教育基本法に関する特別委員会会議録 第9号 平成18年11月9日(木曜日)より抜粋
○尾木参考人 ただいま御紹介にあずかりました、教育評論家で法政大学教員の尾木直樹です。よろしくお願いします。
最初に簡単に自己紹介させていただきますと、私は、現在は法政で教授職についていますけれども、その前二十二年間は中学校、高校の教師をやっていまして、現場のことはある意味で熟知しているつもりです。その後、いろいろな評論家にもなりまして、全国二千カ所以上にわたって駆けずり回って歩いております。北海道から沖縄まで、すべての県に伺っているんですけれども、きょうはそういう立場から、ぜひ、現場の子供たちや親御さんあるいは先生方の声をお伝えするのが僕の仕事かな、そして、これまでの先生方の御議論に何か役に立てばというようなスタンスで参りました。
僕の専門は、臨床教育学といいまして、いじめ問題、学級崩壊、校内暴力とかあるいは引きこもり、ニート問題、こういうところが専門です。大学ではキャリア教育の方も携わっていますけれども、そういうところからきょうはぜひお話をしていきたいと思います。
この間、けさもニュースになっていましたけれども、高校の履修漏れの問題、これが大きく報道されています。僕はこれは重大な問題だというふうに思っています。既に二人の校長先生が責任を感じて命をなくされるという事態にも陥っています。
けさの報道によりますと、履修漏れ自体、今回初めてわかったことではなくて、既に四年前に文科省の調査で報告が行っている。医学部や歯学部の学生においては二〇%―三〇%にもわたって世界史を履修していなかったとか、文学部でも一〇%もあるとかいうことが言われていますし、それから、東京都はこの間の調査で電話で私学に対して確認をしていたとか、本当にずさんな行政の問題というのが僕は非常にクローズアップされているんじゃないかというふうに思います。
そのことが実はどういう問題に発展しているのかということなんですが、子供たちだとかあるいは学生に物すごく痛手になっているんですね。私の大学生を通して調査しました。そうしたら、まだまだ新聞では報道されていない学校が潜っています。だから、正確にデータをとったら、驚くような事態になりかねないというふうに思っています。
その中で、学生たちは、自分の学校が正直に言っていないという苦しみを持っているわけです。それから、先生、私は法政大学の許可を取り消されるんでしょうかと、二年生、三年生も涙ぐんで言います。つまり、ああ、ラッキー、得したねというふうに言うかなと思ったら、違うんですね。やはり非常に学生や子供たちというのは誠実で、自分は何かずるをしたんじゃないかと、それは子供たちの責任では全くないわけですけれども、非常に後ろめたい気持ちになっている。
これでいいんだろうかと思いました。僕は、もっと、ああ、得したと思ってくれた方がありがたいと思ったんですけれども、みんな傷ついているわけですね。そして、受験を控える今回発覚した学校はこれから補習に入るという、大変また衝撃的な出来事になったわけです。
この問題というのは一体だれの責任かといったら、子供たちに責任ないんですね。そういう点で、教育基本法の問題も、もう本当にしっかり現場に根差して考えていただければというふうに思います。
そういう中で、例えば現場の校長先生なんかはどういうふうにお考えかということなんですが、ことしの七月、八月に、東京大学の基礎学力研究開発センターというところが全国一万の小中の先生方にアンケート調査をしました。その結果が新聞発表、九月三日付に載っていますけれども、それによりますと、例えば、この教育基本法の改正案の問題に対してですけれども、「教育基本法改正案に賛成」かという設問に対して、「そう思わない」と答えた校長が五二・二%もおられます。もっと強く、「全くそう思わない」という方が一三・九%。トータルすると六六・一%にも及ぶ。現場の校長たちがこうだということは、僕は深刻な問題だろうと思うんですね。一方、政府の改正案に対して強く賛成だという方はわずか一・三%です。それから、もうちょっと緩やかに、「そう思う」という方は三二・六%しかおられません。これは、理解が行き渡っていないとか、いろいろな考えはあると思いますけれども、この事実はきっちり受けとめなきゃならないだろう。
僕は、評論家の立場で全国を駆けめぐって、メディアの方ともおつき合いとかいろいろあるわけですけれども、この委員会で議論をしてくださってから、どんどんこの改正案やいろいろな案が読まれています。それで驚くことは何かといいますと、本当に失礼になったら困っちゃうんですけれども、反対という声が、急速に風が吹いてきているんですね。これは一体何だろう。今まで知らなかったけれども、改正案を読んでみたら、あら、これは心配だ。反対というより心配という声が圧倒的に多いですね。そこら辺はぜひよく考えていただいて、丁寧な議論をしていただきたいというのが僕の今の立場なんです。
例えば、そのときに同時に聞かれていることで、教育改革が早過ぎて現場がついていけないという方が八五%もおられます。これは、僕も現場で長かったからわかりますけれども、本当に矢継ぎ早の改革です。それから、教育問題が政治化され過ぎているんじゃないかという方も六六%もおられて、現場の校長さんたちとかなり乖離が出てきているという問題はしっかり訴えたいというふうに思います。
では、具体的に、僕は臨床家ですので、いじめ問題を例にとってちょっと考えてみたいと思うんです。
きょうのレジュメは、いじめ問題に特化してつくってあります。レジュメ二枚と資料、B4判の大きなものがあると思いますけれども、これは時間がなくて全部御説明できませんので、時間があればお読みくださればありがたいと思います。
いじめ問題なんですけれども、例えば、この間、十一月六日に、文科省の大臣あてに、いじめ自殺予告というのがありました。この問題に関してどんなことが言えるんだろうかということで、レジュメの一番のところ、「行為の意味するもの」というので、僕が深刻だなと思ったのは、学校と教師、行政、大人への不信の表明と、今、教育行政が機能不全の状況に陥ってきた、大人全体も信頼されなくなってきたということの証明であって、これはある意味では国家的な危機だろうというふうに思います。
大臣のところにしか訴えることができない。これまでの私の現場感覚ですと、市長さんだとか町長だとか、せいぜい行っても知事さんどまりだったんですけれども、飛び越して大臣に直訴しなければならないような感覚に陥っているとしたら、これはどうしたことだろうというふうに思います。
そういう中で文科省のとられた機敏な対応、深夜の十二時十五分からの記者会見、局長がされましたけれども、あれは、僕はめったに文科省を褒めることはないんですけれども、本当に二百点を上げてもいいぐらいの動きだったというふうに僕は思います。非常に助けられました。
それはなぜかといいますと、いじめられっ子全体への励ましになったんだ。あれはだれかということが特定できなくても、そんなことは僕はどうでもいい問題だと思います。あの子供と同じような心境になっている子供が千、二千人といるわけですね。そういう子たちが、ああ、文科省が動いてくれた、大人が動いてくれた、通じるんだ、そういうメッセージを、本気を示したというのは、僕は極めてすぐれていたというふうに思います。大人への信頼を回復できる契機になればというふうに思います。
それから、もう一つ僕が願っていることは、地方の教育行政がこの間さまざま問題だというのは皆さん意見が一致しているところのように思いますけれども、そこに対する、目覚まし効果というふうにネーミングしたらいいんでしょうか、目を覚ませ、教育行政の役割は何か、文部科学省ですらああいう動きをとったでしょう、もっとしっかり子供の声を受けとめて動いてくれという目覚まし効果、あるいはモデリング効果といいますか、一つの模範になったんじゃないかなということで、すごく意味は大きい。子供の声は真っ正面から受けとめろということだろうと僕は思うんですね。
それから、七通の遺書が示しているもの。七通それぞれ読んでいきますと、悲しい事態、極めてリアルに今のいじめの深刻さというのがわかります。その中で大臣に書いているのは、いじめ自殺証明書と書かれているわけですね。いじめと因果関係があって僕は自殺するんだよというのを証明書を書いてしなければならないような事態というのは、子供の本当にぎりぎりの叫びも受けとめることができない事態に今教育界が陥っているということだろうと思います。深刻だと思っています。
今ここで緊急に求められるものは何かということをいじめ問題についてちょっとそこに整理しましたけれども、一つは、身近に助っ人がいるんだよというメッセージをまずきっちりと流すことだろう。それから、実は、いじめ問題に対する私たち国民全体の力量が非常に落ちてきたなと思うのは、今は、いじめで死ぬなというメッセージなんですね。僕もテレビに出ていて、先生どう思いますかと言われるんですが、違いますよ、いじめの加害者にいじめをやめろと言います。すぐにやめなさいというメッセージを出さなきゃいけないんです。いじめで死んじゃいかぬよ、お父さんが心配しますよというメッセージじゃないんです。いじめをやっている子にやめろと。
かつて、六年か七年前には、サッカーの選手が、「いじめ、恥ずかしいぜ」というポスターがあったと思うんです、「いじめ、やめようぜ」とか。こうなんですよ。加害者側、人権を侵害している側がやめなければならないのに、死んだらお母さんが悲しむよというメッセージを出したって、それは、自分は死ぬことすら罪なんだということをしょいながら死なせていくことになってしまうので、全然違う。やめたら被害者は救済されます、即日。ですから、加害者を許さないという毅然たる姿勢が私たちにまず必要だろうというふうに思います。
それから、加害者指導のところの力量ががたがたに今現場は落ちています。いじめで命をなくした子が出ているところで同じメンバーがまたいじめをしているという報道も一部にありますけれども、もし事実だとすれば憂うべきことです。これはどうしたんだろうと思います。
そういうことになってきている背景は何があるかといいますと、幾つかあるんですが、一番大きなものは、文科省のいじめの定義が間違っているからなんですね。文科省のいじめの定義というのはどうなっているかといいますと、こういうふうになっています。「自分より弱い者に対して一方的に、」二番目「身体的心理的攻撃を継続的に加え、」三番目「相手が深刻な苦痛を感じているもの」こうなるわけです。一九八五年のときは、それを学校が認定したというかしら認定するよという条件があったのが、九四年のところで外されたのは、僕は大きな前進だと思います。
ただ、見ていただいてわかるように、弱い者いじめでは全くないんですね。学級委員で、いじめをやめろと言っていたような子、あるいは、だれが見たってふざけだと思っているような明るい子が亡くなっているわけです。むしろ、弱い子は不登校してくれて、命は救えているんですよ。だから、そういう……(発言する者あり)いや、本当にそうなんです。だから、やはりそういう事実をしっかりと見詰めなきゃいけないと思います。強い子、よい子ほど学校に学校に突き進んでしまって、命をなくしています。こういういじめの定義そのものが間違っています、正直言いますと。なかなか修正されませんけれども。
それで、教育基本法に入ります。
教育基本法は、そういう点からいくとどういうことが言えるかといいますと、現実的な問題が教育基本法にどういうふうにしてつながってほしいかということで僕は申し上げたいんですけれども、一つは、子供への信頼感に現行の教育基本法は非常に満ちているというふうに思うんですね。前文に書かれていますけれども、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」こういうことが言える大人というのは僕はすごいと思います。次の世代に対する絶対的な信頼感、もちろん、それは私たちの教育の力というのがあるわけですけれども、これは極めてすぐれている。
それに対して僕が非常に気になっているのは、今は、国民の教育権というか、国民の側を向いた教育権、教育に体系立っているわけですね、法律全体が。それに対して、今回の与党さんの改正案というのを見ますと、これは先ほども委員からありましたけれども、国が物すごくリードをするというので、よい意味でとればそれはそれで成り立つのかわかりませんけれども、今いじめのことも言いましたように、いろいろな問題点、不十分さというのは国だっていっぱい持っているわけです。そこが法律をつくり、そしてそれを今度地方が通達、通達と現場へ流していくわけですね。そのときには極めて硬直した事態になって、これは国家の教育権に質が変わってしまう、今の国民の教育権から国家の教育権になってしまうんじゃないかという危惧を抱きます。もちろん、委員の先生方の善意というのはすごくわかっているつもりですけれども。
法律に定めるところというのも、解釈によると法に従ってというのでおかしくはないんですけれども、ただ、法律をつくるのはやはり議会でつくっていくわけですから、そこのミスリードなんてないとは限らないわけですね、これまでも歴史的に見たときに。だから、直接国民に責任を負って行われるべきものという現行のこの考えというのは、僕は極めて質が高いと思っています。
教育条理概念というのがありますけれども、教育というのは、子供の人格の形成、それから子供の発達に責任を負うというところが基本ですけれども、それに責任を負えるのは現場の教師、あくまでも現場サイドなんですね。そこを支援していく教育行政のあり方というのを第十条で明確に書かれていますけれども、これは僕はうんと大事にすべきだろうというふうに思います。
それから、現場教師の感覚でいいますと、あと一つ気になるところ、幾つも申し上げたいことはあるんですけれども、第六条のところで、学校生活を営む上で必要な規律を、教育を受ける者、つまり生徒は守らなきゃいけないというのを、こんなレベルの高い理念法で書くものだろうかということを思いますね。それは学校の教育目標であっていいわけで、何か、非常に僕は権威を落としてしまうものだろうというふうに思います。
それから、第二条の教育の目標なんですけれども、この目標が目標になっているんだろうかということです。
よく見てください。五つ目標を掲げておられます。二十の徳目がありますけれども、「真理を求める態度」です。それから、「勤労を重んずる態度」なんですね。三番目は、「社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」です。どれも態度、態度というのが非常に僕は現場感覚で気になるんです。
態度というと、現場の教師は評価項目をすぐつくるんですね、目標を決めたら評価しなきゃいけませんから。そうするとどういうことが行われるかというと、形式的な形を求めていくわけです。規律を守る態度だったらば、遅刻をしないで、いるかということで、心というかしら、人格の形成だとか感性の形成とは離れていくんですよ。何か、現場の悲しいさがかもわかりませんけれども、離れていきます。愛国心の問題もそうです。態度でいいんだろうといったら、本当に国を愛する祖国愛の気持ちなんて、僕は大事だと思いますけれども、それは育っていかない、態度さえとっていればいいのかとなったら。いや、皆さんは変だと思われると思うんですが、現場感覚ではそうなんです。
そういう点で非常に慎重な審議をしていただきたいというのが私の願いです。
以上、終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
○森山委員長 ありがとうございました。
次に、藤田参考人にお願いいたします。
本日は、ここで私の意見を申し上げる機会を与えられましたこと、非常に光栄に思いますと同時に、感謝申し上げます。
時間が限られておりますので、基本的にはお手元にありますレジュメに即してお話し申し上げたいと思いますが、構成は大きく二つに分かれております。前半は、今なぜ教育基本法を変えるのか、また、変える必要があるのか。そして後半では、主として与党・政府の教育基本法案の問題点について私見を申し上げたいと思います。
まず初めに、私は、教育基本法の見直しあるいは改定をしてはいけないと主張するものではありません。また、公共の精神や道徳心、あるいはまた集団、もちろんこれは国や郷土を含みますが、そういったものへの帰属心、愛着、あるいは誇りといったものが極めて重要だと考えております。
私の専門は教育社会学でありますけれども、こういった問題については、十九世紀、近代社会が発展するプロセスの中で、絶えずその重要性が指摘されてきたことであります。その点で、私は、この重要性を否定するものではないということを最初に申し上げておきたいと思います。
では、次に現行教育基本法ですが、これを今変える必要があるのか、どうしても変えなければいけない理由があるのかという点でありますが、私は、その必要性は全くない、何ら現行法で不都合はないと考えております。
まず、戦後六十年、日本の教育の発展を支えてきた教育の根本法であります。そして、その点で準憲法というふうにも言われております。
それから、この間、さまざまな形で、場で言われております教育にかかわる諸問題、いじめ自殺、未履修問題、校内暴力、学級崩壊、不登校、少年犯罪、あるいは規範意識の低下、ニート問題、少子化問題、どれを取り上げても、現行の教育基本法のせいで起こっている問題ではありません。根拠は、私の文献を含めて、いろいろなところでいろいろな方が論じているところであります。さらには、教育基本法を変えても、そして与党・政府案が仮に成立したとしても、これらの問題が解決されるわけではない、そう言ってまず間違いないと私は考えております。
さらに、そういったさまざまな問題に対する対応、また、変わる時代や社会への対応、そしてそのための改革というものも、現行教育基本法がそれを妨げているわけではありません。それは、そこにも書いておきましたように、この五年間あるいはこの十五年間ほど、実にさまざまな、ラジカルな重要な改革が進められてきております。そのすべてが現行基本法のもとで進められているわけでありますから、基本法を変えなくても、必要であるならば、さまざまな法律の改正やあるいは改革というものができるということでありますから、そこのところをまず考えるべきだというふうに思います。
三点目に、現行基本法の基本的な性格と卓越性でありますが、現行法は、教育の基本理念と学校教育の基本的枠組み、そして教育行政の責務、義務を規定したものであります。
これは今さら言うまでもないことでありますが、教育は極めて重要であり、国民的な大事業でありますけれども、しかし、公の権力がかかわって、教育行政あるいは政治がかかわってその内容を定め、人格の形成を行うものでありますから、そこに特定の、さまざまな政治的な意向や社会的な偏った意見が反映し、それを公の権力の名のもとに強制するということがあってはいけない。だからこそ、それに対する歯どめ規定をかけているのが現行教育基本法であります。その点が極めて重要でありますが、その点について、改正の法案というのはさまざまな問題を含んでおります。後で申し上げます。
この点は、現行教育基本法、そこにも書きました、そういう意味で立憲主義的な性格を持っているものであり、憲法第九十九条の憲法尊重擁護義務に則した内容あるいは規定の仕方になっております。
四点目に、教育基本法は多くの国民にとって空気のような存在であったと言っていいだろうと思いますが、それは、現行教育基本法が十分な酸素を含んでおり、そしてまた特に汚染されてはいなかったから、だからこそこの六十年間、日本の教育と社会の発展を支える根本法になってきたのだというふうに私は考えております。
しかし、もし、これに汚染源が注入され、汚染されるようなことになるならば、あるいはまた酸素不足になるようなことがあるならば、日本の教育の現場は、豊かさとおおらかさと自由を失い、さまざまな問題をさらに加速させることにもなりかねないと思います。そしてまた、酸素不足や汚染というのは、それが起こって初めて気づくものであります。そして、それに気づいたときに、教育基本法はそうそう簡単に変えられるものではありませんから、それだけに、この問題は極めて重要だというふうに思います。
そのようなわけで、私は、拙速に無責任な決定をしないようにしていただきたいと切にお願い申し上げます。国民の優に過半数は拙速な決定をすべきではないというふうに、各種の世論調査でも示されております。
そしてまた、改定をめぐる争点あるいは問題点というものが国民に必ずしも十分に理解されているようには私には思えません。さらには、この基本法案がはらんでいる問題、そして、特にそれが成立し施行された場合にどういう問題が具体的に起こってくるかの検討を含めてきちっと検討がされているようには今のところ私には見えないんですが、これからぜひ、そういったことも含めて検討していただければと思います。
次に、政府・与党の教育基本法案の問題点を検討したいと思います。
なお、民主党も新法要綱を出しておりますが、以下に挙げます問題点の多くは、民主党の新法要綱の方は徳目等については政府案以上に書いてはおりますが、以下の諸点の特に一番目、二番目、三番目それぞれについて、法的にはかなり配慮がなされているというふうに私は考えております。
一応そういったことを申し上げて、政府・与党案を中心に考えてみたいと思います。
まず第一の問題点として、教育目標としての徳目、態度が列挙されており、それは国民に対する命令規範という性格のものになっている、そのことの危険性であります。公共の精神、前文あるいは第二条。伝統の強調。そして、特に法案第二条、教育の目標のところでありますが、第五項、我が国と郷土を愛する態度。第四項、生命をたっとび、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度。第三項、社会の発展に寄与する態度。第二項、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度。第一項、真理を求める態度というふうになっております。
先ほども言及されましたけれども、もしかしたら、心を律するよりも態度を律することの方が、教育現場においては一律の統制になりかねない危険性があると言ってもいいかもしれません。そういう指摘もなされているところであります。
それから、法文として「職業及び生活との関連を重視し、」という部分がありますが、これは、子供がこれを重視するのか、それとも、教師、学校あるいは教育関係者がこれを重視するのか。
これは、その他の項目はすべて子供がはぐくむべき態度について書いてありますから、こういう関連を例えば小中学校の子供たちが重視してというふうにするとするならば、この文言自体が本当に妥当なものかということになりますし、逆に教師等がこれを重視すべきだということでありますならば、この法文自体が、だれを主語にし、だれを名あて人にしているかという点でも混乱を来しているようにも見受けられます。
それから、法案の第六条、必要な規律を重んじるということが学校教育に盛り込まれています。
こういったことを総合して、現行法は権力を制限する拘束規範になっているわけでありますけれども、それに対して法案の方は、国民にこのような人間になれという命令をする、そういう性質のものになっていると言っていいと思います。そのことは、そこに書いてあるとおりです。
次に、二点目といたしまして、政治、行政による不当な支配の危険性であります。
このことは、つとに指摘されておりますけれども、現行法の第十条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」ということで、主権在民等の基本的なルールがここに貫徹しているわけでありますけれども、法案の方は、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」であるというふうになっております。
つまり、法案やさまざまな法令あるいは政令、条例、通達、そういったものを制定する政治、行政は、この不当な支配の行使主体から外されているということになります。これは大きな転換でありますから、この条文をめぐってこれまで起こってきたさまざまな問題についての解釈が変わってくることにもなる可能性があります。
そして、これまで、この条文の解釈をめぐって各種の裁判が起こったことも事実でありますが、それは、民主主義社会がそういったことを通じてより望ましいものを実現していくその手続であり、そのプロセスであり、その枠組みだということでありますから、むしろそのことを尊重すべきであって、それを理由に、この内容を明確にして行使したいから政治や行政を外すというのは、私は民主主義のルールから著しく外れるものであるというふうに考えております。
三点目に、能力主義、市場的競争原理による教育の格差化、差別化とその正当化の危険であります。
この点につきましては、既に時間がほとんどなくなっておりますので、そこに書いてあるとおりでありますが、能力ということが法案では強調されております。現行法では第三条の教育の機会に二回使われているだけでありますが、法案では、その教育の機会の条項に加えて、教育の目標を規定した第二条と義務教育を規定した第五条にも、能力、能力に応じてという表現が使われております。
そういった点で、現在進められているさまざまな能力主義的あるいは市場原理主義的な競争、それに基づくそういった方向での改革と照らし合わせて考えるならば、能力が現行法以上に強調されることの中に、そしてもう一方で家庭の責任が強調されることの中に、格差化、差別化を推し進め、その結果については、特に不利な状況、冷遇される状況に追い込まれる子供たちにとっては、その責任は自己責任であり、家庭の責任だということにもなりかねない、そういう構造になっているとも読むことができます。
最後に、教育は未完のプロジェクトです。
さまざまな人たちが、教職員を含めてですけれども、支え続けてこそ成功する可能性が開けていくものであります。教育基本法を変えたからといって、あるいは改革を進めたからといって、それで成功するというものではありません。そのためには、必要かつ適切な改革を進めることはもちろん重要でありますが、同時に、条件整備と支援の充実が重要であります。
最後に、この教育基本法の問題は、日本の知性と英知が試されているんだと思います。政治の良識と責任が今問われているんだと思います。責任ある十分な審議と賢明な判断を期待して、私の発言とさせていただきます。
どうもありがとうございました。(拍手)