164国会 衆特別委 第3回(5月24日)
○河村(建)委員 ありがとうございました。
今、大臣、御指摘があったような視点でしっかりこの問題に取り組んでいただいて、やはりきちんとした宗教の一般的教養を得られるように努力をお願いしたいと思います。
もう一点、教育行政のところでございますが、不当な支配の点についてお伺いいたしますが、人格の完成というのは、これは教育の非常に基本で、それを、教育は中立性、不偏不党性が強く求められると私は思うのであります。
教育基本法、改正の十六条、現在の基本法第十条第一項の国民全体に対し責任を負ってという文言が削除されて、教育は法律の定めるところにより行われるべきだ、こうなっておりますが、この改正案の「不当な支配」というのは何を意味しているのか、文部大臣にお伺いをしたいと思います。
○小坂国務大臣 御指摘の点でございますけれども、現行法では、「教育は、不当な支配に服することなく、」こう規定しておりまして、教育が国民全体の意思とは言えない一部の勢力に不当に介入されることを排除して、そして教育の中立性、不偏不党性を求めておりまして、このことは今後とも重要な理念と考えております。
なお、一部の教育関係者等によりまして、現行法の第十条の規定をもって、教育行政は教育内容や方法にかかわることのできない旨の主張が展開をされてきたわけでありますが、このことに関しましては、昭和五十一年の最高裁判決におきまして、法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなり得ないこと、国は、必要かつ相当と認められる範囲内において、教育内容についてもこれを決定する権能を有することが明らかにされているところでございます。
今回の改正においては、最高裁判決の趣旨を踏まえまして、不当な支配に服してはならない旨の理念を掲げつつ、教育において法律に定めるところにより行われるべきと新たに規定をしたわけでございます。このことによりまして、国会において制定される法律に定めるところにより行われる教育が不当な支配に服するものではないことを明確にしたところでございます。
164国会 衆特別委 第3回(5月24日)
○志位委員 …現行基本法の第十条には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と明記しています。ところが、政府の改定案は、「国民全体に対し直接に責任を負って」を削除しております。
だれが考えても当たり前のこの文言をどうして削除されたんですか、お答えください。
○小坂国務大臣 これは、最高裁の判決に基づきまして、不当な支配に服することなくということが法律の規定に基づいて行われるものである場合には、これは国の権能の範囲内であるということが認められ、それを踏まえた上で削除をさせていただいたものでございます。
164国会 衆特別委 第4回(5月26日)
○志位委員 教育基本法にかかわる議論を進める上で、この法律が一九四七年につくられた際の立法者の意思がどこにあったかを踏まえた議論が重要であることは、論をまちません。
ここに、当時発行された「教育基本法の解説」という冊子の復刻版がございます。著者は、当時の文部省内に設置された教育法令研究会であり、その監修者は、教育基本法制定に直接かかわった当時の文部省調査局長の辻田力氏と、東京大学教授の田中二郎氏であります。私は、これは基本法の立法者意思を私たちに伝えてくれる第一級の文献だと思います。
この冊子では、政治と教育の関係についても突っ込んだ考察を加えております。次のような印象深い一節があります。それを紹介し、まず大臣のお考えを伺いたいと思います。
民主主義の政治も民主主義の教育も、個人の尊厳を重んじ、国家及び社会の維持発展は、かかる個人の自発的協力と責任によって可能であるという世界観の上に立ち、政治はそれをいわば外形的現実的に、教育はそれをいわば内面的理想的に可能にするものである。しかし、政治と教育との間には一つの重大な相異点が認められなければならない。即ち政治は現実生活ことに経済生活をいかにするかを問題とするのであるが、教育は現在より一歩先の未来に関係する。教育はあくまで未来を準備するのである。社会の未来に備えることが教育の現在なのである。この政治と教育との本質的な相異からして、政治が現実的な力と大なる程度において妥協しなければならないのに対して、教育は政治よりも一層理想主義的であり、現実との妥協を排斥するという結果が生ずるのである。民主主義に則る政治は、政党の発生を必然的に伴い、政党間の競争と妥協によって運営されるのであるが、教育はたとえ民主主義下においても、そのような現実的な力によって左右されないことが必要なのである。そこで政治と教育とが同じく国民全体に対して責任を負う関係にありながら、その関係に両者差異が認められなければならないのである。
私はこれは、今日読み返してみても、今でも通用する大切な考え方を述べたものと思いますが、大臣もそうお思いになりませんか。
○小坂国務大臣 教育の果たす役割、それから我々が政治家として今日的な課題に日々対処をしていく姿勢、そういう意味では教育は、理想を求め、そして人格の完成を目指して行われるものですから、今御指摘のような考え方というものがあって当然だと思います。
○志位委員 今大臣は、この考えは当然の考え方だとおっしゃいました。
この解説では、今の文章に続けてこう述べております。「この趣旨を表すために」教基法第十条で「「不当な支配に服することなく……直接に……」といったのである。」こう述べているわけですね。
大臣は、これは当然の大事な内容だとおっしゃった。そうだとすると、なぜ十条から、国民全体に対し直接に責任を負うという文言を削除するのか、私はこれは理屈が立たないではないかと思います。
そこで、改めて大臣に聞きたいと思います。
政府の法案が、現行基本法の十条、すなわち、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」から、国民全体に対し直接に責任を負うを削除し、かわりに「この法律及び他の法律の定めるところにより」に置きかえているわけですが、置きかえたのはなぜでしょうか。その理由をきちんと説明していただきたい。
○小坂国務大臣 御指摘のように、現行法では、教育は、不当な支配に服することなくと規定し、教育が国民全体の意思とは言えない一部の勢力に不当に介入されることを排除し、教育の中立性、不偏不党性を求めているわけでありまして、このことは今後とも重要な理念であると考えております。
なお、一部の教育関係者等によりまして、現行法の第十条の規定をもって、教育行政は教育内容や方法にかかわることができない旨の主張が展開をされてきたところでありまして、このことに関しては、昭和五十一年の最高裁判決におきまして、法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなり得ないこと、また、国は必要かつ相当と認められる範囲において教育内容についてもこれを決定する権能を有することが明らかにされているところでございます。
今回の改正におきましては、最高裁判決の趣旨を踏まえまして、不当な支配に服してはならない旨の理念を掲げつつも、教育は法律に定めるところにより行われるべきと新たに規定をしたわけでありまして、このことによりまして、国会において制定される法律に定めるところにより行われる教育が不当な支配に服するものではないことを明確にしたものでございます。
164国会 衆特別委 第6回(5月31日)
○小坂国務大臣 委員が御指摘になりました「教育は、不当な支配に服することなく、」とは、教育が、国民全体の意思ではない、意思とは言えない一部の勢力に不当に介入されることを排除して、そして、教育の中立性、不偏不党性を求める趣旨でありまして、このような考え方は今後とも重要であると考えております。
このために、今回の改正においても、引き続き、「教育は、不当な支配に服することなく、」と規定した上で、「法律の定めるところにより行われるべき」との文言を加えることによりまして、国会において制定される法律に基づいて行われる教育は不当な支配に服するものではないことを明確にしたものであります。これによりまして、法律の定めるところにより行われる教育委員会等の命令や指導、こういったものが不当な支配ではないということが明確になったものと考えております。
なお、一部の教育関係者、任意に設立されたというふうにおっしゃいましたけれども、こういった関係者等によりまして、現行法の第十条の規定をもって、教育行政は教育内容や方法にかかわることができないんだ、そういう旨の主張が展開されてきたことは御指摘のとおりでございます。
このことに関しては、昭和五十一年の最高裁判決におきまして、いわゆる旭川、永山中学校の訴訟という問題において、法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為は不当な支配とはなり得ないこと、また、国は、必要かつ相当と認められる範囲において教育内容についてもこれを決定する権能を有することが明らかにされているところでございまして、そういった観点から、今回の改正案におきましても「不当な支配に服することなく、」の文言を残したわけでございます。