教育基本法に関する特別委員会会議録 第9号 平成18年12月7日(木曜日)より抜粋
○参考人(中嶋哲彦君) こんにちは。中嶋と申します。よろしくお願いいたします。
私は、名古屋大学の教育発達科学研究科で教育行政学、教育法学の研究と教育に携わっています。また、二〇〇〇年の秋から犬山市の教育委員として教育行政にかかわっております。その立場から今日は発言させていただく機会を与えられたものと思います。
本来、こういう場には市長、石田市長あるいは教育長が来てお話しすべきところかもしれませんが、石田市長はこの前知事選に立候補するために辞任いたしまして、それから教育長はとてもシャイな人で、こういう場はおまえが行けということで行かされてしまいます。本当はとても気が弱いので、今日はお手柔らかにお願いしたいと思います。
それで、私は今日、この教育基本法に関して、教育委員会制度が主なテーマになっているということで、それにかかわりながら、そこに集中して御意見を申し上げたいと思います。
一つは、教育というものはそもそも国民の学びと育ちを保障するということが公教育の役割であろうと思います。
ただ、その際に一つ念頭に置かなければならないのは、人が学び、育つというのは基本的には個人的な事柄であって、個人として学び、育つ、そこに自由と権利がまずあるんだ、そのことが前提になると思います。その上で、公教育制度においてその国民の学びと育ちをどのようにして保障するかということが問題となっていると。そのことが教育基本法の大きな課題であると思います。
それにかかわる国民の権利、自由と、それからそれに対応する公教育制度の原理、国の責務が今日の教育基本法には規定されていると思っています。その意味で、私は、今日の教育基本法の持っている意義は極めて高いものであると思います。したがって、私は、教育基本法を改正する必要がないと考えています。
もう一つ、犬山に──ごめんなさい、それはちょっと後で申し上げたいと思います。
まず、教育委員会制度について、少しおさらい的に申し上げておきたいことがあります。
それは、まず第一に、教育は地方自治を原則としているということです。これは、地方自治法にも地方教育行政法にも、そして根本的に言えば憲法や教育基本法において、教育は地方公共団体によって担われるべき事務であるということが規定されています。
具体的には、例えば、学校管理権は、首長、その学校を設置した主体によって保持されるべきものであって、例えば公立の小中学校は、市町村そしてその教育委員会が学校管理権を有するものであると。これが教育の地方自治を具体的な学校制度の中に位置付けたものであるというふうに思います。まず、そのことを大事にしなければならない原理であると考えます。
さらに、その地方公共団体内部にあって、現在の教育基本法及び地方教育行政法の原則は、首長から相対的に独立した教育委員会によってその教育行政が担われるべきであるというふうに定められています。これも私はとても大事な原則であると思います。
それは、教育というものは一般の行政あるいは選挙によって、政治的選挙によって選任される首長の体現している政治的な諸価値とは相対的に区別されるべき教育と文化にかかわる固有の価値を教育行政が担っていくんだということであろうと思います。要するに、教育や文化の中に政治的な価値が直接に反映するということは適切ではないと考えます。
そのために、例えば教育委員を選任する場合には、教育委員五名おりますけれども、そのうちの過半数、三名が同一政党に属さないようにしなければならないという規定も地方教育行政法に置かれています。そのようにして教育はあくまで政治的に中立であることが極めて重要な事柄であるということを私どもは確認しておきたいと思います。
さらに、そうなりますと、今申し上げたのは、二つの独立について申し上げたんですね。これは、地方自治という意味では地方の教育行政は国の教育行政から独立していなければならないということと、それから地方の内部においては一般行政から教育行政は独立しているべきであるという二つの独立を申し上げました。
では、教育行政を担う教育委員会はどこからもコントロールされないのかというと、そうではないと。教育行政というのは、つまり教育委員会というのは、これは基本的に住民の教育に対する意思、教育意思と私ども呼んでいますが、教育意思を反映する仕組みとして教育委員会制度というのは機能しなければならないと思います。
その意味で、教育委員会の選任は、首長による任命よりも住民の直接公選による制度の方が望ましいと考えています。しかしながら、現在の地方教育行政法の下ではこれが首長任命となっていることから、一定の後退をしたと考えざるを得ないかと思います。ただ、その一方で議会による同意制があること、それから責任の仕組みがないという御発言も先ほどございましたけれども、教育委員も特別職公務員ですので、リコールによって住民による解職請求をなすことができるということも念頭に置かなければならないと思います。その意味で、教育委員会制度というものは、住民の意思、その保護者の意思に基づいて、それを教育行政、そして学校経営、運営に反映させるルートであるというふうに考えます。
そうしますと、先ほど教育行政また教育委員会の学校管理権ということを申しました。そうすると、学校管理権というのはどういうことになるかというと、国や都道府県から独立して市町村の教育委員会が学校を管理運営するということを言ったもの、それが学校管理権ということになります。
しかし、ここで私たちが考えなければいけないのは、教育委員会による学校の管理運営というものの具体的な在り方です。
これは、学校に対して教育委員会が指揮命令をし、学校の自由を制約するような管理の仕方、これを認めたものではないと考えています。学校は、あるいは教育は自主的に行われなければならない、自主性が尊重されなければならない、これが現行教育基本法第十条の精神です。教育行政は、教育の自主性を尊重して教育の条件整備に努めなければならないという原則があります。その原則に立つならば、学校に対して、とりわけ教育の内容であるとか方法に対して指揮命令に及ぶような管理運営については、これは慎まなければならないと考えています。基本的に学校の自主性を尊重しつつ教育行政は条件整備に努めなければならないと考えています。
これが私の今日の教育行政及び教育委員会制度の在り方についての基本的な考え方、あるいは現行法の認識です。
その上で、では犬山ではどういうことをしてきたかということをお話ししたいと思います。
それは、資料に、二つの、クリップで留めていただきましたが、一つは、犬山市の今年度の重要施策、「学びの学校づくり」というものです。十二ページあります。今は申し上げる時間は到底ありませんので、後でごらんいただければと思いますが。
ここのこの学校づくりの基本的な考え方は、この表紙に三つ挙げてあります。読み上げさせていただきます。犬山の教育は、人格の完成を目指し、自ら学ぶ力を人格形成の重要な要素と位置付ける。学校教育というものは学力向上だけに偏重して行われればよいというものではない。学校教育は人格の完成を目指すものであって、そこで獲得すべき学力は自ら学ぶ力でなければならないと考えています。
二つ目に、犬山の学校づくりは、子供が学ぶ喜びを実感し、教師が喜びを感じ取り、親の願いや地域の期待にこたえようとするものである。そのようなものでなければならないというふうに考えています。これは、学校教育というものは、競争によって、子供同士の競争、教師同士の競争、そして学校同士の競争、地域の競争によって向上するものではないと考えています。私たちは、子供が学ぶ喜び、これが学校教育にとっては一番大事なことなんだと、その顔を見たいんだということです。そのためには、教師が喜ぶ、教師もやはり学ぶ、教えることに喜びを感じなければならない。そういう教師の力を引き出したいんだということを考えています。そのために、教育委員会が学校に対して指揮命令をするというのはもってのほかであるし、教師を競争させるということではないと。彼らの持っている力を引き出したいんだということです。それによって様々な成果を生み出したと思っています。
三番目に、犬山の教育改革は、目の前の子供を見詰め、教師の地道な教育実践の積み重ねによる手づくりの学校づくりであると。これは、国や都道府県の政策を待つのではないということです。犬山で現に目の前にいる子供、この子たちをどうするかということを教師の目で見る、教育委員会の目で見る、親の目で見る、そういう、私たちが具体的に目の前にいる子供たちをどうするかというところから出発するんだと。だから、これは国の教育政策がどうか、どちらに向かって走っていくか、それとは相対的には別なんだ。全くのその国の政策と別の方向を走るということはできないかもしれないけれども、私たちの目の前にいる子供に私たちが何をするか、それが地方自治で、そのために私たちは目の前にいる子供たちに対応したいんだということです。
時間が余りなくなってしまいましたので、犬山についてはこのぐらいにして、さらに、そのことについてはもう一つ、「日本の教育と基礎学力」という明石書店から出ている書物の中で犬山のことを紹介させていただいております、私が執筆しておりますが。これは、この書物自体が大変好評いただいておりまして、三刷りが決まったところということで、犬山の教育改革も高く評価されているものと考えます。
そこで、教育基本法の提案されている問題点、これ余り時間がありませんが、急いで申し上げたいと思います。
一つは、第十六条についてです。第十六条の不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところによると、教育は行われなければならないとありますが、これは国や地方公共団体の法解釈にも誤りがあり得ると、これは文科大臣のお認めになったところではないかと思いますが、それが一点。
それから、法律に対して忠実に政策立案の活動を行ったとしても、なお、その政策の具体的内容が教育の実態に即して適切でない場合があり得るということがあります。法律に従っていれば、それは中身が適切であるとは限りません。その意味では、教育の具体的内容や方法について一番よく知り得る学校、教師、そして地方教育委員会が自主的に教育を行うという枠組みを是非確保していく必要があると考えます。それが一点目です。
それから、第十六条においては国と地方の関係が二項、三項において定められていますが、この国と地方の関係も十分にまだ審議の中で明らかになったというふうには私は考えておりません。ここについては更に明らかにしていただきたいと考えます。
次に、第十七条についてです。これも国の法解釈に誤りがあり得るとするならば、教育振興基本計画の策定内容において誤りが生じ得る、法令の解釈を誤って教育振興基本計画が設計される可能性があり得るということであろうと思います。そのためには、教育振興基本計画という制度を作るのであるならば、これは国会による承認を必要とすると、事前に国会の承認を必要とし、そのことによって内容の適切性を確保する必要があると考えます。
他の基本法においては承認制を取っているということでありますが、学校教育というのは一度行われればそれっきりであると、そこで何か問題が生じた場合のその回復が非常に困難であるという性格を持っている。その点で他の領域とは違うと思いますので、これは是非とも事前の国会承認を必要とする制度にしなければならない、もし作るのであればですが、と考えます。
さらに、その教育振興基本計画の中に地方公共団体の意見を取り入れる仕組みを是非とも作るべきであろうと思います。国が一方的に振興計画を作り地方に行わせる、地方はそれを参酌して制度を作ると、地域の計画を作るというのでは適切ではないと思います。
さらに、これは地方にとっては国の計画を参酌して自らの計画を作るとありますが、その場合、参酌した結果、国の振興計画のお金はいただかないとなった場合に、では地方は地域の教育振興基本計画を自ら策定する際の財源はどうやって確保するのかという問題があります。財源が確保できない可能性が非常に高いですので、結果として国の振興計画を受け入れざるを得ない、そういう仕組みになってしまうのではないかということを非常に危惧しております。
私ども、犬山の教育改革を更に今後発展させていきたいと思いますが、この教育基本法が新たに改正されたものができた場合には、現在の犬山市として自立した教育を進めていくということが非常に困難になるのではないかということを危惧しております。
以上で終わらせていただきます。ありがとうございました。