2370宗教に関する涵養の意義(民主案も含む)

 

 

164国会 衆特別委 第8回(62日)

○土肥委員 …宗教の地位というのがございますね。そして、寛容という言葉が出てまいります。宗教を論ずるときに、その地位と、それから、宗教を論ずるときに寛容な態度を持たなきゃいけない。一体これは何を意図しているんですか、現行法にもございますけれども。御答弁いただきたいと思います。大臣、どうぞ。

○小坂国務大臣 ただいま土肥委員がお述べいただきましたことは、宗教家であられる土肥委員と私は神学論争をするつもりはないわけでございまして、その御見識は敬意を表したいと思いますが、お述べになった中には若干、宗教家としての思い入れがこの宗教教育に反映し過ぎる嫌いがないだろうかと思う部分もないわけではないわけでございます。
 私は、現行法、また現行法に基づきます学習指導要領におきましても、例えば小学校の道徳の時間では、命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重すること、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めること、また、この世に生きることのとうとさ、死の重さを知ることを通じて命の大切さを理解し尊重する態度を育てるための教育、こういう指針を示しておるわけでございまして、こういった尊重する態度を育てるための教育を行っていると認識をいたしております。
 また、今回の法案におきましても、豊かな情操をはぐくむあるいは命をたっとびということが規定をされているところでございます。紹介するまでもないと思いますが、二条の中に明確に規定をしてきているところでございまして、教育の目的としてそれは明らかにして、四号において、「生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。」として、命というものについて考える、そういう規定を盛り込んでおります。

 ただいま委員が御指摘をいただきました、政府案で規定している宗教に対する寛容の態度は何か、また地位とは何かということでございますけれども、まずもって宗教は、もう今さら申し上げるまでもなく、人間としてどうあるべきか、与えられた命をどう生きるべきかということなど、個人の生き方にかかわることであります。また同時に、社会生活における重要な役割を持っておりますから、人類が受け継いできた重要な文化として、これをしっかり教育するわけでございます。
 しかし、宗教的な信仰というものについて述べるときに、宗教的な信仰を持つ者あるいは持たない者、自己と異なる信仰を持つ者、こういう方々に対してお互いの立場を認め合う態度、これがすなわち寛容の態度でございます。またこのような態度をはぐくむことは、憲法に定める内心の自由、憲法十九条に規定されております内容、また信教の自由、二十条も実現する上で、極めて重要なことだと考えております。
 また、宗教の社会生活における地位というのは、宗教が歴史上、社会生活上において果たしてきた役割や、現在の社会生活において占めている社会的な機能と申しますか、言ってみればその役割とか価値とか、こういったものを指して言うものでございまして、これらについては、特定の宗派に偏ることなく理解させることは今後とも重要であり、必要なことだと考えております。
 委員が御指摘なさいましたいろいろな事例の中でも、現場でどのようにしているかというお問い合わせがありました。これは大仏建立とかそういうことを今現在は教えているわけです。大仏はどのようにして建立されたか、また、日本にはどういった神社仏閣というものがあるということは、仏教や神道というものがあるんだということ、また、世界にはキリスト教を初めとしてイスラム教、いわゆる三大宗教と言われるようなものもありますよということと、それからその分布はこのようになっていますよということを教えることによって、一般的な教養として宗教に取り組んでいくということでございます。
 先ほど委員がおっしゃいましたように、現行法の第九条二項を拡大解釈して慎重になり過ぎる、宗教教育を禁止されているんだということからすべてに抑制的になり過ぎるという嫌いがあったということを考えまして、一般的な教養という面で、宗教に対してしっかり取り組んでいただくこと、これを規定したところでございます。

○土肥委員 私はなぜこれを質問したかというと、宗教というのはいつも先鋭化して危ないものだ、宗教紛争が起きたら必ず戦争になるというふうな、何か基本的な概念があって、なるべく寛容に接しなさいと。これを子供に教える必要はないんじゃないかと思うんです。むしろ、なぜ紛争が起きるのか、なぜ宗教の名を冠して戦争が起きるのかということを教えるべきなんです。
 ボスニア・ヘルツェゴビナに私二度参りましたけれども、戦争終結後すぐと、それから五、六年たって参りました。今も何も変わらない、三派分立して、三宗教分立してといいましょうか。だけれども、結局は、政治家の野望が宗教を利用しているんです。自分のアイデンティティーを一層高め、自分たちの同志がなお一層先鋭化するために宗教を利用するんです。ですから、問題は政治なんですね。だけれども、それを、寛容の態度でおりましょうなんといったって、それぞれ言い分があるでしょう程度のものであって、なぜそこに政治と宗教が結びつくか。政治教育というのも教育基本法にございますけれども。そういうことを考えると、何か初めから、宗教に接するときは寛容な態度でおりましょうねというのは間違いです、これは。宗教というのはそういう間違いも起こします。それをちゃんと教えたらいいんです。ですから、はなから、寛容の態度と。
 それから、宗教的な地位。地位という言葉もおかしいですね。今大臣がおっしゃったように、機能とか価値とかという方が私はいいと思います。宗教団体に地位を求めるような人はいないと思いますよ。むしろ本当の宗教ならば、そんな地位にとらわれないで、庶民のために、国民のために、人間のために仕えていく、これが正直な宗教者の立場だと思いますので。何か既成概念を押しつけるのはよくない。
 民主党も同じことを言っているんですが、いかがですか。

○藤村議員 まず、寛容の態度というところであろうと思います。私どもも、その寛容の態度という言葉を使っております。
 先ほど来、土肥委員が御主張のとおり、本当に命、生命を尊重する教育がやはり教育の中で重要であり、それがいろいろな形できょうまで確かに実施されてきたものの、例えば、命は大切だというスローガン的なものにとどまり、生命の深淵に触れたり、あるいは、みずからは目に見えない力によって生かされているという謙虚さを気づかせる教育というのは系統立って行われてきたとは思いません。そういう意味で、やはり我々は、この宗教のところの条文というのは、相当検討した結果、ただし、憲法にある信教の自由のもとで教育の場面においてどういうことが可能かという視点であります。
 宗教的な伝統や文化に対する基本的知識の修得、それから宗教の意義の理解、これが今の地位にちょっとつながるかと思うんですが、私どもは、宗教というものが客観的に見て社会の中でどういう位置にあるのかということで、我々は地位という言葉は使いませんでしたが、そういうことを含んでいると御理解いただきたいと思いますし、さらに、宗教的感性、これは情操というのと近い意味であります、あるいは宗教に関する寛容の態度を養うことを尊重としました。
 寛容の態度につきましては、土肥委員の御指摘の紛争のことがございましたが、我々はもう少し国内的に、寛容の態度は、宗教を信じるあるいはまた信じない、これらについて、あるいはまたさらに一定の宗派を信じる、信じないこと、それぞれがまさに信教の自由のもとで許されているわけで、そのことに対してそれぞれがやはり寛容な考え方を持って臨む、そういう意味での、我々は寛容という言葉を使ったところであります。