教育基本法に関する特別委員会会議録
新潟地方公聴会速記録 平成18年12月4日より抜粋

○公述人(福田誠治君) 私は大学で教育学を専攻しておりまして、教えていますのは比較文化学科ですので、世界の視点から物事を考えるということをやっております。そこから見ますと、現在の日本の低学力というのは、質の問題からすると大変な問題であると。簡単に言ってみれば、受験が終われば忘れてしまうような知識を一杯詰め込んでいて、思考力が育っていないという、ここではないかと思われます。
 それで、世界を見渡してみますと、ヨーロッパの躍動というのはとても大きなものがありまして、現在二十五か国、四億六千万が国境を越えて移動をするという時代に入っています。ですから、一つの会社の中にいろんな国の人たちが一緒になって働いていて、そこに移民までやってくるという時代に入っています。
 私のレジュメ、順番に前に行きますけれども、二ページ目のところですが、そういうところで愛国心と言ったらアウトなんですね。つまり、グローバルな時代に愛国心が御法度であると。そうすると、今までそれぞれの国が国民を育てるという形でやってきたんですが、ヨーロッパはどちらにかじを切ったかというと、市民を育てるという、その中に公共性も含まれています。ほかの言い方ですとシチズンシップと言いますか、そういう新しい国際化の中でどういう人間を育てるかという議論をしていきました。
 表にまとめましたが、一九九九年には実はEUは大学の単位を合わせてしまいます。学部三年、修士二年ですね。それで資格も合わせていくんですが、二〇〇二年に、コペンハーゲン宣言と言いますが、ここは職業教育の資格をすべて合わせてしまいました。もうロシアはそちらに行くと言っておりますので、日本のすぐ隣がヨーロッパになる日は近いと。
 それで、残る問題は義務教育なんですね。義務教育は、一九九九年ですが、そこにDeSeCoという組織が出てきまして、これはスイスの連邦統計局ですが、スイスはEUに入ってないんですけれども、金融とそういう情報は握るという、そういう戦略のようですね。義務教育をいかに統合するかという議論に入っていきました。二〇〇二年にこの結論を得て、二〇〇三年にその結果が出ております。
 なぜか、何でこんな動きが出てきたかということですが、DeSeCoはOECDの組織なんですけれども、この間、パリに二日間、OECD本部のある会合に出ました。彼らは、前身はマーシャル・プランであると、ヨーロッパの復興を懸けているんだという、そういう意気込みでいました。
 三ページのところに、OECDや世界銀行が知識観をこの十年ぐらいに急速に変えたと。一九九〇年代に国際機関、とりわけ経済組織であるOECDとワールドバンクが急速に学力に関心を持ち始めました。彼らは、自ら積極的に知るという、そこですね、英語で言いますとアクティブノーイングと書いてありましたけれども、世界銀行は人的資本として適応性、創造性、柔軟性、革新性、それを教育が提供すべきだと。要するに、死んだ知識を幾つ詰め込んでも使い物にならないというのがもうその経済界の常識になっていて、彼らは脱規制的教育制度、それによって、つまり知識の枠、枠は知識の名前があるけれども、その中身というのは常に変化していくんだと、そういう学び方をしなければならないというふうに考えました。
 そこで、PISAという、OECDが開発をします、今日持ってきましたが、これは文部科学省がこういうパンフレットを作って、PISAという、PISAのPはプログラムのPで、Iがインターナショナル、Sはスチューデント、それでアセスメントのAが付いています。PISAというテストを開発したのは、それまでのテストでは駄目だというふうに考えたからです。それまでの詰め込み、彼らのターゲットは多分東アジア型教育に向かっていると思うんですが、そこをいかに乗り越えるかですね。詰め込み教育でいくと創造性とか批判的思考とか自己信頼とか、今四ページ目の辺を読んでおりますが、そういう大事なものが損なわれてしまうと。だから、新しいテストを開発して思考プロセスを測るようなものをしたいと考えました。
 同時並行的にですが、そのDeSeCoと一緒にEUの方の欧州委員会の教育総局というのが、義務教育における教育目的としてのコンピテンシーというのを二〇〇二年に国別レポートを出させまして、そのまとめをしました。両方ドッキングして、四ページの下の方に書きましたが、キー・コンピテンシーという新しい学力像を打ち出しました。
 コンピテンシーというのは、職業教育とか企業で使っている、あるいは社会教育あるいは生涯学習で使っている言葉ですね。実践的な力ですね。その中に三つ、一、二、三とまとめましたが、異質集団内で相互交流すると。要するに、多様な能力、多文化の中でいかに能力が使われるか。もう一つは、自律的ですね。自律的というのは、まあ簡単に言えば他人の言いなりになるなと。一人でも正しいことは主張しなさいといいますか、そういう批判力を大事にして、自分で判断しながら、自分で判断した以上は自分で責任取りなさいという、そういう市民性を育てようとしています。
 どんなテスト問題が出たかは五ページに載せておきましたが、時間がないので飛ばしまして、六ページに結果が出ていますけれども、日本の深刻な問題は、無答、無回答、白紙で出してしまうのが一杯いると。OECD平均の三倍もいるわけですね。私が感動したのはアメリカでして、無答は少ないけど誤答が多いといいますか、そういう、とにかく自分の言い分は通すといいますか、こういうのがテストで見えてくるわけですね。ですから、批判的に理解しながらどう人間として交流するかという、そちらに目が向いているということだと思います。
 そうすると、フィンランドがその中の優等生であるといいますか、これは近ごろ経済界でも相当注目をされています。インターネットを見ていますと、日本はエストニア、フィンランドに勝てるかなどという記事も出てくるんですが、フィンランドは世界の果ての、ヨーロッパの果てのといいますか、農業国だったと。七ページにある本がありますけれども、まさかこんな国がそのIT産業の世界先端まで上り詰めるとは思わなかった。人口は少ないし、人手不足だし、外国語も苦手だと。ところが、今行ってみると、とても英語は上手で、愛国心も強いし、徴兵制もあるらしいですけれども、でも隣近所ととても仲良くやり、貿易相手として、ロシアとも国境線接していますし、スターリンの時代に領土問題、たくさんの領土を取られましたから日本と同じような状況にあるんですけれども、彼らは対立せず、どうやって貿易相手としてうまくやっていくかという、頭にあって、経済発展力というのが国際競争力ですが、それも目覚ましいものがあります。これはスイスの統計機関がきちんと毎年測っていますが、今年はスイスに次いで二位ということになっています。要するに、いわゆる構造改革をフィンランドは福祉国家の枠の中で上手に受け止めたということかと思います。
 八番目に、有名なPISAの国際比較のランキング表がありますが、向こうから言わせると、確かに上の方をずっと、上位、まあ五点ぐらいは誤差の範囲内ですので同じだと見ていきますと、日本も大したものでして、この間のOECDの会合では、フィンランドは確かにいいけれども、それと匹敵するのは韓国、香港、日本であると言っていました。ただ、読解力はちょっと見劣りしますが。
 それで、フィンランドはどんな教育をしているのかというのは、今日はカラーで印刷してきましたが、九ページのところに私の撮った写真、かわいい女の子が、特急に乗ればこういう感じでごく自然に本を親が読み始めるんですね。写真撮ってもいいかと聞いて、いいと言ったので撮りましたが、一歳八か月の子がじっと見入っていると。それで、図書館へ行けば小さな女の子がそうやって本を自分で選んでいると。授業中は何と編み物している子までいましたね。編み物しながらですが、そのうち何とかなるわよと言って、九ページの横に、自然に授業に入っていきます。必要ならば、これは英語の授業だったので、編み物しながら口では英語を先生の言うとおりにやっていた。
 十ページのところに、ある日の六歳児がありますが、十三人クラスでした。大体、小学校は十六人平均です。中学校は十一人平均です、統計上ですね。十三人ですが、このとき先生の話聞いていたのは二人だけっていいまして、それでノートに向かっていたのが三人で、内にこもって一人で積み木やっている子もいれば、三人ぐらいが粘土細工で、前の授業をやっている子もいると。
 それで、要するに自分で学べというのを徹底するんですね。その代わり嫌がるものは強制しない。でも、子供だからそのうちやる、何とかなるわよ言う。日本で言えばこれは学級崩壊かとびっくりしましたけれども、まあそのうち何とかなる。で、なるんです。要するに、他人の邪魔はしてはいけない、これは徹底しますが、学び方は自分で探せ、その代わり自分で学べるようにいろんな仕掛けがあります。たった一人でも補習をします、やる気になればする。
 十一ページに、これは公式統計ですが、OECDの統計によりますと、学力格差の統計ですが、ゼロよりも左側は学校間分散です。学校によって違いが出てくる部分です。右側は学校の中での差です。コピーが不鮮明ですので裏に原版を載せておきましたが、ずっと下のフィンランドを見ますと、学校の違いというのはほとんどないんですね。その代わり学校の中で学力差はある。要するに、学力差は認める、でも、その背景になる家庭的な環境の格差は何が何でも埋めていくというのがフィンランドの迫力です。これはすごいものです。
 要するに、十三ページの上によく言われる言葉を載せておきましたが、教育というボートに乗った子供は一人たりとも落とせないと、この迫力はすごいものがありました。
 フィンランドでは、学校とか学級は統合でいろんな人がいますが、中の教え方は個別です。一人一人に合うように、マイペースで学べるようにします。そこが日本の足りなかったところかなと。つまり、教員の質をとにかく高くして、それでその先生にすべてを任せる。任せるということは途中の監視・管理機構を全部なくせますから、小さな政府にできたということですね。その本人が常日ごろ自分の教室の中で全部でき、ふできをチェックできる体制、そこまで専門家に育てる、言わば医師のように育てていくわけですね。そこまでしておりました。
 それで、教育基本法のお話にしますが、これは随分不思議な教育に見えますけれども、実は戦後の日本である時期やろうとしていたことなんです。実は、十五ページのところですが、早口で時間がないので行きますけれども、日本国憲法が地方自治を主要原則の一つとして、教育基本法は精神内容あるいは知識内容、広く言えば人間の育ち方、具体的に言えば教育内容・方法への不当な支配を否定して、教育行政を諸条件の整備確立に制限しました、これが十条ですね。そして、目的として、自主的精神に満ちた国民をつくる、一条ですね、それを自発的精神を養うことで育てようとしました、これが二条ですね。ですから、教育委員会もできた。
 文部省の設置法では、管理監督官庁から指導助言官庁へ移ると。今までの教育というのは中央で決めて画一的に行ってきていたと、それを地方でそれぞれ合わせて工夫をしなさいと、教師が言われたとおり動くようなものでは機械でもできるということをはっきり文部省の指導要領の中に書いてありますね。その文献に書いてあります。
 さらに、社会科の教科書の最後のページには、「教師及び父兄の方へ」というページがございました。これを幾つか拾ってきましたが、従来の教科書と同じように考えてはいけないと、これは文部省検定教科書ですけど、この本に書いてあることを順々に説明したり暗記させたりしては困ると。この本によって得られるものは決して十分ではない。それらはまた他の方法によっても得られるものである。だから、この本を読ませたり理解させればそれで社会科の学習が終わったと考えたり、無理をしてもこの本に書いてあることだけは理解させなければ社会科の学習が成り立たないと考えたりしては困ると言っているんですね。だから、最後の十六ページですが、教師は児童が印刷された本だからといってこれを無批判に受け入れることのないように指導を加えてほしいとまで文部省が言っています。
 この立場は、要するに知識というのは自分で切り開いていけ、獲得せよという立場はフィンランドの立場にとても近く、言ってみれば現行の教育基本法は世界のうねりの中でかなりレベルの高いところまで来ていたのではないか、むしろ未来志向ではないかと。だから、私の結論は変える必要はないということですが、最後に、これは厚生労働省が、インターネットで出てきますが、未来志向としてとらえているフィンランドの様子を囲みで入れておきました。
 以上、終わります。



教育基本法に関する特別委員会会議録
長野地方公聴会速記録 平成18年12月4日より抜粋

 

○公述人(大田直子君) 首都大学東京人文科学研究科の大田と申します。専門は教育行政で、特にイギリスの教育政策分析をやっております。

 私は、研究者としてこの法案をどう見るかという立場から申し上げたいと思います。

 まず、全般的に法律の改正が行われるということはそれ自体は反対はしませんけれども、法律が改正される場合にはそれ相当の、特に教育基本法といういわゆる準憲法というふうに位置付けられている法律を変えるということに関してはそれ相当の理由が必要であるというふうに考えています。

 まず、政府から出されている法案についての意見ですけれども、現在、日本の教育制度が多くの点で批判されていること、多くの人が教育改革を望んでいるということは事実であろうかと思います。また、社会の情勢も近代公教育が成立した十九世紀とはかなり異なっており、改革がその時々に行われる必然性はあると思います。しかし、それは例えば高度情報化社会、ネットワーク社会、あるいは私の専門で言えばイギリス社会が今目指しているような生涯学習社会の構築といった大きな理由が存在しているはずであろうというふうに考えます。

 翻って、現在の日本の公教育制度が抱えている問題は、ある意味で戦後の教育改革の理念を形骸化してきたこれまでの政府・与党文教政策の結果でもあると私は見ていますけれども、それについては何ら反省も分析もされておらず、専ら学校、教職員あるいは教育委員会あるいは教職員組合のせいにばかりされてきたような気がいたしますし、このごろは保護者の側への批判もメディアによって痛烈に行われています。つまり、個々の当事者を批判するという態度から脱していないように思われるわけです。

 しかしながら、現実をよく見れば、生活状況、経済状況の悪化や人間関係についてのストレスを抱え、ある意味、正直者がばかを見るような成人社会の問題に起因しているものの方が多いのではないでしょうか。例えば、指導者と言われるべき政治家や公僕と呼ばれる公務員によるいろいろな問題、公約は破っていいのだと公言してはばからない元首相の登場などは、現在の教育問題の結果であるというよりは、全く異なるところに理由があるのではないか、そう思えて仕方がないのです。

 そういう意味で、今教育基本法を改正するという必要性が私には理解できません。問題はむしろ教育基本法の理念を実現してこなかったこれまでの文教政策等々の在り方にあるのではないか、そして、あるいはこのような理想社会を築き上げられないで来てしまった私たち自身に問題があるのではないかというふうに考えています。

 また、この改正案論議の背景として、特にイギリスの教育改革がモデルのように安倍首相によって持ち上げられていますけれども、当時のイギリスにとっての改革モデルは一九七〇年代の威信の高かった日本の公教育制度であったということをきちんと評価していただきたいと思います。問題は、むしろなぜそのような公教育制度が現在このような状況になったかという、その分析をする必要があると思います。もちろん、そこには社会の変化、先ほども申しましたが、豊かさの問題、生活空間や時間の感覚の変容といった問題、大人と子供の区分があいまいになったなどなど、複雑な要素が絡み合っていると思います。

 また、基礎学力と貧困問題というのは、今、たまに例外もありますけど、基本的に正の比例関係にあるというのは教育学の一般的な常識であります。ですから、教育だけをいじくっても、本当の意味の基礎学力の向上とか、貧困問題とか、社会の平等を更に促進するというようなことにはならない、もっと総合的な教育制度改革論議あるいは社会全体の制度改革論議というものが必要なのにもかかわらず、この教育基本法の改正だけをやったということで、理想とするような社会にはならないのではないかというのが率直な意見です。

 さらに、そういうことに関してどうすればいいかということはいろいろと議論があると思いますけれども、もっと現場での対応策を考え、それを支援していくような財政上そういう条件整備をする方がよっぽど効果ではないかと、有効性があるのではないかと思います。

 特に、政府は一九八〇年代以降、義務教育費国庫負担制度を改正していくという形をずっと取っておりまして、公教育費の削減をやっております。最初は教職員の中の一部の職員を負担の対象から外すというような言い方をしていきまして、それを守るというか、学校職員全体で義務教育費国庫負担制度を堅持してきたわけですけれども、最終的には三分の一の国家負担という形に決着しています。それ自体も実は、じゃその分、地方や学校に自主裁量権が来たかといえばそういうことはなく、全く数字上の合わせだけで、ひどいときには中学校を対象除外にするという暴論も出たぐらいの、全く教育論として意味の成さない公教育費負担の削減をずっと一方で続けてきていた。そういった問題を何ら対処せずに、この教育基本法改正をするとあたかも何もかもうまくいくような、そういう幻想を振りまいているというのはいかがなものかというふうに考えています。

 また、仮にこの中身に対して、もし改正案としてどういうふうに考えるかというと、これもまた全く時代錯誤的な内容となっているとしか言いようがないと思います。

 例えば、イギリスの例を引いて申し訳ありませんが、イギリスは明確に生涯学習社会をつくるということを定義し、それを支えるのは活動的な市民であり、それは多元化した価値観の中で互いに価値観の違いを理解し尊重し合う自立的な個人の創出にあるのだと、そのために例えばシチズンシップ教育というものを同時に主張していますが、これは日本で今論議されているようなものではありません。国家はこのような自立的な市民を育成するために最低限のサービスの保障を約束しますが、それは社会生活の基本的ルールを奨励するものであって、国家が自ら率先して価値観などの統制を行うわけではないのです。

 しかしながら、今回の改正内容を見ますと、多くの点で国家が内心の自由や私の領域、プライバシーの領域への関与を明言しており、自由主義国家としてもその役割を大幅に逸脱していると言わざるを得ません。ある意味で非常にパターナリスティックな国家に逆戻りしているかのような感じがあります。しかしながら、むしろその多様な在り方があるということを前提にして、その中でどうやって生きていくのか、互いに尊重して人格の形成をしていくという元々の目的を考えた場合に、現在の文脈においては評価を伴うある種の強制として、特に目標の設定の部分は危険性が大いにあるというふうに感じています。これはやはり法律としても問題を抱えているのではないかと素人目に見ても思うわけです。

 内容を更に検討してみますと、同一の章内にレベルの違うものが並列されているような感がします。例えば、生涯学習だけが理念として語られていますが、生涯学習と教育の目的というようなところはどう関係しているのか、あるいは生涯学習と社会教育の問題はどうなっているのか。本当はこれこそが基本法として概念として整理されるべきような問題には手を付けておらず、並列して何か物をこう押さえているというか、自覚的に対応されているとは言い難いような気がいたします。

 まして、今回の政府案の提案の方法とかといったことに関しては、例えばこれはイギリスで政策分析をする場合にとても重要なんですが、政策文書が公表され、さらにその前に政党として、党大会で正式な政党の政策として認められるかどうかの討議を経て、さらには政策文書を公開し、関係者に事前の協議をし、そして世論とよく相談し合ってそして議会に出し、議会でまた論戦が行われるという、この一連の分析を見ている者からしますと、今回の法案の提出というのは非常に問題があったのではないかと思います。そして、さらには教育学会、関係の十五団体の会長が反対をするという連名で決議を上げていますけれども、あるいは国民の反対の声明はかなり出ていると思いますが、そういった世論調査の結果も無視しているのではないかというふうに思います。

 また、安倍首相の個人的な文書が教育政策の動向に大きな影響力を与えてしまうような状況も問題であると思います。特にイギリスがその場合教育改革のモデルとされ、あたかもサッチャー教育改革が成功したかのように喧伝し、サッチャーが一九八八年教育改革法を成立させ、四四年教育法を改正したために成功したのだという極めて恣意的な単純化した論調で現在の教育基本法改正を正当化するというような論議というのは、まじめにイギリスの教育政策分析に取り組んできた者として見過ごすことのできない多くの問題を抱えていると思います。このような単純な見方が流布してしまうことに非常に憤慨しています。

 これは、例えば教育バウチャーの議論についても同様です。実際には教育バウチャーにはいろいろなパターンがあり、いろんな形で活用できる可能性もあるんですが、今のように日本で紹介されてしまいますと嫌悪感の方が先立ってしまいまして、教育バウチャー制度をめぐるまともな議論もできなくなってしまう。このことを一番がっかり思っているわけです。非常に私としては政府が出されておりますこの法案に対しては明確に反対したいというふうに考えています。

 それからもう一つ、民主党の提出の日本国教育基本法案についても言いたいことがありますので、多少言わせていただきたいと思いますが、政府案と比べれば、民主党提出の法案は多くの点で政府案よりも受け入れられる余地はあるだろうと思います。内心の自由などについても守られており、基本的な法律としての要件も満足していると思います。いろいろ政府案にない、例えば外国籍の人々への教育の保障、特別支援教育の配慮、財政的保障、情報化社会への対応など、対案としての性格が前面に出ていますけれども、新しい社会への対応というものが盛り込まれている点で評価できると思います。

 ただし、教育行政に関して付言すれば、従来の教育委員会制度廃止という大きな変更を求めているということに驚かされているわけです。これも、急に出たような意識がありますので。日本は戦後改革以降、アメリカの教育行政制度である教育委員会制度を採用してきました。しかしながら、五六年の地教行法以来、公選制が任命制に切り替えられ、教育長の資格が剥奪されたりしてきています。元々財政的裏打ちもなく、脆弱な基盤の上に成り立っていたものが更に形骸化されていったわけです。さらに、このごろの批判の中では、教育委員会廃止論ももちろん展開されておりますし、分権化と絡まって大きな関心を引いています。

 しかしながら、教育行政の一般行政からの分離という原則を見直すことに関しては更に議論が必要であると思われます。例えば、学校の自律性を高め、学校理事会を置くことで公立学校制度の改革も同時に提案されていますが、当該地域の教育全体を見直し、バランスを取るという仕事は必要不可欠であり、これに関しては教育行政の専門家である教育長が行うべきであると考えます。これは特にアメリカのみならず、イギリスでも再確認された点であります。

 イギリスは日本と異なり、一般地方行政の一部として地方教育行政が位置付いています。それでも、そのイギリスでも、一時期教育行政を担当する部局の廃止が叫ばれたんですが、基礎学力の向上、特色ある学校づくり、そういった目的を学校だけにゆだねるのではなく、当該地域全体に配慮して調整し、困難を抱えるような学校に対しては積極的に支援を行うためにいわゆる地方教育行政機関、その役割が再認識されてきています。こういった点も含めてこの点は検討されるべきではないかと思われますので、これについて今後の論議を進めていただければと思います。

 以上です。



教育基本法に関する特別委員会会議録

徳島地方公聴会速記録 平成18年12月4日より抜粋

 

○公述人(戸塚悦朗君) 戸塚でございます。

 良識の府とされる参議院の本特別委員会に公述人として御招待をいただきまして、大変光栄なことと感謝しております。

 教育基本法は準憲法と言われるほど重要でございます。教育への権利が国際人権法上どのように保障されているかを十分研究の上、世界に恥じない立法をされるよう努力していただきたいと思っております。良識の府である参議院では、世界の法的良識を研究せずして拙速の立法をされないであろうと期待をしております。

 私は、一九八〇年代の弁護士時代から国際人権NGO活動を継続いたしまして、国際人権法、とりわけその実務に関する研究と実践に専念してまいりました。約十年間、ロンドン大学、ソウル大学、ワシントン大学等での在外研究の後、二〇〇〇年から神戸大学、次いで龍谷大学に勤務いたしまして、大学での教育研究に携わりつつ、国連NGO国際友和会、JFORと申しますが、のジュネーブ国連首席代表として国際人権法の実践と普及に努めてまいりました。

 実はこの分野の日本における研究は大変後れておりますので、その点について一言申し上げたいと思います。

 この二年間余でありますが、国際人権法政策研究所事務局長、龍谷大学内の外国人学校問題研究会のコーディネーターとしまして、教育への権利に関して国際人権法の視点から研究してまいりました。その研究の現段階の結果でございますが、日本ではこの分野の研究がほとんどないことが分かってまいりました。そのため、今回、各党の先生方が法案を立案する段階でも、この視点からの日本における研究をほとんど参照することができなかったのではないかというふうに推測しております。今後、十分に資料を御収集いただきまして御研究を済ませない限り立法作業を進めることができない状況にあるというのが私の現段階における判断でございます。

 お手元にお配りいただきました「国際人権法政策研究」という雑誌がございますが、この通算第三号は、十一月二十日、私が研究所の事務局長として発行したばかりでございます。発行が参議院のこの審議に間に合いまして、今日この特別委員会の徳島公聴会にお届けできたことは大変喜ばしいと思っております。まだごく一部の研究にすぎないのでありますが、今後、国会を含めて各界での研究、審議の端緒にはなるのではないかと思っております。

 この分野の日本の研究が著しく後れているのに対しまして、世界的には相当研究が進んでいることが分かってまいりました。日本も批准しております子どもの権利条約が保障する教育への権利に関する良書も見付かっておりまして、この今申し上げた「研究」通算第三号の五十七ページに報告をしております。現在翻訳作業中でございますが、出版は来年にならざるを得ないということで、今お届けできないのが残念でございます。日本も批准済みの経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約、いわゆる社会権規約が保障する教育への権利の研究も重要でございます。この分野でも良書の原書が見付かりましたが、まだ翻訳ができておりませんで、今後研究に取り掛かる段階でございます。

 社会権規約、子どもの権利条約などは批准済みの条約でございますから、日本を法的に拘束しております。日本は、国際的に保障された人権を憲法と国内法を通じて実効的に実現するという国際的な法的義務、これは憲法九十八条二項ですが、を負っていることに思いを致さなければならないと思います。

 今私たちが論議すべきことは、国際的に保障されている人権をどのように国内化しなければならないか、またどうしたら実効的に国内化することができるのかという課題でございまして、そのことの研究抜きで立法をするということはできないわけであります。

 国際的な研究成果を前提に検討いたしますと、現行教育基本法には後に述べますような国際人権法違反があるというふうにせざるを得ないと考えております。したがって、私はその是正のために法改正が必要であるというふうに考えております。もし条約違反などの重大な違法があるということが明らかになれば、ほとんどの市民の方々はこれを解消するための法改正には反対しないであろうと思います。現在、与野党が御検討中の法案につきましては、国際人権法違反を解除するのに十分な提案になっているのか否か、時間を掛けて研究する必要があると思います。まだその検討も不十分で、違反を解消していない可能性が濃厚であるという現段階では立法に熟するに至っていないと言わざるを得ないわけであります。

 この分野の研究が遅れてきた原因について、次に申し上げたいと思います。

 遅れの原因の第一には、これ歴史的な要因がございまして、私たちは必ずしも責任がない分野もございます。戦後、継続的に進行してまいりました国際人権法の成長に日本が対応し切れなかったことから研究に遅れが生じた、これが一番大きいと思います。

 憲法と現行教育基本法が成立してから後、国際社会は大きく成長いたしました。その主要な柱の一つに国際人権法の成長がございます。戦前の国家主義を克服しました一九四七年の教育基本法の歴史的意義、役割を損なうものとは思いませんが、すべての人の教育への権利を保障する世界人権宣言の成立、これが一九四八年でございます。お手元のレジュメの資料のところにございます。

   〔団長退席、岸信夫君着席〕

 この一九四八年の世界人権の成立は教育基本法成立の後でございまして、そのため、国際化の点で教育基本法が検討を要することになったのは否めないわけであります。教育基本法も、あるいは政府の改正案も国民の育成を期するものにとどまっておりまして、その後発展してきた国際人権法が外国人である子供を含めてすべての人の教育への権利の実現を求めていることに対応し切れていないという限界がございます。

 教育基本法成立後の国際人権法の成長によりまして、国民が国民の後継者を教育するという伝統的教育観では世界的には対応ができなくなったということが極めて重要だと思います。人類が人類の後継者の教育への権利を保障するという教育観を指導原理としなければならない地球社会時代が到来したのであります。教育基本法を改正するのであれば、この点を含め、国際社会の成長に合わせて教育政策の成長を図る必要があると考えます。

 遅れの原因の第二でございますが、司法、立法、行政の三府の決断の遅れにも原因があると思われます。

 二〇〇二年の六月十二日に参議院の憲法調査会にお招きいただきまして、参考人として意見を述べる機会がございました。そのときに実は説明させていただきまして、この私の著書である「国際人権法入門」の第一章に掲載しておりますが、国際人権法遵守義務を定めております憲法九十八条二項を実効的に実施するという政治的決断をすることが極めて重要でございます。これを実効的に実施するには、国際人権法に関する限りは国際人権機関による解釈を受け入れることが必要でございます。ところが、日本ではまだこの政治的決断が十分ではないわけでございまして、国際人権法に関する研究も、その結果、未了のまま立法作業が進められるということが多いのであろうと思います。教育基本法改正問題についても同様の状況にあるのではないかというふうに思われます。

 第三に、言語の問題がございます。

 これは案外隠れた原因なんでございますが、日本は高度の学問研究を日本語でできる、これはまれな国でございます。それはメリットではありますが、国際人権法の分野ではこれが裏目に出ております。国際人権法及びこれに関する情報のほとんどは日本語ではなく、英語など国際語で書かれております。国連情報もそうでありまして、国会議員の先生方も容易に日本語で重要情報にアクセスできないというのが現状でございます。それを打破するために、憲法調査会での意見を申し上げた際、その日本語化の要請を続けてきたのでございますが、いまだにこれが実現しておりません。これもこの分野の研究が遅れる隠れた原因だというふうに思っております。

 次に、現行教育基本法制度が国際人権法違反を構成しているのではないかという実例でございます。国際人権法上の問題と関連しまして、現行教育基本法制度にどのような問題があるか、その実例を若干挙げてみたいと思います。

 第一に、日本は、外国人である子供を含めすべての子供の教育への権利の実現を義務付けられております。これは世界人権宣言の、そこに資料に掲載いたしました条文をごらんいただければ明らかでございまして、これを承認しておりますし、その後の方に付いております経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)及び子どもの権利条約の締約国として国際人権法上の責務を履行する義務を負っております。

 ところが、現行教育基本法の法制の下では、教育行政実務はこのような国際人権法が保障している外国人である子供の義務教育への権利を認めておりません。そのことによって、国際人権法上の義務に違反しているのであります。このことは、お配りいたしました「研究」通算第三号の七ページの本岡論文を御参照いただければと思います。

 第二に、高等教育に関する国際人権法違反問題がございます。この問題、極めて重要でございまして、詳細に述べたいのですが、時間がございませんので説明を省略させていただきます。これは「研究」通算三号の二十三ページの私の論文を御参照いただきたいと思います。

   〔団長代理岸信夫君退席、団長着席〕

 次に、改正法案はこの違反を解除できているかということでございますが、与野党の改正法案がこれらの国際人権法違反問題を解消するのに必要十分であるかどうかについては、今後慎重な研究を必要といたします。しかし、程度の差こそあれ、いずれの法案も検討が不十分で、まだ解消が十分できていると言えないのではないかと思います。

 一例を挙げてみたいと思います。

 政府・与党法案を見ますと、外国籍である子供の教育への権利を保障している文言がございません。権利主体は外国人を含める言葉である何人、ないしすべての人でなければならないわけでありますが、権利主体を日本国籍を持つ者に限定し、外国籍を持つ者を除外する国民という文言が五か所に出てまいります。これに対して、外国籍を持つ者を含む文言である何人、すべての人というものも見当たりませんし、外国人という文言も見当たらないのでございます。また、権利という言葉は一切ございません。

 民主党の法案でございますが、国民が四か所に出てまいります。これに対して、何人が五か所でありまして、必ずしも一貫性がございません。不徹底であるというふうに考えます。外国人は一か所に出てまいります。権利は七か所に出てまいります。相対的には政府・与党案より充実しているのでありますが、実は外国人である子供の義務教育への権利を認める文言がないなど、問題なしとしないわけであります。

 次に、比較法研究について申し上げます。

 教育に関する地球規模の比較法研究も日本においてはいまだ極めて不十分でございます。今年七月、英国の教育法について若干研究してきたのでございますが、外国人の差別がないことが判明いたしました。教育法上の権利主体もいかなる子供となっておりまして、国民に限られておりません。外国人にも義務教育を含め教育への権利が保障されております。実務上も外国人差別はございません。十分な比較法的研究をせずに拙速な立法を行いますと国際的にも極めて恥ずかしい事態になるのではないかというふうに恐れるわけでございます。

 結論でございますが、以上の次第でございますので、与野党とも法改正を急がず、国際人権法違反の解消のためにどのような方策があるか、今後研究を慎重にお進めになることを要望させていただきたいと思います。

 ありがとうございました。


○公述人(石躍胤央君) 十五分でということですので。私、ワープロも今の機器使えないので、手書きの汚いやつを資料といいますかメモ書きでお渡ししておりますが、これに沿って話をしていこうと思うんです。

 一番、私は今度のことを資料をちょうだいしたりして見ていまして、なぜ変えなきゃいけないのかがよく分からないんです。それで、できるんだったら私が意見、それは何考えているか言うよりも、いらっしゃる委員の方になぜ変えるのかという話を聞きたいと思ったが、ここで聞く場じゃないからもうやめますが、それと、今日私なりに考えていることを申し述べますが、その際に、どうでしょうかということを実は聞きたいことが幾つかあるんです、端的にお答え願いたいことが。だけど、これもせずに、私の教育の場でやったことを紹介しながらお話をしていこうと思うんですが。

 教育問題は非常に重要な問題で大変なことだということを私、身の回りで感じているんですが、それを置きまして、先ほど言いましたように、なぜ変えるのかということをもっとしっかり話をしてほしいんだけど、何か知らぬけどばたばたばたばたやって、済みません、ばたばたなんて言葉、どうもあれしないんです。

 それで年表を、後であれしますが調べてみていったら、教育委員会の公選制を廃止して、今の市町村の教育長ですか、教育長については県知事だとか、それから県の教育委員会の教育長については文部大臣が認めるか認めないかというようになるような方向に変えていったときの法案を、今度の野党がいないところでやっちゃった、やりかけている、まあ最後はやらぬだろうと思いますけど、同じように、しかも参議院で警官まで導入してぶち込んで通すんですよね。これは後の話にかかわることですが、先言います。だから、その辺のところどうなっているのかですね。

 それで、一番、子供にも、将来しょって立つ子供たちに、私はこう思っているんです。なぜ、なぜという問い掛けですね。子供が大人になぜと問うたときに、答えにくいことが多々あるだろうと思うんですよね。そのなぜが今の子供たちには失われているんです。このことを一番僕は危機に感じているんですね。なぜ、なぜを積み上げていって一つ一つ知りながら積み上げていく。そして、それなりに意見を持っていて、違った意見があるんだったら議論をしていくというようなことですね。それで、しかも、教育についてはある枠の中へはめていくんじゃなくて、そういうことで、子供たちが将来選択していくには、自主的に一人の主権者として選択できるようなものを教育の場で作っていかなきゃいけないというふうに私は思っているんです。

 そういうことで、私が生まれましたのが昭和七年、一九三二年。それで、戦いに敗れ、一九四五年のときには中学の一年生ですね。それで、その後の教育の改革が行われて、そして今の対日講和条約が結ばれたり安保条約が結ばれたりしたころに、その後に大学に行くということになるんですが。

 一番、いろいろあるんですけど、私はこの点がどうなっているのかということについて点検をしていくことが非常に大事じゃないかと思っているんです。

 それで、書きましたように、戦後の教育行政改革の三原則というのは、民主化であるということ、それから地方分権、教育行政の独立と。これは先ほど触れました、教育行政の独立の最たるものが公選制教育委員会なんです。それで、これは文部省というのはあくまでもサービス機関なんです。これは条文読んでもらえたら出てくるところ、御存じのことなんだと思いますが。それで、指導要領がいろいろと出されて、それが拘束力を持ったり基準化されていくようなことも後で、こんなこと私がるる述べなくても御存じのことだろうと思いますが、なっていくんですが、最初のときはこれ試案なんです。先生方にこんなことではどうだろうかと見せて、先生方が論議していく中で案を作っていくというのが建前だったんです。ところが、そうじゃなくなっていくんですね。道徳教育の問題が出だしてからそうなっていくんです、というようなことですね。

 それで、教育行政というのは何なのかといったら、教育の条件整備。ほかの何かはしないということは、はっきり言って教育統制をやらないということ、教育統制はやらないと。特に思想、良心、道徳、価値観の統制は行わないと。

 これはいただいた資料の中にも出ておりますが、「教育基本法の解説」というのを御存じだろうと思うんですが、この中に、どうして変えるのかということについて、これは文部省の人たちがやったわけですが、明治期の学制が開かれて、明治五年に学制をやって、そしてその後ずっと憲法ができて、教育諸法ができてずっとやってきた。そして不幸な戦争をして大変なことになったというようなことの中で、その中では極端な国家主義的又は軍国主義的なイデオロギーによる教育、思想、学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であったと、昔は。

 この制度がなくならない限り自由自主的な教育は生まれることは極めて困難であったというようなことを書いて、この十条のところのことについて目標と、十条のことについて書いています。だから、言いましたように、ここに書きましたように、思想、良心、道徳、価値観については入れないというようなことなんですが。

 さて、それを置きまして、今改正案を見まして、先ほど伝統の話がありましたが、まあ見事に賢い方々というのは大変なところで伝統をお引継ぎになっているんだなと思って見たのですが、これ学生と議論して今の憲法の話をしたりしているときに、大日本帝国憲法を対比してやったんです。お配りしたのは字が小さいんでちょっと見にくいかもしれませんけど。

 これは五七年の五月に長谷川正安さんが書かれた「日本の憲法」、岩波新書です。それの第三章。上が日本国憲法です、一番下が帝国憲法ですが。国民の権利及び義務、第三章、それで帝国憲法の方には臣民権利義務とあります。これ見ていきますと、法律の定むるところとか、法律の範囲内、法律によるとか、法律法律と出てくるんです。例えば一つ開きますと、帝国憲法のあれで、第二十九条、日本臣民は法律の範囲内において言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有すと書いてあるんです。ここを読んでください、法律の範囲内においてという言葉を外したら、表現の仕方は違うけれども、一番上見ていただきたいんですが、今の現憲法と一緒なんです、ただ条文が違ったりしておりますがね。なぜこんなことになったのか。ほかにもたくさん出てくるんです、これ。御存じのことだろうと思います、なぜこうやったのか。

 これは明治期に、御存じのように、こんな話私は議員の方々にするような羽目になったのは非常に悔しい思いをしているんですがね。どういうことなのかというと、とにかく明治維新後近代国家を形成していく過程で、ヨーロッパ並みに、先進諸国並みに、ヨーロッパ先進国と肩を並べようと思って、幾つか要件があるわけです。御存じのように、一つは立憲国家になることなんですね。野蛮国じゃないんだと、憲法を持つんだということで調査団が出されたりいろいろして憲法ができたんです。ところが、一方の方では、教育勅語の方に流れてくる、天皇を中心にして云々というやつが出てくるわけですね。それと合わさなきゃならない。だから、これは先ほどの伝統の話でいったら、着物脱いで服を着た、洋服を着た、洋服を着たのが憲法かもしれない、ここに書かれている条項がそうだ。ところが、それではまずい、ここではこううたっているんだけれども法律で全部つぶしていった、そういうものがあるんです、ここに。そういうことを踏まえているから、先ほど私が言いましたように、前のようなやり方をやったら絶対駄目なんだという反省の上で、ここに書きましたように教育行政についての三原則と。特に、教育行政の独立ということが言われているわけです。

 ここに用意しましたように、それで現行の対比で見ていきますと、下に書いておきましたけれども、筋を引いているのがそれなんですが、片方が現行が十条で、補則の方が十一条になるわけですが、改正案の方でいきますと、実施するためのところで、必要な法令が制定されなければならないと。現行法では、必要がある場合には適当なという言葉が入っている。これ外されている。これ物すごく重要なことですね。必要がある場合には適当な、適当なというのは何なのかといったら、憲法の精神、教育基本法の目標で掲げている精神にのっとって云々なんですね。やっぱり法律、法令で決めていかなきゃならない問題があるんで、そのことをここでうたっているんだけれども、それは外してしまっている。この辺のところが、なぜこんなことになっていくのかということについて知らせてほしいんです。ない。まさか知らなかったなんというようなばかな話にはならないだろうと思うんですよね。見事なんです。まあ見事というふうに言っちゃいけません、そういうことを言っちゃいけないんです。

 それで、時間が限られていますが、私がどういう教育を受けたのかということと、それから私が接した学生がどうであったのかということについて簡単に触れていきます。

 一つは、私は、新制に切り替わっていく過程のところで、日本国憲法の第七十九条に最高裁の裁判官についての国民審査の項がありますね。衆議院選挙の第一回のときにやるんだというようなことになっていて、それでそれについての投票方法についてのあれが裁判所の審査法というので十五条と二十二条にあるんです。これはお互いにやっていて御存じのことだろうと思いますけれども、あれは否とする者についてペケを入れるんですね、バツ印。それ以外はやっちゃいけないんですね。賛成の方は白紙で入れるものなんですね。ほかのものを書いていたら無効になるわけですよね。

 これを私は高校のときに言われて、いいのかどうなのかなんです、このやつが。民主的なのか民主的でないのか、投票の仕方として、ということについて議論しました、同級生で。先生も言いました。先生が言ったのは、おかしいと言いました。それぞれが自主的に判断するんであるんだったら、否であったらペケを入れるし可であるんだったらマルを入れるべきだと。白紙にするというのは白紙委任だと。これは民主的じゃないと。ヨーロッパではこんなことやってないという話を聞かされた。それで、知らない人間についてマルもペケも入れないから白紙なんだというのが日本の慣習ですね、昔からあった。知らないからといってペケを入れて、もしその人がいい人だったらどうなんだと。これは投票した方の責任の問題なんです。その辺のことについては憲法の十二条に書かれている。国民がどうあって主権者がどうあるべきかということについては十二条に書かれている。ここにある先ほどのやつを見ていただきましたが、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」ということを先生が引いて、だからそれぞれがきちっと見ていかにゃいけない、分からない人が並んでいるんだったら調べるということをやっていっていいか悪いかを自分で判断する力を付けていこうじゃないかという教育を受けました、私は。

 それで、ついでですが、おっちょこちょいだったせいもあるかもしれませんけれども、第一回の衆議院の選挙のときに、今のあれですが、そのときの最高裁の判事についての国民審査のあれがあると。高校生だったんです。東京の蒲田の駅の北口のところへ行って、ミカン箱持っていって、仲間と、明くる日の投票のときにはきちっとしてくれと、分からないんだったら全部ペケ入れろというような演説をやったんです、途中でとんざしたりしましたけれどもね。というようなことで、自分で物を考える人間を育てていくということで育てられてきたように私は思っているんです。

 ところが、そして、これは書いてあるから時間がないから省きますが、次のDのところへ行きまして、一九四五年八月十五日という日はどういう日ですかといって聞きますと、ここで聞いて手を挙げていただいたら非常にはっきりするんですけれども、大多数の人が終戦の日と言うんです。私にとってみたら、中学一年で、終戦の日じゃないんです。敗戦の日なんです、私にとって。それで、終戦の日と言って間違いではないんですね、戦争が終わったんですから。いかがですか。戦争が終わったんだから間違いないんだ、だけど正確じゃないんだよ。なぜ敗戦と言わないで終戦という言葉を選んだのか。だれが選んだのか私は調べていませんけれども、一般化していっている。それで、今お互いに知っている人間同士で終戦か敗戦かといえば、ああこうなんだということで分かるんだけれども、子供たちが聞いたときは終戦でつながっていくんです。言葉というのは思想を変えるとここに書いているのは、後の方に書いているのはそれなんです。考え方を変える。これは実に知恵者がいて仕組んだなと私は思っているんです。

 それから次に、無条件降伏という言葉もずっとあるんですね。学生も言うんですよ。無条件降伏とは何だと言ったら、戦いに敗れたんだから占領軍の言いなりにならなきゃならないんだと言うんですよ。だから憲法を押っ付けられたんだという話に直結していくんです。これもある意味では仕組まれたのかもしれない。無条件降伏したのはポツダム宣言を無条件で受け入れたんですよね。そうでしょう。

 時間ないんですか。はい。だから、その辺の辺りのことをきちっとしないとね。もう少し、済みません。

 無条件降伏というのはポツダム宣言を入れたんだと。そうしたらポツダム宣言飛んでしまって無条件降伏だけ独立するから、それじゃポツダム宣言が出てから受け入れるまでの期間どうだったんだと聞いたら、原爆が二度あったのとソ連が参戦したという話が出てくる。なぜ遅れたんだという議論を学生たちなり子供たちが疑問を持つような格好に持っていかなきゃいけないんです。

 それからもう一つ、済みません。

 分数で分数を割るときの割り算、これを我々は逆さまにして掛けると教わったんです。いかがですか。これも皆さんに聞きたいんです。ところが、ある時期に子供たちが、割り算を何で逆さまに掛けるんだと、何で掛け算になるんだといって食って掛かったんですよ。これを先生が一生懸命説明したんです。これは有名な遠山の水道方式と言われるやつですよ。今の学生たちはみんなひっくり返して掛けるようになっています。いかがですか。それぞれお考えいただきたいんです。そういうなぜ、なぜと問い掛けていくようなことがなくなっていったということに非常に僕は危機感を感じているんです。

 あとここに、下のところに挙げている項目は、教育委員の制度が変わっていった、それから先生が勤務評定、物が言いにくくなっていった、学習指導要領で方向が決められていった、そして一斉テストだとか入試の問題が変えられていく中で受験勉強に入られて自由に物を考えられない状況に子供たちが追い込まれて今きているということ、大管法が変わって法人化されて大学も自由に物が言えないような状況になっている、こういうことの積み上げの中で今日の状況が出ているということを踏まえた上で見たときにどうなのか。教育基本法の十条なりに目標をきちっとしてこなかったためにこんなになったんじゃないかということに私はなるんですが、いかがでしょうかね。

 そういうことで、私は変えることに反対です。