2415政府による最高裁学テ判決援用の仕方に対する批判

 

 

164国会 衆特別委 第4回(526日)

○志位委員 要するに、今の答弁は、法改定を行う理由として二つの点を言われたと思います。
 第一は、国会において制定される法律に定めるところにより行われる教育が不当な支配に服するものではないという主張であります。第二は、国は必要かつ相当と認められる範囲において教育内容についてもこれを決定する権能を有するというものであります。
 今の答弁は、その根拠を、専ら、一九七六年の最高裁大法廷におけるいわゆる学力テスト判決に求めております。
 この最高裁判決には私たちが肯定できない弱点も含まれておりますが、政府の法案は、この最高裁判決に照らしても説明のつかないものになっていると私は思います。
 以下、一つ一つ問題点を具体的にただしていきたいと思います。
 第一の問題です。法律に定めるところにより行われる教育が不当な支配に服するものではないという政府の主張について、検討したいと思います。
 政府が引用した七六年の最高裁判決は、判示事項の冒頭部分で、子供の教育の内容を決定する権能がだれに帰属するとされているかという問題について、二つの極端に対立する見解があることを指摘しております。
 その一つが、最高裁が次のように特徴づけている当時の政府、文部省の見解であります。それを読み上げます。
 一の見解は、子どもの教育は、親を含む国民全体の共通関心事であり、公教育制度は、このような国民の期待と要求に応じて形成、実施されるものであつて、そこにおいて支配し、実現されるべきものは国民全体の教育意思であるが、この国民全体の教育意思は、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国民全体の意思の決定の唯一のルートである国会の法律制定を通じて具体化されるべきものであるから、法律は、当然に、公教育における教育の内容及び方法についても包括的にこれを定めることができ、また、教育行政機関も、法律の授権に基づく限り、広くこれらの事項について決定権限を有する、と主張する。
これが片方の主張として紹介されております。
 最高裁判決は、この見解に続いてこれに対立する見解を紹介した後で、こう述べております。「当裁判所は、右の二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと考える。」こう退けています。
 すなわち、法律は教育内容と方法について何でも決定することができ、教育行政機関は法律に基づく限り教育内容と方法について何でも決定することができるという立場を、最高裁判決は「極端かつ一方的」と退けているわけですが、この事実は間違いありませんね。事実関係の確認です。

○小坂国務大臣 そういう事実関係についての是非について、私はこの裁判そのもの全部学んでいるわけでございませんが、考え方として、私は、教育内容に対して国家的な介入については、政党政治ということでありますから、これは抑制的であるべきだというふうには思っております。

○志位委員 政党政治が抑制的というのは、後でまた議論するんです。
 今の私が読み上げたことの事実関係はお認めになりますね。そういう判決事由が述べられているということはよろしいですね。そのイエスかノーかでいいんです。事実関係です。判決を読んできてくださいと私、言いました。

○小坂国務大臣 判決の中には、そのように記述をされております。

○志位委員 もう一つ聞きましょう。
 この最高裁判決は、教育基本法十条の解釈で次のように述べております。同条項、基本法十条が排斥しているのは、教育が国民の信託にこたえて、
 自主的に行われることをゆがめるような「不当な支配」であつて、そのような支配と認められる限り、その主体のいかんは問うところでないと解しなければならない。それ故、論理的には、教育行政機関が行う行政でも、右にいう「不当な支配」にあたる場合がありうることを否定できず、問題は、教育行政機関が法令に基づいてする行為が「不当な支配」にあたる場合がありうるかということに帰着する。思うに、憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここにいう「不当な支配」となりえないことは明らかであるが、上に述べたように、他の教育関係法律は教基法の規定及び同法の趣旨、目的に反しないように解釈されなければならないのであるから、教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法十条一項にいう「不当な支配」とならないように配慮しなければならない拘束を受けているものと解されるのであり、その意味において、教基法十条一項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるものといわなければならない。
こういう文章がありますね。
 これまで政府は、この確定判決の中から、最高裁判決は法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなり得ないとしているという部分だけ抜き出しているんですが、それはごく一部分であって、この文章の結論は、今読み上げたように、法令に基づく教育行政機関の行為も不当な支配に当たる場合があり得るということを述べているわけですね。この事実、確認しておきたいと思います。そう述べていることは間違いありませんか。事実関係の確認です。

○小坂国務大臣 ただいま読まれましたこの(三)、その中での「これによつてみれば、同条項が排斥しているのは、」云々というところをお読みになったわけでございますが、それをさらにずっと追っていただきまして、その最後の結論に相当する部分、
 むしろ教基法十条は、国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたつては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがつて、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであつても、必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが、相当である。
としておりまして、先ほど述べられた部分を改めてここの部分で、教育が許容される目的のため必要かつ合理的と認められる場合には、それは禁止されるものではないと解するのが相当としているところでございます。

○志位委員 とんちんかんなところを読んでいるんですよ。

 私が言ったのは、法律の命ずるところをそのままに執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなり得ないと政府が言っている、その部分の末尾が、十条一項は法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるものだと述べている、その事実を確認したんです。それは間違いないですね。

○小坂国務大臣 この部分の記述のみで判断をするならば、それは「教基法第十条一項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるものといわなければならない。」と書いてありますから、そのとおりであります。

○志位委員 そうしますと、政府の立場に大きな矛盾が生まれてきます。
 政府は、法律に定めるところにより行われる教育は不当な支配に服するものでないという主張を最高裁の判決から導き出しているわけでありますけれども、最高裁の判決は法令に基づく教育行政機関の行為にも十条一項は適用があると言っているわけですから、これは、最高裁判決の趣旨を踏まえると言いながら、その内容を百八十度ねじ曲げた、改ざんしたと言わなければなりません。
 次に第二の問題に進みます。政府が最高裁判決から「国は、」「必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する」という文言を引用し、現行基本法十条を改定する根拠に置いていることについて検討したいと思います。
 政府はこの一文だけを引用し、最高裁判決はあたかも国が教育内容について自由な決定権を持つことを認めたかのように言いますが、判決はそうなっておりません。この一文に続けて最高裁判決は次のような見解を表明しております。
 政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二十六条、十三条の規定上からも許されない
こう述べております。
 要するに判決には、教育内容に対する国家的介入は一切排除するとは言っていません、排除するとは言っていないけれどもできるだけ抑制的でなければならないと書いてあるんですね。これは憲法の要請として判決に明記されているものです。政府はこれは重く受けとめなければならないと考えますが、いかがでしょう。

○小坂国務大臣 志位委員は判決をお読みになるときに、自分たちにとってといいますか、御自身のお考えに沿った部分だけをお読みになって、それに続く部分をお読みになっていないように思うんですね。
 例えば、今お読みになった最後の文、「憲法二十六条、十三条の規定上からも許されないと解することができる」とおっしゃいましたけれども、「解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。」というふうに書いてございまして、今おっしゃったことは最後の部分で否定をされているわけでございます。

○志位委員 これは先ほど言ったでしょう。国が教育内容に対して一切介入は排除されるという見解は、これは確かに最高裁の判決でも否定されていると、私さっき言ったでしょう。しかし、抑制的でなければならないと書いてあるわけですよ。これは最後の文章で、否定はされていませんよ。否定されているという見解ですか。最高裁の判決は、抑制は一切なくてもいいということを書いてあるということですか。そうじゃないでしょう。
 そこを聞いているんです。抑制的でなければならないというふうに述べていることを重く受けとめるべきだと言っているんです。ちゃんと答えてください。

○小坂国務大臣 先ほど申し上げましたけれども、政党政治というものにおいて国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるということは否定はされません。そのとおりでありますが、しかし、とする一方で、このことが子供の教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由とはならないというふうに結論づけているわけでございますし、また、この判決は、あくまでも国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国が必要かつ相当と認められる範囲内において教育の内容を決定する権能を有することを前提としているものであることも事実でございます。

○志位委員 今、答弁ではっきりと、教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的でなければならない、このことは否定されていないとおっしゃいましたね。これは認められたと思います。つまり、この判決は、教育内容に対して合理的かつ一定の範囲内での関与はできる、しかし、それは抑制的でなければならないというのがこの判決なんですよ。
 その上で、最高裁の判決は、教育内容に対する国家的介入を抑制的にする保証を現行基本法のどこに求めているか。判決では、現行基本法第十条について、この条項によって「教育内容に対する行政の権力的介入が一切排除されているものであるとの結論を導き出すことは、早計」と確かに書いてありますよ。としながらも、次のようにも述べています。
 子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることは原判決の説くとおりであるし、また、教基法が前述のように戦前における教育に対する過度の国家的介入、統制に対する反省から生まれたものであることに照らせば、同法十条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有する
その後に続けてしかし早計だというところに文章はなっていますけれども、それなりに合理性を有するという判定もしています。
 すなわち、最高裁の判決は、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であるべきだという憲法の要請を保障するものが現行教基法十条であると述べています。