0650教師から生徒への拒否権の告知

 

 

164国会 衆特別委 第12回(68日)

○笠井委員 日本共産党の笠井亮です。
 政府の法改定案の第二条をめぐって議論になっている内心の自由にかかわる問題で、幾つか質問したいと思います。
 私自身、参議院議員時代に国旗・国歌法の特別委員会の理事としてやっておりまして、質問したときのことを思い起こすんですが、当時の小渕総理は、児童生徒の内心にわたって強制しようということではございませんということで繰り返し強調されておりました。ところが、東京都では、児童生徒が結果として不起立だったときに教員が注意の措置を受けている、このことの意味についてまずただしたいと思います。
 私、ここに、ある都立学校の校長あてに都の教育委員会が出した注意という文書を持ってきております。卒業式における国歌斉唱時に結果としてほとんどの生徒が不起立であったことは、学習指導要領に基づき卒業式を適正に実施する立場にある校長として教職員に対し十分指導したとは言いがたい、今後このような指導がないよう注意するというふうに書いてあります。そういう注意であります。
 君が代については、生徒の中にもさまざまな意見があります。歌いたい生徒もいれば歌いたくない生徒もいる。だが、自分の好きな先生、大好きな先生が注意を受けることになれば、生徒の側もやむを得ず起立をする、歌うことにならざるを得ないということで、こうしたことを昨年の新聞でも大きく報じて、ある生徒が、君が代斉唱で生徒が座っていないかをチェックして先生を処分する、教師を人質にとった思想統制と私は考えていますというふうに壇上から発言したということが紹介されております。
 そこで、小坂大臣に伺いたいんですが、このように生徒が思想統制というふうに受けとめるような事態は教育上好ましいことだと思われるか、好ましいことではないというふうに思われるか、大臣の認識を伺いたいと思いますが、いかがでしょうか。


○小坂国務大臣 国旗・国歌に関する法律の審議の際に、官房長官が見解を述べられております。それに基づいて、現場でどのような指導が行われているかということに関していろいろ御意見がありましたけれども、私はいまだに、官房長官の見解は国民の一般生活について述べたものであって、政府のこの立場には変わりはないものと認識しておりますし、また、現場において内心に立ち入った指導を行うというようなことは、これは適切ではない、このように思っております。
 したがって、そういう個別の事例に照らして、もし内心の指導を行っているというような状況があるようであれば、これは是正をしなければならない、このように思うわけであります。

○笠井委員 今答弁がありましたけれども、そうすると、さらに確認したいんですが、教員が注意の措置を受けることで生徒が先生のためにやむを得ず起立斉唱をせざるを得ないということを、生徒自身が思想統制というふうにまで受けとめていることを、大臣としてはそのことをどういうふうに思われますでしょうか。ちょっと確認したいんですが。

 

○小坂国務大臣 ただいま例に引かれました東京都の場合でございますけれども、学習指導要領では、入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえて国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するよう指導するものとするとしているわけでございまして、入学式、卒業式における国旗掲揚、国歌斉唱の具体的な方法は明示していないわけでございます。どのように国旗を掲揚し国歌を斉唱するかについては、一般的な社会通念に従った方法で、各教育委員会や各学校の校長において適切に判断されるものと考えているわけであります。
 この指導に当たって、校長が、職員の指導のあり方について、それを見た生徒がどのように感じるかということを御指摘でございますけれども、それがこの指導要領というものに基づいて適切な方法で行われているとすれば、それは是認すべきものと思うわけでございまして、それを生徒に正しく理解していただくように、それは決して先生を人質にとったり、何かそういうような形で指導しているわけではなくて、適切に、学習指導要領に従った、教育的な立場から環境を整えるために指導している、そういう学校長及び教育委員会の指導の範囲であるというふうに私は思うわけでございます。

○笠井委員 指導の範囲とかそっちのことを聞いているんじゃないんです。高校生自身がそういうふうに受けとめているという問題を私は聞いているんですね。
 それで、国旗・国歌法審議のときに当時の有馬文部大臣も答弁しましたが、高等学校といいますと、やはり自我が発達してくる、そして社会性が発達してくる、みずから判断する力、能力というのを十分持っているということ、そういう世代であるということは共通して言えると思うんです。
 今私が申し上げたのは、たまたまその生徒がそういうふうに、人質にとられた、思想統制だと思っているという一つの例じゃないんです。
 これは、実際に昨年の卒業式、春のときに当たって、朝日新聞が二〇〇五年三月二十八日に掲載しましたある都立高校の卒業生の実名入りの談話であります。ここではこう言っております。「「圧力」は生徒にも及ぶことになった。生徒が「国歌斉唱」の起立を拒めば、担任教諭が厳重注意などを受けるおそれがある。私たち生徒は戸惑った。もし私たちが「国歌斉唱」の時に座れば、担任の先生に迷惑がかかると思ったからだ。」「卒業の日、私は悔しかった。都教委の不合理な処分や規定、そして、それらに対して無力であった自分に腹が立った。」というふうに述べているんです。
 だから、一人の例とかなんとかという話じゃないんです。高校生自身が、結局、結果として多くの生徒が座っていた、不起立であったということによって先生が注意を受けるということ、そのことを見て、そして、生徒が、それは本当に悩ましいことで、本当に悔しいことだけれども、立たざるを得なかった、思想統制に思ったというふうに感じているという問題です。生徒がこう受けとめるような事態が教育にあっていいのか。
 こういう事態について大臣はどういう認識を持っていらっしゃるかということなんですよ。

○小坂国務大臣 学習指導要領のことは先ほど申し上げましたけれども、それに従って、現場の教員または教職員が、指導といいますか……(笠井委員「結果、立たないということについて、それ自体が問題だと」と呼ぶ)いや、教育的な、教育指導を行う場合に、適切な方法でやっていることは決して強制ではないわけですから。
 むしろ、おれは本当は嫌なんだということをその先生がどういう形でその生徒に伝えたかというのが逆に私は問題なような気がするんですね。
 要するに、指導して、担任なら担任、その先生が、自分たちが立たなければ後で何かをされるんだろうというようなことを考えるということは、すなわち、その先生が自分の内心では嫌だということを生徒に伝えているとか、そういったようなことが事前にあって、そして、先生は立ちたくないんだ、あるいは、君たちを立たせたくないんだというようなことがあって、初めて生徒はそういうことを推測するわけですから。
 したがって、そうでなければ、先生が、みんな、国旗を掲揚したときにはそれに敬意を表しましょう、あるいは、歌うときにはみんなで一緒に歌おうね、その方が楽しいよね、国歌だからねというようなことを言っていれば、それは普通に、自然に受け入れられるはずであるわけでございます。
 それが、そういった、先生がいじめに遭っているような印象を受けるというのは、ふだんのその先生がどのような接し方を生徒としているか、また、自分の国旗あるいは国歌に対する考え方をどのように伝えているかということがまた反映してきているのではないかと思うわけでございます。
 私としては、その教職員の内心の自由を侵すようなことに校長は立ち入っていないと思うわけでありまして、適切な学習指導要領の実施を職務上の権限において命令をし、そして、それに従っている先生の行う行動は決して内心に立ち入ったものとは考えておりませんし、また、それによる生徒の反応がそういうものであるということは本来あってはならないもの、そういうような形式で行われることは、私どもとしては想定をしていないところでございます。

    〔河村(建)委員長代理退席、委員長着席〕

○笠井委員 教員がきっとそうであろうと推測してなんという話をしたらとんでもないですよ、大臣。今、この処分の理由、さっき言いましたけれども、促す指導をしたとかというのは一切ないんですよ。結果として斉唱時にほとんどの生徒が立たなかったということをもって、それだけで注意を受けているわけですよ。そういう問題なんです。今、教育の現場でこういう事態が起こっている。私は、これが生徒の内心にまで立ち入った強制でなくて何なのかと。
 国旗・国歌法の審議のときに政府はこう言いました。「指導の結果、最終的に児童生徒が、例えば卒業式にどういう行動をとるかあるいは国旗・国歌の意義をどのように受けとめるか、そういうところまで強制されるものではない」と言いました。さらに言いました、児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるようなことがあってはならないと。そういうふうに言ってきたのに、そういうことが起こっているというわけなんですよ。
 私は、高校生を自主的な判断力を持った独立した人格として大臣は認めていらっしゃらないんじゃないかと。教師をいわば人質にとった形で生徒の起立斉唱を強制する、これは私は、立てと命令するよりもさらに卑劣なやり方だと思うんです。それすら心の痛みに感じられないということに私は強い憤りを禁じ得ません。
 さらに、いま一つの論点について伺いたいと思います。
 これは、もう一枚の東京都の教育委員会からある高校の教員あての注意であります。教諭はホームルームで生徒に対して、卒業式における国歌斉唱時に内心の自由があるので起立して歌わなくてもよいという趣旨の発言をした、今後このようなことがないように厳重に注意するというものであります。
 これは、立つななどと不起立を促した発言が問題にされたわけじゃないんです。教師自身が言っておりますが、内心の自由という問題、立つも立たないもあなたたちの判断だと述べた事実が厳重注意の対象にされている。小坂大臣、これは問題だと思いませんか。


○小坂国務大臣 国旗・国歌というものをどういうふうに教えるのか、そこの現場の指導もそこの反応には影響が出てくるんだと思います。
 私は、教職として現場には立ったことはありませんが、立たせていただければ、私も現場に行っていろいろ皆さんにお話をしたい。やはりみんな、例えば、ワールドカップで選手たちがみんな歌っているよね、自分も一緒に歌いたいと思ったときに、歌詞も覚えていない、それではやはり困るだろう、一緒に歌えるときに歌えるように歌詞だけは覚えておこうねというような言い方をするとか、そういう指導というのはあると思うんですね。
 それを、一番最初に、まずこれから国旗・国歌について話すけれども、君たちには内心の自由があるから歌っても歌わなくてもいいんだよ、それを言ってから歌詞を教えるとか何かをしても、なかなか覚えるような下地はできてこないと思いますから、そういう前提を設けないで、まずは、日本の国には国旗があり国歌があるということを客観的に教え、そして、歌うか歌わないかは、最終的に、それは確かに、生徒がその場に応じた状況で判断をする場合もあるかもしれません。しかし、それをまず教師という指導的立場にある人が、君たちは内心の自由があるから歌を歌わなくても、歌わなくてもいいんだよなんという言い方は、やはりこれは逆の指導をしているというふうにとられてもやむを得ない場合があるのではないでしょうか。
 本来、学習指導要領に従った方法で適切にこういったものは指導していただければ、素直な気持ちで受け入れていただけるんではないかと思うのでございます。

○笠井委員 大臣は、現場の指導について最初から疑ってかかっていらっしゃる。一番最初に内心の自由があるから歌ってもいい、歌わなくてもいいと言って、こういうふうに言ってこの処分が、この注意があったというふうに、御存じなんですか。最初から疑ってかかっていますね。学習指導要領にある、そして国旗・国歌は起立斉唱するものとするということであると。では、この現場でやっていらっしゃる先生はみんな、とにかくそのことに一切触れずに内心の自由の問題だけ言っている、そして注意を受けているというふうに思っていらっしゃるんですか。具体的に、そうだというふうに確信をお持ちなんでしょうか。

○小坂国務大臣 それはいろいろな事例もあると思いますけれども、今、委員が御指摘になったような場合を私なりに想像すると、そういう感覚を持ったということを申し上げました。それが事実と違うのであれば、その事実をしっかり私もまた認識させていただきますけれども、それぞれの場において、学習指導要領をもとに、関係法令やその職務命令に従って教育指導を行っていただくということを私どもは期待いたしているわけでございます。校長が、学習指導要領に基づいて、法令の定めるところに従って所属の教職員に対して本来行うべき職務を命じることは当該職員の内心の自由を侵すことにはならないわけでありますし、また、そのことについて指導すること自体を教員がいじめられていると生徒が感じるとすれば、それに対する教員の態度というものがそのようにとられるような態度をとっているのではないかということも、これは思わざるを得ないわけでございます。
 そういった現場における指導というものを具体的な事例として一件一件見なきゃわからない話でございますが、ただいま委員が御指摘になったものを聞いたところで、私はそのような感想を持ったわけでございます。

○笠井委員 こんなに大事な問題を想像とか感覚で言ってもらいたくないですね。教員の態度を最初から疑ってかかっていらっしゃる。私は、そういう形では、文部科学大臣としては本当に責任を果たせないと思います。
 安倍官房長官に伺いたいと思いますが、確認いたしたいと思います。
 国旗・国歌法の審議のときに、当時の野中官房長官、私も当時国会におりまして、鮮明に覚えておりますが、一九九九年の七月二十一日、衆議院の内閣委員会と文教委員会の連合審査で、「人それぞれの考え方がある」「人によって、式典等においてこれを、起立する自由もあれば、また起立しない自由もあろうと思うわけでございますし、また、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もあろうかと思うわけでございまして、この法制化はそれを画一的にしようというわけではございません。」というふうに答弁されていましたが、間違いありませんね。

○安倍国務大臣 国旗・国歌については、長年の慣行として国民の間に定着していたものを、二十一世紀を迎えることを一つの契機として、国旗及び国家に関する法律においてその根拠を明確に規定したところであります。
 同法の成立に当たって出された内閣総理大臣談話にもあるとおり、この法律は、国旗・国歌に関し、国民に新たに義務を課すものではございません。国旗・国歌を国民がどのように受けとめるのかは最終的に個々人の内心にかかわる事柄でありますが、この法律によって、国民一人一人が自国の国旗・国歌について正しい知識を持ち、理解を深めるとともに、大切に取り扱うよう努めることに意義がある、このように考えております。

○笠井委員

 今の質問に答えていないです。官房長官がそういうふうに言ったかどうか、確認してください

○安倍国務大臣 当時の官房長官が述べられた談話についての理解については変わりがないということであります。

○笠井委員 では、法律をつくったときに政府が国会答弁したことを教師がそのまま、人それぞれの考え方があるわけで、それぞれ、人によって、式典等において、起立する自由もあれば、また起立しない自由もある、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もあると生徒に対して伝えたら、これはいけないんですか、官房長官。

○安倍国務大臣 ただいま、最初の答弁でも申し上げましたように、国旗・国歌法は、まさに民主的な手続にのっとって、君が代と日の丸は国旗・国歌であるということが定められたわけであります。そして、国旗・国歌に対して、一般常識として、世の中において、どういう態度、どういう敬意を表するかということを、当然、生徒たちに教えるということはあり得るでしょうし、そもそも、そこで歌わなければ歌詞は覚えられないわけでございますから、それは当然のことではないだろうか、このように思うわけでありまして、先ほど小坂大臣が答弁されたとおりではないか、私はこのように思います。

○笠井委員 国会答弁のとおりに伝えたらいけないのかどうか、そのことを端的にお答えください。

 

○安倍国務大臣 先生がどのように教えるかでありますが、先ほど申し上げましたように、国旗・国歌について、それぞれの国々はどのように相対しているか、どのように敬意を払っているかということを教えることは極めて重要であり、その機会が、例えば、これは始業式であったり卒業式であったりするのではないだろうか、このように思うわけでありまして、まずそのことを教えずに、最初に、立っても立たなくてもいいということを教えるということは、むしろ誤解を与えるということもあり得るのではないか、このように思います。

○笠井委員 国会答弁で言ったこと自身を言っちゃいけないということになったら大変ですよ。国会での答弁が踏みにじられている、我々の国会審議は何だったのかということになります。法律をつくったときの国会答弁を学校で教師が伝えたら、それが厳重注意を受ける、およそ法治国家と言えないと思います。
 私は、今このまま教育基本法が改定されれば、内心の自由に立ち入るものになって、東京都でやられているようなことが全国に広がることが懸念されます。廃案しかないということを申し上げて、質問を終わります。