教育基本法に関する特別委員会公聴会会議録 第1号 平成181115日(水曜日)より抜粋

 

○西原公述人 西原博史でございます。

 

 本日、教育基本法改正に関しまして意見を申し述べる機会をお認めいただきましたこと、心から御礼申し上げます。

 

 私は、早稲田大学に身を置きまして、憲法学、特に基本的人権の理論、中でも思想、良心の自由の研究にこれまで精力を費やしてまいりました。十年ほど前に上梓いたしました私の学位論文におきましても、良心の自由を扱いまして、アメリカ憲法、ドイツ憲法などとの比較の上で、国家が個人に対して特定価値観に基づく行動を強制する、それが一体どこまで許されるのかというような問題を扱ってまいりました。

 

 また、そうした研究を踏まえ、学校現場をめぐる法的紛争について、裁判所に鑑定意見を寄せるなどの活動にも従事しております。その中で、現在の学校教育をめぐる病理を観察する機会も得てまいりました。そうした観点から見まして、今次の政府提出によります教育基本法改正案に関しては、強い懸念を抱いております。

 

 憲法学として、権力分立の話から始めさせていただきますと、ここは国会、立法をつかさどる場ということになります。そして、制定された法律の執行は行政の手にゆだねられるわけですけれども、それは基本的には国会の手を離れていくということにすらなりかねません。そのため、政治部門として国会において配慮すべきは、法執行に際して十分な指針を与え、また、行政に濫用されることのない法律をつくるということでしょう。

 

 法律は、ある意味でいいますと、一つの生き物みたいなものです。生まれ落ちるとすぐ、生みの親である国会議員のもくろみを超えて機能し始めてしまうかもしれません。特に教育基本法のような抽象度の高い法律にあっては、一つの理念的な決定が多くの付随的な結果を発生させてしまう可能性があります。この政府案に関しては、間違った運用をされる危険がないと言えるのでしょうか。また、間違った運用をされたときに修正がきく形になっているのでしょうか。

 

 具体的に申し上げましょう。私が政府案に関して最も危惧しておりますのは、二条に掲げられた教育目標が硬直的に運用されることによって、国民の精神ががんじがらめに縛られていくという危険です。民主党案は、愛国心などを前文で理念と位置づけることにより、教育に対する直接の縛りとして機能する余地を弱め、さまざまな夢を持つ可能性というのを織り込んでおります。それに対して政府案は、教育基本法上の目標を明示し、それを達成するという形で条文を組み立て、その上で実施していきますので、かなり強烈な縛りが発生するという構造に傾きがちな形になっております。

 

 ここでは、二条の教育目標の中から、例として五号に掲げられる「国際社会の平和と発展に寄与する態度」を取り上げてみましょう。どのような態度をとれば国際社会の平和と発展に寄与することになるのでしょうか。そして、問いは常に具体的です。例えば、学校でイラク戦争を扱う場合に、イラク戦争を支持することが国際社会の平和と発展に寄与する態度だったということになるのか、それとも、フランス、ドイツのように、今から見ればイラク戦争に反対することの方が実は国際社会の平和と発展に寄与することだったということになるのでしょうか。どちらを選ぶかが教育現場では問われてくるということになります。

 

 あるいは、もっとホットな話題としては、例えば日本が核武装すべきかどうかというものに関しても、することか、しないことか、どちらが国際社会の平和と発展に寄与するのかという形の問いも成り立つし、それが学校において教育課題となされ得るということになるのかと思います。

 

 現在の教育基本法のもとでは、正しい国際平和のつくり方は、正解のない問題というふうにして扱われております。さまざまな見解とその論拠を学校で客観的に叙述するということはあり得ても、どちらか一方の態度を正しいものと決めて、それと異なる考え方を教育の中から徹底的に弾圧して排除するということは許されておりません。

 

 これは、もともと、現行教育基本法が一条で教育の目的とする人格の完成という理念が、独立して物を考える主体、自由な主体を想定していることと関係しています。現行の教育基本法においては、倫理的、政治的な価値をめぐる問題は、個人、一人一人が責任を持って判断すべき課題と位置づけられている。そこに国家権力が出しゃばってきて、正しい価値観を一つに特定するようなことを回避しようとする姿勢が示されています。

 

 ところが、政府案が現実のものになると、そうした構造は根底から覆されかねません。テストをやって、「国際社会の平和と発展に寄与する態度として正しいものを次の四つから選べ。一、日米安保を破棄して核武装すること、二、日米安保を維持して核武装すること、三、核武装を拒絶して云々云々」というような出題すら現実のものになり得るわけです。そして、それに対して、例えば、二を選ばなければ国際社会の平和と発展に寄与する態度として間違いであるということにすらなりかねないという状況になります。

 

 ここにお集まりの先生方の中には、私が挙げたような例を非現実的だとお考えになる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、そんなことが生じないというふうに言い切れる根拠はあるのでしょうか。現時点で私の挙げた例が非現実的なのは、現時点では現行の教育基本法が存在し、その十条で教育に対する不当な支配が禁じられるとともに、一条の人格の完成理念がイデオロギー的な教育を禁止する役割を果たしているからです。

 

 そして、確かに、人格の完成も不当な支配の禁止も、言葉としては政府案の中に残っています。しかし、政府案の構造を綿密に見ていくならば、政府案による教育基本法は、現実のものとなったとき、私の挙げたような例を排除する役に立つのでしょうか。

 

 政府案一条の人格の完成理念は、同じ条文の中で掲げられた国民としての資質の育成と関連づけられています。この資質を具体的に定義するのが二条の教育目標ということになるわけですから、二条で掲げられた目標を達成できて、初めて一人前の人格という理解が成り立つ余地があります。

 

 そして、政府案は、十六条ですけれども、国が二条における教育目標の内容を具体的に定義し、それを子供たちに受け入れさせる方法までをも明示していくことを通常の流れとして打ち出しています。十六条で、教育が、法律に基づいて、さらには国が総合的に策定し、実施する施策に基づいて行われるとされるとき、文部科学省が中央官庁として教育内容全般を支配するような体制が想定されていると受け取るのが自然ではないでしょうか。

 

 前国会におきまして、小坂前文部科学大臣は、二条に掲げられた項目、例えば我が国を愛する態度が具体的に何を意味するのかは学習指導要領の中で具体化される問題というふうに、繰り返し御答弁なさっていらっしゃいました。そうすると、例えば何が正しい国際社会の平和と発展に寄与する態度なのかは、文部科学省の密室の中で決められ、それに対してだれも口出しができないというような体制が動き出そうとしているようにも見えるわけです。

 

 もともと、現行の教育基本法十条は、教育の国民に対する直接責任を打ち出しておりました。これは、政府に対する直接責任を否定するものです。民主主義の中において、政府は多数決に基盤を有しておりまして、絶対的な真理を認定する力を持つものではないわけです。そしてまた、政府は、社会の中で特定の個別利害を背負って存在するものというふうにも言えます。ですから、その個別的な利害に基づいて政府が国民に影響を与えようという誘惑は常に存在するわけですけれども、だからこそ、教育は政府のために行われるものではないと確認する必要があったということになるんだと思います。政府の意向に拘束されず、もっと普遍的な真理、そうした真理を目指して行われるんだというのが現行法の立場ということになります。

 

 それに対して、政府案は、教育の内容を政府の意向に服従させてしまおうとする構造に傾いているように私には見受けられます。少なくとも、学習指導要領を定めるに当たって政府、文部科学省が全知全能であると主張したときに、それを抑制する原理がこの法案に組み込まれているようには私には見受けられません。逆に、政府、文部科学省の意向に異を唱えたり疑問を呈したりする人々が出てきたときに、それをすべて、教育に対する「不当な支配」、これもまた十六条に残った言葉ですが、そういう不当な支配として排除されることになるのではないかという危惧を持っております。

 

 そして、政府案六条二項は、国によって具体的に定義された目標に向けて、「体系的な教育が組織的に」行われる旨を定めています。この文言が意味を持つのは、文部科学省の意向で定められた教育のあり方に対して、それと違う考え方をする要素、教師を学校現場から排除するという場面ではないでしょうか。

 

 イラク戦争支持が正しい国際平和のつくり方なのだというふうに一たん決められた場合、例えば、誤爆という名前で罪もないイラク人民の上に降り注いだ爆弾に思いをはせ、正義の戦争なんて本当にあるんでしょうかという問いかけを発する先生は、指導力不足の不適格教員、教員免許を更新せずにやめさせてしまえ、そういう話になるのでしょうか。

 

 ここで想定されているのは、文部科学省の統制によって、全国津々浦々に至るまで、すべての学校において中央政府の意向に対応した内容の価値教育が行われるという構図です。愛国心にかかわる問題の本質も、ここに位置づきます。

 

 国を愛する方法は、人によってもちろんいろいろです。例えば、個人的には違和感があるけれども、政府が決めた方針があるんだから、それを支持しそれに協力することが国民としての愛国的な務めであるというふうに考える人もいるでしょう。また反対に、政府が決めたことであっても、自分が正しくないと判断することであったら、国を、過つことを避けるために徹底して抵抗し批判すべきである、それこそが愛国的な態度だと考える人もいるでしょう。どちらが正しいかという問題では本来なかったはずの事柄になります。

 

 ところが、文部科学省が教育内容決定をすべてにおいて標準化していくことになると、結局のところ、政府の示す国民として持つべき精神構造を忠実に受け入れることこそが愛国的な態度であるということにすらなりかねません。

 

 通知表を通じた評価の問題もここに関連してくることになります。前国会において小坂前文部科学大臣は、内心を直接に評価するようなことをしてはならないということを御確認くださいました。ただ同時に、学習内容に対する関心、意欲、態度を総合的に評価するものであれば問題はないという姿勢も崩さなかったという現実がございます。

 

 ところが、個人の内心はもともと他人が認識したり評価したりできるものではないわけです。そして、政府案が教育の目標にしているのも、さまざまな態度、国を愛する態度なわけです。ですから、結局、現時点までの政府の説明でも、価値観を体現する態度がとれるかどうかが評価の対象となることは最初から想定内のものであり、我が国を愛する態度をとろうとするかどうかを通知表で評価し、その際に文部科学省が定義した正しい国の愛し方を基礎に置くことには問題はないという理解がなお成り立ってしまうような状況に見受けられます。

 

 実際には、子供に対して特定の価値観に合致した行動をとれるようになることを命じ、それが実現できているかを評価の対象とし、できなかった場合には悪い成績という罰を与えるということは、子供に対してその価値観を受け入れるよう強制するということを意味します。こうした特定価値観の強制は、憲法十九条に保障された思想、良心の自由という基本的人権を考えた場合、許されることではありません。また、評価が下されないまでも、一つの価値観だけを正しいものとして子供たちに提示し、それ以外の考え方があり得ることを否定していくような働きかけが行われた時点で、既に思想、良心の自由に反する強制が行われていることになります。

 

 そのため、本来であれば、政府案がつくり出してしまうかもしれない教育の構造そのものが子供の基本的人権を侵害し、許されないはずのものではあるのですが、しかし、準憲法的な性格の教育基本法を改正し、国を愛する態度などの徳目を目標として明示的に組み込むという決断をした場合、そこで定められた国民の資質としての教育目標については、思想、良心の自由の範囲外であるといったような誤解を関係者の中に生じさせてしまう危険があるのです。

 

 また、これは教育現場の中だけではなくて、例えば親に、例えば地域社会、地域住民への働きかけという側面も出てまいります。

 

 しかし、文部科学省が学習指導要領を定めて一つの正しい平和のつくり方や愛国心を定義し、そこで定められた精神構造から逸脱することが許されなくなるような社会をつくることが本当に意味のあることなのでしょうか。立ちどまってもう一度考えていただきたいと思います。民主主義が健全なものとして発展するためには、社会の中にさまざまな考え方があること、それ自体が極めて重要な意味を持ってまいります。

 

 もう一度政府案二条に戻りましょう。この条文で教育目標として列挙されているものの中には、個人の価値観にかかわるような問題が数多く含まれています。男女の平等の正しい理解とは何か、これも最近多くの場合に政治的な話題になる観点です。公共の精神とはどのような精神か、我が国と郷土を愛する態度とはどのような態度か、多くのそういった論点が含まれているわけですけれども、こうした問題については、社会の中においても多様な考え方が現在認められています。

 

 この社会の中における考え方の多様性を否定し、どれか一つを権力的に正しいものと認定してしまえば、さまざまな考え方が多数派になることを目指して争い合うような民主主義という政治体制そのものを否定することになってしまうでしょう。本当にそれが望ましいことなのでしょうか。

 

 ここにお集まりの先生方は、自分なりの国の愛し方、自分が思う世界平和のつくり方についてそれぞれ深い考えをお持ちのことと思います。ところが、全員がここで同じ考えを共有しているわけでは恐らくないでしょう。それでも御自身の考え方が自分にとっては正しいと考えられる体制を手放してしまっていいかどうかということが問われているように思われます。

 

 事柄は与党に属する先生方にとっても恐らく深刻な話になります。首相が交代して前政権と異なった歴史認識が打ち出されると、その途端に学習指導要領が変わって、前の時代には正当なものだった御自身の日本人としての誇りが誤ったものと呼ばれる。そういうことがあり得ないと、本当にこの教育基本法、政府案のもとで言えるのでしょうか。そして、そのような権限を行政に与えてしまうことが正しいことなのでしょうか。

 

 教育を誤ることは国の将来を誤ることです。冷静に考えていただきたい。教育の根本にかかわる基本法を国民的合意のないままに強行採決で改正するなどということは、後の時代から見れば愚の骨頂だと言われることでしょう。少なくとも、運用する側で新教育基本法が憲法上の人権保障を超えるなどといった誤解が生じないよう、きちんとした予防措置を組み込むことが必要ですし、それを実現するための充実した審議がもっと必要だと私には思われます。

 

 政府案をこのままで通すかどうかが問われる今、問題になっているのは、一人一人が自分なりの考え方をつくり上げることができる民主主義を維持するのか、それとも、ごくごく少数の者が政治的指導者として決めた国民として持つべき意識を、すべての国民が受け入れなければならない抑圧的社会に転ずるのかという点であるように思われます。

 

 以上をもちまして、私の問題提起とさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

 

○森山委員長 ありがとうございました。

 

 次に、広田公述人にお願いいたします。

 

○広田公述人 日本大学の広田です。よろしくお願いします。

 

 私は、教育社会学という分野で、教育学と社会学の両方の立場からこの問題についてお話をさせていただきたいと思います。

 

 全体として言うと、もっと議論、検討されるべきことがたくさん残されたままになっている、だから、時間をかけてじっくり議論をやり直していただきたいということです。

 

 まず第一に、現状認識、特に青少年の現状をめぐって、もう少し検討されるべきだ。改正の議論が出てきたのは、青少年に規範が身についていない、いろいろな事件が起きるという話ですが、お手元に資料を配ってあります。非行やいじめというのが問題になるのは産業化が進展した先進諸国で共通のことでありまして、その中では日本の状況は割合ましで、外国から来ている研究者が、いや、日本の教育から学びたいですねとか、そんなことを言われるような状況なんですね。

 

 実際に資料の二枚目を。統計で、凶悪な殺人に関してちょっと私がデータをつくってみたんですけれども、これは殺人で検挙された少年の年齢人口別の推移です。これを見てわかっていただけると思いますけれども、最近になって青少年がたくさん殺人をしているわけではないですね。むしろ五〇年代から六〇年代にかけて非常にたくさん青少年が人を殺していた、いわば六十代、七十代の方々が若かったころが危なかったですね、これは。

 

 図の二は、今度は年齢層全体を見ても、二十代が非常にたくさん人を殺していたところからだんだん下がってくる。それから、十代も下がってきて、今、どの年齢層も大体同じぐらいまで下がっている。人を殺さない社会になってきているんですね。

 

 当然のことながら、図の三のように、殺人検挙者の中での青少年比というのは、七〇年代にずっと下がってきて、今、非常に低いレベルで推移している。だから、最近の若い者はすぐ人を殺すようになったというのは、明らかにうそです、俗説だと思いますね。

 

 おもしろいのが、次の図の四ですね。これは窃盗犯の比率を見たものですけれども、十代がたくさんあって、大体十四、五歳ぐらいがピークだと思いますけれども、そこで何がおもしろいかというと、二十代と十代が全然対応していないということですね。つまり、十代で万引きとか自転車泥棒とかでたくさん捕まる子供はいるんですけれども、二十代になるとそんなことはやらなくなる。みんなまともになっているということですね、これは。

 

 図の五と図の六は、これは浜井先生という先生がつくられたものですけれども、これを見ると、犯罪の実数よりはメディアの報道がどんどんあふれるようになっているというふうなことですね。死亡児童数の推移が減っているにもかかわらず報道がふえているとか、このような形の構造になっている。

 

 私は、その次のところで、二〇〇〇年に少年法改正問題があったときに、メディアがいわばあおり報道をしているというか、あおって問題を殊さらクローズアップしているという話を書きましたので、ぜひそれを見ていただきたいと思います。

 

 先ほどの図の四に戻りますと、わかることは、今の青少年は規範が身につかないまま大人になっているのではなくて、大人になるころには規範が身について悪いことはしなくなる、だけれども、それまで随分時間がかかって、十代の子供たちが起こす問題に大人がいら立っているというのが実際の今の状況だというふうに思うわけですね。子供がキレるようになっているのか、大人が気短になっているのかというふうな気がします。そういう現状認識をめぐって、もう少し考えていただきたい。

 

 それから二番目に、こういう法改正がされたとき、果たして教育現場は具体的によくなるのかということを考えていただきたい。

 

 私がいろいろ考えるに、どうもおもしろみのない窮屈な学校現場になってしまうように思いますね。一つは、生徒の側がどういうふうなことになるかというと、政府案の第二条で教育の目標というのが掲げられている。うちの息子なんかと随分違うような立派な子供像がここに書いてありますけれども、そこでは、態度を養うというのがたくさん出てくるんですね、態度を養う。しかも、政府案の六条二項では、「教育の目標が達成されるよう、」「体系的な教育が組織的に行われなければならない。」というふうになっていますから、たくさんの教育的な目標が随分細かく学校現場でなされなければならないということになっていく。

 

 そこで、その教育は、いわば態度を養うですから、教育の効果が態度ではかられるということになりますね。そうすると、態度は外面的なチェックができますから、一律にその態度が示されているかどうかというのをチェックできるわけですね。

 

 そうすると、生徒の側からいうと、いろいろなことに関して細かく態度が要求されるという、窮屈で息が詰まるような教育現場になってしまう。生徒の側も、戦略をとれば面従腹背みたいなことをやりますし、先生の側も、どんどん行き過ぎた管理で何とか態度を一律にさせたいとかいうふうなことになりますから、随分何かおもしろくない殺伐とした学校になってしまう。教員の側も恐らく随分萎縮をしたりして、教育現場が問題を抱えてしまう。

 

 十六条で教育行政が不当な支配の当事者から外れかねないとすると、先ほどの六条二項で体系的な教育が果たしてちゃんと行われているのか、態度が養われているのかといったことを教育委員会とかがチェックするようになると、これは学校の先生にとっては大変なことですね。

 

 つまり、子供の現実というのは、なかなかこんな立派な価値を身につけた子供ばかりにはならないわけですから、にもかかわらずそれをちゃんとやれという話ですから、形だけのつじつま合わせをせざるを得なくなってしまうとか、今よりももっと隠ぺい体質が強まってしまうとか、学校の先生にとって、自由闊達で子供に合わせた教育というのがだんだん難しくなってくるような気がする。

 

 そもそも、第二条のような教育の目標の諸価値の部分は教えられるのかというふうに思いますね。

 

 私は、よい子には教えられるというふうに思います。今の学校というのは、子供との関係をどうつくるのかというところで結構苦労しています。だから、教育的な関係に乗ってこない子供たちというのがたくさんいる、それをどうするかというのが問題なわけですから、教育基本法に書き込んで、それを教えれば、そういう子供たちがまるで手のひらを返したように変わるということは絶対あり得ないですね。

 

 いわば学校現場に無理な要求をしているわけで、教育現場の力を余りに過信している。恐らく、こういう法改正では、いじめも非行も減らないのではないか。だから、本当に学校現場がどう変わって、有効になるかということをもう少し議論をしていただければというふうに思います。

 

 その次に、四のところに行きますが、政府案に欠けているものがあるのではないかというふうに思います。特に、民主党案と比べると、未来社会像の狭さというのがどうも目についてしまう。一つは、グローバル化への柔軟な可能性が欠けてしまうのではないかというふうな気がします、私はここは社会学的に言っていますけれども。

 

 今の政府案の骨子ができたのが二〇〇三年の三月ですけれども、二〇〇三年の十二月には、小泉首相のところで、ASEANと日本とで東京宣言というのを出していて、東アジアの共同体に向けて歩き出そう、そういうふうなことをやっている。その前は、いわば一国主義でグローバル競争に勝ち抜こうというモデルでしたので、それでこの法律の枠組みができています。だけれども、それができたときとは少し違う二十一世紀像が出てきているんじゃないかというふうな気がするわけですね。

 

 その点でいうと、民主党の案で、第四条一項で、日本に居住する外国人に教育を保障するといったことが明記されていますし、教育の目標に当たる部分が民主党案の前文に回っているのは、文化多元社会の実現の観点からというふうな形で解説がなされたりしています。そういう意味では、民主党案の方が、いわばグローバル化する中でのこれからの国のあり方に対応できているんじゃないかというふうな気がしますね。

 

 それから、政府案で欠けているのは、IT化への対応が不十分なのではないかと思います。

 

 学校と家庭と地域の連携と言うとき、子供の教育を考えると、今はインターネットとか情報空間の影響というのが物すごく大きいですね。ですから、学校と家庭と地域が連携してやるというんじゃなくて、情報空間の問題をきちんと考えないといけない。いわば社会化のエージェントというのは、第四のエージェントが存在しているわけですね。それが今の政府案には全く視野から抜けていると思うわけですね。民主党案では、インターネットを活用するバーチャルな情報空間を使いこなす能力みたいなものも入っていまして、それは、新しいこれからの社会を先取りしている部分があるような気がする。

 

 それから、学ぶ権利の保障というのが、戦後の社会でずっとあったものが、これも政府案では余り入っていなくて、要するに、教育を受ける側の主体性をどういうふうに制度的に保障するのかという、そこが余り明示されていない。

 

 それから、教育の充実に向けてお金を出すとか、そういうふうなことが民主党案には書かれていますが、政府案はそのようなことは書かれていないので、条件整備の観点が薄いというふうに思いますね。今の状況を見ても、今の教育改革の流れを見ても、財政的に充実させて、それで条件をよくして教育の質を高めるんじゃなくて、お金を余り出さないままに教育の成果が求められていて現場が苦しんでいるというのが実際のところで、財政的な裏づけの問題を民主党案のようにぜひ考えていただきたいというふうに思います。

 

 そういうふうに、現状認識と学校への影響、それから、これからの社会や教育を考えたときのいろいろな可能性といったことを考えたときに、議論されていないものがまだまだたくさんあるはずだ。いわば、改めて未来の教育のあり方を選び直す議論をじっくりとやっていただきたい。審議は尽くされたどころか、今の教育をどう見るか、今後の教育をどうしていくかについて検討、議論されることはたくさん残っていると思います。

 

 非行統計に見たように、子供の現状の見方を、リアルで見たときに何をどうすべきかという話。それから、たくさんの教育的な価値の項目を並べて現場で教育させていっても教育はよくならないような気がしますから、システム設計が果たしてこれでいいのかどうかという問題。それから、グローバル化への対応や情報社会への対応など、今後の教育のあり方について、もっとさまざまな未来の社会の可能性を考えて、それに見合った教育基本法を考えていただきたい。

 

 それから、最後にちょっとお話ししますけれども、政府案に比べると民主党案はいろいろな問題をかなり拾っていると思いますけれども、しかし、現在の教育基本法を改めて選び直すという道もあるような気がするわけです。

 

 つまり、今の教育基本法は、理想主義で簡潔な分、非常にあっさりしているわけです。理想主義的であっさりしている。その分、いわばいろいろな課題とか方向に柔軟に対応できる汎用性があるのではないかと私は思っています。二十一世紀が予測が難しい未来であるとすると、汎用性の高い現行法を改めて選び直す道もあるのではないかというふうにお話しをして、私の話を終わりたいと思います。

 

 ありがとうございました。(拍手)

○森山委員長 ありがとうございました。

 次に、出口公述人にお願いいたします。

○出口公述人 今御紹介いただきました出口治男でございます。こういう機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。

 私は、昭和四十五年に裁判官となりまして、十一年間裁判官をしました。その間、八年にわたり少年事件と家事事件を担当し、昭和五十六年、弁護士に転じてから今日まで二十五年間、ずっと弁護人、付添人として少年非行にかかわり、あるいは家事調停委員として家事事件を担当し、さまざまな家庭、学校、子供たちの事件を扱ってまいりました。今問題となっておりますいじめの問題も、かなりの事件数を扱ってまいりました。また、現在、日弁連の教育基本法改正問題対策会議の議長を務め、この問題にかかわっております。

 私は、本日は、日弁連の意見を簡潔に申し上げるとともに、私自身の三十年余りにわたる一実務法律家としての立場から、本問題に対する意見を申し上げたいと思います。

 お配りしてございます日弁連意見書は、本年九月十五日の日弁連理事会で採択されました。八十五名、八十名余りの当日出席した理事のうち、一名の反対はありましたけれども、他の理事全員の賛成で採択をされました。教育問題につきましては、だれもがみずからの経験をもとにした一家言を持っておりまして、弁護士会においてほとんどの会員が一致するということはなかなかないのですけれども、この意見書はほとんど全員の一致を見たものでありまして、その意味では、日弁連の歴史上大変珍しく、かつ貴重な例というふうに申し上げてよろしいかと思います。

 この意見書の基本的なスタンスを若干かいつまんで申し上げ、御理解を得たいと思います。

 本意見書を作成するに当たりましては、教育基本法改正問題について会内及び各界各層にさまざまな考え方がございますので、法律専門家集団として大方の一致が得られる立場に立つことを基本といたしました。

 日弁連では、昨年の人権擁護大会におきまして、憲法改正の問題に関し激しい討議が行われました。そのときの議論で大方の一致した立脚点は、立憲主義と民主、人権、平和という憲法三原則を堅持するというところにありました。憲法に対するこの理解は、法律専門家集団として大方の一致が得られるところでありましたが、教育基本法は、憲法の精神にのっとり、憲法の理想を実現することを目的として制定された教育に関する憲法と位置づけられておりまして、立憲主義的性格を有していることは争いのないところであります。

 教育基本法は、国家や地方公共団体が子供に対して義務を課する、あるいはあれこれ指示をするというのではなく、国家等に対して、すべきこと、またはしてはならないことを義務づける権力拘束的な規範と解されております。この点は、国家等に対し、教育に対する不当な支配を禁じ、教育に関する条件整備を義務づけている現行法十条に極めて色濃くあらわれていると思います。

 現行法十条は、きょうお集まりの先生方はもう既に御承知のとおりでございますけれども、戦前の神話的国家観に立った国家主義的もしくは超国家主義的教育によって子供たちを悲惨な状態に追いやったことへの深い反省に立ち、国家等の教育介入を厳しく戒めて教育現場の自由を確保し、自主性、自律性を尊重し、子供たちの個人の尊厳を尊重し、その個性を伸ばすには、子供たちと教師との信頼関係の構築を実現することが何よりも大切なこととされました。

 政府案は、不当な支配を禁ずるという文言は残してございますけれども、教育行政の権限行使は基本的には条件整備に限定されるべきであるとする条項をすべて削除し、教育内容に関与できる道をはっきりと開こうとしております。また、法律によって教育内容が決定されるという仕組みもとられています。政府案は、教育の内容を、政治的、党派的利害を反映した法律によっていかようにでもつくることができ、教育行政による教育現場の直接支配を可能にするものとなっております。

 これらの仕組みの変更と教育振興基本計画の策定、遂行があわさりますと、教育に対する権力を拘束するという現行法十条の立憲主義的性格は完全に失われ、国家権力が教育を支配するという構造に転換することが明らかであります。しかし、このような構造転換は、立憲主義的性格を有する教育基本法の改正として大きな疑問を持たざるを得ないところであります。

 また、現行法十条を政府案のように変更することにより、愛国心や公共の精神や伝統と文化等々のように、本来多義的であり極めて価値的性質の強い概念を子供たちに一義的内容として教え込むことが可能になります。改正案の十六条、十七条はそのような可能性を制度的に支えるものであり、そのような仕組みの変更は、子供たちや現場の教師たちの良心の自由、内心の自由等精神的自由を侵害する危険があることを指摘せざるを得ません。

 ところで、この意見書承認から約一週間後に、東京地裁は、都教委の国歌斉唱義務不存在確認等の予防訴訟におきまして、国旗に向かっての起立、国歌斉唱、ピアノ伴奏を強制し、処分を行うことを禁ずる判決を出しました。この判決の論理構造は、今申し上げました意見書の論理構造とほぼ同様であります。法律的な立場から大方の一致できる意見の作成を目指した私たちの考え方と同じ志向を、この東京地裁判決は持っていることを指摘しておきたいと思います。

 さらに、各種の世論調査によりますと、安倍内閣が最優先課題に挙げる今臨時国会での教育基本法改正につきましては、今の国会にこだわらず議論を続けるべきだという意見が多いという結果も出ておりますし、東京大学の研究所の調査でも、教育現場のリーダーである小中学校の多くの校長先生たちが教育基本法の改正に対して批判的であるという結果が示されているところであります。これらの結果によりますと、少なくとも、教育基本法改正につきましてはさらに十分な議論が行われる必要があり、拙速な取り扱いをすべきでないというのが世論の多数と言ってよいのではないでしょうか。国会に教育基本法調査会の設置を求めている日弁連の意見とこうした世論の動向は、軌を一にしているというふうに考えます。

 日弁連の意見は、お配りしてございます一番最後の「むすび」のところで簡潔に書いてございますけれども、やはり教育の現場、子供たちが直面している教育をめぐる状況に深刻な問題があることは大方の見解が一致するところと思われますけれども、こういう状況を改善する処方せんとして現行教育基本法を改正するという方向を目指すことにつきましては、子供たちの事件を日々担当する実務家の立場からすると、大きな疑問と違和感を抱かざるを得ないのであります。

 私の経験に基づく個人的な意見を申し上げます。

 例えば、いじめの問題について申し上げますと、問題の渦中に飛び込みますと、教師たちが、いじめ、いじめられる子供たちと触れ合う余裕がほとんどないという事実にぶつかります。子供たちが送ってくるシグナルを受けとめる余裕が現場にはほとんどない。そうした現場の改善、改革を何らしないでおいて、子供たちに人間尊重ということを訓示したり、あるいは現場の教師を責めても、問題は陰湿化するだけでありまして、何の解決にもならないでしょう。

 いじめ、あるいはいじめられる子供たちを、私たちは一緒に事件を解決する場合には、やはり時には手を握り、あるいは抱き締め、体を張った取り組みを行うことが間々ございますけれども、そうした経過の中で初めていじめの問題の解決の端緒を得るということになるのが実際であります。教育基本法改正は、いじめ問題にとってどのような処方せんたり得るのか。一法律実務家の三十年余りの経験から、私は、本当にそういう処方せんたり得るのかということを問いたいのであります。

 いじめによって不登校となった子供たちとの話、あるいはいじめによってまさに登校停止になろうという子供たちと私たちは実務の中ではよく話をするんですけれども、そういう子供たちにとって必要なことは、私の経験に照らしますと、教育基本法改正という処方せんではなくて、むしろ、人としての尊厳を説く現教育基本法の理念をいかにその子供たちに教化していくのか、教育していくのかということにあるというふうに考えます。(発言する者あり)いや、決してそうではないと思うんですね。これは実務の感覚なんですよ、本当に、子供たちと話をする。

 そういう根本の問題を、実は正面から国会議員の先生方には議論をしていただきたいのですね。子供たちや親たちや教師たちの苦しみや悲しみや嘆きの声を率直に聞いてやっていただきたいのです。そういうふうなことを通じて初めて、教育の現場あるいは現在の子供たちをどうしたらよいのかということへの教訓が出てくるのではないかというふうに思っております。

 教育の基本である、子供たちの人としての尊厳を守るために、やはりこの特別委員会においてはもっともっと議論を続けていただきたい、十分な議論を行っていただいた上で結論を出していただきたい、これが私の、三十五年なので短いのか長いのかよくわかりませんけれども、やはりその経験からします本当の心からのお願いであります。

 どうも大変ありがとうございました。(拍手)