教育基本法に関する特別委員会会議録

派遣委員の北海道における意見聴取に関する記録 平成十八年十一月十三日(月)より抜粋

 

○岩本一郎君 早速ではございますが、私は、現行の教育基本法を改正することに反対する立場で私見を述べさせていただきたいと思います。

 

 教育基本法を起草した教育刷新委員会の委員を務めた河井道さんは、私の所属する北星学園の前身でありますスミス女学校の第一期生でした。彼女たちが基本法に込めた教育の理念は、いまだに色あせておりません。むしろ、今の時代にこそ、その理念を生かす教育を実現しなければならないと私は考えております。

 

 最初に確認すべきは、日本国憲法と基本法とは、分かちがたく結びついているということであります。基本法が準憲法的法律と解される理由もそこにあります。

 

 第一に、基本法は、憲法の根本理念である個人の尊重と、また憲法を特徴づける生存権の理念、この二つの理念を教育において実現することを意図したものです。基本法が前文に書く憲法の精神は、個人尊重の理念と生存権の理念を中核とする憲法の精神を指します。

 

 第二に、真っ当な教育なくして憲法の理想の実現は不可能です。憲法が幾ら崇高な理想を掲げても、その実現に向けて努力するのは現実の生身の人間です。したがって、憲法が理想とする平和的で民主的な社会を形成するためには、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成が不可欠です。だからこそ、基本法は、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とするのです。

 

 第三に、基本法を制定した我らとは、日本国憲法を確定した主権者としての我らと同じです。したがって、基本法もまた、憲法と同様、国の権力を縛る権力制限的な規範です。

 

 以上三つの点から、基本法は準憲法的法律と位置づけられます。とすれば、基本法もまた、憲法と同様、軽々に変更されるべき法律ではありません。

 

 基本法は、教育の目的の第一に、人格の完成を掲げています。教育が目指すべき子供たちの人格の完成とは、憲法が理想とする個人の自律の力を育てることを意味します。自律とは、他者から強制されることなく、自分らしいよき生き方をみずから見つけ出し、その生き方をまじめに実践する力のことです。私は、この力を、みずからの人生に希望を持つ力と言いかえております。

 

 そして、失敗や挫折を繰り返しながらも、それぞれの人生の目標に向かって懸命に生きる生き方、そのような生き方には、固有の尊厳、もっと平たい言葉で言いますと、固有の輝きがあります。それぞれの個人が生きる人生の尊厳、輝きは平等であり、そこに優劣はありません。そのため、憲法は、国に対してすべての国民を個人として尊重するように求めているのです。

 

 このような憲法の個人尊重の理念は、国に三つのことを要請します。第一に、国は、個人が生きる人生を格付け、優劣をつけてはならないこと。第二に、仮に社会の多数者が望むことであったとしても、国は、特定の生き方を個人に押しつけたり、国の定める大義や国益のために個人の生き方を犠牲にしてはならないということです。第三に、国は、多様な生き方の実践を許す寛容な社会を実現するための条件を整備しなければならないということ。この三つの原則は、個人尊重の理念から導かれるものであり、基本法もこの理念と原則を忠実に反映しております。

 

 日本国憲法制定当時、我妻栄先生は、人権保障の内容が自由から生存へと重点を移したことをこの憲法の最大の特徴だと述べました。自由が保障されていても、個人は、自分が決めたよき生き方を実践できるとは限りません。医者になって多くの人の命を救いたい、そんなふうに思っても、身体的なハンディキャップや経済的な理由から大学の進学をあきらめざるを得ないとすれば、憲法が保障する職業選択の自由は絵にかいたもちです。自由の権利は、現実にその自由を享受してこそ価値があります。だからこそ、自由を実質化するために、憲法は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障するとともに、教育を受ける権利、労働基本権といった社会権の規定を置いているのです。

 

 社会権の中でも、とりわけ教育を受ける権利は大切です。私たちが現実の社会の中で理にかなった生き方をするためには、自然や社会や人間についての基本的な知識を身につける必要があります。また、私たちの生き方は、公正で民主的な社会制度の枠内で、多くの場合、他の人々と協働しつつ追求されるべきもので、一定の規範意識と責任の自覚が求められます。その上で、私たちは、多様な人々との交わりの中で自分らしい生き方を選び取り、実践していくのです。

 

 基本法は、憲法の生存権の理念を受けて、教育の機会均等を確保し、子供たちの人格の完成に欠かすことのできない教育の条件を整備することを国に求めています。

 

 前述のとおり、教育の目的は、自律の力、つまり自分の人生に希望を持つ力をはぐくむことにあります。この自分の人生に希望を持つ力の最も基礎にあるのが、自尊感情です。自尊感情とは、自分には生きる理由がある、生きるに値する人生があるという、自分自身と自分の人生に対する肯定的な感情です。

 

 私たちが今この時代に生きているのは偶然ではないか。今この瞬間に地球には六十五億の人々がいる。そこから自分一人が消えてしまっても、この世界には何の違いも生まれないのではないか。では、私がこの世界に生きる意味というのは本当にあるのだろうか。子供たちはそんな不安と毎日格闘しながら必死で生きております。子供たちには、あなたには生きる理由がある、生きるに値する人生があるということ、そういう自尊感情をはぐくむことが何よりも大切です。そして、この自尊感情の中心には、この世に生をうけたときから、何の見返りも求めることなく無条件に世話をし、愛情を注いでくれた親がいるという経験です。この父とこの母にとって私は特別なんだという素朴な感情が、自尊感情のしんにあります。

 

 教育は、子供たちの自尊感情を大切に育てていかなければなりません。そうでなければ、子供たちは、そもそも自分の人生に希望を持つことなどできません。学校という教育の場が、子供たちの自尊感情をすり減らし、奪い取る場であってはなりません。

 

 現在、さまざまな教育問題が提起されています。しかし、これらの教育問題は、現在の基本法が生み出した問題ではありません。むしろ、個人尊重の理念と生存権の理念を基礎とする基本法の理念が現実の学校制度の中で十分浸透していない、最近では、むしろこの理念に反するような国による政治介入が行われていることに起因します。そして、現在政府が提案する改正案は、個人尊重の理念と生存権の理念を掘り崩すものであり、ますます教育を荒廃させるものと言わざるを得ません。

 

 まず、改正案は、個人尊重の理念と相入れない規定を含んでおります。

 

 第一に、教育の目的は、子供たちの自律の力をはぐくみ、人格の完成を目指すことでありますが、改正案は、教育の基本を我が国の未来を切り開くことに置いております。これは、教育における主客を転倒させるものです。子供たちを国家の未来を切り開く道具にすることは、個人尊重の第二の要請、個人の道具化を禁止することに反します。

 

 第二に、改正案は、教育の目標として具体的な徳目を挙げ、この徳目の観点から子供たちの態度を評価しようとするものです。しかし、国が特定の道徳観や価値観を尺度にして子供たちを格付けることは、個人尊重の第一の要請、生き方の格付を禁止することに反します。

 

 第三に、改正案のように、国と郷土を愛する態度を養うとして愛国心を法定することは、国と個人との特定の関係のみを愛国的とする危険を常にはらんでおり、個人に特定の生き方を押しつけるものです。それは、私たちの内心の自由を侵害するだけでなく、個人尊重の第三の要請である、多様な生き方を認める寛容な社会の実現を困難にします。

 

 第四に、改正案は、基本法の義務教育の九年の年限を削除することによって、飛び級制を拡大し、エリート主義的な教育を推し進めようとしています。学力テストや習熟度別クラスの実施は、常に子供たちを評価と選別の対象にします。そのことによって、子供たちの自尊感情を著しく損なうことになります。

 

 第五に、改正案は、男女共学の規定を削除します。子供たちの自律の力を養うために、人種、信条、性別、ハンディキャップの有無など、多様な子供たちが学校という学びの場にいることが大切です。学校こそ、多様な生き方の実験室であるべきです。男女共学は、男女の平等と教育における多様性の理念を具体化する重要な規定であり、削除すべきではありません。

 

 また、改正案は、生存権の理念を正しく理解するものではありません。改正案は、「能力に応じた教育」と定めることによって、能力別の複線的な教育の道を開こうとしています。しかし、子供のある特定の時点の能力を前提にして教育の内容に違いを設けることは、生存権の理念と相入れません。

 

 社会権の一つである教育を受ける権利は、結果として到達すべき望ましい最低基準をあらかじめ定めて、子供たちの能力に応じて、そこに到達するための最善の機会を保障することを求めています。つまり、教育を受ける権利は、結果の平等の要請を含むものです。したがって、教育の機会均等は、子供たちの能力に応じて登る山に違いを設けることではなく、同じ山ではあるが、それぞれの子供の能力に応じた多様なルートを用意することを国に求めるものです。

 

 最後に、改正案は、現行の十条の規定を改変し、法律に基づく国の政治介入を不当な支配のらち外に置こうとしています。真理とは何か、その真理をどう子供たちに伝えるか、この教育の核心にある問題は決して多数決になじむものではありません。真理は、自由で開かれた議論と実践が保障された空間でしか息づくことはできません。国による政治介入を今以上に強化する改正案は、教育の本質を見誤っていると言わざるを得ません。

 

 以上、私の意見陳述を終わります。(拍手)