割が重要なのではないか。
荒れる子どもに共通しているのは、日頃からいら立ちやストレスを感じていることだという。特に、親による勉強へのプレッシャーなどが原因となっている例が目立つようだ。
自分の子どもは日々、何にいら立っているのか、細心の注意を払おう。テストや通知表ばかりに目をむけていると、SOSを見過ごしてしまう。
もっとも、切れやすいのは子どもたちだけではない。大人の世界でも、電車内のささいなトラブルから暴力事件に発展することなどが珍しくない。
いら立ちの芽を早めに摘み、漫談のネタになるような連鎖から子どもたちを救わなくてはならない。
朝日新聞 2008年11月23日
子どもの暴力 大人社会の影を映す鏡だ
一九八〇年代に多発した「荒れる学校」の再来なのだろうか。
文部科学省の調査で二〇〇七年度に、全国の小中高校で過去最多の約五万三千件の暴力行為があったことが分かった。本県では前年度比一・五倍の千三十件に急増した。
いじめも前年度から二割近く減ったとはいえ全国で十万件を超えた。子どもは大人社会を映す鏡である。格差が広がり、モラルや規範意識の低下がいわれる。それが子どもたちにも影を落としているとすれば深刻だ。
調査は子どもの問題行動の状況について、すべての国公私立の小中高校を対象に教育委員会などを通じて行われた。数字から浮かび上がってきたのは、感情を抑えられず、すぐにキレる子どもたちの姿である。
暴力行為の内訳は生徒間の暴行が約二万八千件、学校の備品などを壊す器物損壊が約一万六千件、教師への暴行が約七千件となっている。
「ささいな約束が守られなかったと相手を殴る」「口げんかの腹いせに学校のガラスを割る」「ちょっと注意をしただけで先生に襲い掛かる」。相手の痛みに思いが至らない衝動的で短絡的な行為が目立つ。
警察や児童福祉相談所など学校以外の機関によって措置が執られた加害者は、暴力行為全体の一割にも満たない。頭を冷やせば「悪いことをした」と分かるケースがほとんどなのだろう。
ただ、警察などの手を煩わせた小学生は百八十二人と前年度より八割も増えた。学校では対処できないほど凶暴な行為が小学生にも及んでいるということだ。年齢の低下が気に掛かる。
児童の親の多くは「荒れる学校」を経験した世代でもある。学校不信が癒えぬまま大人になって、子どもを育て学校に通わせる。子どもは親の気持ちを敏感に察知する。
その悪循環が学校の在り方をゆがめていないか。暴力行為を子どもだけの問題ととらえていては、解決は難しいものとなろう。
一方、陰湿な言葉の暴力である「ネットいじめ」は前年度比二割増の六千件近くに達した。いじめ全体に占める割合は6%でしかない。だが、その実態把握は難しく、表に出た数字は「氷山の一角」と見るべきだろう。
「ネットいじめ」も他人を傷つけることでうっぷんを晴らすという点では暴行と共通している。攻撃性は弱さの裏返しだ。問題児として対応するだけでは本質を見誤る恐れがある。
大人社会は先の見えない不況の縁に立ち閉塞(へいそく)感が漂う。そんな中で大人は子どもに正面から向き合ってきたのだろうか。調査結果が問うているのは、大人のありようでもある。
新潟日報 2008年11月22日
いじめ調査 実態を本当に把握できたのか
本当に実態を反映しているのだろうか。子どもたちのいじめを減らしていくには、正確な実態把握がまず必要だ。
文部科学省が発表した2007年度のいじめ件数は10万1000件で、06年度より2万4000件、20%近く減少した。
文科省は、06年にいじめ自殺が相次いだのを受け、06年度調査から「いじめ」の定義を変えた。
「一方的・継続的な攻撃」という要件を外し、児童生徒が「精神的な苦痛を感じているもの」はいじめに該当する、とした。早期発見に結びつけるという意味では、適切な見直しだった。
ただ、調査結果を見ると、学校や都道府県によって定義の解釈にかなりズレがあるようだ。
児童生徒1000人あたりの件数では、岐阜県の33・4件と和歌山県の1・2件で30倍近い開きがある。同じ県でも小学校分だけで、熊本県は06年度より2900件も減り、群馬県は1000件から250件と4分の1になった。
群馬県教育委員会の説明では、校内のアンケートや個人面談で「友達に嫌なことをされた」「悪口を言われた」という話が出ればそのまま件数に入れていたが、いじめかどうか精査するようになった学校もある、という。
これでは、件数の減少が、いじめ対策の成果なのか、いじめのとらえ方を修正した結果なのか、はっきりしない。
実態調査は、いじめを防ぐための第一歩だ。それを踏まえ、原因を究明してこそ、対策を立てることができる。もっと調査の精度を高める工夫が必要ではないか。
文科省は、同時に実施している児童生徒による暴力行為の調査では、該当する具体例を示している。いじめの調査についても、これと同様、例示すべきだろう。
今回の調査結果では、携帯電話などのインターネット機能を使った「ネットいじめ」は、20%増の5900件あった。
教師や親はネットの知識を身につけ、学校裏サイトなどを監視するとともに、プロフ(自己紹介サイト)などに個人情報を安易にさらすことの危険性を、子どもたちにしっかり教えねばならない。
文科省の教職員向け「ネットいじめ」対応マニュアルの事例では、いじめにあった本人や親からの相談をはじめ、異変に気づいた担任や部活動顧問による聞き取りが、解決の端緒になっている。
教師には、児童生徒や親が相談しやすい雰囲気を作り、信頼関係を築く努力が欠かせまい。
讀賣新聞 2008年11月21日
教員人事交流 教えるヒント見つけたい
全国学力テストで2年連続好成績を収めた秋田県と、最下位だった沖縄県の教育委員会が小中学校教員の人事交流を図ることになった。
学力テストに対しては序列化や過度の競争を招きかねないとの指摘があり、検討の余地があるが、「他人の飯を食う」という言葉もある。教員が一県の枠を超えて指導方法などを多角的に学べば、教育とは何か、学力とは何かを考えるヒントが見つかるかもしれない。
両県教委は交流教員を段階的に増やすなど内容の充実に努め、教員の実力をより高めてほしい。とりわけ沖縄側は、単なる学力テストの順位アップという観点ではなく、子どもに基礎学力と「生きる力」が備わるという意味での学力の底上げにつなげてもらいたい。
今回の人事交流の特長の一つは相互派遣の形をとったことだ。先進県を視察・研修するような一方通行的な交流ではなく、秋田側からも派遣する計画になっていることを評価したい。
確かに、沖縄側が秋田に学ぶことの方が多いだろう。学力テストの好成績も、受験競争的な取り組みではなく、独特の工夫があるに違いない。覚書を交わす席で、沖縄県の仲村守和教育長は「秋田は授業の方法や基礎力定着のシステムが素晴らしいと聞く。意欲の高い先生に指導法を学んできてほしい」と期待を寄せた。
これに対し、秋田県の根岸均教育長も「沖縄との交流で、沖縄のいいところを学べると思う」と話した。実際、沖縄の子らには学力テストの順位だけでは測れない無限大の可能性を感じる。スポーツや芸能など幅広い分野で若い人たちが数多く活躍しているのがいい例だ。
教育は学校現場だけでなく、家庭や社会環境も大いに関係する。それぞれに役割は大きい。ただ、「隗(かい)より始めよ」とも言う。県教委が率先して教員の資質向上に取り組む姿勢は大切だ。他県との人事交流などが定着し、機能すれば学力問題の出口も見えてくる。
琉球新報 2008年11月19日
「メンタル対策」の充実を/教員の健康管理
精神性疾患で休職する教員が全国的に増えている。教育委員会のほとんどはメンタルヘルス対策が必要と認識しているが、十分取り組めているとは思っていない。そんな実態が文部科学省の委託調査で分かった。
教育改革が次々と導入され、社会状況も変化した。教員に対する期待と要求は高まっている。多くの教員は仕事への意欲がありながらも、疲労やストレスを抱えて教壇に立っている。
熱心に仕事に取り組んできた人が、突然無気力な状態に陥り、場合によっては引きこもり、うつ病など深刻な状況になることが知られている。
精神的に不調な教員が増えると、児童・生徒への影響は小さくない。教員の精神面の健康対策を充実させて、ストレスを軽減する必要がある。先生たちが生き生き働くことができる学校づくりも大切だ。
調査は、カウンセリング会社が東京都教職員互助会の協力を得て実施した。全国千八百四十二教委のうち四百七十三教委、七都道県の公立小中学校の教員約千百人が回答した。
結果によると、メンタルヘルス対策について「必要」「まあ必要」と答えた教委は、計98%に上った。しかし、対応策では「十分に取り組んでいる」は0.8%にすぎず、「まあ取り組んでいる」と合わせても20%に満たない。対策を実施する担当者が足りない、予算が取れないなどが理由として挙げられている。
一方、うつ病傾向と関連が深いとされる「気持ちが沈んで憂うつ」との質問に、教員の約27%が該当すると答えた。二〇〇二年に調査した一般企業の約9%を大きく上回っている。
教員の九割は仕事にやりがいや意義を感じている。一般企業はおよそ半数だから、かなり高率だ。子どもたちを教え育て、成長する姿を見守ることへの使命感からだろう。
だが、約九割は勤務時間外の仕事が多いと答え、普段の仕事で「とても疲れる」とした教員の割合も約44%に上る。
文科省によると、〇六年度に病気休職した公立小中高校などの教職員は七千六百五十五人。このうち精神性疾患を理由に休職したのは、61%の四千六百七十五人で過去最多だった。
県教委の調べだと、県内の公立学校教員の病気休職者は〇五年度が百三人、〇六年度百二人、〇七年度は百十八人いた。このうち精神性疾患による休職者は、それぞれ四十二人、四十九人、五十三人だった。
本県では、初任者研修のほか五年経験者、十年経験者研修の際に、精神科医を講師に招いて心の健康について学んでいる。管理者のためのセミナーも行い、精神科医による面接相談を青森、弘前、八戸で通年で実施している。対策の一つとして有意義だろう。
精神性疾患による休職については、仕事が多忙化・複雑化し、保護者や同僚との人間関係など職場環境が厳しくなっていることも背景として指摘される。
献身的に頑張る先生が、燃え尽きないよう管理者は十分に留意すべきだ。先生個人も問題解決を積極的に図ることで、自らを活気づけてほしい。同僚の支援が必要なのはもちろんだ。
東奥日報 2008年11月18日
国歌:斉唱時は「起立、国として指導」…塩谷文科相が強調
入学・卒業式の国歌斉唱時に起立せず、神奈川県内の教職員らが氏名など個人情報の消去などを求めて横浜地裁に提訴したことに関連し、塩谷立文部科学相は18日の閣議後会見で「国歌斉唱時に起立するのは国際的にも常識。それが理解されていないのなら、国として何らかの指導をする必要がある」と述べた。新学習指導要領では、起立についての規定はなく、波紋を呼びそうだ。
また、塩谷文科相は「(教職員が起立するかしないか)バラバラな対応があるのならば把握しなければならない」として、全国的な調査の必要性を訴えた。指導は、教職員と児童生徒の両方を対象とすべきだとした上で、「『起立して(歌うよう指導する)』と書かなければならないのかなとも思う。どこにも書かれていない」と述べ、指導要領改定も示唆した。【加藤隆寛】
毎日新聞 2008年11月18日 12時39分
国歌斉唱、起立が常識=教委の情報収集「あり得る」−塩谷文科相
神奈川県教委が国歌斉唱で起立しなかった県立校の教職員名を収集していることに関して、塩谷立文部科学相は18日、「起立した、しなかったというリストをつくることは、指導監督する上で一般的にあり得ることだろう」と述べた。その上で、「起立しなくていいというのは常識ではないのではないか」との認識を示した。
文科相は「国際的に、例えば五輪でも国旗が掲げられたら、どんな国でも立つのが当たり前じゃないか」と強調した。(12:18)
時事通信 2008年11月18日
県立高校教職員らが県に収集した個人情報の削除と慰謝料求める
11月17日21時0分配信 カナロコ
県教育委員会が、県立学校の卒業式・入学式で君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を収集している問題で、収集に反対する教職員計十八人が十七日、県に対し、過去に収集した個人情報の消去と、これまでの収集に対する慰謝料を支払うよう求める訴えを横浜地裁に起こした。
訴状では、卒業式や入学式での国歌斉唱などは「国家の象徴である国旗、国家にどのように向き合うかという問題」とした上で、「不起立行為は不起立者の人格形成をなす人生観・世界観の発露で、原告らの内心を示す情報」と主張。
氏名収集は思想信条に関する個人情報収集を制限する県個人情報保護条例に違反するとして、過去に収集した個人情報消去と、二〇〇七年度卒業式と〇八年度入学式で氏名が収集されたことで精神的損害を被ったとして、一人当たり百万円、計一千八百万円の慰謝料支払いを求めた。
提訴後、岡田尚弁護団長は「県民の個人情報がどう取り扱われるかを問う裁判」と指摘。原告団長の県立高校男性教諭(59)は「生徒に、信念は大切にしなければいけないと伝えたい」と訴えた。
県教委は「訴状が届いていないのでコメントできない」としている。
この問題を巡っては、県個人情報保護審議会が今年一月、氏名収集は「不適当」との答申を出した。しかし、県教委は二月に「不起立者への指導上必要」との方針を示し、二〇〇六年から始めた収集を継続している。
神奈川新聞 2008年11月17日
氏名収集の停止求め、教職員が提訴=神奈川県
神奈川県教育委員会が卒業式や入学式の君が代斉唱で起立しなかった教職員名を収集していることは県審査会の答申に反するとして、県立学校の教職員18人が17日、県を相手に個人情報の利用不停止決定の取り消しと慰謝料計1800万円を求める訴訟を横浜地裁に起こした。
訴えによると、県教委は05年度卒業式から君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名の収集を開始。県個人情報保護審査会が07年10月に「収集は不適当」と答申したため、県教委は07年度入学式までの情報は消去したが、07年度卒業式以降も情報収集を継続した。
教員らは情報の利用停止を求めたが、県教委は「不起立の理由は聞いておらず、思想信条には触れていない」として、利用不停止決定を出した。
神奈川県教委は「訴状が届いていないため回答は差し控えたい」としている。(了)
時事通信 2008年11月17日
「優秀校」の秘訣知って 学力テスト 効果的指導へ文科省が事例集
文部科学省は2009年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で、平均正答率が上昇したり、特定の教科で好成績を維持したりしている学校の取り組みを研究・分析し、事例集にまとめることを決めた。多くの学校に参考にしてもらい、学力向上に役立てるのが狙い。
全国学力テストは2007年度に約40年ぶりに復活。全国の小学6年生と中学3年生のほぼ全員が参加している。同省はテスト結果について「朝食を規則正しく食べる子は正答率が高い」といった分析をしているが、識者の間ではまだ詳細な分析や現場での活用が不十分との意見が根強い。(16:00)
日本経済新聞 2008年11月14日
教科書発展学習 量より中身の工夫が肝心だ
「今の教科書には最低限のことしか書いていない。全体のストーリーが見えない」。こう指摘したのは今秋、ノーベル物理学賞に選ばれた小林誠さんだ。
確かに基礎基本を重視した学習内容の「精選」で昔に比べ教科書は薄くなり、ともすれば物足りないといわれる。その意味で、文部科学省が学習指導要領を超えた「発展的な学習内容」の制限を外す案を教科用図書検定調査審議会に示したことは歓迎されよう。
ただ記述の分量さえ増えれば事足れりではない。その教科書が子供たちに語りかけ、さらにその分野の奥深い世界へいざなうような「物語(ストーリー)」をつむぎ出せるか。そうした創意工夫を尽くさなければ、単なる「負担増」になりかねない。
いわゆる「ゆとり」路線の現行学習指導要領は教科学習の内容をおおむね3割程度減らし、その分、教科書の記述もその範囲内に縮まった。しかし、批判も強く、02年の検定基準改定では、教科書の本文の中には入れず例外的に「発展的内容」であることを明示してより高度な内容の記述ができるようにした。ただ文科省はその発展的な記述量を抑制、小中学校で1割程度、高校で2割程度とした。
それを取り外そうというのである。そして、他教科や小、中学校にわたる記述の重複、繰り返しも構わないという。無駄なく「厳選」されたものであることという従来の物差しで教科書発行者を縛らず、創意工夫の発揮を促す考えだ。
だが、当然ながら、これが「低学力」問題や「学習意欲低下」への万能薬ではない。多くの大人が体験上知っているように、教科学習において教員の指導手法や工夫などが子供の理解や関心に与える影響は大きく、教科書はその有力な支えという存在だろう。
今回の「自由化」方針によって新教科書を作るに当たっては、現場の意見や経験を生かし反映させることを文科省も促すべきだ。そして今なお「教科書はその内容を全部授業で消化しなければならない」という、主として保護者が持ちがちな誤解を解く必要もあるだろう。教科書は手段であって目的ではない。
また怖いのは「暗記用知識」満載の受験用教科書に転じてしまうことだ。
学校の授業法や学習内容を改めるには大学入試改革が決め手といわれてきた。しかし、増えた大学、減る子供という状況で大学入試は受験生数確保のため軽減、簡便化が進む。大学で高校程度の補習をするのが当然のようになっている。
受験者の適性判定や選抜に手間を惜しまない入試改革が実現すれば、必然的に高校以下の教育手法も内容も変わらざるを得ない。
今回の教科書改革と併せ、従来の入試改革論議をたなざらしにせず進め、具体化を急ぐべきだ。
毎日新聞 2008年11月13日
教科書:指導要領外の記述が自由に 文科省
文部科学省は12日、学習指導要領の範囲を超えた「発展的な学習」の教科書への記載について、「小中学校は全体の1割程度、高校は2割程度」とする現行の上限規定を廃止することを盛り込んだ制度改定原案を、教科用図書検定調査審議会に示した。審議会の作業部会も同日、承認し来年度の検定から適用され、厚みを増した新しいスタイルの教科書が登場することになりそうだ。
審議会は、学ぶ内容が増える新学習指導要領が11年度以降に全面実施されることに合わせ、教科書の改善方法を検討してきた。
教科書に指導要領の範囲外の内容を記述することは、02年8月の検定基準改定で「本文では記述せず、発展学習であることを明示する」などの条件付きで認められた。記述量は示されていないが、文科省は検定で小中学校1割程度、高校2割程度を上限として運用、教科書会社もその範囲内で申請してきた。
審議会ではこれまでに「理解力や学習段階などに応じて知識を活用し、探求していけるような教科書が望ましい」などの意見が出た。文科省も「教科書構成上の配慮や工夫が必要」と結論を出しており、政府の教育再生懇談会は7月に「国語、理科、英語でページ数を倍増すべきだ」と提案している。このため教科書に指導要領の範囲を超えた内容が大幅に加えられる見通しだ。
文科省の原案は「補充的な学習」として例えば小学校算数の学習内容を中学校数学の教科書で取り上げることを認めるよう検定基準を見直すことを提案。児童生徒が学習済みの内容を反復したり、家庭で自習しやすいように練習問題を充実させることも示した。漫画などのイラストや写真の多用は子供たちの想像力を阻害するとして、避けることを求める記述も盛り込んだ。
審議会が年内にもまとめる最終報告を受け、文科省は検定基準を改定する方針。【加藤隆寛】
毎日新聞 2008年11月12日
大学発ベンチャー 産学官が連携し支援拡充を
大学・高専など学術研究機関の技術や研究成果を生かして設立された「大学発ベンチャー企業」が、右肩上がりで増えている。東北でも増加の一途をたどり、ものづくり産業の一翼を担う動きとして注目されている。ただ、多くの企業が資金調達や販路開拓などで苦戦しており、企業が増えたと手放しで喜べる状況ではない。
経済産業省の調査(2007年度)によると、大学発ベンチャー企業は全国で1773社(前年度比11.5%増)に上る。経産省が「大学発ベンチャー1000社計画」を提唱して支援策を打ち出してきたのに加え、大学が地域貢献を求められるようになったことが、知的財産の社会還元である大学発ベンチャー企業の増加に結び付いているとみられる。
東北は127社(前年度比10.8%増)で、大学別では東北大が56社で最も多く、会津大25社、岩手大23社、山形大8社などと続く。業種別ではソフトウエアやバイオテクノロジー、機械・装置、素材・材料などが多数を占める。01年度からの企業数の伸びは約3.1倍と、首都圏や近畿圏を上回っており、東北はこの分野で存在感を高めつつある。
これに対し、各企業が直面する課題は、「資金調達が難しい」「販路の開拓、顧客の確保が難しい」「人材の確保、育成が難しい」の3点に集約される。東北経済産業局のアンケートでも、この3点を課題に挙げる企業が圧倒的に多く、大学発ベンチャー企業の厳しい現実が浮き彫りになった。
資金面でみれば、現在は官民出資によるベンチャーファンドなどが定着しており、地域でのベンチャー向け資金は10年ほど前に比べれば格段に潤沢になったといわれる。
だが、研究成果を市場性のある製品にして販路に乗せ、資金回収するという一連のビジネスプランがなければ、ファンドなど投資機関側は、ベンチャーといえども容易に資金提供には応じない。企業側が経営戦略をきちんと描けるかどうかが、資金調達の大きな鍵となるといっていいだろう。
大学教授ら研究者が、最先端の技術・知的シーズ(種)を基に起業するケースが多く、企業経営の未経験者が経営トップに就くことも珍しくない。企業側が課題に挙げるように、経営戦略を描けるマネジメント面での人材が不足しており、この点が資金調達にもマイナスになるという悪循環に陥っている。
必要なのは、投資する側が納得できるような経営目標を、企業側が設定することだろう。自治体など産学官が連携し、経営ノウハウを持ったベンチャー向け人材の育成・供給、販路開拓を狙った展示会の開催、企業への経営指導などを、積極的に展開することも求められる。
大学発ベンチャー企業は小回りが利く分、大企業が手掛けないような斬新な製品開発の可能性を秘め、地域の研究者らにとって新たな雇用の受け皿にもなりうる。景気の後退局面だからこそ、支援策を考えたい。
河北新報 2008年11月11日
外見で不合格 入試制度の公平性損なう
県立神田高校の過去三回の入試で不適正な選考があったことが発覚した。あらかじめ公表されていた選考基準通りに選考されていれば合格していた受験生計二十二人が、服装や態度などをチェックされた結果、不合格になった。「入学後の生徒指導が困難になる」とみなされたためだ。
二〇〇七年度実施の前期選抜の場合、公表された選考基準は調査書と面接結果を点数化し、それを合算した数値の上位者から合格にするもの。だが、実際には面接の評価のほか、選考基準にない入学願書受け付け時や受験日の態度、髪の色、スカート丈の長さ、ピアスの穴、化粧などの点検を基に七人を不合格にした。後期選抜では調査書(学習の記録)と学力検査の結果で合否を決めるが、この基準を無視し、前期と同じ服装などで二人を不合格にした。
県教委には千件を超す意見が寄せられ、その多くが「義務教育ではない高校での選抜であり、服装や態度で選考して何が悪いのか」との内容だった。勉強の意欲の度合いや問題行動を身なりと関連づけて「服装の乱れは心の乱れ」とみる人の多いことをうかがわせる。神田高の在校生や保護者からは、不適正入試の責任を取って解任された前校長を擁護し、その教育姿勢を評価する声も多い。
神田高の場合、生徒指導上の課題が集中し、前校長が中心になって落ち着いた学校へと立て直してきた。その過程で、問題になりそうな生徒を入学させない手だても考える必要を感じ、不適正入試もやむを得ないと考えたようだ。
現行の入試制度、高校改革には難題が多い。勉強できる雰囲気がなく、中途退学者も多い課題集中校をどう改めるのか。現場の取り組みも並大抵ではない。だが、そうではあっても、ルール破りの方法しかなかったのだろうか。
県の公立高入試については、〇三年度から各高校が選考基準を事前に公表している。県教委の本年度のアンケートで生徒の八割以上が「事前公表を参考にしている」と回答した。高校が公表基準とは別に、ひそかに合否を判断できるなら受験生や保護者は何を目安に受験校を選び、準備をすればいいのか。不安や混乱が生じよう。公平性を前提とした入試制度を揺るがす問題であり、高校側にどんな事情があれ容認はできない。
それだけではない。身なりでその生徒を「指導困難」と決めつけてしまうのは人権侵害ともなる。落とされた生徒二十二人をそれぞれ個別に熟知しているならともかく、一般的にそうした傾向がみられるからという先入観で一方的に排除していいわけがない。
二十二人は理不尽な扱いを受けた被害者にほかならない。入試を実施した県教委、神田高は、何よりも生徒たちの学習権を奪ったことを反省しなければならない。
神奈川新聞 2008年11月11日
江藤被告 懲役3年を求刑
県教委汚職事件で教員採用や校長・教頭の昇任試験に絡み、わいろを受け取ったとして、収賄の罪に問われた元義務教育課参事、江藤勝由被告(53)の論告求刑公判が十一日、大分地裁(宮本孝文裁判長)であり、検察側は「社会的影響は極めて大きい」として、懲役三年、追徴金六百十万円を求刑した。判決言い渡しは十二月十二日。
論告で検察側は「合格者の決定を大きくゆがめ、本来合格するはずだった人を不合格にした結果は重大。(上司を通した口利きなど)組織ぐるみの不正が常態化していた背景はあるが、犯行は上司の指示とは別に個人的にわいろを受け取ったものだ」と指摘。
弁護側は「被告の規範意識を薄れさせたのは県教委の”口利き体質”。口利きに汚染された組織の腐敗がなければ特定の受験者を不正に合格させることはなく、わいろの授受もなかったはず。被告はわいろを要求しておらず、一連の報道などで既に社会的制裁を受けている」として執行猶予付きの判決を求めた。
江藤被告は採用試験や教頭・校長の昇任試験の結果集計などを担当していた立場を悪用。わいろをもらったり、元上司を通して口利きを受けた受験者を不正に合格させるため、試験の点数を加点、減点していた。二〇〇七、〇八両年度の採用試験で、不正な点数操作によって合格したのは四十人以上とされる。
黒っぽいスーツ姿で入廷した江藤被告はうつろな表情で論告、弁論をじっと聞き、最後に「大分県の教育にぬぐい切れない汚点を残し、申し訳ない。生涯を懸けて償っていく」と謝罪の言葉を口にした。
論告によると、〇七年度教員採用試験に絡み、元同課参事、矢野哲郎(52)と妻で元小学校教頭かおる(51)両被告=いずれも贈賄罪で公判中=の長女の合格に便宜を図った謝礼などとして商品券百万円を受け取り、〇八年度試験では、元小学校長、浅利幾美被告(53)=同地裁が贈賄罪で猶予刑を言い渡し=の長男と長女の採用の見返りに現金など四百万円分を受け取った。
また、今春の昇任人事の見返りに、佐伯市内の元小学校教頭の渡辺洋一(50)と広瀬忍(50)の両被告=贈賄罪で在宅起訴=からそれぞれ商品券五十万円を、同市内の元小学校長の女性(起訴猶予、教頭に降格)から商品券十万円を受け取った―とされる。
大分合同新聞 2008年11月11日夕刊
全国学力テスト、抽出調査検討を ヒアリングを実施
文部科学省は10日、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)に関する専門家会議を東京都内で開き、来年以降のテストの実施方法などについて教育関連団体からヒアリングを実施した。
一部地域で自治体別や学校別のテスト結果を開示する動きが出ていることについて、全日本中学校長会は「公表しようとする自治体が出てきたことは極めて遺憾」と指摘。全国指定都市教育委員・教育長協議会は「(市町村別・学校別成績の開示は自治体や学校の判断に委ねる)現行の公表方法のままでいいと考えている」と説明した。
全国連合小学校長会は小6と中3の原則全員が参加する現在の仕組みに疑問を投げかけ「統計上の信頼性は8%程度のサンプルで確保できるのではないか」と、抽出調査に切り替えることも検討すべきだとした。(10日 22:58)
日本経済新聞 2008年11月10日
週のはじめに考える ノーベル受賞者に学ぶ
重苦しい閉塞(へいそく)感を吹き飛ばしてくれた日本人四人のノーベル賞。過去の受賞者を含め、彼らの言葉から社会のあり方を考えるヒントが読み取れませんか。
名古屋市中区の愛知県図書館の一角に「ノーベル賞と13人の科学者たち」という展示、貸し出しコーナーが設けられています。
今回受賞が決定した南部陽一郎さん、小林誠さん、益川敏英さんの物理学賞三人と、化学賞の下村脩さんら科学部門の十三人の著作や関連資料が集められています。
「宇宙論と統一理論の展開」といった書物はさすがに敬遠しましたが、講演録や対談集には多くを教えられました。
◆変化に耐え得る学問を
益川さんが月刊誌「経済」のインタビューでこんな例え話を紹介しています。和歌山の柿栽培農家で収穫増のために柿の畑にハチをたくさん放したところ、受粉の効率がよくなり、最初の一、二年は収穫が三倍くらい増えたのに、数年後、どうにも実のなり方が悪くなったというのです。
調査した研究者によると、ハチの強制的な受粉により、柿の木の体力が弱ってしまったのだそうです。成果を急ぎすぎたのです。先日の本紙座談会での小林さんの言葉を思い出しました。
「(学問の環境が)成果主義とか、応用中心とかに偏りすぎていることを心配している。基礎科学を軽視し、目に見えるような大きな刺激だけを求めているのではないか」。続けて益川さん。「科学は基礎科学が上流で、下流まで五十年、百年かかる。『今、受賞した。万歳』だけでは困る」
素粒子論の標準理論といわれる「小林・益川理論」は実に三十六年前の発表です。化学賞の下村さんがオワンクラゲから緑色の蛍光タンパク質を見つけたのは、その十年も前です。時代と変化に耐え得るのが基礎学問でしょう。
◆時代に合った価値観を
ところが学問の世界に限らず、成果主義が幅を利かせています。底流には売買可能な社会があります。あらゆるものがその品質を見るより、カネと量で測られるのです。そこからある種の価値観がもたらされています。市場競争原理がその一つです。柿の木とハチの話が教えるように、便宜的で功利主義的で短期的な価値観です。
市場原理をすべて否定するつもりはありません。でも強欲の論理が支配した金融の危機が、大恐慌の際まで世界を追い詰めました。
学問に限らず、政治、経済も最終的には人々の生活に役立つためにあるべきです。その観点に立って、人間主義とでも名付けるべき価値観や原理を構築すべきです。次の四つの課題で考えます。
第一は、少子高齢化への対応です。年金、医療、介護という社会保障をどうするか、消費税だけでなく各種税制の抜本見直しも必要になるでしょう。給付と負担の分担割合など、生活者を納得させる長期ビジョンが欠かせません。
第二は、東京一極集中の是正です。つまり地方分権の推進です。補助金、地方交付税、税源移譲を一体として行う「三位一体」は地方を疲弊させただけで終わったとの批判があります。地方自立への制度、経済振興策が必要です。その青写真は描かれていますか。
第三は、教育と治安の劣化です。背景に、学校教育の限界、子どもたちのコミュニケーション能力不足、随所で崩壊現象が見られる家庭、ワーキングプアの増大などが指摘されています。この病状への処方箋(しょほうせん)は用意されていますか。
最後は、低炭素社会への取り組みです。これは北海道洞爺湖サミットの議長国としての国際公約であり、景気が後退しても地球温暖化対策に手を抜くわけにはいきません。
こうした問題の解決には、社会全体を見通した基本設計図が欠かせません。米国は初の黒人大統領を選ぶことで「変革」へのダイナミズムを見せつけました。日本にも力強くてしなやかな変革を担う指導者がいるでしょうか。
ノーベル賞学者に戻ります。横浜市の女子中高校に招かれた物理学賞の小柴昌俊さんは「二十一世紀を担う若者たちに何を望むか」と問われて、こう答えました。
「皆さんにお願いします。結婚をして、昔のように五人も六人も子どもを産んでください」
◆子育て安心の社会を
将来を見越し、多くの人材が要ることを率直に表現したのでしょう。それには安心して子どもを産め、育てられる社会でなければなりません。その社会を築くのが政治家ら大人の仕事のはずです。
いま大切なことは、政治家たちに国民の声をぶつけることです。税金のこと、年金のこと、雇用のこと、暮らしの困り事を粘り強く訴えていく。民主的な社会づくりは強力な民意の支えがあってこそです。
中日新聞・東京新聞 2008年11月9日
奨学金返還 制度守って次世代も支援を
大学生の3人に1人は日本学生支援機構から低金利の奨学金を借りている。
旧日本育英会の時代も含めると、これまで大学生や大学院生、高等専門学校生ら約814万人が恩恵を受けた。
その支援機構が金融機関でつくる個人信用情報機関に滞納者情報を通報する方針を決めた。
2010年度の貸与から対象になる。滞納を重ねると、クレジットカードやローンの利用に支障が出ることになる。
それは、まずい―と思い、返済するだろうというわけだ。そこまでしないと返してもらえないのか、と驚く。情けない話である。
■住所変え、連絡不通に■
卒業したら住所を変え、連絡が取れなくなるケースが後を絶たないという。
06年度、支援機構には郵便物約4万人分が住所不明で返送されてきた。そのうち約1万人は滞納者だった。07年度末現在で、貸し倒れの恐れがある滞納3カ月以上の「リスク管理債権」は2,253億円に達した。
122万人を対象とする08年度貸与事業の予算9,305億円と比べると、その数字の大きさが分かる。
返済された奨学金は、新規の貸与事業に回される。それが細ってしまうと、事業計画に影響する。
奨学金申請の窓口となり、その一部を授業料として受け取る大学なども対策を考えるべきだ。
卒業後の住所調査については慎重を要するが、返済義務の周知徹底を図るなど次世代にツケを回さないように知恵を絞らなければならない。
■校名公表求める声も■
2007年度は要回収3175億円に対して未返済660億円。リスク管理債権もじわじわと膨らんでいる。
6カ月以上の滞納者を対象にした調査(06年9月)では滞納理由として「低所得」「無職・失業」が上位を占めた。
滞納者に対する法的処置は現在、延滞1年以上を対象に行う支払い督促の申し立て予告に始まる。続いて、申し立て―強制執行予告―強制執行と進んでいく。
今後はこれを延滞9カ月以上から適用することになった。
金融機関並みの回収手順に近づいているといえるだろう。
奨学金をめぐる環境は厳しい。一部には、上限金利3%の引き上げや滞納者の多い学校名の公表を求める声まである。
そこまですると、必要とする学生が借りづらくなる。
県民所得が低い本県では奨学金なしでは県外への進学は難しいという人が多いだろう。支援のおかげで無事に学業を全うし、社会人となったあかつきには、是非ともきちんと返済したい。
地域の経済力によって生じる教育格差を奨学金で少しであっても埋めることができる。この制度を行き詰まらせてはならない。
宮崎日日新聞 2008年11月9日
教員汚職判決 教委改革の契機としたい
大分県の教員汚職事件で、教員採用をめぐって収賄罪に問われた元県教育委員会審議監に対し、大分地裁は執行猶予付きの有罪判決を言い渡した。
先に贈賄罪で有罪判決を受けた元小学校長に次いで、判決は二人目となる。
今年夏に発覚した事件は教育界を揺るがす前代未聞の不祥事となった。結局、八人が起訴された。
判決によると、元審議監は二〇〇六年の小学校教員採用試験で、元県教委参事(贈賄罪で公判中)の長女を合格させた謝礼として商品券百万円分を受け取った。
「わいろは口利きとは質的に異なり、動機や経緯に酌むべき点はない。大分県の教育行政に対する国民の信頼を損ねた」と、判決は厳しく指摘した。
そのうえで、裁判長は「大分県教育界の口利き体質は厳しく非難されなければならない」とし、「社会的非難を被告だけに向けるのは相当でない」と、猶予刑にした理由を述べた。
元審議監だけでなく、教育界全体の腐敗体質が指弾されたことを、大分県教委は厳粛に受け止めなければならない。
昨年の採用試験について、県教委は内部調査で不正な点数操作による合格者が二十一人だったことを公表した。その採用を取り消す一方、不合格者を新たに採用したため、混乱を広げた。
不正採用と名指しされた人の中には、本人が不正操作を知らなかったケースも含まれていた。誰の意向で、どう不正操作されたのか、ほとんど明らかになっていない。しかも、一昨年以前の採用試験の資料は残っておらず、全容解明も難しい。
汚職は校長らの昇任試験でも行われていた。便宜の謝礼に高額商品券の授受があったことも捜査段階で分かった。
一方で、外部からの口利きも絶えなかったとされる。元審議監は「県議らから毎年五十人程度の口利き依頼を受けた」と証言している。事実なら、公教育を担う教師の昇進や採用を、金品や口利きで決めることが常態化していたということであり、腐敗の底深さをうかがわせる。
事件発覚以来これまで、大分県教委に長年巣くった汚職や口利きの実態がすべて明らかになったとは言い難い。残る裁判で一つでも真相に踏み込んでもらいたい。
採用や昇進だけでなく、教育行政全体の透明度を高めていく。大分県教委にとどまらず、すべての教委に通じる課題だ。
神戸新聞 2008年11月7日
二宮被告も有罪 県教委汚職事件
大分県の二〇〇七年度教員採用をめぐる汚職事件で、収賄の罪に問われた元県教委ナンバー2の教育審議監で前由布市教育長の二宮政人被告(62)の判決公判が六日、大分地裁であり、宮本孝文裁判長は懲役一年六月、執行猶予四年、追徴金百万円(求刑・懲役一年六月、追徴金百万円)を言い渡した。
判決理由で宮本裁判長は「大分県の教育界には、いわゆる口利き体質があるが、本件犯行は単に口利きの依頼を受けたというものでなく、職務に関し、わいろを受け取った質的に異なる犯罪だ。教師となることを目指して努力してきた受験生たちに、根深い不信感を与えた」と述べた。
これまでの公判で二宮被告は採用試験をめぐる不正について「毎年、百人ほどの口利きがあった」と供述。県議や教育事務所長、市町村の教育長らからの依頼は特に優遇し、不正採用を繰り返していたと語った。ただ、具体的な口利きの依頼者については言及せず、不正の全容は解明されないままだ。
論告で検察側は「県教委ナンバー2という、不公正がないよう指揮する立場にありながら、それを放置し、自らわいろの供与を受けて部下に不正を指示した。発覚を恐れ、隠ぺい工作にも及んだ」と強く非難した。
二宮被告は犯行当時、県教委参事兼教育審議監。〇六年十一月に由布市教育長に就任したが、起訴後の今年七月に懲戒免職となった。
事件の舞台となった〇七年度採用試験では、不正採用のあおりを受けて不合格となった二十三人中二十二人(一人は辞退)が救済試験で合格、来年四月から教諭として採用される。県教委は〇八年度の不正合格者は採用を取り消すか辞職を求めたが、〇七年度の不正合格者は「データの精度が低い」として処分していない。
判決によると、二宮被告は二〇〇七年度の小学校教員採用試験で、元県教委義務教育課参事、矢野哲郎(52)と、妻で元小学校教頭のかおる(51)両被告夫婦=いずれも贈賄罪で公判中=の長女の採用試験の便宜の見返りに、〇六年九月九日と、十月二十八日の二回、大分市内の飲食店で、哲郎被告から商品券計百万円を受け取った。長女は不正に加点を受けて合格したとされ、七月二十三日付で辞職した。
二宮被告は控訴しない方針。
大分合同新聞 2008年11月6日
大学・自治体連携 特色出し地域に役立て
全国の大学が生き残りを懸けて地域に根ざす運営に力点を置き、自治体など地域との連携を強めている。県内の各大学も、このところ連携協定を結ぶケースが相次いでいる。
秋田大はきょう5日、小坂町と包括協定を締結する。「環境との共生」を掲げる同大が、鉱山の町として培われてきた技術を生かして金属資源の再生にも取り組み、近代化遺産などによる活性化を目指す同町との連携を拡大し、より強固にする。成果を注目したい。
国立大学は2004年度に法人となり、運営の自由度はぐんと増したが、国の運営費交付金は年々削減され、どこも経営基盤の強化が喫緊の課題だ。交付金の配分には教育研究はもちろん、地域貢献活動の評価も反映されるという。だが経済・産業界からは研究面の成果主義導入を強く求める意見がある。
「大学全入時代」とされる。少子化の進展の中でも大学数は増えており、えり好みしなければ希望者は全員入学できる。大学は、選ばれる、存在感のある運営に躍起だ。学生納付金に多くを負う私立大も、生き残りへ危機感を募らせる。
そんな中、各大学とも基本理念や目標の柱などに掲げる「地域の振興」や「地域との共生」などを、目に見える形でアピールしようというのが、地元自治体などとの相次ぐ連携協定の締結である。だが、それは「地域に役立つ」大学へと脱皮するためのスタート台にすぎない。
秋田大の自治体との連携協定は昨年の県を手始めに、秋田市、大館市、小坂町と続き、能代市とも結ぶ計画だ。県立大は先月、八郎湖の再生や町おこしに取り組む潟上市と連携協定を締結した。国際教養大も昨年、八峰町と協定を結び、海外からの留学生が町の児童や園児の英語授業を手伝っている。
今春、観光学科を創設したノースアジア大は意欲的だ。既に県内の主要観光地を抱える小坂町、男鹿市、仙北市など7自治体と協定を結び、先月は五城目町観光協会とも締結した。学生が県内各地の観光現場で学べるのは魅力的である。
連携する自治体にとっては、それぞれの地域課題の解決に大学の知恵を借り、研究者のノウハウを生かし、人材供給面の恩恵にもあずかれる。連携する双方の思いが一致することで、大学が身近になり、その存在感は高まるはずだ。
心配なのは大学が連携の締結を急ぐあまり、取り組みの実効をおろそかにすることだ。形を整えるだけでなく、着実に成果を挙げるべきである。
各大学は、建学の精神を踏まえつつ、時代と地域が求めるものに応えられるように、大学の特色を前面に出すべきではないか。「大学全入時代」を迎え、魅力を付加していかなければ生き残れないからである。地域に頼りにされ、役立つ大学運営を望みたい。
秋田魁新報 2008年11月5日
公文書管理 骨抜きにならぬよう
公文書は国や地方自治体などが政策決定に至った判断や議論の記録だ。それは国民共通の財産であり、行政の私物では決してない。
行政はその情報をしっかり保存し、国民が自由に利用できることが民主主義社会の基本であろう。
確かに個人情報にかかわる部分も少なからずあり、すべて公開というわけにもいかぬが、政策を検証する上では欠くことのできないものであり、歴史をひもとく手掛かりともなる。
しかし、国民は近年、役人のずさんな公文書管理を目の当たりにしてきた。社会保険庁の年金記録不備、厚生労働省によるC型肝炎発症者の資料放置などである。国民の財産や安全・安心を侵害しており、到底許し難い。
こうした言語道断の行為にかみついたのが福田前首相である。公文書管理を抜本的に見直すと法制化を言明し、有識者会議を立ち上げた。
その最終報告書がまとまり、麻生首相に提出された。政府は報告内容を盛り込んだ「文書管理法案」を来年の通常国会に提出する方針だ。
報告書はこれまで各省庁任せだった公文書の管理方法を統一し、国立公文書館など管理機関の機能を強化するよう求めたのが主な内容だ。
具体的には二〇〇一年に国の機関から独立行政法人に改組した国立公文書館を公文書管理を担当する「特別な法人」に再び変更することを提言した。現在、四十二人の職員を将来には数百人規模に拡大し、省庁レベルからの廃棄や散逸を防ぐ方策を確立する。
また、これまで分散していた公文書管理機能を新たな国立公文書館と監督官庁となる内閣府が一元的に担うこととする。基本的には一定期間を過ぎた文書は各省庁共通の「中間書庫」に引き継ぎ、集中管理する仕組みだ。
保存された文書は原則公開とし、インターネットなどを活用、地方や外国からの閲覧推進にも言及した。立法や司法文書の移管にも機能を発揮するよう求めている。
国民利用まで視野に入れ、法的な統一基準で公文書管理を強化しようというのは当然である。むしろ遅すぎたぐらいである。
今後心配なのは、法案づくりの過程で官僚の抵抗に遭い、提言が骨抜きにならないかという点だ。政治の責任は重い。指導力を発揮し、省庁の閉鎖的体質を打破してもらいたい。
高知新聞 2008年11月5日
法科大学院 地方を切り捨てぬ改革を
司法改革の理念である実社会で活躍する多様な法曹=法律家(裁判官、検察官、弁護士)を、本当に育てられるのか。創設から4年目を迎えた法科大学院制度が、早くも揺らいでいる。
法科大学院の修了生を対象にした新司法試験の合格率は、48%だった2006年の1回目から減り続けている。今年は前年より7ポイント低い33%にまで落ち込み、合格者ゼロの大学院が3校あった。
これを受け、中教審の特別委員会は入学定員の削減や統廃合を提言した。全体として法科大学院の定員を絞り込んで学生の質と教育の質を確保し、合格率の向上を目指そうという考えである。
文部科学省は今月中旬まで各校から聞き取りをして、年内にも改善策の提出を求める方針だ。結果次第ではより強い行政指導に乗り出すことも考えられる。
法科大学院には社会に開かれた司法改革を支える役割がある。その「質」が疑われるとは、ゆゆしき事態である。
新司法試験の合格率は70−80%と想定されていた。当初の目算が外れたのは、大学院の乱立と過大な定員にある。
法科大学院は全国に74校あり、総定員は約5800人だが、定員割れが46校もある。2年続いて定員不足に陥っている大学院は28校に上る。実績が伴わない大学院に学生が集まらなくなるのは自然の流れであり、定員削減や統合再編もやむを得ないだろう。
ただ、制度設計を誤り、74校も認可した文科省の責任も指摘したい。バスに乗り遅れるなとばかりに相次いだ申請を認めた失敗のツケがきている。
事態の改善についても注文がある。文科省は大学院個々の合格率や改善策ばかりに目を向けずに、あらためて法曹養成機関の適正配置を考えてもらいたい。
法科大学院は6割以上が関東、関西に集中している。定員が100−300人の大規模校も首都圏、関西圏がほとんどだ。
法曹の大部分である弁護士の大都市偏在と相似形であり、このままでは、地域に根差す弁護士の養成という司法改革の大事な狙いは一向に実現しないだろう。大学院の定員削減も再編も、まずはこうした大都市圏から進めるべきだ。
学費だけでも年間100万−200万円必要で、地方の学生が大都市圏で学ぶ経済的負担は重い。一方で、地元で弁護士になる夢を抱く学生は少なくない。地方の法科大学院の存在意義は大きいのだ。
九州・沖縄にも国立、私立合わせて計7大学に大学院があるが、定員が100人の九州大を除いて、すべて小規模校である。国が目指す法科大学院改革が、地方切り捨てになってはならない。
同時に、地方の大学院の合格率が総じて低迷しているのは事実だ。福岡大は来年度から50人の定員を20人減らし、個別指導を充実させるという。何が足りないのか、ほかの大学院も指導態勢を検証し、ぜひ自己改革をしてほしい。
西日本新聞 2008年11月5日
国立公文書館 強力な「法人」に改組すべきだ
国の歩みを伝える重要な記録を保存して、未来の国民に説明責任を果たしていくことは、民主主義国家として当然の責務である。
公文書管理の在り方を検討してきた政府の有識者会議が、最終報告書を麻生首相に提出した。
立法府や司法府の文書の国立公文書館への受け入れ促進を視野に入れ、独立行政法人である国立公文書館を改組し、「特別の法人」として新たに位置づけるよう提言している。
また、その「特別の法人」を強力な権限を持つ公文書管理担当機関とし、統一的・体系的な文書管理を実現するよう求めている。
政府は、報告書をもとに来年の通常国会に公文書管理法案を提出する予定だ。
諸外国と比べ立ち遅れの目立つ公文書館制度の抜本改革への第一歩と位置づけられるだろう。
提言の具体化に向けて、さらに議論を深めていく必要がある。
各省庁が作成し、管理する行政文書は、保存期限を迎えると、〈1〉国立公文書館へ移管〈2〉廃棄〈3〉保存延長――のいずれかに分類されるが、ほとんどの文書は、保存延長か廃棄に回されている。
分類は、内閣府と各省庁の協議で行われる。最終権限は各省庁にあり、国立公文書館の専門家の意見は十分に反映されていない。
米国では、上院の助言と同意の下で大統領に任命される国立公文書館長が、公文書館へ移管する文書を決定している。
最終報告では、各省庁の評価・選別の判断に際して、文書管理の専門家が適切にサポートする仕組みとすることや、その結果を公文書管理担当機関がチェックすることが盛り込まれた。
電子文書の管理・取り扱いルールの確立なども求めている。
国立公文書館を内閣府に統合する案も検討された。しかし、文書管理の専門家の柔軟な登用など、組織の弾力的な運営を進めていく上でも、「特別の法人」に改組する方が望ましいとされた。
要は、国立公文書館を公文書管理の中枢機関として、効果的に運用していくことだろう。
国立公文書館の職員数を、現在の42人から将来は数百人規模とすることも報告書は求めている。
今回の最終報告をまとめた有識者会議は、公文書館制度改革に熱心だった福田前首相の強い意向によって設置された。内閣が変わっても、国家の根本にかかわる事業として、着実に推進していかなければならない。
讀賣新聞 2008年11月5日
沖縄ノート判決 国民の「共通認識」を追認
歴史に多様な見方があるのは当然であり、そのために史実を絶えず検証することは、歴史認識を誤らせないために欠かせない作業である。
しかし、多くの体験証言や状況証拠を積み重ね、ほぼ国民の共通認識となっている歴史的事実を見直すには、説得力ある根拠と慎重な判断が要る。
ましてや、そこに政治的な目的や個人的な利害が入り込めば、歴史をゆがめることになりかねない。
太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に集団自決を命じたかどうかが争点となった「沖縄ノート訴訟」控訴審での大阪高裁判決は、言外にそう言っていると受け止めたい。
この訴訟は、沖縄戦当時に慶良間諸島に駐屯していた元守備隊長らが、旧日本軍の隊長が住民に自決を命じたとした岩波新書「沖縄ノート」などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、著者の大江健三郎さんと岩波書店に出版差し止めと慰謝料を求めて起こしていた。
3月の一審大阪地裁判決は「軍が駐屯していなかった所では集団自決が起きていない」「軍の貴重な兵器である手りゅう弾が使用された」などの事実を積み上げて「軍が深くかかわり、守備隊長らの関与は十分に推認できる」と認定し、元隊長らの請求を棄却した。
元隊長らの直接的な自決命令があったかどうかついては「断定できない」と事実認定を避けたが、沖縄戦の集団自決への「軍の関与」を明確に認める初の司法判断となった。
大阪高裁の控訴審判決も「軍の深い関与は否定できない」「総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」との判断を示し、再び原告らの訴えを退けた。
「軍の強制や誘導なしには集団自決は起こり得なかった」とする沖縄の人々の事実認識を裏づけると同時に、集団自決をめぐる沖縄戦の実相を冷静に見つめた妥当な判決と評価したい。
控訴審は二度の口頭弁論だけで結審したが、そのなかで原告側は「昨年の教科書検定を通じて教科書から(軍の)命令や強制が削除されたことは、訴訟の目的の1つを達したと評価できる事件だった」と述べている。
2005年の提訴によって、それまで高校の歴史教科書にあった沖縄戦の集団自決への「軍の命令」や「軍の強制」の記述が、結果的にあいまいにされたことを成果としているのだ。
民事訴訟の提起に「政治的目的」があってはならないとは言わない。しかし、集団自決という事実を通して沖縄戦の実相をめぐる「歴史」を争点にした訴訟である。政治的な思惑や見方は排除されるべきだ。
そうでなければ、事実を冷静に判断し私たち国民が「歴史の教訓」を正しく後世に伝えていくことができない。
西日本新聞 2008年11月4日
若手研究者育成 ノーベル賞を喜びつつも
日本人のノーベル賞受賞は、もちろん喜ばしい。科学界だけでなく、社会の励みになる。だが、冷静に考えると、浮かれてばかりいられない。
物理学賞も化学賞も、授賞対象となった業績は30年以上前のものである。受賞は「過去の遺産」といってもいい。
翻って、現在の日本の若手研究者が置かれている環境はどうだろう。ノーベル賞は目的ではないが、結果的に受賞に結びつくような優れた研究の芽を育てる環境が整っているか。考えると心もとない。
まず、若手研究者が独立して研究できる体制に難点がある。日本の研究室には、教授が頂点にいて、准教授(かつての助教授)より下はその手伝いというヒエラルキーがあった。この構造は変わりつつあるが、十分とはいえない。大学などは、若手研究者を予算の面でも研究の中身でも独立させる必要がある。
いわゆる「ポスドク問題」も大きい。博士号を取得した後、任期付きで研究に従事する研究者をポストドクトラル・フェロー(ポスドク)という。政府は米国のシステムに倣い、96年から00年までいわゆる「ポスドク1万人計画」を掲げ、その数は急増した。
ところが、ポスドク後の受け皿は増えなかった。正規の教員である助教(かつての助手)にも任期制が導入され、一定期間で次のポストを探さなくてはならない。民間企業が博士を採りたがらない傾向もある。
その結果、ある程度の年齢になっても常勤職に就けない研究者が増えている。文部科学省の調査によるとポスドクは約1万6000人、そのうち1割を40歳以上が占める。
若手研究者にとって、さまざまな研究環境を経験する「流動性」は重要である。ただ、流動性を支える基盤が大学にも社会全体にもなければ、機能不全に陥ってしまう。短期間で業績を上げようと、成果が出やすい研究ばかりが選ばれるという弊害も生じる。
こうした状況は若手研究者の意欲をそぐ。それを見ている若者は研究者に魅力を感じなくなるだろう。実際、理学系でも工学系でも、博士課程への進学者はこの4、5年、急速に減少している。
大学や政府は、能力のある若手研究者が、任期付きポストを経験した後、腰を落ち着け、独立して研究できる体制作りを進める必要がある。大学以外のキャリアの可能性も広げていかなくてはならない。そうした試みは既にあるが、十分とはいえない。
若手研究者の育成にあたっては息の長い基礎研究の重要性も肝に銘じたい。今年のノーベル物理学賞はもちろん、化学賞の対象となったクラゲの蛍光物質の発見も純粋な知的好奇心に導かれた成果だった。それが後に重要な応用につながったのだ。
毎日新聞 2008年11月4日
沖縄ノート高裁判決 言論の萎縮に警鐘を鳴らした
沖縄戦で住民に集団自決を命じたとの記述で名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の戦隊長らが「沖縄ノート」の著者の大江健三郎さんと岩波書店に出版差し止めと慰謝料を求めた裁判で、大阪高裁は原告の主張を退けた1審判決を支持し、控訴を棄却した。
控訴審では、元隊長が住民に自決をしないよう命じたという新たな証言が提出された。だが、判決は「虚言だ」と言い切った。
集団自決については「軍官民共生共死の一体化」の方針の下で、旧日本軍が深くかかわっていることは否定できないと、1審と同じ見方を示した。
原告側は上告する方針だが、集団自決への軍の関与を認める司法判断が続いた意味は重い。
軍の役割をめぐっては、「関与」は認めても、「強制」や「命令」ではないと強調する論調もある。これに対し、遺族や沖縄県民は強く反発してきた。
控訴審判決は軍の関与について「総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」と、1審より踏み込んだ見解を述べている。
原告らの主張は、06年度の高校日本史教科書の検定で、軍の「強制」があったという趣旨の記述に対し、文部科学省が検定意見を付ける根拠となった。いかに拙速な措置だったか、文科省は控訴審判決を真摯(しんし)に受け止めるべきだ。
判決は既に出版された著作物の差し止め基準について、表現の自由を広く認める初の判断も示した。
公共・公益性の高い出版物なら、新たな資料が出てきて真実性が揺らいだとしても、虚偽が明白であったり、名誉を侵害された者が重大な不利益を受け続けるなどの事情がない限り、出版の継続が直ちに違法とはいえない、とした点だ。
さもないと、著者は常に新資料に注意を払い続けなければならず、「そうした負担は、結局は言論を萎縮(いしゅく)させることにつながる」と指摘している。
そのうえで、仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において価値がないものであるとはいえないとし、「これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障する」と述べた。
判決は、元隊長の自決命令があったかどうかは断定できないとしたが、出版当時、自決命令説は「学会の通説ともいえる状況にあった」と認めている。
名誉棄損を盾に、安易に出版を差し止めようとしたり、メディア規制に走ろうとする動きに対する警告であり、言論の自由を重視した見解と評価したい。
1、2審を通じて、史実を伝えていく難しさが浮き彫りになった。主張に対立があるテーマこそ、事実を一つ一つ検証し、冷静に議論していく環境をつくっていかなければならない。
毎日新聞 2008年11月3日
身なりチェック 規律ただす指導は当然だ
神奈川県立神田高校の入学試験で、服装や態度に問題がある生徒を不合格としたことで、校長が更迭処分を受けた。
学校生活にふさわしい服装、態度を含め規律を守ることは合否基準以前に当然のことだ。同校に限らず生徒への指導は毅然(きぜん)と行うべきもので、その原点を十分に議論することなく処分を先行させたのだとすれば極めて残念だ。
今回の更迭については、県教育委員会や同校に多数の電話やメールが寄せられ、9割は校長や学校側の判断を擁護する内容だった。生徒の間からも異動撤回の署名を集める動きがあるという。
神田高校では入学願書受け付け時や試験日に、髪を染める、ズボンをひきずるといった服装や態度で著しい問題がある受験生をチェックし、最終的に「入学後の指導が困難」として合格圏内でも不合格にした生徒が平成17、18、20年度入試で計22人いた。
同校は約340人の全校生徒のうち年間約100人が退学する問題校とされてきた。関係者によると、更迭された校長は規律刷新に率先して取り組んでいた。自身もまた「教員の生徒指導の負担を軽減し、まじめな生徒をとりたかった」と話している。
ただ、入試時のチェックの際、問題のある生徒には直接告げるべきだった。入試のときまで、だらしない身なりや問題のある態度には、その場で一喝して正していくのが教師らの役割だろう。
こうした生徒を許してきた責任は家庭や中学校にもある。連携して教育、指導しなければ問題は解決できない。学校現場では厳しい生徒指導をためらう傾向がある。授業で騒いだ子を廊下に立たせるといった指導は体罰や人権侵害だと批判される。授業中にメールをしていた生徒から携帯電話を取り上げただけで保護者が抗議してくるケースもあるという。
いじめを行う生徒などへの指導もきちんと行えない現状が批判され、文部科学省は昨年、体罰の基準を明確化した通知を出し、指導が萎縮(いしゅく)しないよう求めた。規則を明確に決め、守らなければ厳しく対処する米国の「ゼロ・トレランス(非寛容)」を参考にした指導の必要性も通知している。
生徒指導では問題をあいまいに放置せず、粘り強く、ときに厳しく指導することが必要だ。そこから生徒や保護者の信頼も生まれてくるはずだ。
産経新聞 2008年11月3日
憲法公布62年 首相主導で国家像論じよ
憲法公布から62年を迎えた。日本を囲む環境は公布当時に比べ、北朝鮮の核や国際テロリストの横行などで激変している。世界における日本の比重も格段に違う。
憲法の枠組みで国民の平和と安全が守れるのかどうかは常に検証されねばならない。そうした根幹の問題を直視し、是正することが現在の日本を覆う閉塞(へいそく)状況を打破しよう。
日本にとってこれまで以上の関与を考えざるを得ないのは、アフガニスタンにおけるテロとの戦いだ。米国はアフガン支援強化を打診してきており、新政権はさらなる関与を求めてくるだろう。
インド洋における海上自衛隊の給油支援を継続する新テロ対策特別措置法改正案の成立は、もはや当たり前なのである。
国際社会の一員として適切に対応していかなければ、日本の安全そのものも脅かされることを忘れてはなるまい。
問題は、日本が国際社会の共同行動に実効的に参加することが難しいことだ。国連平和維持活動ですら、仲間の他国部隊が攻撃されても武器を使用して助けることができない。抑制的な国連の武器使用基準すら自衛隊が許されないのは、武力行使と一体化しかねないとする憲法解釈があるためだ。
北朝鮮が米国にミサイルを発射しても、日本は迎撃することを許されていない。憲法上禁止されるとしている集団的自衛権行使に抵触すると判断しているからだ。
北の核兵器や弾道ミサイルには日米で共同対処せねばならないのに、現状は日米同盟関係を根幹から危うくしかねない。
こうした憲法などの法的基盤の不備を改めない限り、日本は国際社会の責務を果たせない。
昨年5月に成立した国民投票法により、憲法改正の発議は平成22年5月18日から可能になる。日本をどうすべきか、党派を超えた論議が必要だ。
だが、国会は憲法問題の論議を1年以上も封印している。憲法問題の調査、研究を行う憲法審査会が昨年8月、設置されたものの、審査会の議事運営を定める審査会規程はいまだに制定されていない。民主党の反対による。責任政党の役割を放棄するものだ。
麻生太郎首相は憲法改正が持論であり、9月末には集団的自衛権行使容認に向けた憲法解釈の見直しに意欲を示した。首相主導による局面の転換を期待したい。
産経新聞 2008年11月3日
沖縄ノート訴訟 史実と向き合う言論の勝利だ
「集団自決は日本軍が深くかかわっていることは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」―おとといの大阪高裁判決だ。
大江健三郎さんの「沖縄ノート」には、太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が住民に「集団自決」を命じたとする記述がある。これに対し、当時の守備隊長らが名誉を傷つけられたとして、大江さんと出版社に出版差し止めなどを求めていた。一審は元隊長ら原告の敗訴だった。続く大阪高裁も原告の訴えを退けた。
「集団自決」を軍が強いたとする証言は数知れない。それが重要な裏付けとなって学術研究は積み上げられる。判決は自然で極めて妥当だ。
名誉棄損は判例上、表現に公共性と公益性が認められ、真実の証明か、真実と信じるに相当な理由(真実相当性)があれば責任を問われない。
高裁判決は元隊長が直接住民に命令したかどうかは断定できないとした。が、三十八年前の「沖縄ノート」発刊当時は、隊長命令説が学会の通説といえる状況であり、真実相当性があったと認めた。
長年出版が継続している書物に対し、新資料が出るたびに紛争が蒸し返されるようでは言論の萎縮(いしゅく)につながる。高裁が出版差し止めの新たな判断基準を示して一審判決を補った点は特に注目される。
公務員に関する記述など高度な公共性と公益性がある場合、新資料で真実性が揺らぐだけでは、ただちに違法にならないとした。その上で、出版差し止めは少なくとも内容が真実でないことが明白で、名誉侵害を受ける人が発刊後も重大な不利益を受け続ける時に限ると結論づけた。
判決はこうも述べている。主張に対する批判と再批判の繰り返しの過程を保障することが民主主義であり、「後の資料から誤りとみなされる主張も無価値とはいえず、これに対する寛容さこそが自由な言論の発展を保障する」。
憲法が保障する表現の自由の重さを広く解釈した判決の意義は大きい。史実と向き合う言論こそ尊重されなくてはならない。同時に、断片的な事実や現在の価値観だけに頼って過去を見ることの危うさを示唆している。
政府も一連の判決を真摯(しんし)に受け止める必要がある。文部科学省は二〇〇七年三月の教科書検定で「集団自決」についての軍の強制に関する記述を削除させた。根拠のひとつが今回の訴訟提起だった。
その後、軍の関与を示す記述への訂正申請を認めたが、先の検定意見は撤回されないままだ。言論の重さを指摘した高裁判決に照らせば、これまでの文科省の対応には強い疑念を抱かざるをえない。最高裁判決を待つまでもなく検定意見を撤回するべきだ。
愛媛新聞 2008年11月2日
集団自決判決―あの検定の異常さを思う
太平洋戦争末期の沖縄戦で、住民の集団自決に日本軍が深くかかわっていた。そのことが大阪地裁に続いて大阪高裁でも認められた。
06年度の教科書検定で、軍のかかわりを軒並み削らせた文部科学省の判断の異常さが改めて浮かび上がる。
問題になっていたのは、ノーベル賞作家、大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」だ。米軍が最初に上陸した慶良間諸島で起きた集団自決は日本軍が命令したものだ、と書いた。
これに対し、元守備隊長らが指摘は誤りだとして、大江さんと出版元の岩波書店に慰謝料などを求めた。
沖縄の日本軍は1944年11月、「軍官民共生共死の一体化」の方針を出した。住民は根こそぎ動員され、捕虜になることを許されなかった。そんな中で起きたのが集団自決だった。
大阪高裁は「一体化の大方針の下で軍が集団自決に深くかかわったことは否定できず、軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」と述べた。
集団自決が軍に強いられたものであったことは沖縄では証言がたくさんあり、学問研究も積み上げられていた。判決はきわめて常識的なものだ。
裁判で元隊長は、住民に「決して自決するでない」と命じた、と主張した。控訴審では、その命令を聞いたという男性の陳述書も提出された。
判決は「元隊長の主張は到底採用できない」と指摘し、男性の供述を「虚言」とはねつけた。遺族年金を受け取るために隊長命令説がでっちあげられたという原告の主張も退けた。
そのうえで、判決は「出版当時、隊長命令説は学会の通説ともいえる状況にあり、真実と信じるに相当な理由があった」と結論づけた。
そこでもうひとつ注目すべきは、表現の自由を幅広く認定したことだ。原告側が「沖縄ノート」の発行後に隊長命令説を否定する資料が出てきたと主張したことに触れ、「新しい資料で真実性が揺らいだからといって、ただちに出版の継続が違法になると解するのは相当ではない」との判断を示した。
それにしても見逃せないのは、文科省が教科書検定で「日本軍に強いられた」というような表現を削らせた大きな理由として挙げていたのが、この裁判の提訴だったことである。一方的な主張をよりどころに、歴史をゆがめようとした文科省の責任は重い。
問題の検定は、「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍政権の下でおこなわれた。時の政権の持つ雰囲気が、歴史の見直しという形で影を落としたのではなかったか。最終的に「軍の関与」を認める訂正をしたのは、次の福田政権になってからだ。
ありのままの歴史にきちんと向き合う。その大切さを、一連の教科書検定と裁判を機に改めて確認したい。
朝日新聞 2008年11月1日
集団自決判決 検定の立場は維持すべきだ
結論は1審判決と変わりはない。しかし、受け止め方によっては、沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述に、新たな混乱をもたらしかねない判決である。
集団自決を命じたと虚偽の記述をされ名誉を傷つけられたとし、旧日本軍の守備隊長だった元少佐らが、作家の大江健三郎氏と岩波書店に出版差し止めと損害賠償を求めた控訴審で、大阪高裁は1審判決を支持し、原告の控訴を棄却する判決を言い渡した。
裁判では、隊長命令説が長い間定説となっていた渡嘉敷島と座間味島の集団自決について、軍命令の有無が争われた。
控訴審判決は、集団自決に日本軍が深く関(かか)わっていることは否定できず、「これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」とした。1審判決にはなかった見解である。
集団自決の背景に軍の「関与」があったこと自体を否定する議論は、これまでもなかった。
昨年春の教科書検定では、沖縄の集団自決に日本軍の「関与」はあったが、「強制」「命令」は明らかでないとする検定意見が付けられた。「関与」と「強制」「命令」を混同した議論など、決してあってはならないことだ。
一方で判決は、隊長が集団自決を命令したという事実の有無については、断定することはできないとした。
渡嘉敷島の集団自決の隊長命令説をめぐっては、生存者を取材した作家の曽野綾子氏が1973年に出した著書によって、その根拠が大きく揺らいだ。
座間味島の守備隊長に、自決用の弾薬をもらいに行って断られたという証言を盛り込んだ本は2000年に刊行されている。
判決は、新資料が出現して、従来の主張の真実性が揺らいだ場合でも、「社会的な許容の限度を超えると判断される」などの要件を満たさなければ、直ちに書籍の出版を継続することが違法になると解するのは妥当でないとした。
公共の利害に深く関わる事柄については、論者が萎縮(いしゅく)することなく、批判と再批判を繰り返していくことが、民主主義社会の存続の基盤だとも指摘した。
「言論の自由」を守るということでは、その通りだ。
しかし、控訴審判決でも日本軍が集団自決を命令したと断定されなかった以上、「軍の強制」といった記述は認めないとする教科書検定意見の立場は、今後も維持されるべきだろう。
讀賣新聞 2008年11月1日
沖縄集団自決訴訟 判決と歴史の真実は別だ
沖縄戦で旧日本軍の隊長が集団自決を命じたとする大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、大阪高裁も同地裁同様、大江氏側の主張をほぼ全面的に認める判決を言い渡した。
訴訟は、大江氏らが沖縄県渡嘉敷・座間味両島での集団自決は隊長の命令によるものと断定的に書いて隊長を断罪した記述の信憑(しんぴょう)性が問われた。
大阪高裁は「狭い意味での直接的な隊長命令」に限れば、大江氏らの記述に「真実性の証明があるとはいえない」としながら、出版当時(昭和40年代)は隊長命令説が学会の通説であり、不法行為にはあたらないとした。つまり、広い意味では、集団自決は日本軍の強制・命令とする見解もあるのだから、元隊長らの名誉を損ねていないという趣旨である。
しかし、裁判で争われたのは、あくまで「直接的な隊長命令」の有無だったはずだ。判決は論理が飛躍しているように思える。
大阪高裁は、産経新聞などが報じた隊長命令を否定する元防衛隊員や元援護担当者らの証言を「明らかに虚言」「全く信用できず」などと決めつけ、証拠採用しなかった。証拠に対する評価も、かなり一方的な判断といえる。
この種の歴史的な叙述をめぐる名誉回復訴訟では、原告側は「一見して明白に虚偽である」ことを立証しなければ、勝訴できないといわれる。東京で争われた南京の“百人斬り”報道の信憑性をめぐる訴訟でも、原告側は敗訴し、朝日・毎日新聞に対する名誉棄損の訴えは認められなかった。
だが、“百人斬り”が真実として認められたわけではない。報道に立ち会った元従軍カメラマンらの証言で、“百人斬り”はなかったことがほぼ証明されている。
今回の沖縄戦集団自決をめぐる訴訟も、大江氏らに対する名誉棄損の法的な訴えが認められなかったに過ぎない。歴史的事実として集団自決が旧日本軍の隊長命令だったと確定したのではない。訴訟の勝ち負けと歴史の真実は、全く別の問題である。
集団自決をめぐっては、作家の曽野綾子氏が渡嘉敷島などを取材してまとめたノンフィクション「ある神話の背景」で大江氏の記述に疑問を提起したほか、その後も、隊長命令説を否定する実証的な研究が進んでいる。これからも、地道な研究や調査が積み重ねられることを期待したい。
産経新聞 2008年11月1日
控訴審判決 軍の深い関与が明白に
沖縄戦の際、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)」をめぐる裁判の控訴審判決で、大阪高裁の小田耕治裁判長は原告の主張を退け、控訴を棄却した。
今年三月の大阪地裁判決に続いて再び、元戦隊長側敗訴の判決が言い渡されたことになる。
小田裁判長は「最も狭い意味での直接的な隊長命令に限れば、その有無を断定することはできない」と述べた。
この指摘は、戦隊長による自決命令について「伝達経路が判然とせず、(あったと認定するには)ちゅうちょを禁じ得ない」とした一審判決に通ずるものだ。
「なかった」とも言い切れないが、「あった」とも断定できない、という立場だ。
控訴審判決はその一方で、座間味島、渡嘉敷島での「集団自決」に日本軍が深くかかわっていることは否定できない、とも指摘している。これも一審判決に沿ったものだ。
一審、二審を通して隊長命令の有無や日本軍の関与についての裁判所の見方が定まった、と言える。
二〇〇六年度の教科書検定で文部科学省は、検定意見を付し、「集団自決」に関する軍の強制記述を削除するよう求めた。〇五年度まで認めてきた記述がなぜ、〇六年度になって突然、許されなくなったのか。
文科省側はこれまで「学説状況の変化」と「元戦隊長の裁判での陳述書」がその根拠だと説明してきた。だが、二度にわたる判決で、検定意見そのものに問題があることが明らかになったと言えよう。
この裁判は、作家の大江健三郎さんが書いた『沖縄ノート』などの中で名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長らが、大江さんや出版元の岩波書店に対し、本の販売差し止め、慰謝料の支払いなどを求めているものである。
控訴審判決で注目されるもう一つの点は、書籍発刊当時、その記述に真実性や真実相当性が認められるのであれば、その後、時がたって新しい資料が見つかり、その真実性が揺らいだ場合であっても、出版の継続が直ちに違法になると解することはできない、との判断を示したことだ。
判決は、著者が常に新しい資料の出現に意を払い続けなければならないとしたら「そのような負担は言論を萎縮させることにつながる」と指摘している。控訴審判決で新たに登場した論点に対し、最高裁がどう判断するか。言論・表現の自由との関連が深いだけに、注目したい。
日本軍による住民殺害と「集団自決」は、沖縄戦を特徴づける出来事である。しかも、この二つの出来事は相互につながっている。
この問題から目をそらしては、沖縄戦の実相に触れることができない。昨年九月の県民大会で高校生代表は語っている。「分厚い教科書の中のたった一文、たった一言かもしれませんが、その中には失われた多くの尊い命があります」
沖縄戦の史実に向き合うことは失われた尊い命に向き合うことなのだと、控訴審判決に接してあらためて思う。
沖縄タイムス 2008年11月1日
岩波・大江訴訟 県民納得の妥当判決だ
沖縄戦時に座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決」(強制集団死)に旧日本軍はどう関与したかなどをめぐる史実論争に再び司法判断が示された。
沖縄戦体験者の証言をはじめ歴史研究の積み重ねなどを踏まえた妥当な判決だ。結論を導く筋道が分かりやすい。歴史的事象に対する客観性や普遍性に主眼を置いた解釈、明快な論理展開で言論・出版の自由へ踏み込んだことも特筆される。
訴えていたのは、座間味島に駐留していた同島元戦隊長の梅澤裕氏、渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の遺族で、戦隊長が住民に自決を命じたとの記述は誤りだとして「沖縄ノート」の著者・大江健三郎氏と版元の岩波書店に出版差し止めや慰謝料などを求めていた。
大阪高裁の小田耕治裁判長は原告請求を全面的に棄却した一審・大阪地裁判決を支持し、元戦隊長側の控訴を退けた。
地裁判決では両島での「集団自決」を、元戦隊長が自決命令を発したか断定できないとしたものの、日本軍の関与を認め、両戦隊長の関与は「十分に推認できる」と断じた。
小田裁判長は「軍官民共生共死」の一体化に言及。「総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」とした。惨劇で肉親らを失った遺族らの証言に沿っており、沖縄戦研究の蓄積とも合致する解釈だろう。
注目したいのは、名誉侵害と言論の自由とのかかわりを述べた点だ。名誉侵害を主張する者は「新しい資料の出現ごとに争いを蒸し返せる」とし、著者へのこれらの負担は「結局は言論を萎縮させることにつながる恐れがある」と指摘した。
高裁が大多数の県民にほぼ共通の理解と認識に立って、司法判断を下した意味は重い。
判決は、同時に私たちに沖縄戦史実を継承し、新たな事実を掘り起こすなど地道な努力を促したとは言えないか。一人一人が歴史と正しく向き合うきっかけにしたい。
琉球新報 2008年11月1日