0410人格の完成の意義

 

 

164国会 衆特別委 第4回(526日)

○大前委員 …もう一点、具体的な条文の中の文言についてお聞きをしたいんですが、第一条の教育の目的のところで、人格の完成という用語が現行法に引き続いて用いられているわけなんですね。この完成という用語につきましては、かねてから識者の間で問題があると指摘をされております。
 例えば、日本教師会教育基本法改正運動特別委員会委員長の上杉千年先生は、人格の完成した者とは、宗教的次元に置きかえると神ということになる、こうした到達不可能に近いものを教育の目的とすることは現実的でないと断じまして、完成という用語の使用を避けるよう提言されておられるわけでございます。
 私も、生涯教育という言葉もありますけれども、主たる対象がせいぜい二十前後までの若者に人格の完成を求めるというのは無理があるのではないか、この上杉先生の指摘は正しいのではないかと考えるのでございますけれども、どのようにお考えか、お聞きしたいと思います。

○小坂国務大臣 私ども、第一条で書いてございます人格の完成を目指すということは、この法律全体を通じて、義務教育だけを述べているわけではございませんし、生涯学習という理念、また社会教育についても述べているわけでございます。そういう意味からいたしますと、教育の目的として、各個人の備えるあらゆる能力を可能な限り、かつ調和的に発展させることを意味するものでございまして、このような人格の完成ということは教育の目的として普遍的なものであることから、今回の法律においても引き続き規定することとしたものでございまして、この教育の目的は、学校教育のみではなくて、今申し上げたような、人間が人生を貫く中で、常に学ぶ、そういう気持ちを持って、自分が、神とおっしゃいましたけれども、あくまでも人間として人に尊敬されるような、そういう人格者たるべき、その人格の完成を目指して努力をするということを目指していただきたいという理念を掲げたものでございます。

○大前委員 実を言いますと、この人格の完成という文言は、現行法の案文策定当時の文部大臣田中耕太郎氏の強い指示によって決定したと言われております。当初の案では、人間性の開発を目指し、となっていたそうでございます。田中文部大臣は熱心なクリスチャンであったそうでございますけれども、自己の信念に基づき、限りなく宗教的概念に近い人格の完成という文言に固執をしたと言われているのでございます。
 このことは、田中文部大臣自身が執筆された著書「教育基本法の理論」の中でもはっきりと述べられているそうでございます。
 私は読んだわけではございませんので、上杉先生の論文から孫引きで恐縮でございますけれども、引用させていただきますと、「人格の完成は、完成された人格の標的なしには考えられない。そして完成された人格は、経験的人間には求め得られない。それは結局超人的世界すなわち宗教に求めるほかは無いのである」と述べておられるわけでございます。
 こういった、いかに文部大臣であったとはいえ、クリスチャンとしての田中氏の信念を再び今回の改正法案に盛り込むのはいかがかということで取り上げさせていただいたわけでございますけれども、これをまたもとに戻せ、あるいは新しい用語に変えろというのも無理でございますので、将来の検討課題として今後とも研究していただくようお願いを申し上げまして、私の質問を終わりたいと思います。
 ありがとうございました。

 

164国会 衆特別委 第4回(526日)

○松本(大)委員 先ほど引っ張りました提言の中には、伝統、文化の尊重、郷土や国を愛す

 

○小坂国務大臣 現行法の第一条には、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、」といった、国民として備えるべき事柄、当時は徳目と言っていたわけでございますが、掲げられております。これらは、制定当時、昭和二十二年当時において特に強調すべき事柄を挙げたものでありまして、必要な事柄を網羅的に示したものではないとされております。
 今回の改正案については、今日重要と考えられる事柄を新たに教育の目標として明示することとしたものでありまして、これらの事柄は現行法の「人格の完成」の中にも含まれているものと考えております。今回掲げられた事柄は、従来より重要と考えられているものであって、既に学校教育においては、現行の学習指導要領に基づいて指導もされているところでございます。

○松本(大)委員 今、大臣にも御答弁をいただきましたとおりでございまして、私も、現行法の制定時にどういう議論がされていたのか、帝国議会の議事録を拝見したんですけれども、これは含まれているということなんですよね。今おっしゃったような、あるいは私が引用したような、公共の精神とか愛国心とか伝統、文化の尊重というのは、このときも実は議論になっているんですね。
 念のため、ちょっと配付をさせていただいたんですが、例えば、お手元の資料一の四十四ページのところには、佐々木惣一さん、京大の法学者だと思いますけれども、四十四ページの下から二段目のところの右端なんですけれども、「祖国観念の涵養と云ふことに付きまして、政府は如何なる用意を持つて居られるかと云ふことを御尋ねして見たい」とありまして、これに対する答弁、四十六ページ、高橋大臣は、「「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」とありまするのは、健全なる国民、文化の創造延ひては健全なる祖国愛の精神の涵養を含むものと考へる」、このように答弁されております。
 さらに、荒川文六さん、九大の総長ですけれども、五十二ページの一番上の段の左から十行目ぐらいですか、「国家社会に対して犠牲、献身的の精神を持ち、奉仕的の精神に満ちた国民に日本国民をすると云ふことが、日本を平和的国家」云々、「さう云ふ精神に国民をすると云ふが為には、どうも完璧に現はれて居ないやうな風に思ふ」とおっしゃっているんですが、これに対して当時の高橋大臣は、「実際の国家及び社会の構成者、ギルダーと云ふやうな意味」というのは、これは多分ビルダーの聞き間違いだと思いますけれども、「意味も含まれて居るものでありまして、尚国家並に社会に対する奉仕の点は、後にありますやうに「勤労と責任を重んじ」云々と云ふ言葉で十分に現はされて居るのではないかと存ずる」というふうに答弁をされておりまして、公共の精神であるとかあるいは伝統、文化の尊重であるとか愛国心というのは、実は、現行教育基本法にも含まれているという答弁を当時の大臣はされていたというわけであります。
 では、含まれているのであれば、なぜ今回改めて明文化の改正をする必要があるのかというのが、当然、この質疑をごらんになられている国民の皆さんも、含まれているのなら何で改正するんだろう、なぜ明確化する必要、明文化する必要があるんだろうというふうに素朴な疑問をお持ちになられると思いますので、この点について大臣から御説明をお願いします。

 

 

164国会 衆特別委 第8回(62日)

○戸井田委員 このたびの基本法の前文の中で、我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじということは、ある意味で大変よくわかるわけであります。まさに、それだけの命の連鎖があって、つながりがあって、今日自分があるということを思うと、この個人の尊厳というのは非常によくわかる。
 しかし一方で、個を重んじ過ぎると、重視し過ぎると、私は、この人間社会の中の生活ということを考えていくと、家族への帰属意識、地域社会への帰属意識、ひいては国家への帰属意識というものが薄れてくるんじゃないか、そのバランスというものは非常に重要だなというふうに最近思うんですね。
 また、この帰属意識というのはまさに連帯意識であって、つながるというのはまさに愛の概念だというふうに思うわけであります。そして、それを言葉であらわすと、まさに親子愛であり、夫婦愛であり、家族愛であって、そして愛校心というものもあるでしょうし、またこの委員の鳩山兄弟のように、友愛というものもあるわけであります。それがまた郷土愛にもつながり、そして国家の愛国心みたいなものにもつながっていく。その上がまた人類愛という、地球全体に考えが及んでいく。
 そういう流れをたどって人格の完成を目指すものだというふうに思うんですけれども、大臣、いかが思われるでしょうか

○小坂国務大臣 おっしゃるように、人格の完成というのは、完全な人格というのは神だということになってしまいますので、したがって、それを目指して常に努力することということだと思います。委員が御指摘になったことは、その一つの道筋であろうと私も思います。

 

164国会 衆特別委 第12回(68日)

○中井委員 政府案では、第一条冒頭、「教育は、人格の完成を目指し、」とございます。これは現行法と同じであります。私は数年前から、何回かこの現行法、教育基本法を読み直したのですが、物すごくきれいで、物すごく立派に書いているな、これは本当に現場で大変苦労するなということを実感として抱いてまいりました。その一番の思いはここであります、人格の完成を目指すのが教育の目的だと。
 人格の完成というのはどういうことを言うのでしょうか。また、大臣は、人格が完成したというのはどういう人だとお思いになっていらっしゃいますか。例を挙げることができますか。全然構いません、おっしゃってください。

○小坂国務大臣 政府案第一条で言っております人格の完成は、現行法においても教育の目的とされておるわけでございますが、各個人の備えるあらゆる能力を可能な限り、かつ調和的に発展させることを意味するものである、このようにされております。このような人格の完成は、教育の目的として普遍的なものであることから、今回の法案においても引き続き規定することとしたものでございます。
 それでは、人格の完成とは、どのような人なのか例示してみろ、こう言われたら、これは私は例として申し上げる人はおらないわけでございます。すなわち、人格の完成というのは、私は神のことだと思うのでございますね。ですから、神のような全知全能を備えたものを目指すといっても、これは到底到達できるものではございません。だからこそ目指すのであって、それが実現するということは恐らく一生を通じてなし得ないかもしれない、しかし常にそれを目指せということで、「人格の完成を目指し、」と言っているんだと私は思っておるわけでございます。

○中井委員 教育で神のような人格完成を目指すというのは本当にできるのでしょうか。また、そんなことが目標というような法律でいいものかと僕は思わざるを得ません。
 そういう意味で、民主党の法案を見ますと、「教育は、人格の向上発展を目指し、」と書いてあるわけであります。ここら辺は、僕の言うような意味での向上発展という形にされたのかどうか、また人格完成ということについてどう思われているのか、お聞かせをください。

○藤村議員 私も、現行教育基本法の人格の完成と書いてあるところには、以前から相当抵抗があったということでございます。
 確かに、人格の完成が人生においての究極の目標であるかとは思います。ただし、これは必ずしも、教育だけで果たし得る、究極の完成に至るのかどうか。やはりさまざまな人生経験あるいは艱難辛苦、まさにそういう経験を経ることからそれに近づいていく、そういう必要条件ではないかなと思います。
 私、個人的には、実は人格の陶冶という言葉が大変好きで、党内的には相当主張したんですが、しかし、人格の陶冶という言葉は少々古めかしい趣もありまして、より今の皆さんがわかっていただく平易な書き方で、向上発展とさせていただいたところでございます。
 我々は、やはり死ぬまで、より高みを目指して研さんを重ねるのが人生ゆえに、永久に完成することがないものかと存じております。