新たな見通しの下に確信を持って進もう
ついに教基法「改正」が強行された。歴史を逆転させるかのような暴挙であり、時代錯誤というほか無い。しかし、そうであるからには、その暴挙の張本人は、必ず歴史に逆行する暴挙を遂行した謀反人として、歴史に記録を残すことになるだろう。
人類は、長い苦闘を経て、国民を翻弄してきた国家の絶対性、神秘性を打ち破り、日本においては天皇制という国民の精神を支配した幻想を打ち破り、民衆(people)こそが国家を作る主体であり、そのためには、民衆が、精神の自由、表現の自由、精神の自律性を確立しなければならないという認識を勝ち取ってきた。国民が国家を規定し、創出するのが国民主権国家の論理であり、それに反して国家が国民を「教育」し「教化」することの恐ろしさとおぞましさを、300万人の日本人の死と、二〇〇〇万人のアジアの民衆の殺害という、異様な結果を目の前にして、心に刻んだはずであった。にもかかわらず、国家が、国民たるに相応しい「資質」を決めて、そのために教育を行うことが「教育の目標」だとし、そのための「教育新興基本計画」を思うままにプログラムし、そのパフォーマンスを競わせる仕組みを「金」と「評価」と「処罰」によって作ろうという新「教育基本法」を出現させてしまった。
しかし、日本国憲法は、そういう「改正」教基法の論理を正当化する論理を持ってはいない。現行教育基本法(1947年教基法と呼ぼう)の論理は、現行憲法の精神を教育のあり方に結晶したものであり、憲法は今もなお、今国会で「廃棄」を決定された1947年教育基本法の論理を、現実的で、かつ今日の日本の教育法体系において、リアリティ−のある法論理として、押し出し続けている。だから、「改正」教基法は、この日本国憲法の論理を踏まえなければ、その法としての力を実現することはできないという矛盾に、その誕生と同時に、直面しなければならない。
しかしそのためには、1947年制定の、そして今日まで私たちにとって空気のように存在してきた教育基本法とは何であったのか、どういう論理と価値の結晶であったのかを、なぜその剥奪をこんなにも怒らなければならないものであったのかを、今こそ、一人一人のなかに、刻み込まなければならない。今こそ1947年教育基本法を学び直さなければならない時だ。1947年教育基本法を、どれだけ一人一人の頭脳と精神の中に鮮明に刻み込み、一人一人の教育に向かう論理と行動を意識化する内なる法典たらしめることができるか、今そのことが問われている。
同時に、私たちに、より切実な課題として、日本国憲法の改正を許さないというたたかいが、提起されている。教育基本法「改正」阻止のたたかいによって繋がれた連帯を、さらに広げ、日本の民主主義を、今日の歴史的課題を遂行するに相応しい水準へと押し上げることが求められている。それは、グローバル化のなかで、人間が人間らしく生きていく権利が、突然に取り払われたかと思えるような事態の中で、もう一度、人間らしく生きたいという人びとの願いを深くつなぎ合わせるたたかいに繋がっている。
そのような願いが、今日本中に広がりつつあることに確信を持って、新たなたたかいへと歩みを進めよう。
2006年12月15日
教育基本法「改正」情報センター代表 佐貫 浩