教育基本法に関する特別委員会公聴会会議録 平成181212日(火曜日)より抜粋

 

○公述人(大内裕和君) こんにちは。松山大学人文学部で教員をしております大内裕和です。専門は教育社会学という学問です。

 ここでは、政府の改正法案が現在大きな問題となっている格差社会を拡大、固定化させるという危険性について述べさせていただきます。

 教育基本法の重要な理念の一つに教育の機会均等があります。戦前は男女や経済力による教育の格差が明確に存在していました。それに対して、すべての人に平等な教育機会を提供することが教育基本法の理念に盛り込まれました。しかし、政府法案は、教育の機会均等を破壊し格差社会を助長する危険性を持っています。

 今日は、幾つか資料を配らせていただきましたが、その中で私が呼び掛け人をしております市民グループ、教育基本法の改悪をとめよう全国連絡会が作成した資料、「現行の教育基本法と政府の教育基本法案の対照表」というのがありますので、それを見てください。これは、左側に現行の教育基本法、右側に政府法案、そして真ん中に私たちの作った解説が付いています。

 この資料の三ページ目を見てください。左側の現行の教育基本法、第三条、教育の機会均等があります。これはどうなっているかといいますと、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。」となっています。それに対して、政府法案第四条はこうなっています。「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、」となっているわけです。

 で、この「能力に応ずる」と「能力に応じた」というのは小さな違いではありません。「能力に応ずる教育」は、発達の必要に応ずる教育という解釈がなされてきました。発達の必要に応じて、その時点での能力の格差を是正する方向で教育機会を保障することが目指されてきました。例えば、障害を持った子供に対する教育であるとか、あるいは過疎地域での教育に手厚いサポートを行うなどの方向です。しかし、政府法案の「能力に応じた教育」という文言は、能力に応じて機会を配分する、つまり能力の上下によって教育機会は差別的に配分されることを容認する表現です。これでは教育機会の不平等が促進されてしまうことになります。

 それに加えて問題なのは、同じページ、政府法案第五条の義務教育です。ここでは、現行の教育基本法にはない新たな二と三が設けられています。

 二番目です。「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ」となっています。この「各個人の有する能力を伸ばしつつ」という文言は、義務教育における格差拡大をもたらす危険性が高いと言えます。ここでは、義務教育の段階から各個人の有する能力を所与のものとして設定し、それを伸ばすことを明記しています。これでは個々人の能力の格差が教育を通して拡大するでしょう。ここで前提にされている能力は、その個人の生まれた家庭、地域、周囲の環境に強く影響されており、子供が幼いほどそれらの影響は強いです。

 こうしたその時点、小さいころの時点での能力の差をいかにして平等化するのかが義務教育の大きな役割であるにもかかわらず、この政府案によって義務教育の平等化機能は弱まり、格差社会を拡大する危険性は極めて高いと言えます。既に、習熟度別指導の実施や小中学校における学校選択、公立中高一貫校の設置など、能力主義の強化や教育システムの複線化、差別化が進められています。政府法案はこの方向を一層助長するでしょう。

 また、政府案第五条第三項では、「国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。」と、義務教育段階での水準確保が掲げられています。これは、現在既に全国各地で行われている学力テスト、とりわけ二〇〇七年四月に実施予定の全国一斉学力テストを徹底的に強制することにつながりかねません。義務教育段階での能力差別が激化する危険性を持つ条項です。

 今お話ししたような政府案の条文、項目について国会ではほとんど詰めた議論がなされていません。しかし、この問題はとても重要です。

 現在、日本における貧困率の高さは広く知られるようになっています。OECDが二〇〇五年二月に発表した「OECD諸国における所得分配と貧困」によれば、加盟国中計測可能な二十七か国の中で日本の貧困率は五位、先進国ではアメリカに次いで二位です。日本社会について一億総中流社会や平等社会といった言葉が近年まで使われていましたが、それは完全に過去のものとなったと言えるでしょう。

 教育扶助、就学援助、これは修学旅行費や学用品の補助ですが、これを受けている児童生徒は、一九九七年の六・六%から二〇〇四年には一二・八%へ増加しています。地域によってはクラスの半分以上が受給しているという事例も耳にします。生活保護受給世帯が百万世帯を突破し、貯蓄ゼロ世帯が二三・八%と全体の四分の一に迫っていることを併せて考えれば、格差社会化は確実に進行し、貧困者がまれに点在していたこれまでの状況から明らかに層として顕在化するようになりました。

 このように、格差社会が問題となる中で、市場競争を原理とする新自由主義教育改革が行われています。その代表的なものが二〇〇七年四月に実施が予定されている全国学力テストです。すべてが参加すれば、小六、中三合わせて約二百四十万人がテストを受けることになります。

 全国規模の学力テストについては忘れてはならない前史があります。かつて、一九五六年度から六六年度にかけて全国学力テストは実施されていました。最初は小中高等学校の児童生徒を対象に抽出、サンプルで実施されていましたが、一九六一年度にすべての中学二年、三年を対象に初めて全員調査を実施しました。この全国学力テストは、自治体間や学校間の競争を激化させました。中には、試験当日に成績の悪い生徒を休ませることも行われ、強い社会的批判を受けて廃止されました。

 この四、五十年前よりも今回の全国学力テストがもたらす事態はより深刻だと思います。現在では、コンピューターを始めとする情報環境が発達し、学校教育を取り巻いています。既に都道府県レベルでの学力テストの学校別成績をホームページで掲載している自治体がありますが、全国学力テストの点数が同様に公開された場合、それは小中学校を序列化するシグナルとして多大な影響力を持つことになるでしょう。

 また、当時よりも比較にならないほど発展した教育産業にとっては、またとない巨大市場が登場することとなります。全国学力テストの受験者は、現在の大学入試センター試験の受験者よりもはるかに多いです。委託される全国学力テスト事業そのものに加えて、テストのための教材作成や模擬テスト、カリキュラムの作成、対策講座の実施など、全国学力テスト関連事業が教育産業に莫大な利益をもたらす可能性は高いでしょう。そうした教育産業の活性化が子供たちの競争をあおり、十分な情報獲得と教育産業を十分に利用できることが可能な階層とそうでない階層との教育格差を一層拡大するでしょう。

 全国学力テストが現在広がりつつある小中学校の学校選択制と結び付いたとき、その弊害は更に拡大します。テストの点数が学校の評価となり、選択が行われるようになれば、現在の高等学校のように生徒の学力水準による小中学校の序列化が明確となるでしょう。それは単に学校間格差にとどまらず、地域間格差にまで拡大する危険性があります。

 これについては、サッチャー政権下でナショナルテスト、全国学力テストを一九八八年に導入したイギリスのケースが参考となります。イギリスでナショナルテストの結果は、リーグテーブルというんですが、学校成績別一覧表、準一覧表となって大手新聞に発表されます。点数の良い学校には入学を希望する親が殺到します。リーグテーブルで順位の良い著名な学校の学区のある家は他の地域よりも高価です、高い値段です。ナショナルテストで高い点数を取った学校に通わせるために、高い階層の人々が通学圏内に移動することでその区域の地価が上昇します。ナショナルテストが人口移動と地価の変化をもたらします。

 学校間格差に敏感な意識が定着している日本社会において、イギリス同様の事態が起こる危険性は極めて高いと言えます。全国学力テストによって学校が序列化され、良い点数の学校に、その地域に高い階層の人々が集まります。移動できない階層の人々は取り残されます。学校ごとに一定の階層が集住することで地域が分断されていきます。こうした動きの結果、地域社会を巻き込んだ階層間格差が顕在化することでしょう。

 こうした一連の教育改革の流れから見れば、今回の与党の改正法案の文言は、格差社会を拡大、固定化させる危険性が極めて高いということを意味しています。

 重要なことは三点あります。

 一点目は、教育の市場主義、新自由主義改革を進めたイギリスの教育改革は必ずしもすべてが成功してはいないということです。資料の中に国際数学・理科教育動向調査二〇〇三年、TIMSSがありますが、ここでのイギリスの点数は国際平均値よりは高いものの、日本よりはかなり低い点です。これは一例ですが、全体的にイギリスは日本よりも国際学力テストの点数が低い傾向にあります。この結果なのになぜイギリスをモデルとするのか、とても疑問に思います。

 もう一方で、習熟度別指導をやめるなど、教育における競争主義を改めたフィンランドは、資料にあるPISA、OECD「生徒の学習到達調査」二〇〇三年のデータにあるように、様々な点でトップクラスの学力を示しています。このことは、競争を強めることが必ずしも学力の向上につながるとは限らないということを意味しています。その点で、政府法案の能力主義、競争主義の強化につながる文言には大きな問題があります。

 二点目です。

 政府の教育基本法改正法案が格差社会の拡大、固定化につながると述べました。しかし、そのことは主権者である多くの人々にまだ認識されていません。なぜかといえば、この問題が衆議院、参議院を通して国会で議論されず、またマスコミでも十分には報道されていないからです。

 しかし、格差社会についての世論の関心はとても高まっています。読売新聞社が二〇〇六年一月下旬に実施した全国世論調査でも、日本社会は格差社会になりつつあるとの指摘について、そう思うとした人は実に七四%に達しています。これだけ多数の人々が危惧している問題について、十分な審議がなされていないことは重大な問題です。教育基本法を変えることが格差社会の拡大、固定化とどのように関係しているのかという論点について徹底した審議が国会でなされる必要があります。それをせずにこの法案が採決されてはならないと考えます。私は、政府法案が格差社会の拡大、固定化につながると考えていますので、政府法案の廃案を強く求めます。

 三点目です。

 資料にOECDの幾つかのデータを挙げておきました。それを見ていただくと分かるのは、日本は、教育機関に対する公的な支出が対GDP比で非常に低く、一方で教育とりわけ高等教育の私費負担の割合がとても高いこと、さらに、小学校、中学校の学級規模、クラス人数が国際的に見てもとても大きいことがよく分かります。これは今に始まったことではなく、一貫して続いている傾向です。

 つまり、端的に言って、日本の教育は貧しいのです。現在の様々な教育問題や教育の困難は、教育基本法の理念にその原因があるのではなく、教育基本法の理念を現実化させてこなかった貧しい教育政策にあります。理念法である教育基本法を変えるよりも、それを現実化させる充実した教育政策こそが今最も望まれていると考えます。

 私の話は以上です。

 どうもありがとうございました。