164国会 衆特別委 第8回(6月2日)
○池坊委員 公明党の池坊保子でございます。
きょうはさまざまな問題を質問したく、用意してまいりましたが、午前中の民主党の方の宗教教育を伺いましたら、私もぜひこの政府の第十五条、民主党の第十六条について、民主党に特にお伺いしたいという気持ちになりました。民主党の案に対して、決して足を引っ張ろうという思いではございません。ただ、これは法律ですからあいまいであってはならないと思いますので、幾つかのことを伺いたいと思います。
私は、五八七年に聖徳太子が建てられた紫雲山頂法寺六角堂というお寺の住職の妻でございます。親鸞は、自分の信仰に大変苦悩されて、これでいいのだろうかと悩み、私のところのお寺で百日お参りをされ、一二〇三年に浄土真宗を開かれました。
私の周りには多くの宗教家もいらっしゃいます。例えば、阿闍梨さんと言われる千日回峰をなさった方は、最後の九日間は不眠不休、だから死ぬかもしれないんです。つまり、宗教というのは、私どもは穏やかで優しくというふうに思いますが、それに命をかけていらっしゃる。私のおばも日蓮宗の門跡でございましたから、当然結婚をしないで仏に仕えてまいりました。はりつけに遭ったイエス・キリストを初めとして、時の権力者に迫害されたりあるいは投獄されたり、死んだ、そういう方々もいらっしゃるわけです。
私たち日本人は、宗教と信仰を混同しているのではないかと私は思うのです。宗教というのは、言うまでもなく、神や仏など人間の力を超える絶対的な存在を信じ、それを信仰することであり、そのための教義や制度の体系を伴うものなんです。それに対して信仰は、神や仏を信じ敬い、その教えに従おうとすることであり、全く個人の精神の問題なんですね。ですから、宗教といったときと、これに的がつきまして宗教的となると、これは宗教と離れて全く別個のものを皆様方は考えていらっしゃるのではないかというふうに私は思います。
私も、どちらかといえば日本人の典型で、汎神論者で、若いころは教会の神父様の講義を聞きに行ったり聖書に没頭したり、今も私を支えている幾つかの文章もございますし、儒教道徳も、ここはいいなと思って引かれるところもございます。
このたび、政府案では宗教的情操の涵養というものが入らなかったことに、私は安堵する思いがいたします。なぜかというと、宗教的情操の涵養というのは、皆さんわかったようでおわかりにならないんじゃないかと思うんですね。例えば、宗教的情操とは何と聞きますと、ある方は、それは感謝の心で、御飯を食べるとき手を合わせることだよ、でもそれは私は行儀作法ではないかと思うのですね。それから例えば、人はどう生きるか、そういうことだよ、それは私は哲学だと思うのです。そしてまた、利他の心とか優しさとか親切だよ、それは道徳だと思うのですね。つまり、戦後、道徳という言葉を使うのが何となくはばかられて、皆さんはそういう何とはなしの気持ちを宗教的というふうに言っていらっしゃるのだと思います。
平成十四年十二月九日の中教審基本問題部会で、宗教に関する教育について、その当時国学院大学の学長であった阿部先生は、宗教的ということの概念整理が必要である、宗教教育のもとではこういう考えに基づきこの範囲において行うなどとして行わないと難しいのではないかと言われております。
民主党がおっしゃる宗教的というのは、どういう概念整理のもとでなさったかを伺いたいと思います。