164国会 衆特別委 第6回(5月31日)
○鷲尾委員 ちょっと関連する質問になりますが、政教分離の原則について大臣の御見解をお聞かせ願いたいと思っております。
先ほど大臣もおっしゃっておりました。政教分離の原則によって、教育行政についてもちょっと混乱が現場で生じているのではないかというお話でございました。これは、日本は至るところで政教分離の原則ということを運用することによって、非常に、要するに社会の混乱を招いているのではないかというふうな面があると私は考えております。
この政教分離の原則というのは、皆さん御存じのように、戦後アメリカからいわゆる輸入されてきたというようなものでございます。当然アメリカは民主主義国家でございますし、片や多民族国家でもあります。もちろん宗教的にも多種多様である。多種多様ではありながら、では、アメリカの大統領、御存じのとおり、一般教書演説というのがございます、そのときにはやはり大統領は聖書に手を置いて宣誓するわけです。これはキリスト教の様式であります。ところが、アメリカでは、これについて政教分離の原則に反するというふうな声は聞いたことがございません。大臣、この点についてどう思われますか。
○小坂国務大臣 直接的な答弁になるかどうかわかりませんが、外国には、キリスト教民主同盟とか、宗教を冠した政党名もあるところがあるわけでございまして、そういった意味では、日本とは違った政教分離の考え方を持っている、このようにも考えられます。
日本の場合には、この憲法の精神またそれを引き継いだ教育基本法においても、教育における宗教というものは、その一般的な知識また社会生活における地位は尊重されるべきとしておりますが、それは教育においてはその範囲内に抑制されるべきとしているわけでありまして、このことは、政治においても、憲法の同じ規定、二十条の規定によって、抑制すべきものとして、この政教分離の考え方がなされている、このように理解をいたしております。
○鷲尾委員 大臣、私は、政教分離の原則については、これはほかの国と日本の国が違うとは思いませんよ。私は一緒だと思っております。
信教の自由というのは、当然これは人間の根本の話ですから、そのために政教分離の原則というのがあって適用されるというのは、これは間違っていないというふうに思います。当然、国家が個人に信仰を強いるとか、そういうことはあってはならないと思います。
ただ、私が引き合いに出したのは、国家の儀式として、ある宗教の様式を用いるというのは、これは政教分離の原則とはまた違った文脈でとらえられるはずじゃないかというふうに私は考えております。その国に営々と培われてきた伝統、文化に依拠することが大きいんじゃないかと思うんです。そもそも政教分離の原則から離れたところで積極的にそれを運用され過ぎたがために、私は、この日本の社会でいろいろな問題が起こっているんじゃないかというふうに思うわけでございます。
その点を、先ほど大臣が、政教分離の原則、アメリカとそしてほかの国と日本は違うんだというふうにおっしゃいました。今私が申し上げたことを含めまして、大臣、どう思われますか。猪口大臣も御見解をお願い申し上げます。
○小坂国務大臣 国家の行事における政教分離ということにつきましては、一つは、津の地鎮祭の訴訟判決が一つの参考になるかと思うわけでございます。
判決をそのまま、ちょっと引用いたしますと、「ある行為が右にいう宗教的」、右というのはこの後で出てくるわけでありますが、「宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない。」とされております。
こういった宗教の教義にのっとったり、その形式そのものを適用したり、また、それを見る人たちが、言ってみれば布教活動を行うというようなそういう意識を持ったり、そういうことのない範囲であればこれは認められるべきであり、また、その範囲に抵触するのであればこれは慎むべき、このように考えております。
○猪口国務大臣 先生にお答え申し上げます。
文部科学大臣より非常に的確な答弁がございましたので、少子化担当の私としてはそれにつけ加えることはございませんが、一人の政治家として一言お答え申し上げるならば、民主主義国家同士の関係において、どちらの慣行、どちらの方法がよりすぐれているということはなく、我が国は我が国の考え方として、今、文部科学大臣がお答え申し上げましたような方法をとっていることであり、それについて自信を持つことが重要であると考えます。