教育基本法に関する特別委員会会議録 第11号 平成1867日(水曜日)より抜粋

 

○堀尾参考人 堀尾です。

 

 こういう機会を与えられましたことを大変光栄にも思いますし、緊張しております。

 

 その緊張している一つの理由は、私は、法学部を卒業して法律と政治学をやりまして、その後、教育に変わって、そして専門としては、教育哲学、教育学、あるいは子供、青年の発達の問題、そして教育法の問題、国際比較教育学というような領域の研究を長年続けてきた者であります。同時に、日本教育学会の会長を二期務め、日本教育法学会の会長も二期務めてまいりました。

 

 それだけに、私はここに立っているのですけれども、もちろん、きょう私の個人の意見を申し上げるわけではありますけれども、同時に、長年研究してきたその研究の同僚や、あるいは教育に関して言えば、現場の先生たちとの交流を通して深めてきた私の知見を披瀝しなければならないわけですし、しかも、この場では大変少数意見であるようであります。この議論の中でも、一部の教育関係者が云々というふうな議論がなされています。私はそういう意味では一部の教育関係者かもしれない。しかし、私が研究してきたことはそんなに偏っていることとは決して思ってはいません。それだけに、短い時間ですので、私は皆さんに、やや僣越ですけれども、「いま、教育基本法を読む」という本を岩波から出しておりますので、これはぜひ、恐らく継続審議になるであろうその期間、ゆっくりと読んでいただきたいというふうに思います。

 

 それから、もう一つ資料として、日本教育法学会の会長の伊藤先生の見解を皆さんにお示ししました。私自身、日本教育法学会の会長を二期務め、その間に、この教育基本法改正問題が、本当に改正論議ではなくて法案作成という方向で動く中で、危機意識を持って、教育基本法研究特別委員会というのが学会にも設置されました。その研究成果は、これはこれでまとまっております。もしまだ先生方のお手元にないとすれば、これは、特に政府案の批判を中心に、各条細かな批判をしています。ぜひごらんいただきたいと思います。お示ししました会長談話は、そういう研究特別委員会の成果を踏まえ、さらにこの会長の見解を表現したということであります。

 

 そういうわけで、私が緊張しているという意味は、研究者仲間のこの考え方がどこまで正確に伝えられるか、あるいは現場の先生方の願いがどこまで伝えられるかということで緊張しているということでございます。

 

 この国会を通して、皆様方、本当に教育とは何かという議論を深くされました。非常に通俗的なあるいは常識的な議論から、非常に深い教育の本質論を含めての御議論がありました。私は、丁寧に、この国会の議事録も手に入る限り読ませていただいています。それだけに、この国会で皆様方が教育の問題についてこれだけ多面的に議論をされているということには本当に敬意を表しています。同時に、その意見が多様であるということも、それこそが大事なんではないかと思っています。

 

 それに重ねて、なぜこういう教育に関する議論がもっと日常的にみんなのものに広がっていかないのかということを残念にも思いました。たまたま、教育基本法の改正というそのことをめぐってこういう議論がなされている。そのことは、逆に言うと不幸なことだというふうに思っています。

 

 国会で議論されている教育法の本質をめぐる問題は、それは、そのまま教育基本法改正問題というふうな形で連動する問題ではないわけです。それこそ各党派を超えて、教育の本質、そしてそこには、国がやるべきことなんだという言い方から、あるいは教育には押しつけが必要なんだというような言い方から、そうではなくて、教育の基本は一人一人の人間を育てることだ、人間を人間として育てることこそが基軸にならなければならない、個人の尊厳を重んじ、お互いに大事にし合うというそういう人間が実は国をつくっていく、平和的な、民主的な国家と社会の形成者になっていくんだ、その国民は同時に、現在、私は地球時代というふうに現代をとらえているんですけれども、その地球時代においても、それを担っていく、新しい、言うなれば世界市民的な感覚を持った国際人を育てていく、そういう議論を私はしているわけです。それに近い議論もこの国会の中でもありました。

 

 考え方の筋としてどこを軸にするのか。きょう、見城さんのお話もありましたけれども、教育は基本である、その冒頭に教育は国の仕事だというふうに書かれています。しかし、後の方で、愛国心のところで議論されたことは、私は全く同感だなと思いながら伺っていました。それぞれの御意見の中にも、矛盾を含みながらいろいろ大事なことを言っている。だれの意見が正しいということではないんですね。その際、特に私は、戦後の教育のとらえ方、そして、なぜ教育基本法の改正が必要なのかというその根拠についてはほとんど理解ができません。

 

 例えばきょうも、青年会議所の方が敗戦トラウマという言葉を使われました。これは、この国会で先般、町村さんが戦後後遺症という言葉を使われました。果たしてそうなんでしょうか。振り返って、あの戦後、まさに敗戦そして占領下の中で私たちの先人がどういう思いで新しい人間を育て、新しい国をつくろうとしたか、その思いが教育刷新委員会の議論、そしてそれを通して教育基本法をつくっていったということであります。その中心になった、例えば田中耕太郎、あるいは南原繁、あるいは安倍能成、務台理作、そういった人たちは、本当に人間を思い、国を思った人たちです。

 

 南原さんについて一言申しますと、南原さんは「祖国を興すもの」という本を書かれています。それから、新しい日本の文化をつくるんだというそういう講演を、東大の総長になったときに講演しています。同時に、その講演を、一九四六年の二月十一日、その当時は紀元節です、その紀元節にあえて、新しい国を興す、そして、東大にはそのときに日の丸を立てたのです。私は、戦後改革を担った人たちというのは、そういう意味で本当に愛国者だというふうに思っています。敗戦後遺症というふうな形で我々の先輩をとらえていいんだろうか。占領軍の押しつけによってつくられた、そんなことはないんです。もちろん占領下です。ステアリングコミッティーを通していろいろなアドバイスもあったかもしれません。少なくとも、お互いに情報を伝え合っていたことは事実です。

 

 しかし、教育基本法の作成は、本当に私たちの先人たちが過去の反省を踏まえて、新しい人間をつくる、その人間を軸にして新しい国をつくるんだ、その際中心になるのは、一人一人の人間の尊厳、そして、真理と平和を希求する人間、これをつくるんだ、これがですから教育基本法の精神です。そして、それが新しい世界を開いていく。決して平和は一国の平和主義ではないんです。日本の新しい理念を国際的に広げよう、そういう責任の自覚、使命の自覚を通して憲法をつくり、教育基本法をつくったんです。

 

 私は勝手なことを言っているのではありません。私は研究者ですから、特に、戦後改革がどういうものであったか、それについては、実はこういう本があるんです。これは東京大学の出版で、戦後教育改革のシリーズ全十巻です。スタンフォード大学との共同で始まった仕事です。そして私は、この巻、このシリーズで、教育の理念の成立過程、つまり、憲法の成立過程と教育基本法の成立過程を丹念に調べた本を書いています。それから、十条に関しては、この教育行政の巻で、残念ながら昨年亡くなりましたけれども、鈴木英一さんが非常に丁寧な仕事をしています。そういう仕事を通して私たちは、戦後、敗戦後遺症などとは決して違うんです。それは、新しい思いを、新しい理想をうちに秘めながら、次の世代をどう育てるかということで教育基本法をつくったわけであります。ですから、その歴史というものは非常に大事なわけで、この本も、歴史、争点、そして再発見という言葉を使っています。

 

 私たちは、この基本法、憲法の精神を本当に現実に生かす、それは条文を守るということではないのであって、その精神をどういうふうに具体的に自分たちのものにしていくのか、そしてさらにそれを発展させることができるのか、教育現場の中で、そして一人一人の未来を担う子供たちにこの精神をどういうふうに生かしていけばいいか、そういう方向で教育を考えてきた一人であります。

 

 しかし、御存じのように、教育基本法も憲法も、自民党は結党以来、これを改正するというのが党是であるということを言い続けてきたわけですね。そして、ようやくこの二十一世紀、新しい時代に入ったんだからということで、今度はそれを強調しながら教育基本法の改正を急いでいるわけでありますけれども、私に言わせれば、この改正の根拠というものが全然わからない。これは国会の議論を通してもそうです。そして、例えばきょうの参考人の議論は、そのままなぜ教育基本法の改正につながるのか。私は、教育というものはいろいろな人がいろいろな議論をするのが大事なのであって、それを法律で縛り、一つの方向づけを国がやるということは、これは非常な越権である。実は、そのことを戦後改革のときには実に丁寧に議論されているわけです。

 

 もう時間がすぐ来ちゃうんですけれども、皆さんにも配られているこの第九十二帝国議会の議論の中で、何でも法律にしたらいいということではないだろうということを本当に繰り返し強調されていますよね。佐々木惣一さん、そして沢田牛麿さん。沢田牛麿の意見など、「此の法案は法案ぢやなくて、説法ではないか」、つまり教育基本法のことですよ。そもそも法律に書いていいことと悪いことがあるんだということを非常に強調している。教育の目的なんということを法律で決めることは私は無理だと思う。金森国務大臣は、「法律で決めて然るべき範囲と、さうでないものの範囲とは自ら分野があるもの」と存じますというふうに言われている。

 

 しかし、なぜ教育基本法をつくったのか。それは、戦前の教育、そのとき支配的であった教育のあり方というものが、余りに戦前の教育勅語を軸にしたいわゆる教育、あるいは国家主義と軍国主義に支配された教育であった、それをどう克服するか、そういう現実の課題の中で教育目的についても規定せざるを得なかったんだという対応をしています。

 

 そのことは、さらに、当時の文部大臣であった田中耕太郎さんが、その後は最高裁長官になるわけですけれども、一九五二年の一月に出されましたジュリストの創刊号、その中に、教育基本法第一条について、つまり、教育の目的を規定することがいいことか悪いことかという議論をなさっています。この文献などは私は非常に大事だというふうに思います。何も規定しなければアナーキーが来るだろう、しかし、反対にもし法が教育の隅々まで規定するようになれば、教育はそのはつらつたる生命を失い、死物化してしまう、死んでしまう、そういうことを免れない、つまり、教育の固有の領域というものは法になじまない領域というものがあるんだ。

 

 それで、皆さんが議論するのは当然なんです。みんなが議論して、国民の教育についての合意の水準を高める、これが教育のあり方。そして、その教育を担うのは現場の教師であり、そしてもちろん父母であり、地域の住民であり、教育行政もそれにかかわるということになるわけですけれども、それぞれがどういう仕事をするのかということを丁寧に腑分けしながら、教育の自律性、自由というものを軸にした教育のシステムをつくらなきゃいけない。

 

 自由民主党というならば、実は、その教育の自由の領域をこそ守るというこれが、自由民主党のあるべき主張であるはずだというふうに思います。しかし、その点に関しては、今度の教育基本法の改正は、まさに国が教育を、口出しをする、口出しじゃなくて統制する、そういう方向で書かれている。その最たるものが、基本法の今度の二条を新設したことです。教育の目標。

 

 さらに、十条を大きく変えて、教育は不当な支配に服することなく国民全体に対して直接に責任を負うというこの規定を大きく変え、そして、教育は法律に従え、おきてを行うものだという書き方をしている。現行法の十条の構造、これは非常に大事なのであって、十条は教育行政の条項ですけれども、その第一項は、まず「教育は、」という主語で始まっています。第二項に、教育行政はその教育の目的を実現するために必要な条件を整備するんだという書き方になっているわけです。その構造、つまり、教育と教育行政の区別、そういう観点が全くなくなっちゃったのが今度の法改正案だというふうに思います。ここのところは、政府案も民主党の案も非常に問題を持っているというふうに私は思っています。

 

 丁寧に、十条の立法の精神そして十条の構造、不当な支配とは何なのか。この不当な支配に関しても、国会でも随分議論になりました。それで、小坂文部大臣は学テ最高裁判決を引きました。しかし、これは重大な解釈上の間違いがあるというふうに私は思っています。文科省、文部省は、これまでも繰り返し、国が教育内容に関与する、これはこの学テ最高裁判決によって確定しているという言い方をされました。しかし、この読み方が実にいいかげんで、都合のいいところを読んでいる。私は、もう時間がないので丁寧に紹介するわけにはなりませんけれども、そういう問題を含んでいるわけですね。

 

 そして、法というものがどこまで関与していいかというのは、それこそ基本法が成立するときに、教育目的まで本当に書くのという議論を含み、そして、御紹介した田中耕太郎さんの論文では、あれは日本の、変態的という言葉を使っています、つまり、非常に変則的なんだ。言うなれば、近代国家は、そういう人間の内面的な領域には国が関与しないというのが近代原則なんです。

 

○森山委員長 堀尾参考人に申し上げます。

 

 時間でございますので、おまとめください。

 

○堀尾参考人 はい、わかりました。

 

 というわけで、また後で時間があれば補足をしたいと思いますけれども、法と教育の関係というものが非常に大事だということ、何でも法で決めればいいというんじゃなくて、何でも法で決めれば現場がどうなるかということを本当に考えていただきたいというふうに思います。(拍手)