教育基本法に関する特別委員会会議録

派遣委員の宮城県における意見聴取に関する記録 平成十八年十一月八日(水)より抜粋

 

○中森孜郎君 お手元に差し上げております意見陳述の骨子に沿って意見を申し上げたいと思います。

 

 私は、一九二六年生まれの戦中派ですから、言うまでもなく、教育勅語と国定教科書に基づく国家主義教育、軍国主義教育を受けて育ちました。その教育の特徴は、皇国史観で貫かれた国史や忠君愛国を最高の道徳とする修身などを通して、子供を忠良なる臣民へと教化していくところにありました。

 

 そのような教育によって典型的な愛国少年に育て上げられた私は、戦争が激しくなる中、やむにやまれぬ思いから、一九四三年、十七歳になったばかりで、中学在学中、みずから海軍少年飛行兵を志願し、内地や台湾で厳しく訓練を受けました。生きて終戦を迎えられたのは幸運としか言えません。

 

 天皇と国家のために死ぬことをひたむきに考えてきた私は、生きる目標を失いましたが、やがて、生き残った者として何かをしなければならないのではとの思いから、一九四七年四月、再び母校松山中学に復学し、新たな人生を出発しました。

 

 まさにこの年に教育基本法が制定されたのです。以来五十九年間、私は、生徒として、学生として、教師として、教育学研究者としてこの教育基本法を心のよりどころとして、基本法とともに生きてきたと言えます。それだけに、簡潔にして格調高い教育基本法に格別の思いがあります。

 

 さて、提案理由説明を読みましたが、教育憲法とも呼ばれる教育基本法をなぜ今改正しようとするのか、納得いく理由を見出すことはできませんでした。

 

 現行法が、制定以来半世紀以上が経過して、時代状況の変化に適さなくなったということが大きな理由のようですが、OECDの国際学力比較調査の結果、未来志向型の学力において連続世界一、しかも国際経済競争力でも連続世界一で、今世界じゅうから注目されているフィンランドの教育の成功は、実は、日本の教育基本法や教育制度をも参考にして八〇年代半ばから大胆に実施した教育改革の結果であるとのことです。

 

 それとは対照的に、我が国において、八〇年代以降、さまざまな教育荒廃現象が進行し、学力の低下や格差拡大や学習意欲の低下が深刻化しているのは、皮肉にも、教育基本法をなし崩しにし、教育条件の整備充実を怠ってきた結果であると私には思われます。

 

 また、安倍首相は改正の一つの理由として占領下で制定されたことを挙げておられますが、私はむしろ、現行法作成に当たった我が国を代表する学識者たち、南原繁、安倍能成、田中耕太郎などで構成する教育刷新委員会が、占領下にもかかわらず、毅然として、GHQの口出しを一切許さず、刷新委員会の独立性を維持し、自主自立的審議を貫いた結実であることに誇りさえ感じております。そのことは、栗原祐幸元防衛庁長官も朝日新聞への寄稿で述べておられます。資料にあります。

 

 法案前文では、現行法の前文にあった「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」という文章がすっかり変えられています。

 

 戦前においては、大日本帝国憲法と教育勅語が一体のものでした。そして、日本国民、アジア諸国民にはかり知れない不幸をもたらしたあの侵略戦争に教育が大きな役割を果たしたことへの痛切な反省と新たな決意の上に立って、前文冒頭の文が書かれたのでした。戦後は日本国憲法と教育基本法が新たな意味で一体のものとされましたが、それは単に教育基本法が憲法の精神にのっとってつくられたというにとどまらず、憲法の掲げる理想は根本において教育の力によって初めて実現されるのだという、極めて積極的な意味が込められていたわけです。

 

 この冒頭部分が削除されることによって、憲法との関係は弱められ、あるいは切断されます。しかも、現行法前文中の「真理と平和を希求する人間の育成を期す」という文言が、改正法案では「真理と正義を希求」すると変えられています。これは、冒頭部分の変更ともかかわっているように思われます。

 

 そう考えますと、前文の改正は、安倍首相が任期中の実現を目指している、九条改定を中心とする自民党憲法草案と対応することのように私には考えられてきます。私の思い過ごしというものでしょうか。

 

 改正法案が現行法と最も異なる点の一つは、現行法の「教育の方針」にかわって「教育の目標」が新たに設けられたことです。そこには、五項目にわたって二十に及ぶ徳目が示されています。その中で主眼とされているのが国を愛する態度であることは、これまでの経緯からも明白です。

 

 人間の生き方や価値観にかかわる徳目を教育目標として法制化することは、国家が道徳の教師になることを意味し、その達成を教師に課すことは、国が公認する特定の価値観を教育の営みを通して子供に内面化していくことにつながり、明らかに、憲法第十三条、個人の尊重、第十九条、思想及び良心の自由、第二十六条、教育を受ける権利に抵触することになります。その点は、日本弁護士会声明も厳しく指摘しているところです。

 

 ましてや、国という概念は多義的であり、国を愛するという意味の解釈も多様であります。それが一たび法制化されてしまえば、その時々の政府の恣意的解釈による国を愛する心や態度の育成が教師に求められることになります。それは、徳目主義と呼ばれる教育勅語により子供を教化していった戦前の教育と本質的に変わりがなくなります。

 

 さらに、将来、もし改憲によって外国に出て戦争ができる普通の国となれば、再び、一たん有事になれば進んで戦争に参加する人づくりへとつながりかねません。その可能性は、自民党新憲法草案の前文に目を通せば否定できません。

 

 現行法第十条は、戦前の教育が、国家のための国家による国家の教育であり、中央集権的な教育であったことへの反省に立ち、また、日本国憲法二十六条によって、教育を受けることがすべての個人の基本的人権であると確定されたことを受けて定められたものです。そして、国家や行政が教育の中身に不当に介入することを厳しく抑制し、教育行政の責任と権限を教育の諸条件の整備に限定しています。これは、国は金は出せども口出しせずという世界の近代民主主義教育の原則を反映したものでもあります。

 

 ところが、提案では、第一項の「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」を削除し、「この法律及び他の法律の定めるところにより」に入れかえています。このことによって、「不当な支配に服することなく、」の意味が逆転し、まさに換骨奪胎されることになり、民主教育の原則が失われ、国や行政が思いのままに教育の中身に介入できる道を開くことになり、再び教育が国家のためのものになるおそれが大です。

 

 「この法律及び他の法律の定めるところにより」と書かれていますが、これまでも、家永教科書訴訟判決や先ごろの都教委の国旗・国歌の取り扱いに関する通達についての東京地裁判決を見ても、恣意的解釈による法の運用が違憲となる例が少なくありません。

 

 教育の営みは極めて専門的かつ創造的であり、そこでは、国民全体に責任を負った、自由で創造的な教育活動が保障されることが何よりも重要です。

 

 法案は新たに教育振興基本計画を条文化していますが、そうなれば、政府は重要な教育施策を一々国会に諮ることなく、閣議決定のみによってこれを実施に移せることになります。そのことで、政府は容易に、かつ思いのままに教育改革を進められることになります。それは、一見効率的に見えて、主権者である国民不在の非民主的な教育になる危険性を多分にはらんでいます。

 

 既に、それを見越して安倍首相は教育再生会議を発足させていますが、首相は著書「美しい国へ」の中で、イギリスにおけるサッチャー元首相が主導し、ブレア政権に受け継がれた市場原理、競争原理に基づく教育改革を高く評価し、それをモデルに教育改革を推し進める意向を述べています。

 

 しかし、イギリス在住のジャーナリスト、阿部菜穂子さんが月刊「世界」九月号、十一月号に寄せたレポートや、法政大学、佐貫浩教授の研究によれば、今やサッチャーの教育改革の矛盾が深刻化し、行き詰まり、改革の問い直しを求める世論が高まっているとのことです。サッチャーの教育改革を後追いすることが、今以上に教育格差を拡大し、教育荒廃を深化させ、子供を苦しめることになることは目に見えています。

 

 終わりに、以上法案についての私見を述べてきましたが、結論的には、現行教育基本法を変えるのではなく、守り生かすことが賢明な道であると考えます。実は、創価学会の池田名誉会長も、朝日新聞のオピニオンで「見直すより大いに生かせ」と述べておられます。教育は百年の計と言われます。性急に事を運んで将来に禍根を残すことのないよう、十分時間をかけて、慎重の上にも慎重に審議を進められることを切に希望します。

 

 最後に、八月二十六日、私が長らく所属してきた日本教育学会の歴代会長四氏が連名で「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」を発表し、関連二十八学会の会長が賛同を呼びかけ、現在既に千名を超える教育研究者がこれに賛同を申し込んでいることを申し添えて、私の意見陳述を終わります。

 

 ありがとうございました。(拍手)

 

教育基本法に関する特別委員会会議録

派遣委員の愛知県における意見聴取に関する記録 平成十八年十一月八日(水)より抜粋

 

○高橋哲哉君 高橋哲哉でございます。よろしくお願いいたします。

 

 私は、政府提出の教育基本法案に反対する立場から、私見を申し述べさせていただきたいと思います。

 

 安倍晋三首相は、臨時国会の最大の課題として教育基本法改正を掲げておりますが、今なぜ現行法を改正しなければならないのか、その理由は今もって不明であり、私にとって説得力のある理由が示されているとは思われません。教育に関する基本法の改正であれば、本来、児童生徒、教職員、保護者など教育現場の当事者たちから求められ、その必要に応じて行われるのが筋だと思いますが、今回はそうはなっていないのではないかと思わざるを得ません。

 

 最近発表されました東京大学基礎学力研究センターの調査でも、全国の公立小中学校の校長先生の六六%が教育基本法改正に反対である、また、八五%が、現在の教育改革が早過ぎてついていけないという意見であるという結果が出ております。今回の教育基本法改正の動きは、教育的理由から出たものというよりは、政治的意図から出ているのではないかと思われる点に大きな問題を感じております。

 

 安倍首相は、戦後体制からの脱却という政権課題の柱の一つとして教育基本法改正を掲げて、次のように述べております。「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」、このように述べておられますが、しかし、教育基本法があたかも占領軍の押しつけによって生まれたかのようなこの種の認識は、根拠のない偏見にすぎません。

 

 私は、ここで、教育基本法の生みの親に当たる政治哲学者南原繁が一九五五年に書いた「日本における教育改革」という文章を、安倍首相のみならず、政府案に賛成するすべての皆さんにぜひお読みいただきたいと思っております。お手元に全二十三ページの南原の文章を六枚のB4のコピーとして配付させていただきましたので、ぜひお読みいただきたいと思います。

 

 南原繁は、東京帝国大学の最後の総長、また新制東京大学の初代の総長でありまして、貴族院議員を兼務し、教育刷新委員会の委員長として、教育基本法の法案作成の中心人物でありました。

 

 南原はこの文章で、教育基本法が「アメリカの強要によって、つくられたものであるという臆説」が流布されており、一部の人たちの間には、「日本が独立した今日、われわれの手によって自主的に再改革をなすべきであるという意見となって現われている。」が、これは「著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議といわなければならない。」と断じております。

 

 南原によりますと、教育刷新委員会の六年間、総司令部から指令や強制を受けたことは一回もなかったのであり、教育基本法は、この委員会で当時の日本の指導的知識人たちが徹底した議論を行ってつくり上げたものなのであります。安倍首相の、教育基本法は占領時代の残滓だからつくりかえねばならないという主張は、既に五十年前、南原によって退けられたものであると言わざるを得ません。

 

 南原によりますと、教育基本法の根本理念は、「われわれが国民たる前に、ひとりびとりが人間としての自律」ということにあります。教育の目的が人格の完成に置かれているのは、「国家の権力といえどももはや侵すことのできない自由の主体としての人間人格の尊厳」が中心にあるからであります。これは、安倍首相が教育の目的を品格ある国家をつくることだと言っているのに対して対照的な立場であると思われます。

 

 ここから南原は、教育行政権力の役割を教育条件の整備に限定し、不当な支配を禁止した現行法第十条の意義を強調しております。南原の文章です。

 

 「戦前長い間、小学校から大学に至るまで、文部省の完全な統制の下にあり、中央集権主義と官僚的統制は、わが国教育行政の二大特色であった。」したがって、教育をそこから解放して自由清新の雰囲気をつくり出すためには、「まず文部省が、これまでのごとき教育方針や内容について指示する代りに、教育者の自主的精神を尊重し、むしろ教育者の自由を守り、さらに教育のため広汎な財政上あるいは技術上の援助奉仕に当るという性格転換を行ったことは、特記されなければならない。」

 

 ところが、これに対して政府法案では、現行法第十条の教育行政の役割限定の部分が削除され、さらに、教育が国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものであるという部分も削除されまして、教育は、国と地方公共団体の教育行政がこの法律及び他の法律の定めるところにより行うべきものとなっております。第十六条であります。これは、第十七条の教育振興基本計画についての規定と相まって、教育の主体をこの国の主権者である国民から国家へと変えてしまうことになるのではないかと思われてなりません。政府の法案では、教育の主体と教育の目的がいずれも国家になってしまうのではないか、国家による国家のための教育、国家の道具としての教育をつくり出そうとしているのではないかと疑われてなりません。

 

 法案の第二条、教育の目標に愛国心が入ったのも、この枠組みの中で考えられます。安倍首相は一貫して教育基本法に愛国心を入れたいと言ってきましたけれども、その安倍氏が、国が危機に瀕したときに命をささげるという人がいなければこの国は成り立っていかないと述べていることは、何を意味するのでしょうか。

 

 戦後の日本政府が教育と愛国心を結びつけた最初の例として、一九五三年の池田勇人・ロバートソン会談というものが挙げられます。朝鮮戦争後の日本の再武装に当たって、日本国民の間に自衛のための自主的精神を育てるために、教育と広報によって愛国心を養う必要があるとされたのでした。

 

 今回も、安倍首相が、六年の任期中に憲法九条を変えて自衛軍を保持し集団的自衛権の行使を認めていこうという中で、教育基本法に愛国心が入れられようとしているのは偶然とは思えません。安倍首相の認識は、お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す、教育基本法改正の目的はこれに尽きると述べた西村真悟議員の認識と同じではないでしょうか。国家が愛国心を初め多数の道徳規範を教育の目標として定めた法案第二条は、二十一世紀の教育勅語とも見えるものであり、それによって、この法律は、国家道徳を国民の心に注入していく、そのための法律になってしまうのではないでしょうか。

 

 南原繁は、一九五五年に、こうした動きに明確に反対しておりました。南原の文章です。

 

 「近年、わが国の政治は不幸にして、一旦定めた民族の新しい進路から、いつの間にか離れて、反対の方向に動きつつある。その間、教育の分野においても、戦後に性格転換をとげた筈の文部省が、ふたたび往年の権威を取り戻そうとする傾向はないか。新しく設けられた地方教育委員会すら、これと結びついて、文部省の連絡機関となる惧れはないか。」「全国多数のまじめな教師の間に、自由や平和がおのずから禁句(タブー)となりつつある事実は、何を語るか。」このような状況のもとで、「ふたたび「国家道徳」や「愛国精神」を強調することが、いかなる意味と役割をもつものであるかは、およそ明らかであろう。」このように述べております。

 

 実は南原は、国家道徳や愛国精神によってではなく、現行の教育基本法の理念によってこそ、真理と正義、自由と平和を希求する真の愛国心が呼び起こされると述べていました。そして、次のようにまとめています。

 

 「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」からである。これは最後に近い部分にあります。

 

 政府提出の教育基本法案は、現行法の精神を根本から書きかえようとしているのではないでしょうか。主権者である国民による子供たちのための教育、これを国家による国家のための教育に変えようとしているのではないか。政府法案に賛成の方々は、どうか、この南原が、「いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。」と述べたことの意味を改めて考えてみようではありませんか。

 

 教育は国家の道具ではもちろんありません。子供たちも国家の道具になってはいけません。私は、教育と子供たちを国家の道具にしてしまいかねない政府法案に強く反対するものであります。

 

 以上です。(拍手)